第29話 正式な婚約者になった翌日、学園中から距離が近いと言われ始めました
正式な婚約発表を終えた翌朝、アマリリアはいつもより少し遅い時間に目を覚ました。
窓の外には柔らかな朝日が広がり、昨夜まで王都を覆っていた薄い雲はすっかり消えている。ベスター伯爵家の庭では、庭師たちが朝露に濡れた植木の手入れを始めており、遠くから鳥の声と、箒で石畳を掃く乾いた音が聞こえていた。
身体にはまだ昨日の疲れが残っている。
王宮で正式な婚約発表を終えたあと、多くの招待客から祝いの言葉を受け、家族とともに屋敷へ戻った頃には、すっかり夜になっていた。それでもハロルドはなかなか落ち着かず、夕食の席でも何度もアマリリアの顔を見ては「本当に婚約したのか」と確認してきた。
そのたびにアレクから「王宮で陛下が正式に発表したでしょう」と突っ込まれ、最後には本人も何を確認したかったのか分からなくなっていたらしい。
そんな父を散々からかっていたアマリリアだったが、自室へ戻ってからすぐに眠れたわけではなかった。
胸元から外した青星石の首飾りを机の上へ置き、寝台へ入る前にも何度か振り返って眺めてしまった。ライルが自分の首へつけてくれたもの。王妃セレーネが二人のために用意してくれたもの。そして、自分が正式に第一王子の婚約者となった日に受け取ったものだ。
「……夢ではございませんわよね」
寝台の中で小さく呟いてから、アマリリアは自分でおかしくなって笑った。
もちろん、夢ではない。
昨日のことを思い返すだけでも、その証拠はいくらでもあった。
国王アルベルトの宣言。大広間を満たした拍手。泣いていないと言い張りながら、どう見ても泣いていた父。隣で穏やかに笑っていた兄。ルシアからもらった、二羽の鳥が刺繍されたハンカチ。そして、カルロスから受け取った、あまりにも彼らしいぎこちない祝福。
それから何より。
『俺も』
式典が終わったあと、アマリリアが「嬉しい」と伝えた時。
ライルも、同じようにそう答えてくれた。
「……」
思い出した途端、頬へ熱が集まる。
昨日までは正式婚約発表という大きな予定が目の前にあったため、それを無事に終えることばかり考えていた。けれど、その発表が終わった今になって、ようやく別の実感が追いついてきた。
自分は本当に、ライルの婚約者になったのだ。
これから先、婚約解消を前提にした仮の関係ではない。目的が終われば離れるという契約でもなく、何かから逃げるためだけに利用する相手でもない。
自分が選んだ。
そして、ライルも自分を選んでくれた。
そのうえで、今度は婚約者として一緒に過ごしていく。
「……何をすればよろしいのでしょう」
考えているうちに、思わず声へ出ていた。
王家の婚約者として何をするべきかなら、ある程度は分かっている。王妃教育を受け、必要に応じて公務へ同行し、王族に連なる者としての礼儀や振る舞いを身につける。今後は王家主催の行事にも、ライルの正式な婚約者として参加することになるだろう。
だが、そういうことではない。
もっと普通の。
男女として。
好きな相手の婚約者になったあと、いったい何をするものなのだろう。
「……」
そこまで考えた瞬間、昨日の大広間でライルと手を繋いだことを思い出した。
発表前には、ライルが自分の首へ青星石の首飾りをつけてくれた。髪を持ち上げ、背後に立った彼の指が首元へ触れた時の感覚まで思い出してしまう。
近かった。
かなり。
そうなると、その先まで考えそうになってしまう。
「……朝から何を考えておりますの、私」
アマリリアは掛け布団を鼻先まで引き上げた。
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
「リリア。起きているか?」
聞こえてきたのは、ハロルドの声だった。
「起きておりますわ」
「入っていいか?」
「少々お待ちくださいませ」
アマリリアは寝台から降り、簡単に上着を羽織って髪を整える。少なくとも、婚約者との距離について考えていた顔のまま父親を迎えるわけにはいかなかった。
「どうぞ」
扉を開けると、そこには妙に真面目な顔をしたハロルドが立っていた。
「お父様」
「何だ」
「朝から何です、その顔」
「父親の顔だ」
「いつも父親でしょう?」
「今日は特にだ」
「意味が分かりませんわ」
ハロルドは部屋へ一歩入ったところで止まり、何か重大な話でも始めるように表情を引き締めた。
「昨日」
「はい」
「殿下と」
「はい」
「手を繋いでいたな」
アマリリアは数秒、無言で父を見つめた。
「お父様」
「何だ」
「昨日の正式婚約発表をご覧になって、翌朝一番に確認することがそれですの?」
