第24話 婚約を押し付けた父と、今度は私の意思で向き合うことにしました
正式な婚約発表まで、あと四日。
その日の夕方、アマリリアは王宮からベスター伯爵家へ戻る馬車の中で、珍しく静かに窓の外を眺めていた。
王都の大通りには仕事を終えた商人や職人たちが行き交い、通り沿いの店では夕食時を前に看板灯へ火を入れる姿が見える。橙色に傾いた陽射しが石造りの建物を横から照らし、馬車が進むたび、長く伸びた影が窓の向こうをゆっくり流れていった。
向かいにはライルが座っている。
普段なら、アマリリアが黙っている時間が長くなれば何かしら声をかけてきそうなものだが、今日は彼も急かさなかった。
ルシアとベルドの面会を終えたあと、アマリリアは自分も父ハロルドと話すことを決めた。
カルロスとの婚約を勝手に決めた父。
娘である自分の意思を確かめることもなく、ムルール公爵家へ送り出そうとした父。
あのときは、まともに話し合う気など起きなかった。
ティーカップを顔面へ投げつけ、床へ倒れた父を踏みつけ、黒装束を呼び出して家督を兄アレクへ譲らせた。
今思い返しても、行動そのものにはあまり後悔していない。
ただ。
あれを「話し合い」と呼ぶのは、さすがのアマリリアにも無理があった。
「殿下」
「何だ」
「私、以前はお父様と話す必要などないと思っておりました」
ライルが窓からアマリリアへ視線を戻す。
「カルロスとの婚約を決められたとき?」
「はい」
「まあ……あの状況なら、そう思うのも分かる」
「殿下」
「何?」
「私がそのあと何をしたか、ご存じでした?」
「父親の顔にティーカップを投げた」
「ええ」
「そのあと踏んだ」
「ええ」
「黒装束を呼んで、家督を譲らせた」
「よくご存じで」
「君が自分で話した」
「そうでしたわね」
ライルは一度口を閉じ、それから少し困ったような顔になった。
「今さらだけど」
「何です?」
「改めて聞くと、かなり酷いな」
「お父様がです?」
「両方」
「まあ」
「そこで否定してくれないんだ」
「事実ですので」
アマリリアは小さく笑ったものの、その笑顔はすぐに薄れた。
「でも、ルシアさんとベルド様を見ていて、少し思いましたの」
「うん」
アマリリアは膝の上で指を重ね、少しだけ視線を落とした。
「相手が間違っていたとしても、それだけで話さなくてよい理由にはならないのかもしれないと」
ライルは何も挟まず、静かに続きを待っている。
「もちろん、話したからといって理解し合えるとは限りません。許せないことは残るでしょうし、相手が反省しないことだってあると思います」
「そうだな」
「でも、何も聞かずに終わらせれば、私はお父様がなぜあんな婚約を決めたのか、本当のところを知らないままです」
「目の上のたん瘤だったから、って話じゃなかった?」
「それは本人が取り調べで白状しました」
「取り調べ」
「ええ」
「父親相手に使う言葉じゃない気がする」
「細かいですわね」
「細かくない」
アマリリアは少しだけ笑い、それからまた窓の外へ顔を向けた。
「でも、今は少しだけ違う気がするのです」
「何が?」
「お父様、最近少し変わったでしょう?」
ライルにも思い当たることがあった。
学園で嫌がらせ事件が続いていた最中、ハロルドはアマリリアへ「一人で抱え込むな」「殿下に頼れ」と言った。
以前の彼なら、まず出てこなかった言葉だろう。
「確かに」
「だからこそ、今なら聞けるかもしれないと思いましたの」
「何を?」
アマリリアはしばらく窓の向こうを見つめたあと、静かな声で言った。
「なぜ私を売ろうとしたのか」
そこには冗談も笑みもなかった。
ライルの表情も自然と真剣なものへ変わる。
「アマリリア」
「はい」
「嫌なら、俺は外にいてもいい」
「どうしてです?」
「家族の話だから」
アマリリアはすぐにライルを見た。
「でも、いてくださいませ」
「俺が?」
「はい」
「本当に?」
「私、たぶん一人ですと、またお父様を殴ります」
「それは止める」
「ですので」
「そういう意味で必要なの?」
「半分は」
「残り半分は?」
アマリリアは少しだけ口元を緩めた。
「婚約者だからです」
「またそれか」
「嫌です?」
「もう、その聞き方ずるいだろ」
「では?」
ライルは少しため息をついたものの、最後には諦めたように頷いた。
「いるよ」
「ありがとうございます」
アマリリアは満足そうに微笑んだ。
今度の笑顔には、ほんの少しだけ安心が混じっていた。
◇◇◇
