第31話 初デートの翌日、知られたくなかった期待を殿下に見抜かれました
初めてのデートを終えた翌朝、アマリリアは目を覚ました瞬間から、昨日の最後の場面を思い出していた。
厚手のカーテン越しに朝日が差し込み、寝台脇の小机や椅子の背を淡く照らしている。廊下では使用人たちが既に一日の仕事を始めているらしく、遠くから食器の触れ合う音や、窓の外から庭へ水を撒く音がかすかに聞こえていた。
本来なら、いつもと何一つ変わらない朝だった。
問題があるとすれば、アマリリアの頭の中だけである。
「……」
目を閉じれば、夕暮れの広場があまりにも鮮明に浮かんでくる。
馬車へ戻ろうとした自分を、ライルが「待って」と呼び止めた。振り返った先で、彼は少し迷ったような顔をしながら近づいてきた。
そして、手を伸ばした。
自分の顔へ。
正確には、髪へ。
「……葉っぱを取っただけですわ」
誰もいない寝室で、アマリリアは小さく言い聞かせる。
事実である。
ライルの指が触れたのは髪だけだった。風でどこかから飛んできた小さな葉が絡んでおり、それを取ってくれただけ。
ただ、それならば。
その直前に、自分がほんの少し目を閉じそうになった理由は何なのか。
「違いますわ」
今度は先ほどより少し強く否定してから、アマリリアは掛け布団を鼻先まで引き上げた。
別に、口づけを期待したわけではない。
顔が近づいてきたから驚いただけ。
正式な婚約者になったばかりで、初めてのデートを終えた直後だったから、少し意識してしまっただけ。
何よりも、出かける前に父ハロルドが余計なことを言ったせいである。
『手の次は何だ!』
『抱き締めるのは?』
『口づけは――』
「……全部、お父様のせいですわね」
非常に都合のよい結論へ辿り着き、アマリリアは一度大きく頷いた。
しかし、次の瞬間にはライルの顔がまた浮かぶ。
『もしかして』
あの一言。
最後まで言わせなかった。
言わせれば、自分が何を期待したのかを完全に言葉へされてしまう気がしたからだ。
だから黒装束を呼ぶとまで脅した。
以前なら本当に呼んでいたかもしれない。しかし今のライルは、あれくらいではもう本気で怯えない。
むしろ。
笑っていた。
「……殿下、絶対に何か気づいておりますわよね」
アマリリアは枕へ顔を埋めた。
正式に婚約者となった。
互いに好きだとも言った。
大勢の前で、自分の意思で相手の隣へ立つと宣言した。
手だって何度も繋いだ。
昨日は初めてのデートまでした。
それなら、次のことを考えてしまうのは、きっと何もおかしくはない。
おかしくはないのだが。
「恥ずかしいものは、恥ずかしいですわ……」
結局、答えはそこへ戻る。
そのとき、控えめなノック音が響いた。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「起きております」
アマリリアは反射的に掛け布団を下ろし、何事もなかったような顔で身体を起こした。
「どうぞ」
扉が開き、いつもの侍女が朝の支度を整えるために入ってくる。彼女は一礼したあと、窓辺へ向かってカーテンを開いた。
途端に明るい朝日が室内へ入り、アマリリアは僅かに目を細める。
「おはようございます、お嬢様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ええ」
アマリリアは即答した。
侍女が振り返る。
「本当に?」
「……」
アマリリアの目がゆっくり細くなる。
「何です、その聞き方は」
「いえ、特には」
「特に何です?」
「何でもございません」
侍女は平静を装いながら、今日着る学園用の衣服を準備し始める。しかし、どう見ても口元が僅かに緩んでいた。
アマリリアは寝台から降りると、その背中をじっと見つめた。
「何か聞きました?」
「何をでしょう」
「昨日のことです」
「昨日と申しますと?」
「……デートの」
自分で口にしてから少し恥ずかしくなったが、今さら引けない。
侍女の手がほんの僅かに止まった。
「侍女さん」
「はい」
「今の反応で何か知っていると分かりましたわ」
「……」
「正直に」
アマリリアが静かに促すと、侍女は小さく息を吐いた。
「ゼイン様から直接伺ったわけではございません」
「では、近衛ですの?」
「王宮側から旦那様宛に、昨日の護衛報告が届いております」
