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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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28/42

第28話 正式婚約発表当日、ようやく私は第一王子殿下の隣に立ちました



 正式な婚約発表当日。


 空がまだ完全に明るくなる前、アマリリアは誰かに起こされることもなく自然に目を覚ました。


 昨夜、ライルとの短い通信を終えたあとにはどうにか眠りにつくことができた。それでも普段よりかなり早い時間に目覚めてしまったらしく、寝台の上で身体を起こすと、厚いカーテンの隙間から差し込む光はまだ薄い。窓の外には淡い朝靄が残り、静まり返った屋敷の向こうから、目覚め始めた鳥の声だけが聞こえていた。


 今日は、正式な婚約発表の日だ。


 気持ちの上では、もうずっと前からライルを婚約者として見ている。王家へ提出する申請書には、自分の意思で彼を選ぶと書いた。ライルからも、自分を望んでいるとはっきり伝えられている。それでも、王家や主要貴族、家族や学園関係者の前で正式に認められるのは今日が初めてだった。


「……眠れたはずですのに、やはり落ち着きませんわね」


 アマリリアは小さく呟き、胸元へそっと手を当てた。


 心臓は少しだけ速い。


 昨日まで感じていた不安だけではない。楽しみでもあり、期待でもあり、これから自分の立場が本当に変わるのだという実感でもある。


 けれど、一つだけははっきりしていた。


 逃げたいとは思わない。


 少し前までの自分なら、婚約という言葉を聞いただけで眉を顰めていただろう。実際、父ハロルドからカルロスとの婚約を告げられた時にはティーカップを投げ、父を踏みつけ、黒装束まで呼んで家督を兄アレクへ譲らせた。そのうえ第一王子であるライルを屋上で囲み、刃物まで使って婚約を迫ったのだから、今思い返せば穏便とは程遠い。


 それなのに今日は、その第一王子の隣へ立つために胸を高鳴らせている。


「人生とは、本当に分からないものですわね」


 苦笑しながら呟いたところで、控えめなノック音が部屋へ響いた。


「リリア。起きているか?」


 聞こえてきたのは、兄アレクの声だった。


「起きておりますわ。どうぞ」


 返事をすると扉が開き、アレクが顔を覗かせる。いつもならもっと気軽な様子で入ってくる兄が、今日は少しだけ硬い表情をしていることにアマリリアは気づいた。


「おはよう」


「おはようございます、兄様」


「眠れたか?」


「それなりには。殿下と少しお話ししたあと、ちゃんと休みましたわ」


「そうか。それならよかった」


 アレクは安心したように息を吐いたあと、何か思い出したように苦笑した。


「父上は、ほとんど寝てないけどな」


 アマリリアは一瞬黙った。


「……なぜです?」


「知らない。夜中に何回も廊下を歩いてた」


「何をなさっているのですか、お父様は。婚約発表をされるのは私でしょう?」


「俺もそう言ったんだけどな。『父親には同じだ』って」


「またそれですの?」


 思わず笑うと、アレクも肩を揺らした。


「それより、リリアは緊張してる?」


「少しは」


「珍しく素直だな」


「今日は皆様から同じ質問をされそうですので、いちいち否定するのを諦めましたの」


「それでいいんじゃないか」


 アレクはそう言いながら、少しだけ優しい目を向ける。


 父の代わりに家督を引き継ぎ、アマリリアが起こした騒動にも巻き込まれながら、兄はほとんど不満を口にしなかった。それどころか、父と自分の間に立つこともあれば、王家との話を整理することもあった。


 改めて考えれば、随分と迷惑をかけている。


「兄様」


「何だ?」


「今日は来てくださるのでしょう?」


 分かりきったことを、あえて聞いてみる。


 アレクは当然だと言わんばかりに眉を上げた。


「行くに決まってるだろ」


「お父様も?」


「絶対に行くと言ってる。それと、絶対に泣かないとも」


「無理ですわね」


「俺もそう思う」


 二人は顔を見合わせ、ほとんど同時に笑った。


 すると、その瞬間。


「聞こえているぞ!」


 廊下からハロルドの声が響いた。


 アマリリアとアレクは揃って扉を見る。


「起きてましたわね」


「最初から廊下にいたんじゃないか?」


「お父様、覗き聞きはよくありませんわよ!」


「お前たちが私の話をしていただろう!」


「でしたら堂々とお入りになればよろしいでしょう?」


「娘が着替える前の部屋に父親が入れるか!」


 意外にも常識的な返答が返ってきたため、アマリリアは少しだけ目を丸くした。


「まあ」


「何だ、その反応は!」


「お父様も成長なさいましたね」


「お前にだけは言われたくない!」


 廊下から響く父の声に、アレクが笑いを堪えきれず肩を揺らす。


 婚約発表当日の朝だというのに、家族の空気はいつも通りだった。


 それが今のアマリリアには妙に嬉しい。


 何もかもが変わってしまうわけではない。自分が第一王子の婚約者になったとしても、この家へ戻れば父が騒ぎ、兄が笑い、自分が呆れる。そんな時間まで失われるわけではないのだ。