「重要だろ!」
「どこがです?」
「父親には重要だ!」
「またその理屈ですの?」
どうやら本気らしい。
ハロルドは冗談を言っている顔ではなかった。
「しかも最後の方だ」
「まだございますの?」
「指まで絡めていただろう」
「……」
アマリリアは思わず額へ手を当てた。
「よく見ておりましたわね」
「見える!」
「かなり広い大広間でしたのに」
「娘を見るに決まっているだろ!」
「泣きながら?」
「泣いていない!」
「昨日、もう全員に見られておりますわ」
「目に何か入っただけだ!」
「まだ花粉という設定を続けますの?」
「設定ではない!」
朝から元気な父である。
アマリリアは呆れながらも、結局笑ってしまった。
「お父様。手を繋いだくらいで、今後も毎回そのように騒ぐおつもり?」
「今後?」
「婚約者ですもの。これからも手くらい繋ぎますわ」
ハロルドの表情が完全に止まった。
「……」
「お父様?」
「リリア」
「はい」
「朝から父親を殺す気か?」
「大袈裟ですわ」
「では次は何だ!」
「次?」
「手の次だ!」
勢いよく聞かれ、アマリリアは反射的に考えてしまった。
手を繋いだ、その次。
もっと近づく。
抱き締める。
それから。
口づけ。
「……」
「リリア?」
自分でも頬が熱くなったのが分かった。
「お父様」
「何だ」
「朝から娘に何を考えさせているのです?」
「私が聞いたんだ!」
「知りません」
「今、絶対に何か考えただろ!」
「何も」
「顔が赤いぞ!」
「朝日です」
「窓は反対側だ!」
「お父様」
「何だ!」
「昨日の仕返しですわ」
「親子で同じことをするな!」
そこへ、開いたままの扉の向こうから呆れた声がした。
「父上、朝から何をしてるんです?」
アレクだった。
ハロルドは救援を求めるように息子へ振り返る。
「アレク!」
「はい」
「リリアが」
「朝から娘の恋愛へ口を出すのはやめた方がいいですよ」
「まだ何も言っていない!」
「全部聞こえてました」
「……」
「手を繋いだくらいで騒いでいたら、これから持ちませんよ」
その言葉に、今度はアマリリアが反応した。
「兄様」
「何だ?」
「これから?」
「ん?」
「何を想定なさって?」
「普通に婚約期間を想定しただけだ」
「本当に?」
「その目はやめろ」
アレクまで少し気まずそうに視線を逸らしたため、アマリリアはだんだん楽しくなってきた。
「まあ」
「リリア」
「何です?」
「楽しむな」
「お二人が勝手に始めたのでしょう?」
「絶対楽しんでるだろ」
アレクの指摘を聞きながら、ハロルドは大きなため息をついた。
「私は昨日まで、婚約発表さえ無事に終われば少しは落ち着くと思っていたんだ」
「ええ」
「違った」
「何がです?」
「ここからが始まりだった」
その言葉に、アマリリアは少しだけ目を丸くした。
そして、自然に笑った。
「そうですわね」
自分でも驚くほど、迷いなく言えた。
婚約を避けるために始めたはずなのに、今はこれから始まる時間を楽しみにしている。
その答えを聞いたハロルドは、一瞬だけ寂しそうな顔をした。けれど、すぐに仕方がないとでも言うように息を吐く。
「……幸せそうならいい」
小さな声だった。
けれど、アマリリアは聞き逃さなかった。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……」
「今日は朝から素直ですわよ?」
「そういう日を予告するな!」
アレクが堪えきれずに笑い出す。
正式婚約発表の翌朝。
何か大きなものが変わったようでいて、ベスター家の朝は結局いつも通りだった。
◇◇◇
その日のアマリリアは、通常通り学園へ向かう予定になっていた。
正式婚約を発表したからといって、学園生活を終えるわけではない。卒業まではまだ時間があり、むしろこれからは通常授業と王妃教育を並行して進めなければならないため、以前より予定が増えることになる。
馬車の中で今後の日程表を確認していたアマリリアは、紙面を埋め尽くす予定の多さに、だんだん遠い目になっていった。
「お嬢様」
向かいに座っていたゼインが声をかける。
「何です?」
「多いですね」
「ええ。見れば見るほど、逃げたくなってまいりましたわ」
通常授業に王妃教育、王宮礼法。貴族夫人との茶会、慈善事業の視察、王家主催行事への見学参加。さらに、今後は婚約者としてライルと一緒に参加する予定まで加わっている。
かつて自分が思い描いていた未来とは、あまりにも違う。
「私、市井で穏やかに暮らしたかったはずなのですが」
「かなり遠くへ来ましたね」
「ゼイン」
「はい」
「笑っております?」
「少し」
