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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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第27話 婚約発表前日、逃げたいわけではないのに眠れなくなりました



 正式な婚約発表まで、あと一日。


 朝から王都には、いつもとは少し違う落ち着かなさが漂っていた。


 王宮から主要貴族へ送られた事前通知は既に各家へ届き、第一王子ライル・アースハルトが正式な婚約を発表するという話は、貴族社会の中ではほとんど公然のものになっている。王宮側は相手の名をまだ正式には公表していないものの、ルナティック王立学園で起きた一連の騒動や、最近のライルとアマリリアの様子を知る者にとって、相手が誰なのかはもはや秘密とは呼べなかった。


 それでも、正式な発表は明日である。


 知っていても確定とは口にしない。招待状を受け取った貴族たちも、王宮に仕える者たちも、あくまで「明日の発表を待つ」という体裁を保っている。その何とも言えない空気の中心にいるアマリリア本人は、そんな王都の事情とは別の理由で朝から少し様子がおかしかった。


「……眠いですわ」


 ベスター伯爵家の朝食の席で、アマリリアは珍しく小さな欠伸を噛み殺した。


 東向きの窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、磨かれた銀食器や白い陶器の縁を淡い金色に染めている。卓上には焼きたてのパンと卵料理、温かな野菜のスープ、薄く切った果実が並び、香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がっていた。


 普段であれば、この時間のアマリリアは既にその日の予定を頭の中で整理し終え、食事をしながら使用人から届いた報告へ耳を傾けている。ところが今日は、手元の紅茶へ落とした視線がどこかぼんやりとしていた。


 向かいに座っていたアレクが、パンをちぎる手を止める。


「珍しいな」


「何がです?」


「リリアが朝から眠そうにしてる」


「私だって眠い日はございますわ」


「昨日は何時に寝た?」


「いつもとそれほど変わりません」


「じゃあ、何でそんな顔なんだ」


 アマリリアはパンを一口食べ、わざとゆっくり咀嚼してから視線を逸らした。


「寝つきが少し悪かっただけです」


 その一言に、隣に座っていたハロルドが即座に反応した。


「緊張しているのか?」


「お父様」


「何だ」


「なぜ少し嬉しそうなのです?」


「嬉しくない!」


「では、その顔は?」


「娘にも普通のところがあったのだと安心しただけだ!」


「どういう意味です?」


 アマリリアが眉を寄せると、ハロルドは待っていましたとばかりに身を乗り出した。


「お前は子供の頃から、試験の前でも舞踏会の前でも剣術試合の前でも、妙に平然としていただろう。周りが緊張している中で、お前だけ『準備は済んでおりますので』みたいな顔をしていた」