 アマリリアは寝台から降りた。


「兄様、そろそろ準備をいたしますわ」


「ああ」


 アレクは扉へ向かいかけたものの、途中で足を止めて振り返った。


「リリア」


「はい?」


「おめでとう」


 不意に真面目な声で言われ、アマリリアの言葉が少しだけ止まった。


「まだ正式には発表されておりませんわ」


「今日なるんだろ?」


「ええ」


「だったら先に言っておく」


 アレクは照れくさそうに笑う。


 アマリリアも、つられるように表情を柔らかくした。


「ありがとうございます、兄様」


          ◇◇◇


 朝食を軽く済ませたあと、アマリリアは王宮へ向かった。


 今日は普段とは違い、ベスター家の馬車の前後を王宮近衛の騎馬が護衛している。


 まだ正式には王族ではない。


 けれど今日、第一王子の正式な婚約相手として公に認められる。


 それだけで、移動一つを取っても扱いが変わるらしい。


 馬車の窓から王都の通りを眺めると、いつもより人が多いように見えた。王宮で大きな式典があることは市井にも伝わっているらしく、商人や職人、通りを行き交う人々の中には王宮方面へ目を向ける者も少なくない。


 当然、ベスター家の馬車へ気づく者もいる。


 以前なら、そうした視線を向けられるだけで相手の意図を探ろうとしたかもしれない。


 けれど今日は、窓の向こうの人々を見ながら、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 誰かに勝手な噂を作られて見られているのではない。


 自分で選んだ婚約が、今日公に認められる。


 その違いは大きかった。


 王宮へ到着すると、正門周辺は既に慌ただしい。


 招待客の馬車が次々に入り、侍従たちは家名を確認しながら客人をそれぞれの控えへ案内している。近衛騎士たちも普段以上に厳しい表情で周囲へ目を配り、警備の確認を何度も行っていた。


 アマリリアの馬車が止まると、すぐに王妃付きの侍女が数名近づいてくる。


「お待ちしておりました、アマリリア様」


「ごきげんよう」


「すぐにお支度のお部屋へご案内いたします」


「お願いいたしますわ」


 馬車から降りたところで、少し離れた場所にディーンが立っていることに気づいた。


「ディーン様」


「アマリリア様。おはようございます」


「殿下は?」


「大広間の方にいらっしゃいます。その前に、殿下から『アマリリア様が到着したら知らせてくれ』と申しつかっております」


「まあ」


「かなり気にされておりますよ」


「殿下も緊張なさっているのですね?」


 アマリリアが楽しそうに尋ねると、ディーンは少し迷ったあと、小声になった。


「朝から予定表を三回確認されました」


「三回?」


「四回目は私が止めました」


 アマリリアは思わず口元へ手を当てた。


「ディーン様」


「はい」


「ありがとうございます」


「何がでしょう?」


「それを教えてくださって」


「安心されましたか?」


「かなり」


 昨日まで自分だけが緊張しているわけではないと何度も確認してきた。それでも、今日の朝からライルも同じように落ち着かないと分かると、また少し気持ちが軽くなる。


「では、この話は殿下には黙っておきます」


「ぜひお願いいたしますわ」


 アマリリアは楽しそうに笑い、侍女たちに導かれて支度部屋へ向かった。


          ◇◇◇


 王妃の私室に近い支度部屋へ入ると、既にセレーネが待っていた。


「遅いわ」


「王妃様。私、予定より五分ほど早いのですが」


「気持ちの問題よ」


「その言い方、殿下と同じですわね」


「ライルも言ったの?」


「昨日から似たようなことを何度も」


 セレーネは満足そうに笑った。


「似てきたのね」


「そこは何とも申し上げにくいですわ」


「でも、顔色は悪くないわね」


 王妃は近くまで来ると、母親のような目でアマリリアの顔を覗き込んだ。


「ちゃんと眠れた?」


「ええ。殿下と少しお話ししたあとには」


「やっぱりライルと話したのね」


「……王妃様」


「何?」


「どこまでご存じなのです?」


「さあ?」


「怖いですわ」


「王妃だもの」


「説明になっておりません」


 アマリリアが呆れている間にも、侍女たちは手際よく準備を進めていく。


 髪を整え、肌を整え、爪や装飾品まで細かく確認する。いつもの身支度より遥かに丁寧で、何人もの侍女が同時に動いているにもかかわらず無駄がない。


 そして最後に、昨日まで何度も仮合わせをしていた青銀色のドレスが運び込まれた。


 完成した姿を見た瞬間、アマリリアは思わず息を止める。


 淡い青を含んだ銀色の生地は、朝の光を受ける角度によって表情を変えていた。腰から下へ柔らかく広がる形は華やかでありながら過剰ではなく、胸元から袖にかけて細かな銀糸の刺繍が施されている。