アマリリアは額へ手を当てた。
「お父様にも?」
「はい」
「どこまで書かれていたのです?」
侍女は少し言いにくそうに目を逸らす。
「安全上の問題は発生しなかったこと。王都中央区を散策されたこと。途中で焼き菓子を購入されたこと。古書店へ寄られたこと。昼食を取られ、公園で休憩されたことなどです」
「そこまでは分かります」
王族とその正式な婚約者が王都を歩いたのだから、警護記録が残されること自体は理解できる。
「それから?」
アマリリアが問うと、侍女の視線が泳いだ。
「帰り際、殿下がお嬢様へ接近し、髪についていた葉を取り除かれたことも」
「そこまで報告する必要があります!?」
思わず声が大きくなった。
「護衛としては、お二人の距離が急に近づいたため、周囲から何らかの接触がないか警戒したとのことで」
「私と殿下の距離まで警護対象なのですか?」
「王族警護とは、そういうものなのかもしれません」
「本当に?」
「私も詳しくは」
侍女は困ったように微笑んだ。
アマリリアは深く息を吐く。
「……それだけ?」
「はい」
「今の間は何です?」
「……」
「まだ何かありますわね」
完全に見抜かれ、侍女は観念した。
「旦那様が報告書を読み終えたあと、『葉を取るだけで、そんなに近づく必要があるのか』と何度も仰っておりました」
「お父様!」
今度こそ声が屋敷中へ響いた。
廊下の向こうから、何か小さな物が落ちる音がした。
もしかすると本人が近くにいたのかもしれない。
「お嬢様」
「何です?」
「アレク様が、『父上、婚約者なら普通です』と宥めていらっしゃいました」
「兄様……」
少なくとも、味方は一人いるようだ。
アマリリアは椅子へ座り、侍女に髪を整えてもらいながら鏡を見た。
「それで」
侍女が穏やかに尋ねる。
「昨日は楽しかったですか?」
昨日、帰りの馬車でもゼインに同じことを聞かれた。
少し前の自分なら、「普通でした」とでも答えていたかもしれない。楽しみにしていたことも、楽しかったことも、他人へ分かるように口にする必要はないと思っていた。
けれど。
「ええ」
アマリリアは鏡の中の自分を見ながら微笑んだ。
「とても楽しかったです」
侍女の表情が柔らかくなる。
「それは何よりでございます」
「ただし」
「はい」
「最後の件は忘れなさい」
「どの件でしょう?」
「今の顔、絶対に分かっておりますわね」
「……努力いたします」
「カルロス様みたいな返事をしないでくださいませ!」
朝から少し大きな声を出してしまった。
けれど、鏡の中の自分は思っていた以上に楽しそうな顔をしていた。
◇◇◇
朝食の席へ向かうと、予想通りハロルドが待ち構えていた。
長い食卓にはアレクも座っており、既に朝食を始めている。その向かいに座った父の前には、見覚えのない折り畳まれた紙が一枚置かれていた。
嫌な予感しかしない。
「おはようございます」
「リリア」
「何でしょう」
「昨日は楽しかったか?」
意外にも、最初の質問は普通だった。
「ええ」
「そうか」
ハロルドはどこかほっとしたように頷く。
「何を食べた?」
「露店で焼き菓子を。昼は煮込み料理をいただきました」
「本も買ったらしいな」
「報告書にそこまで?」
「ああ」
「何を買った?」
「恋愛小説です」
ハロルドの眉がぴくりと動いた。
「恋愛?」
「お父様」
「何だ」
「それだけで反応なさらないでくださいませ」
「反応くらいする!」
向かいでアレクがパンを口へ運びながら笑う。
「父上、その程度で反応していたら、今日一日持ちませんよ」
「まだ何かあるのか?」
「知りませんけど」
「兄様」
「何だ?」
「煽らないでくださいませ」
「俺は何もしてない」
ハロルドは咳払いをすると、目の前の紙へ視線を落とした。
「それで」
「はい」
「公園では」
「お父様」
「何だ」
「その紙は?」
「護衛報告だ」
「やはり!」
アマリリアは思わず椅子から腰を浮かせかけた。
「どうしてお父様がお持ちなのです!」
「ベスター家の娘でもある以上、こちらにも安全報告は来る!」
「王宮近衛のものですわよね?」
「ゼインたちからも確認が届いた!」
「ゼイン……」
あとで話がある。
本当に。
かなり。
「『公園の奥にあるベンチで、第一王子殿下と長時間隣り合って着席』」
「普通です!」
