第22話 脅して始めた婚約でしたのに、今さら正式な申込書を書けと言われましても
ルナティック王立学園から王宮へ戻る馬車の中で、ライルは何度目になるのか分からないため息をついていた。
窓の外では午後の日差しを受けた王都の街並みがゆっくりと流れている。学園での公開説明を終えたばかりの二人を乗せた馬車は王族用のものではあるが、今日は必要以上に目立たないよう、紋章を控えめにした車両が選ばれていた。
だからといって、車内の空気まで控えめになるわけではない。
「殿下」
「何だ」
「先ほどからため息ばかりですわね」
「誰のせいだと思ってる?」
「王妃様?」
「半分正解」
「では、残り半分は?」
ライルは向かいに座るアマリリアをじっと見た。
「君」
「まあ」
アマリリアは驚いたように目を見開いたあと、何事もなかったかのように紅茶へ手を伸ばした。馬車に備え付けられた小さな保温壺から注がれた茶はまだ温かく、ほんのりとした柑橘の香りが車内へ広がっている。
「なぜ私が?」
「学園であんなに堂々と『婚約を望んでおります』なんて言うから」
「事実でしょう?」
「事実だけど」
「では、問題ございませんわね」
「ある」
「どこに?」
「俺の心の準備に」
アマリリアはティーカップを口元まで運びかけて止めた。
「殿下」
「何だ」
「今さらです?」
「今さらだから困ってるんだよ」
「まあ」
「何だ」
「可愛いですわ」
「それを言うな!」
馬車の前方から、御者が僅かに咳払いしたような音が聞こえた。
恐らく、かなり聞こえている。
ライルは額へ手を当てた。
「絶対、王宮に着く頃には侍従まで知ってる」
「よろしいではありませんか」
「何が」
「殿下が私との婚約を嫌がっていないことが広まります」
「今日でもう十分広まった!」
「確かに」
アマリリアは楽しそうに笑った。
けれど、その笑顔の奥に僅かな疲れがあることを、今のライルは見逃さない。
公開説明の場では気丈に振る舞っていた。
カルロスの予想外すぎる暴走へ呆れ、三令嬢の告白を見守り、ルシアの意思を尊重し、大勢の生徒の前で自分自身について流された噂を正面から否定した。
全部が終わって食堂を出たあと、アマリリアの肩からほんの少しだけ力が抜けたことを、ライルは覚えている。
「アマリリア」
「何でしょう」
「疲れた?」
「少し」
「少し?」
「……かなりではございません」
「じゃあ、それなりに」
「殿下」
「何だ」
「最近、妙に私の言葉の裏を読みますわね」
「付き合いが長くなってきたから」
「まだそれほど長くありませんけれど」
「濃いんだよ」
「何がです?」
「全部」
屋上で黒装束に囲まれ、首筋へ刃物を突きつけられて婚約を迫られた。
その後は互いの事情を知り、家同士の問題へ踏み込み、王家の事情へ巻き込まれ、北の森へ行き、学園の嫌がらせ事件を追い、誘拐事件まで起きた。
短期間に起きたこととしては、確かに密度が高すぎる。
「普通の婚約って」
ライルは窓の外へ目を向け、少し遠い目をした。
「もっと、こう……穏やかに始まるものじゃないのか?」
「例えば?」
「親同士の話があって」
「私はそれでカルロス様と婚約させられました」
「……そうだった」
「他には?」
「本人同士で気持ちを確かめて」
「私は殿下へ刃物を突きつけて確認しました」
「確認じゃない」
「では交渉?」
「脅迫」
「言い方の問題ですわ」
「重要なところだ」
アマリリアは少し考えるように頬へ指を添えた。
「ですが、結果として普通に婚約を進めたカルロス様との話はなくなり、脅迫から始まった殿下との婚約が正式になろうとしている」
「うん」
「人生とは分からないものですわね」
「他人事みたいに言うな」
ライルはまたため息をついた。
それでも、今回は少しだけ笑っていた。
◇◇◇
王宮へ到着した二人を待っていたのは、予想以上に本格的な婚約準備だった。
王宮西棟。