ベスター伯爵家へ到着したのは、夕食の少し前だった。
正門を抜けた馬車が玄関前へ止まると、屋敷の使用人たちが一斉に出迎えに並んだ。アマリリアが帰宅しただけなら、ここまで大仰な迎えにはならない。
原因はもちろん、隣にいる第一王子である。
「ご帰宅をお待ちしておりました、お嬢様。第一王子殿下におかれましても、ようこそお越しくださいました」
先頭に立つ執事が深く頭を下げる。
「突然の訪問ですまない」
「とんでもございません。旦那様もお待ちです」
「……待ってる?」
ライルが僅かに眉を寄せた。
アマリリアは何でもない顔で答える。
「事前に連絡いたしましたので」
「聞いてない」
「伝え忘れました」
「絶対わざとだろ」
「まあ」
「その顔やめろ」
使用人たちは皆、真面目な顔を保っている。
ただし数人の肩が微妙に震えていた。
どうやらベスター家でも、二人のこのやり取りはかなり見慣れたものになりつつあるらしい。
玄関を入り、長い廊下を進む。
壁にはベスター家の歴代当主や先祖の肖像画が並び、天井近くに設置された魔石灯が柔らかな光を落としている。
アマリリアは歩きながら、一度だけ深く息を吸った。
自分の家なのに。
妙に緊張する。
「アマリリア」
隣から小声で呼ばれた。
「何でしょう」
「大丈夫?」
「ええ」
「本当に?」
「殿下」
「何だ」
「最近、そればかりですわね」
「君が『大丈夫』って言うときは、大体少し大丈夫じゃない」
アマリリアは返事をしなかった。
ライルが少し笑う。
「当たり?」
「……少し」
「ほら」
その短いやり取りだけで、不思議と肩の力が少し抜けた。
やがて執事が書斎の前で立ち止まり、扉をノックする。
「旦那様。お嬢様と第一王子殿下がお見えです」
「……入ってくれ」
中から聞こえた父の声は、普段より少し硬かった。
◇◇◇
書斎へ入ると、ハロルドは執務机ではなく応接用のソファへ座っていた。
机を挟んで当主と娘として向き合うのではなく、最初から話をするつもりなのだろう。
その顔を見た瞬間、アマリリアは少しだけ驚いた。
父も緊張している。
「殿下」
ハロルドはすぐに立ち上がり、ライルへ深く頭を下げた。
「本日は、わざわざ我が家までお越しいただき」
「急に押しかけてすまない」
「いいえ。むしろ、リリアから『話がある』と聞いた時点で、殿下も来てくださるだろうと思っておりました」
「お父様」
「何だ」
「なぜです?」
「お前が一人で来たら、話ではなく処刑になる気がした」
「失礼ですわね」
「過去を思い出せ!」
「私、お父様を処刑したことはございません」
「寸前までならある!」
「誇張です」
「どこがだ!」
ライルが二人の間で額を押さえる。
「少し安心した」
「何がです、殿下」
「いつもの親子だなって」
「これをいつも扱いしないでくださいませ」
「私もそう思います、殿下」
「そこだけ意見が合うんだ」
少しだけ空気が和らいだ。
三人はそのまま向かい合ってソファへ座った。
アマリリアとライルが並び、正面にハロルド。侍女が紅茶を用意して静かに退出し、扉が閉じると、先ほどまでの軽さも少しずつ消えていった。
「それで」
ハロルドが先に口を開いた。
「話とは」
「お父様」
「何だ」
「婚約のことです」
ハロルドの表情が固まった。
「どちらの」
「カルロス様との方です」
その返事を聞いた瞬間、ハロルドの指が僅かに動いた。
紅茶へ手を伸ばしかけ。
途中で止める。
「今さら、聞きたいことができましたの」
「何を」
「なぜ」
アマリリアは父を真っ直ぐ見た。
「私をムルール公爵家へ嫁がせようとしたのです?」
ハロルドはすぐには答えなかった。
「以前、お父様は私が目の上のたん瘤だったからと仰いましたわね」
「……ああ」
「私を家から出したかった」
「ああ」
「それだけ?」
ハロルドの表情が少しだけ強張った。
アマリリアは責めるように声を強めることはしなかった。
「私は今日、怒鳴るために来たのではありません。殴るためでもございません」
「一応確認するけど」
ライルが小声で割り込む。
「本当に?」
「殿下」
「ごめん」
ハロルドが少しだけ笑ったものの、すぐに真面目な表情へ戻った。
「本当に聞きたいのか」
「はい」
「聞いて、私をもっと嫌いになるかもしれんぞ」
「お父様」
「何だ」
「今さら下がる余地があると?」
「娘!」
「冗談です」
「半分くらい本気だろう!」
「まあ」
「否定しろ!」
ライルが口元を押さえた。
