第42話 お忍び用の服を着た殿下が普通の青年にしか見えなくて、少し困りました
市場見学当日の朝、アマリリアが王宮へ到着した時には、東の空に残っていた薄い朝靄もほとんど消え、王都の屋根を柔らかな春の日差しが照らし始めていた。
普段よりかなり早い時間である。王宮正門付近には執務へ向かう文官や交代を終えた近衛騎士の姿が見えるものの、昼間ほど人通りは多くない。馬車を降りたアマリリアは一度空を見上げ、今日一日の天候に問題がなさそうだと確認してから、後ろへ続いて降りてきたゼインへ視線を向けた。
「ゼイン」
「はい」
「十九個目については、まだ殿下へ申し上げておりません」
「質問項目のお話でしょうか」
「正確には観察項目です」
「なるほど」
何でもないことのように返され、アマリリアは少しだけ目を細めた。市場見学で確認する質問は十八項目まで、とライルと二人で決めたのは一昨日のことである。にもかかわらず、その日の夜にはもう一つ増えてしまったのだから、ゼインの反応も分からなくはない。
「何です、その反応」
「いえ。十八項目までと決めた翌日に一つ増えたと伺いましたので、お嬢様らしいと思っただけです」
「質問ではございませんので、約束違反ではありません」
「殿下も納得されるとよろしいですね」
「納得していただきます。きちんと理由がございますので」
市場へ到着する前から十九個目を巡って言い合うつもりはない。アマリリアは小さく息を吐き、案内役の侍従に従って王宮内へ足を踏み入れた。
今日の目的は、王都南部にある中央市場、荷車広場と倉庫区画、そして職人街入口の小規模市場を実際に見て回ることである。王宮側からは近距離に二名、少し離れた位置に四名の護衛がつき、ゼインも同行する。ライル側からはディーンも加わる予定で、さらに昨夜の話し合いの結果、父ハロルドまで同行することになった。
参加者だけを並べて考えると、とても少人数のお忍び見学とは思えない。
「……本当にお忍びになるのでしょうか」
「何か?」
半歩後ろを歩くゼインが尋ねると、アマリリアは前を行く侍従へ聞こえない程度に声を落とした。
「同行者が増えすぎております」
「全員がまとまって歩くわけではございません。護衛の大半は距離を取りますし、旦那様も同様かと」
「それは分かっておりますけれど」
王妃セレーネからは、ハロルドも少し距離を取って同行するよう言われている。本人は最後まで「私は監視ではなく護衛だ」と主張していたが、娘と第一王子が市場見学後にデートをする可能性を知った直後の勢いを思い返せば、どこまで信じてよいかは怪しい。
もっとも、市場見学後に本当にデートをするとは、まだ決まっていない。ライルが随分期待しているらしいことは分かっているが、それと予定が確定しているかどうかは別問題である。
「お嬢様」
「何です?」
「今、殿下のことを考えておられました?」
あまりにも自然に尋ねられ、アマリリアは思わず足を緩めた。
「なぜ分かりますの?」
「表情が少し柔らかくなりましたので」
「ゼインまで!」
朝の静かな回廊へ少し大きな声が響き、前を歩いていた侍従の肩が僅かに揺れた。
アマリリアはすぐに咳払いを一つして姿勢を整える。
「皆様、本当に私の顔を読むのがお好きですわね」
「以前より分かりやすくなられましたので」
「それはもう聞き飽きました」
「失礼いたしました」
「全然そう思っておりませんでしょう?」
「少しは」
「またその返しですの?」
最近、ライルだけでなく、セレーネも、ルシアも、レティシアも、そして今ではゼインまで似たような返答をするようになった。原因の一部が自分の「正直に話す方針」にあるのだと認めるのは、少し悔しい。
ただ、それさえ以前ほど嫌ではなかった。
◇◇◇
