第38話 昔の自分を褒められても、殿下はどうしていいか分からないようでした
翌朝、アマリリアが学園へ到着した頃には、夜のうちに空へ残っていた薄い雲もほとんど消え、校舎の大きな窓には春の終わりらしい明るい陽射しが差し込んでいた。
王宮で若手貴族たちとの親睦茶会を終えた翌日だからといって、学園生活まで特別なものへ変わるわけではない。門をくぐれば、いつもの制服姿の生徒たちが行き交い、友人と話しながら教室へ向かう者もいれば、提出期限が迫った課題を片手に廊下を急ぐ者もいる。昨日の茶会へ参加していた貴族子女も何人か見かけたが、王宮で華やかな昼用礼装をまとっていた姿とは違い、今日は皆、同じ学園の制服を身につけていた。
その光景を見ていると、昨日の出来事がほんの少しだけ遠いものに感じられる。
「アマリリア様、おはようございます」
「おはようございます」
廊下ですれ違った令嬢が足を緩め、昨日の茶会について改めて礼を述べてきた。アマリリアも自然に笑みを返し、「こちらこそ。私も楽しかったですわ」と答える。
少し前までなら、こうして茶会の翌日に声をかけられれば、何か別の意図があるのではないかと反射的に考えていたかもしれない。第一王子の婚約者となった自分へ取り入りたいのか。王妃との距離を探りたいのか。あるいは、ベスター伯爵家との繋がりを作りたいのか。
今も警戒心そのものがなくなったわけではない。
けれど昨日、実際に多くの人と話してみた。
第一王子の正式な婚約者として自分を見ている者もいれば、アマリリア・ベスターという一人の人間へ興味を持って話しかけてくれる者もいた。もちろん、その二つが完全に分かれているとは限らない。王家との繋がりを意識しながら、それでも純粋に自分との会話を楽しむ者だっている。
その違いを最初から完璧に見抜く必要などないのだ。
話して、見て、それから決めればいい。
王妃セレーネから何度も教えられてきたことが、ようやく知識ではなく実感として、自分の中へ馴染み始めている気がした。
「おはよう、アマリリア」
聞き慣れた声が背後から届き、アマリリアは反射的に振り返った。
「おはようございます、殿下」
ライルは普段と変わらない学園用の服装で、こちらへ向かって歩いてくる。昨日の濃紺の礼装もよく似合っていたが、こうしていつもの日常へ戻った姿を見ると、なぜか少し安心した。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
「ええ。多少は疲れておりましたけれど、問題ございません」
「そっか」
それだけの会話だった。
けれどアマリリアは、返事をしたあともしばらくライルの顔を見てしまった。
「何?」
「いえ」
「何かついてる?」
「ついておりません」
「じゃあ、何でそんなに見るんだよ」
尋ねられ、アマリリアは昨夜届いた短い手紙を思い出した。
『ちゃんと戻ってきてくれて嬉しかった。君が大丈夫だと言ったから、俺も待てた。また明日』
あの文章を寝る前に何度読み返したかは数えていないし、数えるつもりもない。
ただ、今朝になって机の上へ置かれた封筒を見つけた侍女が、妙に楽しそうな顔をしていたことだけは覚えている。
「殿下」
「うん?」
「昨日は、お手紙をありがとうございました」
ライルの表情が少し柔らかくなった。
「読んだ?」
「送っておいて何を仰いますの?」
「いや、読むとは思ってたけど」
「きちんと読みました」
「そっか」
それだけ言ったあと、ライルがほんの僅かに視線を逸らした。
アマリリアは見逃さない。
「殿下」
「何?」
「照れております?」
「別に」
「昨日はあれだけ素直なことを書いておいて?」
「手紙に書くのと、本人から目の前で言われるのは違うだろ」
「そういうものです?」
「違う」
少しだけ強く言い切るライルが可笑しくて、アマリリアの口元が自然に緩んだ。
「笑った?」
「少し」
「何で?」
「殿下でも、そのようなことを気になさるのですね」
「俺を何だと思ってる?」
「第一王子殿下」
「それ以外」
「私の婚約者ですわね」
何気なく答えた直後。
二人とも、足を止めた。
「……」
「……」
朝の廊下には、当然ほかの生徒もいる。
近くを歩いていた二人の令嬢が、露骨に振り返りたいのを必死で堪えている。少し離れた場所では、男子生徒が友人から肘で脇腹を突かれ、何かを小声で囁かれていた。
「アマリリア」
「何です?」
「今の」
「忘れてくださいませ」
「嫌だ」
「殿下」
「最近の方針」
「それは私のです!」
「便利だから」
「レティシア様まで使い始めたのに、殿下まで取らないでくださいませ」
「レティシア嬢も?」
「昨日、少し」
「仲良くなった?」
その問いには、アマリリアも少し考えた。
「分かりません」
「分からない?」
「少なくとも、嫌いではございません」
「最初は嫌いだったの?」
「殿下をお好きな方ですよ?」
「……なるほど」
「納得なさるのですね」
「昨日、嫉妬してるって言ってたから」
「しております」
「今も?」
「質問が多いですわね」
「気になる」
真っ直ぐ言われ、アマリリアは少しだけライルを見返した。
隠すほどのことではない。
そう判断し、小さく息を吐く。
「今はしておりません」
「そっか」
「ですが、レティシア様が殿下をご覧になっているところを見たら、するかもしれません」
「それは……」
「何です?」
「ちょっと嬉しい」
「殿下」
「ごめん」
「まったく反省しておりませんね」
