第36話 殿下をお慕いしている令嬢と会う前から嫉妬するのは嫌なので、まずは普通にお話しすることにしました
王宮主催の若手貴族たちによる親睦茶会を翌日に控えた午後、アマリリアは学園の図書室で一人、開いた本を前にしたまま、しばらく同じ頁から先へ進めずにいた。
窓の外には、春の終わりを感じさせる明るい青空が広がっている。昼休みを終えたばかりの校舎には、次の授業へ向かう生徒たちの足音や話し声が遠く響き、開け放たれた窓からは少し暖かさを含んだ風が流れ込んでいた。その風が机の上へ置いた紙の端をふわりと持ち上げるたび、アマリリアは一度だけ視線を向けるのだが、すぐにまた本へ戻ってしまう。
もっとも、本へ目を戻しているだけで、内容を読めているわけではなかった。
いつものアマリリアなら、この程度の雑音や風で集中を乱されることなどない。学年主席として成績を維持してきた彼女にとって、周囲が多少騒がしかろうと、必要な情報だけを拾って頭へ入れることは難しくなかった。授業と授業の間に参考書を数頁読み進める程度なら、むしろ気分転換に近い。
ところが今日は、文字が目には入っているのに意味がほとんど頭へ残らない。同じ一文を三度読み返したところで、アマリリアはとうとう諦めるように小さく息を吐いた。
原因は分かっている。
レティシア・フォン・クラウゼン。
十八歳。クラウゼン侯爵家の令嬢であり、ライルと同い年。以前から王宮の夜会や催しへ何度も参加しており、第一王子へ長く好意を抱いているという話がある。
それだけなら、昨日の時点ですでに聞いていた。
ライル本人も、彼女とは過去に何度か夜会で会話したことがあると認めている。それどころか、アマリリアが少し意地の悪い質問をした時も、ライルはほとんど迷わなかった。
『婚約発表前なら、可能性はあった?』
『ない』
今思い返しても、答えるまでにほとんど間はなかった。
なぜなのかと尋ねれば、『君がいたから』と返された。正式な婚約になるより前、二人の関係がまだ仮という名前を残していた頃から、途中ではもう他の相手を考える気はなかったとも言われた。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥に小さな温かさが広がる。
だから、不安になる必要はない。
ライルを信用している。
昨日、自分自身の口でそう伝えた。その言葉に嘘はないし、言ったあとで後悔もしていない。むしろ、自分が誰かへ向かって「信用している」とこんなにも自然に言えたことを、あとから少し不思議に思ったほどだった。
それなのに。
「……気になりますわね」
誰に聞かせるでもなく呟くと、自分の声が思っていた以上に素直だったことに、アマリリアは少しだけ眉を寄せた。
信用していることと、気にならないことは、どうやら同じではないらしい。
ライルが自分を選んでいると分かっていても、彼を好きだという女性が明日、目の前へ現れる。その相手がどんな顔をして、どんな声で、どんなふうにライルを見るのか。逆に、ライルがどんな顔でその相手と話すのか。
想像すると、胸の奥に小さな棘のような感覚が生まれた。
痛いほどではない。怖いわけでもない。それでも、自分以外の誰かがライルへ恋愛感情を向けているという事実は、やはり少し嫌だった。
その感情を認められるようになったこと自体が、アマリリアにとっては大きな変化なのかもしれない。
以前なら、この程度の感情は不要なものとして切り捨てようとしただろう。事実だけを確認し、必要な対策だけを考えればいいと思っていたはずだ。
レティシアがライルへ危害を加える可能性はあるのか。正式婚約を妨害する意図があるのか。クラウゼン侯爵家が政治的に何か動いているのか。その三点だけを調べ、問題がなければ終わり。問題があるなら対処する。
必要なら黒装束を用意して、必要なら夜に侯爵家へ――。
「……いけませんわ」
そこまで考えて、アマリリアは額へ手を当てた。
あまりにも自然に、昔の発想へ戻りかけていた。
昨日、ライルから「自分が嫌だからという理由だけで動かなくなった」と褒められたばかりである。その翌日に、まだ会ってすらいない侯爵令嬢を黒装束で調査し始めたら、さすがに台無しだった。
もちろん、実行するつもりはない。
ないのだが、最初の選択肢として頭へ浮かんでしまう辺り、過去の習慣というものはなかなか消えてくれないらしい。
「人を好きになるというのは、随分と面倒ですのね」
「何が面倒なのです?」
「――っ」
すぐ近くから声が落ちてきて、アマリリアは珍しく肩を揺らした。
反射的に振り向けば、数冊の本を胸へ抱えたルシアが立っている。驚かせるつもりなどなかったのだろう。本人の方が、アマリリアの反応を見て少し目を丸くしていた。
「ルシアさん」
「申し訳ございません。驚かせました?」
「……少しだけです」
「珍しいですね。アマリリア様が、ここまで近づいても気づかれないなんて」
「考え事をしておりましたので」
「殿下の?」
「なぜ即座に殿下だと思いましたの?」
問い返すと、ルシアは困ったように笑った。
「最近のアマリリア様が考え込んでいらっしゃる時は、かなりの確率で殿下のことですから」
「……」
反論しようとして、やめた。
ここ数日の自分を思い返す。
六つ目。五つ目。抱擁。初デート。茶会。レティシア。
