第33話 六つ目を知らないふりをしていたのに、殿下が本を隠すので余計に気になりました
初めてライルと抱き締め合った翌朝、アマリリアは目を覚ました瞬間から昨日のことを思い出していた。
正確には、目を覚ます前から意識のどこかに残っていたのかもしれない。夢の中にまでライルが出てきたわけではないのに、浅い眠りから意識が浮かび上がった途端、真っ先に蘇ったのは王宮の渡り廊下で抱き締められた時の体温だった。
肩から背へゆっくりと回された腕。礼服越しにも分かった身体の温かさ。思っていたよりずっと近くで聞こえた呼吸と、自分の頬のすぐそばで速く鳴っていた心臓の音。
思い出すだけで、アマリリアの胸まで昨日と同じように落ち着かなくなる。
「……」
まだ朝の光が淡く差し込む寝室で、アマリリアは枕へ頬を押しつけたまましばらく動かなかった。窓の外では庭師たちが仕事を始めているらしく、枝葉を揺らす音と、遠くで石畳を掃く箒の音が規則正しく聞こえている。
世界はいつも通りの朝を迎えているのに、自分の頭の中だけが昨日から先へ進んでくれない。
「昨日の私、かなり大胆だったのではなくて?」
誰もいない部屋で小さく呟いてみる。
そもそも最初に「五つ目をしてみます?」と言い出したのは自分だった。ライルが迫ったわけでもなければ、雰囲気に流されて断れなかったわけでもない。王妃セレーネから、婚約者同士の距離は「二人とも嫌ではないことが大切」だと教えられ、それなら自分で選んでみようと思ったのだ。
だから、抱き締めてもらったことそのものに後悔はない。
むしろ問題なのは、そのあとだった。
『もう少し、このままで』
あの言葉まで、自分から言った。
「……なぜ、そこまで素直になりましたの」
掛け布団を引き上げ、ついには鼻先まで隠す。
もちろん理由は分かっている。
離れたくなかったからだ。
ライルの腕の中は思っていたよりもずっと温かく、胸の音が聞こえるほど近いというのに、不思議なくらい怖くなかった。むしろ、いつも一人で立っている時より安心してしまった。
だから、もう少しだけ近くにいたいと思った。
そこまでは認めてもいい。
問題は、そのことを思い出すたびに恥ずかしくなることだった。
しかも最後には、ライルから「またしたい?」と聞かれている。そして自分は、ほとんど間を置くことなく「嫌ではありません」と答えてしまった。
「……素直になるにも限度というものがございません?」
誰へともなく問いかける。
当然、答えはない。
けれど胸の奥では、昨日はあれでよかったのだと思っている自分もいた。
以前のアマリリアなら、恥ずかしい感情ほど隠そうとした。動揺を見せず、困っても平然として、自分の弱い部分を相手へ渡さない。それが自分を守る方法であり、強さなのだと考えていたからだ。
けれど、ライルの前では。
少しくらい分かりやすくてもいいのかもしれない。
昨日は、そんなことを頭で整理するより先に、身体が覚えてしまった気がしていた。
「お嬢様」
控えめなノックとともに、扉の外から侍女の声が聞こえた。
「起きていらっしゃいますか?」
「……起きております」
「お声が少し眠そうですが、昨夜はよくお休みになれました?」
「それなりに」
一瞬だけ返答が遅れた。
それを扉の向こうの侍女は見逃さなかったらしい。
「本当に?」
アマリリアは掛け布団を下げ、天井を見つめながら小さくため息をついた。
「皆様、最近その聞き方がお好きですわね」
「殿下から教えていただいたわけではございませんよ?」
「まだ殿下のお話など一言もしておりません」
「ですが、殿下のお話でしょう?」
「侍女さん」
「はい」
「朝から勘のよすぎる方は嫌われますわよ」
「では気をつけます」
扉越しでも分かるほど、声には笑いが混じっている。
「その返事、まったく信用できませんわ」
小さな笑い声が返ってきた。
正式な婚約者となってからというもの、なぜか自分の周囲には恋愛事情へ妙に敏感になる者ばかりが増えている。
アマリリアはもう一度ため息をつくと、ようやく寝台から降りた。
◇◇◇
朝食の席へ向かうと、意外にもハロルドから昨日のことについて何も聞かれなかった。
父は新聞を片手にいつも通り朝食を取り、向かいに座るアレクもパンへ果実のジャムを塗りながら、今日届く予定の領地関係の書簡について確認している。
あまりにも普通だった。
だからこそ、アマリリアは席へ着いた瞬間から警戒した。
「おはようございます」
「おはよう、リリア」
「おはよう」
ハロルドもアレクも普段通りの声で挨拶を返す。
アマリリアはスープへ手を伸ばしながら、二人を交互に見た。
「……」
「何だ?」
視線に気づいたハロルドが、新聞から顔を上げる。
「何でもございません」
「そうか」
また新聞へ戻った。
ますます怪しい。
昨日は王宮から直接帰宅した。渡り廊下でライルと抱き締め合ったことを、父が知っているはずはない。
