第40話 父が警戒する商人から期待されても、まず本人を知らなければ判断できません
ベスター伯爵家の書斎へ足を踏み入れた瞬間、アマリリアは父ハロルドがいつもとは少し違うことに気づいた。
夜もかなり深くなり、屋敷の大半は既に静まり返っている。廊下を照らす魔導灯の光も昼間より落とされ、窓の外に広がる庭園からは、時折夜風に揺れた枝葉の擦れる音が聞こえていた。
書斎の中も静かだった。
大きな執務机の上には領地から届いた書類が何冊か積まれ、ハロルドはその前へ腰を下ろしている。普段なら娘がこの時間に入ってくれば、「まだ起きていたのか」「夜更かしは肌に悪いぞ」などと余計な一言を挟みそうなものだが、今日はそれすらなかった。
「お父様」
「ああ」
「伺いました」
「座れ」
短い返事に、やはり少し変だと感じながら、アマリリアは執務机を挟んだ向かいの椅子へ腰を下ろした。父の顔を正面から見ると、怒っているというより、何かを警戒しながら考えている時の表情に近い。
「それで」
ハロルドは机の上で両手を組んだ。
「王宮から連絡があった。ミハイル・フォードから、お前宛てに直接書状が届いたそうだな」
「はい」
「内容は?」
「王宮から、どこまで聞いております?」
「送り主と、婚約祝いに加えてお前個人への意見が書かれている、という程度だ。書状そのものの内容までは聞いていない」
「そうですか」
アマリリアは少しだけ考えた。
王宮から持ち帰ったのは写しであり、秘密文書ではない。返書を書く前に、送り主と直接面識のある父の意見を聞くことには十分な意味があるだろう。
「お見せしても?」
「持っているのか?」
「写しをいただきました」
「なら見せてくれ」
アマリリアは書斎へ来る途中、侍女へ頼んで自室から写しを持ってきてもらっていた。扉の外で待機していた侍女を呼び、受け取った封筒をハロルドへ差し出す。
父は何も言わずに便箋を開いた。
婚約への祝意。学園での成績。ベスター伯爵家の領地経営や流通について、アマリリアが若くして知識を持っていると耳にしたこと。最初の数行では、ハロルドの表情に大きな変化はない。
だが。
『商人側、運送業者、職人、露店商などの声にも耳を傾けていただきたく存じます』
そこまで読み進めた辺りで、父の目が僅かに細くなった。
さらに最後。
『第一王子殿下の婚約者としてではなく、あなた様ご自身の目で、市場を見ていただければ幸いに存じます』
その一文まで読み終えたあとも、ハロルドはすぐには顔を上げなかった。
静かな書斎へ、壁際の時計が時を刻む小さな音だけが続く。
「お父様」
「……なるほどな」
「何がです?」
「ミハイルらしい」
アマリリアの眉が僅かに動いた。
「やはり、ご存じなのですね」
「ああ」
「どの程度?」
「何度か直接会っている」
「まあ」
それは予想していたよりも深い関係だった。
「取引を?」
「したこともある。喧嘩したこともある」
「喧嘩」
「お前が今想像したような殴り合いではないぞ」
「お父様でしたら、あり得ますので」
「私はそんなに短気ではない!」
「本当に?」
「お前にだけは言われたくない!」
ようやく父の声に、いつもの勢いが少しだけ戻った。
そのことへ、アマリリアは内心で少し安心する。先ほどまでの妙に重たい空気より、こちらの方がハロルドらしい。
「それで、どのような方なのです?」
改めて尋ねると、ハロルドは手紙を机の上へ置き、椅子へ深く背を預けた。
「一言で言えば、面倒な男だ」
「王妃様も似たようなことを仰りそうです」
「何が?」
「人付き合いは面倒だと」
「……お前、王妃陛下に何を教わっているんだ?」
「色々です」
「絶対に王妃教育だけではないだろ」
「最近は恋愛相談も少し」
「何!?」
「今はミハイル様のお話です」
「待て、リリア」
「お父様」
「恋愛相談とは何だ」
「ミハイル様」
「……」
ハロルドはかなり言いたそうな顔をした。
けれど、今回は珍しく耐えた。
「……あとで聞く」
