第34話 六つ目の正体を王妃様だけが知っているようなので、授業どころではなくなりました
翌日の午後、学園から王宮へ移動したアマリリアは、王妃教育に使われているいつもの小応接室へ足を踏み入れた瞬間から、今日の授業がいつも通りには終わらないことを悟った。
窓から差し込む午後の日差しも、壁際へ整然と並ぶ本棚も、中央の卓上へ飾られた白い花も普段と変わらない。けれど、いつもなら机の上へ積まれている外交儀礼の教本や王家主催行事の進行表、正式婚約後に増えた第一王子婚約者としての公務資料が、今日は一冊も置かれていなかった。
代わりに広げられているのは、淡い色合いの布見本と何枚もの衣装意匠図である。薄桃色、青銀色、淡い紫、白、若草色。正式な夜会用礼装ほど華美ではないが、普段着と呼ぶには明らかに上等で、若い貴族令嬢が茶会や昼の社交で身につけることを想定したものだと一目で分かった。
そして何より怪しいのが、それらの衣装案を前にして座っているセレーネの表情だった。いつも機嫌が悪いわけではないものの、今日は明らかに何かを楽しみにしている顔をしている。
「ごきげんよう、王妃様」
「いらっしゃい、アマリリアさん。今日は少し早かったのね」
「ええ。学園からの移動が思ったより順調でしたので」
挨拶を交わしたあとも、アマリリアはすぐには椅子へ座らなかった。机の上に並ぶものをもう一度確認し、それから改めて王妃を見る。
「……本日は王妃教育ですわよね?」
「そうよ」
セレーネは何の迷いもなく答えた。
「では、こちらは?」
アマリリアが机を示すと、セレーネは当然のように一言だけ返す。
「教材」
「私には衣装にしか見えませんけれど」
「衣装選びだって、王族の婚約者には必要な教育でしょう?」
「それ自体には同意いたします」
「でしょう?」
「ですが」
アマリリアは机の近くまで進み、意匠図の一枚をそっと持ち上げた。薄い水色を基調とし、袖口と腰回りに銀糸の刺繍を入れた、午後の茶会に合いそうな軽やかなドレスである。
「なぜ昨日まで一度も見せていただかなかった衣装案が、今日に限ってこれだけ用意されておりますの?」
セレーネが一瞬だけ黙った。
ほんの僅かな間だったが、最近相手の表情や沈黙から考えを読むことを覚え始めたアマリリアには、それで十分だった。
「王妃様」
「何かしら?」
「何を企んでいらっしゃいます?」
「企むなんて失礼ね」
「でしたら、何をそれほど楽しみにしていらっしゃるのです?」
問い詰められているというのに、セレーネは困るどころか、むしろ先ほど以上に楽しそうに口元を緩めた。
「六つ目まで行ったら、次は何を着ようかしらと思って」
アマリリアの身体が完全に止まった。
昨夜、自室の寝台へ入ってから何度も頭へ浮かんでは、そのたびに無理やり追い出そうとした言葉。それとほとんど同じものを、まさか翌日の王妃教育開始直後に聞かされるとは思わなかった。
「……王妃様」
「何?」
「今、何と仰いました?」
「次は何を着ようかしら、と」
「そこではございません!」
「あら」
「六つ目の方です!」
思わず声が大きくなり、廊下で待機している侍女たちの気配が一瞬だけ止まった。アマリリアはすぐにそれへ気づき、頬を熱くしながら声を抑える。
「なぜ王妃様が、六つ目という言葉をご存じなのです?」
「何のことかしら」
「そのお顔で誤魔化せていると思わないでくださいませ」
「そう?」
「まったく」
セレーネは頬へ指を添え、わざとらしく考えるような仕草をしてから、ようやく口を開いた。
「ライルが買った本でしょう?」
「それは以前からご存じでしたわね」
「『婚約者と過ごす百の方法』」
「題名を改めて読み上げないでくださいませ!」
「可愛い題名じゃない」
「今はそういう問題ではございません!」
アマリリアが額へ手を当てると、セレーネは楽しそうに笑いながら説明を続けた。
「昨日、ライルの自室へ寄った時に机の上へ置いてあったのよ」
「……寄った?」
「ええ」
「それで?」
「少し開いたわ」
「王妃様!」
「だって、栞が挟まっていたのよ?」
「だから何ですの!?」
「どこまで読んでいるのかしらと思うでしょう?」
「普通は思っても勝手には読みません!」
「母親は気になったら読むの」
