第25話 婚約発表まであと三日なのに、王妃様が私たちの距離感まで確認し始めました
正式な婚約発表まで、あと三日。
翌朝の王宮は、アマリリアにとって昨日までとは少し違って見えた。
王宮へ足を運ぶこと自体は、もう珍しくない。ライルの私的な応接室にも、王妃セレーネの部屋にも、国王アルベルトの執務室にさえ何度も出入りしている。それでも「第一王子の協力者」として訪れるのと、「三日後には正式な婚約者として発表される者」として訪れるのとでは、周囲の反応が微妙に違うらしい。
正面玄関から入った直後から、その変化は感じ取れた。
「おはようございます、アマリリア様」
「おはようございます」
「本日も王妃陛下がお待ちでございます」
「ええ、伺っておりますわ」
交わされる言葉そのものは、いつもと大きく変わらない。
けれど、頭を下げる侍女たちの口元がほんの少しだけ緩んでいた。
少し離れた場所では、若い侍女が年長の侍女へ小声で何かを伝え、その直後にこちらへ視線を向けている。目が合った瞬間、二人とも慌てて姿勢を正した。
アマリリアは何も言わずに通り過ぎた。
その隣を歩いていたライルが、少しだけ身体を寄せる。
「気づいた?」
「何にです?」
「あの侍女たち」
「見ておりましたわね」
「やっぱり」
「私、耳は良い方ですので」
「何か聞こえた?」
「『本当にご婚約なさるのね』と」
「……」
「もう一人の方は『殿下があんなに楽しそうなの、初めて見た』と」
「聞かなかったことにして」
「嫌です」
「即答」
ライルが肩を落とした。
アマリリアは少し笑いながら、朝の王宮回廊を歩いていく。
窓の外には薄い雲がかかっていたが、雨の気配はなかった。庭園では朝露を含んだ草木が柔らかく光り、遠くでは王宮騎士たちが朝の訓練を始めている。規則正しい剣戟の音が小さく響き、その合間を縫うように侍従や文官たちの足音も途切れず続いていた。
「殿下」
「何?」
「昨日、お父様と話してくださってありがとうございました」
突然言われ、ライルが少しだけ目を丸くした。
「俺、ほとんど何もしてないけど」
「いてくださいました」
「それ、昨日ルシア嬢も言ってたな」
「必要なのです」
「何が?」
「誰かが隣にいてくださることが」
アマリリアは少しだけ歩調を緩めた。
「以前の私なら、一人で十分だと思っておりました。むしろ誰かに入られる方が邪魔だと」
「それは今でも少し思ってそう」
「殿下」
「ごめん」
完全には否定しきれないところが困る。
「でも、昨日は殿下がいらしたから、お父様の話を最後まで聞けた気がします」
「殴らず?」
「そこを強調なさらないで」
「重要だろ」
「私だって成長しております」
「知ってる」
あまりにも自然に返ってきた。
アマリリアは一瞬、足を止めかけた。
ライルは数歩進んでからそのことに気づき、振り返る。
「どうした?」
「殿下」
「何?」
「そういうのです」
「何が?」
「急に格好いいことを言うの」
「普通に言っただけなんだけど」
「だから困るのです」
「どうすればいいんだよ」
「少し照れてくださいませ」
「要求が難しい」
今度は二人とも笑った。
少し前までなら、こういう会話のあとには必ず「仮の婚約者」という意識がどこかに残っていた。
けれど、今は違う。
三日後には王宮の大広間で、正式な婚約者として隣へ立つ。
そう思っただけで、胸の奥がほんの少し落ち着かなくなった。
◇◇◇
「遅いわ」
王妃セレーネの第一声がそれだった。
「母上、約束の時間より十分早いです」
「気持ちの問題よ」
「理不尽!」
王妃の私的応接室には、既に仕立屋と侍女たちが待っていた。
