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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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26/42

第26話 婚約発表まであと二日、今度は王家の婚約者として噂ではなく名前を見られることになりました



 正式な婚約発表まで、あと二日。


 翌朝、アマリリアがルナティック王立学園へ到着したとき、正門周辺の空気は昨日までとは明らかに違っていた。


 馬車から降りた瞬間、何人もの生徒がこちらを見る。以前にも視線を集めたことは何度もある。ルシアへの嫌がらせを命じた悪役令嬢ではないかと噂されていた時期など、廊下を歩くだけで周囲からひそひそと声が聞こえたものだ。


 けれど、今朝向けられているものは、あの頃の敵意や疑念とは違う。


 好奇心があり、驚きがあり、その中に妙な期待まで混じっている。


「おはようございます、アマリリア様」


「おはようございます」


「ご、ごきげんよう」


「ごきげんよう」


 普段なら軽く会釈するだけで通り過ぎる下級生まで、今日は妙に丁寧に声をかけてくる。アマリリアはいつも通り挨拶を返しながら校舎へ向かったが、その隣を歩くライルも当然のように同じ視線を集めていた。


「殿下」


「何?」


「私、何か変です?」


「いや」


「では、なぜ皆様こちらを見ていらっしゃるのでしょう」


 アマリリアが本当に分からないという顔をすると、ライルは半分呆れたように眉を下げた。


「本当に分からない?」


「半分ほどは」


「じゃあ、言わなくてもいい気がするけど」


「殿下」


「はいはい。昨日、俺たちは王宮前で手を繋いだまま歩いていた」


「ええ」


「侍従も近衛も御者も見てた」


「ええ」


「それだけならまだしも、昨日の夜には王宮から主要貴族へ婚約発表を行うという事前通知が出た」


 その言葉で、アマリリアの足が止まった。


「いつです?」


「昨日の夜」


「聞いておりません」


「俺も今朝知った。母上いわく、『まだ正式発表ではないのだから、本人たちへいちいち報告しなくてもいいでしょう』だそうだ」


「王妃様……」


 二人揃って同じ方向へ小さくため息をついた。


 婚約準備が進むほど、セレーネの仕事の速さに驚かされる。アマリリア自身も行動の速い方だという自覚はあるが、王妃のそれは人と組織を同時に動かす分だけ規模が違った。


 そこへ、前方から一人の令嬢が小走りで近づいてきた。


「アマリリア様!」


「ごきげんよう」


「ご、ごきげんよう!」


 同学年の女子生徒だが、普段はそれほど親しく話す間柄ではない。今日は頬を少し赤くしながら、アマリリアとライルを何度も見比べている。


「どうされました?」


「その……正式にご婚約されるというお話は、本当なのでしょうか?」


 その質問が聞こえた瞬間、周囲のざわめきが一段小さくなった。


 こちらなど気にしていないふりをしていた生徒たちまで、明らかに耳だけは向けている。


 アマリリアはほんの少し考えた。


 正式発表前なのだから、昨日までなら「王家からの発表をお待ちください」で終わらせていただろう。けれど今は、それだけで逃げる必要もない気がした。


「正式な発表は二日後、王家より行われます」


「では……」


 令嬢の目が大きくなる。


 アマリリアは横にいるライルを見た。ライルもこちらを見返し、ほんの僅かに笑う。


 それで十分だった。


「ええ。私たちは、そのつもりですわ」


 途端に、周囲の空気が一気に動いた。


「やっぱり!」


「本当なんだ!」


「では、正式に……!」


 質問をした令嬢自身が周囲の反応に驚き、慌てて口元を押さえる。


「す、すみません! まだ発表前ですのに」


「私が答えたのですから、構いませんわ」


 アマリリアが微笑むと、隣のライルが少し笑いながら補足した。


「ただし、内容を勝手に増やさないでください」


「増やす?」


「たとえば『殿下が学園の屋上で跪いて求婚した』などですわね」


「アマリリア」


「何です?」


「なぜ、そんな具体的な例を出すんだ」


「ありそうな噂を事前に防ごうかと」


「逆に広がるから!」


 案の定、周囲から笑いが漏れた。


 先ほどまで遠慮していた生徒たちも、それをきっかけに少しずつ声をかけてくる。


「おめでとうございます」


「まだ正式発表前ですわ」


「でも、お二人がそのつもりなら」


「ありがとうございます」


「殿下も、おめでとうございます」


「ありがとう」


 ライルも少し照れながら返していた。


 そんな光景を眺めながら、アマリリアは胸の奥に不思議な感覚が広がっていくのを感じていた。


 数日前まで、自分はこの学園で悪役令嬢と呼ばれかけていた。ルシアを虐め、カルロスへ未練を残し、それなのに第一王子へ取り入って王家の力まで利用しようとしている女だと。


