第30話 正式な婚約者になって初めてのデートは、何も起きないはずでした
正式な婚約者となってから、初めて二人だけで出かける日。
もっとも、第一王子であるライルが本当の意味で完全に二人きりになることなどできない。王宮近衛の護衛は必要であり、王族としての安全確認も外せず、さらにアマリリア側ではゼインたちが一定の距離から周囲を警戒する予定になっている。
それでも、今日だけは少なくとも視界の中に護衛を置かないことになっていた。
誰かの付き添いとしてではない。調査でも、事件でも、王家や家同士の話し合いでもない。ただライルとアマリリアが「一緒に出かけたい」と思ったから会い、同じ時間を過ごす。
それは二人にとって、初めてのことだった。
朝のベスター伯爵家。
自室の大きな姿見の前で、アマリリアはもう三度目になる服装の確認をしていた。
淡い水色を基調とした外出用のドレスは、王宮の正式な場で着る衣装ほど華美ではなく、学園へ通う時の服ほど簡素でもない。腰回りには細い銀糸の刺繍が入り、裾は王都を歩きやすいよう少し短めに整えられていた。髪も今日はいつものようにきっちりまとめず、耳の後ろから一部だけを留め、残りは背へ自然に流している。
鏡の中の自分は、普段より少し柔らかく見えた。
「……」
アマリリアは裾を確認し、肩回りを確認し、最後に髪へ視線を上げる。
「お嬢様」
背後に控えていた侍女が、堪えきれなくなったように声をかけた。
「何です?」
「十分お似合いでございます」
「まだ何も聞いておりませんわ」
「四度目をお尋ねになる前にお答えしようかと」
「……私、そんなに確認しておりました?」
「先ほどから三度ほど」
アマリリアは鏡越しに侍女を見た。侍女は平静を装っていたものの、口元には明らかに笑みが浮かんでいる。
「別に、緊張しているわけではございません」
「承知しております」
「その返事、信じておりませんわね?」
「そのようなことは」
「では、なぜ笑っておりますの?」
「お嬢様が可愛らしいので」
「忘れなさい」
「難しいかと」
即答され、アマリリアは小さく眉を寄せた。
今日のために特別な準備をしている自覚はある。
けれど、それは当然だと思っていた。
正式な婚約者になって初めて出かけるのだから、少しくらい服を選んでもいい。髪型だって普段と変えてもいい。ライルがどんな反応をするのかを少し気にしたところで、それは婚約者として自然なことである。
そう。
自然。
「こちらを」
侍女が最後に、小さな銀細工の髪飾りを差し出した。中央には青い石が一粒だけ使われている。
「これは?」
「王妃陛下よりお預かりしております」
「王妃様から?」
「『あまり派手では、せっかくの初デートらしさがなくなるでしょうから』とのことで」
アマリリアは数秒、何も言えなかった。
「王妃様は、どこまで関わるおつもりなのです?」
「今朝も王宮より確認がございました」
「何の?」
「護衛配置、馬車の経路、天候、昼食候補。それから、お二人が途中で気まずくなった場合、護衛が助けに入る必要があるかどうかを」
「必要ありません!」
思わず声が大きくなった。
侍女の肩が震える。
「そのようにお返事いたしましょうか?」
「今すぐお願いいたします」
「畏まりました」
アマリリアは深く息を吐き、もう一度鏡へ向き直った。
落ち着けばいい。
ただ出かけるだけだ。
これまでだってライルとは何度も一緒に行動した。王都を歩いたこともある。馬車へ乗ったことも、一緒に食事をしたこともある。森へだって行ったし、危険な事件へ巻き込まれたことなど数えればきりがない。
けれど、そこまで考えたところで、アマリリアは気づいた。
今までは、必ず何か目的があったのだ。
