第32話 抱き締めるだけのはずでしたのに、殿下の心臓まで近すぎました
正式な婚約者になってから、数日が過ぎた。
初めてのデートを終え、その翌日には自分でも隠しておきたかった「期待」までライルにほとんど見抜かれたというのに、アマリリアの日常そのものは驚くほど普通に続いている。
朝になればベスター伯爵家で食事を取り、学園へ向かう。授業を受け、昼休みになればライルと顔を合わせ、放課後には王宮へ移動して王妃教育を受ける。王家の正式な婚約者となったことで予定そのものは以前より増えているものの、事件が起きているわけでも、誰かが婚約を邪魔しに来るわけでもない。
何も起きていない。
本来なら、それこそアマリリアが望んでいた平穏な日々のはずだった。
それなのに、アマリリアの頭の中だけは以前よりずっと忙しい。
午前の授業中。
教師が王国史について説明している教室で、アマリリアは教科書を開いたまま、ほんの数秒だけ視線を止めていた。
窓から入り込む春の終わりの風が薄いカーテンを揺らし、黒板へ走る白墨の乾いた音が一定の調子で続いている。周囲の生徒たちは教師の説明を書き留めており、いつも通りの授業風景が広がっていた。
アマリリアも表向きは同じだった。
教科書は開いている。
ペンも持っている。
教師の声も聞こえている。
だが、頭の片隅には朝からずっと別のものが居座っていた。
『婚約者と過ごす百の方法』
王都の古書店でライルが半分冗談のように手へ取った一冊である。
あのときは本当に買うとは思っていなかった。
しかも、まさか本人がきちんと読み始めるとも思っていなかった。
ところが昨日、王宮へ向かう馬車の中で内容を尋ねてみれば、ライルは妙に素直にそこまで読んだ項目を教えてくれた。
一つ目は、互いの好きな食べ物を知る。
二つ目は、一緒に散歩する。
三つ目は、手を繋ぐ。
四つ目は、特別な呼び方で名前を呼ぶ。
そして。
五つ目。
『抱き締める』
そこまで思い出した瞬間、アマリリアは無意識のうちにペンを握る指へ少し力を込めてしまった。
手を繋ぐことには、もう慣れ始めている。
ライルから「リリア」と呼ばれれば今でもかなり恥ずかしいが、それでも以前ほど完全に動けなくなることはなくなった。
けれど。
抱き締める。
それは明らかに今までとは違う。
手と手ではなく、身体そのものが近づく。
昨日のデートの最後、髪についた葉を取るためにライルが近づいただけでも、あれほど心臓が騒いだのだ。
もし本当に抱き締められたら。
「ベスター嬢」
「はい」
突然名前を呼ばれ、アマリリアは反射的に顔を上げた。
教師が教壇の前からこちらを見ている。
「今説明した、第三次北方条約が締結された最大の理由は?」
「隣接三領の交易税率を統一し、国境周辺の密輸と領主間の報復関税を抑える必要があったためです。それに加え、北方街道の維持費を三領で分担する仕組みを整える目的もございました」
淀みなく答えると、教室が少しだけ静かになった。
教師も一瞬目を瞬かせたあと、満足そうに頷く。
「正解です。聞いていたのですね」
「もちろんです」
「なら結構」
教師が再び黒板へ向き直り、授業が続けられる。
アマリリアは何事もなかったように教科書へ視線を戻した。
すると、すぐ近くの席から小さな声が聞こえた。
「さすがですわね」
横目を向けると、同級生の令嬢が口元を押さえている。
「何です?」
「先ほどまで、少し考え込んでいらしたようでしたので」
「授業についてです」
「本当に?」
「ええ」
アマリリアは迷いなく答えた。
だが、令嬢はしばらくこちらを見たあと、さらに声を潜める。
「お顔が少し赤いですわ」
「……」
「アマリリア様?」
「教室が暖かいのでしょう」
「窓が開いておりますけれど」
「授業中ですわよ」
にっこり微笑む。
以前であれば、それだけで令嬢は完全に引き下がっただろう。
実際、彼女も一度は慌てたように前へ向き直った。
