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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第39話 私個人への期待だと言われても、第一王子の婚約者という立場と切り離すのは難しいようです


 王妃教育用の小応接室に並べられた祝い状と贈答品を前にして、アマリリアはしばらく口を開かなかった。


 窓から差し込む午後の光は穏やかで、長机の上に置かれた銀色の封蝋や、小箱の留め金を淡く照らしている。窓辺に飾られた白い花からは微かな甘い香りが漂い、壁際では侍女が三人分の紅茶を静かに用意していた。少し離れた場所では、検品を終えた贈答品を運び出すため、別の侍女が小さな帳面へ品名を書き留めている。


 一見すれば、穏やかな王妃教育の時間だった。


 実際、机の上へ並んでいるものの大半は、正式婚約を祝って届けられた善意の品である。


 地方貴族からの祝い状、王都の商会から届いた布地、小さな装飾品、各領地の特産品、菓子、茶葉、花の種。すべて王宮の受付を通し、送り主や届けられた経路が確認され、危険性の検査まで終えた状態でここへ運ばれている。


 それでも、昨日セレーネから聞かされた言葉がアマリリアの頭には残っていた。


 婚約者個人へ贈られる品には、純粋なお祝いとは別の意図が混ざることもある。


「つまり、ここにあるものが全部、ただのご厚意というわけではございませんのね」


 アマリリアが改めて確認すると、向かいに腰を下ろしていたセレーネは静かに頷いた。


「そうね。ただし、最初から全部を疑ってかかる必要もないわ」


「疑わない。でも、そのまま信じるわけでもない」


「ええ。そのくらいでちょうどいいと思う」


「面倒です」


「さっきも聞いたわ」


「何度考えても面倒ですもの」


 アマリリアが真顔で答えると、隣へ座っていたライルが堪えきれないように小さく笑った。


「殿下」


「何?」


「何かございました?」


「いや。君、昨日からずっと人付き合いが面倒だって言ってるなと思って」


「事実ですので」


「でも、ちゃんと話すんだろ?」


「必要がございましたら」


「最近は、必要じゃなくても話してるだろ。レティシア嬢とか」


 アマリリアの視線がゆっくりライルへ向く。


「殿下」


「はい」


「余計なことを仰るのでしたら、お帰りになってもよろしくてよ」


「俺も母上に勉強しろって呼ばれたんだけど」


「そうなのです?」


 アマリリアがセレーネへ視線を移すと、王妃は当然だと言わんばかりに頷いた。


「ライルも、いずれ王太子として多くの贈答品を受け取ることになるでしょう? 本人へ直接届くものだけではなく、婚約者や側近を経由した働きかけにも気づけないと困るもの」


「なるほど」


「それに、あなたたち最近、お互いのことばかり見ているから」


「王妃様」


「母上」


 綺麗に重なった二人の声に、セレーネは楽しそうに眉を上げた。


「何よ。本当でしょう?」


「授業をしてくださいませ」


「しているわよ」


「絶対に今のは授業ではございません」


「人間観察も王妃教育の一つよ」


「その言葉、便利すぎません?」


 アマリリアは小さくため息をついた。


 もっとも、机の上へ視線を戻す頃には表情も真面目なものへ変わっている。こうして新しいことを学ぶ時間自体は嫌いではない。むしろ、判断するための基準が増えることには安心感すらあった。


「では、具体的には何を確認いたしますの?」


「基本は四つ。送り主、届けられた経路、品物そのもの、そして添えられた文章ね」


「危険物の確認は?」


「当然、あなたの手元へ来る前に済んでいるわ」


「毒物も?」


「もちろん」


「呪術的なものは?」


「宮廷魔術師が確認済み」


「隠し針」


「確認済み」


「二重底」


「確認済み」


「封筒の内側へ薬品を――」


「アマリリアさん」


 セレーネがとうとう額へ指を当てた。


「あなた、普段どんな手紙を想定して暮らしているの?」


「念のためです」


「俺、今ちょっと怖くなった」


 横から口を挟んだライルへ、アマリリアは平然と顔を向ける。


「殿下は以前、その私に脅されて婚約者になった方でしょう?」


「思い出させるなよ」


「事実ですので」


「便利だな、その言葉」


「取らないでくださいませ」


 壁際で紅茶を用意していた侍女の肩が僅かに震えた。


 アマリリアは気づいたが、今日は何も言わなかった。


 少し前までなら、王宮の侍女に自分とライルのやり取りを笑われていると分かっただけで、ひどく居心地が悪くなっただろう。今も恥ずかしいことに変わりはないが、それだけで機嫌を損ねるほどではなくなっている。


