第35話 正式婚約後初めての茶会準備なのに、殿下の隣に立つための服を選ぶだけで大騒ぎになりました
三日後に開かれる若手貴族たちの親睦茶会へ向けて、翌日の王宮は朝からいつも以上に慌ただしかった。
正式な夜会ほど大掛かりな催しではないとはいえ、第一王子ライル・アースハルトと、その正式な婚約者となったアマリリア・ベスターが、同年代を中心とする若手貴族たちと近い距離で交流する最初の場である。招待客は二十名ほどに絞られているものの、その多くは各家の跡取りや、将来は王国の中枢を担う可能性のある者たちだった。
華やかな祝宴ではない。だが、参加者にとっては新たな第一王子の婚約者がどのような人物なのかを自分の目で確かめる機会であり、王家にとっても次代を担う若者たちとの距離を縮める場になる。
当然、ただ茶を飲み菓子を食べて終わるだけの会ではなかった。
その日の午前、学園へは寄らず王宮へ直接入ったアマリリアは、王妃セレーネの私的応接室へ向かう途中から妙な視線を感じていた。
高い窓から差し込む朝の光が磨かれた石床へ長く伸び、侍従や侍女たちが忙しそうに行き交っている。いつもと変わらない王宮の朝に見えるのに、すれ違う侍女がこちらへちらりと目を向け、そのまま何事もなかったように前を向くことが何度か続いた。
「お嬢様」
半歩後ろを歩いていたゼインが、周囲へ聞こえない程度の声で呼びかけた。
「何です?」
「先ほどから何人かの侍女が、同じようにこちらをご覧になっております」
「気づいております」
アマリリアは歩調を崩さないまま、自分の格好を見下ろした。
今日は午前中から茶会用の衣装選びと招待客の事前確認を行う予定だったため、普段より少し整えた昼用の外出着を選んでいる。淡い灰青色のドレスは王宮へ来るにも失礼のないものだし、銀髪も普段のように隙なく結い上げるのではなく、肩へかからない程度に柔らかくまとめているだけだ。
少なくとも、服装がおかしいとは思えない。
「私、本日どこか変です?」
「いいえ。よくお似合いです」
「では、なぜ?」
そこでゼインが一瞬だけ口を閉じた。
「何です、その間は」
「昨日のことでございます」
「昨日?」
「殿下と夕方の庭園へ立ち寄られたことが、王宮内で少し話題に」
アマリリアの足が、ほんの僅かに止まりかけた。
「……少し?」
「はい」
「どの程度の『少し』です?」
「私が聞いた範囲では、『婚約者のお二人が夕方の庭園へ二人で向かわれた』程度でございます」
「それだけ?」
「表向きは」
嫌な言葉が追加された。
アマリリアがゆっくりゼインへ視線を向ける。
「表向き?」
「お嬢様、少しお声が大きくなっております」
言われて周囲を見ると、すぐ近くを歩いていた若い侍女二人が、先ほどまでより妙に姿勢よく前を向いていた。
明らかに聞いている。
アマリリアは声を落とした。
「王宮の情報伝達速度、少々異常ではございません?」
「今さらでは?」
「以前はここまでではございませんでした」
「以前は、お嬢様と殿下が正式な婚約者ではございませんでしたので」
「……」
その一言には反論できなかった。
正式婚約を発表してからというもの、二人が一緒に歩くだけでも周囲の視線が以前とは違う。王家の後継者となる可能性が高い第一王子と、その婚約者なのだから、ある程度注目されるのは仕方がない。
頭では分かっている。
けれど。
「まさか」
アマリリアはさらに声を落とした。
「昨日、抱き締めたことまで?」
「そこまでは私にも分かりかねます」
「本当に?」
「私から旦那様へは何も報告しておりませんし、王宮近衛がどの程度まで記録しているかは存じません」
「……そう」
少しだけ安堵しかける。
「ですが、王妃陛下は既に察しておられるかと」
「さらに悪いではありませんか」
思わず漏れた声に、ゼインの口元が僅かに緩んだ。
「今、笑いました?」
「いいえ」
「絶対に笑いましたわ」
「気のせいでございます」
「皆様、最近殿下へ似てきておりません?」
「殿下も先日、皆がアマリリア様へ似てきたと仰っておりましたが」
「やはり!」
今度こそ声が大きくなり、前から歩いてきた侍従が一瞬だけこちらへ目を向けた。
アマリリアはすぐに背筋を伸ばした。
「……行きますわよ」
「はい」
