第23話 実の父親に会いたいと言われましたので、今度はルシアさんが自分の答えを選ぶ番です
翌朝、アマリリアは久しぶりに、目覚まし代わりの侍女の声を聞かずに目を覚ました。
厚手のカーテンの隙間から薄い朝日が差し込み、王宮の客室に置かれた小さな机や、その上に整然と並べられた花瓶や書物を淡く照らしている。昨夜は婚約申請の手続きを終えたあと、そのまま王宮へ泊まることになった。学園での公開説明から婚約準備まで一日中動き続けていたことを考慮し、王妃セレーネから「明日の午前中は絶対に何もしないこと」と強く命じられたからだ。
その命令については、アマリリアも珍しく素直に従うつもりだった。
「……静かですわね」
寝台の上で身体を起こしながら呟く。
王宮へ泊まる機会そのものは既に何度かあったが、朝から何の予定も入れられていない日は初めてかもしれない。いつもなら着替えの準備をする侍女の足音や、廊下を行き交う者たちの気配がもっと早い時間から聞こえてくるのだが、今日は客室周辺まで意図的に静かにされているらしい。
本気で休ませるつもりなのだろう。
アマリリアは一度寝台から降りかけたものの、ふと思い直し、再び枕へ身体を預けた。
「二度寝……」
口にしてみると、なかなか悪くない響きだった。
たまには令嬢らしく、朝寝を楽しむのもよいのではないか。そう考えて目を閉じたのだが、頭の中はまったく眠る気になってくれなかった。
三令嬢への学園処分。ベルドとハインツへの捜査。ルシアとベルドの面会。五日後の婚約発表。ドレスの採寸。招待客。父への報告。
次から次へと、やるべきことが浮かんでくる。
三十秒ほど耐えたところで、アマリリアは諦めて目を開いた。
「無理ですわ」
何もしないということに、あまりにも慣れていない。
しかも。
「婚約者……」
昨日、正式な申請書へ自分の意思で名前を書いた。
その事実を思い出した途端、今度は仕事とはまったく別の意味で眠れなくなった。
『私が自分の意思で未来を選ぶ時、隣にいてほしいと思った方だからです』
自分で書いた文章を思い出す。
昨夜は勢いで書いた。
いや、勢いではない。
本心だった。
だからこそ、今になって恥ずかしい。
「……何を書いておりますの、私」
アマリリアは掛け布団を鼻先まで引き上げた。
しかもライルに読まれている。
そのライルは。
『私自身がアマリリア・ベスターを望んでいるため』
などと、こちらよりさらに直球の文章を書いていた。
「殿下の方がずるいですわ」
思わず呟いたところで、控えめなノック音が聞こえた。
「アマリリア様、起きていらっしゃいますか?」
侍女の声だった。
「起きております。どうぞ」
扉が静かに開き、王妃付きの侍女が入ってくる。朝の支度を手伝う者とは別で、手には小さな封筒を持っていた。
「お休みのところ申し訳ございません」
「構いませんわ。どうしました?」
「ライル殿下より、お手紙でございます」
「殿下から?」
少しだけ胸が高鳴った。
昨日の今日だ。
いったい何が書かれているのだろう。
アマリリアは封筒を受け取り、少しだけ期待しながら封を開いた。
『母上から午前中はアマリリアを休ませろと言われています。なので、何か思いついても一人で動かないこと』
「……」
最初の一文を読んだだけで、アマリリアの口元から笑みが消えた。
続きもある。
『特にベルド、三令嬢、カルロス、公爵家、婚約披露について勝手に確認へ行かないこと。必要なら午後に一緒にやります』
「まあ」
完全に行動を読まれている。
さらに最後には。
『これは命令ではなくお願いです。ちゃんと休んでください』
そう書かれていた。
アマリリアはしばらく紙を見つめたあと、侍女へ顔を向ける。
「侍女さん」
「はい」
「殿下は朝から何を?」