 そう考えると、自分は随分変わったものだ。


「まずは分かりやすいものから見ていきましょう」


 セレーネが一通の封書をアマリリアの前へ滑らせた。


「こちらは?」


「北部のトレイス子爵家からよ」


 アマリリアは封蝋と、既に王宮側で開封確認を終えていることを示す小さな印を確かめてから、便箋を開いた。


「ご婚約を心よりお祝い申し上げます。ささやかではございますが、領内で今年収穫された茶葉を……」


 そこまで読み、手紙の隣に置かれていた小さな木箱へ目を向ける。


「お茶です?」


「そう」


「他には?」


「それだけ」


「本当に?」


「疑いすぎよ」


「先ほど見極めろと仰ったでしょう?」


「だからといって、送り主全員を尋問するような顔をしなくてもいいの」


 セレーネに苦笑され、アマリリアは少しだけ眉を寄せた。


「普通のお祝いであるなら、普通に受け取ってよろしいのですね?」


「ええ。ただし、返礼の程度は考える必要があるわ」


「いただいた品と同額程度のものを返すわけではない?」


「婚約祝いだから、正式な礼状だけで十分な場合も多いわね。相手との関係や品の内容にもよるけれど」


「なるほど」


 アマリリアは頷きながら、送り主であるトレイス子爵家について記憶を辿った。


「トレイス子爵家でしたら、ベスター家とも多少交流がございます」


「そうなの?」


「領地北側で扱われている穀物の一部を、父が以前買い付けていたはずです。毎年ではございませんが、凶作時の補完先として繋がりを残しております」


「そこまで覚えてるんだ」


 ライルが純粋に感心したような声を漏らす。


「当然です」


「何で?」


「実家のことですので」


「俺、自分の家の取引先を全部なんて覚えてないけど」


「王家と伯爵家では規模が違いますでしょう?」


「それを差し引いても、君は普通じゃないと思う」


「褒めております?」


「かなり」


「でしたら、ありがとうございます」


 すぐにそう返すと、ライルがほんの少し目を丸くした。


 以前のアマリリアなら、褒められても「当然です」だけで終わらせたかもしれない。最近は、嬉しい時には受け取ってもいいのだと思えるようになっている。


 ライルの口元が柔らかくなる。


「何です?」


「何でもない」


「お顔が何でもない方のお顔ではございません」


「最近それ言いすぎ」


「殿下が分かりやすすぎるのです」


「君もだよ」


「私は違います」


「違わない」


「二人とも、授業を進めるわよ」


 セレーネが軽く手を叩き、今度は別の包みを侍女へ開かせた。


 中から現れたのは、柔らかな光沢を持つ布地だった。祝いの言葉に加えて、自社が新たに作った織物をぜひ使ってほしいという依頼が添えられている。


 アマリリアは一度文章へ目を通しただけで、意図を理解した。


「これは分かりやすいですわね。宣伝目的です」


「そうね」


「私がこの布を使った衣装を着れば、『第一王子婚約者も認めた品』という印象を与えられる」


「王家から正式な許可を出していなくても、そう受け取れるような売り方をされることはあるわ」


「でしたら、受け取らない方がよろしいのでは?」


「そこは場合によるわね」


 アマリリアは少し黙った。


 セレーネが口元を上げる。


「面倒でしょう?」


「王妃様、楽しんでいらっしゃいません?」


「少し」


「やはり」


 セレーネは笑いながら布地へ指を滑らせた。


「品物自体はどう?」


「かなり質がよいと思います。糸も細く、染めにも斑がございません」


「この商会は王宮への納入実績もあるわ。信用そのものに問題はない」


「でしたら……」


 アマリリアは布と手紙を交互に見ながら考えた。


「今回の贈答品は受け取る。ただし、私が実際に使用する保証はしない。そして、王家や私の名前を販売促進へ利用することを許可したわけではないと、礼状の中で明確にする?」