とはいえ、王宮には近衛も侍従もいる。ゼインたちもアマリリアの護衛として動いている以上、情報がどこから伝わっても不思議ではなかった。
「お父様」
「何だ」
「何か聞きました?」
ハロルドの新聞がぴたりと止まった。
「何を?」
「昨日のことです」
「昨日?」
「王宮で」
その瞬間、アレクの口元が僅かに緩んだ。
アマリリアは見逃さない。
「兄様」
「何だ?」
「何か知っておりますね?」
「何を?」
「その返し、お父様とまったく同じですわ」
「親子だからな」
「そういう時だけ親子らしさを発揮しないでくださいませ」
アマリリアは二人へ疑いの目を向けた。
ハロルドもアレクも妙に視線を合わせようとしない。
「リリア」
ハロルドが少し咳払いをした。
「何だ、その疑うような目は」
「昨日、私は王宮で何をしていたと聞いております?」
「王妃教育だろう」
「それだけ?」
「あと……」
ハロルドの視線が僅かに泳ぐ。
「殿下と少し話していたと聞いた」
「誰から?」
「護衛だ」
やはり何かしら報告は来ていたらしい。
「どこまで?」
「どこまでとは何だ」
「お父様」
アマリリアが綺麗に微笑むと、アレクがそっとパンを皿へ戻した。
「父上」
「分かっている」
ハロルドは観念したように新聞を畳む。
「本当に詳しいことは聞いていない」
「詳しいこと?」
「リリア、言葉の揚げ足を取るな」
「取られるような言葉を選ぶ方が悪いのです」
「お前は昔から本当にそういうところが!」
「それで、何を聞いたのです?」
逃がす気はない。
ハロルドはしばらく苦い顔をしていたが、やがて渋々口を開いた。
「王宮の渡り廊下で、殿下とお前が……その、かなり距離を縮めていたと」
「距離」
「それ以上は知らん!」
なぜかそこだけ妙に強い。
「本当に?」
「ああ!」
「抱き締めたとは?」
ハロルドの手から新聞が落ちた。
同時に、アレクが無言で顔を覆う。
そしてアマリリアも、自分が今何を口にしたのか理解するまで数秒を要した。
「……」
三人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
最初に口を開いたのはアレクだった。
「リリア」
「……何でしょう」
「今、自分で言ったな」
「……」
「父上は知らなかったぞ」
ハロルドの顔が、ゆっくりとアマリリアへ向けられた。
「抱き……」
「お父様」
「抱き締めた!?」
「声が大きいです!」
「殿下がお前を!?」
「正式な婚約者です!」
「昨日の今日で!?」
「何が昨日の今日ですの!?」
「デートの翌日だぞ!」
「だから何なのです!」
ハロルドは今度は勢いよくアレクへ向き直った。
「アレク!」
「はい」
「これは普通なのか!?」
突然判断を求められたアレクは、さすがに困ったような顔をした。
「まあ……婚約者なら」
「普通!?」
「父上、顔が近いです」
「答えろ!」
「抱き締めるくらいなら、別におかしくないでしょう」
その一言で、ハロルドが完全に固まった。
「……くらい」
「父上?」
「抱き締めるくらい……」
「壊れましたわね」
「リリアのせいだろ!」
アマリリアは額へ手を当てた。
完全な自爆だった。
「お父様、まず落ち着いてくださいませ」
「お前が言うな!」
「私は落ち着いております」
「顔が赤い!」
「朝日です」
「今日はお前が窓側だ!」
「では本当に朝日のせいですわね」
「誤魔化すな!」
とうとうアレクが耐えきれず笑い始めた。
「兄様」
「悪い。でも、まさかリリアが自分から父上へ教えるとは思わなかった」
「私も思っておりませんでした!」
ハロルドは両手で顔を覆う。
「抱き締めた……」
「まだ言います?」
「手の次は本当にそこだった……」
「お父様!」
「私は予想していた!」
「当たって嬉しいです?」
「嬉しいわけあるか!」
朝の食堂へ大きな声が響き、扉の向こうでは使用人たちが明らかに足を止めている気配がした。
「皆様!」
アマリリアが少し声を張ると、廊下の足音が一斉に遠ざかっていく。
アレクはまだ肩を震わせている。
「兄様、絶対に反省しておりませんね?」
「少しだけ」
「カルロス様のような返事を」
「それ、便利だな」
ハロルドはようやく顔を上げた。
「リリア」
「何です?」
今度の声は、先ほどまでとは違って静かだった。
「嫌ではなかったのか」
アマリリアの表情が少し変わる。
「……はい」
「殿下に押されたわけではない?」
「違います」
「お前が……いいと思った?」
からかうためではない。
純粋に、娘が嫌な思いをしていないか心配している。
以前なら、その心配すら余計だと思ったかもしれない。何も聞かず勝手に婚約を決めた父に、今さら口を出されたくないと突っぱねていただろう。
けれど今は、少し違う。
「私から言いました」
アマリリアは正直に答えた。
ハロルドの表情が、また微妙に崩れる。
「お前から?」
「はい」
「……」
「お父様?」
「娘の成長が速い」
「何のです?」