調査、事件、相談、婚約問題、王家の事情。どこへ行くにも理由があり、話すべきことがあり、次に何をするのかが決まっていた。
今日は違う。
何もない。
だからこそ、困る。
「……何を話せばよろしいのでしょう」
思わず口から零れた。
侍女が少しだけ目を丸くする。
「殿下と、ですか?」
「ええ」
「普段通りでよろしいのでは?」
「それは分かっております。でも」
アマリリアは鏡の中の自分へ視線を戻した。
「今日は、デートですのよ?」
言ってから、自分で恥ずかしくなった。
侍女の目が明らかに輝く。
「お嬢様」
「何です?」
「今、とても可愛らしかったです」
「忘れなさい」
「努力いたします」
「カルロス様のような返事をしないでくださいませ」
そこへ、今度は扉が勢いよく開いた。
「リリア!」
「お父様」
入ってきたのは、予想通りハロルドだった。
アマリリアは鏡越しに父を見る。
「何です?」
「本当に行くのか?」
「何を?」
「デートだ!」
「朝から大声で言わないでくださいませ!」
侍女がすぐさま頭を下げ、そのまま部屋から退出していった。
完全に逃げた。
父娘二人だけになると、ハロルドは妙に真剣な顔でアマリリアを見た。
「行き先は?」
「王都です」
「王都のどこだ」
「まだ完全には決めておりません」
「帰宅時間」
「夕方までには戻ります」
「護衛は?」
「見えない距離におります」
「殿下との距離は?」
「何の?」
「二人のだ!」
アマリリアは無言で父を見つめた。
「お父様」
「何だ」
「出ていってくださいませ」
「まだ何も聞いていない!」
「十分聞きました」
「父親だぞ!」
「存じております」
ハロルドは引かない。
「手は繋ぐのか?」
「知りません」
「抱き締めるのは?」
「お父様!」
「では、くち――」
そこまで聞いた瞬間、アマリリアの笑顔がすっと消えた。
「お父様」
「……何だ」
「久しぶりに黒装束を呼びましょうか?」
ハロルドが一歩下がった。
「その目は久しぶりだな」
「安心しました?」
「少し」
「でしたら出ていってくださいませ」
「しかし!」
「兄様!」
廊下へ向かって声を上げる。
すぐに、やや疲れた声が返ってきた。
「はいはい」
アレクが部屋の入口へ顔を出す。
「父上、行きますよ」
「アレク!」
「もう十分でしょう」
「私は父親として確認を」
「十分邪魔です」
「息子まで!」
アレクは父の肩を掴み、そのまま廊下へ引っ張っていく。
「リリア!」
「何です?」
「夕方までには帰るんだぞ!」
「分かっております!」
「暗くなる前だ!」
「はいはい」
「返事が軽い!」
扉が閉じた。
静かになった部屋で、アマリリアはしばらくその場に立ち尽くした。
そして。
「……口づけ」
小さく呟いてしまう。
その瞬間、鏡の中の自分の頬が赤くなるのが分かった。
「お父様のせいですわ」
誰もいない部屋で言い訳をしてみたものの、胸の鼓動はしばらく落ち着かなかった。
◇◇◇
一方、同じ頃。
王宮でも、似たような騒動が起きていた。
「ライル」
「何です?」
「本当にその服で行くの?」
「何が駄目なんです?」
「少し固いわ」
「普通の外出着です」
「第一王子としての普通でしょう?」
「俺は第一王子なんです!」
ライルは自室でセレーネに捕まっていた。
今日の服は濃紺を基調とした簡素な上着で、公式行事用の金糸や宝石はほとんど使っていない。王族だと分かる意匠だけは残しているが、彼なりにかなり目立たないものを選んだつもりだった。
それでもセレーネは不満らしい。
「もっと普通の若い男性らしく」
「普通の若い男性って何です?」
「十八歳なのでしょう?」
「母上」
「何?」