昨日ライルが選んだ淡い青銀色の布は、試着用に仮の形へ整えられている。まだ本縫いではないものの、身体へ合わせたときの全体像がかなり分かる状態だった。
「アマリリアさん」
「はい」
「こちらへ」
「分かりました」
アマリリアが素直に試着用の台へ向かう。
ライルも当然のようについていこうとして。
「ライル」
「何です」
「あなたはそこ」
セレーネが指差したのは、少し離れたソファだった。
「なぜ?」
「採寸中だから」
「昨日は見ていいって」
「昨日は布よ」
「……」
「今日は身体へ合わせるの」
「母上」
「何?」
「言い方」
アマリリアが思わず吹き出した。
「殿下、顔が赤いですわ」
「君は気にしないの?」
「女性ばかりですので」
「俺もいる」
「だから追い出されるのでは?」
「なるほど」
「納得するな!」
仕立屋の女性たちが笑いを堪えながら作業を始める。
アマリリアの身体へ仮のドレスを合わせ、腰回りや肩の位置を確認する。銀髪との相性を考え、胸元には淡い青色の宝石を使う案が出ているらしい。
「少し肩を上げてくださいませ」
「これくらい?」
「はい。ありがとうございます」
布が整えられるたび、窓から差し込む朝の光が青銀色の表面を滑っていく。
セレーネは満足そうに頷いた。
「やっぱりこれで正解ね」
「とても綺麗ですわ」
「ライル」
「何です?」
「見て」
「見ていいの?」
「今はいいわ」
「さっきとの違いが分からない」
「細かい男ね」
「母上が細かく制限したんでしょう!」
それでもライルは立ち上がり、少し近くまで来た。
アマリリアは仮留めされたスカートを軽く広げてみせる。
「いかがです?」
「似合う」
「昨日と同じ感想ですわ」
「じゃあ」
ライルが少し考える。
「すごく似合う」
「増えただけです」
「難しいな!」
「アマリリアさん」
セレーネが楽しそうに口を挟んだ。
「ライルにそれ以上を求めるなら、もう少し時間をあげて」
「王妃様」
「昔から装飾品にも衣装にも興味が薄いの」
「母上」
「でも昨日、自分から一番似合いそうな色を選んだでしょう?」
「……」
「成長したのよ」
「子供みたいに言わないでください」
「私にはいつまでも子供よ」
ライルが何とも言えない顔になる。
アマリリアはその横顔を見ながら、少し笑った。
「殿下」
「何?」
「私は嬉しかったですわ」
「何が?」
「昨日、殿下がこの色を選んでくださったこと」
ライルが少しだけ黙る。
「なので、先ほどの『すごく似合う』も受け取っておきます」
「なら最初からそう言って」
「少し困っている殿下も見たかったので」
「やっぱり!」
周囲の侍女たちの間から小さな笑いが漏れた。
けれど、その笑いはこれまでのような「第一王子が珍しく困っている」という面白さだけではないように、アマリリアには感じられた。
二人が婚約者になっていく過程を、王宮全体が少しずつ受け入れ始めている。
そんな空気を。
以前の自分なら窮屈だと思ったかもしれない。
今は。
少しだけ。
心地よかった。
◇◇◇
ドレスの仮採寸が終わると、今度はライルの礼装だった。
「なぜ俺まで」
「並ぶのだから当然でしょう?」
セレーネに言われ、ライルは諦めたように仕立屋の前へ立つ。
第一王子用の礼装は、普段の公式行事で使用するものを基礎にしつつ、今回は少しだけ意匠を変えるらしい。深い紺を基調に、アマリリアのドレスと同系色の銀糸を一部へ使う案が出されていた。
アマリリアはソファへ座り、今度は自分がライルを見る側になる。
「殿下」
「何だ」
「緊張しております?」
「してない」
「先ほど私へ聞いた仕返しです」
「そういうことか」
侍従が肩幅を測り、袖口を整える。