「失礼ですわ」
「ですが」
ゼインは悪びれず、ほんの少し表情を柔らかくした。
「以前より楽しそうです」
アマリリアは返事をせず、手元の日程表から顔を上げた。
「そう見えます?」
「はい」
「……そう」
自分でも分かっている。
忙しい。
面倒なことも多い。
人から向けられる視線も、以前より確実に増えている。
普通に考えれば、かつて望んでいた人生とは正反対だった。
それでも。
嫌ではない。
「殿下も大変でしょうか」
「恐らく。正式婚約発表の翌日ですから、王宮側の処理も多いかと」
「昨日だけでも随分お疲れでしたものね」
そう口にしてから、ゼインが黙って自分を見ていることに気づいた。
「お嬢様」
「はい」
「今、ずいぶん自然に殿下の心配をなさいましたね」
「婚約者ですので」
「その言葉が、もう普通に説明として成立するようになりましたね」
「便利ですわ」
「そういう意味では申し上げておりません」
アマリリアは少し笑ってから、窓の外へ目を向けた。
「今日、殿下も学園へ?」
「はい。午前中の王宮執務を終えてから合流される予定です」
「午前は別なのですね」
「残念ですか?」
「……」
アマリリアがゆっくりゼインを見る。
「誰に似ました?」
「殿下でしょうか」
「最近、皆様が私をからかいすぎでは?」
「以前のお嬢様なら、からかえませんでしたので」
その一言に、アマリリアは少しだけ表情を変えた。
「怖かった?」
「かなり」
「まあ」
「ティーカップが飛んできますので」
「お父様だけです」
「刃物も」
「殿下だけです」
「十分では?」
「……」
否定できなかった。
ゼインもそれ以上は追及せず、窓の外へ目を向ける。
「ですが、最近は顔に出るようになりました」
「それ、皆様に言われますわ」
「悪いことではないと思います」
「そう?」
「はい。少なくとも、以前より何を考えていらっしゃるのか分かります」
アマリリアは少し考えたあと、流れていく王都の街並みを眺めながら笑った。
「でしたら、少しずつ慣れていきますわ」
「何にでしょう?」
「分かりやすい私に」
「それがよろしいかと」
馬車は朝の王都を抜け、やがてルナティック王立学園へ近づいていった。
◇◇◇
そして学園へ到着したアマリリアは、馬車を降りた瞬間、ほんの少しだけ後悔した。
「……」
視線が多い。
昨日までとは比べものにならない。
正門前だけではなく、校舎へ続く道や階段、さらには開いた窓の向こうからまで生徒たちがこちらを見ている。悪意のある視線ではないことは分かるが、それでもこれほど注目されれば落ち着かない。
「ゼイン」
「はい」
「昨日より多いですわ」
「正式発表がありましたので」
「分かっております。分かっておりますけれど、想像より多いです」
以前のように悪い噂を囁いているわけではない。
むしろ皆、声をかける機会を窺っているようだった。
そして、その予感はすぐに当たった。
「アマリリア様!」
一人の令嬢が意を決したように近づいてくる。
「ご婚約、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
アマリリアが微笑んで答えると、それを合図にしたように周囲の生徒たちが一斉に集まってきた。
「おめでとうございます!」
「昨日のドレス、とても素敵だったと聞きました!」
「第一王子殿下のご挨拶も素晴らしかったそうですね!」
「お二人で同じ宝石を身につけていたというのは本当ですか?」
「最後には手まで繋いでいたと!」
「待ってくださいませ」
次々に飛んでくる言葉へ、アマリリアは両手を上げた。
すると、生徒たちは驚くほど素直に黙る。
「皆様」
「はい!」
「質問が多すぎます」
「すみません!」
数人が同時に謝った。
ただし、目はまったく反省していない。むしろ次の質問を我慢しているのが丸分かりだった。
「正式な婚約発表が無事終わったことは事実ですし、お祝いのお言葉もありがたく頂戴いたします。ですが、私が学園へいる間は、一応まだ普通の生徒ですので」
すると後ろの方から。
「一応?」
誰かが小さく呟いた。
アマリリアは聞き逃さなかった。
「そこ」
「すみません!」
今度は周囲から笑いが起こる。
張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「特に授業中まで質問なさらないでくださいませ。昨日はそれで何度も授業が止まりかけましたので」
「分かりました!」
「本当に?」
「努力します!」
「カルロス様と同じ言葉は不安になりますわね」
また笑いが広がった。