「殿下」
「笑わないでください」
「ごめん」
ほんの少しだけ空気が軽くなったあと、ハロルドは長く息を吐いた。
「……怖かったんだ」
「何が?」
「お前が」
アマリリアの目が少し動く。
「私?」
「ああ」
ハロルドは苦い笑みを浮かべた。
「お前は子供の頃から、何でもできただろう」
「自覚はございます」
「そこは謙遜しろ」
「事実ですので」
「……そういうところだ」
ハロルドは肩を落とした。
「勉学も、礼儀も、剣も、魔術も。教えればすぐに覚える。教えていないことまで勝手に調べて覚える。そのうち、領地の帳簿まで私より早く間違いを見つけるようになった」
「お父様の計算が遅いだけでは?」
「リリア」
「はい」
「今は話を聞く場ではなかったか?」
「失礼しました」
アマリリアは素直に口を閉じた。
その様子にハロルドが少しだけ苦笑する。
「私は、お前を見るたびに思っていた。この子は、私よりずっと立派な当主になるだろうと」
アマリリアは少し目を見開いた。
「お父様?」
「最初は誇らしかったんだ」
ハロルドは視線を落とした。
「自分の娘が優秀であることが嬉しかった。だが、同時に怖くもなった」
「……」
「私は伯爵家の当主だった。お前の父親でもあった。それなのに、何をしてもお前の方が正しいように思えた。家臣や使用人たちまで、私よりお前の指示を聞いた方が物事が早く進むこともあった」
冗談ではない。
アマリリアにも覚えがある。
父が長時間悩んでいた領地の問題を、横から一言で片づけてしまったこともあった。書類の誤りを指摘し、使用人の配置まで変えさせたこともある。
当時のアマリリアには、それが父をどんな気持ちにさせているかなど考えたこともなかった。
「いつからか、自分がいらないように思えてきた」
ハロルドは自嘲するように笑った。
「お前が結婚して家を出れば、私はまたこの家の当主として必要とされる。そんなことを考えた」
アマリリアはしばらく何も言えなかった。
聞きたかった答え。
けれど。
想像していたものとは少し違っていた。
「カルロス様でなくても?」
「ああ」
「誰でも?」
ハロルドは目を閉じた。
「……当時は、そうだった」
その言葉が、思った以上に深く胸へ刺さった。
「私を家から出せれば」
「ああ」
「誰でもよかった」
「……すまない」
アマリリアは視線を落とした。
指先がゆっくり握られる。
怒っている。
胸の奥に、確かに鋭いものがある。
けれど。
今日は。
殴らない。
隣でライルが何も言わず、手を少しだけアマリリアの方へ寄せた。
触れてはいない。
でも。
必要なら、すぐに握れる距離だった。
「お父様」
「何だ」
「最低ですわね」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
「私、少し傷つきました」
ハロルドの顔が歪んだ。
「……すまない」
「私が優秀だから怖かった?」
「ああ」
「私が自分より正しいから?」
「ああ」
「それで、知らない家へ嫁がせようとした」
「……ああ」
アマリリアはしばらく父を見つめた。
許せない。
でも。
今まで知らなかった父の弱さを、初めて見た気もした。
「お父様」
「何だ」
「どうして今は、少し変わったのです?」
ハロルドが目を上げる。
「変わった?」
「以前なら、私が危ないことをしようとしたとき、自業自得だと仰っていたでしょう」
「そこまでは」
「言いました」
「……言ったかもしれん」
「最近は、殿下に頼れと」
ライルもハロルドを見る。
「なぜ?」
ハロルドはしばらく答えを探していた。
やがて、観念したように息を吐く。
「お前が、いなくなるかもしれないと思ったからだ」
アマリリアは黙った。
「本当に、私のせいで家族ではなくなるかもしれないと思った」
ハロルドの声が少し低くなる。
「家督をアレクへ渡され」
「私が渡しました」
「分かっている!」
「失礼」
「領地へ送られ」
「私が送りました」
「だから分かっている!」
ライルが一瞬笑いそうになったが、今度は必死に堪えている。
「一人になって、初めて分かったんだ」
ハロルドは苦い顔で続けた。
「自分が当主だから必要とされていたわけではなかった。逆だった」
「逆?」
「ああ」
ハロルドはアマリリアを見た。
「私は父親として必要とされたかったんだ」
アマリリアの胸が少し動く。
「でも、自分から父親であることを捨てるような真似をした。お前を家から出せば、自分が安心できると思った。実際にお前が私から離れたら」