「今日デートするのは俺です」
「知っているわ」
「母上じゃありません」
「それも知っているわ」
「でしたら任せてください!」
少し離れたソファでは、アルベルトが新聞を広げながら笑っている。
「諦めろ、ライル」
「父上」
「何だ」
「助けてください」
「無理だ」
「即答ですか?」
「私も昔、同じ目に遭った」
「母上に?」
「ああ」
セレーネがゆっくり夫を見る。
「何か?」
「何でもない」
アルベルトはすぐに新聞へ視線を戻した。
ライルは深くため息をつく。
「それで、今日はどこへ行くの?」
セレーネが再び尋ねる。
「王都を歩いて、アマリリアが行きたいところへ」
「決めていないの?」
「わざとです」
「なぜ?」
「予定を作りすぎると、いつもと同じになるから」
セレーネが少し黙った。
「何です?」
「成長したわね」
「今日は何回それを言うつもりです?」
「まだ一回目よ」
「増やさなくていいです」
けれど、セレーネの表情は少しだけ優しくなった。
「いいと思うわ」
「母上」
「何?」
「急に普通ですね」
「失礼ね」
「だって」
「デートくらい、二人で決めなさい」
「……はい」
「ただし護衛は絶対」
「分かっています」
「帰る時間も」
「分かっています」
「怪しい店には入らない」
「俺を何だと思っているんです?」
「十八歳の男の子」
「その言い方やめてください!」
アルベルトがとうとう声を上げて笑った。
「父上!」
「悪い」
「絶対そう思ってないでしょう!」
そこへディーンが入ってくる。
「殿下」
「何?」
「馬車の準備が整いました」
「助かった」
「それから、ベスター家よりアマリリア様も間もなくご出発とのことです」
ライルの表情が、ほんの僅かに変わった。
「そっか」
セレーネは当然見逃さない。
「嬉しそう」
「母上」
「何?」
「行ってきます」
「逃げたわね」
「行ってきます!」
ライルは早足で部屋を出た。
その背を見送りながら、セレーネは小さく笑う。
「楽しそうね」
「お前もな」
アルベルトが新聞越しに答えた。
「私は母親ですもの」
「ほどほどにしてやれ」
「分かっているわ」
その返事は、少しだけ怪しかった。
◇◇◇
二人が待ち合わせたのは、王宮正門から少し離れた小さな広場だった。
正確には、アマリリアの馬車とライルの馬車がほぼ同時に到着するよう王宮側が調整している。
一般的な男女の待ち合わせとは少し違う。
それでも、アマリリアにとっては十分に特別だった。
馬車の扉が開き、石畳へ足を下ろす。
少し離れた場所には、既にライルが立っていた。
昨日まで何度も見た相手。
学園でも、王宮でも。
それなのに今日は、なぜか少し違って見える。
ライルもこちらへ気づいた。
一瞬、視線が止まる。
「アマリリア」
「殿下」
二人が近づく。
「おはよう」
「ごきげんよう」
「デートでもその挨拶?」
「癖ですわ」
「そっか」
少しだけ、妙な間ができた。
気まずいわけではない。
けれど、互いに普段より少しだけ意識しているのが分かる。
「その服」
ライルが先に口を開いた。
「はい?」
「似合ってる」
アマリリアが一瞬止まる。
「ありがとうございます」
「今日は素直」
「殿下もですわね」
「練習した」
「また?」
「うん」
「何を?」
「会ったら最初に言おうって」
アマリリアの頬が少し熱くなる。
「殿下」
「何?」
「今日は最初から強いですわね」
「昨日負けたから」
「競っておりますの?」
「少し」
二人は同時に笑った。
その時、少し離れた建物の陰に人の気配がした。
アマリリアが視線を向ける。
姿は見えない。
でも、いる。
「護衛ですわね」
「多分」
「近すぎません?」
「母上の指示だと思う」