そんなやり取りの途中、少し離れたところにルシアがいることに気づく。今日は同年代らしい二人の令嬢と一緒に立っており、アマリリアと目が合うと穏やかに笑って頭を下げた。
「ルシアさん」
アマリリアから近づく。
「おはようございます」
「おはようございます、アマリリア様」
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
「それから、これ」
アマリリアは鞄の内側にある小さなポケットから、昨日もらったハンカチを取り出した。
淡い青の布地。その隅には、銀糸で二羽の鳥が向かい合うように刺繍されている。
「持ってまいりました」
ルシアの目が大きくなった。
「もう使ってくださるのです?」
「もちろん」
「でも、汚れたら」
「ハンカチですもの」
「そうですけれど……」
「大切に使いますわ。使わずにしまっておくのも、少し違うでしょう?」
ルシアはハンカチとアマリリアの顔を交互に見てから、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
アマリリアはハンカチを丁寧に戻したあと、改めてルシアの顔を見る。
「今日は一日?」
「はい」
「無理はしてません?」
「今回は本当に大丈夫です」
ルシアは困ったように笑ったが、その表情に無理をしている様子はなかった。
「昨日、お祝いの席へ参加できてよかったです」
「本当?」
「はい。それに……アマリリア様が、とても幸せそうでした」
思いがけない言葉に、アマリリアは少しだけ目を瞬いた。
「……そう見えました?」
「はい」
「まあ」
「殿下も、ずっとアマリリア様を見ていらっしゃいましたし」
「ルシアさん」
「すみません」
謝りながらも、ルシアの口元には少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「誰に影響されました?」
「少しだけ」
「私?」
ルシアは否定しなかった。
アマリリアは困ったように息を吐いたものの、結局一緒になって笑ってしまう。
「困りましたわね」
「でも、本当に」
そこでルシアの声が柔らかくなった。
「ご婚約、おめでとうございます」
昨日も受け取った言葉だった。
けれど何度聞いても、不思議と胸の奥が温かくなる。
アマリリアは今度こそ何も誤魔化さず、素直に頷いた。
「ありがとうございます」
◇◇◇
午前の授業は、アマリリアが想像していたよりは無事に進んだ。
もちろん、授業が始まる前も、終わったあとも、休み時間になるたびに質問は飛んでくる。だが授業中にまで騒げば教師の視線が飛んでくるため、生徒たちもそこだけは必死に我慢していた。
最初の授業が終わると、前の席に座っていた令嬢がすぐに振り返った。
「アマリリア様」
「何です?」
「一つだけお聞きしても?」
「本当に一つ?」
「努力いたします」
「その返事、今日二度目ですわよ」
周囲で小さな笑いが起こる。
「昨日、殿下から首飾りをつけていただいたというのは、本当でしょうか?」
アマリリアの眉がぴくりと動いた。
「誰から聞きました?」
「王宮勤めの姉が」
「……王宮の情報伝達速度は、少し見直した方がよろしいのでは?」
とはいえ、隠すようなことでもない。
「事実ですわ」
「きゃっ」
「静かに」
「すみません!」
その一言を聞きつけた周囲の令嬢たちが、すぐに集まってくる。
「本当に?」
「殿下が後ろから?」
「どのくらい近かったのです?」
「皆様」
アマリリアは額へ指を当てた。
「質問の方向が変では?」
「婚約者ですもの!」
「答えになっておりません」
「でも気になります!」
「なぜ?」
「アマリリア様が照れるところを見たいからです」
「……」
あまりにも真っ直ぐ言われ、アマリリアの言葉が止まった。
すると別の令嬢が目を輝かせる。
「あ」
「今」
「照れました?」
「照れておりません」
「でも、お顔が」
「皆様まで!」
教室のあちらこちらから笑いが起こる。
以前の自分なら、こういう質問を面倒だと切り捨てていたかもしれない。
だが今は。
少しだけ。
楽しい。
「首飾りをつけていただいただけです。それ以上はございません」
「では、その時の距離は――」
「それ以上聞いたら」
アマリリアがにっこり微笑む。
何人かの令嬢が固まった。
かつて彼女に付きまとっていた『悪役令嬢』という噂を思い出したのだろう。
「……」
「……」
「どうされました?」
「い、いえ!」
「次の授業の準備を!」
「そうですわね」
アマリリアは満足そうに教科書を開いた。
こういう使い方なら、あの頃の噂も少しくらい役に立つらしい。
「おはよう」
その時、背後から聞き慣れた声がした。