「国王陛下と執務に入られております」
「ご自分は働いていらっしゃるのに、私には休めと?」
「昨夜、殿下は『あの人は放っておくと絶対に何かする』と仰っておりました」
「そこまで?」
侍女は少しだけ困ったように微笑んだ。
「王妃陛下も『その通りね』と」
「王妃様まで」
アマリリアはもう一度、ライルの手紙へ目を戻した。
腹が立つほどではない。
むしろ、少し嬉しい。
自分が何をしそうなのか分かっていて、先回りしている。それでも「するな」と命じるのではなく、最後にはきちんとお願いだと書いてある。
ライルらしい。
「……仕方ありませんわね」
アマリリアは手紙を丁寧に畳んだ。
「午前中は大人しくいたします」
「ありがとうございます」
「なぜ侍女さんがお礼を?」
「殿下から『もし大人しくすると言ったら、礼を言ってくれ』と」
「そこまで頼まれておりますの?」
「はい」
アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。
「殿下、最近本当に私の扱いが上手くなっておりますわね」
◇◇◇
結局、午前中のアマリリアは本当に大人しく過ごした。
朝食をいつもよりゆっくり取り、読みかけだった本を少し読み、それから王宮庭園へ出て短い散歩をした。
風は穏やかで、庭木の葉が時折小さく揺れる。花壇には季節の花が咲き、遠くでは庭師が枝を整える鋏の音が一定の間隔で聞こえていた。噴水から落ちる水音に鳥の声が重なり、王宮の中とは思えないほど静かな時間が流れている。
こんな時間を望んでいたはずだった。
アマリリアは噴水近くの長椅子へ腰を下ろしながら、少し不思議な気分になった。
カルロスとの婚約を押し付けられたとき、自分は市井で穏やかに暮らしたいと思っていた。
王家など、できれば深く関わりたくなかった。
第一王子の婚約者になるなど、むしろ最も避けたい未来の一つだったはずだ。
なのに今は、王宮の庭に座りながら、五日後の婚約発表を楽しみにしている自分がいる。
「人は変わるものですわね」
そう呟いたとき、庭園入口の方からディーンが歩いてきた。
「ベスター令嬢」
「ごきげんよう、ディーン様」
「お休みのところ申し訳ございません」
「その言葉、今朝も聞きました」
「殿下から?」
「ええ」
「なるほど」
ディーンは少しだけ笑った。
「では、こちらも殿下の許可を得ている件ですので、ご安心ください」
「まあ」
「ルシア・メイベル嬢からです」
その名前を聞いた瞬間、アマリリアの表情が変わった。
「ルシアさん?」
「はい」
「何か?」
「ベルド・カシアンとの面会について、今日の午後に行いたいと希望されています」
アマリリアは少し黙った。
昨日、国王は明後日以降で調整すると話していたはずだ。
「本人が希望したのです?」
「はい。王宮治癒術師も体調上は問題ないと判断しております。ただし精神的な負担を考え、本人が無理だと感じた場合は即時中止という条件です」
「場所は?」
「王宮北棟の取調室に隣接した面会室です。ベルドは拘束状態のまま、近衛も同席します」
「ルシアさんは一人で?」
ディーンは少しだけ間を置いた。
「アマリリア様にも、近くにいてほしいと」
その言葉に、アマリリアの胸が少し動いた。
「私を?」
「はい」
「殿下は?」
「ライル殿下も同行されます」
「なら」
アマリリアはすぐに頷きかけた。
しかし、一度止まる。
「ルシアさんは、私に同席してほしいと言いましたの?」
「正確には『同じ部屋にいてもらうかは、その場で決めたい。ただ、近くにはいてほしい』とのことです」
アマリリアは少しだけ笑った。
「分かりました」
「では」
「近くにおります。でも、ルシアさんが一人で話すと決めたなら、私は入りません」
「承知しました」
ディーンが頷く。