確かに、ほとんどライルに関係することばかりである。
「否定できませんわ」
「素直ですね」
「最近、皆様から分かりやすくなったと言われますので、今さら取り繕っても仕方ございません」
「私は、いいことだと思います」
「それも皆様から言われます」
アマリリアが苦笑すると、ルシアも小さく笑った。
彼女は向かい側の椅子へ腰を下ろし、抱えていた本を音が立たないよう机へ置いた。図書室なので大きな声は出せない。少し離れた机では上級生らしい二人が本を読んでおり、貸出机では司書が書類を整理している。ここで第一王子の恋愛事情について大声で話し始めれば、それこそ明日の朝には学園中へ広まりかねなかった。
「明日の茶会のことです?」
「ええ」
「レティシア様?」
「……」
「当たりですね」
「ルシアさんまで、人の顔を読むのがお上手になっておりません?」
「アマリリア様が分かりやすくなられただけかもしれません」
「それ、最近一番聞きたくない言葉ですわ」
二人はまた声を抑えて笑った。
そのあと、アマリリアは一度周囲へ目を向け、先ほどより少しだけ声を落とした。
「ルシアさんは、レティシア様とお話ししたことがございます?」
「直接は二度ほどあります。どちらも大人数の茶会でしたので、それほど長くお話ししたわけではありませんけれど」
「どのような方です?」
「気になります?」
「気になります」
今度は迷わず認めた。
その答えが意外だったのか、ルシアの目が少し大きくなる。
「何です?」
「いえ。以前のアマリリア様なら、『事前情報として確認しておきたいだけです』と仰りそうだと思いまして」
「……私も今、それを言おうか少し考えました」
「やっぱり」
「ですが」
アマリリアは自分の胸元へ軽く手を当てた。
「今回は、普通に気になります」
「殿下をお好きな方だから?」
「ええ」
口にすると、やはり胸の奥が少し落ち着かない。
それでも、その感情を認めることへの抵抗は昨日より小さくなっていた。
「嫉妬でしょうね」
「ご自分で言えるのですね」
「言えるようになりました」
「すごいです」
「そこは褒めるところですの?」
「少なくとも、いきなり黒装束を着るよりは」
「ルシアさん」
「はい」
「殿下から何か聞きました?」
「何も伺っておりません」
「本当に?」
「どうしてです?」
「昨日、殿下にも似たようなことを言われましたので」
「でしたら、皆様の共通認識なのでは?」
「……」
非常に不本意だった。
ただし、否定できるだけの材料もない。
アマリリアは一度小さく咳払いをし、話題を戻した。
「それで、レティシア様は?」
「礼儀正しい方です」
「ええ」
「少なくとも私がお話しした時は、相手の家格によって露骨に態度を変えるようなこともありませんでした。それに、かなりはっきりものを仰る方だったと思います」
「はっきり?」
「失礼という意味ではありません。曖昧に誤魔化したり、相手に察してもらおうと遠回しに言ったりするのが、あまりお好きではないというか」
アマリリアは少し考えた。
礼儀正しく、相手を身分で見下さず、言うべきことは曖昧にしない。
「……それは困りますわね」
「なぜです?」
「嫌いになりにくそうです」
ルシアが目を瞬いた。
一拍遅れて意味を理解したらしく、「ああ」と小さく声を漏らす。
「嫌な方でしたら簡単なのです」
「簡単?」
「殿下を好きだと聞いても、『そうですの』で終われます。私へ嫌味を言うような方でしたら、こちらも遠慮なく嫌えますもの」
「ですが、誠実な方だったら?」
「私が勝手に嫌な気持ちになっているだけになりますでしょう?」
アマリリアは机の上へ視線を落とした。
「それでは少し、格好が悪いですわ」
ルシアはすぐには答えなかった。
少しの間、アマリリアの横顔を見つめたあと、静かに息を吐く。
「……アマリリア様」
「何です?」
「本当に変わりましたね」
その言葉に、アマリリアもすぐには返事をしなかった。
以前なら、相手に非があるかどうかなど、自分の目的を達成するうえで必要な時にしか考えなかったかもしれない。
もちろん、無関係な人間を意味もなく傷つけたいと思っていたわけではない。だが、自分が守りたいものへ誰かが近づくなら、相手を先に調べ、危険なら遠ざける。それくらい当然だと思っていた。
今は違う。
ライルを好きな人がいる。
それだけで、その人を悪者にしてしまいたくない。
「殿下に、信用していると申し上げましたから」
アマリリアは、今度はルシアから視線を逸らさなかった。
「でしたら、信用している私らしく振る舞いたいのです。相手が何もしていないうちから疑って、嫌って、殿下の周囲から追い出そうとするのではなく」
一度言葉を切り、自分の中でも確かめるように続ける。
「まずは普通にお話ししたいと思います」
ルシアはしばらく黙っていた。
やがて、とても柔らかな笑みを浮かべる。
「素敵だと思います」
「またそれです?」
「だって、本当にそう思いましたので」
「恥ずかしいのでやめてくださいませ」
「でも」
「ルシアさん」
「はい?」
「カルロス様との昼食は?」
「……」
今度はルシアが固まった。
「話を変えました?」
「ええ」
「正直ですね」
「最近の方針です」
ルシアは困ったように笑いながら、頬を僅かに赤くした。