「『その後、手を繋いだ状態を確認』」
「婚約者です!」
「『帰還時、第一王子殿下がお嬢様へ接近』」
「髪についていた葉を取ってくださっただけです!」
ハロルドは紙を置き、身を乗り出す。
「どのくらい近づいた?」
「知りません!」
「顔と顔の距離は?」
「お父様!」
アレクがとうとう耐えきれず笑い出した。
「父上、もうやめた方がいいですよ」
「なぜだ!」
「完全に嫌われます」
「私は父親として心配を!」
「心配と詮索は違うでしょう」
アレクは笑みを少し収め、父をまっすぐ見た。
「リリアはもう、自分で相手を選んだんですよ」
「十五だぞ!」
「だからこそです」
ハロルドが眉を寄せる。
「何がだ」
「心配するのはいいです。でも、全部を父上が決めたり管理しようとしたら、前と同じになります」
その言葉で、食卓の空気が僅かに変わった。
ハロルドの表情が止まる。
アマリリアも黙った。
前と同じ。
娘の意思を聞かず、良かれと思った未来を勝手に決める。
カルロスとの婚約を押し付けたときと。
ハロルド自身が、最も後悔していることだ。
長い沈黙のあと、父はゆっくり椅子へ背を預けた。
「……そうだな」
思っていたより早く、引いた。
アマリリアは少し目を丸くする。
「お父様」
「何だ」
「今日は素直ですわね」
「お前にだけは言われたくない」
「失礼ですわ」
「ただ」
ハロルドは護衛報告を折り畳み直した。
「心配するなと言われても、それは無理だ」
その声には、以前のような苛立ちや支配欲はなかった。
本当に。
ただの父親として。
心配している。
アマリリアは少し考え、それから小さく息を吐いた。
「それは構いません」
「いいのか?」
「心配するのは自由ですもの」
「ああ」
「ただし」
アマリリアは父をじっと見つめる。
「今後、抱擁や口づけまで逐一確認なさろうとするのはおやめくださいませ」
ハロルドが硬直した。
アレクが飲んでいたスープを危うく吹き出しかける。
「リリア!」
「自分から聞いてきたのでしょう!」
「では、まだしていないのか!?」
「そこを聞くなと申し上げているのです!」
「まだなのか!」
「兄様!」
「はいはい」
アレクが立ち上がり、父の肩へ手を置いた。
「父上。朝食中ですよ」
「アレク、離せ!」
「リリアも学園へ行く時間でしょう」
「まだ話が!」
「ありません」
「リリア!」
相変わらず騒がしい。
アマリリアは深いため息をつきながらも、どこか笑っていた。
以前なら、父に恋愛へ口を出されること自体が耐えられなかったかもしれない。
自分を家から追い出そうとしていた男に、今さら何を言われても聞きたくないと思っていただろう。
けれど今は違う。
鬱陶しい。
かなり。
けれど、その根底に自分への心配があると知っている。
それなら。
少しくらいは。
許せる。
◇◇◇
学園へ到着すると、昨日ほど生徒たちが一斉に押し寄せてくることはなかった。
婚約発表直後の興奮が少し落ち着いたのか、それとも教師たちから注意を受けたのか。正門を通り抜けても、遠くから視線や挨拶を向けられる程度で済んでいる。
朝の風はまだ少し涼しく、校舎へ続く並木道では葉がかすかな音を立てて揺れていた。
アマリリアは歩きながら、何となく時計塔へ目を向けた。
今日はライルが午前中だけ王宮の執務へ出ており、学園へ来るのは昼頃と聞いている。
つまり、午前中は会わない。
「……」
別に。
昨日までだって、四六時中一緒にいたわけではない。
なのに。
少し。
物足りない。
「おはようございます、アマリリア様」
声をかけられ、アマリリアは我に返った。
「おはようございます、ルシアさん」
ルシアが一人で歩いてくる。
以前よりずっと顔色もよく、足取りもしっかりしている。
二人は自然に並び、校舎へ向かった。
「体調はいかがです?」
「大丈夫です。もう普通に授業を受けられると思います」
「無理はなさらないでくださいませ」
「はい。今回は本当に」
ルシアが少し笑った。
アマリリアも釣られて笑う。
「最近、皆様その言い方をなさいますわね」
「殿下の気持ちが分かるようになりました」
「まあ」
昇降口へ入り、少し人通りの少ない廊下へ進んだところで、ルシアが言いにくそうに視線を逸らした。
「それから」
「何でしょう」
「昨日、デートだったと聞きました」