だが最近は、周囲の生徒たちもアマリリアの扱いに随分慣れてきている。
「殿下のことです?」
前を向いたまま、小声だけが飛んできた。
アマリリアは返事をしなかった。
返事をしなかったというより、できなかった。
そして、その沈黙そのものが答えになったらしい。
少し離れた席からまで、笑いを堪える気配が伝わってくる。
「皆様」
アマリリアは声量を抑えたまま告げた。
「次に授業を止めましたら、先生へ皆様のお名前をお伝えしますわよ」
今度こそ一斉に静かになった。
けれど、頬に残った熱だけは、授業が終わるまでなかなか消えてくれなかった。
◇◇◇
「何で今日、少し機嫌悪いの?」
昼休み。
いつもの中庭で向かいに座ったライルが、サンドイッチを手にしたまま不思議そうに尋ねてきた。
春の終わりを感じさせる柔らかな風が木々の枝を揺らし、頭上では若い葉が重なり合って小さな音を立てている。昨日までより日差しは少し強くなっていたが、大きな木が作る影の下は涼しく、食事をするにはちょうどよかった。
遠くには他の生徒たちの声も聞こえる。
けれど、この場所まで来る者はほとんどいない。
二人が最近よく使う場所として知られ始めているからか、周囲も少し遠慮しているらしい。
「悪くございません」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、何で朝から俺を見るたび少し目を逸らすの?」
アマリリアは持っていた果実水のカップを、ゆっくり卓上へ戻した。
「殿下」
「何?」
「最近、人の表情を読みすぎです」
「君限定だけど」
「余計に困ります」
「どうして?」
「隠せないではありませんか」
ライルは少し笑った。
「前は隠すの上手かったもんな」
「今も上手いです」
「そうかな」
「そうです」
「じゃあ」
ライルは少しだけ身を乗り出した。
「昨日の本のこと考えてた?」
アマリリアの指が止まる。
「……」
「当たり」
「殿下」
「何?」
「本当に嫌ですわ、その能力」
「能力じゃないよ」
「では何です?」
「君のことを見てるだけ」
あまりにも自然な返答だった。
だからこそ。
「……」
アマリリアは完全に言葉を失った。
ライル本人も、口にしてからようやく自分が何を言ったのか理解したらしい。少しだけ視線を泳がせ、耳が僅かに赤くなる。
「いや、今のは」
「殿下」
「何?」
「格好いいですわね」
「そこ?」
「かなり」
「ならいいけど」
困ったように笑うライルを見て、アマリリアも少しだけ口元を緩めた。
以前なら、こういう言葉を向けられると、どちらかがすぐ冗談へ逃げていた。
恥ずかしい。
困る。
だから、茶化して終わらせる。
でも最近は。
少しだけ。
嬉しいものは嬉しいまま受け取れるようになってきた。
「それで」
ライルが話を戻す。
「本?」
「……はい」
「どこまで考えてた?」
「そこまで聞きます?」
「嫌なら聞かない」
すぐに引く。
その態度がまた困るのだ。
アマリリアはしばらく自分の指先を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「五つ目」
今度はライルが黙った。
「殿下?」
「聞こえてる」
「でしたら何か」
「いや」
ライルは一度軽く咳払いする。
「抱き締める、のところ?」
「言葉にしないでくださいませ」
「君が言わせたんだろ!」
「私は五つ目としか申し上げておりません」
「分からないふりすればよかったの?」
「それも嫌です」
「難しいな!」
アマリリアは思わず笑った。
けれど、その単語を口にされてしまえば、やはり意識してしまう。
抱き締める。
手を繋ぐより近い。
昨日のデートでライルが髪の葉を取るために近づいた時よりも、さらに近い。
体温まで。
分かるくらい。
「……」
「また考えた?」
「殿下」
「何?」
「顔を見ないでくださいませ」