「王妃様……」
アマリリアは小さくため息をついた。
するとライルが少しだけ声を落とす。
「見えないふりをしよう」
「よろしいのです?」
「今日は俺たちの時間だから」
アマリリアはライルを見る。
「それ」
「また?」
「格好いいですわ」
「今日は、だろ?」
「殿下」
「学んだ」
「本当に成長なさいましたね」
「君に鍛えられた」
二人は笑いながら歩き出した。
◇◇◇
王都中央区。
普段は馬車で通り過ぎることの多い大通りを、今日は徒歩で歩く。
春の終わりが近づいた王都では、薄手の上着だけで歩く者も増えていた。露店には赤や黄色の果実が並び、焼きたてのパンや香辛料を使った肉料理の匂いが風に乗って流れてくる。少し離れた広場では大道芸人が球を投げ上げ、周囲に子供たちが集まっていた。
「アマリリア」
「何です?」
「どこへ行きたい?」
「急に聞かれましても」
「俺、何も決めてない」
「私もです」
二人とも少しだけ立ち止まり、周囲を見る。
「とりあえず歩く?」
「それがデートです?」
「分からない」
「私もです」
また笑う。
「では、歩きましょう」
「うん」
目的なく歩く。
それだけのことが、アマリリアには驚くほど新鮮だった。
普段であれば次に行く場所があり、到着時間があり、目的がある。
今日は違う。
店先を見て、気になれば止まる。
それだけ。
「殿下」
「何?」
「あれ」
アマリリアが指したのは、小さな焼き菓子の屋台だった。
丸い生地へ蜂蜜と砕いた木の実を練り込み、鉄板の上で焼いている。表面には薄く砂糖がかけられ、甘い香りが辺りへ広がっていた。
「食べる?」
「少し」
「じゃあ買おう」
ライルが店先へ向かう。
屋台の主人は最初、普通の客だと思ったらしい。
しかし顔を見た瞬間、動きが止まった。
「……」
「どうした?」
「い、いえ!」
王都で第一王子の顔を知る者は多い。
しかも昨日、正式婚約が発表されたばかり。
隣にいる銀髪の令嬢が誰なのかも、気づく者ならすぐ分かる。
「ふ、二つでよろしいでしょうか!」
「お願いします」
「はい!」
店主の手が僅かに震えている。
アマリリアが小声で言った。
「殿下」
「何?」
「普通のお買い物、難しいですわね」
「俺のせい?」
「半分」
「残り半分は?」
「私も昨日から有名になりましたので」
「そっか」
焼き菓子を受け取り、ライルが代金を支払う。
店主は二人を見比べたあと、我慢できなくなったように大声を出した。
「ご、ご婚約おめでとうございます!」
周囲の何人かが一斉に振り返った。
「第一王子殿下?」
「婚約者の方?」
「本物?」
ざわめきが少しずつ広がる。
アマリリアとライルは顔を見合わせた。
「殿下」
「うん」
「逃げます?」
「デート中なのに?」
「囲まれたら終わります」
「それは困る」
「では」
「走る?」
「王族が?」
「少しだけ」
アマリリアは思わず笑った。
「逃げましょう」
二人は速足で人混みを抜けた。
後ろから「おめでとうございます!」と声が飛ぶ。
けれど、さすがに追いかけてくる者はいない。
少し離れた路地へ入り、ようやく足を止める。
「……」
「……」
二人とも少し息を整えたあと、同時に吹き出した。
「デートって」
ライルが笑いながら言う。
「こういうもの?」
「違うと思います」
「だよな」
「殿下が目立ちすぎです」
「君も」
「昨日からです」
「じゃあお互い様」
「婚約者ですので?」
「取った」
「まあ」
アマリリアは笑いながら手元の焼き菓子を確認した。
「潰れておりません?」
「大丈夫」
「では」
二人は路地の端へ寄り、焼き菓子を一口ずつ食べた。
蜂蜜の甘さと、木の実の香ばしさが口に広がる。