「うん」
「認めないでくださいませ」
そんな会話をしながら教室へ続く廊下へ入ったところで、前方に見覚えのある淡い金色の髪が見えた。
アマリリアの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。
レティシアだ。
昨日の藤色のドレスではなく、今日は学園の制服を身につけている。友人らしい令嬢と話していた彼女もこちらへ気づき、視線が合った。
昨日の茶会では、かなり深いところまで話した。
ライルを好きになった理由。
今もその気持ちが残っていること。
けれど、その感情が今のライル本人へ向けた恋なのか、自分の中で作り上げた「優しい第一王子」への憧れなのか、自分自身でもまだ分からないこと。
そしてアマリリア自身も、もしかするとレティシアとは友人になれるのかもしれないと考え始めている。
だからこそ、翌朝。
何でもない学園の廊下で顔を合わせた瞬間、どう接すればいいのか少しだけ分からなくなった。
「アマリリア?」
隣のライルが首を傾げる。
「何でもございません」
答えた直後、レティシアが友人へ何かを告げ、こちらへ歩いてきた。
「アマリリア様。おはようございます」
「おはようございます、レティシア様」
一度、普通に挨拶を交わす。
それからレティシアはライルへ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「ライル殿下も、おはようございます」
「ああ。おはよう、レティシア嬢」
あまりにも普通だった。
昨日あれだけ込み入った話をしたのだから、もう少し妙な空気になるのではないかと思っていたのに、レティシアの態度には不自然なところがない。
「昨日はありがとうございました」
レティシアがアマリリアへ言う。
「こちらこそ」
「とても楽しい茶会でした。特に、アマリリア様とゆっくりお話しできたことが」
その一言で、ライルの視線がこちらへ向いた。
アマリリアは何となく嫌な予感を覚える。
「昨日」
案の定、ライルが口を開いた。
「二人で何を話したの?」
「殿下、それは――」
「殿下を好きになった日のことを」
アマリリアが止めるより先に、レティシアが答えた。
三人の動きが、同時に止まる。
近くを歩いていた生徒まで何人か歩調を緩めたが、さすがに露骨に立ち止まる勇気まではないらしく、皆、妙に不自然な速度で通り過ぎていく。
「レティシア様」
アマリリアがゆっくり彼女を見る。
「はい」
「そのまま仰るのですね」
「昨日、正直に話す方針は便利だと学びましたので」
「そこまで真似なさらなくてもよろしいのですよ?」
「ですが、嘘ではございません」
「そうですけれど……」
隣ではライルがまだ固まっている。
「……俺を?」
「はい」
「好きになった日?」
「正確には、好きになったきっかけとなった日のことです」
ライルが今度はアマリリアを見る。
「私を見ないでくださいませ」
「いや、だって」
「私も昨日、伺った側です」
「何の話なんだよ」
そこまで聞かれ、アマリリアは少し迷った。
レティシア自身の思い出である以上、勝手に語るのは違う。
「レティシア様」
「はい」
「殿下へお話ししても?」
「構いません。隠すようなことでもございませんので」
「本当によろしいのです? 殿下を好きになった理由ですわよ?」
「そうですね」
「ご本人が目の前です」
「存じております」
「強いですわね」
「昨日、アマリリア様から学びました」
「私、そこまで教えました?」
「かなり」
ライルが二人を交互に見た。
「何か……昨日の間に、すごく仲良くなってない?」
「なっておりません」
アマリリアは即答した。
するとレティシアも少し考えてから、「まだ分かりません」と答える。
「そこも似たような答えなんだな」
「殿下、面白がっております?」
「少し」
「まあ」
睨まれたライルは笑いながら両手を軽く上げた。
「分かった。ごめん」
「まったく」
ちょうどそこで予鈴が鳴り、廊下を歩く生徒たちが一斉に教室へ急ぎ始めた。
「あ、もう時間か」
「当然です。いつまでも廊下でお話ししているからですわ」
「じゃあ、続きは昼?」
「なぜ私を見るのです?」
「気になるから」
「殿下、ご自分が好きになられた理由をそんなに知りたいのです?」
その言い方をされた途端、ライルの勢いが僅かに弱くなった。
「……そう言われると、ちょっと恥ずかしくなってきた」
「遅いです」
「昼、やめようかな」
「逃げます?」
アマリリアがわざと静かに尋ねると、ライルの眉が僅かに動いた。
「逃げない」
「では昼ですね」
「アマリリア」
「何です?」
「楽しんでない?」
「少し」
「絶対楽しんでるだろ」
「授業に遅れますわよ、殿下」
アマリリアは少しだけ笑いながら先に歩き始め、その隣へレティシアも自然に並んだ。
「アマリリア様、楽しそうですね」
「原因はレティシア様です」
「申し訳ございません」
「笑いながら謝らないでくださいませ」
背後から、「二人とも本当に仲良くなってない?」というライルの声が飛んでくる。
アマリリアとレティシアは、ほとんど同時に振り返った。
「まだです」
「まだです」
声が重なった。
一瞬。
二人は顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく少しだけ笑った。
◇◇◇
午前の授業が終わる頃には、アマリリアも朝の出来事を忘れるほど、いつもの学園生活へ戻っていた。