「正面に座ってるんだけど」
「では横を」
「何で俺が」
「お願いします」
ライルは少し笑いながら、本当に横を向いた。
その素直さが、またアマリリアを困らせる。
「これで?」
「はい」
「それで?」
「まだ聞くのです?」
「聞かない」
ライルは中庭の花壇へ視線を向けたまま、静かに続けた。
「待つ」
昨日も聞いた言葉だった。
アマリリアは少しだけ目を細める。
「殿下」
「何?」
「本当に待つことがお上手になりましたわね」
「君が急かされるの嫌いだから」
「ええ」
「だから」
ライルは横を向いたまま、声を少し柔らかくした。
「君がいい時でいいよ」
アマリリアは何も答えなかった。
いや。
答えられなかったという方が近い。
抱き締めることそのものよりも。
自分がいいと言うまで待ってくれる。
その事実の方が、ずっと心臓に悪かった。
◇◇◇
午後の王妃教育では、公務における席順と対外挨拶の復習が行われていた。
正式な婚約者となったことで、アマリリアがライルとともに参加する可能性のある行事も増えている。国内の貴族を相手にするだけではなく、今後は国外から訪れる使節団を迎える場へ同席する可能性もあるため、相手国ごとの礼法や文化の違いまで覚えていかなければならない。
「東部連合の使節へ最初に紹介される時は?」
「陛下、王妃陛下、第一王子殿下の順に礼を取り、私は殿下から紹介を受けるまで前へ出ません」
「紹介後は?」
「家名より先に婚約者としての立場を明示し、その後にベスター伯爵家出身であることを述べます」
「よろしいわ」
セレーネは満足そうに頷いた。
机の上には数冊の資料が広げられ、アマリリアの手元には自分でまとめた覚書も置かれている。今日は珍しく、ここまで王妃のからかいもほとんどなく、本当に授業らしい時間が続いていた。
だからこそ。
アマリリアは油断した。
「ところで」
セレーネが突然資料を閉じる。
「はい」
「昨日の本、どこまで進んだの?」
アマリリアは完全に固まった。
「王妃様」
「何?」
「なぜご存じなのです?」
「ライルが古書店で買った本でしょう?」
「はい」
「王宮へ持ち帰る物は、一定のものなら持ち込みの記録が残るもの」
「そこまで?」
「王族の私物全部を確認しているわけではないわよ。でも外から持ち込まれる物については、安全上の理由で一応ね」
アマリリアは額へ手を当てた。
「では、題名も」
「『婚約者と過ごす百の方法』」
「言わないでくださいませ」
「可愛い本を選んだわね」
「選んだのは殿下です」
「でも、気になっているのでしょう?」
「……」
セレーネが楽しそうに笑う。
「今、何番?」
「王妃様」
「何?」
「これは王妃教育です?」
「婚約者としての生活も立派な教育よ」
「かなり私的では?」
「半分は」
「残り半分は?」
「私の興味」
「やはり!」
アマリリアは深くため息をついた。
だが。
少し考える。
相手は王妃であり。
同時に、ライルの母親でもある。
そして自分よりずっと長く、婚約や結婚という関係を経験している人でもある。
もし、こういうことを誰かへ聞くのなら。
むしろ。
セレーネが一番適しているのかもしれない。
「王妃様」
「何かしら?」
「……その」
いつもより歯切れの悪いアマリリアを見て、セレーネの表情から少しだけ冗談の色が消えた。
「本当に相談?」
「少し」
「なら聞くわ」
アマリリアは膝の上で指を組み、自分の手元へ視線を落とした。
「婚約者同士というものは」
「ええ」
「どのくらいの距離までなら、普通なのでしょう」
セレーネはすぐには答えなかった。
からかわれることを覚悟していたアマリリアが顔を上げると、王妃は思いのほか真面目な表情でこちらを見ている。
「普通、というのは難しいわね」
「そうです?」
「人によるもの」
「でも」
「手を繋ぐ人もいる。腕を組む人もいる。人目のないところなら抱き締める人もいるでしょうし、それより先へ進む人だっているわ」