王族が私的な客を迎えるために使う中規模の応接室は、普段であれば十人ほどで落ち着いて話すための静かな空間である。
だが今日は、明らかに様子がおかしい。
長机が追加され、その上には書類、招待客候補一覧、王都内の式典会場図、仕立屋から届いた布見本、宝飾商が提出した装飾品の意匠案まで並べられている。壁際にはドレス用の採寸道具が置かれ、別の机には大量の封筒と筆記具、その横には軽食まで準備されていた。
アマリリアとライルは部屋の入口で並んだまま、しばらく中を見渡した。
「殿下」
「何だ」
「戦争でも始まりますの?」
「婚約だ」
「規模が似ております」
「俺もそう思う」
「二人とも」
奥から声がした。
王妃セレーネが、穏やかな笑顔を浮かべて立っている。
「帰って早々、何を失礼なことを言っているのかしら?」
「母上」
「何?」
「これは今日一日で用意したのですか」
「違うわ」
「よかった」
「昨日から」
「もっと悪い!」
セレーネは何でもないことのように答えた。
「学園の騒ぎが終われば、婚約を正式に発表すると決めていたでしょう?」
「だからって」
「準備は必要よ」
「まだ日程も決めてません」
「今から決めるの」
ライルは完全に言葉を失った。
その隣では、アマリリアが机に並んだ資料を興味深そうに眺めている。
「王妃様」
「何かしら、アマリリアさん」
「こちらの布見本は?」
「婚約披露用のドレス候補よ」
「この薄い銀色、とても綺麗ですわね」
「あなたに似合うと思うの」
「素敵ですわ」
「でしょう?」
「アマリリア」
ライルが思わず呼ぶ。
「何です?」
「順応早すぎない?」
「服は好きですので」
「母上側についた」
「私はどなたの側にもついておりません」
「今、完全に母上側だった」
「ライル」
セレーネが眉を上げる。
「婚約者のドレスに興味を持ちなさい」
「興味がないとは言ってないでしょう!」
「では、どれが似合うと思う?」
「え?」
急に聞かれて、ライルの動きが止まった。
セレーネとアマリリアが揃って彼を見る。
「……」
「殿下?」
「待って」
「何を?」
「ちゃんと見る」
ライルは仕方なく布見本へ近づいた。
銀、淡青、白、深い紺、薄紫。色だけでなく、生地の光沢や刺繍の入り方、厚みまで少しずつ違う。
普段のライルなら、どれも大差のない布に見えたかもしれない。
でも、これをアマリリアが着るのだと考えると。
少し。
見え方が変わる。
「これ」
ライルが一枚を指した。
淡い青みを帯びた銀色の布。
光の角度によって色合いが僅かに変わり、銀髪のアマリリアにもよく合いそうだった。
「まあ」
セレーネの目が輝く。
「私もそれが一番だと思っていたの」
「では聞かなくても」
「ライルの意見が大事なの」
「……」
アマリリアは布を自分の肩へ軽く当て、ライルの前で少し角度を変えてみせた。
「いかがです?」
ライルは一瞬だけ答えに詰まる。
「似合う」
「それだけ?」
「え?」
「殿下」
「何だ」
「もっと」
「要求多くない?」
「婚約者ですので」
「その言葉、便利すぎるだろ!」
セレーネは楽しそうに二人を眺めていた。
「いいわね」
「何がです、母上」
「若いって」
「その感想やめてください」
そこへ扉が開き、国王アルベルトが入ってきた。
「楽しそうだな」
「父上」
「陛下」
アマリリアがすぐに立ち上がり、礼を取る。
「楽しいのは母上だけです」
「何を言うの、ライル」
「俺はさっきから追い詰められてます」
「婚約準備で?」
「はい」
アルベルトは息子を見たあと、肩を竦めた。
「幸せな悩みだな」
「父上まで」
「それで、学園はどうだった?」
国王が席へ着くと、部屋の空気が少し変わった。
アマリリアもすぐに真面目な表情へ戻る。
「大きな混乱はございませんでした」
「噂は?」
「完全に消えたとは申しません。ただ、少なくとも私がルシアさんへ嫌がらせを命じていたという話は、かなり弱まったと思います」
「三人は?」