案内されたのは、普段の王妃教育で使う部屋ではなく、王族が私的な外出をする際の支度にも利用される小さな控え室だった。
扉を開けると、既にセレーネが窓辺の椅子へ座って紅茶を飲んでいる。
「おはよう、アマリリアさん」
「おはようございます、王妃様」
「早かったわね」
「遅れるわけにはまいりませんので」
「楽しみにしていた?」
「市場見学をです?」
「それ以外に何があるの?」
「……」
セレーネの表情が妙に楽しそうである。
市場だけのことを言っている顔ではない。少なくともアマリリアには、そう見えた。
「王妃様」
「何?」
「殿下は?」
「隣で着替えているわ」
「そうですか」
なるべく何気なく答えたつもりだった。
しかし、セレーネの口元が僅かに持ち上がる。
「何です?」
「別に」
「今、何か考えました?」
「何も」
「信用できません」
「あなたも着替えていらっしゃい。ライルを待たせることになるわよ?」
話を切られた。
誤魔化された気がする。
それでも今日の準備を進めないわけにはいかず、アマリリアは侍女たちに案内されて奥の仕切りへ入った。
用意されていたのは、普段アマリリアが学園や王宮で身につけるものより、かなり簡素な外出着だった。色は落ち着いた青灰色で、布そのものは上質だが、伯爵家の紋章も銀糸の豪華な刺繍もない。装飾品もほとんど使われず、裾は市場を長時間歩くことを考えて少し短めに整えられている。靴も見た目の華やかさより歩きやすさを優先したものだった。
「思っていたより普通ですわね」
袖を通しながら呟くと、着付けを手伝っていた王宮侍女が鏡越しに微笑んだ。
「裕福な商家のお嬢様か、地方の下級貴族令嬢に見える程度を想定しております」
「私だと分かる方はいらっしゃるでしょうか」
「学園関係者や、社交界で何度も直接お会いしている方なら可能性はございます。ただ、髪型も普段とは少し変えますので、遠目では分かりにくいかと」
「髪も?」
「はい。今日は装飾を減らして、少し低い位置でまとめさせていただきます」
普段は令嬢らしく整えられている髪を、今日は飾りを減らして簡素にまとめていく。青星石の首飾りも当然つけない。正式婚約後は身につける機会が増えていたため、首元に何もない感覚は思っていたより落ち着かなかった。
侍女の手が離れたあと、アマリリアは鏡の中の自分をしばらく見つめた。
間違いなく自分である。
けれど、いつものアマリリア・ベスターとは少し違う。
「どうでしょう?」
侍女に尋ねられ、アマリリアは鏡の中の自分を改めて見た。
「思っていたより、装いだけでも印象は変わりますのね」
「普段はお立場に合わせた装いをなさいますから」
「立場……」
昨日まで何度も考えた言葉だった。
第一王子の婚約者。
ベスター伯爵家の娘。
学年主席。
そのどれもが自分である。
けれど、服装や場所が変わるだけで、周囲が最初に見るものも少し変わる。今日、市場の人々から見た自分は何に見えるのだろうか。伯爵令嬢ではなく、ただ買い物へ来た若い娘として扱われた時、自分は普段とは違う何かへ気づくのだろうか。
「お嬢様?」
侍女の声で我に返る。
「何でもございません。参りましょう」
アマリリアは鏡の中の自分へ小さく笑いかけ、控え室へ戻った。
◇◇◇
控え室へ戻った瞬間、アマリリアの足が止まった。
先ほどまでセレーネだけだった場所に、一人の青年が立っている。
濃い茶色の上着に、飾りのない白いシャツ。動きやすそうな黒いズボンを身につけ、普段ライルがまとう王家の色も、金糸も、勲章もない。髪もいつもより少し下ろされ、きっちり整えすぎない形に変えられていた。
一瞬。
本当に。
誰だろうと思った。
顔を見れば、当然ライルである。
けれど、いつもの第一王子には見えなかった。