何事もなかったように再び歩き始めたものの、頬が少しだけ熱い。
どうやら最近、本当に顔へ出るようになってきたらしい。
◇◇◇
「遅いわ」
セレーネの私的応接室へ入った瞬間、聞き慣れてきた言葉が飛んできた。
アマリリアは壁際の時計へ一度だけ目を向けてから、王妃を見る。
「王妃様。私、予定より十分早く到着しております」
「気持ちの問題よ」
「殿下とまったく同じことを仰らないでくださいませ」
「あら、ライルも言うの?」
「何度も」
「やっぱり似てきたのね」
「問題はそこではございません」
セレーネは楽しそうに笑いながら、机いっぱいに広げられた衣装案を示した。
昨日も相当な数があった。
ところが、今日はさらに増えている。
淡い青、白銀、薄紫、深い青緑、柔らかな桃色。意匠も少しずつ違い、胸元の形や袖の長さ、刺繍の量、腰回りの仕立てまで細かく分けられていた。
「……王妃様」
「何?」
「昨日より増えております?」
「増やしたわ」
「なぜ?」
「迷ったから」
「王妃様が?」
「そうよ」
あまりにも堂々と言われ、アマリリアは一枚ずつ意匠図を見比べた。
「確認ですが、三日後は茶会ですよね?」
「ええ」
「戦場へ出るための装備選びではございませんよね?」
「なぜ急に戦場が出てくるの?」
「数が多すぎます」
「第一王子の正式な婚約者が、婚約発表後初めて同年代の貴族たちの前へ出るのよ?」
「ですが茶会です」
「茶会だからこそよ。正式な夜会なら格式に合わせてある程度絞れるけれど、今回は堅すぎても駄目、軽すぎても駄目。むしろ調整が難しいの」
「……なるほど」
説明されれば一応は理解できる。
セレーネは満足そうに頷き、一枚の濃紺の布見本を持ち上げた。
「それから、ライルの服も合わせるわ」
「昨日も仰っておりましたね」
「ええ。もうすぐ来るはずよ」
「午前の執務は?」
「衣装確認も第一王子の仕事」
「王族とは大変ですわね」
「あなたもよ」
「……」
「正式な婚約者でしょう?」
最近自分が何かにつけて使っている言葉を、ついに王妃へ取られた。
「王妃様」
「何?」
「それ、私がよく使う言葉です」
「借りたわ」
「返してくださいませ」
「嫌よ」
アマリリアは小さくため息をついた。
ただ、こうした軽口を王妃と交わせることも、いつの間にか自然になっている。
「それで、アマリリアさんは何色がいい?」
「私の希望も聞いてくださるのです?」
「もちろん。最終候補はこちらで絞るけれど、着るのはあなたでしょう?」
「でしたら、あまり目立ちすぎないものを」
「却下」
「まだ色すら申し上げておりません!」
「今の言い方で分かったもの」
「王妃様まで人の顔を読むのがお上手になりましたね」
「私は昔からよ」
「……そうでしたわね」
少し考えたあと、アマリリアは淡い青系の布へ指先を伸ばした。
「でしたら、青系がよろしいでしょうか」
「やっぱり?」
「なぜ、その反応です?」
「婚約発表の時も青銀だったでしょう?」
「ええ」
「ライルが選んだ色だから、気に入った?」
アマリリアの指が止まる。
否定しようとして、少し遅れた。
セレーネの目が細くなる。
「当たり?」
「王妃様」
「何?」
「つい先ほどまで、普通に衣装のお話をしておりましたよね?」
「今も衣装の話よ」
「余計なところへ踏み込まないでくださいませ」
「でも顔が」
「見ないでください!」
セレーネが楽しそうに笑う。
「本当に分かりやすくなったわね」
「最近それを言われすぎて、そろそろ嫌になってまいりました」
「でも、悪くないでしょう?」
からかいが少し引いた声だった。
アマリリアはすぐに返事をせず、自分が選んだ青い布へ視線を落とした。
以前なら、自分の感情を読まれることなど耐えられなかった。何を考えているのか分からないことが、自分を守る鎧の一つだった。
今は。
「……悪くは、ございません」
「でしょう?」
「ですが王妃様にまで何もかも読まれるのは嫌です」
「全部ではないわよ」
「本当に?」
「昨日、五つ目をしたかどうかまでは読めなかったもの」
「王妃様!」
「ごめんなさい」
「絶対に反省しておりません!」
また授業開始前から騒がしくなる。
その時、応接室の扉が開いた。
「母上」
ライルの声。
アマリリアは反射的に振り返った。