普段のライルは学園制服や比較的簡素な王族服でいることが多いため、本格的な礼装へ身を包む姿はアマリリアもほとんど見たことがない。
試着用とはいえ、濃紺の上着が肩へ乗った瞬間。
アマリリアは思わず。
少し。
見入った。
「アマリリア?」
「はい」
「さっきから黙ってるけど」
「見ております」
「分かってる」
「殿下」
「何?」
「格好いいですわね」
ライルの動きが止まった。
「……」
「どうしました?」
「今、普通に言った?」
「ええ」
「可愛いじゃなく?」
「今日は格好いい方です」
「今日はって」
「殿下」
「何」
「耳が赤いです」
「うるさい!」
アマリリアは満足そうに笑った。
セレーネはそんな二人を見ながら、仕立屋へ静かに指示を出していく。
「胸元の銀糸、もう少し増やして」
「畏まりました」
「二人で並んだとき、色が自然に繋がって見えるように」
「王妃様」
アマリリアが反応した。
「同じ意匠を?」
「まったく同じにはしないわ。でも、一目で対になると分かるくらいには」
「素敵です」
「でしょう?」
「母上」
ライルが嫌な予感を覚えたような顔になる。
「何?」
「まだ何か考えてます?」
「当然」
「何を」
「当日の入場」
セレーネが机の上から一枚の進行表を取った。
「二人で入場するでしょう?」
「聞いてます」
「そこで」
王妃の目が妙に楽しそうに細くなった。
「距離感を確認します」
「距離感?」
ライルとアマリリアの声が綺麗に重なった。
◇◇◇
十分後。
二人は王宮の小広間へ移動させられていた。
婚約発表当日に使う大広間ほどではないものの、入場や礼の確認をするには十分な広さがある。床には淡い色の絨毯が敷かれ、奥には本番を想定した小さな壇まで用意されていた。
いるのはセレーネ、侍従長、礼法担当の女官、ディーン。
そして。
なぜかアルベルトまでいる。
「父上」
「何だ」
「なぜここに?」
「面白そうだから」
「国王の答えですか、それ」
「午前の執務は終わった」
「そういう問題じゃない!」
アマリリアは横で笑った。
「殿下、諦めましょう」
「君、さっきから楽しそうだな」
「ええ」
「俺だけ不利じゃない?」
「気のせいです」
「絶対違う」
セレーネが手を叩いた。
「はい。まずは普通に並んで」
二人が並ぶ。
「近い」
言われて、二人とも一歩離れた。
「離れすぎ」
「母上!」
「何?」
「基準をください!」
「婚約者らしく」
「一番分からない!」
礼法担当の女官まで口元を押さえている。
アマリリアは少し考えたあと、自分からライルの隣へ寄った。
肩同士が触れない程度。
けれど、手を伸ばせばすぐに届く。
「このくらい?」
セレーネが頷いた。
「いいわ」
「殿下」
「何?」
「簡単でした」
「君はこういうとき強いな」
「婚約者ですので」
「またそれ」
「便利ですわ」
次は腕を取る練習だった。
ライルが差し出した左腕へ、アマリリアが右手を添える。
「もう少し自然に」
礼法担当の女官から指摘される。
「自然にと言われましても」
「アマリリア様、少し手に力が入りすぎております」
「まあ」
見てみると、確かにライルの袖を僅かに掴んでいる。
「緊張した?」
ライルが小声で聞く。
「少し」
「珍しい」
「殿下」
「ごめん」
「でも」
アマリリアも声を落とした。
「皆様の前で婚約者として歩くと思うと、急に現実味が出てきましたの」
ライルの表情が少し柔らかくなる。
「俺も」
「殿下も?」
「うん」
「平気そうですのに」
「見せてないだけ」
アマリリアが少し目を大きくした。
「同じですわね」
「だから」
ライルは彼女の手が乗っている腕を、ほんの少しだけ自分の方へ寄せた。
「一緒にやればいい」