その様子を見て、アマリリアもようやく肩の力を抜くことができた。
明日の茶会。
レティシア。
気にはなる。
嫉妬もしている。
けれど、まだ会ってすらいない。
ならば、まず会う。
きちんと話す。
そのうえで、自分がどう感じるのかを考えればいい。
今の自分には、その順番の方がずっと合っている気がした。
◇◇◇
同じ日の夕方、王宮東棟の執務室では、ライルが翌日の茶会に関する最終確認を受けていた。
机の上には招待客の一覧だけでなく、座席配置案、庭園を利用する場合の警備計画、雨天時に使用する室内会場の準備状況、給仕の動線まで並んでいる。窓から差し込む夕方の光は少しずつ赤みを増し、室内では文官たちが紙を捲る音や、筆先が書類を滑る小さな音だけが続いていた。
「ここまで必要?」
警備計画を手にしたままライルが呟くと、向かいに立つディーンはいつもの調子で淡々と答えた。
「王宮主催ですので」
「二十人のお茶会だろ?」
「第一王子殿下と、その正式な婚約者が出席されます」
「……」
「さらに王妃陛下も」
「そうだった」
「お忘れにならないでください」
「忘れてない。ただ、今ちょっとアマリリアのこと考えてた」
言ってから、ライル自身が止まった。
ディーンも黙る。
少し離れた場所にいた文官の手まで、一瞬だけ止まったような気がした。
「……今のなし」
「承知しました」
「本当に?」
「記憶から消す努力はいたします」
「カルロスみたいな返事をするな!」
ライルは額へ手を当てた。
最近、本当に周囲の返答が似てきている。
あるいは、自分とアマリリアのやり取りが王宮内で知られすぎた結果、皆が面白がって似た言い回しを使うようになっただけなのかもしれない。
「それで」
ライルは気を取り直し、招待客一覧へ視線を戻した。
「明日、何か特別に気をつける相手はいる?」
「政治的な意味ででしょうか」
「それ以外に何があるんだよ」
ディーンの視線が、ほんの一瞬だけレティシアの名前へ落ちた。
短い動きだった。
だが、今のライルは以前より人の表情や仕草を見るようになっている。何より最近、アマリリアを見すぎているせいで、小さな変化へ妙に気づくようになってしまった。
「何で黙った?」
「いえ」
「ディーン」
「政治的には、特段警戒すべき方はいらっしゃいません」
「政治的には?」
「はい」
「その言い方、やめろ」
「事実ですので」
ライルは嫌な予感を覚えながら一覧を見る。
昨日、母から聞かされた。
レティシアが、以前から自分へ好意を持っているらしいという話。
まったく知らなかったわけではない。夜会で何度か話しかけられたことはあるし、他の令嬢より自分へ向ける態度が少し違うことにも気づいていた。
ただ、それ以上考えなかった。
昔から、自分へ好意を向ける令嬢は少なからずいた。第一王子という立場なら、純粋な恋愛感情なのか、家の思惑なのか、あるいはその両方なのか分からないことも多い。
だから、わざわざ一人一人の感情を確かめようとはしなかった。
今は少し事情が違う。
「レティシア嬢?」
「はい」
「明日、何かすると思う?」
「私には分かりかねます」
「本当に?」
「本人ではございませんので」
「それはそうだけど」
ライルは椅子へ背を預けた。
昨日のアマリリアを思い出す。
『相手が好意を持っているだけなら、何も』
『殿下は私の婚約者です』
『信用しておりますので』
嬉しかった。
かなり。
今でも思い出せば、少し顔が緩みそうになるほどには。
けれど同時に、別の心配も生まれていた。
「アマリリア、大丈夫かな」
ディーンが僅かに眉を上げる。
「何がでしょう」
「レティシア嬢とのことで」
「昨日は、アマリリア様から信用していると言われたのでは?」
「言われた」
「でしたら、殿下に関しては問題ないのでは」
「俺じゃなくて」
ライルは一度言葉を止め、少し考えてから続けた。
「アマリリア自身が、嫌な気持ちになっても我慢しそうだなって」
ディーンはすぐには答えなかった。
少し離れた場所では文官たちが仕事を続けている。誰も露骨にこちらへ顔を向けてはいないものの、会話の内容によっては聞こえている可能性は高い。
それでもディーンは周囲を気にすることなく、静かに答えた。
「殿下。それは恐らく、殿下が判断することではございません」
「分かってる」
「アマリリア様ご自身が嫌だと感じることまで、殿下が先回りして消してしまう必要もないでしょう。嫉妬することも、嫌だと感じることも、それ自体はアマリリア様のものです」
「うん」
「殿下ができることがあるとすれば、その感情を無理に消そうとなさらないことでしょうか」
ライルは小さく眉を寄せた。
「何もしなくていい?」
「何もしない、とは少し違うかと」
「じゃあ?」
「戻ってきてほしいと、お伝えになったのでしょう?」
ライルが顔を上げる。
「何で知ってる?」
「王妃陛下から」
「母上!」
思わず声を上げ、近くの文官が一人、明らかに肩を揺らした。
「どこまで話してるんだよ!」
「その程度です」
「その程度?」
「手を繋いで馬車まで送られたことも」
「それは見られてたんだから知ってるだろ!」
「はい」
「なら改めて話す必要ないだろ!」
「王妃陛下が、大変楽しそうに」
「想像できる!」
ライルは深く息を吐いた。
母親に関しては、本当にどうしようもない。