最後の部分で、アマリリアの頬が僅かに熱くなった。
だがセレーネは、そこをからかわなかった。
「大事なのは」
「はい」
「二人とも嫌ではないことよ」
「……」
「ライルがしたいからといって、あなたが合わせる必要はない。反対に、あなたが望んだからといって、ライルが必ず合わせなければならないわけでもない」
「はい」
「どちらかが迷っているなら待つ。どちらかが嫌ならやめる。二人とも大丈夫だと思えた時だけ進む」
アマリリアは黙って聞いていた。
「それだけ」
「簡単ですわね」
「言葉にすればね」
セレーネは少し笑う。
「実際は恥ずかしくて言えなかったり、相手に嫌われたくなくて合わせようとしたり、逆に怖くなって逃げたりするものだから」
「王妃様も?」
「もちろん」
「陛下と?」
「そこは秘密」
「まあ」
「私にもそれくらいはあるのよ」
セレーネは少し遠くを見るような目をしたあと、再びアマリリアへ向き直った。
「でも、ライルは待つでしょう?」
その問いに。
アマリリアはすぐ答えられた。
「……はい」
「なら、あなたも自分で決めればいい」
その言葉は。
アマリリアの胸へ静かに落ちた。
誰かに勝手に決められた婚約から逃げるため、ここまで来た。
父に人生を決められることが嫌だった。
誰かが「これが幸せだ」と決めることが嫌だった。
だから。
今度は。
こういうことも。
自分で決めていい。
「私が」
「ええ」
「決める」
「そうよ」
アマリリアはゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そこまで。
本当に良い話だった。
なのに。
「それで、何番?」
「王妃様!」
「聞くだけよ」
「五つ目です!」
勢いで答えてしまった。
言ってから。
気づく。
セレーネの目が一瞬で輝いた。
「五つ目?」
「忘れてくださいませ」
「確か、抱き――」
「王妃様!」
王妃教育の部屋へ、アマリリアの声が響いた。
廊下の向こうにいた侍女が、何かを察したようにそっと足音を遠ざけていった。
◇◇◇
夕方。
王妃教育を終えたアマリリアは、いつものように王宮の渡り廊下を通って正面玄関へ向かっていた。
外では夕陽が庭園を赤く染め、長い窓から差し込む光が石造りの床へ細長い模様を作っている。昼間より風は涼しくなり、開け放たれた窓からは花壇に咲く花の淡い香りが流れ込んでいた。
ライルはまだ執務が残っている。
今日は一緒には帰れない。
朝からそう聞いていた。
たったそれだけのことなのに。
少しだけ残念に思っている自分がいる。
以前なら、王宮へ来てもライルに会わない日など普通だった。
今は。
会えないだけで。
少し物足りない。
「アマリリア」
後ろから声がした。
アマリリアは思っていた以上に素早く振り返った。
「殿下?」
ライルが少し早足でこちらへ歩いてくる。
「執務は?」
「一区切りついた」
「帰れるのです?」
「いや、あと少しある」
「ではなぜ?」
「君が帰る前に」
ライルは一度だけ息を整え、それからいつもの調子で続けた。
「顔見ておこうと思って」
「……」
アマリリアは何も言えなかった。
「何?」
「殿下」
「うん」
「今日、本当に心臓へ悪いです」
「何で?」
「自覚がないところが一番です」
ライルは本気で分からないという顔をした。
どうやら、今の言葉も本当に自然に出てきたらしい。
それが分かるからこそ。
余計に困る。
「でも」
アマリリアは少しだけ笑った。
「嬉しいです」
「ならよかった」
二人は渡り廊下の端まで並んで歩いた。
そこから先には庭園へ続く小さな階段があり、そのまま進めば正面玄関へ近道できる。
「王妃教育、どうだった?」
「王妃様に」
言いかける。
五つ目。
思い出す。
そこで止まった。
「何?」
「何でもございません」
「その顔」