「甘いですわね」
「うん」
「でも美味しい」
「俺も好き」
何でもない焼き菓子。
それなのに。
妙に楽しかった。
◇◇◇
その後、二人は人通りの少ない商店街へ移った。
古書店、雑貨店、花屋、小さな工房。観光客向けではなく、王都で暮らす者たちが日常的に利用する店が並んでいる。
アマリリアは思った以上に頻繁に足を止めた。
「本、好き?」
古書店の前でライルが尋ねる。
「ええ」
「学園のもの以外も?」
「当然です」
「何読む?」
「歴史、経済、魔術理論、それから」
アマリリアは少しだけ間を置いた。
「恋愛小説も」
ライルが止まる。
「本当に?」
「何です、その顔」
「意外だった」
「私だって読みます」
「どんなの?」
「殿下」
「何?」
「初デートで恋愛小説の好みを聞きます?」
「駄目?」
「別に構いませんけれど」
アマリリアは少し考えた。
「すれ違いが少ないものが好きです」
「すれ違いが少ない?」
「話せば済むのに、何十頁も誤解したまま進むものは疲れます」
「君らしい」
「殿下は?」
「冒険もの」
「恋愛小説ではなく?」
「ほとんど読まない」
「まあ」
「何?」
「勉強が必要ですわね」
「何の?」
「恋愛」
「君が教えるの?」
「私も初心者です」
「駄目じゃないか」
二人で笑い、そのまま古書店へ入る。
店内は静かだった。
古紙と革表紙の匂いが混じり、壁際には天井近くまで本棚が並んでいる。奥では白髪の店主が帳面を読んでおり、入ってきた二人へ最初はほとんど注意を向けなかった。
それが、かえってありがたい。
「こういうところ、好きですわ」
「静かだから?」
「それもございます」
アマリリアは棚へ指を滑らせながら答えた。
「誰も私たちを見ておりませんので」
ライルの表情が少し変わる。
「疲れる?」
「視線?」
「うん」
アマリリアは正直に頷いた。
「少し」
「そっか」
「以前より嫌ではございません。でも、ずっと見られることにはまだ慣れませんわ」
「俺はもう慣れた」
「幼い頃から?」
「うん」
「嫌では?」
「嫌な時もあった」
ライルは別の棚へ視線を向ける。
「でも、王子だから仕方ないって思ってた」
「仕方ない」
「うん」
「今も?」
ライルは少しだけ考えた。
「今は、君まで一緒に見られるのが少し申し訳ない」
アマリリアが振り返る。
「なぜ?」
「君は元々、目立ちたくなかっただろ」
「ええ」
「だから」
アマリリアはしばらくライルを見たあと、少しだけ笑った。
「昨日も申し上げましたでしょう?」
「何を?」
「殿下がいるから、以前ほど嫌ではないと」
「……覚えてる」
「では問題ございません」
「でも、何回聞いても嬉しい」
アマリリアは目を逸らした。
「殿下」
「何?」
「そういうところです」
「また?」
「最近、私を困らせるのが上手くなりました」
「君に鍛えられた」
「それも何度目です?」
「何度でも使う」
「ずるいですわね」
二人が小さく笑っていると、奥の店主がようやく顔を上げた。
そして。
固まった。
「……」
アマリリアは嫌な予感がした。
「で、殿下?」
「こんにちは」
「こ、婚約者様も!」
「ごきげんよう」
店主は勢いよく立ち上がり、机の角へ膝をぶつけた。
「痛っ!」
「大丈夫です?」
「はい!」
ライルが小声で言う。
「ここも駄目そう」
「逃げる?」
「本は買いたい」
「では急ぎましょう」
二人は少し早足で棚を見始めた。
アマリリアは一冊の本を手に取る。
ライルが横から覗く。
「何?」
「秘密です」
「恋愛小説?」
「なぜ分かるのです?」
「表紙」
「見ないでくださいませ」
「見える」
「殿下」
「買う?」
「買います」
「じゃあ俺も」