それでも、先ほどより少しだけ気持ちは軽くなっていた。
「戻ってきて、か」
「はい」
「それでいいのかな」
「少なくとも、アマリリア様がご自身で戻る場所を選べるようにしておくことは、大切なのではないでしょうか。殿下が先に相手を遠ざけてしまえば、アマリリア様が自分でどう向き合うかを選ぶ機会まで失われます」
ライルは何も言わなかった。
止める。
守る。
近づけないようにする。
そういうことだけが相手を大切にする方法ではないのだろう。
嫌なら戻ってこられる場所でいる。
助けてほしいと言われたら行く。
それまでは、任せる。
もしかしたら、それも相手を信じることなのかもしれない。
「殿下」
「何?」
「以前の殿下なら、そこまでお考えにはならなかったでしょうね」
「俺も?」
「はい」
「アマリリアだけじゃなく?」
「お二人とも変わられております」
ライルは少し黙ったあと、小さく笑った。
「婚約者だから?」
「私へ聞かれましても」
「そこは乗ってくれよ」
「執務中です」
「急に真面目になるな!」
今度は、近くにいた文官たちがとうとう小さく笑った。
以前なら気になったかもしれない。
今は、そこまで嫌ではない。
どうやら、それもアマリリアと似てきたところなのかもしれなかった。
◇◇◇
翌朝。
親睦茶会当日。
王都は雲一つない青空に恵まれていた。
夜の間に少し冷えた空気はまだ残っているものの、春の終わりらしい柔らかな日差しが庭や屋根を明るく照らしている。昼前になれば気温も上がりそうで、王宮庭園で茶会を開くには申し分のない天候だった。
ベスター伯爵家では朝早くから、いつも以上に多くの侍女がアマリリアの支度へ動いていた。
「お嬢様、少しだけ顎を上げてくださいませ」
「これくらい?」
「はい。そのままでお願いいたします」
鏡の前へ座ったアマリリアの髪を、侍女が丁寧に整えていく。
今日のドレスは、セレーネとライルと三人で決めた淡い青銀色だった。正式婚約発表の日に着たものより柔らかな色合いで、昼間の庭園へ馴染むよう装飾も控えめにされている。ただし、胸元や袖口には細い銀糸で小さな花模様が刺繍され、窓から入る光を受けるたび上品に輝いた。
そして首元には、正式婚約を公表した日に受け取った青星石の首飾りがある。
鏡越しにその淡い青を見た瞬間、アマリリアの指が無意識に石へ触れた。
「お嬢様」
後方に立っていたゼインが声をかける。
「何です?」
「緊張されておりますか」
「……少し」
「珍しく素直ですね」
「最近の方針です」
「なるほど」
ゼインの口元が僅かに緩んだ。
「笑いました?」
「いいえ」
「絶対に」
「本日は黒装束をお召しになる予定がないようですので、安心しております」
「ゼイン」
「はい」
「ルシアさんから何か聞きました?」
「何も」
「なぜ皆様、同じことを仰るのです?」
「共通認識かと」
「……」
アマリリアは鏡の中の自分を見た。
淡い青銀色のドレス。
青星石。
正式な第一王子婚約者として、王宮主催の茶会へ参加する自分。
少し前なら、想像もしなかった姿だった。
始まりは脅迫だった。
婚約を押し付けられたくないから、第一王子を利用しようとした。
それが今では、ライルの隣へ立つための服を一緒に選び、正式婚約を示す大切な装飾品を身につけ、ライルを好きだという令嬢に会うことへ少し緊張している。
「……本当に面倒ですわね」
「何がでしょう」
「恋愛です」
侍女の手が一瞬止まった。
ゼインまで、珍しく返事をしなかった。
鏡越しにそれへ気づき、アマリリアは眉を寄せる。
「何です?」
「いえ」
ゼインは少しだけ視線を逸らした。
「お嬢様ご自身から、その言葉を聞く日が来るとは思っておりませんでしたので」
「私も思っておりませんでした」
侍女たちの間から、こらえきれなかったような小さな笑い声が漏れる。
以前なら気になったかもしれない。
今は、それほど嫌ではなかった。
「ですが」
アマリリアは青星石へ触れていた指をゆっくり下ろした。
「面倒だからといって、やめたいとは思いません」
部屋が少し静かになった。
言った本人であるアマリリアも、その言葉を自分の中で確かめるように鏡を見つめる。
嫉妬もする。
恥ずかしい。
心臓も忙しい。
六つ目が何なのか気になって仕方がないし、抱き締められただけで夜に眠れなくなる。
時々、以前の方がずっと簡単だったと思う。
それでも。
ライルを好きになる前へ戻りたいとは思わない。
「お嬢様」
「何です?」
「殿下がお聞きになれば、喜ばれるでしょうね」
「言いませんわよ」
「なぜです?」
「恥ずかしいからです」
「最近の方針は?」
「全部を正直に言う方針ではございません!」
今度は侍女たちがはっきり笑った。
アマリリアも少しだけ笑う。
これから会う相手がどのような人であっても、少なくとも自分の気持ちを誤魔化しすぎるのはやめよう。
嫉妬するなら、する。
嫌なら、嫌。
そのうえで、何をするかは自分で決める。
昨日、ルシアと話して辿り着いた答えを胸の中でもう一度確かめ、アマリリアは鏡の前から立ち上がった。
◇◇◇
王宮へ到着すると、茶会が開かれる庭園では既に最後の準備が進められていた。
白い布を掛けた円卓が適度な間隔を空けて並び、それぞれの中央には季節の花が小さく飾られている。庭園の奥には楽団のための場所も用意され、まだ演奏は始まっていないものの、楽師たちが弦の調子を確かめる柔らかな音が春の風へ混じっていた。