「娘としてのだ!」
「私は以前から同じ年齢です!」
「そういう意味ではない!」
アレクがまた笑う。
それでも最後には、ハロルドは大きく息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうか」
「何です?」
「お前が自分で決めたなら、私が口を出しすぎることではない」
アマリリアは少し目を丸くした。
少し前の父なら、娘の意思よりも自分の心配を優先したはずだ。今は少なくとも、心配しながらも最後の判断をアマリリア自身へ返そうとしている。
「お父様」
「何だ」
「最近、本当に成長なさいましたね」
「お前が言うな!」
「そこは褒めたのです」
「全然そう聞こえん!」
またいつものような声が食堂へ響いた。
完全に何もかも元通りになったわけではない。
けれど、以前とは確かに違う。
父も少しずつ、娘の人生を娘自身へ返そうとしている。
それが分かるからこそ、今の過保護は鬱陶しくても、以前ほど腹が立たなかった。
◇◇◇
学園へ向かう馬車の中で、アマリリアはしばらく額へ手を当てたまま窓の外を眺めていた。
朝の王都はいつもと変わらない。商人たちが店を開き、学生たちが通りを急ぎ、荷馬車がゆっくりと石畳を進んでいる。春の終わりを感じさせる柔らかな風が、時折馬車の小窓から入り込んできた。
向かいに座るゼインはしばらく何も言わなかったが、やがて静かに口を開く。
「お嬢様」
「何です?」
「今朝、何かございました?」
「聞かないでくださいませ」
「旦那様のお声が屋敷の外まで聞こえておりましたので」
「なおさら聞かないでください」
「承知しました」
ゼインは素直に引いた。
しかし少し間を置いてから、何でもないことのように続ける。
「昨日の件でしょうか」
「ゼイン」
「はい」
「あなた、お父様へ何を報告しました?」
「王宮内で、お嬢様と殿下が短時間会話されたことです」
「それだけ?」
「はい。接触の詳細については、王宮内であり安全上の問題もなかったため、省いております」
「……」
アマリリアはゆっくり顔を上げた。
「では、お父様は本当に何も知らなかったのですね」
「何をでしょう」
「忘れなさい」
「まだ何も伺っておりませんが」
「それでも忘れなさい」
ゼインは一度だけ黙り、それから妙に丁寧に頷いた。
「承知しました」
「今の間は何です?」
「何も」
「本当に?」
「はい」
かなり怪しい。
だが、これ以上掘り下げればまた自分から余計な情報を渡す未来が見えたので、アマリリアは追及を諦めた。
もう一度窓の外を見る。
たった一度、好きな人と抱き締め合った。
それだけのことで、今日ライルへ会うことまで意識している自分がいる。
「お嬢様」
「何です?」
「楽しそうですね」
「どこがです?」
「先ほどから、口元が少し」
アマリリアはすぐに顔を戻した。
「見ないでくださいませ」
「正面におりますので」
「殿下と同じことを!」
ゼインの口元が僅かに上がる。
それを見たアマリリアはますます困った顔になったが、今度はその表情を完全に隠そうとはしなかった。
◇◇◇
学園へ到着してからも、アマリリアの気持ちは完全には落ち着かなかった。
今日もライルと会う。
ただそれだけである。
毎日のように顔を合わせているのだから、何も特別なことではない。けれど昨日抱き締め合ったという事実が一つ加わっただけで、今までとまったく同じ顔で会える自信が少しなくなっている。
教室へ入ると、何人かの令嬢がすぐに声をかけてきた。
「おはようございます、アマリリア様」
「おはようございます」
「今日は殿下は?」
「午前の途中からいらっしゃる予定です」
「そうなのですね」
会話は普通だった。
誰も昨日の出来事など知らないはずだ。
なのに皆の口元が少し楽しそうに見えるのは、自分が意識しすぎているからだろうか。
「何です?」
「いえ」
「何も」
「本当に?」
「本当にです」
怪しい。
とはいえ学園まで王宮内の出来事が漏れているとは考えにくい。
自分が過敏になっているだけだと考え直し、一時限目、二時限目と授業を受けた。
三時限目前の休み時間。
廊下から近づいてくる足音とともに、聞き慣れた声がした。
「おはよう」
アマリリアは反射的に顔を上げる。
教室の入口に、ライルが立っていた。
「殿下」
そこまでは普通だった。
けれど次の瞬間、目が合う。
昨日、自分の背へ回された腕の感覚が鮮明に蘇った。
ライルも少し動きを止める。
アマリリアには分かった。
向こうも、同じことを思い出したのだ。
「おはよう」
「……おはようございます」
ほんの数秒。
二人の間に妙な間ができた。
そして最近の同級生たちは、その程度の変化を見逃してくれるほど遠慮深くはない。
「……何かありました?」
「ありません」
「ない」
アマリリアとライルが同時に答えた。
余計に怪しくなった。
「お二人とも、今まったく同じタイミングで」
「偶然です」