「正解」


「まあ」


「嬉しそうだな」


 ライルに言われ、アマリリアは少しだけ口元を緩めた。


「分かりましたので」


「こういうの好き?」


「判断材料が揃っているものは好きです」


「人間より?」


 アマリリアの目がゆっくり細くなる。


「殿下」


「何?」


「その質問は、聞かない方がよろしいかと」


「そこは人間って言ってくれよ!」


 とうとうセレーネまで笑い出した。


 それからも、いくつかの祝い状と贈答品を確認していった。


 地方貴族から届いた果実酒。王都の老舗菓子店から届けられた焼き菓子。花商からの珍しい青い花。以前からベスター家と取引のある宝飾商が贈ってきた、控えめな意匠の髪飾り。


 一つずつ見ていくと、本当に純粋な祝意だけのものも多かった。


 一方で、商売上の期待が混ざっているものもある。王家との繋がりを少しでも強めたいという思惑を感じる家もあった。


 けれど、何かを期待しているからといって、即座に悪意があるとは限らない。


 そこが一番難しい。


「例えば、この宝飾商ですけれど」


 アマリリアは髪飾りへ添えられていた手紙を指先で押さえた。


「私が身につければ宣伝にはなる。でも、この商会は以前からベスター家との付き合いもあります」


「そうね」


「正式婚約を純粋に祝ってくださる気持ちもあるでしょうし、自分たちの品を今後も覚えておいてほしいという期待もある」


「ええ」


「どちらか一つではなく、両方」


「そういうことよ」


 アマリリアは椅子の背へ僅かに身体を預け、小さく息を吐いた。


「人の気持ちは、一つではないのですね」


「昨日も似たような話をしたでしょう?」


「ええ」


 自然にレティシアのことが頭へ浮かんだ。


 ライルを好きだという気持ちはある。


 けれど正式婚約を壊したいわけではない。


 アマリリアに対して複雑な感情がまったくないわけでもないだろう。それでも友人になりたいと言ってくれた。


 一見すれば矛盾しているようでも、そのすべてが同時に本当なのだ。


「少し分かってまいりました」


「よかったわ」


「ただ、やはり面倒です」


「そこは変わらないのね」


「ええ。そこだけは、しばらく変わる気がいたしません」


 アマリリアは迷いなく頷き、ライルがまた笑った。


          ◇◇◇


 一通り基本的な例を確認したあと、セレーネは机の端へ最初から取り分けてあった一通の封筒を手に取った。


 それまで見てきた白い便箋とは違い、淡い灰色の紙が使われている。封蝋にも貴族の家紋はなく、小さな羽根を模した意匠だけが刻まれていた。


「最後に、今日一番あなたへ見てほしかったものがあるの」


 セレーネの声が先ほどまでとは少し変わり、アマリリアも自然に姿勢を正した。


「怪しいものです?」


「危険性は確認されていないわ」


「送り主は?」


「エルド商業連盟所属、ミハイル・フォード」


「フォード……」


 聞き覚えのある名だった。


 アマリリアは少し考え、記憶の中から該当する人物を引き出す。


「王都南部の穀物取引をまとめている商人の一人ではございません?」


「知っているの?」


「直接お会いしたことはございません。ただ、父の書類で名前を見たことがございます。数年前から取り扱い量を増やしていたはずです」


「合っているわ。王都では中堅から大手へ上がりつつある商会の代表。四十二歳。貴族ではないわね」


「その方が、私へ?」


「読んでみて」


 アマリリアはセレーネから封筒を受け取った。


 既に王宮側の検査で一度開封され、再封の印が押されている。中から取り出した便箋には、装飾的な言い回しを抑えた、比較的簡潔な文章が並んでいた。


『アマリリア・ベスター様。


 このたびの第一王子殿下との正式なご婚約を、心よりお祝い申し上げます。


 王都にて商いを営む身として、王家の慶事へ言葉をお届けできますことを光栄に存じます。


 しかしながら、本状をお送りいたしました理由は、婚約そのものへの祝意だけではございません。


 私は以前より、ベスター伯爵家のご令嬢が学園にて非常に優秀な成績を収められていること、また領地経営や流通についても若くして深い知識をお持ちであることを耳にしておりました。