 昨日までとは少し違う。


「王妃様」


「何かしら?」


「銀糸の刺繍、増えております?」


「気づいた?」


 セレーネの表情が嬉しそうに変わった。


「ライルの礼装と対になるよう、少しだけ増やしたの。同じ意匠にはしていないけれど、並べば分かるくらいにはしてあるわ」


「殿下の礼装も?」


「ええ」


「そうですの」


 アマリリアはそっと布へ触れた。


 この色はライルが選んだ。


 形を整えたのはセレーネだ。


 そして今日、自分が着る。


 不思議なほど胸が熱くなる。


「着ましょうか」


「はい」


 侍女たちに手伝われながらドレスへ袖を通す。


 背中の留め具を一つずつ整え、腰回りを調整し、長い裾を美しく広げる。髪も銀色の流れがドレスへ自然に馴染むよう整えられ、最後に鏡の前へ立たされた。


 アマリリアはしばらく鏡の中の自分を見つめた。


 学園の制服姿でもない。


 普段の伯爵令嬢としての姿でもない。


 今日、第一王子の隣へ立つための姿だった。


「どう?」


 セレーネが隣から尋ねる。


「……現実味が増しましたわ」


「緊張した?」


「かなり」


「よろしい」


「なぜ嬉しそうなのです?」


「今日くらいは緊張してちょうだい。何でも平気な顔をされるより、こちらも安心するわ」


 そう言ったセレーネは、少しだけ表情を柔らかくした。


「でも、本当に綺麗よ」


 その言葉は、からかいではなかった。


 アマリリアもそれを理解し、鏡越しではなく王妃へ向き直る。


「王妃様」


「何?」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 しばらく穏やかな空気が流れたあと、セレーネが何かを思い出したように目を見開いた。


「あ」


「どうされました?」


「箱」


「まあ!」


 アマリリアも一気に顔を変えた。


「私としたことが、忘れておりました!」


「本番前だから、今開けましょう」


「殿下も一緒に、でしょう?」


「もちろんよ」


 セレーネが侍女へ目配せする。


「ライルを呼んできて」


「畏まりました」


 数分後、扉の外から足音が近づき、控えめにノックされた。


「入っていい?」


 ライルの声だ。


「どうぞ」


 セレーネが返す。


 扉が開いた瞬間。


 入ってきたライルが止まった。


 そして、アマリリアも同じように止まった。


 昨日までは仮合わせだった礼装が、今日は完成している。


 深い紺を基調にした上着には銀糸の刺繍が入り、胸元にはアマリリアのドレスと同じ青銀の意匠が使われていた。普段の学園制服や王族服よりも遥かに格式が高い。それでも派手すぎず、彼の落ち着いた雰囲気によく似合っている。


「殿下」


 先に声を出したのはアマリリアだった。


「格好いいですわ」


 ライルの耳が少し赤くなる。


 けれど。


 今回は逃げなかった。


「君も綺麗」


 今度はアマリリアが止まった。


「……」


「何?」


「殿下」


「うん」


「今日は最初から強いですわね」


「昨日の夜、練習した」


「何をです?」


「君を見たら最初にちゃんと言おうって」


「まあ」


 ますます頬が熱くなる。


「それは反則です」


「何で?」


「私が困るからです」


「いつも君が俺にやってることだろ」


「今日は殿下の日ですのね」


「何の日なんだよ」


 二人のやり取りをしばらく見ていたセレーネが、とうとう間へ入った。


「二人とも」


「はい」


「何です、母上」


「このままだと箱を開ける前に式典が始まるわ」


 二人は同時に姿勢を正した。


 机の上へ、例の小箱が置かれる。


「ようやくですわ」


「本当に開けてなかったんだ」


「殿下」


「ごめん」


「私が何度、自分自身の誘惑と戦ったと思っております?」


「自分で開けたくなっただけだろ?」


「かなりの強敵でした」


「誰とも戦ってないじゃないか」


 セレーネが笑いながら箱を二人の間へ置いた。


「ほら。二人で開けて」


 アマリリアはライルを見る。


「一緒に?」


「うん」


 二人で蓋へ手を添え、ゆっくりと開く。


 中には、細い銀の鎖へ小さな淡青色の石をあしらった首飾りと、同じ石を使った小さな胸飾りが収められていた。


「これは……」


 アマリリアが目を大きくする。


「対になっているの?」


 ライルも興味深そうに覗き込んだ。


「ええ」


 セレーネが穏やかに笑う。


「私と陛下が婚約した時にお願いした職人へ、今回改めて作らせたの」


「母上と父上のものと同じ?」


「形は違うわ。これはあなたたちのために作ったものよ」


 アマリリアは首飾りをそっと持ち上げた。


「この石は?」


「青星石。王家の北部領で採れる石よ。王族の婚約で必ず使う決まりがあるわけではないけれど、私は好きなの」


「なぜです?」


「光の当たり方で色が変わるでしょう?」


 アマリリアが少し角度を変えると、淡い青だった石が銀色に近づき、さらに僅かな紫を帯びて見えた。


「一つの色だけではないの」


 セレーネの声が少し柔らかくなる。


「人も、関係も同じ。最初と今が同じでなくてもいい。変わることもあれば、増えるものもあるでしょう?」


 アマリリアとライルは、しばらく何も言わなかった。


 最初。


 二人の関係は利害しかなかった。


 アマリリアはカルロスとの婚約から逃げるためにライルを利用しようとした。


 ライルもまた、自分の抱えていた婚約問題を解決するためにアマリリアへ協力を求めた。


 今は違う。


「王妃様」


「何?」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 セレーネは満足そうに頷き、それからライルへ首飾りを渡した。