「初めて聞きました、その規則!」
セレーネはとうとう声を立てて笑った。
アマリリアは頭が痛くなってきた気がして、ゆっくり息を吐く。ここまで聞けば、ライルが昨日あれほど頑なに本を貸したがらなかった理由も、少し分かるような気がした。
本人ですら口に出すことを躊躇う内容を、よりによって母親へ先に読まれているのである。
「殿下……」
「何?」
「少し可哀想になってまいりました」
「なぜ?」
「王妃様の息子だからです」
「失礼ね」
「今だけは本気です」
セレーネは少し頬を膨らませたものの、すぐに興味を別のところへ戻した。
「それで?」
「何がです?」
「五つ目は?」
今度はアマリリアの方が黙る番だった。
「……」
「アマリリアさん?」
「王妃様は、当然五つ目が何なのかもご存じですわよね?」
「ええ」
「でしたら、なぜ聞くのです?」
「本に書いてあることと、実際にあなたたちがしたことは別でしょう?」
逃げ道がなくなった。
アマリリアは黙ったまま視線を逸らす。
それだけで、セレーネには十分だったらしい。
「まあ」
「王妃様」
「したのね?」
「授業を始めましょう」
「抱き締めた?」
「本日の授業を」
「ライルから?」
「王妃様!」
とうとうアマリリアは机へ両手をついた。セレーネはまったく悪びれず、笑いながら肩をすくめる。
「ごめんなさい」
「絶対に反省しておりません」
「半分くらいは」
「カルロス様と同じような返事をしないでくださいませ!」
「あなた、それ最近とても便利に使うわね」
「便利ですので!」
王妃教育が始まってから既に相当な時間が経っているにもかかわらず、外交も礼法も一文字として進んでいない。
アマリリアは諦めたように息を吐くと、ようやく自分の席へ腰を下ろした。
「もう結構です」
「何が?」
「五つ目についてです」
「教えてくれるの?」
「嫌です」
「まあ」
「殿下と私のことですので」
その一言だけは、アマリリアも冗談にしなかった。
するとセレーネの表情から、からかう色が少し薄れた。
「……そうね」
「王妃様?」
「ごめんなさい。少し楽しみすぎたわ」
今度の謝罪は、先ほどまでとは違った。
アマリリアもそれを感じ取り、肩へ入っていた力を少しだけ抜く。
「少しだけ?」
「かなり」
「正直ですわね」
「あなたも最近は随分正直でしょう?」
「……否定できません」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
王妃という立場と第一王子の婚約者という立場だけで考えれば、本来ならこんな会話をする関係ではないのかもしれない。けれど今のアマリリアにとって、セレーネは教育係であり、ライルの母であり、そして時々ひどく距離の近い年上の女性でもあった。
もっとも、その距離が近すぎる時があるのはかなり困るのだが。
「それで」
アマリリアは気持ちを切り替えるように意匠図へ目を戻した。
「結局、こちらは何のために用意されたのです?」
「今度こそ本当に教育よ」
「本当に?」
「疑い深いわね」
「先ほどまでの王妃様を見たあとですので」
「それもそうね」
セレーネは机の端に置かれていた予定表を一枚取り出した。
「三日後、王宮主催で小規模な親睦茶会を開くの」
「初めて伺いました」
「正式婚約が発表されたでしょう? だから今度は、もう少し近い距離で若い貴族たちと顔を合わせてもらおうと思って」
アマリリアは予定表を受け取った。
招待客は二十名程度。国内の若手貴族を中心に選ばれており、王家からはセレーネ、ライル、そしてアマリリアが参加する。アルベルトは別件の執務があるため、今回は欠席予定らしい。
「私と同年代から、少し上くらいまでですのね」
「ええ。各家の跡取りや、その兄弟姉妹が中心よ」
「目的は、正式婚約した第一王子と婚約者を近い距離で知ってもらうこと?」
「その通り」
「つまり」
アマリリアは予定表から顔を上げた。
「私が見定められる場でもある」
セレーネは満足そうに頷いた。
「その認識でいいわ」
「やはり」
「でも、悪意ばかりではないのよ。将来的にライルが王太子、そして国王となる可能性は高い。そうなれば、あなたも国の中心に立つことになる」
「ええ」