 今回、第一王子殿下の婚約者となられたことで、今後あなた様は王都の商業政策、地方流通、食糧価格、税制などへ意見を求められる機会も増えることと存じます。


 その折には、どうか貴族側から見た数字だけでなく、商人、運送業者、職人、露店商などの声にも耳を傾けていただきたく存じます。


 これは王家への陳情ではございません。


 何か特定の便宜を求めるものでもございません。


 ただ、アマリリア・ベスター様ご本人が、数字と事実を自ら確かめる方だと伺ったため、一商人として勝手ながら期待しております。


 もし将来、そのような機会がございましたら。


 第一王子殿下の婚約者としてではなく、あなた様ご自身の目で、市場を見ていただければ幸いに存じます』


 読み終えても、アマリリアはすぐには顔を上げなかった。


 先ほどまで聞こえていた侍女たちの衣擦れの音や、遠くの廊下を歩く足音まで、急に意識へ入ってくる。便箋を持つ指先には、自分でも気づかないうちに僅かな力が入っていた。


「アマリリア?」


 隣から呼ばれ、ようやく顔を上げる。


「読んでもよろしいです?」


「ええ」


 アマリリアが便箋を差し出すと、ライルも黙って目を通し始めた。


 セレーネは何も言わない。


 二人がどう受け取るのか、見守っているらしい。


 しばらくしてライルが顔を上げた。


「これ、俺じゃなくて、本当にアマリリア宛てだな」


「ええ」


「完全に君を見て書いてる」


「……そうですわね」


 アマリリアは自分でも分かるほど戸惑っていた。


 正式婚約の祝い状だ。


 第一王子の婚約者になったからこそ届いた手紙であることに間違いはない。


 それなのに、書かれている期待の中心にいるのはライルではなかった。王家ですらない。


 アマリリア自身だ。


「王妃様」


「何?」


「この方は、どこで私のことを知ったのでしょう」


「さあ」


「さあ?」


「学年主席であることは、それほど秘密ではないわ。ベスター伯爵家の令嬢が領地の数字や流通へ詳しいという話も、取引相手を辿れば耳へ入るでしょうね」


「それだけで、このような手紙を?」


「少し調べた可能性はあるわね」


 アマリリアの目が細くなる。


 それを見たセレーネは、すぐに片手を上げた。


「だからといって黒装束は駄目よ」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔に書いてある」


「王妃様」


「これ、本当に便利ね」


「皆様、最近使いすぎです!」


 ライルが手紙をもう一度読みながら、小さく口を開いた。


「でも、結構いいこと書いてるよな」


「……ええ」


「君が王家へ入るから期待してるだけじゃない」


「正確には、それもあると思います」


「うん。でも、ここ」


 ライルは文中の一箇所へ指を置いた。


「『あなた様ご自身の目で』ってところ。俺、これ好きだな」


 アマリリアは僅かに眉を寄せた。


「殿下が?」


「うん」


「私宛ての手紙ですけれど」


「知ってる」


「なぜ殿下が喜ぶのです?」


 ライルは、そんなことを聞かれると思っていなかったらしい。少しだけ目を瞬いたあと、ごく自然に答えた。


「君が評価されてるから」


「……」


「何?」


「いえ」


「また顔赤い?」


「赤くありません」


「少し赤いわよ」


「王妃様まで!」


 セレーネは楽しそうに笑ったが、やがて表情を少し改めた。


「でも、ライルの感覚は間違っていないと思うわ」


「王妃様」


「何?」


「これは、受け取ってよい期待ですの?」


 今度は真面目な問いだった。


 セレーネもそれを感じ取ったらしく、背筋を少し伸ばした。


「そこを考えるのが今日の授業よ。ミハイル・フォードは、文章の上では何も要求していない」


「はい」


「でも、本当に何も期待していないと思う?」


 アマリリアはすぐには答えなかった。


 便箋に書かれていた言葉を頭の中で一つずつ拾っていく。


 商業政策。


 地方流通。


 食糧価格。


 税制。


 商人、運送業者、職人、露店商。


 市場を自分の目で見てほしい。