給仕たちは焼き菓子や果実、軽食を運び、近衛騎士たちは招待客の導線を邪魔しない位置で警備についている。庭師たちも最後の確認を終えたらしく、花壇の脇から一人、また一人と姿を消していった。
小規模。
そう聞いていた。
確かに、正式な夜会や婚約発表の日に比べれば小さい。
それでも、王宮主催であることに変わりはない。
華美すぎないよう抑えられているだけで、置かれた茶器も菓子も、庭園の飾りつけも、どれ一つとして雑には扱われていなかった。二十名ほどの若者を迎えるだけの場であっても、王家が何を大切にしているかは細部に表れるのだと分かる。
「アマリリア」
名前を呼ばれ、振り向く。
庭園へ続く回廊から、ライルが歩いてくるところだった。
昨日決めた濃紺の礼装。その襟元には、アマリリアのドレスと同じ淡い青が使われている。
目が合った瞬間、ライルの歩みがほんの少しだけ止まった。
「殿下?」
「似合う」
「ありがとうございます」
「すごく」
「増えましたわね」
「昨日言われたから」
「覚えていらしたのです?」
「当然」
アマリリアは思わず笑った。
「殿下も」
「うん?」
「よくお似合いです」
「すごく?」
「……」
「昨日、俺には言わせたよな?」
「殿下」
「何?」
「仕返しです?」
「少し」
「では」
アマリリアは一度、ライルを頭から足元まで見た。
濃紺に銀の意匠。
そして襟元に入れられた、アマリリアと同じ淡い青。
昨日、二人で相談して決めたものだ。
たったそれだけの共通点なのに、思っていたよりずっと嬉しい。
「すごく、お似合いです」
今度はライルが黙った。
「殿下?」
「いや」
「何です?」
「普通に嬉しかった」
「でしたら何か仰ってくださいませ」
「ありがとう」
二人で少し笑う。
近くで準備をしていた侍女たちが、さりげなく顔を逸らしている。見ないふりをしているだけで、聞こえているのだろう。
以前なら、それだけでも少し落ち着かなかった。
今日は、これでいいと思えた。
「緊張してる?」
ライルが尋ねる。
「少し」
「俺も」
「殿下も?」
「正式婚約してから、こういう近い距離で同年代の貴族と会うのは初めてだから」
「そうですわね」
婚約発表の日は、もっと多くの人がいた。
けれど、あの場は祝福を受けることが中心だった。今日の目的は違う。近い距離で会話し、相手の人柄を知り、自分たちも見られる。
昨日セレーネから教えられた意味が、実際に庭園へ立つとよく分かった。
「それと」
「何です?」
ライルは少しだけ周囲を確認し、声を落とした。
「昨日の約束」
アマリリアは一瞬だけ目を瞬いた。
「嫌になったら」
「殿下のところへ戻る」
「うん」
胸の奥が、少し温かくなった。
「覚えております」
「ならいい」
「殿下」
「何?」
「私も」
「うん」
「殿下が困った時は、こちらへ戻ってきてくださいませ」
ライルが目を瞬いた。
「俺も?」
「婚約者ですので」
「取られた」
「早い者勝ちです」
「それ、俺の」
「知っております」
「強いな」
「殿下に鍛えられました」
「またそれ!」
ライルが笑う。
アマリリアも自然に笑った。
その時、庭園入口の方が少し騒がしくなった。
最初の招待客が到着したらしい。
若い令嬢と子息たちが案内役の侍従に導かれ、庭園へ入ってくる。色鮮やかな昼用礼装が白い卓や緑の木々の間へ増え、先ほどまで準備の場所だった庭園が少しずつ社交の場へ姿を変えていった。
ライルとアマリリアも自然に姿勢を整える。
ここからは、第一王子と、その正式な婚約者としての時間になる。
それでもアマリリアが隣を見ると、ライルも同じタイミングでこちらを見た。
ほんの一瞬、二人で小さく笑う。
それだけで、少し大丈夫だと思えた。
◇◇◇
招待客が半数ほど揃った頃、アマリリアはセレーネの隣で、到着した若手貴族たちへ挨拶を返していた。
「正式なご婚約、改めてお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
「本日はお招きいただき光栄です」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。どうぞ今日は堅くならず、お楽しみくださいませ」
昨日教わった通り、全員へ完全に同じ対応をしようとはしない。
顔と名前、家、最低限の関係だけを忘れず、相手の話をきちんと聞く。
最初の数人と話した時は、つい完璧に対応しようとしてしまった。
相手の家がどの領地と繋がりがあり、父親がどの役職についていて、去年の王宮行事で何を話したかまで頭へ浮かぶ。だが、そこまで考え始めたところで昨日のセレーネの言葉を思い出し、一度肩の力を抜いた。
今日は外交交渉ではない。
人と会う日なのだ。
その違いを意識すると、不思議と相手の顔を前よりよく見られるようになった。
自分へ祝いの言葉を贈りながら緊張で指先を固くしている令嬢。ライルと話してみたいのに、第一王子という立場に遠慮してなかなか近づけない子息。形式的な挨拶だけで終わらず、アマリリアが学園で何を学んでいるのかを尋ねてくる者もいる。
全員が「家」ではない。
一人一人に顔があり、声があり、それぞれの考えがある。