「正式な大広間で遠くから見るだけでは、どんな人物なのか分からないでしょう? だから今回は、もう少し気楽な場で話をしてもらうの」
アマリリアは改めて衣装案へ目を落とした。
「それで、このドレスですのね」
「そう」
「六つ目とは無関係」
「半分くらい」
「王妃様」
「冗談よ」
「本当に?」
「……八割くらいは」
「増えておりますわよ!?」
結局、本当の意味で王妃教育が始まるまでには、そこからさらに少し時間が必要だった。
◇◇◇
同じ頃、王宮東棟の執務室では、ライルが妙な落ち着かなさを抱えたまま仕事を続けていた。
大きな窓から午後の日差しが差し込み、少し離れた机では文官たちが書簡や報告書を整理している。紙をめくる乾いた音とペン先が走る細かな音だけが続く室内で、本来ならライルも目の前の執務へ集中しているはずだった。
しかし。
「殿下」
向かいに立つディーンが、とうとう見かねたように声をかけた。
「何?」
「先ほどから同じ書類を三度読まれております」
「……」
「何か難しい内容でも?」
「違う」
「では?」
ライルは手にしていた書類を机へ置いた。
「母上が」
「王妃陛下が?」
「今、アマリリアと王妃教育してる」
「そうですね」
「嫌な予感がする」
ディーンは一瞬だけ黙った。
「具体的には?」
「本」
今度はディーンの目が僅かに動いた。
ライルはすぐにその変化へ気づく。
「何で今黙った?」
「いえ」
「知ってる?」
「何をでしょう」
「俺が買った本」
「『婚約者と過ごす百の方法』でしょうか」
「何で知ってるんだ!?」
ライルの声が執務室へ響き、少し離れた机で作業していた文官二人が同時に顔を上げた。
「殿下」
「何」
「王宮外から持ち込まれた書籍については、一応記録が残ります」
「……そうだった」
「昨日も似たご説明をした覚えがございます」
「忘れてた」
ライルは片手で額を覆った。
「母上も知ってる?」
「恐らく」
「読んだと思う?」
「……」
「ディーン」
「可能性はございます」
「高い?」
「かなり」
「終わった」
「何がです?」
「俺の平穏」
ディーンは少し考えてから、真顔で答えた。
「元々ございました?」
ライルがゆっくり顔を上げる。
「最近みんなアマリリアみたいになってない?」
「むしろ殿下が周囲へ影響されていらっしゃる可能性もございます」
「俺が?」
「はい」
言い返そうとして、ライルはやめた。
確かに最近、自分でも以前より感情が表情へ出るようになった気はしている。そして原因の大半がアマリリアであることも、もう否定できない。
「ディーン」
「はい」
「執務が終わったら母上のところへ行く」
「アマリリア様のお迎えでしょうか」
「それも」
「それも?」
「本の確認」
「どちらが主目的です?」
「半分ずつ」
ディーンの口元が僅かに緩んだ。
「正式な婚約者らしくなられましたね」
「どこが?」
「お迎えが半分あるところです」
「……」
ライルの耳が少し赤くなる。
「仕事戻る」
「はい」
「今の忘れて」
「努力します」
「カルロスみたいな返事をするな!」
執務室の隅で、文官二人が今度こそ堪えきれず肩を震わせた。
◇◇◇
王妃教育の後半は、ようやく本来の内容へ戻っていた。
セレーネは若手貴族との親睦茶会で注意すべき点を一つずつ説明し、アマリリアは必要な部分を手元の紙へ書き留めていく。
「今回は正式な外交の場ではないから、全員へ家格順に厳密な挨拶を繰り返す必要はないわ。ただし、あなたが特定の家の者とだけ長く話せば、それだけで余計な意味を取られることはある」
「派閥形成を疑われる可能性です?」
「そう。正式婚約直後だから、特にね」
「でしたら、基本的には広く均等にお話しします」
「ええ。ただし」
セレーネは紅茶を一口飲み、少しだけ間を置いた。
「ライルの側へずっと張りついている必要もないわ」
「そうなのです?」
アマリリアが顔を上げる。
「婚約者だからといって、常に二人一組で動くわけではないもの。ライルが別の者と話している間、あなたはあなたで他の令嬢や子息と交流することになるわ」
「私一人で話す場面もある」
「当然。それに今回は、むしろそこを見られるでしょうね」