「期待はしております」


「何を?」


「将来、私が王政へ関わるようになった時、商人側の事情も考慮することを」


「そうね」


「その結果、商人にとって有利な制度や政策が生まれる可能性もある」


「ええ」


「でしたら、完全に無私というわけではございません」


「多分ね」


「でも」


 アマリリアは言葉を選びながら、手紙へ視線を落とした。


「だから悪いとも思いません」


 セレーネの目が僅かに細くなる。


 答えではなく、続きを待っている顔だった。


「自分たちの事情を知ってほしいと望むこと自体は、当然ではございません?」


「ええ」


「貴族は貴族の都合を話します。領主は領地の事情を話す。農民には農民の事情があり、商人も自分たちの立場を知ってほしいと考えるでしょう」


「そうね」


「問題になるのは、その期待を利用して、私から特定の者だけが不当に利益を得るような便宜を引き出そうとした場合です」


「正解」


 セレーネが満足そうに頷く。


「では、この手紙そのものについては、あなたはどうしたい?」


 判断を任された。


 アマリリアは少し黙った。


 以前なら、知らない商人からここまで踏み込んだ期待を向けられた時点で、まず裏を調べることしか考えなかったかもしれない。


 今も調べる必要がないとは思わない。


 けれど、それとは別に。


「受け取ります」


「理由は?」


「手紙ですので」


「それだけ?」


「いいえ」


 アマリリアは顔を上げた。


「この方の期待へ応えると約束するつもりはございません。ただ、聞く価値のある意見だとは思います」


「返事は?」


「礼状を出します。婚約へのご祝意に対するお礼と、異なる立場の人々の声へ耳を傾ける必要性については私も理解している、と」


「期待に応えるとは?」


「書きません」


「なぜ?」


「できると分からないことを約束する必要はございませんから」


「いいと思うわ」


「それと」


 アマリリアの目が少し鋭くなる。


「この方が私について、どのような経路から情報を得たのかは確認します」


 ライルが吹き出した。


「やっぱりそこは調べるんだ」


「当然です」


「黒装束?」


「使いません!」


「確認しただけ」


「絶対、面白がっておりますでしょう?」


「少し」


「殿下」


 セレーネまで笑いを堪えている。


 アマリリアは一度だけため息をつき、それから再び手紙へ視線を落とした。


「ただ……少し変な気分です」


 ライルの笑みが僅かに薄くなる。


「何が?」


「私個人へ期待されていることが、です」


「嫌?」


「分かりません」


 アマリリアは素直に答えた。


「私は第一王子殿下の婚約者になったから、この手紙をいただいたのでしょう?」


「うん」


「でも、手紙では私個人を見ていると書かれている」


「うん」


「それを切り離せませんわ」


 アマリリアは便箋へ視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。


「もし私が、ただのベスター伯爵令嬢のままだったなら、この方がわざわざ私へこのような手紙を送ってくることはなかったでしょう」


「多分」


「では、本当にこれは『私個人への期待』と言えるのでしょうか」


 その問いに。


 セレーネはすぐには答えなかった。


 少しの間、アマリリアを見つめたあと、穏やかに微笑む。


「それは、これから何度も悩むことになると思うわ」


「王妃様も?」


「もちろんよ」


 アマリリアが驚いて顔を上げる。


「私はセレーネだから話しかけられているのか。王妃だからなのか。アルベルトの妻だからなのか。ライルの母だからなのか」


「……」


「全部かもしれないでしょう?」


「全部」


「人は立場を持って生きるものよ」


 セレーネは自分の胸元へ軽く手を置いた。


「立場を全部外した、本当の自分だけを見てほしいと思う時もある。でもね、その立場もまた、自分の人生の一部なの」


 アマリリアは何も言わず、続きを待った。