 同じ学園。


 同じ人数の視線。


 けれど今は、その意味がまるで違う。


 誰かに作られた噂ではなく、自分たちが選んだ関係を見られている。


「アマリリア」


「はい」


「また考え込んでる」


「少し」


「何?」


 アマリリアは周囲へ軽く目を向けた。


「視線というものは、同じ人数から向けられても、これほど違って感じるものなのですね」


 ライルはすぐに意味を理解したらしい。


「あの頃と?」


「ええ」


「今も怖い?」


 アマリリアは少し考え、それから素直に答えた。


「今は、恥ずかしいです」


「そっち?」


「はい」


 ライルは少し笑ったあと、ほんの僅かに距離を詰めた。


「じゃあ、慣れるしかないな」


「殿下も?」


「俺も」


「でしたら、今日も一緒に緊張いたしましょう」


「それ、昨日から気に入ってる?」


「悪くありませんので」


「変な合言葉だな」


「婚約者らしいでしょう?」


「どうだろう」


 二人はそんな話をしながら、教室へ向かった。


          ◇◇◇


 その日の午前中、アマリリアは久しぶりにまとまった時間を授業へ使った。


 婚約準備を理由に王宮へいる時間が増えているとはいえ、彼女はまだ学園の生徒でもある。王家へ入ることになったからといって、学業を疎かにするつもりなど少しもなかった。


 ただし。


 本人にそのつもりがあっても、周囲まで平常運転というわけにはいかなかった。


「それでは、前回の続きから始めます」


 教師が教壇へ立ち、生徒たちも一斉に教科書を開く。アマリリアも筆記具を手に取り、最初の数分は何事もなく授業が進んだ。


 ところが。


「アマリリア様」


 隣の席から小さな声がする。


「何です?」


「ドレスはもう決まりました?」


「授業中ですわよ」


「あとで教えてください」


「考えておきます」


 アマリリアが小声で返すと、今度は前の席の令嬢が僅かに振り返った。


「せめて色だけでも」


「前を向いてくださいませ」


 教壇からわざとらしい咳払いが聞こえた。


「そこ」


 三人同時に姿勢を正した。


「申し訳ございません」


「聞きたい気持ちは分かりますが、婚約発表は試験範囲には入りません」


 一瞬の静寂のあと、教室全体に笑いが広がった。


 アマリリアまでつられて笑ってしまう。


「ベスター嬢」


「はい」


「あなたも笑っていないで」


「失礼いたしました」


 教師も本気で怒っているわけではないらしく、仕方なさそうに苦笑している。


「正式発表が終わるまで、しばらくこの調子でしょうな」


「申し訳ございません」


「あなたのせいではありません。ただし」


 教師は黒板を軽く指した。


「婚約しても試験は受けてもらいます」


「もちろんです」


「そこは安心しました」


「王家へ嫁ぐ可能性があるからといって、成績を落とすつもりはございません」


「あなたならそう言うと思いました」


 周囲から「さすが」「首席だけは絶対譲る気がない」と小声が上がる。


 アマリリアは聞こえないふりをしながら、少しだけ口元を上げた。


 実際、その通りだった。


 ライルと婚約する。


 王家へ入る可能性がある。


 生活も立場も大きく変わっていく。


 だからといって、自分のすべてまで別人へ変える必要はない。


 好きな学問も。


 負けたくないと思う気持ちも。


 自分のままでいていい。


 以前なら王家へ入ると聞くだけで、自分の人生を全部奪われるように感じただろう。


 今は少し違う。


 変わるものと。


 変えなくてよいもの。


 その両方があっていいのだと思えるようになっていた。


          ◇◇◇


 昼休みになると、アマリリアは食堂ではなく、中庭の端にある小さな休憩所へ向かった。


 理由は単純だった。


 今日の食堂へ行けば、昼食を食べるより質問に答えている時間の方が長くなる。


 ライルも同じことを考えたらしく、少し遅れて二人分の軽食を持って現れた。


「逃げましたわね」


「君もだろ」


「私は戦略的撤退です」


「俺もそういうことにする」


 木陰に置かれた石卓へ、サンドイッチと果実水が並べられる。


 春の終わりへ近づいた風は少し暖かく、葉の間から落ちる日差しが卓上で揺れていた。校舎の方からは食堂へ向かう生徒たちの賑やかな声が聞こえるが、この場所まで足を運ぶ者は少ない。