「第一王子の隣にいる者としてではなく、私自身がどんな相手と、どんな話をするのか」
「ええ」
アマリリアは無意識に指先へ少し力を入れた。
正式婚約発表の日、ライルはずっと隣にいてくれた。国王の宣言を聞く時も、自分たちの言葉を大広間へ届ける時も、招待客から祝福を受ける時もそうだった。
けれど今度は違う。
第一王子ライル・アースハルトの婚約者という肩書だけではなく、アマリリア・ベスターという一人の人間がどんな人物なのかを見られる場になる。
「緊張した?」
セレーネの問いに、アマリリアは少しだけ考えてから頷いた。
「少し」
「それでいいのよ」
「王妃様?」
「何も感じないより、ずっといい。あなたが王家へ入ることの重みをきちんと理解しているということだから」
セレーネは穏やかに微笑んだ。
「でも、困ったらライルのところへ戻っていいのよ」
「戻って?」
「ええ」
「教育の場なのに?」
「教育の場だからこそよ」
アマリリアが少し目を瞬く。
「一人で全部できるようになることだけが、成長ではないわ」
その言葉は、思っていた以上に胸へ残った。
以前の自分なら、誰かに頼ることも、戻ることも、助けを求めることも、どこかで弱さだと思っていた。
自分でできるなら自分でする。できなくても何とかする。必要なら黒装束を使い、それでも駄目なら相手を脅す。それが、自分にとって一番手っ取り早く確実な方法だった。
「殿下へ頼ることも?」
「できる方がいいわ」
「……」
「あなたたちは婚約者でしょう?」
「はい」
「王家としても、いずれ夫婦としても、お互いに補い合うことになるのだから」
夫婦。
その言葉に、アマリリアのペン先が止まった。
セレーネはすぐに気づいたものの、今度はすぐには茶化さなかった。
「ほんの少し前まで、婚約するのかしないのか、カルロスとの件をどうするのか、王家への申請をどうするのかで大騒ぎしていたでしょう?」
「……ええ」
「今はもう、その先を考えてもいいところまで来たのよ」
アマリリアは何も返さない。
「もちろん婚姻はまだ先。でも、あなたたちがそこへ向かって二人の関係を作っていく時間は、もう始まっているわ」
アマリリアは視線を手元へ落とした。
手を繋いだ。
特別な呼び方をした。
二人だけで出かけた。
抱き締めた。
昨日は二度目の抱擁で、自分からライルの背へ腕を回した。
まだ六つ目すら正式には聞いていない。
それなのに、道のずっと先には確かに婚姻という未来がある。
「王妃様」
「何?」
「少し先のお話が早すぎません?」
「そう?」
「私はまだ六つ目すら――」
言ったところで。
自分から止まった。
セレーネの目が輝く。
「アマリリアさん」
「忘れてくださいませ」
「自分から言ったわね」
「忘れて!」
「はいはい」
セレーネが楽しそうに笑う。
アマリリアは額を押さえながら、小さく息を吐いた。
本当に。
今日は最後まで授業へ集中できる気がしなかった。
◇◇◇
王妃教育が終わった頃には、窓の外の陽射しがかなり傾いていた。
白い壁へ差し込んでいた光は橙色へ変わり、庭園の木々も長い影を伸ばしている。アマリリアは今日使った資料を重ね、椅子から立ち上がった。
「では王妃様。三日後の茶会については、招待客の情報を今夜確認しておきます」
「ええ。衣装は明日までに決めましょう」
「分かりました」
「ライルの分も合わせて見るわ」
「私が選ぶのです?」
「完全にあなたが決めるわけではないけれど、並んだ時の色合いは合わせたいでしょう?」
「でしたら、殿下にも来ていただいた方がよろしいですわね」
「そうね」
そこまでは、ようやく普通の王妃教育だった。
ところが、セレーネの口元がまた少しだけ上がる。
「それから」
「王妃様」
「何?」
「今、六つ目と言おうとなさいました?」
「まだ何も言ってないわ」
「お顔がそう言っております」
「今日中に進んだら教えてね」
「進みません!」
「どうして分かるの?」
「殿下にも心の準備があると――」
そこまで言った時だった。
扉が開いた。
アマリリアの声が止まる。
入口にはライルが立っていた。
「……」
「……」
「まあ」
セレーネだけが、見るからに楽しそうな顔をした。
「母上」
「何?」
ライルは母親ではなく、ゆっくりアマリリアへ視線を向ける。