教師から出された課題をこなし、指名されれば答え、休み時間には昨日の茶会へ参加した令嬢たちと簡単に感想を交わす。
ただ、昼休みが近づくにつれて、少しだけ意識が別のところへ向き始めた。
ライルは本当に来るだろうか。
おそらく来る。
逃げないと言ったし、何より本人も気になっているはずだ。
自分が誰かに好きになられた理由。
普通なら嬉しいものなのだろうか。
アマリリアにはよく分からない。
もしライルから、「君を好きになった理由を話す」と言われたら、どうするだろう。
「……」
手元の本を見たまま、アマリリアの指が止まった。
聞きたい。
かなり。
けれど、実際に聞いたらおそらくまともに顔を見ていられない。
「アマリリア様?」
「何です?」
隣の令嬢から声をかけられ、我に返る。
「先ほどから、同じ行をずっとご覧になっておりますけれど」
「……少し考え事をしておりました」
「殿下のことですか?」
「なぜ分かりますの?」
「お顔が」
「……」
最近、本当にこればかりである。
以前はもっと隠せていたはずなのに。
多分。
「違います」
「そうですか」
「ええ」
「では、そういうことにしておきます」
「信じておりませんわね?」
「いいえ?」
口元が笑っている。
絶対に信じていない。
そんなところで昼休みを告げる鐘が鳴り、教室の空気が一気に緩んだ。
生徒たちが昼食の準備を始める中、教室の入口が少しざわつく。
アマリリアは見なくても何となく分かった。
「アマリリア」
やっぱりだった。
「殿下」
「来た」
「見れば分かります」
「約束したから」
「ええ」
「レティシア嬢は?」
「なぜ私へ聞くのです?」
「一緒じゃないの?」
「同じ教室ではございません」
「そっか」
アマリリアは目を細めた。
「まさか殿下、私とレティシア様が昨日一日で、常に一緒に行動するほど仲良くなったと思っております?」
「朝の感じだと」
「なっておりません」
「でも」
「なっておりません」
「分かった」
なぜそこを強く否定したくなるのか、自分でもよく分からない。
嫌いではない。
むしろ、また話してもいいと思う。
けれど「友人」と呼ぶには、まだ少し早い気がした。
「殿下、昼食は?」
「持ってきた」
「でしたら、中庭へ参りましょう。ただし、レティシア様がいらっしゃらなければ、このお話はいたしません」
「分かってる。本人の話だから」
すぐに返ってきた答えに、アマリリアは少しだけライルを見た。
「何?」
「いえ」
こういうところなのだ。
自分自身に関わる話で、しかも気になっている。
それでも、レティシアの話だから、本人の了承なしには聞かない。
ライルにとっては当たり前のことなのだろう。
けれど、その「当たり前」を誰かが見ている。
そして。
好きになる。
「殿下」
「何?」
「本当に、そういうところですわ」
「また?」
「またです」
「何が?」
「秘密です」
「今日聞く話に関係ある?」
「少し」
「じゃあ教えて」
「嫌です。殿下が調子に乗るからです」
「乗らない」
「信用できません」
「昨日は信用してくれたのに」
「それとこれとは別です」
「便利だな、それ」
「便利です」
二人で教室を出ると、廊下の少し先、窓辺にレティシアが立っていた。
どうやら待っていたらしい。
「アマリリア様」
「レティシア様」
「ライル殿下も、こんにちは」
「こんにちは」
ライルの返事には、僅かに緊張が混じっていた。
アマリリアは見逃さない。
「殿下」
「何?」
「緊張しております?」
「してない」
「しておりますわね」
「してない」
レティシアが少し笑った。
「殿下でも緊張なさるのですね」
「……二人とも、何で急に俺に強くなった?」
アマリリアとレティシアは一瞬顔を見合わせる。
「昨日のお話を聞いたからでしょうか」
レティシアが答え、アマリリアも「多分」と頷いた。
「何の話なんだよ……」
「それを今から聞くのでしょう?」
「そうだけど」
「では、参りましょう」
アマリリアは中庭へ続く階段へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
昼休みの中庭は、天気の良さもあって普段より少し人が多かった。
芝生へ腰を下ろして昼食を取る生徒、木陰の長椅子を使う者、噴水の周囲で友人と話す者。第一王子であるライルも一緒なのだから、完全に人目のない場所を選ぶ方がかえって不自然である。
三人は中庭の端にある大きな木の下へ移動した。
アマリリアとレティシアが長椅子へ座り、ライルはその向かいの低い石壁へ腰を下ろす。
ここなら人目はあるが、普通の声量で話している限り、周囲まで内容は届かないだろう。
ところが、いざ座ると。
誰も話さなかった。
木々の葉が風に揺れる音と、少し離れた場所で昼食を取る生徒たちの笑い声だけが聞こえてくる。
先に耐えきれなくなったのは、アマリリアだった。
「殿下」
「何?」
「聞きたかったのでしょう?」
「うん」
「では」
「いや」
ライルが少し困った顔をする。
「改めてこうなると、恥ずかしくない?」
「私は昨日もう恥ずかしかったです」
レティシアが淡々と答える。
「俺は今日初めてなんだけど」
「では、今日は殿下の番ですね」
アマリリアが言うと、ライルがこちらを見る。
「何で楽しそうなの?」
「少しだけです」
「やっぱり楽しんでる」
「昨日、私も色々困りましたので」
「仕返し?」
「違います」
「今の間は?」
「気のせいです」
