第27話 婚約発表前日、逃げたいわけではないのに眠れなくなりました
正式な婚約発表まで、あと一日。
朝から王都には、いつもとは少し違う落ち着かなさが漂っていた。
王宮から主要貴族へ送られた事前通知は既に各家へ届き、第一王子ライル・アースハルトが正式な婚約を発表するという話は、貴族社会の中ではほとんど公然のものになっている。王宮側は相手の名をまだ正式には公表していないものの、ルナティック王立学園で起きた一連の騒動や、最近のライルとアマリリアの様子を知る者にとって、相手が誰なのかはもはや秘密とは呼べなかった。
それでも、正式な発表は明日である。
知っていても確定とは口にしない。招待状を受け取った貴族たちも、王宮に仕える者たちも、あくまで「明日の発表を待つ」という体裁を保っている。その何とも言えない空気の中心にいるアマリリア本人は、そんな王都の事情とは別の理由で朝から少し様子がおかしかった。
「……眠いですわ」
ベスター伯爵家の朝食の席で、アマリリアは珍しく小さな欠伸を噛み殺した。
東向きの窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、磨かれた銀食器や白い陶器の縁を淡い金色に染めている。卓上には焼きたてのパンと卵料理、温かな野菜のスープ、薄く切った果実が並び、香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がっていた。
普段であれば、この時間のアマリリアは既にその日の予定を頭の中で整理し終え、食事をしながら使用人から届いた報告へ耳を傾けている。ところが今日は、手元の紅茶へ落とした視線がどこかぼんやりとしていた。
向かいに座っていたアレクが、パンをちぎる手を止める。
「珍しいな」
「何がです?」
「リリアが朝から眠そうにしてる」
「私だって眠い日はございますわ」
「昨日は何時に寝た?」
「いつもとそれほど変わりません」
「じゃあ、何でそんな顔なんだ」
アマリリアはパンを一口食べ、わざとゆっくり咀嚼してから視線を逸らした。
「寝つきが少し悪かっただけです」
その一言に、隣に座っていたハロルドが即座に反応した。
「緊張しているのか?」
「お父様」
「何だ」
「なぜ少し嬉しそうなのです?」
「嬉しくない!」
「では、その顔は?」
「娘にも普通のところがあったのだと安心しただけだ!」
「どういう意味です?」
アマリリアが眉を寄せると、ハロルドは待っていましたとばかりに身を乗り出した。
「お前は子供の頃から、試験の前でも舞踏会の前でも剣術試合の前でも、妙に平然としていただろう。周りが緊張している中で、お前だけ『準備は済んでおりますので』みたいな顔をしていた」
「実際、準備をしていれば必要以上に緊張する理由はございませんもの」
「明日の準備もしているではないか」
「……」
アマリリアの手が止まった。
アレクとハロルドの視線が同時に集まる。
数秒の沈黙のあと、アレクが口元をゆっくり緩めた。
「つまり、婚約発表は試験より緊張するんだな」
「兄様」
「何だ?」
「朝から人の弱みを見つけて楽しむのは感心いたしませんわ」
「それを弱み扱いするのか」
「当然です」
「リリア」
今度はハロルドが少しだけ真面目な顔になった。
「本当に嫌になったわけではないんだな?」
「お父様まで何ですの」
「そこは父親として聞くだろう。明日になって『やっぱり嫌です』などと言い出したら……いや、お前なら言い出した瞬間に王宮の壁くらい越えそうだが」
「私を何だと思っておりますの?」
「実績のある娘」
「嫌な言い方ですわね」
アマリリアは呆れながらも、少しだけ息を吐いた。
明日のことを考えるたび、確かに胸が落ち着かなくなる。
大広間。
主要貴族。
王宮高官。
学園関係者。
家族。
ルシア。
カルロス。
大勢の前で、第一王子ライル・アースハルトの婚約者として自分の名が正式に告げられる。
考えるだけで心臓が少し速くなる。