「偶然」
また重なる。
アマリリアがライルを見ると、彼の口元が少しだけ上がった。
「笑わないでくださいませ」
「ごめん」
「殿下?」
周囲の令嬢たちの目が一斉に輝く。
「何もない」
「昨日、お会いになりました?」
「王宮で」
「何を?」
「話を」
「話だけ?」
アマリリアの頬がじわりと熱くなる。
ライルはそれに気づいたらしく、明らかに話を切り上げようとした。
「ほら、授業が始まるぞ」
「殿下、逃げました?」
「違う!」
ちょうど教師が廊下の向こうから歩いてくる。
生徒たちは慌てて席へ戻った。
アマリリアも教科書を開き、小さく息を吐く。
少し離れた席から、ライルに見られている気配がした。
気づかないふりをしようとして。
結局。
見てしまう。
目が合った。
ライルが小さく笑う。
アマリリアはすぐに前へ向き直った。
「ベスター嬢」
「はい!」
教師の声へ反射的に返事をしたものの、教師は少し困ったように眉を上げた。
「まだ何も聞いていません」
一瞬の静寂のあと、教室中に笑いが広がった。
「……失礼いたしました」
アマリリアは本気で机へ顔を伏せたくなった。
◇◇◇
昼休みになると、二人は半ば逃げるようにいつもの中庭へ移動した。
春の終わりを感じさせる若い葉を風が揺らし、木陰へ置かれた石卓には柔らかな木漏れ日が落ちている。校舎から少し離れているため、生徒たちの話し声もここまで来れば遠く、朝から視線を集め続けた二人にとっては貴重な休息場所だった。
食堂でもらったパンと温かなスープを卓上へ並べると、ようやくアマリリアも少し肩の力を抜いた。
「最悪ですわ」
椅子へ座るなり呟く。
「何が?」
「殿下のせいです」
「俺?」
「目を合わせるからです」
「君も見た」
「殿下が先です」
「どっちが先かなんて分からないだろ」
「では殿下のせいということで」
「理不尽だな」
ライルは笑いながら向かいへ座った。
アマリリアはスープへ手を伸ばしたものの、すぐには口へ運ばず、しばらく湯気を見つめていた。
ライルも最初は何も言わない。
やがて、冗談ではない静かな声で口を開いた。
「昨日」
「殿下」
「何?」
「言わないでくださいませ」
「まだ何も言ってない」
「絶対、昨日のお話でしょう?」
「そうだけど」
「やはり」
アマリリアが少し睨むと、ライルは肩をすくめた。
けれど次に出てきた言葉は、からかうものではなかった。
「嫌だった?」
アマリリアの表情が変わる。
「昨日のこと?」
「うん。抱き締めたこと」
こういうところだ。
ライルは必ず確認する。
正式な婚約者だから、自分が好きだと言ったから、昨日一度受け入れたから。そんな理由で、次も当然大丈夫だとは決めつけない。
その姿勢が、アマリリアには何より嬉しかった。
「嫌ではございません」
「よかった」
「むしろ……」
一度だけ迷う。
けれど昨日、「またしたい」と聞かれた時にも答えている。
なら、もう少しくらい正直でもいい。
「嬉しかったです」
ライルの手が止まった。
「……」
「何です?」
「今日、いきなり強くない?」
「昨日、殿下に鍛えられました」
「俺が?」
「『君だから』などと仰るからです」
「……」
今度はライルの頬が少し赤くなる。
「殿下」
「何」
「赤いですわ」
「言わなくていい」
「いつも私には仰るでしょう?」
「仕返し?」
「半分」
「残り半分は?」
アマリリアは少しだけ笑った。
「本当です」
「それ、俺が使った言い方だろ」
「借りました」
「強くなったな」
「殿下のおかげです」
二人とも少し照れながら笑う。
そのあとに訪れた沈黙は、以前のように何を話せばいいのか分からないものではなかった。
風が枝葉を揺らし、遠くから昼休みを過ごす生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
何も特別ではない時間。
それでも、昨日までとは少し違う。
アマリリアはスープを一口飲み、それからなるべく何でもないことのように尋ねた。
「殿下」
「何?」
「本のお話ですが」
「うん」
「五つ目」
「達成した?」
「その言い方、やはり変ですわ」
「君が昨日言っただろ」
「忘れてくださいませ」
「無理」
「それで」
アマリリアは一拍だけ置いた。
「六つ目は?」
ライルが止まった。
その反応だけで、余計に気になる。
「殿下」
「何」
「なぜ黙りますの?」
「昨日は聞きたくないって言ってたから」
「昨日は、です」
「今日は?」
「少し……気になります」
正直に告げると、ライルは明らかに困った顔をした。
「じゃあ、本で確認したら?」
「殿下がお持ちでしょう?」
「うん」
「貸してくださいませ」
「……」
今度は、もっと分かりやすい間ができた。
「何です、その反応」
「いや」
「殿下」
「今は貸さない」
アマリリアは完全に動きを止めた。
「なぜです?」
「何となく」
「そんな理由が通るとお思いで?」
「俺の本だから」