「自分たちがしたことを認めました。ルシアさんも、今すぐ許せるとは言えないことを正直に伝えています」
「それでいい」
アルベルトは静かに頷いた。
「許すことを強制する必要はない」
「はい」
「カルロスは?」
その名前が出た瞬間、ライルとアマリリアは一度顔を見合わせた。
アルベルトが眉を寄せる。
「何だ」
「父上」
「うん」
「台本通りでした」
「は?」
「最初だけですけれど」
アマリリアが補足する。
「本人は台本の存在を知らないまま、食堂中央で『アマリリア・ベスター、私は貴様とは結婚しない』と」
アルベルトが黙った。
セレーネも黙った。
数秒。
「……陛下?」
「少し待て」
アルベルトは額へ手を当てた。
「偶然か?」
「本人は誤解を解こうとしたらしいです」
「なぜそれでその言葉になる」
「カルロス様ですので」
アマリリアが答えた。
「その一言で納得できそうになる自分が嫌だ」
アルベルトは深いため息をついた。
「グレイアスが気の毒だな」
「私もそう思います」
「俺も」
ライルも頷く。
さらにセレーネまで、小さく頷いた。
「私もよ」
四人の意見が、珍しく完全に一致した。
「……宰相に休暇をやるか」
「陛下」
「冗談だ」
「本気でもよろしいかと」
アマリリアが返すと、部屋に小さな笑いが生まれた。
しかし、学園の話が一段落したところで、セレーネはすぐに本題へ戻った。
「では、婚約の正式手続きを進めましょう」
机の中央へ二枚の書類が置かれる。
ライルが少し嫌そうな顔をした。
「母上」
「何?」
「やっぱり逃げられない?」
「何から?」
「何でもないです」
アマリリアは書類を覗き込んだ。
「こちらは?」
「王家婚約申請書よ」
「申請書」
「王族の婚約ですもの。本人同士が口頭で意思確認しただけでは終わらないわ」
「まあ」
セレーネは二枚を並べる。
「一枚はライル用」
「はい」
「もう一枚はアマリリアさん用」
「私も?」
「当然でしょう?」
アマリリアは少し目を丸くした。
「てっきり、殿下側から正式にお申込みいただくものかと」
「儀礼上はそういう形になるけれど」
アルベルトが説明を引き継ぐ。
「現在の王家では、婚約する双方が自分の意思で申請書へ署名することになっている」
「本人の意思確認ですか」
「そうだ」
「素晴らしい制度ですわね」
アマリリアの反応に、アルベルトは少し笑った。
「君には合うだろう」
「とても」
アマリリアは書類を受け取った。
上部には名前、家名、生年月日、身分、婚約を希望する相手を書く欄が並んでいる。
そこまでは問題ない。
だが。
一番下の項目を見た瞬間。
アマリリアの手が止まった。
「どうした?」
ライルが横から覗く。
そこには。
『婚約を希望する理由』
と書かれていた。
「殿下」
「何だ」
「困りました」
「君が?」
「ええ」
「珍しい」
「殿下」
「ごめん」
ライルも自分の申請書へ目を落とした。
そして。
同じところで止まる。
「……」
「殿下?」
「俺も困った」
「珍しいですわね」
「返された」
セレーネは向かい側から二人を楽しそうに見ていた。
「正直に書けばいいでしょう?」
「母上」
「何?」
「それが難しいんです」
「なぜ?」
ライルがアマリリアを見る。
アマリリアも彼を見る。
最初に婚約を持ちかけた理由なら、簡単だった。
カルロスと結婚したくない。
そのために第一王子という立場を利用したい。
それだけだった。
ライル側も似たようなものだ。
互いの婚約問題を片づけるための協力関係。
事が済めば終わる。
そういう約束だった。
けれど。
今は違う。
では何が変わったのか。
いつから変わったのか。
その全部を。
この小さな欄にどう書けばいいのだろう。
「王妃様」
アマリリアが尋ねる。
「何か例文は?」
「ないわ」
「本当に?」
「自分で書きなさい」
「厳しい」
「こういうところは厳しくするの」
セレーネは穏やかに言った。