「静かですわね」


「たまにはいいな」


 アマリリアは一口食べたあと、何気なく校舎の方を見た。


「殿下」


「何?」


「婚約発表が終わったら、もっと見られるのでしょうか」


「多分」


「王宮でも?」


「確実に」


「学園でも?」


「今以上には」


「街でも?」


「顔を知られれば、そうなると思う」


 アマリリアの手が止まった。


 ライルがすぐにその変化へ気づく。


「嫌になった?」


 声に少し心配が混じっていた。


「いいえ」


 アマリリアはすぐに否定した。


「ただ、思い出したのです。私、市井で穏やかに暮らしたかったのだと」


「知ってる」


「目立たず、誰にも邪魔されず、好きなことをして」


「うん」


「ところが今は、第一王子殿下と婚約」


「はい」


「真逆ですわね」


「はい」


「殿下」


「何」


「笑うところではございません」


「笑ってない」


「口元が」


「少しだけ」


 結局、アマリリアも笑った。


「でも」


 風に揺れる木の葉を見上げながら、ゆっくり続ける。


「不思議と、以前ほど嫌ではございません」


「王宮で暮らすことが?」


「全部です」


 ライルが少し驚いた顔をする。


「それは」


「殿下がいるから、と申し上げたら」


 今度はライルが黙った。


「また困ります?」


「困る」


「では言いません」


「いや」


 即座に返ってくる。


「言って」


「まあ」


「そこまで振っておいてやめるなよ」


 アマリリアは楽しそうに笑った。


「殿下がいるからです」


 ライルがこちらを見る。


「目立つことも、王家へ入ることも、以前ほど嫌ではございません」


 いつものように茶化すこともできた。


 けれど。


 今は。


 少し真面目に伝えたかった。


 ライルはしばらく黙っていたが、やがて少し照れたように笑った。


「俺も」


「何です?」


「第一王子としての婚約って、もっと面倒なだけのものだと思ってた」


「実際、面倒ですわ」


「うん」


「書類も多いですし」


「うん」


「衣装合わせもございますし」


「母上もいるし」


「そこは否定いたしません」


「でも」


 ライルは手元の果実水へ一度視線を落とした。


「君なら、一緒に面倒がれそう」


 アマリリアは数秒止まった。


「殿下」


「何?」


「それ、かなり変な口説き文句ですわ」


「やっぱり?」


「ええ」


「駄目だった?」


「いいえ」


 少し考え、それから笑う。


「とても殿下らしいです」


「褒められてる?」


「かなり」


「ならいい」


 華やかな言葉ではない。


 きっと恋物語の主人公が使うような台詞でもない。


 けれど。


 一緒に面倒がる。


 一緒に困る。


 一緒に考える。


 たぶん二人には、それくらいがちょうどいい。


 アマリリアはそんな未来なら、それほど悪くないと思った。


          ◇◇◇


 午後の授業を終えたあと。


「アマリリア様!」


 廊下を歩いていたアマリリアは、後ろから聞こえた声に足を止めた。


「ルシアさん」


「少しよろしいですか?」


「もちろん」


 ルシアは昨日より顔色がよかった。まだ疲れは完全には抜けていないようだが、制服もきちんと整えられ、歩き方にも以前の落ち着きが戻り始めている。


 二人は通行の邪魔にならないよう廊下の端へ寄った。


「今日は一日いらしたのです?」


「はい。最初は午前だけにしようと思っていたのですが、思っていたより大丈夫でした」


「無理してません?」


「大丈夫です」


 そこまで言って、ルシアは一瞬止まった。


「……今回は本当に」


 アマリリアが目を細める。


「皆様、最近私の真似をなさいますね」


「殿下の気持ちが少し分かりました」


「まあ」


「すみません」


「いいえ。私も少し反省いたしました」


 二人で小さく笑う。


 少し前なら、こうして何気なく笑い合う関係になるとは思っていなかった。


「それで」


 ルシアが少し緊張したように手を重ねた。