レティシアが小さく笑い、そのおかげでライルも少し肩の力を抜いた。
「じゃあ」
ライルはレティシアを見る。
「聞いてもいい?」
「はい」
今度は、レティシアの表情が僅かに緊張した。
昨日アマリリアへ話した時とは違う。
今は、その出来事の中心にいた本人が目の前にいる。
それでもレティシアは逃げず、膝の上で重ねていた指先を一度だけ握り直してから口を開いた。
「六年前の春の祝宴を覚えていらっしゃいますか?」
「昨日、アマリリアから少しだけ聞いた」
「足の不自由な伯爵令嬢がいらした時のことです」
「うん」
「私たちが先へ歩いてしまった時、殿下がその方の隣へ行き、歩調を合わせてくださったこと」
「何となく」
「そのあと」
レティシアが一度、息を整える。
「私へ『気づいてたよね』と仰ったことです」
ライルの眉が寄った。
「……言った?」
「仰いました」
「俺が?」
「はい」
「そんな言い方で?」
「ほぼ、そのままでした」
ライルは本気で記憶を探っているようだった。
レティシアはその顔を少しだけ見つめ、やがて静かに笑う。
「ご記憶にございません?」
「ぼんやり」
「まあ」
そこに、少しだけ寂しさが混じった。
けれど同時に、どこか予想していたような顔でもあった。
「私は、ずっと覚えておりました」
その一言で、ライルの表情から少しだけ笑みが消えた。
「ごめん」
「なぜ謝るのです?」
「いや。俺にとって、そこまで覚えてるようなことじゃなかったみたいだから」
「殿下にとっては、その程度のことだったのでしょう?」
「その程度っていうか」
ライルはしばらく考えた。
「多分、普通にしただけだったんだと思う。遅れてる人がいたから、その隣を歩いた。それだけで」
アマリリアは、その横顔を静かに見る。
やっぱり。
本人は、そう思っている。
善行をしたつもりも。
誰かに褒めてもらうつもりも。
なかったのだ。
「私が気づいていたことも?」
レティシアが尋ねる。
「多分、顔に出てたんじゃない?」
「顔に?」
「うん」
「十二歳の私ですけれど」
「だからじゃない?」
レティシアが少し笑った。
「そのあと、私へ『次は待てばいい』と仰いました」
ライルがまた止まる。
「俺、それも言った?」
「はい」
「……ちょっとだけ、思い出した気がする」
「本当に?」
「言われたから、そういう気がしてるだけかも」
正直な答えだった。
レティシアはしばらくライルを見つめていた。
そして。
「やっぱり」
「何?」
「好きになってよかったと思います」
今度こそ、ライルが完全に固まった。
同時に。
アマリリアの胸へも、小さな痛みが走る。
やっぱり。
嫉妬する。
「レティシア嬢」
「はい」
「それ、本人の前で言う?」
ライルの耳が僅かに赤い。
「昨日、アマリリア様から正直に話すことを学びました」
「アマリリア」
「私のせいにしないでくださいませ。殿下へ直接告白するよう教えた覚えはございません」
「告白ではございません」
レティシアはすぐに否定した。
ライルが彼女を見る。
レティシアは胸元へ軽く手を添えた。
「私は、今も殿下をお慕いしております」
一瞬、アマリリアの胸の奥がまた揺れた。
けれど昨日ほど驚かない。
もう知っている。
それでも、本人を前にして聞けば、やはり少し痛い。
「ですが、この気持ちを殿下に受け取っていただきたいとは思っておりません」
ライルは黙って聞いている。
「私は、自分が好きなのが、あの日の殿下なのか。第一王子としての殿下なのか。それとも、今のライル殿下ご本人なのか、まだ分からないのです」
レティシアはそこで一度アマリリアへ視線を向けた。
「ですから昨日、アマリリア様へそのことをお話しいたしました」
ライルもアマリリアを見る。
助けを求めているわけではない。
本当にそうなのかを確認するような目だった。
「本当です」
アマリリアが小さく頷くと、ライルは「そっか」と呟き、少し考えるように視線を落とした。
すぐには答えない。
レティシアも急かさない。
アマリリアも口を挟まずに待った。
やがてライルは、もう一度レティシアを見る。
「ありがとう」
今度はレティシアが目を大きくした。
「何に対してでしょう?」
「俺のことを、そんなふうに覚えていてくれたこと」
ライルは少しだけ困ったように笑う。
「それと、ちゃんとアマリリアに話してくれたこと」
「……」
「俺は、レティシア嬢の気持ちには応えられない」
「はい」
「それは」
ライルは迷わずアマリリアを見る。
「アマリリアが好きだから」
「……殿下」
また。
ここは学園で。
周囲には普通に生徒がいるのに。
何の躊躇いもなく言う。
アマリリアの顔へ熱が集まった。
「でも、レティシア嬢が俺を好きだったことまで、間違いだったみたいにはしたくない」
レティシアは静かに聞いている。
「六年前の俺が何を考えてたかは、正直あんまり覚えてない。そんな立派なことをしたつもりもない」
「はい」
「でも、それでレティシア嬢が何かを変えられたなら」
ライルは、自分でもどう言えばいいのか分からないように少しだけ眉を下げた。
「昔の俺も、悪くなかったのかな」
レティシアの目が僅かに揺れた。
「悪くございませんでした」
「そっか」
「はい」
しばらく。
三人の間へ穏やかな沈黙が落ちた。
風が大きな木の葉を揺らし、斑になった陽射しが地面の上でゆっくり動く。少し離れた場所では生徒たちの笑い声が聞こえ、昼休みの時間だけは何事もなかったように流れていた。