「王家へ入るかもしれない相手に、なぜその人と婚約したいのかを自分の言葉で書いてもらう。それくらい当然でしょう?」
アマリリアはもう一度、紙へ視線を落とした。
確かに。
当然なのかもしれない。
誰かに押し付けられた婚約ではない。
父が勝手に決めた相手でもない。
逃げるためだけの仮の関係でもない。
今は。
自分で選ぶ。
だからこそ。
自分の言葉で。
書く。
「では」
アマリリアはペンを取った。
「書きます」
「もう?」
ライルが驚く。
「はい」
「何て?」
「見ないでくださいませ」
「俺のことだろ?」
「それでもです」
アマリリアは片手で用紙を隠した。
「殿下もご自分のものを書いてください」
「……」
「まさか」
「何だ」
「私より遅い?」
「煽るな」
「頑張ってくださいませ」
「絶対楽しんでるだろ」
「少し」
アマリリアは笑いながらペン先を紙へ置いた。
けれど。
すぐには動かなかった。
最初に思い浮かんだのは、あの日の屋上だった。
『知らん、帰れ』
心底面倒そうに言われた。
それが気に入らなくて。
黒装束を呼び。
刃物まで突きつけた。
今になって思えば。
かなり酷い。
かなりどころではない。
けれど、ライルはそのあと話を聞いた。
アマリリアの事情を。
カルロスとの婚約を嫌がる理由を。
市井で穏やかに暮らしたいという夢まで。
そして条件付きとはいえ、協力を受け入れた。
そのあとは。
気づけば。
何度も隣にいた。
自分が無茶をすれば怒って。
危険な場所へ行こうとすれば止めて。
それでも全部を奪うのではなく、最後には一緒に考えてくれる。
誰かに守られることを窮屈だと思っていたはずなのに。
ライルに心配されることは。
少し。
嬉しい。
自分でも驚くほど。
アマリリアはゆっくりと書き始めた。
『私が自分の意思で未来を選ぶ時、隣にいてほしいと思った方だからです。』
そこまで書き、一度止まる。
少し恥ずかしい。
でも。
まだ足りない。
さらに一文を続けた。
『最初は互いの都合から始まった関係でしたが、今はライル・アースハルト殿下ご本人を婚約者として望みます。』
書き終わったところで、アマリリアは静かに息を吐いた。
自分で読み返すと、急に頬が熱くなってくる。
「アマリリアさん」
セレーネが呼んだ。
「はい」
「耳が赤いわ」
「気のせいです」
「そう?」
「ええ」
「見せて」
「嫌です」
「私が確認するのよ?」
「最後に」
「まあ」
セレーネは楽しそうに笑った。
一方。
ライルは。
まだ白紙だった。
「殿下」
「何だ」
「まだ?」
「急かすな」
「私、もう書きました」
「聞こえてる」
「婚約者になる方が、私より決断が遅いとは」
「君の場合、決断が速すぎるんだ」
「では殿下は遅すぎる」
「普通だ!」
アルベルトが横から笑った。
「ライル」
「父上」
「王太子教育の文書より悩んでないか?」
「比べないでください」
「国家予算案より?」
「父上!」
セレーネとアマリリアが揃って笑う。
「殿下」
「何だ」
「頑張って」
「その顔で言うな」
「応援です」
「絶対違う」
ライルはしばらくペンを握ったまま、白い紙を見つめた。
最初。
自分もアマリリアを利用するつもりだった。
自分の婚約問題を片づけるため。
ただそれだけ。
少なくとも、そう思っていた。
けれど今。
その理由だけでは。
もう説明できない。
アマリリアは面倒だ。
無茶をする。
人を脅す。
口も強い。
自分で何でもできると思っている。
実際、大抵のことはできてしまう。
それでも。
誰かが傷ついていると放っておけない。
自分自身が傷ついても、それを隠して前へ進もうとする。
だから。
守りたいと思った。
でも。
今は。
それだけでもない。
頼られたい。
自分にだけ見せる困った顔を、もっと見たい。
笑っている顔を。
近くで。
もっと見たい。
自分の隣で。
ライルはようやくペンを動かした。
『彼女が自分の人生を自分で選ぶ時、その隣に立つ者でありたいと思ったため。』