アマリリアが振り返る。
「殿下」
そこにはライルが立っていた。
「午前の執務が予定より早く終わった」
「お疲れさまでした」
「ありがとう。それで、何をしてた?」
「何も」
「絶対何かしてただろ」
周囲の令嬢たちの目が一斉に輝いた。
「殿下!」
「何?」
「アマリリア様に昨日首飾りをつけられた時、緊張なさいました?」
「ちょっと待て」
突然飛んできた質問に、ライルの足が止まった。
アマリリアの口元が上がる。
「殿下」
「何」
「皆様が知りたいそうです」
「君だけ逃げるな」
「私は先ほど答えました」
「何て?」
「『つけていただいただけです』と」
「それ、回答になってないだろ」
「十分ですわ」
すると一人の令嬢が、授業中でもないのに律儀に手を上げた。
「殿下は?」
ライルが困った顔をする。
その表情を見て、アマリリアはますます楽しくなった。
「……少し緊張した」
一瞬。
教室が静まり返った。
そして。
「きゃっ!」
「本当に!」
「殿下まで正直に!」
歓声が上がる。
「静かに!」
すぐに廊下の向こうから教師の声が飛んできた。
全員が一斉に口を閉じる。
ライルは呆れたようにアマリリアを見る。
「君のせいだ」
「殿下が答えたからです」
「君が振ったんだろ」
「婚約者ですので」
「それで全部許されると思うなよ」
「最近、殿下もよく使いますでしょう?」
「君から学んだ」
「良い傾向ですわ」
「本当に?」
二人のやり取りに、周囲から今度は声を抑えた笑いが広がった。
そして。
その日から。
『正式に婚約してから、第一王子殿下とアマリリア様の距離が前より近い』
そんな話が学園内で広がり始めたことを、二人はまだ知らなかった。
◇◇◇
昼休み。
二人は逃げた。
正確には、次の質問攻めが始まる前に教室から抜け出した。
向かったのは、昨日も話をした中庭だった。
今日はアマリリアが先に場所を確保し、ライルが二人分の昼食を持ってくる。木陰には春の柔らかな風が通り抜け、枝葉の隙間から落ちる陽射しが、石造りの卓の上でゆっくり揺れていた。
遠くからは生徒たちの声が聞こえる。
それでも教室よりは、ずっと静かだった。
「疲れましたわ」
アマリリアは卓へ頬杖をついた。
普段、人前ではほとんど見せない姿勢だ。
「君がそれやるの珍しいな」
「今日は許してくださいませ」
「もちろん」
ライルも向かいへ座り、同じように息を吐いた。
「俺も疲れた」
「殿下は午前中、王宮で執務でしたものね」
「昨日の礼状と、今後の日程確認。婚約した翌日から書類ばっかりだった」
「王族らしいですわね」
「君も午後から王妃教育だろ?」
「……忘れておりました」
「珍しい」
「言わないでくださいませ」
二人で笑い、しばらく静かに昼食を取る。
誰かに見せるためでもなく、何かを相談するためでもない。ただ同じ場所で食事をするだけの時間が、今のアマリリアには妙に心地よかった。
やがてライルが飲み物へ手を伸ばしながら、何気なく尋ねる。
「アマリリア」
「何です?」
「昨日、楽しかった?」
アマリリアの手が少し止まった。
「婚約発表が?」
「うん」
「緊張はしました」
「俺も」
「疲れました」
「俺も」
「でも」
そこでアマリリアは少し笑った。
「楽しかったです」
「そっか」
「殿下は?」
「楽しかった」
「本当?」
「うん。君の父親が泣いたところとか」
「そこ?」
「カルロスが叫ばなかったところとか」
「そこも?」
「ルシア嬢の贈り物もよかったし」
「ええ」
「それから、君の挨拶」
アマリリアの視線が少し動いた。
「私の?」
「うん」
「殿下は思っていたより可愛らしい方でした、と申し上げたところ?」
「それはまだ根に持ってる」
「では、どこです?」
ライルは少しだけ視線を逸らした。
「『隣にいてくれてありがとう』って言ったところ」
胸の奥が、少し強く鳴った。
「嬉しかった」
ライルは誤魔化さなかった。
最近、本当に強くなったと思う。
「殿下」
「何?」
「最近、かなり強いですわね」
「君が正直に言うようになったから」
「私が?」
「うん。だから俺も、ちゃんと言うことにした」
アマリリアは少し黙った。
「……困ります」
「何で?」
「私ばかり動揺します」
「それ、今まで俺がずっとやられてた」
「仕返しです?」
「半分」
「残り半分は?」
「本気」
アマリリアの動きが完全に止まった。
向かいでは、ライルが少しだけ勝ち誇ったような顔をしている。
「殿下」
「何?」
「成長しすぎです」
「君に追いついただけ」
「このままでは追い越されそうですわ」
「じゃあまた追い越して」
「何を競っておりますの?」
二人で笑った。