「それから、これはライルがアマリリアさんにつけて」


「俺が?」


「婚約者でしょう?」


 ライルの動きが少し止まる。


 アマリリアは楽しそうに彼を見る。


「殿下」


「何」


「手が震えましたら」


「言うな」


「私も緊張しておりますので、お気になさらず」


「なら笑うな」


 ライルは首飾りを受け取り、アマリリアの後ろへ回った。


 アマリリアも自然に銀髪を片側へ寄せる。


 首元へ冷たい鎖が触れ、そのあとライルの指先が僅かに触れた。


 ほんの一瞬。


 それだけで。


 先ほどとは違う意味で緊張する。


「殿下」


「何?」


「少し震えております?」


「少し」


「まあ」


「君だってさっき震えてた」


「見ていましたの?」


「目の前にいるんだから見えるだろ」


 やがて留め具がきちんと止められる。


「できた」


 アマリリアは髪を戻し、胸元に落ちた青星石へ触れる。


「どうです?」


 ライルが正面へ回る。


 少し見つめたあと。


「似合う」


「すごく?」


「すごく似合う」


「成長しましたわね」


「そこは普通に受け取ってくれ」


「嬉しいです」


 アマリリアが素直に笑うと、ライルも少しだけ表情を緩めた。


「では次」


 セレーネが今度は胸飾りをアマリリアへ渡す。


「あなたがライルにつけて」


「まあ」


「母上」


「対でしょう?」


 ライルは諦めたように息を吐き、アマリリアは逆に楽しそうな顔をした。


「殿下、動かないでくださいませ」


「分かってる」


 アマリリアは胸飾りを礼装へ当て、位置を確かめる。


 自然と距離が近くなった。


 互いの呼吸が分かるほどではないものの、普段話している時より明らかに近い。


「……」


「アマリリア」


「何です?」


「今さら緊張してない?」


「少し」


「俺も」


「では、また一緒ですわね」


「うん」


 アマリリアは小さく笑い、そのまま胸飾りを留めた。


 これで、二人の胸元には同じ青星石が光っている。


「完成ね」


 セレーネが満足そうに息を吐く。


「それでは行きましょう。もうすぐ時間よ」


 とうとう、本番が近づいていた。


          ◇◇◇


 大広間には、既に多くの招待客が集まっていた。


 主要貴族、王宮高官、軍上層部、学園長をはじめとした学園関係者。そして、アマリリアにとって大切な者たちもいる。


 控室からそっと広間を覗くと、ベスター家の席にはアレクとハロルドがいた。


「お父様」


 アマリリアは思わず呟く。


 父の顔は朝以上に硬い。


 しかも既に目元が少し赤い。


 隣から同じ方向を見ていたライルが小声になった。


「もう危ないな」


「まだ始まっておりませんのに」


「最後まで持つと思う?」


「無理です」


「俺もそう思う」


 少し離れた場所には、メイベル家とともにルシアもいる。


 今日は学園制服ではなく、淡い色の礼装に身を包んでいた。アマリリアと視線が合うと、ルシアは安心させるように小さく微笑み、丁寧に頭を下げる。


 その近くにはグレイアスとカルロスもいた。


 カルロスの表情は少し複雑そうではあるが、逃げずにきちんと父の隣へ立っている。


「カルロス様」


 アマリリアが小さく呟く。


 ライルも確認する。


「今日は叫ばなそうだな」


「今のところは」


「信用薄いな」


「実績がございますので」


「俺たち、こういうところ本当に似たな」


「婚約者ですので」


「そこでも使う?」


 二人は小さく笑った。


 そのあとライルが、アマリリアへ手を差し出す。


「アマリリア」


「はい」


「手」


「まだ入場前ですわよ?」


「だから」


「緊張しております?」


「うん」


 ライルは隠さなかった。


 アマリリアも少しだけ笑って、その手へ自分の手を重ねる。


「私もです」


「知ってる」


「殿下」


「何?」


「昨日の約束」


「覚えてる」


「私が動けなくなりましたら?」


「手を握る」


「殿下が止まったら?」


「君が握る」


「では」


 アマリリアは一度深く息を吸った。


「行きましょう」


「ああ」


 広間の向こうで楽団の音が変わる。


 入場の合図だ。


 大きな扉が、ゆっくり開き始めた。


          ◇◇◇


 大広間に満ちていたざわめきが、次第に静まっていった。


 最初に入場したのはアルベルトとセレーネだった。


 国王夫妻が壇上へ上がり、広間の全員が一斉に礼を取る。


 そして次に、案内役の声が高らかに響いた。


「第一王子ライル・アースハルト殿下、ならびにアマリリア・ベスター嬢」


 その瞬間。


 アマリリアの胸が強く鳴った。