アマリリアは噴水へ視線を戻した。
以前の自分なら、迷わず「私がついていきます」と言っていたかもしれない。
でも、これは自分の話ではない。
ルシアが自分の意思で、実の父親と向き合うための時間だ。
◇◇◇
午後。
王宮北棟は、華やかな王族居住区とはまるで雰囲気が違っていた。
壁や床に使われている石材は飾り気が少なく、窓も小さい。王宮警備隊や近衛が取り調べ、拘束者の一時管理、証拠保全などに使用する区画であるため、廊下を行き交うのも騎士や文官ばかりだった。
アマリリアが案内された待合室には、既にライルがいた。
「殿下」
「来たか」
「ちゃんと午前中は休みましたわ」
「本当に?」
「第一声がそれです?」
「重要だから」
「庭園を散歩しただけです」
「黒装束は?」
「呼んでおりません」
「書類は?」
「触っておりません」
「ベルドのところへ勝手に来たりは?」
「しておりません」
「よし」
「子供扱いですわ」
「信用を積み上げてくれ」
「積み上げております」
「最近は」
「殿下まで付け足しましたね?」
ライルが少し笑った。
「でも、ありがとう」
「何が?」
「休んでくれて」
アマリリアは一瞬、言葉に詰まった。
「……どういたしまして」
「素直」
「私だって、いつも反発しているわけではございません」
「そうだったかな」
「殿下」
「ごめん」
そんなやり取りをしていると、廊下から足音が近づいてきた。
扉が開き、ルシアが入ってくる。
「アマリリア様。ライル殿下」
「ルシアさん」
アマリリアはすぐに立ち上がった。
ルシアの顔色は悪くない。
けれど、明らかに緊張している。胸の前で重ねた手はいつもより強く握られ、指先が僅かに白くなっていた。
「大丈夫です?」
「はい」
返事は早い。
でも、声は少し硬い。
「座ります?」
「いいえ」
ルシアは小さく首を振った。
「座ったら、立てなくなりそうなので」
アマリリアとライルは顔を見合わせる。
ライルが静かに尋ねた。
「やめてもいいんだよ」
「分かっています」
「今日じゃなくてもいい」
「それも分かっています」
「なら」
ルシアは一度、深く息を吸った。
「今日、話したいです」
声は震えていた。
それでも、意思ははっきりしている。
「昨日の夜からずっと考えていました。私、あの人が実の父親だと言われても、まだ何も分からないんです。信じたいとも思わないし、すぐ嫌いだと言い切れるほど知ってもいません」
アマリリアは何も言わず、続きを待った。
「でも、聞きたいことはあります」
「昨日言っていたこと?」
ライルが確認する。
「はい」
『なぜ、私のためだと言いながら、私の気持ちは一度も聞かなかったのか』
その問いだった。
「聞いたら、何か変わるかは分かりません」
「変わらなくてもいいですわ」
アマリリアが言った。
ルシアがこちらを見る。
「答えを聞いたからといって、許さなくてはいけないわけではありません。父親だと思わなくてはいけないわけでもございません」
「……はい」
「貴女が聞きたいから聞く。それで十分です」
ルシアの目が少し潤んだ。
「アマリリア様」
「何でしょう」
「同じ部屋にいていただけますか?」
アマリリアは一瞬だけ迷った。
「私でよろしいのです?」
「はい」
「殿下ではなく?」
「そこ聞く?」
ライルが少し眉を上げる。
「確認です」
ルシアはほんの少しだけ笑った。
「殿下も、できれば」
「俺も?」
「はい」
ライルはすぐに頷いた。
「分かった」
「ありがとうございます」
ルシアは二人を見たあと、少しだけ申し訳なさそうな表情になった。
「でも、私が話している間、代わりに怒らないでください」
アマリリアとライルが同時に黙った。
数秒。
「……無理ですか?」
「努力します」
アマリリアが答える。