「聞かなくて結構です」
「父親だぞ!」
「だからです」
「どういう意味だ!」
「ミハイル様」
「……分かった!」
ハロルドは少し乱暴に息を吐いたあと、数秒かけて表情を戻した。
「ミハイル・フォードが今の規模まで商会を大きくしたのは、単純に商売が上手かったからだけじゃない」
「と申しますと?」
「数字を見る」
「商人なら普通では?」
「見る範囲が広いんだ」
ハロルドは机の端へ積まれていた領地の地図を一枚引き寄せた。古い街道や河川、周辺領地との境界まで書かれた実務用の地図である。
「例えば、ある地域で小麦の値段が上がったとする」
「はい」
「普通の商人なら、供給が減った、需要が増えた、仕入れ値が上がった、その辺りをまず見る」
「当然ですわね」
「ミハイルは、その前を見る」
「前?」
「なぜ供給が減ったのか。畑の収穫量が落ちたのか。道が壊れたのか。荷車が不足したのか。馬の飼料が高騰したのか。倉庫で荷が止まっているのか。途中の領主が通行税を引き上げたのか。原因を一つ手前どころか、さらにその前まで辿ろうとする」
アマリリアの目が少し変わった。
「流通全体を見る?」
「そうだ。そして、どこか一つへ無理が掛かった時、その先で値段がどう動くかを読む」
純粋に興味が湧いた。
数字と事実を辿る考え方は、アマリリア自身が好むものに近い。ただ結果だけを見るのではなく、なぜその数字になったのかを追う。
「それで、お父様とは?」
「六年前だ」
「六年前」
「ベスター領で、大雨による街道崩落があったのは覚えているか?」
アマリリアはすぐに記憶を探った。
「南西部の旧街道?」
「そうだ」
「橋も一部流され、王都方面へ出す荷が一時、東側へ迂回した」
「そこまで覚えているのか」
「資料で見ました」
「お前は本当に……」
ハロルドは一瞬何とも言えない顔をしたものの、今はそこへ触れずに話を続けた。
「あの時、一番困ったのは、うちから荷が出せないことだけじゃなかった」
「王都側?」
「そうだ。王都へ入る麦の量が減った。まだ不足と呼ぶほどではなかったが、一部の商人が値上がりを見越して先回りで買い占めを始めた」
「価格が上がってから売るために?」
「ああ」
「それでミハイル様は?」
「私のところへ来た」
「直接?」
「突然な」
ハロルドは当時を思い出したのか、露骨に眉間へ皺を寄せた。
「『伯爵閣下、三週間だけ出荷予定を公開してください』と言ってきた」
「出荷予定?」
「どれだけの麦が、いつ、どの経路で王都へ向かうかだ」
アマリリアはすぐに意味を理解した。
「かなり重要な情報ですわね」
「そうだ。下手に公開すれば、それを利用して価格を動かす者も出る」
「お父様は断った?」
「当然だ」
「それで喧嘩?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「向こうが私を怒らせた」
「何と?」
ハロルドの顔が露骨に不機嫌になる。
「『伯爵閣下が情報を出さなければ、困るのは商人ではなく、最後にパンを買う町の人間です』と」
「……」
「腹が立つだろ?」
「事実だったのでは?」
「娘まで!」
ハロルドが机を軽く叩いた。
「言い方というものがある!」
「それで、お父様は何と?」
「『商人が領主へ説教するな』と」
「お父様」
「何だ」
「子供です?」
「当時はもっと若かった!」
「今でも十分お若いと思いますけれど」
「そういう問題ではない!」
アマリリアは思わず小さく笑った。
けれど、話そのものにはかなり興味がある。
「結局、どうなりました?」
「情報は出した」
「まあ」
「全部ではない。出荷総量と大まかな再開時期だけ、王都の商業組合と王家へ同時に公開した」
「ミハイル様の提案を受け入れた?」
「そのままではない。私が決めた形だ」
「はいはい」
「何だ、その返事は」
「王妃様の真似です」
「やめろ」
「便利ですので」
少しだけ言い合ったあと、アマリリアは改めて先を促した。
「それで、効果は?」