「まあ」
それは正しい。
正しいけれど、納得するかは別問題だった。
「では内容だけ教えてくださいませ」
「言わない」
「なぜ?」
「今は」
「またです?」
「うん」
ライルは少し顔を赤くし、視線まで逸らした。
そこまで分かりやすい反応をされれば、アマリリアでも気づく。
「殿下」
「何」
「六つ目は、殿下も恥ずかしい内容です?」
「……」
「当たり?」
「君、最近、人の顔読むの上手くなってない?」
「殿下に鍛えられました」
「それ、また使うの?」
「便利ですので」
アマリリアはじっとライルを見る。
見られた本人は、ますます落ち着かなくなっていった。
「では、ますます気になります」
「やめて」
「嫌です」
「アマリリア、その笑顔ちょっと怖い」
「婚約者ですので」
「関係ない!」
心底困った様子のライルを見ていると、朝から自分ばかりが動揺していたことへの小さな仕返しをしているようで、アマリリアは少し楽しくなってきた。
「今度、殿下のお部屋へ参ります」
「何で?」
「本を探しに」
「駄目」
「王宮の図書庫へ、もう一冊あるか確認します」
「多分ない」
「では古書店へ買いに」
「そんなに知りたい?」
「殿下が隠すからです」
「隠してない」
「貸してくださらないのですから、似たようなものです」
「同じじゃない」
「なら教えて」
「嫌」
ここまで拒まれる。
余計に気になる。
アマリリアは少し考えた。
初デートの最後、ライルが顔の近くへ手を伸ばした時に自分が期待したこと。昨日抱き締めたあとの距離。そして今、六つ目を聞かれたライルの反応。
それらを繋げると、一つの答えが自然に浮かんでしまう。
「六つ目」
「言わない」
「口づけ?」
ライルが完全に固まった。
そして。
言ったアマリリア自身も、同時に固まった。
「……」
風だけが二人の間を通り抜ける。
さっきまで聞こえていた周囲の音が、妙に遠く感じられた。
「アマリリア」
「……何です?」
ライルの耳が一気に赤くなっている。
「俺、何も言ってない」
「知っております」
「何でそれを」
「……想像です」
「初デートの最後の?」
「殿下」
「ごめん」
また沈黙が落ちた。
今度は二人とも食事へ視線を落とす。
しかしパンにもスープにも、しばらく手が伸びなかった。
やがてアマリリアが小さく尋ねる。
「違います?」
ライルは長く息を吐いた。
「……近い」
「近い?」
「答えが」
「では完全には違う?」
「完全には」
「殿下」
「もうこの話やめよう!」
珍しくライルの声が少し大きくなり、遠くにいた生徒数人がこちらを振り返った。
二人は同時に姿勢を正す。
「声が大きいですわ」
「君のせいだ」
「殿下が隠すからです」
「じゃあ、そのうち」
「そのうち?」
「君が本当に知りたい時に」
「今も知りたいです」
「今は駄目」
「なぜです?」
ライルは一度言葉を飲み込み、それから困ったような顔で答えた。
「俺の心の準備がない」
その一言で、アマリリアの中にあった好奇心の色が少し変わった。
自分だけではないのだ。
ライルも、次の距離を意識している。
近づきたいと思う気持ちがあっても、それを実際に行動へ移すとなれば緊張する。
当たり前のことなのに。
知れたことが嬉しい。
「殿下」
「何」
「可愛いですわね」
「言うな!」
今度はアマリリアが楽しそうに笑った。
◇◇◇
放課後、王宮へ向かう馬車の中でも、六つ目の話は完全には終わらなかった。
向かいに座るライルは、珍しく鞄を膝の上へ置き、両手でしっかり抱えている。
あまりにも分かりやすかった。
「殿下」
「もう言わない」
「まだ何も聞いておりません」
「絶対六つ目だろ」
「正解です」
「ほら」
アマリリアは鞄へ目を向けた。
「その中です?」
「何が?」
「本」
「……」
「殿下」
「ある」
「まあ」
やはり持ってきている。
「貸してくださいませ」
「駄目」
「なぜ学園まで持ってきましたの?」
「朝読んでたから」
「どこまで?」
「……」
「六つ目より先?」
「少し」
「何番まで?」
「言わない」
「なぜです?」
「君が全部実践しようとしそうだから」
アマリリアは目を瞬いた。
「私を何だと思っております?」
「五つ目を自分から提案した人」
「……」
「違う?」
「事実です」
「だから、しばらく俺が持っておく」
ライルは鞄を少し自分側へ引いた。
その動きを見て、アマリリアはゆっくり口元を上げる。
「殿下」
「何」
「私が本気で奪おうと思えば、止められると?」
「……」
「黒装束は使いません」
「そこじゃない」
「では」
アマリリアが少し身を乗り出すと、ライルは反射的に鞄を胸へ引き寄せた。
「本当に取る?」
「今のところは取りません」
「怖い」
「婚約者ですので」
「その言葉、万能じゃないから!」
馬車前方から、御者の小さな咳払いが聞こえた。
二人とも同時に黙る。
「……聞こえておりますわね」
「多分」