「今、何の話してた?」
「殿下」
「うん」
「違います」
「まだ何も聞いてない」
「でも違います」
「何が?」
「全部です」
「無理があるだろ」
セレーネがとうとう吹き出した。
「二人とも、本当に可愛いわね」
「母上!」
「王妃様!」
二人の声が重なり、セレーネはますます楽しそうに笑う。
「ほら、息まで合ってる」
ライルは額へ手を当てた。
「母上」
「何?」
「俺の本」
「あら」
「読みました?」
ついに聞いた。
アマリリアも少しだけライルの方へ身体を向ける。
セレーネは一瞬だけ黙り、それから平然と答えた。
「少し」
「やっぱり!」
「ライル」
「何です?」
「机へ開いたまま置いていたあなたも悪いわ」
「自室です!」
「王宮よ」
「俺の部屋です!」
「母親は入れるもの」
「入れるかどうかと、人の本を勝手に読むかは別でしょう!」
さすがにアマリリアも笑ってしまった。
「アマリリア」
「何です?」
「笑わないで」
「申し訳ございません」
「絶対思ってないだろ」
「半分くらいは」
「カルロスみたいな返事!」
「まあ」
セレーネは妙に満足そうだった。
「やっぱり似てきたわね」
「母上!」
しばらく三人で言い合ったあと、最終的にライルが深いため息をついた。
「それで」
「何?」
セレーネが首を傾げる。
「どこまで読みました?」
「六つ目まで」
今度はアマリリアも、ライルも同時に黙った。
「……」
「……」
「何?」
セレーネだけが平然としている。
ライルの耳が、みるみる赤くなっていった。
「母上」
「はい」
「言わないでください」
「あら」
「絶対に」
「なぜ?」
「俺が」
ライルは一度アマリリアを見る。
視線が重なる。
「自分で言うから」
アマリリアの胸が小さく跳ねた。
「殿下」
「うん」
「……」
「でも今日は」
「分かっております」
「まだ」
「待ちます」
アマリリアが先に答えると、ライルの表情から少しだけ緊張が抜けた。
セレーネは今度だけは何も茶化さず、二人を静かに見つめた。
「そう。なら私は黙っておくわ」
ライルが疑うような目を母へ向ける。
「本当に?」
「二人のことだもの」
「……」
「私だって少しは反省したのよ」
「少し?」
「かなり」
「本当に?」
「ライル」
「はい」
「親を信用なさい」
「今かなり難しいです」
「失礼ね!」
結局。
最後は。
また笑いになった。
◇◇◇
王妃の部屋を出たあと、アマリリアとライルは並んで王宮の長い回廊を歩いていた。
今日はライルも一緒に帰れるらしい。窓の外では夕方の空が淡い金色から薄紫へゆっくり変わり始め、庭園の木々の向こうでは夜番の近衛騎士たちが持ち場へ移動している。昼間より少し冷たくなった風が開いた窓から入り、廊下へ飾られた花の香りを薄く運んでいた。
しばらく二人とも何も話さなかった。
けれど、気まずいわけではない。
むしろお互いが同じことを考えているのだと、何となく分かる沈黙だった。
「殿下」
「何?」
「王妃様、六つ目を知っておりますわね」
「うん」
「私より先に」
「それ言わないで」
「嫌です?」
「かなり」
「可愛いですわ」
「君、本当に最近それ好きだな」
「本心ですので」
「強い」
ライルは少しだけ笑い、アマリリアもつられるように口元を緩めた。
「でも、少し安心しました」
「何が?」
「王妃様が言わないでくださったことです。それから」
アマリリアは隣を見た。
「殿下が、自分で言うと仰ったことも」
ライルの歩みが僅かに遅くなった。
「アマリリア」
「はい」
「本当に知りたい?」
先ほどまでの軽い調子とは少し違う。
真面目な声だった。
アマリリアも自然に歩調を緩める。
六つ目。
昨日までは、ただ知りたかった。
ライルが隠すから余計に気になったし、本を読めば済むのなら、自分でもう一冊買ってしまえばいいとさえ考えていた。
けれど今は。
少し違う。
「知りたいです」
「うん」
「でも、殿下から聞きたいです」
「……」
「本に書かれている文章ではなく、王妃様から教えていただくのでもなく」
ライルの表情が少し変わる。
「古書店で買い直すのも?」
「いたしません」
「昨日は買うって言ってたのに」
「気が変わりました」
「どうして?」