当たり前のことなのに、今日のアマリリアにはそれが妙にはっきり見えた。
少し離れた場所では、ライルも数人の子息と話している。
ずっと隣にはいない。
最初の数分は、思っていた以上に落ち着かなかった。会話の途中なのに、無意識にライルの位置を確認したくなる。自分が一人で立っていることそのものより、いつも近くにいるはずの相手が少し離れていることの方が気になってしまう。
けれど、何度か視線が合った。
ライルもこちらを確認していた。
そのたびに、ほんの少し表情が柔らかくなる。
それだけで、不思議と安心できた。
「アマリリアさん」
隣からセレーネが小声で呼ぶ。
「はい?」
「少し力が入りすぎよ」
「……分かります?」
「少し」
「王妃様」
「何?」
「笑っております?」
「応援しているのよ」
「本当に?」
「今日は本当」
「『今日は』という言い方が信用できません」
セレーネが小さく笑った。
その時だった。
「クラウゼン侯爵家、レティシア・フォン・クラウゼン様」
案内役の声が庭園へ響いた。
アマリリアの身体が、ほんの僅かに固くなる。
自分ではほとんど分からないほどの変化だった。
だが、隣にはセレーネがいる。
「アマリリアさん」
「分かっております」
「まだ何も言ってないわ」
「お顔で――」
そこまで言ってから、自分で気づいた。
最近、本当にこの言葉を使うことが増えている。
セレーネも同じことへ気づいたらしく、口元を手で押さえていた。
「笑わないでくださいませ」
「ごめんなさい」
アマリリアは小さく息を整えた。
昨日、図書室で決めたことを思い出す。
会って。
話す。
それから考える。
まだ何もされていないのだから、勝手に敵だと決めない。
そのうえで、庭園入口を見る。
一人の令嬢が歩いてくる。
淡い藤色のドレス。金に近い明るい髪は上品にまとめられ、装飾品も決して多くない。それでも侯爵令嬢らしい品格は一目で分かり、背筋の伸びた歩き方にも落ち着きがあった。
庭園へ入った時にも、周囲を必要以上に見回す様子はない。王宮の場に慣れているという話も本当なのだろう。
アマリリアは最初に、素直に思った。
綺麗な人。
整った顔立ちだけではない。
立ち方や目線の配り方に無理がない。周囲へ自分を大きく見せようとも、逆に必要以上に控えめに振る舞おうともしていない。
そして次に、困ったと思った。
ほんの数秒見ただけで、嫌いになる理由が一つも見つからない。
レティシアはセレーネの前まで進むと、深く丁寧に礼をした。
「王妃陛下。本日はこのような場へお招きいただき、心より御礼申し上げます」
「来てくれて嬉しいわ、レティシア嬢。今日は堅苦しい場ではないから、ゆっくりしていってちょうだい」
「ありがとうございます」
レティシアは顔を上げる。
次に、アマリリアへ目を向けた。
視線が合う。
探るような目ではない。
逃げる様子もない。
まっすぐだった。
アマリリアが勝手に想像していた、婚約者を品定めするような視線でもなければ、悔しさを隠した笑顔でもない。
レティシアはもう一度、丁寧に頭を下げた。
「アマリリア・ベスター様」
「はい」
「正式なご婚約、心よりお祝い申し上げます」
アマリリアは一瞬だけ、返事が遅れそうになった。
嫌味がない。
皮肉もない。
形だけの祝いにしては、声が柔らかすぎる。
本当に祝っているように聞こえた。
「ありがとうございます、レティシア様」
「以前、学園で何度かお姿は拝見しておりましたが、こうして正式にお話しするのは初めてですわね」
「ええ。私もお名前は存じ上げておりました」
「光栄です」
レティシアは柔らかく笑った。
その笑顔も、嫌ではない。
むしろ感じがいい。
アマリリアは少しだけ困った。
本当に、嫌いになれそうにない。
「アマリリア様」
「はい?」
「もし本日、お時間がございましたら、一度お話しさせていただけませんか?」
レティシアが声を少し落とした。
先ほどまでとは違う種類の緊張が、アマリリアの胸へ生まれる。
隣にいるセレーネは何も言わない。
ただ静かに二人を見ている。
「私と?」
「はい」
「内容を伺っても?」
「もちろんです」
レティシアは少しだけ迷った。
それでも、逃げずに答えた。
「ライル殿下のことです」
春の風が、二人の間を抜けていった。
庭園の奥からは、楽師たちが演奏を始めた弦楽器の音が聞こえてくる。周囲では他の招待客たちが笑い、挨拶を交わし、給仕が静かに飲み物を配っている。
何も止まってはいない。
それなのに、アマリリアには周囲の音が少しだけ遠く感じられた。
レティシアは目を逸らさない。
アマリリアも逸らさなかった。
昨日、決めた。
会う。
話す。
それから考える。
なら、今がその時だ。
「分かりました」
アマリリアは答えた。
「私も、レティシア様とは一度きちんとお話ししたいと思っておりました」
今度は、レティシアが少し驚いた。
「私と?」
「ええ」
「理由を伺っても?」
アマリリアは少しだけ迷った。
ここで「特にございません」と誤魔化すこともできる。
けれど、それでは昨日決めたことと違う。
自分は、この人を知りたいのだ。
「殿下をお慕いしていらっしゃると伺いましたので」
レティシアの目が僅かに大きくなった。
隣のセレーネまで、少し驚いた顔をしている。
アマリリアは続けた。