 開かれた扉の向こうにいる人々の視線が、一斉にこちらへ向く。


「殿下」


「何?」


「本当に、皆様こちらを見ておりますわ」


「今さら?」


「今だからです」


「逃げる?」


「まさか」


 アマリリアは小さく笑った。


「殿下こそ」


「逃げない」


「では、一緒に」


「ああ」


 今度はライルの手ではなく、差し出された腕へ自然に手を添える。


 二人は並んで歩き始めた。


 昨日まで何度も練習した道だった。


 けれど今日は違う。


 通路の両側には貴族たちが並び、王宮高官、軍人、騎士、学園関係者まで様々な者がこちらを見つめている。


 アマリリアは、すべての視線を確認しようとはしなかった。


 以前なら誰が何を考えているのか知ろうとしていたかもしれない。


 今日は前を向く。


 そして時折、隣のライルを見る。


 彼も少し緊張した顔をしている。


 それでも自分と同じ速度で、きちんと歩いている。


 途中、ハロルドと目が合った。


 父の目元は、もう完全に赤い。


 アマリリアは思わず口元を緩める。


 するとハロルドが、笑うなと言わんばかりに小さく睨んできた。


「アマリリア」


「はい?」


「今、笑った?」


「お父様が」


「もう泣いてる?」


「まだ一応耐えておりますわ」


「すごいな」


 ほんの短い小声のやり取りだった。


 周囲には聞こえない。


 けれど、それだけでまた少し緊張が薄れた。


 二人は壇上へ到着し、国王夫妻へ礼を取る。


 そのあと招待客へ向き直ると、大広間が完全に静まり返った。


 アルベルトが一歩前へ出る。


「本日、集まってくれたことに感謝する」


 よく通る国王の声が広間へ響く。


「既に事前通知で承知している者も多いだろう。本日は、我が息子ライル・アースハルトの婚約について正式に発表するため、この場を設けた」


 招待客たちは静かに耳を傾ける。


「王家、ベスター伯爵家、そして何より本人たち双方の意思を確認した上で」


 アルベルトが一度、ライルとアマリリアを見る。


「第一王子ライル・アースハルトと、ベスター伯爵家令嬢アマリリア・ベスターの婚約を、国王アルベルト・アースハルトの名において正式に認める」


 その瞬間。


 アマリリアの中から、ほんの一瞬だけ周囲の音が消えたように感じた。


 正式に。


 婚約が認められた。


 隣にはライルがいる。


 ずっと準備してきたことなのに、その事実が胸の奥へ落ちてくるまで少し時間がかかった。


 次の瞬間、大広間いっぱいに拍手が広がった。


 大きい。


 けれど乱れたものではなく、祝福を示す整った音だ。


 アマリリアは思わず家族の方へ視線を動かす。


 ハロルドが泣いていた。


 完全に。


「……」


 アマリリアは隣を見る。


 ライルも同じところを見ていた。


「泣いた」


「早かったですわね」


 二人で小さく言葉を交わす。


 アレクはそんな父を見ながら笑っている。


 ルシアも少し目元を潤ませながら拍手していた。


 グレイアスも静かに祝福を送っている。


 そしてカルロスも。


 少しだけ複雑そうな顔をしながら、それでも拍手をしていた。


 アマリリアが彼を見たことに気づいたのか、カルロスがこちらを見る。


 一瞬だけ気まずそうな顔をしたあと。


 彼は小さく頭を下げた。


 アマリリアも同じように返す。


 それだけでよかった。


          ◇◇◇


 拍手が収まると、今度は二人が挨拶をする番になった。


 最初にライルが一歩前へ出る。


 昨日まで、彼が何を話すのかアマリリアも聞いていなかった。


 少しだけ横顔を見守っていると、ライルが一度呼吸を整える。


「皆様、本日は私たちのためにお集まりいただき、ありがとうございます」


 声には僅かな緊張が残っていた。


 けれど、大広間の奥までしっかり届く。


「今回の婚約について、王家や家同士の都合だけで決まったものではないことを、まず申し上げたいと思います」


 アマリリアは少し目を大きくした。


 自分が考えてきた内容と、少し似ている。


「私は、アマリリア・ベスターという一人の人間を、自分の意思で婚約者に選びました」


 胸がまた強く鳴る。


「彼女は、とても行動が速く、ときどきこちらの想像を超える方法を取ります」


 その一言で、アマリリアは嫌な予感を覚えた。


 セレーネをはじめ、事情を知っている者たちの口元が少し緩んでいる。


「殿下」


 アマリリアは小さな声で尋ねた。


「褒めております?」


「ここから」


 ライルはほんの少し笑い、それから続けた。


「ですが、誰かが困っていれば放っておけず、自分のことより先に動いてしまう人でもあります。だから私は、彼女が一人で何もかも背負おうとするとき、隣で止められる者でありたいと思いました」