「読まないでくださいませ」
「本の話?」
「殿下」
「ごめん」
ライルはすぐに引いた。
それ以上聞かない。
また。
待つ。
昼間の言葉が思い出される。
『君がいい時でいいよ』
そして。
王妃から言われたことも。
『あなたが自分で決めればいい』
アマリリアは階段の前で足を止めた。
「殿下」
「何?」
「五つ目」
ライルの表情が止まった。
「……」
今度はアマリリアが逃げずに彼を見る。
「覚えております?」
「うん」
「王妃様に」
「母上に?」
「相談しました」
ライルの顔が僅かに引きつる。
「何を?」
「距離感です」
「どこまで話した?」
「そこは秘密です」
「怖い」
「私も怖かったです」
二人で少しだけ笑った。
それでも。
アマリリアはまだその場から動かなかった。
「それで」
「うん」
「一つ分かりました」
「何が?」
「自分で決めればよいのだと」
ライルの表情がゆっくりと変わった。
ふざける気配が消え、声も少しだけ低くなる。
「アマリリア」
「はい」
「今、何を決めたの?」
優しい。
急かさない。
逃げ道を残すような聞き方。
アマリリアは胸の前で手を重ねた。
緊張している。
自分でもはっきり分かる。
抱き締める。
ただそれだけ。
それなのに。
手を繋いだ時より。
特別な名前で呼ばれた時より。
ずっと恥ずかしい。
心臓の音が、急に大きくなった気がした。
「殿下」
「うん」
「五つ目」
「……」
「してみます?」
言った。
言ってしまった。
口に出した瞬間。
逃げたくなるほど恥ずかしい。
けれど。
言い直そうとは思わなかった。
数秒。
ライルは何も返さなかった。
「殿下?」
「待って」
「何を?」
「俺が今、かなり緊張してる」
「まあ」
その返事に。
アマリリアは少しだけ安心した。
「殿下も?」
「かなり」
「私もです」
「じゃあ」
ライルは一度自分の手へ目を落とし、それからアマリリアをまっすぐ見た。
「本当にいい?」
確認する。
やっぱり。
この人は。
聞くのだ。
自分が大丈夫だと答えるまで。
「はい」
アマリリアはゆっくり頷いた。
「私から申し上げましたので」
「うん」
「それに」
一度、小さく息を吸う。
「嫌ではございません」
「分かった」
ライルが一歩近づいた。
アマリリアは動かなかった。
もう一歩。
距離が縮まる。
いつもなら、この程度まで近づくだけでも十分意識する距離だ。
だが今日は。
さらに。
ライルの腕がゆっくりと持ち上がった。
勢いよくではない。
逃げようと思えばいつでも逃げられるように。
アマリリアの肩と背へ、そっと腕が回る。
そして。
身体が触れた。
「……」
アマリリアは思わず息を止めた。
思っていたより。
近い。
当たり前だ。
抱き締めるのだから。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
頭で想像するのと、実際に感じるのでは全く違った。
胸元へ伝わる体温。
礼服越しでも分かる腕の力。
肩近くへ触れる息。
僅かに感じる服の香り。
そして。
何より。
「殿下」
「何?」
「……心臓」
ライルの身体が僅かに固くなった。
「聞こえる?」
「かなり」
「君も」
「言わないでくださいませ」
アマリリアの心臓も。
おそらく負けないほど速い。
「俺だけじゃなくてよかった」
「安心するところです?」
「する」
「変ですわね」
「君に言われたくない」
声が近い。
普段よりも、ずっと。
耳元へ響く声が、いつもとは違って聞こえる。
ライルの腕は強くない。
閉じ込めるようでもない。
少し力を入れれば、自分から離れられる。
そのことが分かる。
だからこそ。
アマリリアは。
自分の意思で。
ほんの少しだけ。
ライルへ身体を預けた。
その瞬間。
背へ回された腕の力が、ごく僅かに強くなる。
「……」
「アマリリア?」
「何です?」
「今」
「はい」
「少し近づいた?」