けれど、それは逃げたいからではない。
「嫌ではございません」
「本当に?」
「ええ」
今度は迷わず、父の目を見て答えた。
「むしろ楽しみです」
ハロルドの顔が何とも言えないものに変わった。
「……そうか」
「何です、その顔」
「いや。娘が嫁へ近づいていくのを嬉しいと思えばいいのか、寂しいと思えばいいのか、自分でも分からなくなってな」
「まだ婚約です」
「父親には同じだ!」
「昨日も聞きましたわ、その理屈」
「明日も言うぞ!」
「では明後日も?」
「言う!」
「一週間後も?」
「言う!」
「一月後も?」
「いつまで続けるつもりだ!」
とうとうアレクが声を上げて笑った。
「父上、完全に遊ばれてますよ」
「分かっている!」
「でも、昨日より元気そうで安心しました」
「アレクまで何だ!」
朝の食卓へ自然な笑いが広がった。
アマリリアも口元を押さえながら笑い、その間に胸の奥へ溜まっていた重さが少し薄くなるのを感じた。
緊張している。
眠れなかった。
それを家族に知られている。
以前の自分なら、そんなことを見抜かれるだけでも不快だったかもしれない。弱みを知られたように感じ、何でもない顔をして押し通そうとしただろう。
けれど今は、少しくらいなら知られても構わないと思える。
その変化を、自分でも不思議に感じていた。
◇◇◇
午前中、アマリリアは学園へ向かわなかった。
婚約発表前日ということで、王家と学園側の調整により一日の公欠が認められ、最終準備へ集中することになっていた。
王宮へ到着すると、正門前には既に数台の荷馬車が停まっていた。荷台には明日の装花や布、式典用の食器、追加の椅子や小卓まで積まれており、使用人たちが次々と荷物を運び込んでいる。
今回行われるのは、あくまで第一王子の正式な婚約発表である。大規模な婚約披露宴そのものではない。
そう聞いていた。
聞いていたのだが。
門前だけ見ても、とても「小規模」と呼べる準備には見えない。
「多いですわね」
馬車を降りたアマリリアが思わず呟くと、出迎えに来ていたディーンが苦笑した。
「王妃陛下は『かなり抑えた』と仰っております」
「王妃様の『抑えた』を信じるのは危険ですわ」
「最近、私もそう思い始めました」
「ディーン様」
「はい」
「染まりましたわね」
「誰にでしょう」
「王宮に」
「アマリリア様にだけは言われたくありません」
「まあ」
以前なら、ライルの側近という立場を意識して、ディーンはアマリリアに対して一定の距離を保っていた。だが今では、こうして自然に言い返してくる。
それもまた、自分が少しずつ王宮の中へ入り込んでいる証なのかもしれない。
「殿下は?」
「大広間で最終確認をなさっています」
「もう?」
「一刻ほど前から」
「早いですわね」
「殿下も緊張されているのでは?」
「まあ」
アマリリアの口元が僅かに上がった。
「それは確かめなければ」
「楽しそうですね」
「婚約者として心配しております」
「本当に?」
「半分は」
ディーンは何とも言えない顔になったあと、静かに頭を下げた。
「残り半分を聞くのはやめておきます」
「賢明です」
二人はそんな会話をしながら王宮の中へ入っていった。
◇◇◇
大広間の扉が開かれた瞬間、アマリリアは思わず足を止めた。
昨日までは準備途中だった空間が、ほとんど完成している。
高い天井から吊るされた魔石灯には、普段より柔らかな光を広げる薄布の装飾が施され、光そのものが少し青みを帯びて見えた。壁際には王家の紋章とベスター家の紋章を並べた布飾りが掛けられ、中央から壇上へ続く通路には淡い青銀色の絨毯が敷かれている。
両側に置かれた装花も豪華すぎるものではなく、白と淡青を中心に整えられていた。王家の格式を損なうことなく、それでいて威圧感を出しすぎない。その中へ、ベスター家の色合いが無理なく混ざっている。
明日。
この通路を。
自分はライルと並んで歩く。
壇上にはアルベルトとセレーネ。
その一段下へ自分たちが立ち。