 今度は、アマリリアも何も茶化せなかった。


「そして私自身が困った時には、同じように隣で一緒に考えてくれる人でいてほしいと思っています」


 以前、中庭で二人が話した言葉を思い出す。


 一緒に困る。


 一緒に面倒がる。


 一緒に考える。


 華やかな愛の言葉ではない。


 けれど。


 自分たちには、きっとその方が合っている。


「これから先、王家の立場として簡単なことばかりではないと思います。それでも」


 ライルはアマリリアを見る。


「彼女となら、一緒に進んでいけると考えています」


 最後に一礼すると、再び広間へ拍手が広がった。


 アマリリアの目元が少し熱くなる。


 セレーネは満足そうに微笑み、アルベルトも息子を誇らしそうに見ていた。


 そして。


 次は。


 自分の番だ。


 アマリリアは一歩前へ出る。


 昨夜、紙へ書いた文章を思い出した。


 けれど。


 それをそのまま読むつもりはない。


 セレーネが言った通り。


 自分の言葉で伝える。


「皆様、本日は私たちのためにお集まりいただき、ありがとうございます」


 一度、静かに息を吸う。


「まず、正直に申し上げます」


 広間の空気が僅かに変わった。


 ライルも隣からこちらを見る。


「私は、最初からライル・アースハルト殿下との婚約を望んでいたわけではございません」


 何人かの招待客が驚いたように目を見開く。


 ハロルドも少しだけ顔を引きつらせた。


 けれどライルは笑っている。


 全部知っているからだ。


「むしろ最初は、自分に押し付けられた別の婚約から逃げるために、殿下のお力をお借りしようと考えておりました」


 カルロスが少しだけ目を伏せ、グレイアスは何とも言えない表情をした。


「ですが、殿下と一緒に過ごし、話をして、互いに都合の悪いところも、弱いところも、困ったところも知りました」


 そこでアマリリアはライルを見る。


 自然と笑みが浮かぶ。


「殿下は、思っていたより可愛らしい方でした」


 大広間が一瞬静まり、そのあと幾つもの小さな笑いが起きた。


「アマリリア」


 ライルが小声で言う。


「今言う?」


「本心ですので」


 その反応にまた小さく笑いが広がる。


 けれど、アマリリアはすぐに表情を柔らかくした。


「でも、同時に。私が一人で無茶をしようとしたときには止めてくださり、怖い時には隣にいてくださり、私自身が選ぶことを待ってくださる方でもありました」


 ルシアが少しだけ笑った。


 その言葉の意味を、彼女も知っている。


「ですから今は」


 アマリリアはもう一度、招待客へ向き直る。


「誰かに命じられたからでも、何かから逃げるためでもなく、私自身の意思で、ライル・アースハルト殿下の隣へ立つことを望んでおります」


 声は、思ったより震えなかった。


 むしろ。


 口にするほど。


 気持ちが落ち着いていく。


「殿下」


 アマリリアは再びライルを見る。


「昨日、先に言われてしまいましたので」


「何を?」


「私からも申し上げます」


 一度だけ微笑む。


「隣にいてくださって、ありがとうございます」


 ライルの表情が一瞬、本当に止まった。


「……」


「殿下?」


「それ言うの?」


「昨日の仕返しですわ」


 ライルの耳が赤くなる。


 それでも最後には笑った。


「ずるい」


「早い者勝ちですわ」


 二人にしか聞こえない声で言葉を交わし、アマリリアは最後に改めて招待客へ礼をした。


 拍手が響く。


 今度は先ほどよりも大きかった。


 胸が熱い。


 でも。


 もう怖くはない。


 アマリリアは顔を上げ、しっかりと前を見ていた。


          ◇◇◇


 正式な発表が終わると、大広間は一気に祝賀の空気へ変わった。


 今回は大規模な婚約披露宴ではないため、長時間にわたる宴席が設けられているわけではない。それでも軽食や飲み物が運び込まれ、招待客が順番に国王夫妻と婚約した二人へ祝いの言葉を伝える時間が取られている。