「実際、準備をしていれば必要以上に緊張する理由はございませんもの」


「明日の準備もしているではないか」


「……」


 アマリリアの手が止まった。


 アレクとハロルドの視線が同時に集まる。


 数秒の沈黙のあと、アレクが口元をゆっくり緩めた。


「つまり、婚約発表は試験より緊張するんだな」


「兄様」


「何だ?」


「朝から人の弱みを見つけて楽しむのは感心いたしませんわ」


「それを弱み扱いするのか」


「当然です」


「リリア」


 今度はハロルドが少しだけ真面目な顔になった。


「本当に嫌になったわけではないんだな?」


「お父様まで何ですの」


「そこは父親として聞くだろう。明日になって『やっぱり嫌です』などと言い出したら……いや、お前なら言い出した瞬間に王宮の壁くらい越えそうだが」


「私を何だと思っておりますの?」


「実績のある娘」


「嫌な言い方ですわね」


 アマリリアは呆れながらも、少しだけ息を吐いた。


 明日のことを考えるたび、確かに胸が落ち着かなくなる。


 大広間。


 主要貴族。


 王宮高官。


 学園関係者。


 家族。


 ルシア。


 カルロス。


 大勢の前で、第一王子ライル・アースハルトの婚約者として自分の名が正式に告げられる。


 考えるだけで心臓が少し速くなる。


 けれど、それは逃げたいからではない。


「嫌ではございません」


「本当に?」


「ええ」


 今度は迷わず、父の目を見て答えた。


「むしろ楽しみです」


 ハロルドの顔が何とも言えないものに変わった。


「……そうか」


「何です、その顔」


「いや。娘が嫁へ近づいていくのを嬉しいと思えばいいのか、寂しいと思えばいいのか、自分でも分からなくなってな」


「まだ婚約です」


「父親には同じだ!」


「昨日も聞きましたわ、その理屈」


「明日も言うぞ!」


「では明後日も?」


「言う!」


「一週間後も?」


「言う!」


「一月後も?」


「いつまで続けるつもりだ!」


 とうとうアレクが声を上げて笑った。


「父上、完全に遊ばれてますよ」


「分かっている!」


「でも、昨日より元気そうで安心しました」


「アレクまで何だ!」


 朝の食卓へ自然な笑いが広がった。


 アマリリアも口元を押さえながら笑い、その間に胸の奥へ溜まっていた重さが少し薄くなるのを感じた。


 緊張している。


 眠れなかった。


 それを家族に知られている。


 以前の自分なら、そんなことを見抜かれるだけでも不快だったかもしれない。弱みを知られたように感じ、何でもない顔をして押し通そうとしただろう。


 けれど今は、少しくらいなら知られても構わないと思える。


 その変化を、自分でも不思議に感じていた。


          ◇◇◇


 午前中、アマリリアは学園へ向かわなかった。


 婚約発表前日ということで、王家と学園側の調整により一日の公欠が認められ、最終準備へ集中することになっていた。


 王宮へ到着すると、正門前には既に数台の荷馬車が停まっていた。荷台には明日の装花や布、式典用の食器、追加の椅子や小卓まで積まれており、使用人たちが次々と荷物を運び込んでいる。


 今回行われるのは、あくまで第一王子の正式な婚約発表である。大規模な婚約披露宴そのものではない。


 そう聞いていた。


 聞いていたのだが。


 門前だけ見ても、とても「小規模」と呼べる準備には見えない。


「多いですわね」


 馬車を降りたアマリリアが思わず呟くと、出迎えに来ていたディーンが苦笑した。


「王妃陛下は『かなり抑えた』と仰っております」


「王妃様の『抑えた』を信じるのは危険ですわ」


「最近、私もそう思い始めました」


「ディーン様」


「はい」


「染まりましたわね」


「誰にでしょう」


「王宮に」


「アマリリア様にだけは言われたくありません」


「まあ」


 以前なら、ライルの側近という立場を意識して、ディーンはアマリリアに対して一定の距離を保っていた。だが今では、こうして自然に言い返してくる。


 それもまた、自分が少しずつ王宮の中へ入り込んでいる証なのかもしれない。


「殿下は?」


「大広間で最終確認をなさっています」


「もう?」


「一刻ほど前から」


「早いですわね」


「殿下も緊張されているのでは?」


「まあ」


 アマリリアの口元が僅かに上がった。


「それは確かめなければ」


「楽しそうですね」


「婚約者として心配しております」


「本当に?」


「半分は」


 ディーンは何とも言えない顔になったあと、静かに頭を下げた。


「残り半分を聞くのはやめておきます」


「賢明です」


 二人はそんな会話をしながら王宮の中へ入っていった。


          ◇◇◇


 大広間の扉が開かれた瞬間、アマリリアは思わず足を止めた。


 昨日までは準備途中だった空間が、ほとんど完成している。


 高い天井から吊るされた魔石灯には、普段より柔らかな光を広げる薄布の装飾が施され、光そのものが少し青みを帯びて見えた。壁際には王家の紋章とベスター家の紋章を並べた布飾りが掛けられ、中央から壇上へ続く通路には淡い青銀色の絨毯が敷かれている。


 両側に置かれた装花も豪華すぎるものではなく、白と淡青を中心に整えられていた。王家の格式を損なうことなく、それでいて威圧感を出しすぎない。その中へ、ベスター家の色合いが無理なく混ざっている。