「俺も」
ライルも続けた。
「お二人とも『努力』なのですね」
「ベルド様次第ですわ」
「そこは否定できない」
ルシアは小さく笑った。
その笑いのおかげで、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇◇◇
面会室は小さかった。
中央には床へ固定された机と、向かい合う二脚の椅子。壁際には近衛が二人立ち、入口近くにはディーンもいる。窓はなく、天井近くへ埋め込まれた魔石灯が白い光を落としていた。
ベルド・カシアンは既に座らされていた。
両手には拘束具があり、足にも簡易的な鎖がついている。逃げられる状態ではない。
昨日、旧西門倉庫で見たときよりもかなり疲れているように見えた。頬はやつれ、目の下には濃い影ができている。
それでも。
ルシアが入った瞬間。
ベルドの顔が変わった。
「ルシア」
その声を聞いた瞬間、ルシアの足が一度止まった。
アマリリアは反射的に手を伸ばしかけた。
でも。
止める。
ルシアが自分の意思で、一歩前へ出たからだ。
「……こんにちは」
ベルドの目が僅かに揺れる。
「無事だったか」
「はい」
「ハインツが乱暴なことを」
「しました」
「それは」
「でも、今日はその話ではありません」
ルシアが静かに遮った。
ベルドは何も言わなくなった。
ルシアは机を挟んだ椅子へ腰を下ろす。アマリリアとライルはその少し後ろ、ベルドから見える位置に立った。
ただし。
会話の中心には入らない。
「聞きたいことがあります」
「何でも聞け」
「本当に?」
「もちろんだ」
ルシアは一度だけ目を閉じ、呼吸を整えた。
そして。
「なぜ、私の気持ちを一度も聞かなかったのですか?」
静かな部屋の中、その問いだけがはっきり残った。
ベルドはすぐには答えなかった。
「何を」
「私をカルロス様と結婚させようとした」
「それは」
「アマリリア様を悪い人にしようとした」
「君を」
「三人の令嬢を脅した」
「必要だった」
「私を攫わせた」
「守るためだ!」
ベルドの声が少し強くなった。
壁際の近衛が僅かに身体を動かし、アマリリアも眉を寄せる。
それでも、ルシアは逃げなかった。
「何から守るのですか?」
「君は分かっていない」
「何を?」
「身分のない者が、どれだけ惨めか」
ベルドは拘束された両手を強く握り込んだ。
「私はずっと下から見上げてきた。貴族に使われ、切り捨てられ、用がなくなれば終わりだ。ムルール公爵家へ入れば、君は誰にも見下されない」
「私は」
「カルロスは君を好いている。公爵家の嫡男だ。いずれ家を継ぐ。君には最高の――」
「聞いてください!」
ルシアの声が部屋へ響いた。
ベルドが止まる。
「今もです」
ルシアの目に涙が浮かんだ。
「今も、私の話を聞いていません」
「……」
「私は身分を上げたいなんて言いましたか?」
「それは」
「公爵家へ嫁ぎたいと言いました?」
「だが」
「カルロス様と結婚したいと、あなたに頼みましたか?」
ベルドは答えられなかった。
「私はカルロス様が好きです」
そこは隠さなかった。
「でも、好きだから、すぐに結婚したいわけではありません」
「……」
「今のカルロス様とは、距離を置くことにしました」
ベルドの顔が大きく変わった。
「何?」
「私が決めました」
「なぜだ!」
「私の話を聞いてくれなかったからです!」
ルシアの声が震える。
「カルロス様も、あなたも!」
ベルドの口が止まった。
「二人とも私を守ると言いました」
「私は父だ!」
「だから!」
ルシアの頬を涙が伝った。
「だから、どうして私が何を望んでいるか聞いてくれないのですか!」
その言葉は、アマリリアの胸にも重く落ちた。
父ハロルドが勝手に婚約を決めたとき。
アマリリアも同じだった。