「あなたは第一王子の正式な婚約者。それと同時に、ベスター伯爵家の娘で、学年主席で、領地のことを自分で調べたがる令嬢で」


 そこでセレーネが少し笑う。


「黒装束を愛用していた、少々困った令嬢でもある」


「王妃様」


「大事なところでしょう?」


「絶対に違います」


「でも、その全部がアマリリアさんなのよ」


 からかう色が消え、セレーネの声が柔らかくなる。


「誰かが、そのうちの一つをきっかけにあなたを知ったとしても、そのあと何を見るかは相手次第。そして、どこを見せるかはあなた次第よ」


 その言葉が、思っていた以上に胸へ残った。


 アマリリアは無意識に隣のライルを見る。


 最初にこの人と向き合った時、自分が見ていたのは第一王子という立場だけだった。


 利用できる。


 第一王子を婚約者にすれば、カルロスとの婚約を避けられる。


 そのためなら脅してでも協力させる。


 ライル・アースハルトという一人の人間をどれほど見ていたかと問われれば、答えに困る。


 けれど今は違う。


 待ってくれるところを知っている。


 意外と照れやすいところも。


 自分より相手の歩調を優先できるところも。


 時々とても鈍いところも。


 気づかないふりをせず、自分を見ていてくれるところも。


 最初は立場から知った相手でも。


 途中から、その人自身を見ることはできる。


「……なるほど」


 アマリリアが小さく呟くと、ライルが首を傾げた。


「何か分かった?」


「少し」


「何?」


「殿下のことです」


「俺?」


「私は最初、殿下を第一王子としてしか見ておりませんでした」


「うん」


「かなり利用するつもりでした」


「知ってる」


「脅しました」


「それも知ってる」


「でも今は――」


 そこまで言って。


 アマリリアは止まった。


 ライルは急かさない。


 ただ、続きを待っている。


 そしてセレーネは、ものすごく楽しそうな顔でこちらを見ている。


 壁際の侍女まで、こちらを気にしている気配がある。


「……」


「アマリリア?」


「言いません」


「何で?」


「人が多すぎます」


「母上と侍女しかいないよ」


「十分です!」


 セレーネがとうとう声を立てて笑った。


「では、その続きは二人きりの時にどうぞ」


「母上!」


「王妃様!」


「ほら、また息が合ってる」


「授業を!」


「今しているでしょう?」


 結局、その場で続きを口にすることはできなかった。


 けれど。


 アマリリア自身の中には、もう答えがあった。


 今は。


 第一王子だからではなく。


 ライルだから好きなのだ。


 なら、自分も。


 誰かに第一王子の婚約者という立場から見つけられたとしても。


 そのあとで、アマリリア自身を知ってもらうことはできるのかもしれない。


          ◇◇◇


 王妃教育が終わる頃には、机の上へ積まれていた祝い状と贈答品も、いくつかの種類へ分けられていた。


 純粋な祝意として受け取るもの。


 商業的な意図を含むもの。


 政治的な繋がりを期待しているもの。


 返答不要のもの。


 礼状のみを返すもの。


 追加の確認が必要なもの。


 最初は何もかも一緒に見えた山が、目的ごとに整理されている。


 アマリリアはそれを見て、少し満足そうに頷いた。


「分かりやすくなりました」


「君、こういう整理好きだよな」


「混ざっている状態が嫌なのです」


「人間の感情は?」


「……」


「結構混ざってるけど」


 アマリリアはゆっくりライルへ顔を向けた。


「殿下」


「何?」


「だから人付き合いは面倒だと、何度も申し上げておりますでしょう?」


「なるほど」


「何がなるほどですの」


 ライルが笑う。


 セレーネは分類を終えた資料を侍女へ渡しながら、最後にアマリリアへ顔を向けた。


「今日のところはここまでにしましょうか」


「はい」


「それと、アマリリアさん」


「何でしょう?」


「さっきのミハイル・フォードへの返事だけれど」


「ええ」


「自分で書いてみる?」


 アマリリアは少し目を見開いた。


「私が?」