 明日。


 この通路を。


 自分はライルと並んで歩く。


 壇上にはアルベルトとセレーネ。


 その一段下へ自分たちが立ち。


 多くの人間の前で婚約が正式に告げられる。


 昨日まで何度も説明を受けていたはずなのに、完成した会場を目の前にすると、現実味がまるで違った。


「王妃様……」


 アマリリアは広間を見渡しながら、思わず小さく呟いた。


「かなり考えてくださったのですね」


「何を?」


 突然後ろから声がして、アマリリアは僅かに肩を揺らした。


 振り返ると、ライルが立っていた。


「殿下」


「珍しい。気づかなかった?」


「広間を見ておりましたので」


「どう?」


「素敵ですわ」


 まだ礼装ではなく、普段の王族服姿だったが、よく見ればライルの目元には僅かな疲れが残っている。


「母上、昨日の夜まで花の位置を変えてた」


「やはり」


「『アマリリアが入った瞬間に、一番綺麗に見えるように』って」


 アマリリアは少し目を丸くした。


「私のために?」


「一応、俺の婚約発表でもあるんだけど」


「殿下は普段から王宮で見慣れられておりますので」


「その理屈、ちょっと寂しいな」


「では殿下も綺麗に見えるように整えられていると思いますわ」


「取ってつけたように言うな」


 アマリリアは小さく笑い、そのまま広間の中央へ歩いていく。


「殿下」


「何?」


「緊張しております?」


「何で来てすぐそれを聞くんだ」


「ディーン様が」


「ディーン」


 少し離れた場所に控えていた側近が、すっと視線を逸らした。


「私は何も申し上げておりません」


「言ったんだな」


「『殿下も緊張されているのでは』と推測しただけです」


「それを本人へ伝えたなら同じだろ」


 アマリリアは楽しそうに二人を眺めたあと、改めてライルへ視線を戻した。


「では、違います?」


 ライルは一瞬だけ強がろうとしたように見えた。


 だが。


 すぐに諦める。


「……緊張してる」


「まあ」


「嬉しそうにするな」


「私もですので」


 ライルの顔が少し変わった。


「君も?」


「昨夜、少し眠れませんでした」


「本当に?」


「そこまで驚かれます?」


「だって君、いつもこういう時も平気な顔してるだろ」


「殿下もでしょう?」


「俺も?」


「ええ。昨日まで随分余裕そうに見えましたわ」


 二人はしばらく互いの顔を見た。


 どちらも。


 本当は。


 緊張していた。


「同じですわね」


「また?」


「最近、多いですわね」


「婚約者だから?」


「まあ。先に使われました」


「便利だな、この言葉」


「私が先に見つけたのですが」


「もう共有でいいだろ」


 軽い会話。


 それだけで。


 先ほど広間を見た瞬間に胸へ落ちた重さが、ほんの少し和らいだ。


 自分だけが緊張しているわけではない。


 ライルも同じ。


 明日、一緒に壇上へ立つ相手も、自分と同じように落ち着かない。


 そう思えるだけで、不思議と安心した。


          ◇◇◇


「二人とも、そこ」


 大広間にセレーネの声が響いた。


 アマリリアとライルが揃って振り返ると、広間の奥から王妃が歩いてきていた。その後ろにはアルベルトと数名の侍従、礼法担当の女官もいる。


「母上」


「何?」


「今から何をする気ですか」


「最終確認よ」


「昨日もしました」


「今日は会場が完成しているでしょう?」


「……」


「本番と同じ位置でやらなければ意味がないわ」


 ライルが天井を見上げた。


「アマリリア」


「はい」


「逃げない?」


「王妃様から?」


「うん」


「無理です」


「即答」


「殿下が先に捕まりますもの」


「見捨てる気か?」


「一緒に緊張する約束ですので、最後までは付き合います」


「そこは付き合ってくれるんだ」


 セレーネがパンッと手を叩いた。


「二人とも早く入口へ」


「はい」


「今行きます」


 結局、二人は素直に広間の入口まで戻された。


 本番と同じ位置へ並び、アマリリアはライルの腕へそっと手を添える。


 昨日より自然だった。


 以前のように袖を強く掴むこともない。


「上手くなった」


 歩き始めた直後、ライルが小声で言った。


「当然ですわ」


「練習した?」


「昨日から何度か想像しました」


「それを練習って言うんじゃ」


「殿下」


「何?」