「王妃様まで届きます?」
「確実に」
「最悪ですわ」
「君が六つ目の話ばかりするから」
「殿下が本を持ち込むからです」
「どっちが先だよ」
「鶏と卵ですわね」
「何の?」
二人は顔を見合わせ、結局少し笑った。
こうしてくだらないことで言い合えること自体が、少し前までの二人とは違う。
婚約という関係へ名前が付いたからではない。
少しずつ、お互いの恥ずかしい部分まで見せても大丈夫だと思えるようになってきたからだ。
◇◇◇
王宮へ到着すると、珍しくセレーネの姿はなかった。
正面玄関で待っていた侍女へ尋ねると、国王アルベルトとともに午後の会議へ出席しており、王妃教育は一刻ほど遅らせるよう言づかっているらしい。
「一刻、空きましたわね」
アマリリアが言うと、隣のライルも少し考えた。
「俺も執務は少し遅らせても問題ない」
「では」
一瞬迷ったあと、アマリリアは尋ねる。
「お茶でも?」
「二人で?」
「婚約者ですので」
「またそれ?」
「嫌です?」
「全然」
ライルは迷いなく答えた。
その即答が、今では素直に嬉しい。
二人は王宮の小さな私的談話室へ向かった。
正式な客を迎える応接室とは違い、王族が身内や親しい相手と短い時間を過ごすための部屋だ。壁際には背の低い本棚が並び、中央には二人掛けと三人掛けのソファ、低い卓が置かれている。窓の外には小さな中庭が見え、午後の日差しを受けた白い花が静かに揺れていた。
侍女が紅茶と焼き菓子を用意し、一礼して退室する。
扉が閉じると、部屋の中は一気に静かになった。
「珍しいですわね」
「何が?」
「王宮で、ここまで二人きりに近い状態は」
「外にディーンいるけど」
「ゼインもおります」
「じゃあ全然二人じゃないな」
「視界にいなければ十分です」
「デートの時と同じ?」
「ええ」
二人は向かいのソファへ腰を下ろした。
最初は普通に紅茶を飲んでいた。
けれど、アマリリアの視線はどうしてもライルの鞄へ向かってしまう。
「やっぱり本?」
「見ていただけです」
「絶対嘘」
「本当です」
「目が分かりやすい」
「……」
アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。
「嫌ですわね」
「何が?」
「以前なら、殿下にも気づかれませんでしたのに」
「俺は今の方がいい」
すぐに返ってきた。
アマリリアの目が少し動く。
「なぜ?」
「何を考えてるか分かる時が増えたから」
「全部分かられるのは困ります」
「全部じゃないよ」
「でも」
「分からないところは聞く」
「私が答えなければ?」
「待つ」
また、その答え。
アマリリアが一番安心できる言葉。
「殿下」
「何?」
「本当に、私の好きな答えを覚えましたわね」
「好きなの?」
「かなり」
ライルが少し嬉しそうに笑う。
アマリリアは紅茶を一口飲み、窓の外へ目を向けた。
静かだった。
昨日の渡り廊下よりも、今の方がずっと人の気配は遠い。扉の外には護衛がいる。それでも部屋の中にいるのは二人だけだ。
そう意識した瞬間。
昨日の抱擁を思い出した。
「……」
「アマリリア」
「何です?」
「今」
「はい」
「五つ目のこと考えた?」
動きが止まる。
「殿下」
「当たり?」
「……少し」
「またしたい?」
昨日と同じ質問だった。
けれど今日は、昨日より少しだけ答えやすかった。
アマリリアは短い時間だけ自分の気持ちを確かめる。
嫌ではない。
むしろ。
また近くにいたい。
「はい」
はっきり答えた。
今度はライルの方が驚いた。
「本当に?」
「何度確認しますの?」
「大事だから」
「では、もう一度申し上げます。本当に」
アマリリアが少し笑うと、ライルもようやく立ち上がった。
「こっち?」
アマリリアの隣を指す。
「殿下がお決めになって」
「それが一番難しい」
「では」
アマリリアは少し身体をずらし、自分の隣を空けた。
「こちらへどうぞ」
ライルが目を丸くする。
「強いな」
「殿下に鍛えられました」
「またそれ」
ライルは隣へ腰を下ろした。
肩が触れそうな距離まで近づくだけで、先ほどまで普通だった部屋の空気が変わったように感じる。
昨日は立ったまま抱き締めた。
今日はソファへ並んでいる。
二人とも一瞬、どうすれば自然なのか分からなくなった。
「……」
「……」
「殿下」
「何」
「どうします?」
「俺に聞く?」
「経験ございませんもの」
「俺もないよ」
「本には?」
「座った状態の細かい方法までは書いてない」
「では、思っていたほど役に立たない本ですわね」
「そこまで言う?」
二人で笑った。
そのおかげで、張りつめていた緊張が少し緩む。
ライルは改めてゆっくり腕を伸ばした。
アマリリアも今度は動かず待つだけではなく、自分から少し彼の方へ身体を寄せる。
肩が触れ、胸元の距離が近づき、やがてライルの腕が背へ回った。
昨日より自然だった。
けれど心臓はやっぱり速い。
「殿下」
「何?」