「殿下」
「おはよう」
「おはようございます」
目が合った。
ただそれだけなのに。
昨日の夕暮れの庭園が蘇る。
三度目に抱き締め合ったこと。
ライルの腕。
胸元から聞こえた心臓。
『五つ目、かなり好きかも』
そんな言葉まで一緒に思い出してしまった。
ライルの方も同じだったらしく、ほんの一瞬だけ視線が妙に止まった。
その間を。
セレーネが見逃すはずがない。
「何かあった?」
「ありません」
「何も」
二人の返事がぴたりと重なった。
「まあ」
「母上」
「王妃様」
「私はまだ何も言っていないわよ?」
「お顔で言っております」
「アマリリア」
「はい?」
「最近それ便利だな」
「殿下まで使います?」
「実際便利だから」
「まあ」
セレーネはますます楽しそうに二人を見た。
「本当に似てきたわね」
ライルとアマリリアが一度だけ顔を見合わせる。
以前なら、似ているなどと言われればどちらかが反論していたかもしれない。
「……悪くない?」
ライルが少し笑った。
アマリリアも、つられるように笑う。
「ええ。悪くございません」
「では、衣装を決めます」
「急だな!」
「母上、今まで散々遊んでたでしょう!」
「時間は有限よ」
「さっきまでかなり無駄にしたと思いますけど!」
「それとこれとは別」
「理不尽!」
アマリリアはとうとう声を上げて笑った。
◇◇◇
「二人とも、並んで」
セレーネに指示され、ライルとアマリリアは応接室の中央へ立った。
「まだ着替えてませんけど」
「今は色を見るだけだからいいの」
侍女たちが手際よく二人の前へ進み、胸元へ次々に布見本を当てていく。
青銀と濃紺。
白と紺。
薄紫と黒に近い青。
少し離れた鏡へ映る二人を、セレーネは真剣な顔で見比べていた。
衣装のことになると、先ほどまでとは別人のように集中している。
「……殿下」
アマリリアが周囲へ聞こえない程度の声で話しかけた。
「何?」
「少し近くありません?」
「俺に言われても。母上が並べって」
「そうですけれど」
肩が触れるほどではない。
けれど、普段より近い。
それだけで昨日の抱擁を意識してしまう自分が、少し悔しい。
「アマリリア」
「何です?」
「今、昨日のこと考えた?」
「殿下」
「ごめん」
「最近、読むのが早すぎます」
「顔」
「見ないでくださいませ」
「正面向いてても見える」
「では目を閉じてください」
「何で俺が!」
周囲の侍女たちが必死に笑いを堪えている。
セレーネがそこへ声を飛ばした。
「二人とも、もう少し近く」
「なぜです、母上」
「色が分かりづらいから」
「絶対それだけじゃないでしょう?」
「ライル」
「はい」
「母親を信用なさい」
「昨日からかなり難しいです」
「まだ本のことを根に持ってるの?」
「俺の自室へ置いた本でしょう!」
「少ししか読んでないわ」
「六つ目まで読んだら十分です!」
「百あるのよ? 六つなんて少ないでしょう」
「割合の問題じゃない!」
アマリリアは耐えきれず笑った。
「アマリリア」
「申し訳ございません」
「全然思ってない顔してる」
「半分くらいは」
「またそれ!」
セレーネが笑いながら新しい布を手に取った。
淡い青に、ほんの僅かに銀を混ぜた柔らかな色だった。正式婚約発表で着た青銀色よりも軽やかで、昼の茶会へよく似合いそうだった。
「アマリリアさん、これは?」
「……綺麗ですわね」
胸元へ当てて鏡を見る。
派手すぎない。
しかし地味でもない。
銀髪にもよく馴染み、光が当たると布に織り込まれた銀糸が淡く浮かぶ。
「好きです」
「でしょう?」
「殿下は?」
ライルへ尋ねる。
ライルは一瞬だけ鏡越しにアマリリアを見た。
「似合う」
「普通ですわね」
「え?」
「いつも通りの感想です」
「じゃあ……すごく似合う」
「増えただけです」
「これ前もやった!」
今度こそ侍女たちから小さな笑いが漏れた。
アマリリアは少し口元を上げる。
「でも、嬉しいです」
「なら最初からそう言ってくれ!」
「困っている殿下も見たいので」
「君、本当に最近容赦ないな!」
セレーネが満足そうに頷いた。
「ではアマリリアさんは、この色にしましょう」
「決まりです?」
「ええ」
続いて王妃がライル用の布を選ぶ。