「前を見てくださいませ」


「君が話しかけたんだろ」


 二人の小声が広い空間へ思った以上に響いたらしい。


「本番でも、そのくらい自然に歩ければ十分よ」


 遠くにいるセレーネから声が飛んできた。


「母上!」


「聞こえておりますの?」


「この広間、声がよく響くのよ」


「先に言ってくださいませ!」


 アルベルトが愉快そうに笑った。


「明日はそこまで話せないぞ」


「父上まで」


「今のうちに楽しんでおけ」


 アマリリアまで思わず吹き出した。


 笑ったことで肩から余計な力が抜ける。


 それから改めて姿勢を整え、二人は青銀色の絨毯の上を並んで歩いた。


 一歩。


 また一歩。


 明日なら。


 この両側に人が並ぶ。


 視線が集まる。


 自分の名が呼ばれる。


 そして壇上で、アルベルトが正式に宣言する。


『第一王子ライル・アースハルトと、アマリリア・ベスターの婚約をここに認める』


 その瞬間を想像した途端、胸が強く鳴った。


 アマリリアは無意識に指へ力を込めていたらしい。


「アマリリア」


 隣から小さな声がする。


「何でしょう」


「手」


「え?」


「また袖を掴んでる」


 見ると、確かに指先がライルの袖を少し摘んでいた。


「……」


「緊張した?」


「少し」


「うん」


 ライルは笑わなかった。


 からかいもしない。


 ただ、アマリリアが添えている腕をほんの少しだけ自分の方へ寄せた。


「大丈夫」


「はい」


「明日も俺がいる」


 アマリリアは思わずライルを見た。


 彼は前を向いたまま。


 でも。


 その横顔は。


 真面目だった。


「殿下」


「何?」


「そういうことを、今言われますと」


「困る?」


「かなり」


「でも」


「何です?」


「やめない」


 アマリリアは一瞬、目を大きくした。


 少し前なら、自分が同じことを言ってライルを困らせる側だったのに。


「……本当に強くなりましたわね」


「君相手だけ」


「十分です」


 アマリリアが小さく笑うと、袖を掴んでいた指から自然に力が抜けた。


「そこ」


 セレーネが満足そうに頷く。


「明日もそのくらいで」


「王妃様」


「何?」


「どこから見ておりますの?」


「最初から全部」


「……」


「いい関係ね」


 今度はライルが顔を覆った。


「母上、お願いだから」


「何?」


「明日は茶化さないで」


「当然でしょう?」


「本当に?」


「正式な場よ」


「ならいいけど」


「終わったら茶化すわ」


「やっぱり!」


 広間のあちらこちらで、使用人たちが笑いを堪える気配がした。


          ◇◇◇


 最終確認が終わる頃には、昼を少し回っていた。


 アマリリアとライルは王宮の私的な食堂へ移動し、アルベルトとセレーネを交えて遅めの昼食を取ることになった。


 明日の式典を考慮して料理は軽めに整えられており、温かな野菜のスープ、香草を添えた白身魚、柔らかなパン、数種類の果実が並んでいる。


 アマリリアは魚を少し口へ運んだあと、ふと思い出した疑問を口にした。


「陛下」


「何だ?」


「明日の発表では、私も何かお話しするのでしょうか」


「する」


 アルベルトが当然のように答えた。


 アマリリアの手が止まった。


 向かいではライルも同時に顔を上げている。


「……聞いておりません」


「今言った」


「陛下」


「冗談だ」


「あなたまで遊ばないでください」


 セレーネが夫を軽く睨む。


「最近ライルが楽しそうだから、少し気持ちが分かってな」


「父上」


「悪かった」


 国王は少し笑ってから、今度は真面目に説明を続けた。


「長い挨拶ではない。私が正式に婚約を発表したあと、ライルと君から一言ずつ話してもらう」


「何をお話しすれば?」


「決められた文句はない」


「自由なのです?」


「そうだ」


 今度はアマリリアだけでなく、ライルの表情まで固まった。


「父上」


「何だ」


「それ、前日に言う?」


「前日に考えた方が、余計な飾りが入らなくていい」


「王家って時々雑では?」


「大切なところだけ本人たちへ任せるのよ」


 セレーネが穏やかに笑った。


「婚約申請の時、理由を自分の言葉で書いたでしょう?」


「はい」


「明日も同じ。王家へ入ることが名誉だとか、国のために尽くすとか、立派な言葉を並べなくてもいいの。自分たちが選んだ婚約だと伝われば、それで十分よ」