アマリリアは少し考えてから答えた。
「六つ目が何なのかより、殿下がそれを私へどう伝えるのかの方が、気になってまいりましたので」
ライルが足を止めた。
「……」
「殿下?」
「それ、かなり困る」
「なぜ?」
「期待されてる感じがする」
「しております」
「即答?」
「はい」
「アマリリア」
「何でしょう」
「今日、本当に強い」
「殿下に鍛えられました」
「その言葉、便利すぎるだろ」
二人で笑い、再び歩き始める。
けれど今度は、先ほどよりほんの少しだけ互いの距離が近くなっていた。
「殿下」
「何?」
「今日は、五つ目は?」
今度はライルが足を止めた。
「……」
「嫌です?」
「全然」
返事は早かった。
アマリリアは少しだけ周囲を見渡す。
ここは王宮の回廊だ。遠くには侍従がおり、時折近衛騎士も通る。正式な婚約者同士とはいえ、ここで抱き締め合うほど人目を気にしなくなったわけではない。
「ここでは難しいですわね」
「そうだな」
ライルも同じ結論だったらしい。
けれど、少しだけ迷ったあと。
「帰る前に、庭園へ寄る?」
今度はライルから誘った。
アマリリアの目が僅かに大きくなる。
「殿下からお誘いくださるのです?」
「うん」
「まあ」
「何?」
「いえ」
自然に口元が緩んだ。
「嬉しいです」
ライルも少しだけ笑った。
「じゃあ行こう」
王宮正門へ向かっていた二人の足は、そのまま庭園の方へ曲がっていった。
◇◇◇
夕暮れの王宮庭園は、人の気配が少なかった。
昼間は庭師や侍女、王族へ用のある者たちが行き交う場所だが、この時間になると作業の大半は終わり、巡回中の近衛が遠くに見える程度である。
日中の熱を僅かに残した石畳を、夕方の冷たい風が撫でていく。花壇からは柔らかな甘い香りが漂い、頭上では鳥が枝を移るたび、葉の触れ合う小さな音が聞こえた。
二人は庭園の奥にある、背の高い生垣に囲まれた小さな休憩所まで歩いた。
初デートで訪れた公園ほど開けてはいない。王宮内である以上、安全も確保されている。
何より。
静かだった。
「ここなら」
ライルが一度だけ周囲を確かめる。
「誰も近くにはいない」
「護衛は?」
「見えない距離にはいる」
「やはり」
「王族だから」
「分かっております」
二人は向かい合った。
それから少しだけ、何も言わない時間が続く。
「殿下」
「何?」
「先ほどまでは、あれほど自然にお話しできておりましたのに」
「何が?」
「五つ目をしようと思った途端、急に変です」
「君もだろ」
「私は」
「今、手をどこへ置くか考えた?」
アマリリアが黙る。
「当たり?」
「殿下」
「ごめん」
それでも二人で笑えた。
その笑いのおかげで、張りつめていた緊張が少しだけほどける。
ライルが一歩近づいた。
「いい?」
「はい」
「本当に?」
「何度でも聞きますのね」
「何度でも聞くよ」
その返事が。
アマリリアはやっぱり好きだった。
「でしたら、私も何度でも答えます」
一度だけ呼吸を整える。
「いいです」
ライルがゆっくり腕を伸ばした。
今度のアマリリアは、ただ待たない。
自分から一歩近づき、彼の胸元へ入る。
肩が触れ、背中へライルの腕が回る。アマリリアも自然に彼の背へ腕を回した。
三度目の抱擁。
昨日の二度目より、さらに自然だった。
それでも。
心臓だけは。
まったく慣れてくれない。
「殿下」
「何?」
「三回目ですわね」
「数える?」
「本のせいです」
「母上に読まれた本?」
「言わないでくださいませ」
ライルが小さく笑い、その胸の動きがアマリリアの頬へ伝わった。
そんなことすら。
今は。
少し心地よかった。
「アマリリア」
「はい」
「俺」
「何です?」
ライルはほんの少しだけ言葉を迷った。
「五つ目、かなり好きかも」
アマリリアの呼吸が一瞬止まる。
「……」
「何?」
「殿下」
「うん」
「今の言葉、かなり恥ずかしいです」
「俺も言ってから思った」
「では言わないでくださいませ」
「でも本当」
「……」
「嫌?」
「逆です」
「また?」
「はい」
アマリリアはライルの背へ回した腕へ、少しだけ力を込めた。
「私も、好きです」
今度はライルが黙った。
「……」
「殿下?」
「聞こえた」
「でしたら何か」