深い紺を基調に、細い銀糸。襟元と袖口の一部へ、アマリリアのドレスと同じ淡い青を使う案だった。
「また合わせるんです?」
ライルが意匠図を見る。
「当然でしょう?」
「婚約発表の時だけじゃないの?」
「正式婚約後、最初の社交の場よ」
「母上。もしかして今後、毎回俺たちの色を合わせる気です?」
「全部ではないわ」
「本当に?」
「でも最初くらいはいいでしょう?」
ライルがアマリリアを見る。
「どうする?」
聞いてくれた。
母親が決めたからではなく。
王家の都合だからでもなく。
自分にも。
「殿下は嫌です?」
「嫌じゃない。むしろ」
一度、アマリリアの胸元へ当てられた布を見る。
「並んだ時に分かるくらいなら、いいと思う」
「でしたら、私も」
アマリリアは頷いた。
「合わせたいです」
「じゃあ決まりだな」
「ええ」
二人が自分たちで頷いた途端、セレーネの表情が一気に明るくなった。
「それで決まり」
「王妃様」
「何?」
「とても嬉しそうですわね」
「当然でしょう?」
「なぜ?」
「二人で決めたからよ」
セレーネは布見本を侍女へ預けると、少しだけ声を柔らかくした。
「私が全部決めることだってできるわ。あなたたちが王族の婚約者として並ぶ以上、王家側で決めなければならないこともたくさんある。でも」
一度、二人を見る。
「婚約そのものは、あなたたちのものでしょう?」
アマリリアは胸元へ当てられていた淡い青の布へ視線を落とした。
最初の自分は、違った。
押し付けられた婚約を壊すため、ライルを利用しようとした。
第一王子本人の事情や気持ちより先に、自分の目的を押し通そうとしていた。
それが今は。
服の色一つ。
歩く距離一つ。
手を繋ぐことも。
抱き締めることも。
二人で決める。
「そうですわね」
アマリリアが静かに頷く。
「小さなことでも、二人で決める方がいいです」
「うん」
ライルも隣で頷いた。
「悪くないだろ?」
「殿下」
「何?」
「またその言葉」
「婚約者だから?」
「取られました」
「早い者勝ち」
「まだ使いますの?」
「多分、一生」
「それは困りますわね」
口ではそう言いながら。
アマリリアは笑っていた。
◇◇◇
衣装が決まったあとは、茶会へ招かれている若手貴族たちの事前確認へ移った。
机の上には二十名分の簡単な資料が並べられる。顔、家名、年齢、家の立場、本人が現在担っている役割、王家との関係。さらに、直接口へ出す必要はないものの、会話の中で不用意に触れない方がよい家同士の事情まで簡潔にまとめられていた。
「アマリリアさん」
「はい」
「全部暗記しなくていいわよ」
「ですが、招かれた方々ですし」
「顔と名前、最低限の関係だけ分かれば十分。今回は外交の正式な席ではないの」
「それでは失礼になりません?」
「ならないわ。それに」
セレーネは少しだけ楽しそうに笑う。
「あなたが全員の家族構成から領地事情まで完璧に覚えて笑顔で話しかけたら、逆に怖がられると思う」
「……」
「何、その顔」
「私、以前なら普通にやっていたと思います」
「知ってる」
「王妃様も怖かった?」
「最初は少し」
「王妃様まで?」
「ええ。何を考えているのか全然分からなかったもの」
「まあ」
「今はかなり分かるけれど」
「やはりそこへ戻ります?」
「それに今は、かなり可愛いし」
「王妃様」
「何?」
「殿下といい、皆様最近その言葉を使いすぎでは?」
「事実だから」
「困ります」
「嫌?」
「嫌では……」
口にしてから止まる。
ライルが横から笑った。
アマリリアは一度だけ彼を見てから、観念する。
「……ございません」
「強くなったな」
「殿下に鍛えられました」
「またそれ」
「便利ですもの」
そうして一枚目、二枚目と資料を確認していく。
公爵家。
侯爵家。
伯爵家。
男女が半々程度。
学園で既に顔を知っている者もいれば、王宮の夜会で遠目に見ただけの者もいる。
数枚進んだところで、アマリリアの指先が一枚の資料の上で止まった。
「この方」
「誰?」
「学園で何度か見かけたことがございます」
セレーネが資料へ目を向ける。
「レティシア・フォン・クラウゼンね」
「クラウゼン侯爵家令嬢。十八歳」
アマリリアは記載された情報を追う。
「殿下と同い年ですのね」
「そうだったかな」