「気のせいでは?」
「そう?」
「ええ」
「じゃあ、気のせいにする」
「そうしてくださいませ」
アマリリアは顔を見られないことに、少しだけ安心した。
きっと今。
自分の顔はかなり赤い。
でも。
ライルも同じらしい。
胸元から聞こえる心臓の速さが、そのことを教えてくれる。
二人とも。
しばらく何も言わなかった。
夕方の風が回廊を抜け、庭園の木々が小さく揺れる。
どこか遠くで近衛騎士の足音が聞こえたが、こちらへ近づいてくる気配はなかった。誰かが二人に気づいている可能性は高い。
普段のアマリリアなら、周囲の気配をもっと細かく確認しただろう。
今日は。
それをしなかった。
今だけは。
ライルの腕の中にいることへ。
集中していた。
アマリリアはゆっくりと目を閉じる。
昨日。
ライルが髪の葉を取ろうとした時。
自分は、別のものを期待してしまった。
顔が近づいて。
もしかしたら。
と。
でも。
今日は。
その先へ進むより前に。
まず。
この距離を知る。
それでよかったのだと思えた。
「殿下」
「うん」
「五つ目」
「うん」
「思っていたより」
少し迷ってから。
素直に言う。
「悪くございません」
ライルが小さく笑った。
その動きまで胸元へ伝わる。
「俺も」
「同じ?」
「かなり」
「婚約者ですので?」
「今日はそれじゃない」
「では?」
ライルの声が、ほんの少し柔らかくなる。
「君だから」
アマリリアは。
完全に。
何も言えなくなった。
「……」
「アマリリア?」
「今」
「うん」
「顔を見られなくてよかったです」
「何で?」
「絶対赤いからです」
「俺も」
「なら」
一度だけ迷う。
それでも。
今度は自分から言った。
「もう少し、このままで」
言った瞬間。
また胸が強く鳴った。
ライルも一瞬だけ黙る。
「いいの?」
「はい」
「分かった」
それ以上。
何も求めない。
抱き締めたまま。
ただ。
一緒にいる。
いつもなら隣。
今日は。
隣より、ずっと近い。
心臓はこんなに騒がしいのに。
不思議と。
怖くない。
むしろ。
安心する。
この人なら。
嫌だと言えば止まる。
待ってと言えば待ってくれる。
そして、自分が望めば。
こうして近づいてくれる。
そのことが。
何より嬉しかった。
◇◇◇
どのくらいそうしていたのか。
実際には、それほど長い時間ではなかったはずだ。
けれど、アマリリアには随分長く感じられた。
やがてライルがゆっくりと腕を緩める。
アマリリアも、それに合わせるように身体を離した。
今度は。
顔が見える。
予想通り。
ライルの耳はかなり赤かった。
「殿下」
「何?」
「赤いですわ」
「君も」
「夕日です」
「今日は後ろから当たってる」
「では熱いのでしょう」
「何が?」
「全部です」
「答えになってない」
二人とも。
少し。
笑った。
抱き締めている間ずっと続いていた緊張が、ようやく少しずつ抜けていく。
「殿下」
「何?」
「五つ目」
「うん」
「達成ですわね」
「本みたいに言うな」
「殿下が買った本でしょう?」
「そうだけど」
「では次は」
言いかけて。
止まる。
ライルも。
同じように止まった。
目が合う。
「……」
「……」
「アマリリア」
「何です?」
「六つ目」
「聞きません」
「まだ何も言ってない」
「聞きません」
「知りたくない?」
「今は!」
アマリリアの声が少し大きくなる。
ライルの口元がゆっくり上がった。
「知ってる?」
「知りません!」
「本当に?」
「殿下」
「うん」
「笑ったら黒装束です」
「五つ目のあとでも?」
「関係ございません!」
「じゃあ怖い」
「なら黙ってくださいませ!」
アマリリアは少し早足で階段を降り始めた。
「待って」
「帰ります!」
「一緒に玄関まで行く」
「執務が残っているのでしょう?」
「少しくらい」
「殿下」
「何?」
アマリリアは数段降りたところで足を止める。