ライルはかなり恥ずかしいのだろう。
耳がまだ赤い。
だがアマリリアは、今の照れ方が普段とは少し違うことに気づいていた。
王子として能力を褒められること。
剣や学問の成績を評価されること。
王族として立派だと言われること。
そういうものには、おそらく昔から慣れている。
けれど。
十二歳の自分が何気なくしたことを、六年もの間誰かが大切に覚えていた。
その行動そのものを「好きになった理由」として渡された。
それは、ライルにとって全く違う種類の褒め言葉なのかもしれなかった。
レティシアも少し目元を潤ませている。
このままでは空気が重くなりそうだったので、アマリリアはわざと平静な声で口を開いた。
「殿下」
「何?」
「お顔が赤いです」
「今言う?」
「はい」
「何で?」
「少し空気が重くなりましたので」
「だからって」
レティシアが小さく笑った。
「本当ですね」
「レティシア嬢まで」
「申し訳ございません」
「絶対思ってないだろ」
「少しは思っております」
「少しなんだ……」
それで、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
けれどアマリリアの胸には、先ほどの会話がまだ残っている。
レティシアの気持ちを否定しないライル。
それ自体は、間違っていない。
アマリリアだって、そう思う。
でも。
少し嫌だった。
それを今、言っていいのだろうか。
レティシアがいる。
傷つけないだろうか。
アマリリアが迷っていると、ライルが気づいた。
「アマリリア」
「何です?」
「何かある?」
レティシアもこちらを見る。
誤魔化すことはできた。
けれど最近は、自分の感情を必要以上に隠さないと決めている。
「少しだけ」
アマリリアはゆっくり口を開いた。
「嫌でした」
ライルの表情が変わる。
「何が?」
「殿下が、レティシア様のお気持ちそのものを大切に扱われたことです」
「……」
「間違っているとは思いません」
アマリリアは一度、自分の胸元へ手を置いた。
「レティシア様のお気持ちを否定せず、それでも応えられないことをきちんとお伝えになる。それは、とても殿下らしいと思います」
「うん」
「ですが」
少しだけ。
言いづらい。
それでも、逃げない。
「好きな方が、別の女性の恋心を丁寧に扱っているところを見るのは、少し嫌です」
ライルは数秒、何も言わなかった。
それから。
「そっか」
「はい」
「ごめん」
「ですから、謝ってほしいわけではございません」
「じゃあ」
「嫌だっただけです」
「……」
「嫉妬しておりますので」
そこで、ライルの口元が僅かに緩んだ。
「喜ばないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「お顔です。嬉しそうです」
「……少し」
「殿下」
「ごめん」
今度はレティシアが少し俯いた。
肩が震えている。
「レティシア様?」
「申し訳ございません」
「何がです?」
顔を上げたレティシアは、やはり笑っていた。
「少し、お二人らしいと思ってしまって」
「どこがです?」
「嫌だったと正直に仰るアマリリア様と、それを聞いて嬉しそうになさる殿下が」
「嬉しそうじゃ――」
「嬉しそうでした」
アマリリアが即答する。
ライルは諦めたように肩を落とした。
「はい」
「認めましたわね」
「だって、君が俺を好きだから嫉妬してるんだろ?」
「そうですけれど」
「嬉しい」
「……」
真っ直ぐ言うのはずるい。
「殿下、人がいます」
「小声だから」
「そういう問題ではございません」
「アマリリア様」
レティシアが静かに声を挟んだ。
「何でしょう?」
「私、やはりお二人を見ていると安心いたします」
「安心?」
「はい」
少し寂しそうな笑み。
「私が何かをしても、殿下のお気持ちが私へ向くことはないのだろうと」
アマリリアもライルも、すぐには何も言えなかった。
「それは少し寂しいです」
レティシアは正直に続ける。
「でも、同じくらいほっとしております」
「なぜです?」
アマリリアが尋ねると、レティシアはゆっくり首を横へ振った。
「諦めなければならないから、ではありません。自分の気持ちを、誰かと争うためのものにしなくてよいからです」
その言葉に、アマリリアは少し目を細めた。
「昨日までは、殿下を好きでいること自体が、アマリリア様へ悪いことをしているように感じておりました」
「……」
「でも今は、この気持ちは私の中にあってもいいのだと思えます。殿下へ押しつけることも、アマリリア様を退けることもしない。それでも、なかったことにする必要はないのだと」
レティシアは一度、胸元へ視線を落とした。
「いつか、殿下を好きだったことを過去のこととして笑って話せる日が来るかもしれません。来ないかもしれません。でも、それはその時に考えます」
アマリリアは昨日、セレーネから言われた言葉を思い出した。
感情は、そんなに綺麗に一つずつ分けられるものではない。
何と呼ぶかは、後から決めればいい。
「レティシア様」
「はい」
「昨日より」
少しだけ迷って。
けれど言う。
「好きになりました」
「……」
レティシアが完全に止まった。
ライルも止まった。
「アマリリア?」
「何です?」
「今」
「殿下ではございません」
「分かってる」
「では何です?」
「いや……恋敵に好きって言う婚約者って何?」
「私にも分かりません」
レティシアが少し笑った。
「私も、昨日よりアマリリア様が好きです」