「昨日より少し慣れました」
「本当?」
「ほんの少しだけ」
「俺も」
アマリリアの耳の近くで、またライルの心臓の音が聞こえる。
少なくとも、落ち着いているとは言い難い速さだった。
「殿下」
「うん」
「全然慣れておりませんね?」
「心臓?」
「はい」
「君もだよ」
「……」
「お互い様」
「ですわね」
昨日より少し長く、静かに抱き締め合う。
ライルの腕の中にいること自体は、もう昨日ほど未知のことではない。
それでも。
今日は一つだけ違う。
アマリリアは自分の腕をどこへ置けばいいのか迷ったあと、ゆっくりとライルの背へ回した。
そっと触れる。
その瞬間、ライルの身体が僅かに固くなった。
「殿下」
「何」
「今、緊張しました?」
「かなり」
「まあ」
「君から抱き締めるのは初めてだから」
言われて、アマリリア自身も気づいた。
昨日はライルの胸へ身体を預け、もう少しこのままでいたいとは言った。
けれど、自分の腕で彼を抱き締め返してはいなかった。
「……」
「アマリリア」
「何です?」
「今、自分で気づいた?」
「黙ってくださいませ」
顔が見えない位置で本当によかった。
けれどライルの声が、すぐ耳元で少し柔らかくなる。
「でも、嬉しい」
また胸が跳ねた。
「殿下」
「何?」
「本当に最近、容赦がございませんね」
「君が正直になったから」
「それは理由になります?」
「なる」
「では」
アマリリアは、ライルの背へ回した腕へほんの少しだけ力を込めた。
「私も嬉しいです」
今度はライルが黙った。
「……」
「殿下?」
「仕返し?」
「半分」
「残り半分は?」
アマリリアは彼の胸元へ頬を寄せたまま、少し笑う。
「本気です」
「……強い」
「追いつきました?」
「追い越された」
二人は抱き締め合ったまま小さく笑った。
大きな事件も、劇的な告白もない。
ただ、二度目の抱擁をしただけ。
けれど昨日より一つだけ、確かに前へ進んでいる。
アマリリア自身が、受け入れるだけではなく抱き締め返した。
その違いは、本人が思っていた以上に大きかった。
やがて身体を離そうとした時。
ライルの表情に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。
アマリリアはそれに気づく。
「何です?」
「いや」
「何か?」
「六つ目」
その一言で、アマリリアの心臓が大きく跳ねた。
二人はまだ完全には離れていない。
ライルの顔が。
ほんの少し。
近い。
「今……」
ライルは何かを言いかけた。
だが。
すぐに自分から距離を取った。
「やっぱりやめる」
「殿下?」
「まだ」
「何がです?」
「心の準備」
ライルの耳が赤い。
その姿を見て、アマリリアは少し笑いそうになった。
けれど笑わなかった。
代わりに。
「待ちます」
今度は、自分からそう言った。
ライルが顔を上げる。
「いいの?」
「殿下が私へしてくださることですもの」
一度だけ迷った。
それでも。
きちんと口にする。
「私も、殿下がよいと思える時まで待ちます」
ライルの表情が、ゆっくり柔らかくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「婚約者だから?」
「今日はそれではございません」
「じゃあ?」
アマリリアは少し考え。
ライルの目を見た。
「殿下だからです」
今度はライルが完全に固まった。
「……」
「殿下?」
「君、今それ返した?」
「昨日のお返しです」
「ずるい」
「早い者勝ちですわ」
「そこも使うの?」
「便利ですもの」
二人は顔を見合わせ。
また笑った。
抱き締めるよりも、口づけよりも。
もしかすると。
こうして相手が待ってくれたことに対し、自分も待つと返せたことの方が。
アマリリアにとっては大きな変化だったのかもしれない。
◇◇◇
王妃教育が終わったのは、日がかなり傾いてからだった。
会議から戻ったセレーネは、何事もなかったようにいつも通り授業を進めた。今日扱ったのは、王族婚約者として地方貴族を迎える際の席順と、挨拶を交わす順番についてだった。
ただ一度だけ。
資料から顔を上げ。
アマリリアをじっと見て。
「何かいいことあった?」
と尋ねた。
「ございません」
即答した。
セレーネは、にっこり笑った。
「そう」
それ以上聞かれなかった。
逆に怖い。
絶対に何かを察している。
だが今日は追及するつもりがないらしい。
授業を終え、アマリリアが廊下へ出ると、ライルは既に待っていた。
「終わった?」
「はい」
「帰る?」
「ええ」
二人は夕陽に染まり始めた回廊を並んで歩き出す。
今日、二度目に抱き締め合ったことを思い出しても、昨日ほど恥ずかしいだけではなくなっていた。
嬉しかった。
安心した。
自分から腕を回せたことも。
ライルがそれを喜んでくれたことも。
その全部を、少しずつ自分の気持ちとして受け入れられている。
「殿下」
「何?」
「本」