アマリリアの足が僅かに止まりかける。
「どこから?」
「学園でも少し噂になっております。王都中央区でお二人を見た方がいたそうで」
「……でしょうね」
思い当たる節しかない。
焼き菓子の店主が、かなり大きな声で「ご婚約おめでとうございます」と叫んでいた。
「楽しかったですか?」
本日何度目か分からない質問だった。
だが、不思議と嫌ではない。
「ええ」
アマリリアは素直に笑った。
「とても楽しかったです」
ルシアも嬉しそうに笑う。
「よかったです」
「ただ、有名人のデートというものは大変ですわね」
「囲まれたのですか?」
「少しだけ」
「逃げました?」
「少しだけ」
「殿下も?」
「一緒に」
ルシアが楽しそうに笑う。
「楽しそうですね」
「楽しかったです」
「あ」
「何です?」
「二回言いました」
「……」
アマリリアはじっとルシアを見る。
「本当に最近、私へ似てきましたわね」
「悪い意味でしょうか」
「半分は」
「残り半分は?」
「嬉しいです」
ルシアの表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます」
しばらく並んで歩いていると、今度はルシアの方が何度か何かを言いかけてはやめていることに気づいた。
「ルシアさん」
「はい?」
「何かございます?」
「……カルロス様のことで」
アマリリアの足が僅かに緩む。
「何かありました?」
「昨日、少しだけ一緒に昼食を取らないかと誘われました」
「まあ」
「断りました」
「即答でしたの?」
「はい」
「なぜ?」
ルシアは少し考え、制服の袖口を指先で整えた。
「まだ、二人だけで食事をするのは早いと思いました」
「そう」
「でも、今度友人も一緒なら、と伝えました」
アマリリアは少し驚いた。
「カルロス様は?」
「『分かった』と」
「素直に?」
「はい」
「……本当にカルロス様です?」
「アマリリア様」
「失礼しました」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「でも」
ルシアの声が少し柔らかくなる。
「少しずつなら、また話してもいいかなと思い始めています」
アマリリアは彼女の横顔を見る。
「好きだから?」
「……はい」
ルシアの頬がほんのり赤くなる。
けれど、すぐに真面目な顔へ戻った。
「でも、前のようには戻りたくありません」
「戻らなくてよろしいのでは?」
「え?」
ルシアが顔を上げる。
「前へ進むのでしょう?」
アマリリアは穏やかに言った。
「以前と全く同じ関係へ戻る必要はございません。ルシアさんも変わりましたし、カルロス様も少しずつですが変わり始めております」
「はい」
「でしたら、新しい関係を一から作ればよろしいのです」
ルシアは少しの間黙っていた。
やがて、柔らかな笑みを浮かべる。
「アマリリア様」
「何でしょう」
「殿下との関係も?」
「私たち?」
「はい。前と同じではなく、新しく作っているところですか?」
その言葉を聞いて、アマリリアは少し目を瞬いた。
最初は脅迫だった。
互いの都合を利用するだけの仮の婚約。
いつか終わる前提の関係。
それが今は。
正式な婚約者となり。
互いに好きだと伝え。
デートをして。
手を繋いで。
次の距離を、少しずつ探している。
「そうですわね」
アマリリアは小さく笑った。
「私たちも、まだ作っている途中です」
◇◇◇
午前の授業を終えたあと、アマリリアは教室に残って教材を片づけていた。
昼休みを告げる鐘が鳴り、生徒たちは次々に席を立って食堂や中庭へ向かっている。
ライルが学園へ来るのは、確かこのくらいの時間だったはずだ。
別に、約束しているわけではない。
昼食を一緒に取ると決めているわけでもない。
それでも、アマリリアは無意識に窓の外へ目を向けていた。
「アマリリア様」
「何です?」
前の席の令嬢が振り返る。
「殿下を待っていらっしゃいます?」
「……」
アマリリアは無言で令嬢を見る。
「すみません」
「なぜ、そう思いますの?」
「朝から何度か時計をご覧になっていたので」
「見ておりません」
「三回ほど」
「……」
「窓の外も」
「天気を確認していただけです」
「朝からずっと晴れております」
「知っております」
近くに残っていた令嬢たちが、必死に笑いを堪えている。