「……レティシア様」
「友人として、という意味です」
「まだ友人ではございません」
「では」
レティシアは少し考えた。
「友人になりたい人として」
その言い方は。
少しずるい。
アマリリアは僅かに視線を逸らした。
「……考えておきます」
「はい」
「嫌ではありません」
「ありがとうございます」
「まだ決めておりませんからね?」
「はい」
レティシアは嬉しそうに笑った。
その表情を見ていると、アマリリアも少し笑ってしまう。
そして、ふと向かいを見る。
ライルが何とも言えない顔をしていた。
「殿下?」
「何?」
「どうなさいました?」
「いや。俺のこと好きだった人と、俺の婚約者が」
「はい」
「俺を挟んで仲良くなってる」
「まだです」
「まだ友人ではございません」
二人の声が同時に重なる。
ライルはますます複雑そうな顔になった。
「絶対もう仲いいだろ」
「違います」
「違います」
「ほら」
また重なった。
アマリリアとレティシアは顔を見合わせ、数秒だけ耐えた。
でも。
結局。
二人とも笑った。
少し遅れて、ライルも笑った。
◇◇◇
昼食を終えたあと、三人は中庭から校舎へ戻るため並んで歩いていた。
ただし、その並び方が少し妙だった。
中央にアマリリア。
右にライル。
左にレティシア。
なぜ自分が真ん中なのだろう。
「殿下」
「何?」
「少し離れてくださいませ」
「何で?」
「歩きにくいです」
「そんな近い?」
「近いです」
アマリリアが少し右へ寄れば、ライルも同じだけ寄ってくる。
「なぜついてくるのです?」
「婚約者だから?」
「疑問形にしないでくださいませ」
反対側からレティシアの小さな笑い声が聞こえた。
「レティシア様」
「はい」
「笑っております?」
「少し」
「最近、皆様私へ正直すぎません?」
「アマリリア様の影響です」
「私が悪いのです?」
「良いことだと思います」
「でしたら……まあ、よろしいですけれど」
校舎の入口へ近づいたところで、レティシアは別の教室へ向かうため足を止めた。
「では、私はここで」
「ええ」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
レティシアはライルへも向き直る。
「殿下も、ありがとうございました」
「俺?」
「はい」
「何かした?」
「お話を聞いてくださったので」
「それくらい――」
言いかけて。
ライルが止まる。
アマリリアとレティシアが、ほとんど同時に彼を見る。
「……何?」
ライルが少し警戒した。
「いえ」
アマリリアは笑う。
「そういうところです」
「また?」
「またです」
レティシアも少し笑った。
「私も、そう思います」
「二人でそれ言うのやめない?」
「難しいですわね」
「難しいですね」
「ほら、仲いい」
「まだです」
「まだです」
また声が重なった。
今度こそレティシアが声を立てて笑う。
「それでは、また」
「ええ。また」
アマリリアも僅かに手を上げる。
レティシアが廊下の向こうへ離れていく背中を、アマリリアは少し長く見送った。
「アマリリア」
「何です?」
「友達になりそう?」
「……多分」
「そっか」
「何です、その顔」
ライルは少し嬉しそうだった。
「よかったなって」
「なぜ殿下が?」
「君、前より色んな人と話せるようになったから」
アマリリアの歩みが少しだけ遅くなる。
「昨日も、俺がいないところでちゃんとレティシア嬢と話して戻ってきた。今日も、嫌だったことをちゃんと言えた」
「……」
「だから、よかった」
ライルは何でもないことのように言った。
けれどアマリリアの胸には、その言葉が静かに残った。
成績がいい。
礼法ができる。
何でも一人でこなせる。
そういう部分ではなく。
人と話せたこと。
嫌だったことを言えたこと。
そこを見て。
よかったと言ってくれる。
「殿下」
「何?」
「昨日、レティシア様から十二歳の殿下のお話を伺って」
「うん」
「少しだけ……」
言うか迷った。
だが。
これは言ってもいい気がした。
「昔の殿下も、好きになりました」
ライルの足が止まった。
「……え?」
言ってから、アマリリア自身も言葉の意味に気づいた。
顔が一気に熱くなる。
「違います」
「何が?」
「違わないですけれど」
「どっち?」
「今のは、十二歳の殿下の行動も素敵だったという意味です!」
「……」
「何です?」
ライルの耳まで、また赤くなっている。
「今日」
「はい?」
「褒められすぎて、どうしていいか分からない」
アマリリアは少し目を瞬いた。
「殿下でも、そのようになるのですね」
「なるよ」
「第一王子なのに?」
「関係ないだろ」
ライルは困ったように眉を寄せた。
「王子として褒められるのとは違うんだよ」
「違う?」
「学問とか、剣とか、公務とかなら、何を返せばいいか分かる。ありがとうって言えばいいし、もっと頑張ろうと思えばいい」
「ええ」
「でも」
一度、少しだけ視線を逸らす。
「自分でも覚えてないような昔のことを、六年も覚えてたって言われて。それが好きになった理由だったって言われて」
「……」
「さらに君からまで、昔の俺も好きって言われたら」
ライルは耳を赤くしたまま、小さく息を吐いた。
「どうすればいいのか分からない」
アマリリアは少しだけ黙った。
それから。
笑った。
「でしたら、慣れてくださいませ」
「何に?」
アマリリアは一度、言葉を止めた。
けれど。
最後まで言う。