そのあとに訪れた沈黙も、気まずくはない。
風が木々の葉を揺らし、卓の上を光と影がゆっくり移動していく。
アマリリアはしばらくその様子を見ていたが、朝から胸の中に残っていた疑問を思い出した。
「殿下」
「何?」
「婚約者になったら、何をするものなのでしょう」
ライルが止まった。
「急にどうした?」
「今朝から少し考えておりました」
「王家として?」
「それは分かります」
「じゃあ……」
そこでライルも意味を理解したらしい。
わずかに頬が赤くなる。
「普通の?」
「はい」
「男女として?」
「ええ」
口に出してから、アマリリアも少し恥ずかしくなった。
二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「殿下」
「何」
「何かございません?」
「知らない」
「即答です?」
「俺も婚約するの初めてだよ!」
「私もです」
「知ってる」
「では……手を繋ぐ?」
「もうやってる」
「一緒に出かける?」
「それもやってる」
「一緒に食事?」
「今してる」
「……」
「……」
二人で顔を見合わせる。
「私たち」
「うん」
「婚約前から、かなり婚約者らしいことをしていたのでは?」
「確かに」
「では何が違うのでしょう」
ライルはしばらく真剣に考えたあと。
「呼び方?」
「殿下」
「ずっと殿下だな」
「では……ライル様?」
その瞬間、ライルの動きが止まった。
「……」
「どうしました?」
「今の」
「はい?」
「もう一回」
「ライル様?」
今度ははっきりと、ライルの顔が赤くなった。
アマリリアは目を細める。
「まあ」
「何」
「効きますのね」
「君が今までずっと殿下だったから」
「では」
アマリリアは卓越しに少しだけ身を乗り出した。
「ライル様」
「やめろ!」
思ったより大きな声が出た。
遠くにいた生徒が何人かこちらを見る。
二人は同時に姿勢を正した。
「殿下」
「何だ」
「戻しました」
「助かる」
「でも、たまに呼びますわ」
「何で」
「婚約者ですので」
「その理由で何でもするな!」
アマリリアはとうとう声を立てて笑った。
「では、殿下も」
「何?」
「私を別の呼び方で呼んでみてくださいませ」
「アマリリア」
「今と同じです」
「じゃあ……リリア?」
今度は。
アマリリアが止まった。
「……」
ライルが目を少し大きくする。
「効いた」
「殿下」
「何」
「それは」
「うん」
「お父様と兄様しか呼びません」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ」
ライルは先ほどより少しだけ声を柔らかくした。
「リリア」
「……」
たった三文字。
それなのに、どうしてこれほど違って聞こえるのだろう。
頬が熱い。
心臓まで落ち着かない。
「殿下」
「何?」
「ずるいです」
「君が先にやった」
「私がライル様と呼ぶのとは意味が違います」
「同じだろ」
「違います」
「どこが?」
「分かりませんけれど」
「分からないのか」
今度は二人とも顔を赤くしたまま笑った。
婚約したからといって、急に何かが大きく変わるわけではない。
けれど。
呼び方一つ。
距離一つ。
触れる手一つ。
今までと同じことでも、少しずつ違う意味を持ち始める。
たぶん、婚約者になるというのは、そういう小さな変化を積み重ねていくことなのかもしれない。
◇◇◇
午後、アマリリアは学園から王宮へ向かった。
今日は婚約後初めての王妃教育だった。
正式婚約が決まったからといって、内容そのものが一日で別物になるわけではない。それでも、これまでの『候補』や『準備』という段階とは明確に違う。
「では」
向かいに座るセレーネが、にっこり笑った。
「今日から少し内容を変えます」
「やはり」
アマリリアは自然と姿勢を正す。
「正式婚約者としての教育へ移行するのですね」
「そうよ」
「何からでしょう?」
「最初は公務への同行について。ライルが参加する行事のうち、今後あなたも同行する可能性があるものを整理します」
「なるほど」
セレーネは一枚目の紙を置き、続いて二枚目を出す。
「それから、王族婚約者としての対外挨拶」
「はい」
「貴族夫人たちとの関係」
「分かりました」
さらに三枚目。
そして四枚目。
「第一王子との距離感」
アマリリアの動きが止まった。
「……王妃様」
「何?」
「最後のものは」
「必要よ」
「公務です?」
「半分」
「残り半分は?」
「私の興味」
「王妃様」
やはり。
嫌な予感はしていた。
セレーネは楽しそうに頬杖をつく。
「昨日、あなたたち最後に手を繋いでいたでしょう?」