「皆様」
アマリリアがにこやかに微笑むと、数人が一斉に姿勢を正した。
「授業後とはいえ、人の恋愛を観察しすぎるのはいかがなものかと思いますわ」
「ですが」
「何でしょう」
「最近のアマリリア様、とても分かりやすくなられましたので」
「……」
また。
それである。
「王妃様にも同じことを言われました」
「王妃様にも?」
「ええ」
「でしたら、本当なのでは?」
「なぜ王妃様が基準になるのです!」
教室に笑いが広がった。
アマリリアは僅かに頬を膨らませる。
そのとき。
「何の話?」
入口から声がした。
全員が振り返る。
そこにはライルが立っていた。
「殿下」
アマリリアは立ち上がりかけた。
その瞬間、自分の表情が自然に明るくなったことには気づかなかった。
しかし。
周囲は気づいた。
「……」
「……」
妙な沈黙。
「何です?」
アマリリアが令嬢たちを見る。
そのうちの一人がぽつりと呟いた。
「本当に分かりやすい」
「聞こえております!」
ライルが笑いながら教室へ入ってくる。
「何?」
「何でもございません」
「俺を待ってた?」
「殿下まで!」
「違う?」
アマリリアは反射的に否定しかけた。
けれど。
一度、口を閉じる。
最近。
自分は。
少しずつ正直に言うことを覚えた。
「……少し」
一瞬。
教室が静まる。
次の瞬間。
「まあ!」
「アマリリア様!」
「可愛い!」
「皆様!」
令嬢たちの声が一気に上がった。
ライルまで少し驚いたように目を丸くしている。
「本当に?」
「何です、その顔」
「いや」
「待っていたらいけません?」
「全然」
ライルはすぐに笑った。
「嬉しい」
今度はアマリリアの言葉が詰まる。
「殿下」
「何?」
「ここ、教室です」
「知ってる」
「皆様もおります」
「見える」
「でしたら」
「本当だから仕方ないだろ」
周囲の令嬢たちがさらに色めき立つ。
「殿下まで!」
「最近のお二人、本当に!」
「距離が近い!」
その言葉に、アマリリアとライルが揃って周囲を見る。
「距離?」
「何がです?」
令嬢たちは顔を見合わせ、一人が代表するように口を開いた。
「正式な婚約前より、明らかにお二人の距離が近くなっております」
「物理的に?」
ライルが真面目に尋ねる。
「それもです」
「それも?」
「会話も、表情もです」
アマリリアは少し困った顔になる。
「以前と、それほど変わっていないと思いますけれど」
令嬢たちが一斉に首を横へ振る。
「かなり変わりました」
「殿下がアマリリア様をご覧になる回数も増えましたし」
「数えてるの?」
ライルが引き気味に聞く。
「数えてはおりません!」
「でも分かるくらい?」
「はい」
アマリリアとライルは顔を見合わせた。
「殿下、そんなに私を見ております?」
「君も?」
「私は……」
周囲から期待に満ちた視線が集まる。
アマリリアは少し迷い。
「最近は、以前より見ているかもしれません」
認めた。
また教室がざわめく。
「アマリリア様!」
「本当に変わった!」
「皆様、声が大きいです!」
アマリリアの頬が少し熱くなる。
ライルはその隣で、何だか楽しそうに笑っていた。
「殿下」
「何?」
「楽しそうですわね」
「かなり」
「私ばかり恥ずかしいです」
「俺も恥ずかしい」
「見えません」
「見せてないだけ」
「でしたら」
アマリリアは少しだけライルへ近づいた。
「もっと照れてくださいませ」
「ここで?」
「私だけでは不公平です」
ライルは僅かに目を瞬く。
「君」
「何です?」
「そういうことするから、距離が近いって言われるんじゃない?」
「……」
アマリリアが止まる。
令嬢たちが一斉に頷く。
「その通りです」
アマリリアは静かに一歩離れた。
「今、離れた?」
「意識しました」
「可愛い」
「殿下!」
また教室に笑いが広がった。
◇◇◇
結局、教室にいればいつまでもからかわれるという理由で、二人は昼食を持って中庭へ逃げることになった。
ここ数日、何度も利用している木陰の休憩所は、今日もほどよく人目から離れている。春の風が枝葉を揺らし、陽光が石造りの卓へ斑に落ちていた。
アマリリアは椅子へ座ると、普段より少し深く背を預ける。
「疲れてる?」
向かいに腰を下ろしたライルがすぐ気づいた。
「少しだけ」
「昨日歩いたから?」