「ですから、どのような方なのか気になっておりました」
レティシアは数秒、何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「思っていたより、ずっと率直な方なのですね」
「最近、そうなりました」
「最近?」
「色々ございましたので」
「そうですか」
レティシアの笑みが、ほんの少し柔らかくなる。
「でしたら、私も率直にお話しいたします」
「お願いします」
「ただ」
レティシアは一度、少し離れた場所にいるライルへ視線を向けた。
その視線を、アマリリアはきちんと見た。
ほんの僅かに、レティシアの表情が変わった。
大きく笑ったわけでもない。
頬を赤らめたわけでもない。
けれど、分かる。
好きなのだ。
多分。
本当に。
資料に書かれた「好意の噂」としてではなく、初めてその事実を目の前で見た。
胸の奥へ、小さく痛みが走る。
やはり、少し嫌だ。
ライルを見る時だけ、僅かに柔らかくなる目。
その変化を、自分は見たくなかったのかもしれない。
けれどレティシアは、ほんの数秒でライルから視線を外した。
「一つだけ、先にお伝えしておきたいことがございます」
「何でしょう?」
「私は、お二人の正式な婚約を壊すつもりはございません」
アマリリアは黙って彼女を見た。
「王家が正式に認め、何より殿下ご自身が望まれた婚約であることも承知しております。ですから、私が何かを仕掛けてアマリリア様を退けようとも、殿下のお心を変えさせようとも考えておりません」
「……そうですの」
「はい」
そこでレティシアは、少しだけ困ったように笑った。
「ただ、感情だけは、婚約が決まったからといってすぐに消すことができませんでした」
声は、とても静かだった。
胸の奥が少し痛んだ。
嫌だ。
確かに、少し嫌だ。
ライルを好きだと、本人を知る女性から真正面に言われている。
何も感じないはずはない。
昨日までのアマリリアは、どこかで「信用しているなら動揺してはいけない」と考えかけていたのかもしれない。
けれど。
今は少し分かる。
ライルを信用しているからといって、レティシアの気持ちを聞いて何も感じなくなるわけではない。
嫉妬する。
少し嫌になる。
胸も痛む。
それでも、ライルを疑っているわけではない。
その二つは両立するのだ。
不思議と怒りはなかった。
むしろ、誤魔化さず自分の前へ立った相手に対して、僅かな敬意すら生まれている。
「レティシア様」
「はい」
「それを私へお話しするのは、怖くありませんでした?」
レティシアが目を瞬いた。
「怖い?」
「私は殿下の婚約者です。その相手へ、殿下を好きだとお伝えになるのでしょう?」
レティシアは少し考えた。
それから、ほんの僅かに苦笑する。
「怖くないと言えば、嘘になります」
「そうですの」
「ですが」
レティシアは背筋を伸ばした。
「陰で殿下へ近づく方が、私は嫌でした」
アマリリアの目が少し大きくなる。
「アマリリア様の知らないところで殿下へ気持ちを伝える。二人きりになる機会を探す。婚約者であるあなたには知られないようにする。そのようなことをして、仮に殿下から何かお言葉をいただけたとしても」
レティシアは一度だけ視線を下げ、それから再びアマリリアを見た。
「私はきっと、自分で自分を嫌いになります」
アマリリアは、今度こそ言葉を失った。
困る。
本当に困る。
この人は、想像していたよりずっと誠実だった。
もしレティシアがアマリリアを見下していたら。
正式婚約を認めないと言ったなら。
ライルの気持ちなど自分が変えてみせると言ったなら。
もっと簡単だった。
嫌えばいい。
警戒すればいい。
必要なら真正面から言い返せばいい。
だが、この相手は違う。
「……レティシア様」
「はい」
「困りました」
「え?」
「もっと嫌な方ならよかったです」
言ってから、アマリリア自身も一瞬固まった。
レティシアも完全に止まっている。
隣にいたセレーネは、とうとう口元へ手を当てた。
「アマリリアさん」
「王妃様」
「今のは」
「分かっております」
「かなり率直ね」
「最近の方針です」
数秒の沈黙のあと、レティシアが小さく笑った。
最初は本当に小さかったその笑いが、次第に抑えきれなくなったらしく、彼女は口元へ手を添える。
「申し訳ございません」
「何がです?」
「まさか第一王子殿下の正式な婚約者から、『嫌な方ならよかった』と言われるとは思いませんでした」
「私も申し上げる予定ではございませんでした」
「でも仰った」
「出てしまいました」
「そうですか」
レティシアはまだ少し笑っている。
その様子を見て、アマリリアも僅かに笑った。
妙だった。
ライルを好きな令嬢。
自分が嫉妬する相手。
本来なら警戒してもおかしくない人。
その相手と初めてまともに話した結果が、これである。
それなのに、思っていたより嫌ではない。
むしろ少しだけ、この人ともっと話してみたいと思ってしまった。
「では」
レティシアは笑いを収め、少し姿勢を戻した。
「あとで、お時間をいただいても?」
「ええ」
「二人で?」
アマリリアは一度、ライルのいる方向を見た。
ちょうど目が合った。
ライルは数人の子息に囲まれていたが、明らかにこちらを気にしていたらしい。目が合うなり、ほんの僅かに眉を動かし、首を傾げた。
大丈夫?