「私が、これからも殿下の好きなところを見つけることに」
今度こそ。
ライルが完全に固まった。
そしてアマリリアも、自分が何を言ったのか理解した。
周囲には普通に生徒がいる。
「……」
「……」
「アマリリア」
「何です?」
「今の」
「忘れてくださいませ」
「嫌だ」
「殿下」
「絶対忘れない」
「では少なくとも今は何も言わないでくださいませ!」
「何で?」
「顔が熱いからです!」
少しだけ声が大きくなり、近くを歩いていた生徒が何人かこちらを見た。
余計に恥ずかしい。
「分かった」
ライルは笑っている。
「笑わないでくださいませ」
「嬉しくて」
「それも言わないでください」
「分かった」
全然隠せていない。
アマリリアは少し早足になって教室へ向かう。
ライルも隣についてくる。
けれど今度は、アマリリアが歩く速度へ自然に歩調を合わせていた。
そのことへ気づいた瞬間。
六年前。
足の悪い令嬢の隣を歩いた十二歳の少年が、頭の中へ浮かんだ。
今。
その少年は大きくなって。
自分の隣を歩いている。
「……殿下」
「何?」
「何でもございません」
「そっか」
今度は聞かない。
待つ。
それもまた。
好きなところの一つだ。
でも。
今は言わない。
さっき言ったばかりだから。
アマリリアは、ほんの少しだけ笑った。
◇◇◇
その日の放課後。
アマリリアは王妃教育を受けるため、ライルとともに王宮へ向かう馬車へ乗っていた。
窓の外には午後の柔らかな陽射しが広がり、王都の通りを行き交う人や馬車の影が石畳へ長く伸びている。
向かいへ座るライルは、なぜか時々アマリリアを見る。
一度。
二度。
三度。
「殿下」
「何?」
「先ほどから何です?」
「別に」
「三回目です」
「数えてた?」
「気になりますので」
ライルは少し迷ったあと、身体を僅かに前へ傾けた。
「じゃあ、一個聞いていい?」
「内容によります」
「俺の好きなところって」
「……」
嫌な予感がする。
「何個ある?」
「殿下」
「何?」
「調子に乗っております?」
「乗ってない」
「では、なぜ聞くのです?」
「気になった」
「お答えしません」
「何で?」
「恥ずかしいからです」
「でも今日、これからも見つけるって言った」
「……」
当然。
覚えている。
「殿下、忘れてくださいと申し上げました」
「嫌だって言った」
「……」
「だから、一個だけ」
「嫌です」
「一個」
「嫌です」
「じゃあ、俺が先に言う」
アマリリアの動きが止まった。
「何を?」
「アマリリアの好きなところ」
「殿下」
「何?」
「やめてくださいませ」
「何で?」
「今、馬車です」
「二人しかいない」
「御者がおります」
「前だよ」
「護衛もおります」
「外」
「そういう問題ではございません!」
ライルが楽しそうに笑う。
「じゃあ、王宮へ着いてから?」
「もっと嫌です!」
「なら今」
「嫌です!」
ここまで来て。
アマリリアは気づいた。
多分、この人。
今日。
かなり恥ずかしかったのだ。
昔の自分をレティシアから褒められ、どう受け取ればいいか分からず。
さらにアマリリアからまで褒められ続けた。
だから今、少しだけ仕返しをしようとしている。
「殿下」
「何?」
「性格が悪いです」
「知ってる」
「そこは好きなところではございません」
「じゃあ他にある?」
「……」
しまった。
ライルの目が少し輝く。
「あるんだ」
「殿下」
「今のはアマリリアが悪い」
「忘れてくださいませ」
「嫌だ」
昨日から何度、同じやり取りをしているのだろう。
アマリリアは少し頬を膨らませ、窓の外へ顔を向けた。
向かいでは、ライルがまだ笑っている。
けれど。
しばらくして。
その声が少しだけ柔らかくなった。
「アマリリア」
「何です?」
「今日はありがとう」
アマリリアも窓から視線を戻す。
「何がです?」
「レティシア嬢の話」
「私は何もしておりません」
「俺一人だったら、多分もっと困ってた」
「そうでしょうね」
「否定しないんだ」
「実際、かなり困っておりましたので」
「……うん」
ライル自身も認めるらしい。
「でも」
アマリリアは少しだけ笑った。
「きちんとお話しできておりました」
「そう?」
「ええ」
「変じゃなかった?」
「少し」
「変だった?」
「照れておりました」
「それは仕方ないだろ」
「ですが」
アマリリアは向かいのライルをまっすぐ見る。
「素敵でした」
また。
ライルが止まった。
「……」
「何です?」
「やっぱり慣れない」
頬が少し赤い。
その姿を見ながら、アマリリアは今日の出来事を思い返した。
昨日、レティシアから六年前にライルを好きになった理由を聞いた。
今日、その話を本人も聞いた。
恥ずかしそうに困って。
それでも逃げずに受け取った。
誰かの気持ちを否定せず。
そのうえで、今選んでいる相手が誰なのかを曖昧にしなかった。
そして。
アマリリアが「嫌だった」と言えば。
否定もせず。
笑い飛ばしもせず。
聞いた。
それを見て。
また少し。
好きになる。
困る。
本当に。
毎日増えている。
「殿下」
「何?」
「慣れなくてもよろしいのでは?」
「え?」
「その方が」
アマリリアは少しだけ笑った。
「褒め甲斐がございますので」
ライルはしばらく何も言えなかった。
数秒後。
窓の外へ顔を向ける。
「殿下?」
「何でもない」
「耳が赤いです」
「見ないで」
「まあ」
今度は、アマリリアが笑う番だった。