「あなた個人へ届いた手紙でしょう?」


「……」


 ほんの少しだけ迷う。


 王妃教育の課題としてなら、セレーネが文面を決め、それを書き写す方が簡単だ。


 けれど。


 それでは、自分個人へ向けられた期待へ、自分自身で答えたことにはならない。


「書きます」


「では、明日見せてちょうだい」


「分かりました」


「ライル」


「何?」


「あなたは口を出しすぎないこと」


「何で俺だけ注意されるんだよ」


「アマリリアさん宛ての手紙だからよ」


「分かってるよ。それくらい」


「本当に?」


「俺だって、何でも口を出すわけじゃない」


 少しだけ不満そうなライルの顔を見て、アマリリアの口元が緩んだ。


「殿下」


「何?」


「ありがとうございます」


「何が?」


「口を出さないでいてくださることです」


「まだ何も出してないけど」


「先に申し上げておこうかと」


「信用ないな」


「ございますよ」


 ライルの表情が少し変わった。


 アマリリアは、今度は迷わず続ける。


「信用しておりますから、私が自分で書きます」


「……そっか」


「ええ」


 短いやり取りだった。


 それでも、隣で見ていたセレーネの表情がほんの少し柔らかくなったことに、アマリリアは気づいていた。


          ◇◇◇


 帰りの馬車の中。


 アマリリアの膝の上には、ミハイル・フォードから届いた手紙の写しが置かれていた。


 原本は王宮で保管されるが、返書を書くため、王宮書記が内容を正確に写したものを持ち帰る許可が出ている。


 向かいへ座ったライルは、珍しくその手紙について何も言わなかった。


 馬車が石畳を進む振動と、車輪の音だけがしばらく二人の間へ続く。


「殿下」


「何?」


「本当に口を出しませんのね」


「母上に言われたから」


「それだけです?」


「違うよ」


「では?」


 ライルは少し考えたあと、何でもないことのように答えた。


「君宛ての手紙だから」


「……」


「君がどう返したいか、自分で決めた方がいいだろ」


 アマリリアは膝の上へ置いた写しへ目を落とした。


「殿下」


「何?」


「今日、私がこの手紙を読んだ時、少し喜んでおりましたね」


「君が評価されてたから?」


「ええ」


「嬉しかったよ」


「なぜ?」


「好きな人が褒められたら、普通に嬉しくない?」


「……」


 また。


 何の前触れもなく。


 さらりと言う。


 こちらが心の準備をする暇など、まったく与えてくれない。


「殿下」


「何?」


「そういうところです」


「また?」


「またです」


「今日何回目だろ」


「数えておりません」


「じゃあ」


 ライルが少し楽しそうに身を乗り出した。


「好きなところ、一個増えた?」


「……」


「どう?」


「殿下」


「うん?」


「調子に乗っておりますね?」


「少し」


「認めましたわね」


「だって気になる」


「教えません」


「一個だけ」


「嫌です」


「じゃあ俺から――」


「もっと嫌です」


「まだ何も言ってないだろ」


「言う気なのでしょう?」


「ある」


「やめてくださいませ!」


 思わず声が大きくなった直後、馬車前方から御者の小さな咳払いが聞こえた。


 二人とも、ぴたりと止まる。


「……聞こえておりますわね」


「多分」


「殿下のせいです」


「君も声大きかっただろ」


「殿下が余計なことを仰るからです!」


「はいはい」


「今の返事、王妃様に似ております」


「母上の息子だから」


「そういう時だけ親子らしさを発揮しないでくださいませ!」


 二人は顔を見合わせた。


 そして結局、どちらからともなく笑ってしまう。


 少ししてから、アマリリアは窓の外へ視線を向けた。


 王都の通りには、いつもと同じ景色が流れている。


 荷車を押す商人。店先へ商品を並べる若者。露店で品物を選ぶ婦人。重そうな袋を二人がかりで運ぶ少年たち。大きな商会の前には立派な馬車が止まり、その少し先には小さな屋台で昼の残りを片づける老人がいる。