アマリリアはその横顔を見たあと、少しだけ力を抜いた。
「……はい」
「そこ!」
突然セレーネの声が飛んできた。
二人が同時に振り返る。
「何です、母上」
「今の距離」
「はい?」
「ちょうどいい」
「会話聞いてたんですか!」
「王妃ですもの」
「関係ない!」
アルベルトが笑いを堪えきれず肩を揺らした。
「ライル」
「父上まで!」
「いいじゃないか。自然だったぞ」
「何の評価ですか!」
アマリリアも顔を逸らしながら笑った。
ただし。
自分の耳まで少し熱くなっていることは。
黙っていた。
◇◇◇
入場、壇上での礼、国王夫妻への挨拶、招待客へ向き直る位置。
歩く速度に、腕を離すタイミング。
簡単に終わると思っていた確認は、予想以上に細かかった。
「王族の婚約発表って」
休憩に入ったライルが水を飲みながら呟く。
「こんなに歩き方まで決まってるのか」
「殿下は王族でしょう?」
「今まで俺が婚約する側じゃなかったから」
「なるほど」
アマリリアも隣で冷たい果実水を口へ運んだ。
午前中だけでかなり動いた。
戦いや事件とはまったく違う疲れだった。
姿勢を崩さず、表情を保ち、決められた場所へ決められた速度で歩く。
アマリリアは礼法そのものには慣れている。それでも今回は「第一王子の正式な婚約者」として見られると考えるだけで、いつもの公式行事とは違う緊張があった。
「アマリリア」
「何でしょう」
「疲れた?」
「少し」
「休憩延ばす?」
「大丈夫です」
「また」
「今回は本当に」
「ならいいけど」
ライルは飲み物を置いたあと、少しだけ声を落とした。
「昨日、父親と話して」
「はい」
「何か変わった?」
アマリリアはすぐには答えなかった。
小広間では侍従たちが入場位置を確認し直し、床へ小さな目印を置いている。少し離れたところではセレーネとアルベルトが進行表を見ながら何かを話していた。
「許したわけではございません」
「うん」
「誰でもよかった、と言われたことも」
アマリリアはグラスを両手で包んだ。
「たぶん、すぐには忘れません」
ライルは軽々しく慰めようとはしなかった。
「でも、お父様が私を嫌っていたから追い出そうとしたわけではないと分かったのは、大きかったかもしれません」
「そっか」
「最低ではありますけれど」
「そこは変わらないんだ」
「変わりません」
アマリリアはそう言い切ったあと、ほんの少し笑った。
「でも、婚約発表へ来てくださるのが、昨日より嬉しくなりました」
「よかった」
「泣きそうですけれど」
「絶対泣く」
「殿下まで」
「昨日の感じなら無理だろ」
「兄様も同じことを」
「じゃあ三票」
「何の投票です?」
「ハロルド殿が婚約発表で泣くかどうか」
アマリリアは少し考えるふりをしてから答えた。
「私も泣く方へ」
「四票」
「本人だけ泣かないに賭けておりますわね」
「勝ち目ないな」
二人で少し笑う。
笑ったあと。
アマリリアはふと、自分の手元へ視線を落とした。
「殿下」
「何?」
「三日後」
「うん」
「私、たぶん緊張します」
「俺も」
「本当に?」
「本当」
「でしたら」
アマリリアは少しだけ右手を差し出した。
「今から慣れておきます?」
「何に?」
「手を繋ぐことに」
ライルが止まった。
「……ここで?」
「誰も気にしませんわ」
言いながら周囲を見る。
王妃。
国王。
侍従長。
女官。
ディーン。
見事なくらい全員がこちらを見ていた。
「気にしてる!」
「まあ」
「全員見てる!」
「では、余計に練習になります」
「君、本当に強いな!」
それでもライルは少し迷ったあと、右手を差し出した。
アマリリアがそこへ手を重ねる。
指先が触れ。
掌が重なる。
それだけなのに。