そんな顔だった。
昨日の約束を思い出す。
嫌になったら戻ってきて。
アマリリアは小さく首を横へ振った。
大丈夫。
まだ戻らなくていい。
言葉にしなくても、伝わったらしい。
ライルは少しだけ迷うような顔をした。
それでも、こちらへ来なかった。
静かに一度頷き、再び目の前の子息へ向き直る。
以前の彼なら、もしかしたら様子を見に来ていたかもしれない。
けれど今は。
任せてくれた。
大丈夫だと伝えた自分を、信じてくれた。
そのことが、また少し嬉しい。
「はい」
アマリリアはレティシアへ視線を戻した。
「お話ししましょう」
「ありがとうございます」
レティシアは丁寧に頭を下げ、他の招待客の方へ向かっていった。
その背中を見送ったあと、隣からセレーネが小さく声をかける。
「どう?」
「何がです?」
「会ってみて」
アマリリアはすぐには答えなかった。
昨日まで、レティシアは資料の上にある名前だった。
侯爵令嬢。
十八歳。
ライルを好きな女性。
それだけ。
今は違う。
顔がある。
声がある。
笑い方も、考え方も、少しだけ知った。
「嫌ではございません」
「そう」
「むしろ」
アマリリアは一度息を吐いた。
「好きになれそうで困っております」
セレーネがとうとう笑った。
「アマリリアさんらしいわね」
「どこがです?」
「相手を敵だと決めてしまえば簡単だったのに」
「……」
「決めなかったでしょう?」
アマリリアはすぐには答えなかった。
昨日の自分なら、黒装束という言葉を冗談半分とはいえ頭へ浮かべていた。
けれど今日。
実際にレティシアと会って。
話して。
その人自身を見た。
そうしたら、ただの「恋敵」という名前だけでは見られなくなった。
「王妃様」
「何?」
「私、やはり殿下を信用しております」
「ええ」
「でも」
「何?」
「嫉妬はします」
セレーネの返事は、とても自然だった。
「それでいいのよ」
アマリリアは少し目を瞬く。
「信用していたら嫉妬しないなんて、誰が決めたの?」
「……」
「嫌なものは嫌。寂しいものは寂しい。好きな相手を誰かが好きだと知れば、胸が落ち着かなくなることだってあるでしょう」
「はい」
「でも、だから相手を傷つけていいわけではない。それとこれとは別なの」
アマリリアは黙って聞いた。
「感情を持たない人になる必要はないのよ」
セレーネは、今度はからかう様子もなく続けた。
「好きだから嬉しい。好きだから嫉妬する。好きだから少し怖くなる。それでも、どう動くかは自分で選べるでしょう?」
「……はい」
「今日のあなたは、ちゃんと選べたと思うわ」
その一言へ、アマリリアはすぐには返事ができなかった。
胸の奥にはまだ、先ほどレティシアがライルを見た時の視線が残っている。
嫌だった。
少しだけ痛かった。
けれど。
だからといってレティシアを傷つけようとは思わない。
ライルを問い詰めようとも思わない。
自分の気持ちは、自分のもの。
自分がどう動くかも、自分で決められる。
「それが分かっているなら」
セレーネは少しだけ柔らかく笑った。
「十分よ」
「……ありがとうございます」
アマリリアは小さく頷いた。
その時、庭園の奥で楽団の曲が変わった。
最後の招待客も到着し、給仕たちが新しい茶器を運び始める。二十名ほどの若い貴族たちの声が春の庭園へ重なり、親睦茶会はいよいよ本格的に始まろうとしていた。
アマリリアはもう一度だけ、少し離れた場所にいるレティシアを見る。
先ほどとは違う令嬢と穏やかに話している姿からは、ライルへ強引に近づこうとする気配などまるで感じない。むしろ時折周囲へ気を配り、会話に入りきれていない令嬢へ自然に話題を向ける姿さえ見えた。
やっぱり、嫌な人ではない。
その事実が少しだけ悔しくて、同時に少し安心した。
だからこそ、あとで交わす約束をした会話が気になった。
レティシアは何を話したいのだろう。
ただ「殿下が好きです」と伝えて終わるのか。
それとも、もっと別のことがあるのか。
アマリリアはまだ知らない。
このあと二人きりで交わす会話が、単なる恋敵同士の牽制などでは終わらないことを。
レティシアが、ライルへ想いを告げるつもりはないと明言したうえで。
それでもなお。
どうして自分が長い間、第一王子を慕い続けてきたのか。
その理由だけは、アマリリアへきちんと知ってほしいと考えていることを。