ハロルドは力なく笑った。
「何も残らなかった」
アマリリアは父の顔を見たまま、しばらく言葉を失った。
「では、私に優しくなったのは」
「取り戻したいからだ」
「何を?」
「父親としての信用を」
ハロルドは今度こそ、逃げずに娘の目を見た。
「今さらだとは分かっている。簡単に戻るとも思っていない」
「当然です」
「もう少し言い方を」
「今は正直に話す場でしょう?」
「そうだが!」
アマリリアの口元が僅かに緩む。
ハロルドもそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「それでも」
父は静かに続けた。
「今度は、父親でいたい」
アマリリアはすぐには答えなかった。
◇◇◇
部屋の中に長い沈黙が落ちた。
窓の外では陽が沈み始め、書斎へ差し込む光もだんだん赤みを帯びている。机の上に置かれた紅茶からはもうほとんど湯気が立っておらず、誰もそれへ手を伸ばさなかった。
ライルも何も言わない。
これはアマリリアとハロルドの話だと理解している。
ただ。
隣にはいる。
アマリリアは一度目を閉じ、父から聞いた言葉を頭の中でもう一度並べた。
全部を許せるか。
今すぐには無理だ。
誰でもよかった。
家から出ていけばよかった。
その言葉は。
たぶん。
しばらく忘れない。
それでも。
聞かなければ。
父が自分を嫌っていたからだけではないことも知らないままだった。
「お父様」
「何だ」
「私、まだあの婚約を決めたことは許しておりません」
「ああ」
「カルロス様がどんな方なのか、まともに調べもせず」
「……調べた」
アマリリアの眉が僅かに上がった。
「調べてあれを?」
「そこまで酷いと思わなかったんだ!」
「お父様」
「すまん」
ライルが思わず口元を押さえる。
「殿下」
「ごめん」
「とにかく、私はまだ許しておりません」
「ああ」
「でも」
ハロルドが顔を上げる。
アマリリアは少しだけ声を柔らかくした。
「今日、聞けてよかったとは思います。お父様が何を考えていたのか」
「……」
「最低でしたけれど」
「最後いるか?」
「必要です」
「そうか」
ハロルドが苦笑した。
アマリリアもほんの少しだけ笑う。
完全に元へ戻ったわけではない。
でも。
たぶん。
こういうやり取りができるくらいには。
少し近づいた。
「それで」
アマリリアは一度ライルを見た。
ライルもこちらを見る。
そして、もう一度父へ向き直った。
「私、殿下と正式に婚約します」
ハロルドの顔が固まった。
「……」
「四日後、王宮で正式に発表されます」
ハロルドは動かなかった。
「お父様?」
「少し待て」
「何を?」
「心の準備を」
ライルが思わず小さく呟く。
「俺と同じだ」
「殿下」
「ごめん」
ハロルドは目を閉じ、深く息を吸った。
ゆっくり吐く。
それでも。
目を開けたときの顔には、まだ動揺が残っていた。
「本当に、お前が選んだのか?」
「はい」
「王家に言われたからではなく?」
「違います」
「カルロスとの婚約から逃げるためでも?」
アマリリアは少し笑った。
「最初はそうでした」
「最初は?」
「ええ」
「では、今は?」
アマリリアは隣のライルを見た。
ライルが少しだけ照れたように視線を逸らす。
それが少し可愛くて。
アマリリアの声も自然と柔らかくなった。
「今は、殿下がよいです」
ハロルドの顔がまた固まった。
「……」
「お父様?」
「聞かなければよかった」
「なぜです?」
「父親に娘の惚気を聞かせるな!」
「聞いたのはお父様です」
「そうだが!」
今度はライルの耳まで赤くなった。
「アマリリア」
「何です?」
「俺も少し恥ずかしい」
「なぜ殿下が」
「目の前に父親いるから!」
「まあ」
アマリリアは少し楽しそうに笑った。
ハロルドはしばらく娘の顔を見ていたが、やがて今度はライルへ視線を向けた。
空気が少し変わる。
「殿下」
「はい」
ライルも背筋を伸ばした。
ハロルドの目から、先ほどまでの父親としての動揺が少しだけ消える。
代わりに。
娘を託す相手を見る父の目になる。
「娘を、本当に望んでくださっているのですか」
ライルは迷わなかった。
「はい」
「王家のためではなく?」
「もちろん、王族としての責任はあります。婚約すれば、俺だけでなくアマリリアにも多くのものを背負わせることになります」
ハロルドは黙って聞いている。
「だから、それを軽く考えるつもりはありません。でも」