ライルが資料を覗き込む。
「知り合いです?」
「何度か夜会で話したことはある」
アマリリアの指が、ほんの僅かに止まった。
それだけ。
自分では隠せたと思った。
「アマリリア」
「何です?」
「今」
「何も」
「俺、まだ何も聞いてない」
「ですが何もございません」
「……」
セレーネが二人を交互に見た。
「嫉妬?」
「違います」
答えが少し早かった。
自分でも分かった。
ライルの口元が僅かに上がる。
「殿下」
「何?」
「笑わないでくださいませ」
「ごめん」
「何がおかしいのです?」
「いや」
ライルは資料へ目を戻しながらも、少し嬉しそうだった。
「君もするんだなって」
「以前も申し上げましたでしょう?」
「ディーンの時?」
「違います」
「同じだろ」
「違います」
「どこが?」
「……分かりませんけれど」
セレーネがとうとう笑った。
「アマリリアさん」
「何です?」
「レティシア嬢はね」
王妃は資料へ指先を置いた。
「かなり以前から、ライルへ好意を持っているという話はあるわ」
部屋の空気が。
ほんの少しだけ変わった。
「母上」
「何?」
「それ、今言う?」
「事前に知っておくべき情報でしょう?」
「そうだけど」
アマリリアはもう一度、資料を見る。
レティシア・フォン・クラウゼン。
十八歳。
侯爵令嬢。
社交界での評判は良好。
礼法、教養ともに高く、王宮行事への参加経験も多い。
「殿下」
「何?」
「ご存じでした?」
「好意のこと?」
「はい」
「……何となく」
「何となく?」
「直接言われたことはない。でも、周囲から少し聞いたことはある」
「そう」
胸の中へ。
小さな引っかかり。
確かに生まれる。
「では」
アマリリアは少し考えたあと、あえて聞いた。
「正式婚約前でしたら、レティシア様と殿下が婚約する可能性はございました?」
ライルが一瞬だけ止まった。
「何の?」
「婚約です」
「ない」
返事は早かった。
あまりにも。
「……なぜ?」
「君がいたから」
アマリリアが目を瞬く。
「正式な婚約者になる前から?」
「うん」
「ですが最初は仮でしたでしょう?」
「俺の中では」
ライルは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「途中から、もう他を考える気がなかった」
「……」
胸が強く鳴った。
レティシアの資料を見た時に生まれた小さなざらつきが、一気に別の熱へ変わっていく。
「殿下」
「何?」
「ここ、王妃様がおります」
「知ってる」
「侍女の方々も」
「いるな」
「何です、その平然としたお顔は」
「最近慣れた」
「私はまだです!」
少し離れたところでセレーネが口元を押さえている。
「王妃様」
「ごめんなさい」
「絶対に思っておりませんでしょう?」
「でも」
セレーネの表情が、そこで少し真面目なものへ変わった。
「アマリリアさん。こういうことは、今後もあるわ」
「こういうこと?」
「ライルへ好意を持つ人がいること。逆に、あなたへ好意を持つ人が出てくることも」
今度はアマリリアが目を瞬いた。
「私にも?」
「当然でしょう?」
「なぜ?」
「正式婚約をしたからといって、それまで誰かが持っていた感情まで消えるわけではないもの。それに、これから知り合って好意を持つ人だっているでしょう」
「……」
「でもね」
セレーネの声が少し落ち着いた。
「誰かを好きになることと、あなたたちの婚約を壊そうとすることは別よ」
アマリリアは黙って聞く。
「誰かがライルを好きでも、それだけで責める必要はない。逆に、誰かがあなたを好きになっても同じ。感情そのものを禁じることなんてできないし、する必要もないわ」
「ええ」
「重要なのは」
セレーネは二人を順番に見る。
「あなたたちがどうするか」
アマリリアとライルの目が合った。
「どうする?」
ライルが聞く。
「私に?」
「うん」
アマリリアはすぐには答えなかった。
以前の自分なら。
自分の所有物だと思ったものへ誰かが手を伸ばしたなら、先に相手を調べただろう。
危険なら潰す。
必要なら脅す。
近づく前に排除する。
それが最も確実だと思っていた。
でも。
今は。
ライルは所有物ではない。
自分の意思でこちらを選んだ一人の人間だ。