一度止まり。
さらに一文。
『そして、私自身がアマリリア・ベスターを望んでいるため。』
書き終えた瞬間。
「殿下」
「何だ」
「耳が赤いですわ」
「君もだっただろ!」
「やはり見ていましたのね」
「見える位置にいるんだよ!」
アマリリアは楽しそうに笑った。
「では、交換します?」
「何で?」
「読みたいです」
「嫌だ」
「私は殿下の婚約者になる予定なのに?」
「関係ない」
「王妃様」
「駄目よ、アマリリアさん」
「まあ」
「本人が渡したくなるまで待ちなさい」
「はい」
アマリリアは思った以上にあっさり引いた。
ライルはその反応へ少し驚く。
「引くの早いな」
「待つことも覚えましたので」
「……」
その言葉が。
ライルの胸へ。
少し。
残った。
最初のアマリリアなら。
見たい。
そう思ったら。
たぶん取った。
黒装束まで使ったかもしれない。
でも今は。
待つ。
と言った。
「アマリリア」
「何でしょう」
ライルは少し迷った。
それから。
自分の申請書を差し出した。
「読んでいい」
「まあ」
「その顔やめろ」
「嬉しいのです」
アマリリアは書類を受け取り、ゆっくり目を通した。
二文。
それだけ。
でも。
読み終わったあと。
すぐには。
何も言えなかった。
「……」
「何だよ」
「殿下」
「何」
「ずるいです」
「何が?」
「私より素敵なことを書いております」
「知らないよ」
「悔しい」
「そこ?」
アマリリアは少しだけ悔しそうにしながらも、自分の申請書をライルへ差し出した。
「では、殿下も」
「いいの?」
「はい」
ライルは受け取り、文字を追った。
一文目。
二文目。
そして。
少し黙る。
「……」
「何です?」
「いや」
「嫌?」
「逆」
「またです?」
「君」
ライルは用紙からアマリリアへ目を向けた。
「これ、本当に書いた?」
「私以外、誰が書きますの?」
「最初に俺を脅した人と同じ?」
「失礼ですわね」
「だって」
ライルは少しだけ笑った。
「嬉しい」
アマリリアの表情が止まる。
「殿下」
「何だ」
「それを正面から言われますと」
「うん」
「困ります」
「知ってる」
「仕返し?」
「少し」
「成長しましたわね」
「君のせいだ」
二人の間に静かな時間が流れた。
気まずい沈黙ではない。
自分が書いた言葉を相手が読んだ。
その恥ずかしさと。
嬉しさが。
まだ。
少し残っている。
「よろしいかしら?」
セレーネが声をかけると、二人は同時に少しだけ姿勢を直した。
「はい」
「確認するわね」
王妃が二枚を受け取り、丁寧に目を通す。
余計な茶化しはしなかった。
読み終えると、そのままアルベルトへ渡す。
国王も内容を確認し。
少しだけ笑った。
「問題ないな」
「ええ」
セレーネは二枚の書類を重ねる。
「では、正式な婚約申請として受理します」
アマリリアは思わず目を少し見開いた。
ライルも一瞬だけ表情を変える。
「これで?」
アマリリアが尋ねる。
「まだ王家内の承認手続きはあるけれど」
アルベルトが答える。
「実質的には、もう覆す理由はない」
その言葉を聞いて。
アマリリアはゆっくりライルを見た。
「では、本当に」
「ああ」
ライルもアマリリアを見る。
「婚約者だ」
今まで。
何度も。
その言葉は使ってきた。
冗談で。
交渉の中で。
仮の関係として。
周囲へ説明するために。
でも。
今日。
初めて。
言葉の重さが。
少し違う。
「殿下」
「何だ」
「もう脅迫ではありませんわね」
「今さらそこ確認する?」
「重要です」
「うん」
ライルは少しだけ笑った。
「俺が自分で選んだ」
アマリリアの表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「私もです」
それだけだった。
けれど。
その短い言葉の中には。
これまでのことが。
全部。
詰まっていた。
父が勝手に決めた婚約。