「何を?」
ライルが別の棚から一冊抜き取り、表紙を見せた。
『婚約者と過ごす百の方法』
「……」
アマリリアは数秒黙った。
「殿下」
「何?」
「本気です?」
「参考になるかもしれない」
「やめてくださいませ」
「何で?」
「恥ずかしい」
「じゃあ買う」
「なぜそうなりますの!」
奥で店主の肩が震えている。
アマリリアは気づいた。
「店主様」
「はい!」
「笑って構いませんわ」
「い、いえ!」
「肩が震えております」
「申し訳ございません!」
ライルが楽しそうに笑った。
「では二冊お願いします」
「殿下!」
結局。
買った。
◇◇◇
昼食は、王都中心部から少し離れた小さな料理店で取ることになった。
王宮側が事前に安全確認だけはしているものの、貴族専用ではなく、商人や裕福な職人も利用する普通の店だ。
窓際の小さな二人席。
護衛の姿は見えない。
それでも、どこかにいることは分かっている。
「殿下」
「何?」
「ここ、王妃様が選びました?」
「違う」
「ディーン様?」
「俺」
「殿下が?」
「前に一度だけ来たことがある」
「誰と?」
「ディーンと」
「……」
アマリリアは自分でも分かるほど、一瞬だけ胸の奥が妙にざわついた。
ライルがこちらを見る。
「何?」
「何でもございません」
「今」
「何です?」
「嫉妬した?」
アマリリアの動きが止まった。
「……」
「違う?」
「ディーン様に?」
「うん」
「男性ですわよ?」
「だから?」
そう言われて、アマリリアは少し考えた。
自分は何に反応したのだろう。
ライルが、自分以外の誰かと、こういう場所で食事をした。
ただそれだけだ。
なのに少しだけ嫌だった。
「……少し」
正直に答えた。
ライルが驚いたように目を見開く。
そして、嬉しそうに笑った。
「何です?」
「嬉しい」
「なぜ?」
「君も嫉妬するんだなって」
「します」
「へえ」
「殿下」
「何?」
「楽しそうですわね」
「かなり」
「では」
アマリリアは少しだけ目を細める。
「殿下もなさいます?」
「何を?」
「嫉妬」
ライルはすぐには答えなかった。
「……する」
「まあ」
「カルロスとか」
「カルロス様?」
「うん」
「もう何もございませんわよ」
「分かってる」
「なら?」
「分かってても嫌なものは嫌」
アマリリアの胸が、じわりと温かくなる。
「殿下」
「何?」
「それは、かなり嬉しいです」
「お互い様」
「ですわね」
料理が運ばれてきた。
温かな肉と野菜の煮込み、焼きたてのパン。香草の匂いがふわりと広がる。
「美味しそうですわ」
「ここはこれが一番」
「詳しいですのね」
「一回来ただけだけど」
「ディーン様と?」
「まだ気にしてる?」
「少し」
「可愛い」
アマリリアがぴたりと止まった。
「殿下」
「何?」
「今、何と?」
「可愛い」
今度は逃げない。
アマリリアの顔が一気に熱くなる。
「それ」
「うん」
「反則です」
「君、俺に何回言った?」
「数えておりません」
「俺も」
「やめてくださいませ」
「嫌?」
「嫌では……」
一度、言葉に詰まる。
「ございません」
ライルが笑った。
「じゃあ、たまに言う」
「たまに?」
「かなり」
「殿下!」
声が少し大きくなり、近くの客がこちらを見る。
二人は同時に声を落とした。
そして。
顔を見合わせて、また笑った。
◇◇◇
午後。
二人は王都の小さな公園へ立ち寄った。
中央には噴水があり、その周囲を色とりどりの花壇が囲んでいる。平日の午後ということもあり人は少なく、数人の子供が芝生を走り回り、少し離れた場所では老夫婦がゆっくり散歩をしていた。
アマリリアとライルは、公園の奥にある木陰のベンチへ腰を下ろした。