「買い占めが止まった」
「なぜ?」
「三週間程度で十分な量の麦が再び入ってくると分かれば、高値になるまで抱え込む意味が薄れるからだ。実際には街道の復旧が数日遅れたが、それでも市場価格が極端に跳ね上がることはなかった」
「では」
アマリリアは机の上に置かれた手紙へ視線を落とした。
「ミハイル様は、市場全体の安定を考えていた?」
「……そこが面倒なんだ」
「何が?」
ハロルドは腕を組んだ。
「自分も儲けている」
「当然では?」
「そうなんだ」
父は少し苦い顔をした。
「市場が安定すれば、長期取引を中心にしているミハイルの商会も損をしにくい。買い占めで大儲けする連中が入り込みにくくなれば、自分たちの取引先も守られる」
「善意だけではない」
「そうだ」
「でも、悪意でもない」
「そうだ」
「自分たちの利益と、市場全体の利益がある程度同じ方向を向いている」
「……そういうことだ」
アマリリアは少しだけ口元を緩めた。
「今日、王妃様から似たようなことを教わりました」
「何を?」
「人の気持ちや目的は、一つではない、と」
「……」
「ミハイル様も同じですわね。市場を安定させたい。自分の商会も利益を得たい。その二つが同時にあってもおかしくない」
「まあな」
ハロルドは完全には納得していない顔をしている。
「では、お父様が警戒する一番の理由は?」
「頭が切れるからだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
「お父様」
「……分かった」
少しだけ視線を逸らしたあと、ハロルドは諦めたように続けた。
「もう一つある。奴は、人を見る」
アマリリアの表情が少し変わった。
「市場ではなく?」
「人もだ」
ハロルドは手紙の最後へ指を置いた。
『数字と事実を自ら確かめる方だと伺ったため』
「この一文だ」
「はい」
「適当に書いたとは思わない。奴は、話を持っていく相手をかなり選ぶ」
「つまり」
「お前へ書けば、少なくとも読むと思ったんだろう」
「実際、読みました」
「しかも考えた」
「考えました」
「返事まで書こうとしている」
「はい」
ハロルドは深いため息をついた。
「そこだ。もう半分、奴の狙い通りなんだよ」
アマリリアは数秒黙った。
父が警戒する意味は分かる。自分が興味を持つだろうと見越して、実際に興味を持たせた。相手の狙い通りといえば、その通りなのだろう。
けれど。
「お父様」
「何だ」
「それは、悪いことです?」
今度はハロルドが黙った。
「相手が私に何かを考えてほしくて手紙を書いた。私は読んで、考えました。ですが、考えさせられたから負け、というわけではございませんでしょう?」
「リリア」
「はい」
「お前」
父は一瞬だけ言葉を止めた。
「本当に面倒な娘になったな」
「元からです」
「否定できん!」
「ひどいですわね」
「褒めてる」
「どこが?」
思わず二人で笑った。
先ほどまで書斎を満たしていた重い空気が、少しだけ薄れる。
しかし、ハロルドの警戒そのものが消えたわけではなかった。
「ただし、奴が危険な商人ではないとは言わない」
「危険?」
「悪人という意味ではない」
「では?」
「影響力を持ち始めている」
父は椅子へ座り直し、今度は完全に伯爵としての顔へ戻った。
「商人という立場で、王都の物流へかなり深く関わっている。貴族ではないが、複数の商会と繋がりがあり、運送業者、倉庫、農産物の卸、職人組合とも顔が利く」
「王都南部の穀物取引だけでは?」
「それは表向きの中心だ。実際にはもっと広い」
「……」
「それに最近、王都の市場に関する意見を王家へ出すことが増えている」
「陳情?」
「正式なものも、商業連盟を通したものもある」
「内容は?」
「税率そのものより、徴収方法。荷車の入市時刻。倉庫利用料。地方から入る品への検査手順。細かいものが多い」
「かなり実務的ですわね」