逃げるために始めた関係。
互いに利用し合うはずだった約束。
事が済めば。
終わるはずだった。
でも今は。
自分で選んだ。
「では」
セレーネがぱん、と手を叩いた。
「次は婚約披露の日程ね」
「母上!」
良い雰囲気だった空気が、一瞬で現実へ戻る。
「何?」
「今、良い雰囲気だったでしょう!」
「だから何?」
「少しくらい余韻を!」
「婚約は余韻だけでは進まないの」
「正論が強い!」
アマリリアが口元へ手を当てて笑った。
「殿下」
「何だ」
「王妃様、素晴らしいですわね」
「君まで!」
「では日程を」
「アマリリア!」
セレーネは満足そうに資料を開いた。
「候補は三日後、五日後、一週間後」
「早い!」
「何が?」
「婚約発表ですよね?」
「そうよ」
「せめて一月後とか」
「駄目」
「なぜ!」
「もう学園中が知ってるから」
「……」
「今日、あなた自身が『嫌なわけない』と言ったのでしょう?」
「母上、もう知ってるの!?」
セレーネはにっこり笑った。
「王宮を侮らないで」
ライルは顔を覆った。
「終わった」
「何がです?」
「俺の平穏」
「最初からございませんでしたわよ」
「君が言うな!」
アルベルトまで笑っている。
「まあ、五日後あたりが妥当だろう」
「父上まで」
「学園の件も、その頃には一次的な処分方針がまとまる」
「ベルドたちの処分までは終わらないのでしょう?」
「それは別だ。正式処分にはもう少し時間がかかる」
アマリリアは少し考えた。
「三令嬢の処分方針は?」
「明日には学園側から一次判断が出る予定だ」
「ルシアさんとベルド様の面会は?」
「本人の心身状態を見ながら、早くても明後日以降で調整する」
アマリリアは頭の中で予定を整理した。
「では、五日後なら」
「間に合うわね」
セレーネが即答する。
「ドレスも」
「そこですの?」
「重要よ」
ライルが横から口を挟んだ。
「母上」
「何?」
「アマリリアを休ませる時間も取ってください」
「もちろんよ」
「本当に?」
「明日の午前は何も入れないわ」
「午後は?」
「採寸」
「休みじゃない!」
「午前は休みでしょう?」
「半分!」
アマリリアは思わず笑った。
そのまま少し考え。
セレーネを見る。
「王妃様」
「何?」
「五日後で」
ライルがすぐアマリリアを見た。
「いいの?」
「はい」
「急じゃない?」
「急です」
「なら」
「でも」
アマリリアは少しだけ笑った。
「待ちたくないです」
ライルの動きが止まった。
「……」
「殿下?」
「君」
「はい」
「今日、本当に強いな」
「何がです?」
「そういうの」
「本心ですもの」
「だから」
ライルの耳がまた少し赤くなる。
「困る」
「では」
アマリリアはほんの少し身体を寄せた。
「五日後、婚約者として皆様へご挨拶いたしましょう?」
ライルはしばらく黙っていた。
でも最後には。
少し笑った。
「ああ」
セレーネが満足そうに頷く。
「決まりね」
アルベルトも書類を手に取った。
「では正式に予定を押さえる」
「はい」
アマリリアは頷いた。
胸の奥。
少し。
高鳴っている。
逃げるために始めた婚約なのに。
今は。
発表の日が来ることを。
待っている。
不思議だった。
でも。
嫌ではない。
むしろ。
嬉しい。
◇◇◇
会議が終わったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
最終的に、正式婚約発表は五日後。
王宮の大広間で、王族、主要貴族、王宮高官を招いて行われることになった。披露宴ほど大規模なものにはせず、まずは正式な婚約発表と二人からの挨拶を中心にする。
それでも、アマリリアにとっては十分すぎるほど大きな予定だった。
「疲れましたわ」
王宮の廊下を歩きながら呟くと、隣のライルがすぐこちらを見る。
「学園より?」
「種類が違います」
「分かる」
「学園は精神的に」
「うん」