王宮へ向かう馬車は、午後の柔らかな陽射しの中をゆっくりと進んでいく。
昨日まで、レティシアという存在はアマリリアにとって不安の種だった。
けれど今日。
その人と友人になれるかもしれないと思った。
ライルもまた、自分が六年前に誰かへ与えた優しさを、初めて本人の言葉として受け取った。
過去は変わらない。
六年前にレティシアがライルを好きになったことも、今もまだその気持ちが残っていることも、無理に消す必要はない。
それでも。
今。
ライルの隣にいるのはアマリリアだ。
そのことを、昨日よりもう少し自然に信じられるようになっていた。
◇◇◇
王宮へ到着すると、アマリリアとライルはそのままセレーネが待つ王妃教育用の小応接室へ向かった。
扉を開けたアマリリアは、すぐに今日の教材が昨日までとは違うことへ気づいた。
机の上には衣装見本も、茶会の招待客一覧もない。
代わりに並んでいるのは、何通もの封書と、小さな木箱、薄い布で丁寧に包まれた贈答品らしきものだった。
「王妃様」
「いらっしゃい、アマリリアさん。ライルも一緒なのね」
「今日は何のお勉強です?」
アマリリアが机の上を見ると、セレーネは楽しそうに一枚の封書を持ち上げた。
「正式婚約後に届き始めた、祝い状と贈答品への対応よ」
「祝い状?」
「ええ。婚約発表直後は王家側で大半をまとめていたけれど、これからはあなた個人へ届くものも増えるわ」
「私個人へ?」
「第一王子の正式な婚約者になったのだから、当然でしょう?」
アマリリアは並べられた品々へ改めて目を向けた。
祝い。
贈り物。
一見すれば。
善意。
好意。
祝福。
昨日までの自分なら。
それらを最初から疑う方が簡単だったかもしれない。
しかし昨日、レティシアと向き合った。
誰かが自分たちへ感情を向けているからといって、それだけで悪意だと決めつけてはいけない。
そう学んだばかりだった。
ところが。
「ちなみに」
セレーネは一つの小箱へ指を添え、先ほどより少しだけ表情を改めた。
「婚約者個人へ贈られる品には、純粋なお祝いだけではなく、別の意図が混ざることもあるわ」
アマリリアの目が僅かに細くなる。
「別の意図?」
「あなたへ取り入りたい家。王家との関係を作りたい商会。あなたを通してライルへ近づきたい人。贈り物を受け取らせたあとで、『王家と親しい』と周囲へ吹聴したい者もいるでしょうね」
「……なるほど」
「それから」
セレーネは別の封書へ目を向ける。
「善意と打算が、最初から混ざっている場合もあるわ」
「混ざっている?」
「純粋に婚約を祝っている。けれど、できれば自分の家も覚えてほしい。あなたへ好感を持っている。けれど、将来何かあった時には便宜を図ってほしい」
「……」
「人の感情は、そんなに綺麗に一つではないでしょう?」
昨日。
同じようなことを。
別の話で聞いた。
嫉妬しながら相手を嫌いではないこともある。
好きだからこそ距離を置くこともある。
今度は。
善意の中へ打算が混ざる。
「王妃様」
「何?」
「昨日は、人の好意を最初から疑う必要はないと学んだ気がするのですが」
「ええ」
「今日は、好意に見えるものをそのまま信じるなと?」
「そうね」
「……」
アマリリアは額へ手を当てた。
「人付き合いというものは」
「何?」
「やはり、随分面倒ですわね」
隣でライルが小さく笑った。
「何です?」
「いや」
「笑いました?」
「少し」
「何がおかしいのです?」
ライルは一度だけセレーネの机へ視線を向け、それからアマリリアを見る。
「面倒って言いながら、ちゃんと全部考えようとしてるから」
「……」
「前の君だったら」
少し言葉を選ぶ。
「怪しい物は全部拒否、で終わらせてなかった?」
「否定できません」
「だろ?」
「ですが、今でも怪しいものは拒否いたします」
「それはそう」
「黒装束も」
「出すな」
「まだ何も」
「絶対出す流れだった」
セレーネがとうとう笑った。
「二人とも、授業を始めてもいいかしら?」
「王妃様」
「何?」
「殿下が邪魔を」
「アマリリア」
「何です?」
「今のは君も半分くらい」
「……」
「ほら」
「では半分ずつです」
「認めた」
アマリリアは小さくため息をついた。
けれど。
嫌ではない。
昨日までとは違う種類の「人の好意」と向き合うことになる。
善意。
祝福。
期待。
打算。
そのどれか一つだけとは限らない。
そして。
混ざっているからといって、すべて悪いわけでもない。
正式な婚約者になったからこそ、これから先はライルとの関係だけを見ていればいいわけではなくなる。
アマリリア自身へ向けられる感情や期待も。
王家の一員となる可能性を見据えて近づいてくる者の思惑も。
一つずつ見て。
考えて。
自分で判断しなければならない。
その日の王妃教育でアマリリアが学ぶことになるのは、誰かを疑う方法ではなかった。
誰かを無条件に信じる方法でもない。
好意に見えるものを最初から悪意と決めつけず。
それでも。
中に何が混ざっているのかを、落ち着いて見極めること。
レティシアとの出会いを通してようやく覚え始めた「まず相手を見る」というやり方を。
今度はもっと複雑な王宮の人間関係の中でも使っていくことになる。
そしてアマリリアはまだ知らなかった。
机の上へ並べられた祝い状の中に。
ライルでもなく。
王家でもなく。
第一王子の正式な婚約者となった「アマリリア・ベスター個人」へ向けて。
あまりにも率直な期待を書き連ねた一通が混ざっていることを。