 アマリリアは少しだけ考え込んだ。


「文章を用意しても?」


「もちろん。でも、丸暗記はおすすめしないわ」


「なぜ?」


「ライルが途中であなたの顔を見たら、全部飛ぶかもしれないから」


「母上!」


「まあ」


「アマリリアも納得するな!」


 アマリリアは笑ったものの、頭の中では既に明日の言葉を考え始めていた。


 王家の一員として。


 第一王子を支える者として。


 国へ尽くす。


 王家の名に恥じぬよう。


 いくらでも立派な言葉は思いつく。


 けれど。


 それが。


 本当に明日言いたいことなのか。


 考えるほど、違う気がした。


「殿下」


「何?」


「何をお話しします?」


「今それ聞く?」


「参考に」


「絶対真似する気だろ」


「いたしません」


「本当に?」


「良い部分だけ参考にします」


「真似するってことじゃないか!」


 セレーネとアルベルトが同時に笑った。


          ◇◇◇


 午後、アマリリアはいったんベスター伯爵家へ戻った。


 明日の朝は早い時間から王宮へ入り、そこで本格的な身支度をすることになっている。そのため今日はできるだけ早く休むよう、王妃からもライルからも念を押されていた。


 自室へ戻ると、机の上にはセレーネから渡された例の小箱が置かれていた。


 婚約発表当日まで開けないこと。


 そして。


 ライルと一緒に開けること。


 約束は守っている。


 もちろん。


 守っているのだが。


「……気になりますわね」


 椅子へ腰を下ろし、箱をじっと見つめる。


 触るだけなら問題ない。


 持ち上げても問題ない。


 重さから中身を想像するくらいなら。


 いや。


 ほんの少し蓋を浮かせて。


「お嬢様」


 突然、背後から声がした。


「何です?」


 アマリリアが振り返ると、窓際にゼインが立っていた。


「いつからそこに?」


「お嬢様が『ほんの少し蓋を浮かせるくらいなら』とお考えになった辺りから」


「心まで読まないでくださいませ」


「顔に出ておりました」


「皆様、最近そればかりですわね」


 ゼインは僅かに笑いながら机の前まで進んだ。


「明日ですね」


「ええ」


「ご婚約、おめでとうございます」


 アマリリアは少しだけ目を丸くした。


「ゼインがそれを言うのです?」


「私でも言います」


「てっきり殿下をもう少し試すと仰るかと」


「十分見ました」


「まあ」


「お嬢様が一人で勝手に動こうとした時に止められる方は、とても貴重です」


「そこですの?」


「重要です」


「私はそこまで無茶では」


 アマリリアが言いかける。


 ゼインは黙って見ている。


「何です、その目」


「何も」


「言いたいことがあるなら言いなさい」


「では」


 ゼインは少しだけ声を改めた。


「明日は黒装束を大広間の中へ潜ませません」


「なぜです?」


 アマリリアの表情がすぐに変わる。


「王宮の警備で十分だからです」


「ですが」


「お嬢様」


 いつもの軽い調子が消えた。


「明日は守る側ではなく、祝われる側でいてください」


 アマリリアはすぐには返事ができなかった。


「何か起きる前提で入り口や窓、招待客の動きを確認する必要はありません。王宮近衛がおります。ディーン様もおります。私たちも王宮の外周では通常通り動きます」


「ゼイン」


「はい」


「あなたまで、私を休ませる側へ回るのですね」


「殿下の影響かもしれません」


「悪影響ですわ」


「私は良い影響だと思っております」


 アマリリアは小箱の蓋へ触れていた指をゆっくり離した。


「分かりました」


「本当に?」


「皆様、どうして私をそこまで信用なさらないのです?」


「実績がございますので」


「殿下と同じことを!」


「事実です」


 アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。


 だが。


 やがて。


 諦めたように笑う。


「明日は何もしません」


「その言い方は少し怪しいですね」


「ゼイン」


「失礼しました」


 アマリリアは窓の外へ視線を向けた。


 夕方へ向かう空はまだ明るく、庭では使用人たちが明日の外出準備を進めている。


「でも」


「はい」


「明日だけは」


 少し考え。