「それもございます」
「今日の王妃教育は?」
「夕方からです」
「俺もその頃まで王宮だから、一緒に帰る?」
あまりにも自然な提案だった。
アマリリアもほとんど迷わず頷く。
「ええ」
言ってから、少しだけ思う。
以前なら。
帰る時間まで合わせる理由などなかった。
今は。
自然に。
一緒に帰る。
それを選ぶ。
「殿下」
「何?」
「皆様がおっしゃる通りなのでしょうか」
「何が?」
「距離が近くなったという話です」
ライルはサンドイッチを一口食べ、少し考えた。
「多分」
「殿下もそう思います?」
「うん」
「いつから?」
「正式に婚約してから、かな」
「随分分かりやすいですわね」
「でも」
ライルは少しだけ笑った。
「それだけじゃないかも」
「何が?」
「君が」
一度、言葉を選ぶように間を置く。
「嫌な時は嫌って言ってくれるようになったから」
アマリリアの表情が少し変わった。
「以前は?」
「分からなかった」
「そんなに?」
「うん。君、何でも一人で処理して、顔にもほとんど出さなかっただろ」
「王妃様と同じことを」
「多分、みんな思ってたんじゃないかな」
「……それは困りましたわね」
「でも今は」
ライルはまっすぐアマリリアを見る。
「少し分かる」
「例えば?」
「今」
「はい?」
「昨日の最後のこと考えた」
アマリリアの動きが完全に止まった。
「……」
「当たり?」
「殿下」
「何」
「なぜ急にそれを」
「顔」
ライルが自分の頬を指差す。
「分かりやすい」
アマリリアは額へ手を当てた。
「最悪ですわ」
「何で?」
「知られたくないことまで分かるではありませんか」
「昨日のこと?」
「言わないでくださいませ!」
思ったより強い声が出た。
近くの木で休んでいた小鳥が飛び立つ。
ライルは少し驚いたあと、笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
「殿下」
「何?」
「笑いました?」
「少し」
「本当に黒装束を呼びますわよ」
「今呼ばれても、もう前ほど怖くないかも」
アマリリアが顔を上げる。
「まあ」
「正式な婚約者だし」
「それと黒装束に何の関係が?」
「何となく守られてる気がする」
「では試します?」
「やめよう」
「早いですわね」
二人は少しだけ笑った。
けれど、アマリリアの胸は完全には落ち着かない。
ライルは気づいている。
昨日。
自分が。
何を期待したのか。
少なくとも。
その可能性には。
気づいている。
「アマリリア」
「何です?」
「聞かないから」
アマリリアがゆっくり顔を上げた。
「何を?」
「昨日、何を期待したか」
「……」
また胸が鳴る。
「君が言いたくなるまで聞かない」
ライルの声は、からかうものではなかった。
急かすつもりも。
答えを引き出そうとする気配もない。
ただ。
待つ。
その言葉に、胸の奥で固まっていたものが少しずつほどけていく。
「殿下」
「何?」
「そういうところです」
「また?」
「ええ」
「何が?」
「ずるいですわ」
「何で?」
「待ってくださるところが」
ライルは少し黙った。
それから、穏やかに笑う。
「じゃあ、待つ」
「何を?」
「君が言いたくなるまで」
「……ありがとうございます」
「うん」
しばらく会話が途切れた。
風が木々を抜け、葉擦れの音が頭上で続く。遠くでは他の生徒たちの笑い声も聞こえている。
アマリリアは膝の上で手を重ねながら、もう一度昨日の光景を思い出した。
近づいてきたライル。
伸ばされた手。
閉じかけた自分の目。
本当は。
もう。
自分でも分かっている。
何を期待したのか。
ただ。
それを。
口にする勇気が。
まだない。
「殿下」
「何?」
「一つだけ」
「うん」
「昨日」
ライルの表情がほんの少し変わる。
それでも急かさない。
「葉っぱで」
「うん」
「……よかったです」
ライルの目が少し細くなる。
「本当に?」
「……」
「アマリリア」
「殿下」
「何?」
「今の間は忘れなさい」
「分かった」
本当に。
それ以上聞かなかった。
からかわなかった。
笑いもしなかった。
そのことが。
また。
余計に。
胸を温かくした。
「まだ」
「うん」
「待ってくださいませ」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