「だから厄介なんだ。大きな理想だけを語る相手なら無視できる。だが、奴の提案は実際に現場を見ていなければ出てこないものが多い」
アマリリアの視線が、再び手紙へ戻った。
『あなた様ご自身の目で、市場を見ていただければ』
ミハイルはやはり、市場を見ているのだ。
商人という自分の立場から。
そのうえで、王家へ入ろうとしているアマリリアにも、別の位置から同じ場所を見てほしいと思っている。
「お父様」
「何だ」
「この方と、もう一度お話しする予定はございます?」
「今のところはない」
「そうですの」
アマリリアが何気なく答えると、ハロルドの目が細くなった。
「リリア」
「何です?」
「会いたいのか?」
「まだ分かりません」
「まだ?」
「手紙を読んだだけです。本人がどのような方なのか、私は知りません」
「だから?」
「まず知る必要があると思いました」
口にした瞬間、アマリリアは昨日のことを思い出した。
レティシア。
会う前は、ただ「ライルを好きな令嬢」だった。
それだけで、心のどこかでは警戒対象にしかけていた。
けれど実際に会って、話してみたら違った。
ライルへの気持ちは本物だった。
それでも、婚約を壊そうとはしていない。
自分の感情を無理に消さず、それを他人を傷つける理由にもしたくないという人だった。
ならば。
ミハイルも同じなのかもしれない。
父が警戒する商人。
王都で影響力を増している男。
アマリリアへ期待を向けている人物。
今、自分が知っているのは、それだけだ。
「お父様」
「何だ」
「私、この方をまだ信用してはおりません」
「ああ」
「でも、疑うとも決めません」
「……」
「話を聞く価値はあると思います」
ハロルドは、しばらく娘の顔を見ていた。
やがて少しだけ目を細める。
「王妃陛下に、随分鍛えられたな」
「殿下にも」
「なぜそこで殿下が出る!」
「かなり影響を受けておりますので」
「どの辺りを!?」
「待つところです」
「待つ?」
「はい」
「他には?」
「色々」
「具体的には?」
「お父様」
「何だ」
「ミハイル様のお話は終わりました?」
「終わってない!」
「では続けましょう」
「絶対に誤魔化したな!」
アマリリアは小さく笑った。
◇◇◇
その後、ハロルドからさらに詳しい話を聞いた。
ミハイル・フォードの商会は、十年ほど前までは王都南部の一角を中心に穀物を扱う中規模商会に過ぎなかったらしい。
ところがそこから、倉庫業、荷車の共同利用、地方商人の仲介、市場へ搬入する時刻を調整する仕組みなど、「商品そのものを売ること」以外の分野へ少しずつ手を広げていった。
「荷車の共同利用?」
アマリリアが特に興味を示したのは、その仕組みだった。
「ああ。一つの商会だけでは毎回荷車を満載にできない場合、複数の商人の荷をまとめる仕組みを作った」
「空荷を減らす?」
「そうだ」
「合理的ですわね」
「その分、仲介料を取る」
「当然では?」
「お前、本当に商人側への理解が早いな」
「利益を取ること自体は悪ではございません」
「誰に教わった?」
「数字です」
「人じゃないのか!」
「数字は裏切りませんので」
「お前は……」
父が頭を抱える。
アマリリアは少し笑ったものの、すぐに机の上の地図へ視線を戻した。
「ですが、数字だけを見てはいけないのでしょう?」
その一言に、ハロルドの表情が僅かに変わった。
「今日届いた手紙には、そう書いてありました。商人、運送業者、職人、露店商。数字の向こうに、実際に動いている方々がいる」
「ああ」
「でしたら、市場を見るというのは、価格表を見ることではございませんのね」
「……多分、あの男ならそう言うだろうな」
「お父様は?」
「私もそう思う」
アマリリアは少し目を大きくした。
「まあ」
「何だ」
「意見が一致することもあるのですね」
「奴と私を何だと思っている!」
「喧嘩相手」
「六年前に一度言い合っただけだ!」
「十分です」
「十分じゃない!」
ハロルドの声がまた少し大きくなった。
直後。
廊下の向こうで誰かの足音が止まった。