「見ていらしたのです?」
「見えるわ」
「お父様と同じことをおっしゃらないでくださいませ」
「それで」
セレーネが少しだけ身を乗り出す。
「今日は?」
「何がです?」
「繋いだ?」
「……」
アマリリアの返事が一瞬遅れた。
「昼に」
「まあ」
「話の流れで」
「どんな流れ?」
「王妃様」
「何?」
「これは本当に王妃教育ですの?」
「今もそうよ」
「どこが?」
セレーネは楽しそうに笑った。
アマリリアはため息をつく。
「それから」
「まだございますの?」
「呼び方は?」
今度こそ、アマリリアの表情が固まった。
「……なぜ」
「何が?」
「今、その質問を?」
「顔」
「え?」
「何かあった顔をしたわ」
「……」
アマリリアは顔を覆いたくなった。
けれど、王妃の前でそんなことをすれば余計に喜ばれるだけなので、どうにか耐える。
「王妃様」
「何?」
「私、本当に分かりやすくなりました?」
「かなり」
「以前は?」
「怖いくらい分からなかった」
「まあ」
「でも今は」
セレーネの笑みが少しだけ優しくなる。
「ライルのことになると、かなり分かりやすいわ」
アマリリアはまた頬が熱くなるのを感じた。
「それは……」
「悪いことではないわ」
「……」
「嬉しいでしょう?」
「何がです?」
「好きな人のことで、自分の感情が表へ出ること」
アマリリアはすぐには答えられなかった。
けれど、否定もしなかった。
「……少し」
「それでいいの」
セレーネはそこで一度、からかうような雰囲気を引っ込めた。
「アマリリアさん」
「はい」
「婚約したからといって、急に『王族の婚約者らしく』完璧になろうとしなくていいわ」
「でも」
「昨日も陛下が言ったでしょう? 一人で何もかも背負う必要はないの」
アマリリアは黙って聞く。
「今まで通り、あなたはあなたでいい。必要なことは私たちが教えるし、ライルもいる。分からないなら分からないと言っていいし、嫌なら嫌と言っていい。王家へ入るということは、自分を全部捨てることではないわ」
「……はい」
その言葉は、アマリリアの胸へ静かに落ちた。
「ただし」
「何でしょう」
「黒装束でライルを囲むのは卒業しなさい」
「そこ?」
「重要よ」
「もういたしません」
「本当に?」
「多分」
「アマリリアさん」
「冗談です」
「半分?」
「……」
「今の間は何?」
「王妃様」
「何?」
「授業を進めましょう」
「逃げたわね」
セレーネの笑い声が部屋へ響いた。
結局、婚約後最初の王妃教育も、真面目なのかそうでないのか分からないまま進んでいった。
◇◇◇
王妃教育を終えた頃には、窓の外が夕暮れ色へ染まり始めていた。
アマリリアが王宮の廊下へ出ると、少し離れた窓際に人影がある。
夕日を背にして立っていたのは、ライルだった。
「殿下?」
声をかけると、ライルがすぐに振り返る。
「終わった?」
「ええ。殿下は?」
「俺も今終わったところ」
「お疲れさまでした」
「君も。それで、どうだった?」
アマリリアは少しだけ言うべきか迷った。
「王妃様に、私たちの距離感を確認されました」
「……」
ライルが片手で顔を覆った。
「やっぱり」
「殿下も?」
「さっき父上に聞かれた」
「陛下に?」
「『婚約者になった感想はどうだ』って」
「何とお答えになりました?」
「普通に嬉しいって」
アマリリアは思わず足を止めた。
「殿下」
「何」
「今日も強いですわね」
「もう慣れた」
「何に?」
「言うことに」
ライルは少しだけ笑った。
「君が好きだって」
今度こそ、アマリリアは完全に止まった。
ちょうど廊下の奥を歩いていた侍女も聞こえてしまったらしい。一瞬だけ歩調が乱れたが、さすが王宮勤めというべきか、すぐに何事もなかったように歩き去っていった。
「殿下」
「何?」
「それを、ここで言います?」
「誰もいないと思った」
「おります!」
「本当だ」
「今さら!」
ライルは少し困った顔をした。
けれど、言ったこと自体を誤魔化そうとはしなかった。
「じゃあ」
「はい?」
「言い直さない」
「……」
「本当だから」
アマリリアは視線を逸らした。
胸が落ち着かない。
それでも。
嬉しい。
ならば、自分だけ逃げるのは違う気がした。
「殿下」
「何?」
「私も」
一度、息を吸う。
そしてライルを見る。
「好きですわ」
今度はライルの表情が止まった。
その反応を見て、アマリリアは少しだけ満足する。
「お返しです」
「君」
「何です?」
「今、それ」
「殿下と同じです」
「ずるい」
「早い者勝ちではなく?」
「今日は負けた」
「まあ」
二人で笑い、それから並んで廊下を歩き始める。