妙に意識してしまう。
今まで何度も手を取った。
逃げるとき。
止めるとき。
守るとき。
慰めるとき。
危険な場面では、手を握ることへ意味を考える余裕などなかった。
でも今は、何も起きていない。
ただ。
婚約者として。
手を繋いでいる。
だからこそ。
恥ずかしい。
「殿下」
「何」
「手、少し汗ばんでおります?」
「君も」
「まあ」
「緊張してるんじゃないか」
「殿下もでしょう」
「お互い様」
アマリリアは少し笑った。
「三日後、大丈夫でしょうか」
「無理だったら」
「はい」
「このまま手を握ってればいい」
「皆様の前で?」
「婚約者なんだから、いいだろ」
今度はアマリリアが言葉を失った。
「殿下」
「何?」
「今日は」
「また?」
「かなり格好いいですわ」
「今日も、だろ」
「まあ」
ライルが少しだけ勝ち誇ったように笑った。
「学習した」
「本当に成長なさいましたね」
「君相手限定だけど」
「十分です」
少し離れたところでは、セレーネが満足そうな顔でアルベルトへ囁いていた。
「ほら」
「ああ」
「もう練習いらないわね」
「最初から必要なかったのでは?」
「必要よ」
「なぜ?」
「二人に自覚させるため」
小声のつもりだったのだろう。
しかし、アマリリアにもライルにも、しっかり聞こえていた。
「王妃様!」
「母上!」
小広間に笑いが広がった。
◇◇◇
午後になると、王宮へ学園から正式な報告が届いた。
三令嬢――エミリア、マリーネ、ユフィナへの一次処分についてである。
彼女たちがルシアへの嫌がらせへ直接関わった事実は消えない。
そのため、一定期間の謹慎、被害者への接触制限、学園内での奉仕活動、さらに各家からルシア本人とメイベル男爵家への正式な謝罪文提出が命じられる予定となった。
一方で、ベルドから脅迫を受けていた事実については情状として考慮され、退学処分までは行わないという。
報告書を読んだアマリリアは、ライルの執務室でしばらく黙っていた。
「どう思う?」
向かいで書類を確認していたライルが尋ねる。
「妥当だと思います」
「軽すぎるとは?」
「思いません」
アマリリアは報告書を机へ置いた。
「ルシアさんも、三人がしたことは消えないと言っておりました。でも、三人が脅されていたことまで嘘にしたくないとも」
「うん」
「学園も同じように、二つを分けて考えたのでしょう」
「三人とも処分は受け入れるらしい」
「そうですか」
アマリリアは少し息を吐いた。
「家側は?」
「三家とも学園の処分には同意している。むしろ今は、自分たちの不正疑惑の調査の方でそれどころじゃない」
ライルの表情が少しだけ苦くなる。
「そちらは?」
「父上とグレイアス公爵が中心になって確認している。ただ、まだ疑惑の段階だから決めつけない」
「分かりました」
アマリリアは頷いた。
以前の自分なら。
その場でゼインを呼び。
黒装束たちへ三家の調査を命じていたかもしれない。
けれど。
今は。
既に信頼できる者たちが調べている。
なら。
任せる。
「殿下」
「何?」
「私、成長しておりますわ」
「急に何の話?」
「今、黒装束を使って三家を調べようと思いませんでした」
「それ、普通なんだよ」
「でも私にとっては成長です」
ライルはしばらく複雑そうな顔をしたあと、ゆっくり頷いた。
「……確かに」
「でしょう?」
「納得したら負けた気がする」
「何にです?」
「分からない」
アマリリアは笑った。
「それから」
ライルが別の報告書へ手を伸ばす。
「ルシア嬢、今日は学園へ戻ったって」
「本当に?」
「ああ。午前中だけだけど、友人と一緒に授業を受けて、昼過ぎにはメイベル家へ戻ったらしい」