多くの人間の前で婚約が正式に告げられる。
昨日まで何度も説明を受けていたはずなのに、完成した会場を目の前にすると、現実味がまるで違った。
「王妃様……」
アマリリアは広間を見渡しながら、思わず小さく呟いた。
「かなり考えてくださったのですね」
「何を?」
突然後ろから声がして、アマリリアは僅かに肩を揺らした。
振り返ると、ライルが立っていた。
「殿下」
「珍しい。気づかなかった?」
「広間を見ておりましたので」
「どう?」
「素敵ですわ」
まだ礼装ではなく、普段の王族服姿だったが、よく見ればライルの目元には僅かな疲れが残っている。
「母上、昨日の夜まで花の位置を変えてた」
「やはり」
「『アマリリアが入った瞬間に、一番綺麗に見えるように』って」
アマリリアは少し目を丸くした。
「私のために?」
「一応、俺の婚約発表でもあるんだけど」
「殿下は普段から王宮で見慣れられておりますので」
「その理屈、ちょっと寂しいな」
「では殿下も綺麗に見えるように整えられていると思いますわ」
「取ってつけたように言うな」
アマリリアは小さく笑い、そのまま広間の中央へ歩いていく。
「殿下」
「何?」
「緊張しております?」
「何で来てすぐそれを聞くんだ」
「ディーン様が」
「ディーン」
少し離れた場所に控えていた側近が、すっと視線を逸らした。
「私は何も申し上げておりません」
「言ったんだな」
「『殿下も緊張されているのでは』と推測しただけです」
「それを本人へ伝えたなら同じだろ」
アマリリアは楽しそうに二人を眺めたあと、改めてライルへ視線を戻した。
「では、違います?」
ライルは一瞬だけ強がろうとしたように見えた。
だが。
すぐに諦める。
「……緊張してる」
「まあ」
「嬉しそうにするな」
「私もですので」
ライルの顔が少し変わった。
「君も?」
「昨夜、少し眠れませんでした」
「本当に?」
「そこまで驚かれます?」
「だって君、いつもこういう時も平気な顔してるだろ」
「殿下もでしょう?」
「俺も?」
「ええ。昨日まで随分余裕そうに見えましたわ」
二人はしばらく互いの顔を見た。
どちらも。
本当は。
緊張していた。
「同じですわね」
「また?」
「最近、多いですわね」
「婚約者だから?」
「まあ。先に使われました」
「便利だな、この言葉」
「私が先に見つけたのですが」
「もう共有でいいだろ」
軽い会話。
それだけで。
先ほど広間を見た瞬間に胸へ落ちた重さが、ほんの少し和らいだ。
自分だけが緊張しているわけではない。
ライルも同じ。
明日、一緒に壇上へ立つ相手も、自分と同じように落ち着かない。
そう思えるだけで、不思議と安心した。
◇◇◇
「二人とも、そこ」
大広間にセレーネの声が響いた。
アマリリアとライルが揃って振り返ると、広間の奥から王妃が歩いてきていた。その後ろにはアルベルトと数名の侍従、礼法担当の女官もいる。
「母上」
「何?」
「今から何をする気ですか」
「最終確認よ」
「昨日もしました」
「今日は会場が完成しているでしょう?」
「……」
「本番と同じ位置でやらなければ意味がないわ」
ライルが天井を見上げた。
「アマリリア」
「はい」
「逃げない?」
「王妃様から?」
「うん」
「無理です」
「即答」
「殿下が先に捕まりますもの」
「見捨てる気か?」
「一緒に緊張する約束ですので、最後までは付き合います」
「そこは付き合ってくれるんだ」
セレーネがパンッと手を叩いた。
「二人とも早く入口へ」
「はい」
「今行きます」
結局、二人は素直に広間の入口まで戻された。
本番と同じ位置へ並び、アマリリアはライルの腕へそっと手を添える。
昨日より自然だった。
以前のように袖を強く掴むこともない。
「上手くなった」
歩き始めた直後、ライルが小声で言った。
「当然ですわ」
「練習した?」
「昨日から何度か想像しました」
「それを練習って言うんじゃ」
「殿下」
「何?」
「前を見てくださいませ」