自分がどうしたいのかを聞かれなかった。
だから。
逃げようとした。
今、ルシアも同じものと向き合っている。
善意。
愛情。
父親だから。
その言葉を理由に、誰かが勝手に未来を決めること。
「私は」
ベルドが低い声で言った。
「君に苦労をさせたくなかった」
「私は苦労していましたか?」
「……」
「メイベル家で」
「養われて」
「幸せでした!」
ルシアは即答した。
「お父様も、お母様も、姉様たちも、私を家族にしてくださいました」
ベルドの顔に苦いものが浮かぶ。
「血は」
「血の話はもうやめてください!」
ルシアは涙を手の甲で拭った。
「あなたと私に血の繋がりがあることは分かりました。でも、それだけで私があなたをお父さんと呼ばなくてはいけないのですか?」
「……」
ベルドは何も言えなくなる。
それでもルシアは続けた。
「あなたが私を気にかけていたのかもしれないとは思います」
アマリリアは少し驚いた。
ルシアはただ拒絶するために来たのではない。
相手が何を思っていたのか。
それも聞こうとしている。
「公爵家へ入れれば幸せになると思ったのかもしれません」
「そうだ」
ベルドがすがるように答えた。
「私は君を」
「でも」
ルシアは静かに止めた。
「そのために傷ついた人がいます」
ベルドが黙る。
「アマリリア様。三人の令嬢。カルロス様。そして、私です」
最後の言葉で、ベルドの表情が僅かに揺れた。
「私は、あなたに攫われるまで、自分の生まれを疑ったこともありませんでした」
「……」
「知らなくてよかったとは言いません。でも、知るなら」
ルシアはベルドを真っ直ぐ見た。
「こんな形では知りたくなかったです」
ベルドは完全に黙った。
◇◇◇
しばらく誰も声を出さなかった。
面会室の外から、遠くを歩く騎士の足音が聞こえる。天井の魔石灯が微かな駆動音を立て、あとは誰かの呼吸だけが静かな部屋へ残っていた。
ベルドは俯いたまま。
ルシアは目を赤くしながら、答えを待っている。
やがて。
ベルドが口を開いた。
「私は、君に会えなかった」
声は、さっきまでよりずっと弱かった。
「会いに行けなかった」
「なぜ?」
「怖かった」
ルシアの目が僅かに動く。
「メイベル家へ引き取られた君は、私が思っていたよりずっと良い暮らしをしていた。私が名乗れば、君の生活を壊すと思った」
「では」
「だから、せめていつか」
ベルドは苦しそうに言葉を続けた。
「私より上の場所へ行ってほしかった」
「公爵家へ?」
「ああ」
「それが、私の幸せだと?」
「そう思った」
ベルドは初めて。
「そうだ」
ではなく。
「思った」
と言った。
「でも」
ルシアは静かに続ける。
「聞かなかった」
「……」
「私に」
「ああ」
短い返事だった。
「聞かなかった」
ルシアは目を伏せる。
ようやく。
聞きたかった答えに近づいた。
「なぜ?」
ベルドは長く黙った。
そして。
「聞いて」
掠れた声が落ちた。
「君が違うと言ったら」
ルシアが顔を上げる。
「私のしてきたことが、全部間違いになるからだ」
アマリリアの表情が変わった。
ライルも黙ったままベルドを見る。
「私は、自分が君のためにやっていると思いたかった。そうでなければ」
ベルドが握り締めた拘束具から、金属の擦れる小さな音がした。
「ただ、自分の失ったものを取り返すために、娘を利用しただけになる」
ルシアの目から、また涙が落ちた。
「……そうですか」
ベルドは顔を上げられない。
「だから、聞かなかったのですね」
「ああ」
「私を守るためではなく」
「……」
「自分が間違っていないと思いたかったから」
ベルドは、今度こそ何も言えなかった。
それが。
答えだった。
◇◇◇
ルシアはしばらく泣いていた。
声を上げることはなかった。