アマリリアの表情が柔らかくなる。
「そうですか」
「カルロスとは、朝に必要な挨拶をしただけ」
「まあ」
「そのあとは、自分から近づかなかったらしい」
「カルロス様が?」
「そこまで驚く?」
「少し」
「グレイアス公爵も驚いたって」
「公爵閣下まで」
二人で顔を見合わせる。
「本当に少しずつ変わっておりますのね」
「ああ」
一度失敗を認めたからといって、翌日から別人になるわけではない。
ルシアも。
カルロスも。
三令嬢も。
ハロルドも。
そして。
自分たちも。
少しずつ。
前へ進んでいる。
だからこそ。
今までなら小さすぎて気づかなかった変化が。
今は。
少し大切に思えた。
◇◇◇
夕方。
その日の予定をすべて終え、アマリリアが王宮を出ようとしていたところ、セレーネに呼び止められた。
「アマリリアさん」
「はい?」
「これ」
差し出されたのは、小さな箱だった。
「王妃様?」
「婚約発表まで開けないで」
「何ですの?」
「だから三日後まで」
「余計に気になります」
「我慢して」
箱は掌より少し大きく、持った感じではそれほど重くない。表面には王家の正式な紋章ではなく、蔓草と小さな花を組み合わせた控えめな意匠が刻まれている。
何が入っているのだろう。
少しだけ振れば。
「アマリリアさん」
セレーネの声が飛んできた。
アマリリアの手が止まる。
「……」
「振らない」
「まだ何もしておりません」
「顔で分かるわ」
「皆様、最近そればかりです」
隣でライルが笑う。
「日頃の行い」
「殿下」
「ごめん」
まったく悪いと思っていない顔だった。
アマリリアは箱を大切に抱え直す。
「三日後」
「ええ」
「開ければよろしいのですね?」
「そう。ライルと一緒にね」
「俺も?」
「もちろん」
「中身は?」
「秘密」
セレーネはそれ以上何も教えてくれなかった。
仕方なく二人は並んで王宮正門へ向かった。
外へ出る頃には、空は夕方の色へ変わっていた。西の空は淡い橙色に染まり、王宮前の広場へ伸びる建物の影も長くなっている。
階段の下では、アマリリアをベスター家まで送る馬車が待っていた。
「殿下」
「何?」
「婚約発表まで」
「うん」
「あと三日もございます」
「さっきまで三日しかないって顔してなかった?」
「気のせいです」
「絶対緊張してる」
「殿下もでしょう?」
「うん」
あまりにも素直に返された。
アマリリアは少しだけ笑った。
「でしたら」
「何?」
「三日間」
アマリリアは箱を片腕へ抱え直し、空いた手でライルの手を取った。
「一緒に緊張しましょう」
ライルは一瞬驚いたあと、その手をゆっくり握り返した。
「変なの」
「嫌?」
「全然」
夕方の王宮前には、侍従も、近衛も、馬車の御者もいる。
何人かが二人の繋がれた手に気づいた。
けれど。
今度は。
二人とも。
すぐには離さなかった。
アマリリアは自分たちの手を一度だけ見下ろした。
三日前なら。
こんな時間すら。
少し恥ずかしいだけだったかもしれない。
今は。
胸の奥にある緊張まで。
この手を通して半分ずつ持てる気がした。
「殿下」
「何?」
「三日後も」
「うん」
「ちゃんと握っていてくださいませ」
ライルはアマリリアを見た。
「もちろん」
今度は。
アマリリアも茶化さなかった。
「ありがとうございます」
ただ。
そう答えた。
正式婚約発表まで、あと三日。
アマリリアとライルに残されているのは、もう逃げるための準備ではない。
誰かに押し付けられた婚約を壊すための策でもない。
三日後。
自分たちで選んだ婚約を。
大勢の前で。
自分たちのものとして認める。
そのための。
少し緊張して。
少し楽しみな。
三日間だった。