「何もしません」
アマリリアは静かに答えた。
セレーネが少し目を細める。
ライルも何も言わず、続きを待っている。
「相手が殿下へ好意を持っているだけなら、それだけです」
「うん」
「私はその方の気持ちを変えられませんし、変えさせる必要もない」
資料を机へ置く。
「それに」
アマリリアはライルを見る。
「殿下は私の婚約者です」
「うん」
「私が選びました」
「うん」
「殿下も、私を選んでくださったのでしょう?」
「もちろん」
迷いのない返答だった。
アマリリアの口元が僅かに緩む。
「でしたら、他の方が殿下を好きだというだけで、私が何かする理由はございません」
「強いな」
「そうです?」
「うん」
ライルの表情が柔らかくなる。
「信用しておりますので」
口から出たあと。
アマリリア自身が少し驚いた。
信用する。
誰かを。
それは以前の自分にとって、とても簡単なことではなかった。
人を信じるくらいなら、自分で確認した方が早い。
裏切られるくらいなら、最初から頼らなければいい。
そう思っていた。
今は。
自然に。
ライルを信用していると言えた。
「アマリリア」
「はい」
「俺も」
「何です?」
「君を信用してる」
今度はアマリリアが黙る番だった。
「……」
「何?」
「殿下」
「うん」
「また強いことを」
「最近慣れた」
「私は慣れておりません」
「じゃあ、お互い様」
「婚約者ですので?」
「取った」
「まあ」
横からセレーネの声が入る。
「そこだけはいつも通りなのね」
「母上」
「何?」
「今は黙ってて」
「はいはい」
そう答えながらも。
セレーネは、とても嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
昼前には衣装確認も招待客の事前確認も終わり、アマリリアとライルは一度別れることになった。
ライルは午後から王宮で執務。
アマリリアは学園へ戻り、午後の二時限だけ授業へ出席する予定である。
二人で正面玄関へ向かう長い回廊を歩いていると、先ほどまでの賑やかな応接室とは違い、足音だけが石床へ静かに響いた。
「アマリリア」
「何です?」
「さっきのレティシア嬢の話」
「ええ」
「本当に大丈夫?」
アマリリアは少しだけライルを見る。
「何がです?」
「嫌じゃない?」
誤魔化しても。
多分。
今のライルには。
かなり分かる。
だから。
「嫌かと言われれば、少しは」
正直に答えた。
ライルが少し目を大きくする。
「あるんだ」
「ございます」
「そっか」
「……殿下」
「何?」
「少し嬉しそうですわね?」
「少し」
「なぜ?」
「君も嫉妬するんだなって」
「以前もしました」
「でも今回は、俺に好意を持ってる女性の話だろ?」
「ええ」
「だから」
「殿下」
「何?」
「楽しむのはやめてくださいませ」
「ごめん」
「本当に?」
「半分くらい」
「カルロス様」
「そこ?」
アマリリアは呆れながらも、少し笑った。
「ですが」
「うん」
「嫌だからといって、その方へ何かするつもりは本当にございません」
「分かってる」
「なぜ?」
「最近の君を見てるから」
ライルの声が少し真面目になる。
「前は、自分が嫌だとか危ないと思ったら、すぐ先に動いてただろ?」
「……」
「今は、嫌だと思っただけでは動かなくなった」
アマリリアの歩みがほんの少し遅くなった。
「そう見えます?」
「うん」
「以前は?」
「黒装束」
「殿下」
「刃物」
「殿下」
「父親を踏む」
「殿下!」
「ごめん!」
ちょうど横を通った侍従が、慌てて顔を伏せた。
肩が僅かに揺れている。
「笑われております!」
「小声だっただろ」
「王宮の廊下は静かなのです!」
「悪かった」
ライルはようやく笑いを収めた。
「でも、本当に良い意味で変わったと思う」
アマリリアは数歩、何も言わず歩いた。
「殿下」
「何?」
「それは」
一度だけ息を整える。
「良い意味なのですよね?」
「かなり」
「でしたら」
胸の奥が少し温かくなる。
「嬉しいです」
「うん」
正面玄関が近づき、侍従や近衛の姿が増えてきた。
このまま外へ出れば、すぐ馬車である。
その前に。
アマリリアはほんの少しだけライルの袖へ触れた。
「殿下」
「何?」