「疲れました?」
「少し」
「私もです」
「思ったより歩いたな」
「でも楽しいです」
「俺も」
風が少し強く吹き、アマリリアの髪を揺らした。
ライルがその横顔を見ている。
「何です?」
「いや」
「また見ております」
「見たら駄目?」
「駄目では……ございません」
「じゃあ見る」
「殿下」
「何?」
「最近、本当に強いですわね」
「それ、今日何回目?」
「事実です」
二人は笑った。
しばらく何も話さない時間が続く。
噴水の水音。
子供たちの笑い声。
遠くで鳴く鳥。
木漏れ日が風に揺れ、二人の足元をゆっくり動いていく。
アマリリアはふと、この時間が不思議なくらい心地よいことに気づいた。
「殿下」
「何?」
「今日」
「うん」
「何も起きませんわね」
ライルも同じことを考えていたらしい。
「うん」
「事件も」
「ない」
「追跡も」
「ない」
「誘拐も」
「ない」
「誰かに婚約を壊されそうにも」
「ならない」
「黒装束も」
「今のところ」
「殿下」
「冗談」
二人はまた笑った。
「何もないのに」
アマリリアは噴水へ視線を向けた。
「楽しいですわね」
「うん」
「不思議です」
「何が?」
アマリリアは少し考えた。
「私は、何か目的がなければ、人と一緒にいる意味がないと思っていたのかもしれません」
ライルは何も言わずに聞いている。
「用があるから会う。話すことがあるから会う。何かをしてもらうから一緒にいる。そういう関係ばかりでした」
「……うん」
「でも」
アマリリアはライルを見る。
「今日は何もございません」
「うん」
「それでも会いたかった」
ライルの表情が柔らかくなる。
「俺も」
「それが」
少し言葉を探して。
「嬉しいです」
ライルはしばらく黙っていた。
そして。
ゆっくり手を差し出す。
「アマリリア」
「はい」
「手」
アマリリアはその手を見た。
昨日までにも、何度も繋いだ。
逃げる時。
止める時。
守る時。
励ます時。
でも今日は。
何の理由もない。
ただ、繋ぎたいから。
アマリリアは手を重ねた。
ライルの指が少しだけ絡む。
「殿下」
「何?」
「お父様が見たら」
「倒れる?」
「多分」
「じゃあ秘密」
「護衛には見えております」
「報告しないよう言う?」
「無理でしょう」
「母上にも?」
「確実に」
二人は同時にため息をついた。
それでも手は離さない。
「アマリリア」
「はい」
「次も行こう」
「デート?」
「うん」
「まだ今日が終わっておりませんわ」
「先に予約」
「まあ」
「嫌?」
「いいえ」
アマリリアは少しだけ手を握り返した。
「次は私が場所を決めます」
「どこ?」
「秘密です」
「また?」
「楽しみでしょう?」
「かなり」
ライルが笑う。
アマリリアも笑った。
そのまま、二人はしばらく何も話さず座っていた。
何も起きない。
だからこそ。
今日は、急いで次へ進む必要がなかった。
◇◇◇
夕方。
帰る時間が近づき、二人は再び待ち合わせに使った広場へ戻った。
それぞれの馬車が待っている。
遠くにいた護衛たちも、少しずつ距離を縮め始めていた。
ここで今日のデートは終わりだ。
「殿下」
「何?」
「今日はありがとうございました」
「俺も」
「楽しかったです」
「俺も」
「また同じですわね」
「婚約者だから」
「取られました」
「今日二回目」
「悔しいですわ」
アマリリアは笑った。
「では」
自分の馬車へ向かおうとする。
その時。
「待って」
ライルに呼び止められた。
「何です?」
振り返る。
ライルが少しだけ迷うような顔をしている。
「今日」
「はい」
「最後に」
ライルが一歩近づいた。
アマリリアの心臓が、突然大きく鳴る。