少し前までなら、好きだという言葉一つを伝えるだけでも、もっと大きな覚悟が必要だった。
今はまだ恥ずかしい。
けれど、言える。
それだけでも、確かに二人の関係は変わっていた。
「殿下」
「何?」
「一つお願いがございます」
「何?」
「明日なのですが」
「うん」
アマリリアは少しだけ歩みを緩めた。
昼に考えていたことがある。
婚約者になったら何をするのか。
手を繋ぐ。
一緒に食事をする。
呼び方を変えてみる。
それなら。
もう一つくらい。
「少しだけ、二人で出かけません?」
ライルの歩みが止まった。
「二人で?」
「はい」
「護衛は?」
「もちろん必要なのは理解しております。ですから、できれば見えない程度に離れていただいて」
「王族だから完全に二人だけは無理だけど、それなら大丈夫だと思う」
「よかった」
「どこへ行く?」
「まだ決めておりません」
「何のために?」
聞かれてから、アマリリアは少し困った。
特別な目的はない。
何かを調べるわけでもない。
事件を解決するためでもない。
王家とベスター家の都合でもない。
ただ。
一緒に出かけたい。
「婚約者らしいことを」
そう答えると、ライルが少しだけ目を大きくした。
「……」
「殿下?」
「それ」
「何です?」
「デート?」
今度はアマリリアが固まった。
「……」
「違う?」
「いえ」
考えてみれば、その通りだった。
好きな相手と二人で出かける。
特別な目的はなく、一緒に時間を過ごすために。
それは。
「デート……そうなるのでしょうか」
「多分」
その言葉を口にした途端、急に恥ずかしくなってくる。
「殿下」
「何?」
「今、少し嬉しそうです」
「かなり」
即答だった。
また胸が鳴る。
「行こう」
「よろしいのです?」
「うん」
「お忙しくは?」
「午後なら空けられる。午前の予定を少し詰めれば大丈夫」
「無理はなさらないでくださいませ」
「無理じゃないよ」
ライルはそう答えたあと、少し照れたように笑った。
「俺も、君と行きたいから」
「……」
「何?」
「やはり今日の殿下は強すぎますわ」
「明日もこのままでいく」
「困ります」
「嫌?」
「いいえ」
アマリリアはすぐに首を横へ振った。
「全然」
そして、自然に表情が明るくなる。
「では、明日」
「うん」
「初めての……」
一度、言葉が詰まる。
それでも。
ちゃんと言った。
「デートを」
「ああ」
二人とも少し照れながら、再び歩き始める。
いつの間にか、並ぶ距離も以前より近くなっていた。
そして。
廊下の角を曲がったところで。
「まあ」
二人同時に止まった。
そこに。
セレーネがいた。
「母上」
「王妃様」
セレーネは、これ以上ないほど楽しそうな笑顔を浮かべている。
「明日、デートなの?」
「聞いてました!?」
ライルの声が廊下へ響いた。
「偶然よ」
「絶対嘘だ!」
「失礼ね。王妃が自分の王宮を歩いていて何が悪いの?」
「その位置で立ち止まってたでしょう!」
「ちょうど疲れたから」
「壁際で!?」
アマリリアはとうとう口元を押さえて笑った。
「では、護衛の配置を考えないといけないわね」
「母上!」
「王族の婚約者でしょう?」
「今はそこを出すんですか!」
セレーネは息子の抗議などまったく気にせず、今度はアマリリアを見る。
「どのくらい離しましょうか?」
「王妃様」
「何かしら?」
「できれば」
アマリリアは一度ライルを見た。
「少し遠くからお願いいたします」
「アマリリアまで!」
「デートですので」
「その言葉、もう使い慣れてる!」
「便利ですわね」
「婚約者と同じ扱いするな!」
三人の笑い声が、夕暮れの王宮廊下へ響いた。
正式婚約発表の翌日。
アマリリアとライルの生活は、見た目には大きく変わっていない。
学園へ行き。
授業を受け。
王宮で仕事や教育を受け。
いつも通り言い合って、いつも通り笑う。
けれど、その一つ一つの意味は少しずつ変わり始めていた。
もう二人は、用事がなければ会わない関係ではない。
事件がなければ隣へ立たない関係でもない。
誰かに求められたから会うのでも、互いを利用する必要があるから一緒にいるのでもなかった。
何も起きていなくても。
ただ会いたいと思う。
一緒にいたいと思う。
そんな理由だけで、時間を作ってもいい関係になった。
明日は。
婚約者になって初めてのデート。
かつて、押し付けられた婚約から逃げるために第一王子を脅した少女が。
今度は自分から、その第一王子を誘った。
何かを解決するためではない。
誰かから逃げるためでもない。
ただ、好きな人と一緒に過ごすために。
そんな二人の新しい時間が、ようやく始まろうとしていた。