「今、離したくなくなった」
アマリリアの胸が大きく鳴った。
それでも。
怖くはなかった。
「でしたら」
「うん」
「もう少しだけ、このままでいましょう」
初めて抱き締めた日と同じ言葉。
でも、今はあの時とは違う。
驚きや戸惑いだけで腕の中にいるのではない。
自分が望んで。
ここにいる。
それをアマリリア自身が理解していた。
ライルの心臓は相変わらず速い。
自分も同じ。
そのことが、今ではむしろ安心につながる。
どちらかだけが先へ行っているわけではない。
二人とも同じように恥ずかしくて、嬉しくて、少し怖くて。
それでも近づきたいと思っている。
しばらく二人は何も話さなかった。
風が花の香りを運び、頭上で葉が柔らかく揺れる。遠くから王宮の鐘が一度だけ響き、その音が夕暮れの庭園へゆっくり溶けていった。
やがてライルの腕が少し緩む。
二人の身体がゆっくり離れる。
けれど。
完全には離れなかった。
顔が近い。
昨日より、少しだけ。
「殿下」
「うん」
ライルはアマリリアを見つめた。
何かを言いたそうにしている。
けれど迷っている。
「六つ目?」
アマリリアが先に尋ねると、ライルの目が少し大きくなった。
「……分かる?」
「最近、殿下に鍛えられましたので」
「そこでも使う?」
「便利ですもの」
二人で小さく笑う。
けれどすぐ、また静かな空気へ戻った。
「今日は?」
アマリリアが尋ねる。
ライルは一度だけ深く息を吸った。
「まだ、心の準備ができてない」
「そう」
「ごめん」
「なぜ謝りますの?」
「期待させたかなって」
アマリリアは少し考えた。
初デートの最後。
ライルが近づいてきて。
自分は思わず目を閉じかけた。
結局、彼が取ってくれたのは髪についていた小さな葉だった。
あの時は恥ずかしくて、何を期待したのか認めることすらできなかった。
今は。
少し違う。
「少しは期待しました」
ライルの目が揺れる。
「……」
「でも」
アマリリアは逃げずに彼を見る。
「待つと申し上げたでしょう?」
「うん」
「でしたら、今日は五つ目までです」
少しだけ笑ってそう告げると、ライルの表情もゆっくり柔らかくなった。
「ありがとう」
「その代わり」
「何?」
「六つ目については、殿下が言える時になりましたら、きちんと殿下の言葉で教えてくださいませ」
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「約束です?」
ライルは少しだけ考え、それから片手を差し出した。
「約束」
アマリリアはその手を見た。
ついさっきまで抱き締め合っていたのに。
ただ手を繋ぐだけで、また少し嬉しくなる。
その感情を今度は隠さず、アマリリアは差し出された手へ自分の手を重ねた。
「では」
「うん」
「待ちます」
二人は手を繋いだまま、ゆっくり庭園の出口へ向かって歩き始めた。
夕暮れの空は薄紫へ変わり、その下で王宮の窓へ一つずつ灯りが入り始めている。少し前まで賑やかだった昼の王宮が、夜の静けさへ向かって移り変わっていく時間だった。
最初は、六つ目が何なのかをただ知りたかった。
ライルが本を隠すから余計に気になったし、王妃だけが先に内容を知っていることも少し悔しかった。
けれど今は違う。
何が書かれているかよりも。
ライルが。
いつ。
どんな顔で。
どんな言葉を選んで。
それを自分へ伝えてくれるのか。
そちらを待ちたいと思う。
まだ答えを聞いてはいない。
それでもアマリリアには、ほとんど分かっていた。
六つ目はきっと。
初デートの最後に、自分が思わず目を閉じそうになった理由と。
かなり近い。
でも、急がなくていい。
本に書かれた順番へ追いつく必要などない。
ライルの心の準備ができるまで。
そして自分も、本当にその瞬間を望めるまで。
二人で少しずつ近づけばいい。
そう思えるようになったアマリリアは、この時まだ知らなかった。
三日後に開かれる若手貴族たちの親睦茶会で。
正式婚約発表後、初めて。
ライルへ真正面から。
「婚約者がいらっしゃることは、もちろん承知しております」
そう前置きしたうえで。
それでも自分の好意を隠すつもりのない一人の令嬢が。
アマリリアの目の前へ姿を現すことを。