 アマリリアは静かに言った。


「殿下の隣にいることだけに集中してみます」


 ゼインはほんの僅かに目を細めた。


「それでよろしいかと」


          ◇◇◇


 夕食を終えたあと、アマリリアは自室へ戻り、明日の挨拶を考えるため机へ向かった。


 紙を置き。


 ペンを持つ。


 ところが。


 書けない。


「王家の一員となる者として……」


 違う。


「第一王子殿下をお支えし、この国のために……」


 間違いではない。


 けれど。


 何か固い。


「このたびの素晴らしいご縁を……」


「違いますわね」


 紙を丸める。


 二枚目。


 三枚目。


 机の端へ失敗した紙が増えていく。


 こんなことは珍しかった。


 学園の論文も。


 王妃教育で出された課題も。


 領地運営の報告書も。


 書く内容に困ったことなどほとんどない。


 なのに。


 自分の気持ちを。


 大勢の前で。


 言葉にする。


 それだけで、急に何を書けばよいのか分からなくなる。


 コンコン、と控えめなノック音がした。


「どうぞ」


 扉を開けて入ってきたのはハロルドだった。


「お父様?」


「まだ起きていたのか」


「まだそれほど遅くございません」


「何をしている」


 ハロルドの視線が、机の上に積まれた丸めた紙へ向く。


「明日の挨拶を考えております」


「お前が書けないのか?」


「珍しいでしょう?」


「熱でもあるのか」


「お父様」


「冗談だ」


 ハロルドは少し笑いながら机の近くまで来た。


「何を言おうとしている」


「それが分からないのです」


「思っていることを言えばいいだろう」


「お父様まで簡単に仰いますわね」


「難しく考えるから分からなくなるんじゃないか?」


 アマリリアが顔を上げる。


「どういう意味です?」


「お前は」


 ハロルドは少し考え、やがて苦笑した。


「最初、あの殿下を利用しようとした」


「随分はっきり言いますわね」


「事実だろう」


「ええ」


「それが今は、本人を選んだ」


「……はい」


「なら、それを言えばいい」


 アマリリアは数秒、父の顔を見つめた。


「そのまま?」


「何が悪い」


「王家の正式な婚約発表ですわよ?」


「だから何だ。綺麗な嘘を並べるより、よほどいいだろう」


 アマリリアはしばらく何も言わなかった。


 まさか。


 この父から。


 そんな言葉を聞くとは思わなかった。


「お父様」


「何だ」


「今日は格好いいですわね」


「今日はとは何だ!」


 アマリリアはとうとう笑った。


「ありがとうございます」


「……ああ」


 ハロルドは少し照れたように視線を逸らす。


 そして扉へ向かいかけたところで、また足を止めた。


「リリア」


「はい」


「明日」


 少し言葉に詰まる。


「私が泣いても笑うなよ」


 アマリリアの口元がすぐに上がった。


「まだ泣くと決まっておりませんわ」


「絶対泣く前提で話をするな!」


「兄様も殿下も同じ予想です」


「全員覚えてろ!」


「楽しみにしております」


「お前は本当に!」


 最後まで文句を言いながら、ハロルドは部屋を出ていった。


 扉が閉じる。


 室内へ静けさが戻る。


 けれど、アマリリアの顔には少しだけ笑みが残っていた。


 新しい紙を一枚取る。


 今度は。


 立派な挨拶を書こうとするのをやめた。


 ペン先を紙へ置く。


『私は、最初から殿下との婚約を望んでいたわけではございません。』


 書いたあと、自分で少し笑った。


「王妃様に怒られますかしら」


 だが。


 消さない。


 続ける。


『けれど、今は自分の意思で、ライル・アースハルト殿下の隣へ立つことを望んでおります。』


 そこまで書いたところで、アマリリアは手を止めた。


 これでよいのかもしれない。


 取り繕わない。


 最初を否定しない。


 それでも。


 今は違う。


 自分で選んだ。


 それだけが伝わればいい。


 アマリリアは紙を一度読み返し、今度は丸めずに机の端へ置いた。


          ◇◇◇


 夜。


 寝台へ入ったあとも、アマリリアはなかなか眠れなかった。


 昨夜と同じ。


 けれど。


 少し違う。


 不安だけではない。


 明日、ライルは完成した濃紺の礼装を着る。


 自分は青銀色のドレスへ袖を通す。