「お話がありまして」


「何でしょう」


「婚約のことです」


「はい」


 ルシアの表情が柔らかくなる。


「おめでとうございます」


 アマリリアは一瞬、言葉を失った。


「まだ正式発表前ですけれど」


「でも、アマリリア様が自分で選んだのでしょう?」


「……はい」


「でしたら」


 ルシアは丁寧に頭を下げた。


「おめでとうございます」


 胸の奥が、少し温かくなる。


「ありがとうございます」


「それから、もしよろしければ」


「はい?」


「婚約のお祝いを、何かお渡ししてもよろしいでしょうか」


「まあ。もちろんですわ」


「本当に?」


「なぜ断ると思いました?」


「王家の婚約ですし、私なんかが個人的にお渡ししてよいのかと」


「私へのお祝いでしょう?」


「はい」


「なら、ルシアさんが選んでくださるものなら何でも嬉しいです」


 ルシアは安心したように笑った。


「よかった」


「何をくださるのです?」


「秘密です」


「王妃様まで同じことを仰るのに」


「王妃様?」


「小箱をいただきまして。婚約発表の日まで開けてはいけないそうです」


「そうなのですね」


 ルシアが少し笑う。


「では、私も秘密にします」


「余計に気になりますわ」


「あと三日ですから」


「二日です」


「あ」


 ルシアが目を丸くする。


「もう二日」


「ええ」


「早いですね」


「本当に」


 アマリリア自身、口にして改めて気づいた。


 まだ先だと思っていた婚約発表が、もう明後日に迫っている。


「ルシアさん」


「はい」


「当日、王宮へ来ていただけません?」


 ルシアの目が大きくなった。


「私が?」


「はい。もしよろしければ」


「でも、正式な招待状が」


「待って」


 後ろから声がした。


 アマリリアが振り返ると、ライルが歩いてくる。


「殿下」


「何だ」


「驚かせないでくださいませ」


「普通に来ただけなんだけど」


 ライルは苦笑しながらルシアへ向き直った。


「ルシア嬢」


「はい」


「母上から招待状を預かってる」


「え?」


「今日渡しておいてくれと言われた」


 ライルが懐から王家の紋章が入った封筒を取り出す。


 ルシアは驚いたまま、それを両手で受け取った。


「私に?」


「うん」


「どうして」


 ライルはアマリリアを見た。


「アマリリアが呼びたがると思ったって」


 今度はアマリリアが黙る番だった。


「王妃様……」


「完全に読まれてる」


「最近、皆様に行動を読まれすぎでは?」


「君が前より分かりやすくなったんじゃない?」


 アマリリアは少し考えた。


 以前なら、何を考えているのか誰にも悟らせないことを強さだと思っていた。


 けれど今は。


 自分が何を望むのか。


 何を嫌がるのか。


 何を怖がっているのか。


 それを分かってくれる人がいることが、少し安心に変わっている。


「悪いことではないかもしれませんわね」


「珍しく素直」


「殿下」


「ごめん」


 アマリリアは改めてルシアを見る。


「来ていただけます?」


 ルシアは招待状を胸元へ抱き、小さく頷いた。


「はい」


「本当に?」


「見たいです」


「何を?」


 ルシアは少しだけ悪戯っぽく笑った。


「アマリリア様が緊張するところを」


「ルシアさん」


「すみません」


「殿下」


「何?」


「似ましたわ」


「君に?」


「ええ」


「悪影響」


「殿下」


 三人の笑い声が廊下へ広がった。


 近くを歩いていた生徒たちがちらりとこちらを見る。


 けれど。


 もう。


 嫌な視線ではなかった。


          ◇◇◇


 その日の夕方、アマリリアは王宮へもう一度立ち寄ることになった。


 目的は、婚約発表へ招く客の最終確認である。


 王宮の中規模会議室には、セレーネ、アルベルト、ライル、アマリリア、そして宰相グレイアスが集まっていた。


 長机の上には何十枚もの名簿が並んでいる。


 王族と主要公爵家。