「茶会のことなのですが」
「うん」
「もし」
少しだけ迷い。
けれど。
言う。
「私が、レティシア様のことで少し嫌な顔をしてしまっても」
「うん」
「笑わないでくださいませ」
ライルは少し驚いたあと、すぐに柔らかい顔になった。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「からかいません?」
「しない」
「なら」
「でも」
「何です?」
ライルは少しだけ声を落とした。
「本当に嫌になったら、こっち来て」
「殿下のところへ?」
「うん」
アマリリアが少し目を瞬く。
「王妃様と同じことを仰いますのね」
「母上も?」
「困ったら殿下のところへ戻っていいと」
「じゃあ」
ライルが笑う。
「戻ってきて」
何でもない。
短い言葉。
でも。
胸へゆっくり入ってくる。
「では」
「うん」
「そういたします」
「約束?」
「ええ」
ライルが反射的に手を出しかけた。
しかし、すぐ近くには侍従も近衛もいる。
気づいて、少しだけ手を止める。
その動きを見たアマリリアは、思わず笑った。
「今、手を出しかけました?」
「少し」
「繋ぎます?」
「ここで?」
「婚約者ですので」
「万能だな、その言葉」
「便利ですもの」
今度はアマリリアから手を差し出した。
ライルが少し驚く。
それでも。
すぐ。
その手を握る。
正面玄関から馬車までは、本当に僅かな距離だった。
侍従も。
近衛も。
侍女も。
当然二人を見る。
何人かの口元が僅かに緩むのが見えた。
「……見られておりますわね」
「うん」
「恥ずかしいです」
「離す?」
ライルがすぐに聞く。
アマリリアは一度だけ繋いだ手を見る。
「いいえ」
指先へ少しだけ力を込めた。
「このままで」
ライルの手も、少しだけ握る力を強めた。
「うん」
以前なら。
見られる前に。
離していた。
今は。
恥ずかしくても。
離したくないと思える。
その変化が。
少しだけ嬉しかった。
◇◇◇
午後に学園へ戻ったアマリリアは、何事もなかったように二時限分の授業を受けた。
午前中の授業を休んでいたため、教室へ入るなり何人かの令嬢から「王宮でしたの?」と聞かれたが、教師が入ってきたことで騒ぎになる前に収まった。
問題は休み時間だった。
「アマリリア様」
声をかけてきたのはルシアだった。
「ルシアさん」
「今日、午前は王宮でした?」
「ええ」
「三日後の茶会のご準備?」
「ご存じなのです?」
「学園でも少し話題になっています」
「早いですわね」
「王宮主催ですから」
ルシアは穏やかに笑った。
少し前までの疲れた様子はかなり薄れ、友人と過ごす時間も増えているらしい。
「緊張なさいます?」
「少し」
「アマリリア様でも?」
「皆様、本当に最近そこへ驚きますわね」
「以前は全然緊張しているように見えませんでしたから」
「そんなに?」
「はい」
「……まあ」
アマリリアは少しだけ苦笑した。
「最近は、少しくらい隠さなくてもいいと思っておりますので」
「殿下には?」
「殿下にも」
「皆様にも?」
「全部は嫌です」
「でも少し?」
「ええ」
ルシアの表情が柔らかくなる。
「いいですね」
「何がです?」
「そういうの」
「……」
アマリリアは少しだけ目を細めた。
「ルシアさん」
「はい」
「カルロス様とは?」
「なぜ今です?」
「お返しです」
「まあ」
ルシアの頬へ少し赤みが差した。
「昨日、友人二人も一緒に昼食を取りました」
「本当に?」
「はい」
「どうでした?」
「普通でした」
「本当に?」
「アマリリア様」
「何です?」
「殿下みたいです」
「皆様それを言います!」
二人で顔を見合わせて笑う。
それからルシアは少しだけ表情を真面目にした。
「でも、普通でよかったです」
「そう?」
「はい。前みたいに急に距離を詰められることもなくて、無理に何かを決めようとすることもなくて」
「何も起きなかった?」
「はい」
その言葉へ。
アマリリアは初デートの日を思い出した。
事件も。
追跡も。
誰かとの争いもない。
ただ歩き。
食べ。
話して。
笑った。
「分かりますわ」
「何がです?」
「何も起きない時間というのも、意外と大事です」
ルシアが少し目を細める。
「はい」
短い沈黙。
でも。