ただ静かに。
何度拭っても、涙が頬を伝った。
アマリリアは何度も手を伸ばしたくなった。
それでも動かなかった。
約束したから。
代わりに怒らない。
代わりに答えを出さない。
ルシアが自分で話す、その最後まで。
しばらくして、ルシアが顔を上げた。
「ベルド・カシアンさん」
その呼び方に、ベルドの肩が僅かに動いた。
父ではない。
「はい」
ベルドは初めて、静かに丁寧な返事をした。
「私は、あなたを父親だとは思えません」
ルシアははっきり言った。
「今は」
アマリリアの目が僅かに動く。
ルシアは。
その二文字を。
残した。
「これから思えるようになるかも分かりません。たぶん、簡単には無理です」
「分かっている」
「でも、今日話してくれたことは覚えておきます」
ベルドが少し顔を上げた。
「私のためだと思いたかったことも。本当は、自分のためでもあったことも。全部」
ルシアは涙を拭った。
「でも、許すかはまだ決めません」
「それでいい」
ベルドの声は小さかった。
「私に許される資格があるとも思っていない」
ルシアは少しだけ目を閉じたあと、ゆっくり息を吐いた。
「私、メイベル家へ帰ります」
「ああ」
「お父様と、お母様に、ちゃんと話します」
一瞬。
ベルドの表情が揺れた。
それでも何も言わなかった。
「私に実の父親がいたことも。その人と今日会ったことも。そして」
ルシアの声が少しだけ柔らかくなる。
「私にとってのお父様は、これからもメイベル男爵です」
ベルドは目を閉じた。
長い沈黙のあと。
「……そうか」
それだけ。
「ごめんなさい」
ルシアが言う。
「謝る必要はない」
「はい」
ベルドは少しだけ笑った。
苦い笑み。
それでも、昨日まで見せていた歪んだものとは違っていた。
「ルシア」
「何ですか」
「最後に、一つだけ」
ベルドは迷いながら尋ねた。
「幸せだったか」
ルシアの目が少し大きくなる。
初めてだった。
ベルドが決めつけるのではなく。
ルシアへ尋ねた。
「はい」
ルシアは答えた。
「幸せです」
ベルドの顔がゆっくり崩れた。
「そうか」
その一言が少し震える。
「……よかった」
ルシアは、それ以上何も言わなかった。
ゆっくり椅子から立つ。
「終わりにします」
ライルが静かに頷く。
「分かった」
アマリリアも立ち上がった。
ルシアは扉へ向かいかけて。
一度だけ振り返る。
「ベルドさん」
「何だ」
「私が幸せかどうか」
少しだけ間を置き。
「最初に聞いてくれればよかったのに」
ベルドは。
最後まで。
顔を上げられなかった。
◇◇◇
面会室を出た途端、ルシアの足が止まった。
廊下には人がほとんどおらず、ディーンも少し離れた場所へ移動している。
今度は。
アマリリアも。
待たなかった。
「ルシアさん」
近づく。
ルシアはアマリリアを見た瞬間、張り詰めていた顔を歪めた。
「アマリリア様」
「はい」
「私」
「ええ」
「ちゃんと聞けました」
「はい」
そして。
ルシアが泣いた。
アマリリアは今度こそ彼女を抱きしめた。
「よく頑張りました」
「怖かったです」
「ええ」
「聞きたくない答えだったらどうしようって」
「ええ」
「でも」
ルシアはアマリリアの肩へ顔を押しつけた。
「聞いてよかったです」
「そうですか」
「はい」
ライルは少し離れた場所で見守っていた。
アマリリアはルシアの背中をゆっくり撫でながら、何も急かさなかった。
泣く時間が必要なら。
そのままでいい。
しばらくして、ルシアが自分から身体を離した。
「すみません」
「なぜ?」
「服が」
アマリリアの肩には少し涙の跡が残っている。
「この程度」
「でも」
「王妃様に新しいドレスを作っていただく予定ですので」
「そういう問題です?」
ルシアが泣きながら笑った。