 侯爵家。


 各省の高官。


 軍上層部。


 学園関係者。


 ベスター家。


 メイベル家。


「多いですわね」


 アマリリアが思わず呟くと、セレーネが当然のように答えた。


「これでもかなり絞ったのよ。披露宴ではないのだから」


「これで?」


「正式婚約発表としては少ない方だ」


 アルベルトまで穏やかに続ける。


「何しろ、王位継承順位第一位の婚約だからな」


 その言葉に、アマリリアの指が止まった。


 もちろん。


 ライルが第一王子であることも。


 王位継承順位第一位であることも。


 最初から知っている。


 それでも改めて言葉にされると、その意味が重く胸へ落ちてきた。


 自分が婚約する相手は、ただ好きになった青年ではない。


 この国の未来を背負う可能性が最も高い王子。


 そして。


 その隣へ立つということは。


 自分も。


 その未来から完全には逃れられない。


「アマリリア」


 隣のライルがすぐに気づいた。


「大丈夫?」


「ええ」


「本当に?」


 以前なら反射的に「もちろん」と言っていた。


 けれど。


 アマリリアは一度息を吸い、正直に答えた。


「今回は、少しだけ重みを感じました」


 アルベルトがアマリリアを見る。


「それでいい」


「陛下?」


「何も感じない者の方が困る。王家へ入るということを、楽しさだけで考える必要はない。不安も責任もある」


「はい」


「だが」


 国王は一度、自分の息子へ視線を向けた。


「一人で背負う必要もない」


「父上」


「それが婚約だろう」


 アマリリアはその言葉をゆっくり受け止めた。


 以前の自分なら。


 王家の責任も。


 人の期待も。


 すべて自分だけで処理しようとしたかもしれない。


 でも。


 隣を見る。


 ライルがいる。


「ありがとうございます」


 素直に頭を下げると、少し離れた位置にいたセレーネが柔らかく笑った。


「今日は陛下が格好いい日ね」


「今日は?」


 アルベルトが眉を上げる。


 ライルが思わず吹き出した。


「父上も言われた」


「何を?」


「俺もアマリリアに『今日は格好いい』って」


「まあ」


 セレーネの目が楽しそうに細くなる。


「似た者父子ね」


「母上」


「王妃様」


「何?」


 ライルとアマリリアの声が重なった。


「茶化さないでください」


 会議室に笑いが起こり、グレイアスまで口元を僅かに緩めていた。


 その後も招待客の確認は続いた。


「メイベル男爵家」


「招待済みです」


「ルシア嬢も」


「はい」


「ベスター家は、アレク・ベスター現当主とハロルド前当主」


「はい」


 アマリリアは小さく頷く。


 父が本当に来る。


 昨日までは少し不安だったその事実も、今は素直に嬉しかった。


「次に、ムルール公爵家」


 部屋の空気が僅かに変わった。


 グレイアスが姿勢を正す。


「私とカルロスが出席いたします」


「カルロス様も?」


 アマリリアは少し驚いて聞き返した。


「欠席させる理由はありません」


 グレイアスは落ち着いて答えた。


「それに、自分が壊しかけた縁とは別の、本当に成立した婚約を見ることも、あれには必要でしょう」


 アマリリアは何とも言えない顔になった。


「公爵閣下」


「何でしょう」


「それは少し酷では?」


「甘やかしません」


「強いですわね」


 隣のライルが小声で呟く。


「父親としては正しい気もする」


「殿下」


「何?」


「カルロス様が何か叫び出したら」


「止める」


 即答だった。


「速いですわね」


「実績がある」


 グレイアスが深いため息をつく。


「私も止めます」


「これで二重」


「近衛もいます」


 セレーネが平然と加えた。


「三重ですわね」


「念のため、ディーンにも近くへ立たせる」


「四重!」


 今度はアマリリアまで笑ってしまった。


 グレイアスだけが遠い目をしている。


「言わせませんから」


「よろしくお願いいたします」


「ただ」