穏やかだった。
やがてルシアが、少し言いづらそうに話題を変えた。
「それから、茶会なのですが」
「はい?」
「殿下へ好意を持っていらっしゃる令嬢も参加されると」
アマリリアが目を瞬く。
「そこまで広がっておりますの?」
「いえ、そうではなく」
ルシアが少し慌てる。
「昔から社交界で有名な方がいらっしゃるので」
「レティシア様?」
「ご存じだったのですね」
「今日、王妃様から伺いました」
「そうでしたか」
ルシアは少し心配そうな顔になった。
「大丈夫です?」
今日二回目。
同じ質問。
アマリリアは小さく笑う。
「少しは嫌です」
「まあ」
「ですが」
窓の外へ目を向ける。
中庭では生徒たちが次の授業へ向けて校舎へ戻り始めていた。
「殿下を信用しております」
口へ出すと。
また。
胸の奥が温かくなる。
ルシアはしばらくアマリリアの横顔を見ていた。
「素敵です」
「何が?」
「そう言えることが」
「……」
「私も」
ルシアは少し迷いながら続ける。
「いつかカルロス様を、そう思えるくらいまで」
「急がなくてよろしいのでは?」
「はい」
「私も」
アマリリアはルシアへ顔を戻した。
「まだ作っている途中ですので」
「殿下との関係を?」
「ええ」
正式に婚約した。
大勢の前で。
自分たちの意思を伝えた。
それでも。
完成したわけではない。
むしろ。
そこから始まった。
そのことを。
今は以前よりずっと分かっていた。
◇◇◇
その夜。
ベスター伯爵家の自室で、アマリリアは机の上へ茶会の参加者一覧を広げていた。
窓の外はすっかり暗く、卓上の魔石灯が淡い光を落としている。屋敷も夜の静けさへ変わり、廊下を通る使用人の足音も昼間よりずっと少ない。
二十名分。
顔と家名。
最低限の立場。
セレーネからは、すべてを完璧に覚える必要はないと言われている。
それでも。
視線が。
どうしても。
一枚の資料へ戻る。
『レティシア・フォン・クラウゼン』
十八歳。
クラウゼン侯爵家令嬢。
ライルと同い年。
これまで何度か夜会で会話をしたことがある。
かなり以前から第一王子へ好意を持っているという噂あり。
「……」
アマリリアはゆっくり椅子へ背を預けた。
嫌ではある。
少し。
それはもう認めることにした。
好きな相手を。
別の女性が好きだと言う。
何も感じない方が不自然なのだろう。
けれど。
不安かと言われれば。
少し違う。
ライルは言った。
途中から他を考える気はなかったと。
自分を選んだと。
そして。
自分もライルを選んだ。
「信用しております」
昼間。
自分の口から。
自然に出た。
言葉。
「……」
アマリリアは資料を閉じた。
「大丈夫ですわ」
今度は。
誰かへではなく。
自分へ言う。
けれど。
興味がないわけでもない。
レティシアとは。
どんな令嬢なのだろう。
好意を隠すつもりがないとしたら。
自分へ。
ライルへ。
何を言うのか。
そして。
その時。
自分は。
どんな顔をするのだろう。
机の端には、婚約発表の日にセレーネから贈られた青星石の首飾りが置かれていた。
指先で触れる。
淡い青の中に銀や薄紫が混じり、魔石灯の角度でゆっくり色を変える。
『一つの色だけではない。人も関係も同じよ』
セレーネが言っていた。
最初と今。
同じでなくていい。
自分たちも。
変わった。
「殿下は」
アマリリアはごく小さな声で呟いた。
「私の婚約者です」
以前なら。
確認するように。
言ったかもしれない。
今は。
少し。
違う。
その言葉が。
自然に。
自分の中へ馴染んでいる。
口元が少しだけ緩む。
だから。
きっと。
大丈夫。
そう思いながら、アマリリアはレティシアの資料を他の招待客のものと同じ束へ戻した。
ただ。
この時のアマリリアは、まだ知らなかった。
三日後。
そのレティシア・フォン・クラウゼンが、陰でライルへ近づき、アマリリアのいないところで婚約を揺さぶろうとするような令嬢ではないことを。
むしろ。
アマリリア本人の目の前へ立ち。
礼節を崩さず。
王家が正式に認めた二人の婚約を尊重すると、最初にはっきり告げたうえで。
「それでも私は、殿下をお慕いしております」
そう。
真正面から言い切るほど。
厄介なくらい。
誠実な令嬢であることを。