 セレーネから預かった小箱も、一緒に開ける。


 王宮の大広間へ入り。


 父と兄がいる。


 ルシアもいる。


 カルロスもいる。


 大勢の前で。


 自分たちは正式な婚約者になる。


 考えるほど、眠気より胸の高鳴りの方が強くなっていった。


 アマリリアは一度寝返りを打つ。


 枕元には、小さな魔導通信具が置かれている。


 手を伸ばせば、ライルへ連絡できる。


 でも。


 この時間。


 もう寝ているかもしれない。


 明日は殿下だって早い。


 迷惑では。


 アマリリアは通信具へ手を伸ばし。


 やめた。


 少しして。


 また伸ばす。


 やめる。


 その時だった。


 通信具が、淡い光を灯した。


「……まあ」


 アマリリアはすぐに手を伸ばした。


「殿下?」


『起きてた?』


「起きておりました」


『やっぱり』


「なぜ分かりますの?」


『俺も眠れないから』


 アマリリアは思わず小さく笑った。


「一緒ですわね」


『うん』


 少しだけ沈黙が流れる。


 けれど。


 繋がっている。


 それだけで。


 先ほどまでの静かな部屋が。


 少し違って感じる。


「殿下」


『何?』


「明日、緊張しております?」


『かなり』


 即答だった。


「私もです」


『知ってる』


「なぜ?」


『君も、こっちへ連絡しようか迷ってただろ』


 アマリリアは通信具を見つめた。


「……」


『図星?』


「殿下」


『何』


「最近、本当に私のことが分かるようになりましたわね」


『婚約者だから』


 アマリリアは一瞬黙った。


「取られました」


『早い者勝ち』


「殿下も随分と強くなりましたわ」


『君のせい』


 夜の静かな部屋に、通信具から届くライルの声だけが小さく響く。


 それが。


 不思議なくらい。


 安心する。


「殿下」


『何?』


「明日、私が途中で動けなくなりましたら」


『手を握る』


「まだ何も言っていないのに」


『昨日から約束してるだろ』


「では」


 アマリリアは少しだけ息を吸った。


「殿下が動けなくなりましたら」


『君が握ってくれる?』


「ええ」


『なら大丈夫』


 短い言葉だった。


 でも。


 胸の奥で騒いでいた何かが。


 ゆっくり静かになっていく。


「おやすみなさいませ、殿下」


『うん』


 そこで通信が終わると思った。


 けれど。


 少しの間のあと。


『アマリリア』


「はい?」


 ライルの声が少しだけ真面目になる。


『明日』


「はい」


『隣にいてくれて、ありがとう』


 アマリリアはすぐには答えられなかった。


 胸の奥が。


 温かい。


 でも。


 少し悔しい。


「……殿下」


『うん』


「それは明日、私が言おうと思っておりましたのに」


『先に言った』


「ずるいですわ」


『早い者勝ち』


「またそれです?」


 二人で小さく笑った。


「でしたら」


 アマリリアは布団の中で身体の力を抜き、ゆっくり目を閉じた。


「明日は別のことを申し上げます」


『何?』


「秘密です」


『気になる』


「王妃様と同じですわ」


『明日まで?』


「明日まで」


『分かった』


 ライルの声も少し柔らかくなる。


『おやすみ、アマリリア』


「おやすみなさいませ、殿下」


 通信の光が消えた。


 部屋へ静けさが戻る。


 けれど今度は、先ほどまでのような孤独な静けさではなかった。


 正式婚約発表まで、あと一日。


 逃げるために始めた関係が。


 明日。


 大勢の人々の前で、本当の婚約として認められる。


 怖くないわけではない。


 緊張しないわけでもない。


 けれど。


 隣に立つ相手も。


 同じように眠れないほど緊張している。


 自分が動けなくなったら、手を握ると言ってくれた。


 彼が動けなくなったら、自分が握ればいい。


 一人で完璧に立つ必要などない。


 そう思えた途端。


 身体から少しずつ力が抜けていった。


 アマリリアは目を閉じる。


 そして今度こそ。


 明日。


 青銀色のドレスを着て。


 ライルの隣へ立つ自分を思い浮かべながら。


 ゆっくりと眠りへ落ちていった。

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