「君が話しかけたんだろ」
二人の小声が広い空間へ思った以上に響いたらしい。
「本番でも、そのくらい自然に歩ければ十分よ」
遠くにいるセレーネから声が飛んできた。
「母上!」
「聞こえておりますの?」
「この広間、声がよく響くのよ」
「先に言ってくださいませ!」
アルベルトが愉快そうに笑った。
「明日はそこまで話せないぞ」
「父上まで」
「今のうちに楽しんでおけ」
アマリリアまで思わず吹き出した。
笑ったことで肩から余計な力が抜ける。
それから改めて姿勢を整え、二人は青銀色の絨毯の上を並んで歩いた。
一歩。
また一歩。
明日なら。
この両側に人が並ぶ。
視線が集まる。
自分の名が呼ばれる。
そして壇上で、アルベルトが正式に宣言する。
『第一王子ライル・アースハルトと、アマリリア・ベスターの婚約をここに認める』
その瞬間を想像した途端、胸が強く鳴った。
アマリリアは無意識に指へ力を込めていたらしい。
「アマリリア」
隣から小さな声がする。
「何でしょう」
「手」
「え?」
「また袖を掴んでる」
見ると、確かに指先がライルの袖を少し摘んでいた。
「……」
「緊張した?」
「少し」
「うん」
ライルは笑わなかった。
からかいもしない。
ただ、アマリリアが添えている腕をほんの少しだけ自分の方へ寄せた。
「大丈夫」
「はい」
「明日も俺がいる」
アマリリアは思わずライルを見た。
彼は前を向いたまま。
でも。
その横顔は。
真面目だった。
「殿下」
「何?」
「そういうことを、今言われますと」
「困る?」
「かなり」
「でも」
「何です?」
「やめない」
アマリリアは一瞬、目を大きくした。
少し前なら、自分が同じことを言ってライルを困らせる側だったのに。
「……本当に強くなりましたわね」
「君相手だけ」
「十分です」
アマリリアが小さく笑うと、袖を掴んでいた指から自然に力が抜けた。
「そこ」
セレーネが満足そうに頷く。
「明日もそのくらいで」
「王妃様」
「何?」
「どこから見ておりますの?」
「最初から全部」
「……」
「いい関係ね」
今度はライルが顔を覆った。
「母上、お願いだから」
「何?」
「明日は茶化さないで」
「当然でしょう?」
「本当に?」
「正式な場よ」
「ならいいけど」
「終わったら茶化すわ」
「やっぱり!」
広間のあちらこちらで、使用人たちが笑いを堪える気配がした。
◇◇◇
最終確認が終わる頃には、昼を少し回っていた。
アマリリアとライルは王宮の私的な食堂へ移動し、アルベルトとセレーネを交えて遅めの昼食を取ることになった。
明日の式典を考慮して料理は軽めに整えられており、温かな野菜のスープ、香草を添えた白身魚、柔らかなパン、数種類の果実が並んでいる。
アマリリアは魚を少し口へ運んだあと、ふと思い出した疑問を口にした。
「陛下」
「何だ?」
「明日の発表では、私も何かお話しするのでしょうか」
「する」
アルベルトが当然のように答えた。
アマリリアの手が止まった。
向かいではライルも同時に顔を上げている。
「……聞いておりません」
「今言った」
「陛下」
「冗談だ」
「あなたまで遊ばないでください」
セレーネが夫を軽く睨む。
「最近ライルが楽しそうだから、少し気持ちが分かってな」
「父上」
「悪かった」
国王は少し笑ってから、今度は真面目に説明を続けた。
「長い挨拶ではない。私が正式に婚約を発表したあと、ライルと君から一言ずつ話してもらう」
「何をお話しすれば?」
「決められた文句はない」
「自由なのです?」
「そうだ」
今度はアマリリアだけでなく、ライルの表情まで固まった。
「父上」
「何だ」
「それ、前日に言う?」
「前日に考えた方が、余計な飾りが入らなくていい」
「王家って時々雑では?」
「大切なところだけ本人たちへ任せるのよ」
セレーネが穏やかに笑った。
「婚約申請の時、理由を自分の言葉で書いたでしょう?」
「はい」