「貸さない」
「まだ何も申し上げておりません」
「絶対それだろ」
「正解です」
「やっぱり」
「でも」
アマリリアは少しだけ口元を上げた。
「今日は諦めます」
ライルが警戒するようにこちらを見る。
「本当に?」
「ええ」
「何で?」
「殿下がまだ見せたくないものを、無理に見る必要はないと思いまして」
ライルが少し驚いた顔をした。
「殿下は、私が言いたくないことを待ってくださるのでしょう?」
「うん」
「でしたら、私も待ちます」
数歩。
二人で静かに歩く。
窓の外では夕陽を受けた庭園の木々が風に揺れ、回廊の床へ長い影を落としていた。
「……そっか」
「はい」
さらに歩いたあと、ライルがふと口を開いた。
「でも、そのうち言う」
「六つ目?」
「うん」
「本当に?」
「俺が……」
一度言葉に詰まった。
けれど、逃げずに続ける。
「したいと思った時に」
アマリリアの歩みが、ほんの少し遅くなった。
「……」
「アマリリア?」
「何です?」
「顔赤い」
「夕日です」
「今日は正面から当たってるけど」
「では本当に夕日のせいです!」
ライルが笑う。
アマリリアは少し睨んだものの、以前のように恥ずかしさだけを理由に話を逸らしたりはしなかった。
「殿下」
「何?」
「一つだけ」
「うん」
「六つ目をまだ教えないのでしたら」
「うん」
「他の恋愛本を増やすのは禁止です」
「何で?」
「百より増えたら困ります」
「実践するつもり?」
「そういう意味ではございません!」
「じゃあいいだろ」
「駄目です!」
「婚約者だから?」
「婚約者ですので!」
「やっぱり万能だ!」
二人の声が夕方の王宮回廊へ響く。
通りかかった侍女たちは、少しだけ口元を緩めながら礼をした。
以前のアマリリアなら。
笑われることも、自分の感情を察されることも、こうして誰かと楽しそうにしている姿を見られることも、きっと嫌だった。
今はかなり恥ずかしい。
それでも。
ライルの隣で笑っている自分を見られることは、思っていたほど嫌ではなかった。
◇◇◇
その夜。
ベスター伯爵家の自室で、アマリリアは寝台へ入る前に机の上へ一冊の恋愛小説を置いていた。
初デートの日に古書店で買ったものだ。
数頁ほど読んでみる。
けれど、ほとんど内容が頭へ入ってこない。
主人公が恋人と話す場面になるたび、ライルの顔が浮かんでくる。
「……重症ですわね」
自分で呟き、本を閉じた。
寝台へ腰を下ろす。
今日。
二度目に抱き締めた。
昨日は、ライルの腕の中へ自分の身体を預けただけだった。
今日は。
自分から腕を彼の背へ回した。
違いとしては、それだけなのかもしれない。
けれどアマリリアにとっては大きかった。
自分から近づいた。
自分から抱き締め返した。
ライルが嬉しいと言った。
自分も嬉しいと答えられた。
思い返せば、まだ顔は熱くなる。
でも昨日のように、恥ずかしさだけで枕へ顔を埋めたいとは思わなかった。
少しずつ慣れている。
というより。
自分の気持ちを受け入れ始めている。
ライルへ近づきたいと思うことを、恥ずかしい失敗ではなく、自分自身が望んでいることとして認められるようになってきた。
「六つ目……」
小さく呟く。
まだ完全には教えてもらっていない。
けれど今日、抱擁を終えて離れかけた瞬間。
ライルの顔が少し近づき。
『やっぱりやめる』
そう言った。
何をやめたのか。
聞かなかった。
けれど。
分からないわけではない。
おそらく。
かなり近い。
初デートの最後、自分が期待してしまったものへ。
「……」
アマリリアは寝台へ横になり、枕元の灯りを落とした。
暗くなった部屋の中で、少しだけ笑う。
「殿下も緊張なさるのですね」
それが嬉しかった。
自分だけが意識しているのではない。
ライルも同じように近づきたいと思い、それでも急がず、自分の気持ちが整うまで止まることができる。
なら。
自分も待てばいい。
以前なら、欲しいものがあるなら自分から取りに行った。
必要なら脅し、相手が動かないなら自分で道を作った。
そんなアマリリアが今は、好きな人の気持ちが整うまで待とうとしている。
自分でも少し可笑しい変化だった。
けれど、嫌ではない。
六つ目が何なのか、まだ正式には聞いていない。
それがいつになるのかも分からない。
でも、本に書かれている順番だから進む必要などない。
ライルが望み。
アマリリアも望み。
二人が同じ時に、それでいいと思えたなら。
その時が、きっと次へ進む時なのだ。
そう思えるようになったことこそ、今日一番の変化だった。
そして。
そんなふうに穏やかな気持ちで目を閉じたアマリリアは、まだ知らなかった。
翌日。
例の本をライルが王宮の自室へ置いてきたにもかかわらず。
なぜかセレーネが、完全に何かを知っている顔で。
「六つ目まで行ったら、次は何を着ようかしら」
などと意味深なことを口にしながら。
王妃教育の部屋で、自分を待ち構えていることを。