「何です?」
「……」
ライルが手を伸ばす。
顔が近い。
昼間よりもずっと近い。
アマリリアは一瞬、どうしていいか分からなくなった。
そして。
ほんの僅かに。
目を閉じそうになった。
けれど、ライルの指が触れたのは。
髪だった。
「葉っぱ」
「……」
ライルがアマリリアの髪に付いていた小さな葉を摘まむ。
「ついてた」
「……そう」
「どうした?」
「何もございません」
アマリリアはすぐに顔を逸らした。
「本当に?」
「本当です」
胸が妙に騒がしい。
自分が今、何を期待したのか。
考えたくない。
考えれば、余計に恥ずかしい。
「アマリリア」
「何です?」
「顔赤い」
「夕日です」
「夕日は後ろだよ」
「殿下」
「何?」
「黙ってくださいませ」
「何で?」
ライルの声に、少しだけ笑いが混じる。
アマリリアが睨む。
けれど、その顔は自分でも分かるほど赤い。
ライルの表情が変わった。
何かに気づいたように、ほんの少し目を大きくする。
「もしかして」
「殿下」
「何?」
「それ以上言ったら」
「うん」
「本当に黒装束を呼びます」
ライルは口を閉じた。
けれど。
口元だけは笑っている。
「笑っております!」
「ごめん」
「絶対、何か分かっておりますでしょう!」
「少し」
「殿下!」
声が広場へ響く。
遠くの護衛たちは聞こえているはずなのに、誰も近づいてこない。
余計に腹立たしい。
アマリリアは顔を赤くしたまま馬車へ向かい、扉へ手をかけた。
「また明日!」
後ろからライルの声がする。
「知りません!」
「学園で!」
「……」
アマリリアは一度だけ足を止めた。
そのまま馬車へ乗ることもできた。
けれど。
「また明日!」
少しだけ振り返って答える。
ライルが嬉しそうに笑った。
その顔を見てから、アマリリアは今度こそ馬車へ乗り込んだ。
◇◇◇
馬車が動き出す。
窓の外でライルの姿が少しずつ小さくなっていく。
アマリリアは座席へ深く腰を下ろした。
「……」
向かいには、いつの間にかゼインが座っていた。
「お嬢様」
「何です?」
「楽しかったですか?」
アマリリアは少し警戒する。
「報告のためです?」
「いいえ」
「なら」
一度だけ息を吐いた。
「とても」
ゼインの表情が柔らかくなる。
「それは何よりです」
「それから」
「何です?」
「最後の件については」
ゼインは何も言っていない。
けれど。
その目。
「何も申し上げておりません」
「ゼイン」
「はい」
「今日の報告書」
「はい」
「最後の五分は削除なさい」
「無理です」
「なぜ!」
「複数の護衛が確認しております」
「全員へ命じます」
「王宮近衛もおります」
「……」
「王妃陛下へ届く可能性が高いかと」
アマリリアは両手で顔を覆った。
「終わりましたわ」
「何がでしょう」
「私の平穏」
「最初からあまりなかったかと」
「ゼインまで!」
馬車の中へ、ゼインの小さな笑い声が響いた。
アマリリアは恥ずかしさを消せないまま、それでも胸の奥に残る温かさを感じていた。
正式な婚約者となってから、初めてのデート。
事件は起きなかった。
誰かに襲われることも、追われることも、婚約を壊そうとする者が現れることもなかった。
ただ一緒に歩き、同じものを食べ、本を選び、少し嫉妬して、何でもないことで笑った。
それだけだった。
けれど、アマリリアにとっては、それまでのどんな騒動よりも不思議なくらい心に残る一日になった。
何も起きなかったからこそ。
ライルと一緒にいることそのものが楽しいのだと、はっきり分かった。
そして。
帰り際。
ほんの一瞬。
自分が何を期待したのか。
それだけは。
まだ。
ライルには絶対に知られたくなかった。