親子はほぼ同時に扉を見る。
「……お父様」
「何だ」
「聞かれております」
「お前が余計なことを言うからだ!」
「声を大きくしたのはお父様です」
「お前が!」
今度こそ、扉の外から侍女の小さな咳払いが聞こえた。
ハロルドが黙る。
アマリリアは堪えきれず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「笑うな」
「笑っておりません」
「殿下みたいなことを言うな」
「まあ」
「何だ」
「お父様まで、殿下をご存じになってきましたね」
「知りたくなくても、お前が毎日のように話題に出すからな!」
「私が?」
「自覚ないのか!?」
アマリリアは少し考えた。
今日も。
昨日も。
その前も。
確かに、ライルの話をしている。
「……」
「リリア」
「ミハイル様ですが」
「また逃げたな!」
結局、先ほどまでの緊張はどこへ行ったのかと思うほど、書斎にはいつもの親子の声が戻っていた。
◇◇◇
自室へ戻ったのは、それから半刻ほど後だった。
机の上には途中のまま残されていた白紙の便箋と、その隣にミハイルからの手紙の写しが置かれている。
アマリリアは椅子へ腰を下ろすと、先ほどまでより長くその文章を見つめた。
父の話を聞く前と。
今。
少し見え方が違う。
頭の切れる商人。
市場を安定させながら、自分も利益を得る。
貴族へ遠慮なく意見を言う。
現場を細かく見る。
数字だけでなく、その向こうにいる人を見る。
そして。
自分へ手紙を送った。
警戒する理由は分かる。
同時に。
話を聞いてみたいとも思う。
その二つの感情が、今は何の矛盾もなく自分の中に存在していた。
「一つではございませんのね」
アマリリアは小さく呟いた。
今日だけで何度も似たことを考えている。
祝意と商売。
善意と利益。
期待と打算。
警戒と興味。
どちらか一方だけに決める必要はない。
人の感情も、目的も。
そして、自分自身の感じ方も。
アマリリアはペンを取った。
先ほどまでは一行目すら書けなかった。
けれど、今なら少し書ける気がする。
『ミハイル・フォード様。
このたびは、私どもの正式婚約へ丁寧なお祝いのお言葉を賜り、ありがとうございます』
まずは祝意への礼。
そこは迷わない。
次。
ペン先を少し止める。
『また、私個人へ向けてお寄せいただいたご意見につきましても、確かに拝読いたしました』
ここから。
少し難しい。
自分へ向けられた期待に、どう答えるか。
王妃教育での会話を思い出す。
約束はしない。
けれど。
聞く。
『私はまだ、王都の市場や流通について、自ら見たと言えるほど多くを知っておりません』
書いたあと、アマリリアは一度ペンを止めた。
「知らない」と認める。
少し前の自分なら、今よりもっと抵抗があったかもしれない。
知らないなら調べる。
分からないなら確かめる。
その前に、まず知らないと認めなければならない。
今なら。
それができる。
『そのため、現時点で何らかのお約束を申し上げることはできません。
ただし、貴族や王家から見える数字だけではなく、その数字の向こうにいる方々の声を知る必要があるというご意見については、心に留めたいと考えております』
そこまで書いて、一度息を吐く。
さらに。
最後へ一文を足した。
『いつか私自身が市場について学ぶ機会を得た際には、自分の目で確かめたうえで考えたいと思います』
書き終える。
まだ正式な返書ではない。
明日、セレーネへ見せる。
おそらく直されるところもある。
それでも。
自分で考えて。
自分の言葉で書いた。
「……悪くありませんわね」
少しだけ満足した、その直後だった。
扉が軽く叩かれる。
「お嬢様」
「今度は何です?」
「旦那様から」
「また?」
「一言、お伝えするようにと」
アマリリアは少しだけ身構えた。
「何でしょう」
扉の向こうで、侍女が僅かに間を置く。
「『もしミハイル・フォード本人と会いたいと言い出すなら、勝手に行くな』と」