王宮の大広間で多くの視線を集める王子でもなく、学園で自然と周囲から一歩距離を置かれる第一王位継承者でもない。ただ少し上等な服を着ている、十八歳の普通の青年。
そう見えてしまった。
「アマリリア?」
ライルがこちらを見る。
返事をしなければならないのに、アマリリアは一瞬遅れた。
「何?」
それでもまだ返せずにいると、ライルが少し首を傾げる。
「アマリリア?」
二度目に呼ばれて、ようやく我に返った。
「何でもございません」
「絶対何かあるだろ。さっきからずっと見てる」
「見ておりません」
「見てた」
「少し確認していただけです」
「何を?」
「……変装を」
「母上」
ライルが助けを求めるようにセレーネを見る。
「私は何も言わないわ」
そう言いながら、王妃は明らかに笑いを堪えていた。
最悪である。
絶対に気づかれている。
「アマリリアさん」
「何です?」
「ライル、似合ってる?」
「王妃様!」
「聞いただけでしょう?」
「なぜ私へ?」
「婚約者だから」
「便利に使わないでくださいませ」
そう返しながらライルを見ると、本人まで少し期待するような表情でこちらを見ていた。
それがさらに困る。
「アマリリア」
「何です?」
「どう?」
「……」
「変?」
「変ではございません」
「じゃあ?」
逃げられない。
アマリリアは一度小さく息を吸った。
「よく、お似合いです」
「本当?」
「ええ」
「すごく?」
「殿下」
「前にも聞いた」
「今日は普通でよろしいでしょう!」
「何で?」
「今日は普通の格好だからです!」
言ってから、自分が何を口にしたのか気づいた。
ライルも止まる。
セレーネの表情が、さらに楽しそうなものへ変わった。
「アマリリアさん」
「王妃様」
「今の、どういう意味?」
「そのままです」
「ライルが普通に見える?」
「……少し」
「第一王子じゃなくて?」
そこまで聞かれると、誤魔化す方が難しい。
「ただの十八歳の男の子みたいに見える?」
「王妃様!」
頬へ熱が集まった。
ライルまで少し驚いた顔でこちらを見ている。
「俺、普通に見える?」
「少しだけです」
「それ、嫌?」
「なぜそうなりますの?」
「いや……君にそう見られたこと、今までなかった気がして」
ライルが少し照れたように視線を逸らした。
その言葉が、思っていたより深く胸へ入った。
確かに。
最初は第一王子だった。
利用できる立場を持った相手。
次は偽装婚約者。
そのあと、本当に好きになって、正式な婚約者になった。
関係が変わるたびにライルを見る目も変わってきた。それでも、いつもどこかに「殿下」という立場はついていた。
今。
目の前にいる人は。
王子に見えない。
ただのライルに見える。
それが嫌かと聞かれれば。
「殿下」
「何?」
「嫌ではございません」
「……そっか」
「むしろ」
一度だけ迷った。
けれど、言わずに飲み込む方が不自然な気がした。
「少し、好きです」
ライルが完全に止まった。
アマリリア自身も、自分の言葉の危険性へ一拍遅れて気づく。
「その格好が!」
「分かってる!」
「今、絶対違う意味に取りましたでしょう!」
「取ってない!」
「耳が赤いです!」
「君も赤い!」
「服のお話です!」
セレーネがとうとう声を立てて笑った。
近くにいた侍女たちまで、顔を伏せながら肩を震わせている。
「王妃様!」
「ごめんなさい。でも、市場へ着く前から楽しそうで安心したわ」
「何に安心するのです?」
「お忍びに」
「市場見学です!」
「分かってるわよ」
「絶対分かっておりません!」
市場を見に行く前から、予定とはまったく違う種類の疲労が溜まり始めている気がした。
◇◇◇
そんな騒ぎの最中、控え室の扉が開いた。
「失礼する」
聞き慣れた声に振り向く。
ハロルドだった。