「明日も同じ。王家へ入ることが名誉だとか、国のために尽くすとか、立派な言葉を並べなくてもいいの。自分たちが選んだ婚約だと伝われば、それで十分よ」
アマリリアは少しだけ考え込んだ。
「文章を用意しても?」
「もちろん。でも、丸暗記はおすすめしないわ」
「なぜ?」
「ライルが途中であなたの顔を見たら、全部飛ぶかもしれないから」
「母上!」
「まあ」
「アマリリアも納得するな!」
アマリリアは笑ったものの、頭の中では既に明日の言葉を考え始めていた。
王家の一員として。
第一王子を支える者として。
国へ尽くす。
王家の名に恥じぬよう。
いくらでも立派な言葉は思いつく。
けれど。
それが。
本当に明日言いたいことなのか。
考えるほど、違う気がした。
「殿下」
「何?」
「何をお話しします?」
「今それ聞く?」
「参考に」
「絶対真似する気だろ」
「いたしません」
「本当に?」
「良い部分だけ参考にします」
「真似するってことじゃないか!」
セレーネとアルベルトが同時に笑った。
◇◇◇
午後、アマリリアはいったんベスター伯爵家へ戻った。
明日の朝は早い時間から王宮へ入り、そこで本格的な身支度をすることになっている。そのため今日はできるだけ早く休むよう、王妃からもライルからも念を押されていた。
自室へ戻ると、机の上にはセレーネから渡された例の小箱が置かれていた。
婚約発表当日まで開けないこと。
そして。
ライルと一緒に開けること。
約束は守っている。
もちろん。
守っているのだが。
「……気になりますわね」
椅子へ腰を下ろし、箱をじっと見つめる。
触るだけなら問題ない。
持ち上げても問題ない。
重さから中身を想像するくらいなら。
いや。
ほんの少し蓋を浮かせて。
「お嬢様」
突然、背後から声がした。
「何です?」
アマリリアが振り返ると、窓際にゼインが立っていた。
「いつからそこに?」
「お嬢様が『ほんの少し蓋を浮かせるくらいなら』とお考えになった辺りから」
「心まで読まないでくださいませ」
「顔に出ておりました」
「皆様、最近そればかりですわね」
ゼインは僅かに笑いながら机の前まで進んだ。
「明日ですね」
「ええ」
「ご婚約、おめでとうございます」
アマリリアは少しだけ目を丸くした。
「ゼインがそれを言うのです?」
「私でも言います」
「てっきり殿下をもう少し試すと仰るかと」
「十分見ました」
「まあ」
「お嬢様が一人で勝手に動こうとした時に止められる方は、とても貴重です」
「そこですの?」
「重要です」
「私はそこまで無茶では」
アマリリアが言いかける。
ゼインは黙って見ている。
「何です、その目」
「何も」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「では」
ゼインは少しだけ声を改めた。
「明日は黒装束を大広間の中へ潜ませません」
「なぜです?」
アマリリアの表情がすぐに変わる。
「王宮の警備で十分だからです」
「ですが」
「お嬢様」
いつもの軽い調子が消えた。
「明日は守る側ではなく、祝われる側でいてください」
アマリリアはすぐには返事ができなかった。
「何か起きる前提で入り口や窓、招待客の動きを確認する必要はありません。王宮近衛がおります。ディーン様もおります。私たちも王宮の外周では通常通り動きます」
「ゼイン」
「はい」
「あなたまで、私を休ませる側へ回るのですね」
「殿下の影響かもしれません」
「悪影響ですわ」
「私は良い影響だと思っております」
アマリリアは小箱の蓋へ触れていた指をゆっくり離した。
「分かりました」
「本当に?」
「皆様、どうして私をそこまで信用なさらないのです?」
「実績がございますので」
「殿下と同じことを!」
「事実です」
アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。
だが。
やがて。
諦めたように笑う。
「明日は何もしません」
「その言い方は少し怪しいですね」