「……来てくださいませ」
結局。
待つ。
ライルが笑いながら追いつく。
二人で並ぶ。
距離は、以前と全く同じではなかった。
肩が触れるほど近いわけではない。
それでも。
ほんの少しだけ。
自然に近い。
誰かに「婚約者だから」と言われて寄せた距離ではない。
自分たちで選んだ距離だった。
「アマリリア」
「何です?」
「またしたい?」
あまりにも唐突に聞かれ、アマリリアの歩みが止まりかけた。
「殿下」
「嫌なら」
「嫌ではありません」
今度は。
ライルが最後まで言うより先に答えた。
「……」
ライルが少し驚いた顔をする。
アマリリアも、自分がこんなに早く答えたことへ少し驚いた。
でも。
言い直さなかった。
「嫌では」
改めて。
もう一度。
「ございません」
「……そう」
「はい」
「じゃあ」
ライルの表情が柔らかくなる。
「また今度」
「ええ」
「君がいい時に」
「殿下も」
「何?」
「殿下がいい時に」
今度はライルが立ち止まった。
「それ、いいの?」
「二人とも嫌ではないことが大事なのでしょう?」
「母上?」
「はい」
「なるほど」
二人は少しだけ顔を見合わせ、それから笑った。
正面玄関が近づいてくる。
この先は侍従も近衛も増える。
だから。
その前。
アマリリアはほんの少しだけライルの袖へ指を触れた。
「殿下」
「何?」
「今日は」
「うん」
「ありがとうございました」
「俺こそ」
「何が?」
「言ってくれて」
五つ目を。
したいと。
自分から。
それを聞いて。
アマリリアは少し照れながらも、今度は目を逸らさなかった。
「では」
「うん」
「また明日」
「また明日、リリア」
最後。
完全な不意打ちだった。
「……」
「何?」
「殿下」
「うん」
「今それはずるいです」
「何が?」
「もう帰ります!」
「また明日!」
アマリリアは振り返らず、手だけを少し上げた。
けれど。
その表情は。
完全に笑っていた。
◇◇◇
そしてその夜。
自室へ戻ったアマリリアは、昨日よりさらに長い時間、寝台の上で眠れずにいた。
昨日は、デートの最後にライルが近づいた時、自分が口づけを期待してしまったことを思い出して眠れなかった。
今日は違う。
ライルの腕。
近すぎる体温。
胸元へ聞こえた心臓の音。
自分が少し身体を預けた時、僅かに強くなった腕の力。
そして。
『君だから』
あの一言。
どれも忘れてくれない。
目を閉じるたび。
何度でも戻ってくる。
「……五つ目でこれですの?」
アマリリアは枕へ顔を埋めた。
しばらくそのままでいたあと、少しだけ顔を上げる。
「六つ目……」
知らない。
聞いていない。
聞くつもりもない。
少なくとも。
今は。
そう思っている。
けれど。
初デートの最後。
自分が何を期待したのか。
それを考えれば。
何となく。
想像できないわけでもない。
「……」
また枕へ顔を埋める。
「本当に、殿下は余計な本を買いましたわね」
文句を言いながら。
口元だけは。
少し笑っている。
正式な婚約者になってから。
手を繋いだ。
名前を特別に呼んだ。
初めて、何の用事もなく二人で出かけた。
少し嫉妬した。
好きだと言い合った。
そして今日。
初めて。
互いの意思をきちんと確認して。
抱き締め合った。
まだ。
急ぐ必要はない。
次が何なのか。
今すぐ確かめる必要もない。
抱き締めたから、その次へ進まなければならないわけでもない。
ライルが待ってくれること。
自分から望んでいいこと。
嫌なら嫌と言っていいこと。
そして。
嬉しいなら。
もう少しこのままでいたいと。
言ってもいいこと。
それを。
少しずつ。
知り始めている。
だからこそ。
いつか。
あの日の夕方。
髪の葉を取られただけなのに、自分が何を期待したのかについても。
逃げずに。
誤魔化さずに。
自分の口から。
きちんと伝えられる日が来るのかもしれなかった。