父も今日は伯爵として目立ちすぎない服装へ変えている。普段より装飾の少ない濃灰色の外套に、家紋もつけていない。もっとも、本人の体格と堂々とした歩き方のせいで、裕福な商人というより「身分を隠している貴族」に見えなくもなかった。
「お父様」
「ああ、リリア。準備は――」
ハロルドの言葉が途中で止まった。
まず娘を見る。
次にライルを見る。
そして、もう一度娘へ視線を戻した。
「お父様?」
「……なるほど」
「何がです?」
「私は今日、同行することにして正解だった」
あまりにも真剣な顔で言われ、アマリリアは眉を寄せた。
「市場へ到着する前から、何を仰っておりますの?」
「いや」
ハロルドは妙に警戒した目をライルへ向ける。
「殿下」
「はい?」
「今日は市場見学です」
「知っています」
「市場見学ですからね?」
「はい」
「終わったあとも――」
「お父様」
「何だ」
「まだ何も決まっておりません」
「だから確認している!」
「何をです!?」
セレーネは止めるどころか、完全に楽しんでいる。
ライルは少し困ったような顔をしたものの、やがてハロルドへ向き直った。
「伯爵。市場見学はちゃんとします」
「当然です」
「そのあと、もし時間があったら――」
「殿下」
アマリリアがすぐに割って入る。
「何?」
「今、何を仰るつもりでした?」
「少し寄り道くらいなら」
「殿下」
「市場を見終わってから」
「殿下!」
ハロルドの目が完全に細くなった。
「殿下」
「はい」
「私も最後まで同行いたします」
「伯爵、少し離れていただくのは」
「護衛です」
「護衛は他にいます」
「父親です」
今度はライルが言葉に詰まった。
アマリリアは額へ手を当てる。
「お父様、昨日より開き直っておりません?」
「何がだ」
「父親だからと堂々と仰るようになりました」
「娘を守るのは父親の仕事だ」
「市場見学から何を守るのです?」
「色々だ!」
「曖昧です!」
再び控え室が騒がしくなる。
そんな中、いつの間に入室していたのか、ディーンが扉の近くから静かな声を上げた。
「殿下」
「ディーン」
「出発時刻が近づいております」
「助かった」
「何がです?」
アマリリアがすぐに反応する。
「いや、何でも」
「今、逃げました?」
「違う」
「完全に逃げましたでしょう?」
「アマリリア様」
今度はディーンが彼女を呼ぶ。
「何でしょう」
「本日の質問項目が十八あると伺っております。市場へ到着する前に時間を使いすぎますと、確認できる数が減るかと」
「……」
正しい。
非常に正しい。
「参りましょう」
アマリリアは即座に表情を切り替えた。
「アマリリア」
「何です?」
「切り替え早くない?」
「時間は有限です」
「母上みたいになってる」
「便利ですので」
「またそれ!」
セレーネが楽しそうに笑った。
◇◇◇
王宮から市場近くまでは、目立たない中型の馬車を二台に分けて使うことになった。
アマリリアとライル、ディーン、ゼインが一台。ハロルドは護衛役の一部と別の馬車へ乗る。セレーネは当然同行しない。
「私は王妃よ。お忍び市場見学へ混ざったら余計に目立つでしょう?」
本人はそう言ったものの、どこか残念そうだった。
「王妃様」
「何?」
「本当は来たかった?」
「少し」
「やはり」
「面白そうだもの」
「授業です」
「分かってるわよ」
「絶対違います」
最後までそんなやり取りをしてから馬車へ乗り込む。
王宮を出ると、窓の外の景色が少しずつ変わっていった。大きな屋敷が並ぶ貴族街を抜けるにつれ、通り沿いの商店が増え、人の往来も多くなっていく。荷車の車輪が石畳を叩く音、開店準備をする商人たちの声、遠くから届く呼び込み。王宮周辺とは違う街の音が少しずつ近づいてきた。
アマリリアは窓の外へ目を向けた。