「ゼイン」
「失礼しました」
アマリリアは窓の外へ視線を向けた。
夕方へ向かう空はまだ明るく、庭では使用人たちが明日の外出準備を進めている。
「でも」
「はい」
「明日だけは」
少し考え。
アマリリアは静かに言った。
「殿下の隣にいることだけに集中してみます」
ゼインはほんの僅かに目を細めた。
「それでよろしいかと」
◇◇◇
夕食を終えたあと、アマリリアは自室へ戻り、明日の挨拶を考えるため机へ向かった。
紙を置き。
ペンを持つ。
ところが。
書けない。
「王家の一員となる者として……」
違う。
「第一王子殿下をお支えし、この国のために……」
間違いではない。
けれど。
何か固い。
「このたびの素晴らしいご縁を……」
「違いますわね」
紙を丸める。
二枚目。
三枚目。
机の端へ失敗した紙が増えていく。
こんなことは珍しかった。
学園の論文も。
王妃教育で出された課題も。
領地運営の報告書も。
書く内容に困ったことなどほとんどない。
なのに。
自分の気持ちを。
大勢の前で。
言葉にする。
それだけで、急に何を書けばよいのか分からなくなる。
コンコン、と控えめなノック音がした。
「どうぞ」
扉を開けて入ってきたのはハロルドだった。
「お父様?」
「まだ起きていたのか」
「まだそれほど遅くございません」
「何をしている」
ハロルドの視線が、机の上に積まれた丸めた紙へ向く。
「明日の挨拶を考えております」
「お前が書けないのか?」
「珍しいでしょう?」
「熱でもあるのか」
「お父様」
「冗談だ」
ハロルドは少し笑いながら机の近くまで来た。
「何を言おうとしている」
「それが分からないのです」
「思っていることを言えばいいだろう」
「お父様まで簡単に仰いますわね」
「難しく考えるから分からなくなるんじゃないか?」
アマリリアが顔を上げる。
「どういう意味です?」
「お前は」
ハロルドは少し考え、やがて苦笑した。
「最初、あの殿下を利用しようとした」
「随分はっきり言いますわね」
「事実だろう」
「ええ」
「それが今は、本人を選んだ」
「……はい」
「なら、それを言えばいい」
アマリリアは数秒、父の顔を見つめた。
「そのまま?」
「何が悪い」
「王家の正式な婚約発表ですわよ?」
「だから何だ。綺麗な嘘を並べるより、よほどいいだろう」
アマリリアはしばらく何も言わなかった。
まさか。
この父から。
そんな言葉を聞くとは思わなかった。
「お父様」
「何だ」
「今日は格好いいですわね」
「今日はとは何だ!」
アマリリアはとうとう笑った。
「ありがとうございます」
「……ああ」
ハロルドは少し照れたように視線を逸らす。
そして扉へ向かいかけたところで、また足を止めた。
「リリア」
「はい」
「明日」
少し言葉に詰まる。
「私が泣いても笑うなよ」
アマリリアの口元がすぐに上がった。
「まだ泣くと決まっておりませんわ」
「絶対泣く前提で話をするな!」
「兄様も殿下も同じ予想です」
「全員覚えてろ!」
「楽しみにしております」
「お前は本当に!」
最後まで文句を言いながら、ハロルドは部屋を出ていった。
扉が閉じる。
室内へ静けさが戻る。
けれど、アマリリアの顔には少しだけ笑みが残っていた。
新しい紙を一枚取る。
今度は。
立派な挨拶を書こうとするのをやめた。
ペン先を紙へ置く。
『私は、最初から殿下との婚約を望んでいたわけではございません。』
書いたあと、自分で少し笑った。
「王妃様に怒られますかしら」
だが。
消さない。
続ける。
『けれど、今は自分の意思で、ライル・アースハルト殿下の隣へ立つことを望んでおります。』
そこまで書いたところで、アマリリアは手を止めた。
これでよいのかもしれない。
取り繕わない。
最初を否定しない。
それでも。
今は違う。
自分で選んだ。
それだけが伝わればいい。
アマリリアは紙を一度読み返し、今度は丸めずに机の端へ置いた。
◇◇◇
夜。