 当然。


 最初に近づいてきたのはベスター家だった。


「リリア」


 ハロルドの目は、見事なくらい赤い。


「お父様」


「何だ」


「泣きましたわね」


「泣いていない!」


「完全に泣いております」


「目に何か入っただけだ!」


「大広間で?」


「そうだ!」


「何が?」


「……花粉」


「室内ですわ」


「リリア!」


 横にいたアレクがとうとう笑い出した。


「父上、もう諦めた方がいいですよ」


「アレクまで!」


 アマリリアも笑いながら、それでも胸の奥が少し熱くなっていることを感じていた。


「お父様」


「何だ」


「来てくださって、ありがとうございます」


 ハロルドの動きが止まる。


「……」


「何です?」


「お前が今日は妙に素直で困る」


「失礼ですわね」


「いつもの方がまだ楽だ」


「では踏みます?」


「やめろ!」


 近くにいた者たちから小さな笑いが漏れる。


 ハロルドも最後には苦笑し、そしてライルへ向き直った。


 今度は父親として。


 真面目な顔で。


「殿下」


「はい」


「先日も申し上げましたが、娘を……よろしくお願いいたします」


 声が少し詰まった。


 ライルはからかわず、きちんと頭を下げる。


「こちらこそ。アマリリアを大切にします」


 それを聞いた瞬間、ハロルドの目元がまた危なくなる。


「殿下」


「はい?」


「今それを言うと、父上の涙が増えます」


 アレクが横から口を挟んだ。


「アレク!」


 今度はアマリリアも声を上げて笑った。


          ◇◇◇


 次にやってきたのはルシアだった。


「アマリリア様。殿下」


「ルシアさん」


「来てくださったのですね」


「もちろんです」


 ルシアは少し緊張しながらも丁寧に礼を取った。


「改めまして、ご婚約おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「ありがとう」


 そしてルシアは、手に持っていた小さな包みを差し出した。


「それから、昨日お話ししたものです」


「お祝い?」


「はい」


 アマリリアは嬉しそうに受け取る。


「今、開けてもよろしい?」


「もちろんです」


 丁寧に包みを開くと、中から出てきたのは小さな刺繍入りのハンカチだった。


 淡い青色の布に銀糸が使われ、角には二羽の小さな鳥が向かい合うように刺繍されている。


「これは……」


「私が縫いました」


「ルシアさんが?」


「はい。母に少し教わりながら」


「とても上手ですわ」


 アマリリアは本当に感心しながら細かな刺繍を見る。


「この鳥は?」


 尋ねると、ルシアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「一羽より、二羽いた方が寂しくないかと思って」