今までにも、何度も通った場所である。
けれど今日は見る目的が違う。
ただ市場へ向かう途中の街並みとしてではなく、物と人がどのように動いているのかを考えながら見ると、いつもの通りまで少し違って見えた。
「アマリリア」
「何です?」
「質問一覧、持ってる?」
「もちろんです」
「十八?」
「……十八です」
僅かな間を、ライルは聞き逃さなかった。
「今、間があった」
「気のせいです」
「見せて」
「市場へ着いてから」
「増えた?」
「増えておりません」
「本当?」
「観察項目が一つ増えただけです」
「増えてるじゃん!」
ライルの声が馬車へ響く。
ディーンは静かに窓の外へ視線を向け、ゼインも何も聞いていないような顔をしていた。
「質問ではございません」
「十九個目だろ?」
「質問数は十八のままです」
「その理屈は絶対おかしい」
「通っております」
「通ってない」
「通っております」
「ディーン、どう思う?」
突然巻き込まれたディーンは、ほとんど間を置かずに答えた。
「殿下。私を巻き込まないでくださいませ」
「逃げた!」
「賢明な判断です」
アマリリアが頷く。
「ゼインは?」
「私はお嬢様側ですので」
「最初から公平じゃない!」
「当然かと」
味方を失ったライルが、分かりやすく肩を落とした。
「誰も味方してくれない」
「殿下」
「何?」
「私がおります」
何気なく口から出た。
ライルが止まる。
アマリリアも、自分が何を言ったのかに気づいて止まった。
向かいに座るディーンはさらに窓の外へ顔を向け、隣のゼインまで同じ方向を見る。
絶対に聞こえている。
「アマリリア」
「何です?」
「今の」
「市場のお話をしましょう」
「逃げた」
「違います」
「じゃあ、もう一回言って」
「嫌です」
「俺には君がいる?」
「殿下!」
ライルが楽しそうに笑った。
「普通に嬉しかった」
「今は忘れてくださいませ」
「嫌」
「またそれですの!?」
アマリリアは少し頬を膨らませて窓の外へ顔を向けた。
けれど、口元に浮かんだ小さな笑みまでは消せなかった。
◇◇◇
馬車は中央市場から二本ほど離れた通りで止まった。
ここから先は徒歩である。
護衛は予定通り、二名が近距離、四名が少し離れて一般客へ紛れる。ハロルドも別の馬車から降りたが、最初から娘たちへ近づきすぎている気がした。
「お父様」
「何だ」
「近いです」
「まだ何もしていないぞ」
「護衛なら、もう少し離れてくださいませ」
「父親でもある」
「昨日から便利に使い始めましたわね、その言葉」
「お前が『婚約者ですので』を便利に使うのと同じだ」
「違います!」
隣でライルが笑う。
「伯爵、その気持ちはちょっと分かる」
「殿下!」
「何?」
「そこで仲良くならないでくださいませ」
「難しいな」
今度はハロルドまで乗ってきた。
「お父様まで!」
アマリリアが抗議する間にも、市場の音はすぐ近くまで届いていた。
店主の呼び込み。
客同士の会話。
石畳を軋ませる荷車の車輪。
木箱を下ろす鈍い音。
どこかで焼いているパンの香りに、香草や肉、果実、魚の匂いまで混ざっている。
市場入口へ近づくほど、人の数も一気に増えていった。
アマリリアは自然に会話を止める。
「アマリリア?」
ライルが隣から呼んだ。
「何です?」
「どうした?」
「いえ……思っていたより、音が多いと思いまして」
最初に出た感想は、自分でも予想していないものだった。
ライルも市場へ視線を向ける。
「確かに。荷車だけじゃないな」
「ええ。店主も客も、荷運びをする方も、皆が違う声を出しております」
値段を告げる大声。
常連客らしい婦人と店主の笑い声。
荷を避けるよう子供へ注意する母親の声。
別の店では仕入れ値を巡って軽い言い合いまで起きている。
帳簿には残らない音ばかりだった。