 何度も通った道だ。


 それなのに今日は。


 少しだけ違って見えた。


『あなた様ご自身の目で、市場を見ていただければ』


 自分自身の目。


 第一王子の婚約者ではない自分の目。


 そういう意味なのだろうか。


 しばらく考えて。


 違う気がした。


 第一王子の婚約者であることも。


 伯爵家の娘であることも。


 学年主席であることも。


 黒装束を着ていたことさえ。


 全部を含めて。


 自分なのだ。


 その自分が見る。


「アマリリア」


「何です?」


「何見てる?」


「王都です」


「いつもあるけど」


「知っております」


「じゃあ、何でそんな真剣な顔してるんだよ」


 アマリリアは窓の外へ視線を向けたまま、少し考えた。


「今までより、見ようと思いまして」


 ライルは一瞬だけ黙った。


 詳しい理由を聞くこともできたはずなのに。


 結局。


「そっか」


 それだけ答えた。


 聞かない。


 急かさない。


 話したくなった時まで待つ。


 また、そのやり方。


 アマリリアは窓へ向けたまま、ほんの少し口元を緩めた。


 やはり。


 そういうところなのだ。


          ◇◇◇


 その夜。


 ベスター伯爵家の自室で、アマリリアは机へ向かっていた。


 窓の外は既に暗く、庭園に立つ木々の輪郭も月明かりの中へ薄く溶けている。机の上では魔導灯が穏やかな光を放ち、その中央には真新しい白い便箋と、ミハイル・フォードから届いた手紙の写しが並んでいた。


 写しは既に何度も読んだ。


 内容もほとんど覚えている。


 それでも。


 返事の最初の一文が、なかなか決まらなかった。


 正式婚約へのお祝いをありがとうございます。


 そこまでは簡単だ。


 問題は、その先だった。


 この人は。


 自分へ期待している。


 なら、何と返せばいい。


 期待に応えます。


 違う。


 まだ約束できない。


 商人の味方になります。


 それも違う。


 貴族には貴族の事情がある。


 農民にも、職人にも、運送業者にも、それぞれの立場がある。


 全員の味方になることなどできない。


 そもそも、誰か一人の味方になることが正しいとも限らない。


「……難しいですわね」


 しばらくペン先を便箋の上へ浮かせたまま迷ったあと、アマリリアはとうとうペンを置いた。


 人の期待というものは。


 好意よりも、さらに面倒かもしれない。


 そんなことを考えていた時、扉が軽く叩かれた。


「お嬢様」


「何です?」


 いつもの侍女の声だった。


「旦那様が、まだ起きていらっしゃるようでしたら少しお話ししたいと」


「お父様が?」


「はい」


「この時間に?」


 ハロルドが娘の部屋へ突然顔を出すことはあっても、こうして侍女を通し、きちんと時間を確認してから話したいと言ってくるのは少し珍しい。


「何のお話です?」


「お手紙について、と伺っております」


 アマリリアの目が僅かに細くなった。


「どのお手紙?」


 侍女が一瞬だけ答えに迷うような間を置いた。


「……王都の商業関係者から届いたものについて、王宮より伯爵家へ確認の連絡が入ったそうです」


「ミハイル・フォード?」


「お名前までは伺っておりませんが、恐らくは」


「まあ」


 父まで関わるらしい。


 アマリリアは机へ置かれた手紙の写しを見た。


 第一王子の婚約者として。


 アマリリア個人として。


 そして今度は。


 ベスター伯爵家の娘として。


 一通の手紙だけで、いくつもの立場が重なっていく。


 セレーネの言葉を思い出した。


 立場もまた、自分の人生の一部。


「分かりました」


 アマリリアは便箋の上へ置いていたペンを整え、椅子から立ち上がった。


「すぐ参ります」


 侍女が一礼して廊下へ下がる。


 アマリリアは部屋を出る前に、もう一度だけミハイルの手紙へ目を向けた。


 人から期待されるということは。


 思っていたより、ずっと簡単ではないらしい。


 けれど。


 面倒だからといって。


 もう、最初から扉を閉じるつもりもなかった。


 そして数分後。


 父ハロルドの書斎へ足を踏み入れたアマリリアは。


 ミハイル・フォードという名を告げた瞬間。


 いつもなら何かにつけて声を大きくする父が、珍しく笑いも怒鳴りもせず。


「その男から、お前へ直接手紙が来たのか」


 と、低い声で確認するのを聞くことになる。


 その表情に浮かんでいたのが。


 娘を心配する父親としての警戒だけではなかったことを。


 この時のアマリリアは、まだ知らなかった。

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