 その言葉に。


 アマリリアの目が少し柔らかくなる。


「ありがとうございます」


「使っていただけます?」


「もちろんです。大切にしますわ」


 ルシアは安心したように笑った。


 少し前まで、彼女は事件へ巻き込まれ、傷つき、自分の出生まで知らされ、何度も涙を流していた。


 今。


 こうして。


 自分たちの婚約を祝って笑っている。


 それだけでも、アマリリアには嬉しかった。


「殿下」


 ルシアがライルを見る。


「何?」


「お二人とも、今日は緊張されていました?」


 アマリリアとライルは顔を見合わせる。


「かなり」


「かなり」


 ほとんど同時に答えた。


 ルシアが笑う。


「やっぱり同じですね」


「婚約者ですので」


 アマリリアが先に言うと、ライルがすぐ不満そうな顔をした。


「今日は俺が言おうと思ったのに」


「早い者勝ちですわ」


「また取られた」


 三人の間へ柔らかな笑いが広がった。


          ◇◇◇


 その少し後。


 グレイアスとカルロスも二人の前へやってきた。


「殿下。ベスター令嬢」


 グレイアスが深く礼を取る。


「このたびは、正式なご婚約、誠におめでとうございます」


「ありがとうございます、公爵閣下」


「ありがとうございます」


 その隣では、カルロスが少しだけ緊張した顔をしていた。


 アマリリアはしばらく彼を見たあと、にこやかに声をかける。


「カルロス様」


「……何だ」


「今日は叫びませんでしたわね」


 カルロスの顔が一気に赤くなった。


「最初の言葉がそれか!」


「確認です」


「叫ぶわけないだろ!」


「以前も似た状況で」


「それは忘れてくれ!」


 グレイアスが深いため息をつく。


「カルロス」


「はい」


「声が大きい」


「……すみません」


 すぐに謝った。


 アマリリアは少しだけ目を大きくし、それから笑う。


「本当に変わってきましたわね」


「それを言いに来たわけじゃない」


「では?」


 カルロスは気まずそうに視線を逸らし、一度息を整えた。


「アマリリア」


「はい」


「その……おめでとう」


 アマリリアはしばらく彼を見た。


「ありがとうございます」


「……」


「それだけです?」


「何か言ってほしいのか?」


「いいえ」


「なら終わりで」


「待て」


 自分で言い出しながら、カルロスがまた止めた。


「もう一つある」


「何でしょう?」


「俺、前に……君が殿下と婚約するのを、俺への当てつけだと思ってた」


「ございましたわね」


「すぐ認めるな」


「事実ですので」


「……そうだけど」


 カルロスは少しだけ恥ずかしそうにしながらも、逃げずに続ける。


「違った」


「はい」


「今日、改めて分かった」


 アマリリアが少し目を細めた。


「今日?」


「君の挨拶を聞いて」


「今までの説明では?」


「分かってはいた!」


 カルロスが反射的に声を大きくする。


 すぐにグレイアスが横から低く呼んだ。


「カルロス」


「……すみません」


 二回目の謝罪。


 今度はライルまで笑いを堪えていた。


「だから」


 カルロスは少しだけ声を落とす。


「今度こそ、俺のことは気にせず幸せになればいい」


 アマリリアは目を瞬いた。


 少し前のカルロスなら、絶対に言わなかっただろう。


 それでも返事はアマリリアらしかった。


「もちろん、そのつもりですわ」


「そこは少し遠慮しろ!」


「なぜです?」


「何となくだ!」


「カルロス」


「父上!」


 グレイアスが額を押さえる。


 けれど今度は、父親の口元も少し笑っていた。


 アマリリアもライルもつられて笑う。


 以前なら。


 こんなやり取り一つでも。


 すぐに本気の喧嘩になっていたかもしれない。


「カルロス様」


「何だ」


「ありがとうございます」


「……ああ」


「ルシアさんとは?」


「ちゃんと距離を守っている!」


「ただ聞いただけですわ」


「先に言っておいた方がいいと思ったんだ」


「成長ですわね」


「上から言うな」


「事実ですので」


 カルロスは言い返しかけた。


 しかし。


 一度止まる。


「……もういい」


 以前なら絶対に最後まで言い返していただろう。


 その変化を、グレイアスが少しだけ安心したように見ていた。


「殿下」


 公爵はライルへ向き直り、軽く頭を下げる。


「今後とも、息子がご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが」


「父上!?」


「少しずつ直している途中ですので」


「そこまで言いますか!?」


 ライルは苦笑しながら頷いた。


「こちらも、少しずつでいいと思っています」


 カルロスは一瞬黙ったあと、きちんとライルへ頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その礼は。


 誰かに言われたからではない。


 自分からのものだった。


          ◇◇◇


 その後も、アマリリアとライルは多くの招待客から祝いの言葉を受けた。


 王宮高官。


 貴族たち。


 軍関係者。


 学園長や教師。


 これまでなら、一人一人の表情から何を考えているのか読み取ろうとしたかもしれない。相手が好意的なのか、裏に別の考えがあるのか、警戒すべきことはないか。


 しかし今日は、ゼインから言われた言葉を何度も思い出した。


『明日は守る側ではなく、祝われる側でいてください』


 だから。


 今日は少しだけ任せる。


 警備は近衛へ。


 王宮のことは王宮へ。


 必要ならゼインたちも動いてくれる。


 そして隣にはライルがいる。


「ご婚約、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 アマリリアは一つ一つの言葉を、疑わず受け取ることにした。


 それだけで。


 思っていたより。


 ずっと疲れなかった。


 気づけば外の日差しは少しずつ傾き始めていた。


 正式な式典を終え、招待客も少しずつ帰り始めている。


 大広間の端まで移動したアマリリアは、ようやく深く息を吐いた。


「終わりましたわね」


 隣に立っていたライルも肩から力を抜く。


「うん」


「疲れました?」


「かなり」


「私もです」


 二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。


「でも」


 ライルが広間を見ながら言う。


「無事終わった」


「ええ」


「カルロスも叫ばなかった」


「かなり重要ですわね」


「本当に」


「お父様は泣きました」


「予想通り」


「ルシアさんから贈り物もいただきました」


「似合ってた」


 アマリリアが首を傾げる。


「ハンカチに『似合う』はございます?」


「君が持つのに」


「まあ」


 アマリリアは少し笑った。


 それから。


 ふと。


 胸元の青星石へ指を触れる。


 朝、ライルがつけてくれたものだ。


「殿下」


「何?」


「正式に婚約者になりましたわね」


 改めて口にすると。


 今になって。


 実感が増した。


 ライルも少しだけ黙る。


「うん」


「もう、仮でもございません」


「うん」


「利害だけの契約でも」


「うん」


「逃げるためでもありません」


「そうだな」


 アマリリアはライルを見る。


 彼もこちらを見ていた。


「殿下」


「何?」


「私」


 一度だけ呼吸を整える。


「嬉しいです」


 ライルの目が少し柔らかくなる。


「俺も」


 短い言葉だった。


 でも。


 それだけで十分だった。


 大広間から人が減り始め、侍従たちは静かに片づけを始めている。


 遠くではセレーネがこちらを見ていたが、今だけは茶化さなかった。アルベルトはその隣で穏やかに笑っている。


 ハロルドはまだ時々目元を拭い、アレクに何か言われて怒っている。


 ルシアはメイベル家の者と帰る前に、こちらへ小さく手を振った。


 カルロスもグレイアスの隣を歩きながら、一度だけこちらを見て小さく頭を下げる。


 いろいろあった。


 本当に。


 いろいろ。


 けれど。


 今は。


 皆がここにいる。


「殿下」


「何?」


「手を」


「手?」


 アマリリアは少しだけ笑った。


「今日は、もう練習ではございませんでしょう?」


 ライルは一瞬だけ目を丸くした。


 そして。


 すぐに笑う。


「ああ」


 自然に手を差し出す。


「婚約者だから」


 アマリリアはその手を取った。


「今日は殿下に取られましたわね」


「早い者勝ち」


「またそれです?」


「一生使うかも」


「困りますわね」


「嫌?」


「いいえ」


 アマリリアは指先へ少しだけ力を込め、握り返した。


「全然」


 誰かから押し付けられた婚約から逃げるため。


 第一王子を脅して。


 無理やり始めた関係だった。


 けれど今日。


 ようやく。


 誰かに決められたものではなく。


 アマリリア自身が選び。


 ライル自身も選び。


 二人で同じ場所へ立った。


 本当の婚約になった。


 ここから先は。


 婚約者になるまでの物語ではない。


 正式な婚約者になった二人が。


 王家という立場とも向き合い。


 家族とも。


 学園とも。


 周囲の人々とも関わりながら。


 その関係を自分たちなりの形へ育てていく時間だ。


 アマリリアは繋いだ手へもう一度だけ力を込める。


 するとライルも同じように握り返した。


 その温かさを感じながら。


 アマリリアは、もう逃げるためではなく。


 自分で選んだ未来へ向かって。


 第一王子ライル・アースハルトの隣に立っていた。

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