「……」
アマリリアは机の上の便箋を見る。
まだ。
会いたいとは一言も言っていない。
話を聞く価値はある。
そう言っただけだ。
「侍女さん」
「はい」
「お父様に、『今のところは行きません』とお伝えくださいませ」
「……今のところ?」
「はい」
「そのまま?」
「そのままで」
「承知いたしました」
侍女が去っていく。
しばらくして。
かなり離れた廊下の向こうから。
「今のところとは何だ!」
父の声が響いた。
「……」
アマリリアは思わず笑った。
「聞こえておりますわよ、お父様」
当然。
返事はない。
けれど。
おそらく明日の朝になれば、また何か言われるだろう。
アマリリアは書きかけの返書を丁寧に整え、ミハイルから届いた手紙の写しと並べた。
この人が信用できるのか。
まだ分からない。
王都の市場を本当に良くしたいのか。
自分の商会を大きくしたいだけなのか。
きっと。
どちらもある。
なら。
その両方を見ればいい。
最初から善人と決めない。
悪人とも決めない。
自分へ期待しているからといって、その期待を全部背負わない。
けれど、聞く価値がある言葉まで拒まない。
そう考えた時。
不意にライルの顔が頭へ浮かんだ。
最初は第一王子だった。
自分にとって都合よく使える、王家の第一王子。
それだけだった。
今は違う。
歩調を合わせるところ。
待つところ。
恥ずかしがるところ。
少し意地悪なところ。
自分を信用しようとしてくれるところ。
一つずつ知って。
今は。
ライルだから好きなのだと思える。
なら、人を知るというのは。
多分。
そういうことなのだ。
「……まずは、普通に知るところからですわね」
レティシアの時と同じ。
会う前から、名前や立場だけで決めない。
ただし。
今回の相手は恋敵ではなく。
四十二歳の商人である。
「……」
そこまで考えたところで、アマリリアは自分でも妙な比較をしていることに気づいた。
「比べる相手を間違えておりますわね」
一人で呟き、少し笑う。
「まあ、よろしいですわ」
アマリリアは返書の上へ薄紙を置き、机の灯りを少しだけ落とした。
明日。
まずはセレーネへ見せる。
その先のことは。
その時に考えればいい。
今夜の自分に必要なのは、まだ会ったこともない相手の正体を勝手に決めることではなく。
今日知った事実を。
きちんと覚えておくことだった。
◇◇◇
そして翌日。
王宮の小応接室でアマリリアの返書へ目を通したセレーネは、何度か頷きながら最後の一文まで読み終えた。
『いつか私自身が市場について学ぶ機会を得た際には、自分の目で確かめたうえで考えたいと思います』
その一文へ。
王妃の指が止まる。
「アマリリアさん」
「はい?」
「だったら」
セレーネは、まるで次の王妃教育の教材でも決めるような気軽さで顔を上げた。
「一度、実際に市場を見に行ってみる?」
「……はい?」
アマリリアが目を瞬いた、その隣。
同席していたライルが、ほとんど考える間もなく口を開いた。
「俺も行く」
「殿下?」
「何?」
「まだ私は行くと申し上げておりません」
「行かないの?」
「それは……」
聞かれ。
アマリリアは一瞬だけ迷った。
けれど。
昨夜書いた自分の言葉を思い出す。
自分の目で確かめたい。
なら。
「……行きたいです」
「でしょう?」
セレーネが楽しそうに笑う。
「では決まりね」
「王妃様、少しお待ちくださいませ」
「何?」
「お父様へ」
「知らせないとね」
「はい」
昨夜。
『勝手に行くな』
そう言っていた父の顔が脳裏へ浮かぶ。
アマリリア。
セレーネ。
ライル。
三人で市場へ。
さらに。
その先にいるかもしれないミハイル・フォード。
「……」
何となく。
嫌な予感がした。
そしてその予感は。
その日の夕方。
王宮から正式な連絡を受け取ったハロルドが。
「何でそうなるんだ!」
と。
ベスター伯爵家の屋敷中へ響く声を上げたことで。
見事に。
現実になるのだった。