アマリリアは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「うん」
そして。
ようやく。
昼食を再開した。
◇◇◇
午後の授業を終えたあと、二人は予定通り同じ馬車で王宮へ向かった。
昨日のようなデートではない。
今日はライルの執務と、アマリリアの王妃教育のためだ。
それでも。
向かいではなく。
自然と隣寄りへ座る距離も。
以前とは少し違っている。
車輪が石畳を越えるたびに馬車が規則正しく揺れ、窓の外では王都の街並みがゆっくり流れていった。
「殿下」
「何?」
「昨日買った本」
「どっち?」
「殿下の方です」
「『婚約者と過ごす百の方法』?」
「声に出さないでくださいませ!」
「誰もいないだろ」
「御者がおります!」
「そこまでは聞こえないと思うけど」
「分かりません」
アマリリアは少し声を落とした。
「読みました?」
「少しだけ」
「本当に?」
「うん」
「何が書いてありました?」
ライルは一瞬、答えを迷った。
「……聞きたい?」
「今の反応で余計気になりました」
「じゃあ、一つ目」
「はい」
「互いの好きな食べ物を知る」
「普通ですわね」
「二つ目。一緒に散歩する」
「昨日しました」
「三つ目。手を繋ぐ」
「それもしております」
「四つ目。名前を特別な呼び方で呼ぶ」
「……」
アマリリアの表情が固まった。
ライルがそれを見逃さない。
「リリア」
突然呼ばれ。
アマリリアの肩が僅かに跳ねた。
「殿下」
「効いた」
「やめてくださいませ」
「何で?」
「馬車の中では逃げ場がございません」
「じゃあ俺も?」
アマリリアは少し目を細める。
そして。
「ライル様」
「……」
今度はライルが黙った。
「殿下」
「何」
「効きました?」
「かなり」
「お互い様ですわね」
「うん」
ほんの少し。
二人とも。
視線を逸らした。
「五つ目は?」
アマリリアが尋ねる。
ライルがまた止まる。
「……」
「殿下?」
「今日はそこまででいいんじゃない?」
「なぜです?」
「次が」
「何?」
ライルは少しだけ顔を逸らした。
「……抱き締める」
「……」
アマリリアの身体が完全に固まる。
「アマリリア?」
「何でもございません」
「顔」
「見ないでくださいませ」
「赤い」
「夕日のせいです」
「まだ昼過ぎ」
「殿下!」
馬車の前方から、御者が小さく咳払いした。
「……」
「……」
二人は同時に黙る。
数秒後。
ライルが小声で言った。
「聞こえてるな」
「確実ですわね」
「母上まで行く?」
「確実です」
「最悪」
「殿下のせいです」
「君が聞いたんだろ」
「まさかそのような内容だとは思いませんでした!」
「何だと思った?」
「知りません!」
それでも。
少し経てば。
二人とも笑っていた。
◇◇◇
王宮へ到着すると、嫌な予感はすぐに形になった。
正面玄関。
セレーネがいた。
「お帰りなさい」
「母上」
「王妃様」
「二人で来たのね」
「予定通りです」
「そう」
妙に嬉しそうだ。
怪しい。
「何です?」
ライルが警戒する。
「何も」
「絶対何かあります」
「ないわよ」
アマリリアも少し身構える。
「王妃様」
「何かしら?」
「御者から、何か報告は?」
「まだ」
二人が同時に安心したように息を吐いた。
セレーネの目が細くなる。
「何かあったの?」
「何もありません!」
ライルが即答する。
「殿下、今の答えは余計に怪しいです」
「君も同じ顔してる」
「でしたら私も。何もございません」
「二人とも」
セレーネは楽しそうに笑った。
「本当に分かりやすくなったわね」
また。
言われた。
「王妃様」
「何?」
「それ、褒め言葉です?」
「私はそう思ってるわ」
セレーネは少しだけ表情を柔らかくした。
「好きな人の前でまで、何を考えているのか全部隠す必要なんてないもの」
アマリリアとライルが少し黙る。
「もちろん」
セレーネは続ける。
「言いたくないことまで、無理に見せなくてもいいけれど」
アマリリアの胸に。
昼休みのライルの言葉が重なった。
『君が言いたくなるまで』
「王妃様」
「何?」
「殿下」
「俺?」
「似ましたわね」
セレーネが息子を見る。
「そう?」
「最近、同じようなことを言われました」