ライルは一度、隣のアマリリアを見た。
「俺が、アマリリアと一緒にいたいんです」
アマリリアの頬が少し熱くなった。
今日。
父の前。
さっきから。
ライルは妙に強い。
「それだけでは、足りませんか?」
ハロルドはしばらく何も言わなかった。
やがて。
両手で顔を覆った。
「お父様?」
「無理だ」
「何が?」
「娘が」
「はい」
「本当に嫁に行く」
「まだ婚約です」
「同じだ!」
「違います」
「父親には同じだ!」
アマリリアは呆れたように父を見る。
でも。
少し笑っていた。
「嫌だ」
顔を覆ったまま、ハロルドが小さく呟く。
「お父様」
「嫌だが」
少し間があった。
やがて、ハロルドは顔から手を下ろした。
目元が僅かに赤い。
「止めない」
アマリリアの笑みが少し消えた。
「お前が自分で選んだなら、今度は止めない」
その言葉は。
たぶん。
今日。
一番聞きたかった言葉だった。
アマリリアの胸の奥が静かに熱くなる。
「お父様」
「何だ」
「泣いております?」
「泣いていない!」
「目が赤いですわ」
「夕日のせいだ!」
「窓は反対側です」
「リリア!」
ライルがとうとう耐えきれず笑った。
「殿下まで!」
「すみません。でも」
ライルは笑いを収めると、ハロルドへ向き直った。
そして。
深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「殿下」
「アマリリアを大切にします」
ハロルドの顔がまた歪んだ。
「それを父親の前で」
「言わない方が?」
「いや」
ハロルドは目元を押さえる。
「言ってください」
「はい」
「何度でも」
「お父様」
「何だ!」
「面倒ですわ」
「娘!」
書斎に、久しぶりに家族らしい声が響いた。
◇◇◇
話を終えたあと、三人はそのままベスター家で夕食を取ることになった。
最初に書斎へ入ったときの重たい空気が嘘のように、食堂には使用人たちが運ぶ皿の音や、温かな料理の香りが広がっている。
途中からアレクも加わった。
そして。
妹と第一王子が正式に婚約するという話を聞いた瞬間、彼は父とは違った意味で目を丸くした。
「本当に?」
「兄様までそれを聞きます?」
「だって」
アレクは向かいに座るライルを見る。
「最初の話、聞いてるから」
ライルの表情が露骨に嫌そうなものへ変わった。
「どこまで?」
「黒装束」
「……」
「刃物」
「……」
「婚約しろ」
「忘れてください」
「無理だろう」
アレクが笑った。
アマリリアは何でもない顔をしてスープを口へ運ぶ。
「兄様」
「何だ」
「結果よければ全てよしです」
「本当に?」
「ええ」
「殿下」
アレクが今度はライルを見る。
「苦労しますよ」
「もうしてます」
「殿下!」
「事実だろ!」
食卓へ笑いが広がった。
ハロルドは少し複雑そうな顔をしていたものの、その笑いの輪から外れてはいない。
アマリリアはその光景を眺めながら、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じていた。
全部が元通りになったわけではない。
父を完全に許したわけでもない。
今日聞いた言葉の中には、まだ胸へ刺さったままのものもある。
でも。
話した。
聞いた。
そして。
自分で選ぶことを。
父は認めた。
「お父様」
「何だ」
「婚約発表」
ハロルドの手が少しだけ止まる。
「来てくださいますよね?」
ハロルドは一瞬黙った。
それから、仕方なさそうに。
でも。
はっきり頷いた。
「行く」
「泣かないでくださいませ」
「泣かない!」
「本当に?」
「絶対だ!」
アレクが横から口を挟む。
「無理だろ」
「アレク!」
ライルも少し笑いながら続いた。
「俺も無理だと思います」
「殿下まで!」
アマリリアは笑った。
そして。
少しだけ。
声を柔らかくした。
「では、楽しみにしております」
ハロルドは娘を見た。
一瞬。
言葉を失ったような顔をして。
それから。
「……ああ」
小さく返した。
正式婚約発表まで、あと四日。
ルシアは、自分を勝手に幸せにしようとした父へ、自分の意思を伝えた。
アマリリアも、自分を勝手に手放そうとした父へ、自分の意思を伝えた。
押し付けられて始まった婚約は、もう誰かの都合で動くものではない。
今度の婚約は。
アマリリアが選び。
ライルが選んだ。
そして。
少しずつ。
家族も。
その選択を見届けようとしていた。