「匂いも、かなり混ざっております」
「嫌?」
「いいえ」
アマリリアは少しだけ深く息を吸った。
「面白いです」
ライルが横で笑う。
「楽しそう」
「そう見えます?」
「かなり」
「でしたら、始めましょう」
アマリリアは鞄から小さな手帳を取り出した。
「いきなり?」
「時間は有限です」
「本当に母上みたいになってきたな」
「殿下」
「はい」
ライルも笑いを収め、少しだけ姿勢を正した。
ただし、アマリリアはすぐには何も書かなかった。
まず見る。
中央市場の入口左側には野菜を並べた店が続き、右には焼きたてのパンを売る店がある。その奥からは魚商人の大きな声が響き、客の隙間を縫うように荷物を運ぶ男たちが行き来していた。
視線を少し先へ向けた時、一台の荷車が狭い通路の手前で止まっていることに気づいた。
その後ろには、さらに二台。
人の流れも、そこだけ少し歪んでいる。
「何か見つけた?」
ライルが尋ねた。
「まだです」
「でも、ずっと見てる」
「はい」
「何を?」
アマリリアはすぐに答えず、もう少し様子を確認した。
「今までの私なら、最初に値札を見たと思います」
「価格?」
「ええ。何がいくらで売られているのか。資料にある平均価格との差はどれくらいか。それを先に確認したでしょうね」
「今日は違う?」
「人が、どこで止まっているのかが気になります」
ライルもアマリリアの視線を追う。
「あの入口?」
「はい。荷車が少し詰まっております」
「何で?」
「まだ分かりません」
答えながら、アマリリアは僅かに笑った。
「ですから、すぐには聞かずに少し観察します」
先に決めない。
まず見る。
必要なら話す。
それから考える。
レティシアと初めてきちんと話した時も、ミハイルからの手紙を読んだ時も、少しずつ覚えてきたやり方だった。
市場でも、きっと同じでいい。
「殿下」
「何?」
「十九個目ですが」
「増やしたやつ?」
「観察項目です」
「はいはい」
「今、もう少しだけ意味が分かった気がします」
「何て書いたの?」
アマリリアは手帳を開き、最後の一行をライルへ見せた。
『同じ市場を見た時、立場が違えば何が違って見えるのか』
ライルは少し黙ってその文を読んだ。
「これ、いいな」
「怒りません?」
「質問じゃないんだろ?」
「ええ」
「じゃあ十八のままでいいよ」
思っていたよりあっさり認められ、アマリリアは少し目を瞬いた。
「認めてくださるのです?」
「理由があるなら。最初に増えたって聞いた時は、また質問増やしたのかと思っただけだし」
そこでアマリリアは、また胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
最初は文句を言う。
けれど理由を聞く。
納得すれば、きちんと認める。
そういうところを。
また。
「殿下」
「何?」
「好きなところが、一つ増えました」
口から出たあとで、アマリリア自身が固まった。
ライルも完全に止まっている。
「……」
「……」
「違います」
「何が?」
「違いませんけれど」
「どっち?」
以前も似たようなやり取りをした気がする。
アマリリアは周囲へ視線を向けた。
市場には大勢の人がいる。
けれど、そのほとんどは目の前の青年が第一王子で、その隣の娘が正式な婚約者だとは知らない。
ただの若い男女。
そう見られている。
そのことが妙に恥ずかしくて。
同時に。
少しだけ嬉しい。
「アマリリア?」
「何です?」
「顔、赤い」
「殿下もです」
「俺は今、かなり嬉しくて」
「聞きません」
「何で?」
「市場見学を始めます!」
アマリリアは逃げるように少し早足で市場の中へ進んだ。
ライルが笑いながら隣へついてくる。
「逃げた」
「違います」
「絶対逃げた」