「へえ」
「アマリリア」
ライルが露骨に嫌そうな顔をする。
「何です?」
「母上に餌を与えるな」
「餌?」
案の定、セレーネの目が輝く。
「何の話?」
「何でもありません」
「ライル」
「母上」
「何?」
「俺、執務があるので」
「逃げるの?」
「仕事です!」
ライルは早足で奥の廊下へ消えていった。
アマリリアはその背中を見送る。
すると、セレーネが隣へ並んだ。
「仲がいいわね」
「正式な婚約者ですので」
「便利な言葉ね」
「ええ」
「でも」
セレーネが少し笑う。
「本当に、距離が近くなった」
「皆様に言われます」
「嫌?」
アマリリアは少し考えた。
以前なら。
近いと言われるだけで。
自分の内側へ踏み込まれたような気がして。
嫌だったかもしれない。
今は。
「いいえ」
素直に答える。
「少し恥ずかしいですけれど」
「うん」
「嫌ではございません」
「そう」
セレーネはそれ以上からかわず、柔らかく微笑んだ。
◇◇◇
王妃教育を終えた夕方。
アマリリアが庭園へ続く回廊を歩いていると、少し離れた窓際にライルが立っていた。
西へ傾いた陽射しが長い影を床へ落とし、開けられた窓からは庭の花と若い葉の匂いが流れ込んでいる。
「終わった?」
「ええ」
「帰る?」
「はい」
二人は自然に並び、王宮正門へ向かって歩き始めた。
夕日の色。
少し冷え始めた風。
昨日のデートの帰りと似ている。
それだけで。
また。
思い出す。
「アマリリア」
「何です?」
「また考えてる」
「最近、本当にすぐ気づきますわね」
「分かりやすいから」
「その言葉、本日何度目でしょう」
「俺が言ったのは初めて」
「皆様を合わせれば五回以上です」
「人気だな」
「嬉しくありません」
アマリリアは少しむっとしながら歩いていたが。
やがて。
足を止めた。
「殿下」
「何?」
ライルも止まる。
「昨日のこと」
その一言で。
ライルの表情がほんの少しだけ変わった。
けれど。
何も言わない。
待つ。
アマリリアは一度だけ深く息を吸った。
「私」
「うん」
「まだ」
「うん」
「言えません」
「分かった」
すぐだった。
残念そうにもしない。
探ろうともしない。
「でも」
アマリリアはライルを見る。
「いつかは」
そこで。
言葉が止まった。
自分は。
何を言おうとしているのか。
本当は分かっている。
それを口にしたら。
昨日の期待を。
完全に認めることになる。
少し怖い。
でも。
逃げたくはない。
「いつかは、言います」
ライルの目が柔らかくなる。
「待ってる」
「急かしません?」
「うん」
「からかいません?」
「努力する」
アマリリアは一瞬黙り。
「カルロス様」
「そこ?」
思わず笑ってしまった。
ライルも笑う。
「では」
アマリリアは少しだけ手を差し出した。
「帰りましょう」
ライルはその手を見ると、何も言わず握った。
「うん」
二人はまた歩き出す。
昨日。
自分が何を期待したのか。
まだ。
言葉にはできない。
でも。
昨日までとは違う。
知られたくないだけではなくなった。
いつか。
自分から。
伝えたい。
そう思えるようになっている。
正式な婚約者になってから、アマリリアは少しずつ変わっていた。
学園中から「距離が近い」と言われ。
父には護衛報告を読み込まれ。
王宮では王妃に表情を読まれ。
そして何より。
ライル本人に。
自分でも隠しておきたかった期待を、ほとんど見抜かれてしまった。
以前のアマリリアなら。
耐えられなかっただろう。
自分が何を考えているか。
何を望んでいるか。
それを他人へ知られることは、弱みを握られることと同じだった。
けれど。
今は。
全部を見せる必要はなくても。
いつか見せてもいいと思える相手がいる。
その人が、答えを急かさず待ってくれる。
それだけで。
恥ずかしさの奥に。
確かな安心があった。
そして、アマリリアはまだ知らなかった。
昨日、古書店でライルが買った『婚約者と過ごす百の方法』には。
五つ目の「抱き締める」の次に。
六つ目として。
今の彼女が知れば、昨日以上に意識せずにはいられなくなることが。
しっかりと書かれていた。
――婚約者同士なら、互いの気持ちを確認してから口づけをしてみること。
その項目を。
ライルが昨夜のうちに。
既に読んでいたことも。