寝台へ入ったあとも、アマリリアはなかなか眠れなかった。
昨夜と同じ。
けれど。
少し違う。
不安だけではない。
明日、ライルは完成した濃紺の礼装を着る。
自分は青銀色のドレスへ袖を通す。
セレーネから預かった小箱も、一緒に開ける。
王宮の大広間へ入り。
父と兄がいる。
ルシアもいる。
カルロスもいる。
大勢の前で。
自分たちは正式な婚約者になる。
考えるほど、眠気より胸の高鳴りの方が強くなっていった。
アマリリアは一度寝返りを打つ。
枕元には、小さな魔導通信具が置かれている。
手を伸ばせば、ライルへ連絡できる。
でも。
この時間。
もう寝ているかもしれない。
明日は殿下だって早い。
迷惑では。
アマリリアは通信具へ手を伸ばし。
やめた。
少しして。
また伸ばす。
やめる。
その時だった。
通信具が、淡い光を灯した。
「……まあ」
アマリリアはすぐに手を伸ばした。
「殿下?」
『起きてた?』
「起きておりました」
『やっぱり』
「なぜ分かりますの?」
『俺も眠れないから』
アマリリアは思わず小さく笑った。
「一緒ですわね」
『うん』
少しだけ沈黙が流れる。
けれど。
繋がっている。
それだけで。
先ほどまでの静かな部屋が。
少し違って感じる。
「殿下」
『何?』
「明日、緊張しております?」
『かなり』
即答だった。
「私もです」
『知ってる』
「なぜ?」
『君も、こっちへ連絡しようか迷ってただろ』
アマリリアは通信具を見つめた。
「……」
『図星?』
「殿下」
『何』
「最近、本当に私のことが分かるようになりましたわね」
『婚約者だから』
アマリリアは一瞬黙った。
「取られました」
『早い者勝ち』
「殿下も随分と強くなりましたわ」
『君のせい』
夜の静かな部屋に、通信具から届くライルの声だけが小さく響く。
それが。
不思議なくらい。
安心する。
「殿下」
『何?』
「明日、私が途中で動けなくなりましたら」
『手を握る』
「まだ何も言っていないのに」
『昨日から約束してるだろ』
「では」
アマリリアは少しだけ息を吸った。
「殿下が動けなくなりましたら」
『君が握ってくれる?』
「ええ」
『なら大丈夫』
短い言葉だった。
でも。
胸の奥で騒いでいた何かが。
ゆっくり静かになっていく。
「おやすみなさいませ、殿下」
『うん』
そこで通信が終わると思った。
けれど。
少しの間のあと。
『アマリリア』
「はい?」
ライルの声が少しだけ真面目になる。
『明日』
「はい」
『隣にいてくれて、ありがとう』
アマリリアはすぐには答えられなかった。
胸の奥が。
温かい。
でも。
少し悔しい。
「……殿下」
『うん』
「それは明日、私が言おうと思っておりましたのに」
『先に言った』
「ずるいですわ」
『早い者勝ち』
「またそれです?」
二人で小さく笑った。
「でしたら」
アマリリアは布団の中で身体の力を抜き、ゆっくり目を閉じた。
「明日は別のことを申し上げます」
『何?』
「秘密です」
『気になる』
「王妃様と同じですわ」
『明日まで?』
「明日まで」
『分かった』
ライルの声も少し柔らかくなる。
『おやすみ、アマリリア』
「おやすみなさいませ、殿下」
通信の光が消えた。
部屋へ静けさが戻る。
けれど今度は、先ほどまでのような孤独な静けさではなかった。
正式婚約発表まで、あと一日。
逃げるために始めた関係が。
明日。
大勢の人々の前で、本当の婚約として認められる。
怖くないわけではない。
緊張しないわけでもない。
けれど。
隣に立つ相手も。
同じように眠れないほど緊張している。
自分が動けなくなったら、手を握ると言ってくれた。
彼が動けなくなったら、自分が握ればいい。
一人で完璧に立つ必要などない。
そう思えた途端。
身体から少しずつ力が抜けていった。
アマリリアは目を閉じる。
そして今度こそ。
明日。
青銀色のドレスを着て。
ライルの隣へ立つ自分を思い浮かべながら。
ゆっくりと眠りへ落ちていった。