 アマリリアは少し考えてから続けた。


「カルロス様へ、無理に祝えとは言わないでくださいませ」


 グレイアスが僅かに目を見開く。


「よろしいので?」


「ええ。私たちが婚約するからといって、カルロス様まで心の底から喜ばなければならない理由はありませんもの」


「しかし」


「祝うかどうかまで、人に決められるものではございません」


 自分で言って。


 少しだけ。


 ルシアのことを思い出す。


 誰かの気持ちを。


 本人より先に決めない。


 それを。


 自分も。


 覚え始めている。


「ただし」


 アマリリアはにっこり笑った。


「叫ばないようにはしてくださいませ」


 ライルが横で吹き出した。


「そこは譲らないんだ」


「当然です。婚約発表の最中にまた『私は貴様とは結婚しない』などと言われましたら」


「俺も嫌だ」


「私も嫌です」


 グレイアスは今度こそ額を押さえた。


「絶対に言わせません」


          ◇◇◇


 名簿の確認が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。


 王都には無数の灯りが点り、王宮の高い窓から眺めれば、地上へ細かな星が散っているようにも見える。


 会議を終えたアマリリアとライルは、王宮の渡り廊下を並んで歩いていた。


「殿下」


「何?」


「今日一日、婚約の話ばかりでしたわね」


「朝からずっとだったな」


「学園でも」


「王宮でも」


「疲れました?」


「少し」


「私もです」


 二人で顔を見合わせ、同時に笑った。


 少しの沈黙が落ちる。


 夜の風が窓の外の木々を揺らし、遠くから王宮警備の鐘が一つ響いた。


「でも」


 アマリリアが静かに言う。


「嫌ではありません」


「俺も」


 短い返事だったが、それで十分だった。


「あと二日」


 ライルが呟く。


「ええ」


「明日が前日」


「はい」


「その次が」


「本番です」


 その言葉を口にしただけで、胸が少し強く鳴った。


「殿下」


「何?」


「王妃様からいただいた箱」


「ああ」


「私、まだ開けておりません」


「偉い」


「褒めてくださいませ」


「偉い」


「もっと」


「すごく偉い」


「殿下」


「昨日と同じ返しになった」


 アマリリアは思わず笑った。


 小箱は今、ベスター家の自室へ大切に保管してある。


「明後日」


「うん」


「一緒に開けるのですよね」


「母上がそう言ってたから」


「忘れないでくださいませ」


「忘れない」


「約束?」


 ライルは少しだけ立ち止まった。


 そして。


 何も言わずに手を差し出す。


「約束」


 アマリリアはその手を見た。


 昨日も。


 今日も。


 何度か触れた。


 以前よりずっと自然になった。


 それでも。


 まだ少し嬉しい。


 アマリリアは自分の手を重ねた。


「では」


「うん」


「明日も」


「一緒に緊張する?」


「ええ」


 アマリリアは微笑んだ。


「前日ですもの」


「今日より緊張しそう」


「殿下が?」


「君もだろ」


「否定はいたしません」


 二人は手を繋いだまま、またゆっくり歩き始めた。


 正式婚約発表まで、あと二日。


 噂の中で勝手に名前を使われていた頃とは違う。


 今度は王家から。


 学園から。


 貴族たちから。


 正式に。


 アマリリア・ベスターという一人の令嬢が。


 ライル・アースハルトの隣へ立つ者として見られることになる。


 その重さを。


 ようやく少しずつ。


 現実として感じ始めていた。


 怖さもある。


 責任への不安もある。


 多くの人に見られることへの緊張もある。


 それでも。


 逃げたいとは思わない。


 むしろ。


 明後日。


 ライルの隣へ立つことを。


 今は。


 少しだけ。


 待ち遠しいと思っていた。

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