「殿下」
「何?」
人の流れが思ったより激しく、アマリリアは少しだけ足を緩めた。
「歩調を、少しだけゆっくりお願いします」
「ああ。これくらい?」
ライルは理由も聞かず、すぐに歩く速さを合わせた。
「はい。ありがとうございます」
「分かった」
それだけだった。
何でもないことのように答え、自分の歩幅をアマリリアへ合わせる。
その横顔を見た瞬間、六年前に足の不自由な令嬢へ歩調を合わせた十二歳のライルの話が頭をよぎった。
また一つ。
増えた。
けれど、今度は口へ出さない。
さすがに立て続けに言う勇気はなかった。
少し離れた後方では、そんな二人の様子を見ていたハロルドが深いため息をついていた。
「……同行して正解だった」
その隣を歩くゼインが、平静な顔のまま答える。
「まだ市場へ入ったばかりですが」
「だからだ」
「何がでしょう」
「分からんのか?」
「何となくは」
「なら言え」
「旦那様」
「何だ」
「本日は市場見学です」
「分かっている!」
ハロルドの声が少し大きくなり、前を歩いていたアマリリアがすぐに振り返った。
「お父様!」
「何だ!」
「声が大きいです!」
近くを歩いていた客が何人かこちらを見る。
ハロルドはようやく自分たちがお忍びであることを思い出したらしく、気まずそうに口を閉じた。
「……お忍びですのに」
アマリリアが額へ手を当てる。
その隣でライルが笑った。
「伯爵が一番目立ってない?」
「殿下」
「何?」
「笑い事ではございません」
「でも、まだ入口なのにこれだろ?」
「だからこそです。市場へ着いたばかりなのですから」
アマリリアは一度息を整え、今度こそ真面目な表情で市場を見た。
「今日は、ちゃんと見ます」
ライルも笑いを少し収める。
「分かってる」
「殿下もですよ」
「もちろん」
「デートは――」
口へ出してから。
一瞬だけ迷った。
けれど。
「あとです」
ライルが本当に固まった。
アマリリアも、自分が何を確定させるような言い方をしたのか一拍遅れて理解する。
「……」
「……」
「アマリリア」
「市場見学を始めます!」
「今、あとって」
「始めます!」
「市場見学のあとってことは」
「殿下!」
ライルの楽しそうな笑い声が、春の市場の賑わいへ混ざっていく。
アマリリアは頬の熱が引かないまま、最初に気になった荷車の方へ歩き出した。
その日、第一王子とその正式な婚約者ではなく、少なくとも表向きはどこにでもいる若い男女として、二人は初めて王都の市場を歩き始めた。
そして最初に二人が気づいたのは、ミハイル・フォードが手紙で触れていた税制や商業政策といった大きな問題ではなかった。
市場入口近くで何度も足止めされる荷車。
少しずつ長くなっていく列。
朝のうちに運び込みたい野菜を積んだ御者が、検査を担当する者の姿を遠くに探しながら、隣の男へ諦めたように呟く。
「また検査待ちかよ。昨日もこれで一刻近く潰れたんだぞ」
その声に、別の御者も苦い顔で荷台を振り返った。
「今日は暖かくなるってのに。このまま止められたら、葉物から傷む」
ほんの短い会話だった。
大事件でもない。
帳簿へ記すなら、「市場搬入時の検査待ちによる遅延」と一行で終わる程度の出来事でしかない。
けれど、その一行の横には、汗を拭う御者がいて、朝早くから運ばれてきた野菜があり、待つ間にも少しずつ商品価値が落ちていく現実がある。
アマリリアはすぐには手帳へ書かなかった。
まず、自分の目でその列を見る。
何台止まっているのか。
どれくらいの間隔で進むのか。
誰が検査しているのか。
御者たちは何に一番困っているのか。
そして隣にいるライルが、同じ光景のどこを見ているのか。
十九個目の観察項目は。
市場へ入ってほんの数分で。
既に始まっていた。