「少し安心しました」
「何が?」
「いつものアマリリア様です」
「まあ」
アマリリアも笑った。
ライルが近づいてくる。
「大丈夫?」
「はい」
ルシアは目元を拭った。
「殿下も、ありがとうございました」
「俺は何もしてない」
「いてくださいました」
「それなら」
ライルは少し笑った。
「どういたしまして」
ルシアは深く息を吸った。
「私、今日はメイベル家へ帰りたいです」
「父上へ話す?」
「はい」
「分かった」
「学園は?」
アマリリアが尋ねる。
ルシアは一度考えてから答えた。
「明日は行きたいです」
「無理はなさらず」
「しません」
ルシアは少しだけ笑った。
「でも、逃げたくないです」
アマリリアの表情が柔らかくなった。
「似ましたわね」
「誰に?」
ルシアが首を傾げる。
ライルがすぐに口を挟んだ。
「聞かない方がいい」
「殿下?」
「絶対アマリリアって言う」
「まあ、正解です」
「やっぱり!」
ルシアがまた笑った。
今度の笑いは。
さっきより。
ずっと自然だった。
◇◇◇
ルシアをメイベル家へ向かう馬車まで見送ったあと、アマリリアとライルは北棟を離れ、王宮本棟へ続く長い回廊を歩いていた。
午後の日差しは少し弱まり、大きな窓から差し込む柔らかな光が床へ細長く伸びている。
「殿下」
「何だ」
「私、怒らずにいられました」
「うん」
「かなり偉くありません?」
「そこ、自分で褒める?」
「努力しました」
「俺も」
「殿下もです?」
「途中、何回かベルドへ言いたいことがあった」
「私もです」
ライルは少し前を見ながら言った。
「でも、ルシア嬢の話だったから」
「ええ」
二人とも。
同じことを。
理解していた。
「殿下」
「何だ」
「ベルド様、最後にようやくルシアさんへ聞きましたわね」
「『幸せだったか』って?」
「はい」
「ああ」
「遅すぎました」
「うん」
「でも」
アマリリアは少しだけ歩調を緩めた。
「聞けたのは、よかったと思います」
「俺も」
その返事を聞き、アマリリアはしばらく黙った。
そして。
ふと。
自分の父を思い出した。
ハロルド。
勝手に婚約を決めた父。
それでも最近は少し変わり。
『殿下に頼れ』
そう言えるようになった父。
「アマリリア?」
「はい」
「また考え事?」
「お父様のことを」
「ハロルド殿?」
「ええ」
ライルの顔に露骨な警戒が浮かぶ。
「嫌な予感しかしない」
「なぜです?」
「昨日、婚約発表後に会いに行くって言ってたから」
「その話ではございません」
「違う?」
「少しだけ」
アマリリアは窓の外へ視線を向けた。
「私も、お父様に勝手に婚約を決められたとき、話を聞いてもらえなかったと思いました」
「……うん」
「だから」
アマリリアは少し考えた。
「婚約発表の前に、一度ちゃんと話した方がよいかもしれません」
ライルの足が止まった。
「前に?」
「はい」
「俺も?」
アマリリアは笑顔で頷いた。
「もちろん」
「やっぱり」
「逃げませんわよね?」
「……」
「殿下?」
「行く」
「よろしい」
「でも」
「何です?」
「俺、今日から心の準備する」
「まだ四日もございます」
「四日しかない」
「大袈裟ですわ」
「君の父親だぞ?」
「私の父親だからこそです」
「それが怖いんだよ」
アマリリアは楽しそうに笑った。
その声が、静かな回廊へ柔らかく響いていく。
正式な婚約発表まで、あと四日。
その前に。
ルシアは実の父親と向き合い、自分の答えを選んだ。
許すかどうかも。
父親と呼ぶかどうかも。
これからどうするかも。
誰かに決めさせなかった。
そして今度は。
アマリリア自身が。
押し付けられた婚約の始まりとなった父親と。
もう一度。
自分の言葉で。
きちんと向き合う番だった。