「王妃様との婚約準備は物理的に」
「母上、資料多いからな」
「でも、楽しいです」
ライルが一瞬黙った。
「何です?」
「いや」
少しだけ前を向いたまま。
「嬉しい」
「また」
「何?」
「そういうことを急に」
「君が先に言ったんだろう」
「最近、殿下も強くなりましたわね」
「君相手にはこれくらい必要だと分かった」
「良い傾向です」
二人はそのまま並んで廊下を歩いた。
夕方の王宮には、窓から橙色の光が斜めに差し込み、磨かれた床へ二人分の長い影を作っている。
しばらく言葉はなかった。
けれど。
気まずくはない。
アマリリアはふと、先ほど書いた婚約申請書を思い出した。
「殿下」
「何だ」
「婚約理由」
「うん」
「本当に、あれでよろしかったのです?」
「何で?」
「もっと王家への貢献ですとか、家同士の関係ですとか」
「いらないだろ」
「そうです?」
ライルは少し歩調を緩めた。
「俺は、君と婚約したい理由を書けって言われた」
「はい」
「だから君のことを書いた」
アマリリアは少し黙った。
「殿下」
「何」
「今日は本当に」
「何だよ」
「格好いい日ですわね」
「普段は?」
「可愛いです」
「結局それか!」
ライルの声が廊下へ響き、ちょうど通りかかった侍女が頭を下げながら肩を小さく震わせた。
笑うのを我慢している。
「殿下」
「何だ」
「侍女の方に笑われましたわ」
「君のせいだ!」
「私は褒めただけです」
「褒め方!」
アマリリアは楽しそうに笑った。
けれど。
笑いながら。
少しだけ。
別の気持ちも湧いてくる。
五日後。
正式な婚約者として発表される。
もう。
仮ではない。
用が済んだら婚約破棄する。
そんな関係でもない。
それはつまり。
王家へ入る未来が。
急に。
現実味を帯びるということでもある。
自分は本当に。
第一王子の婚約者として。
うまくやれるのだろうか。
「アマリリア?」
ライルの声で我に返る。
「はい」
「また考え込んでる」
「少し」
「何を?」
アマリリアは一瞬だけ迷った。
以前なら。
大丈夫だと。
笑って。
終わらせたかもしれない。
でも最近。
少しだけ。
言うことを覚えた。
「王家の婚約者として、ちゃんとできるかと思いまして」
ライルの表情が少し変わる。
「今さら?」
「殿下」
「ごめん」
ライルは少し笑ったあと、廊下の途中で足を止めた。
「でも、完璧じゃなくていい」
「……」
「母上も父上も、君が完璧だから婚約を認めたわけじゃない」
「でも」
「俺も完璧な王子じゃない」
「それは存じております」
「そこは即答するんだ」
「事実ですので」
「ひどい」
「でも」
アマリリアも立ち止まり、少し笑った。
「好きです」
今度はライルが黙る。
「……」
「ですから、私も完璧でなくてもよろしい?」
「うん」
「失敗しても?」
「うん」
「たまに黒装束を使っても?」
「それは要相談」
「まあ」
「そこは即答できない」
「残念です」
「残念がるな」
それでもライルは笑った。
「失敗したら、一緒に考える」
アマリリアの目が少し柔らかくなる。
「一緒に?」
「もう何回もやってるだろ」
「そうですわね」
「だから」
ライルが手を差し出す。
「五日後も」
アマリリアはその手を見た。
「手を繋いで入場するのです?」
「多分」
「王妃様がお許しになります?」
「母上ならむしろ喜ぶ」
「確かに」
アマリリアはその手へ自分の手を重ねた。
「では、五日後も一緒に」
「ああ」
指が少しだけ絡む。
夕日を受けて、床へ伸びた二人の影も重なった。
最初にこの手を取ろうと思った理由は。
逃げるためだった。
でも今は。
自分から。
離したくないと思う。
「殿下」
「何だ」
「一つだけ」
「何?」
「正式婚約発表が終わったあと、お父様へ報告に行きましょう」
ライルの表情が固まった。
「……ハロルド殿?」
「はい」
「君の父親?」
「他におりません」
「いや」
ライルは一度息を吸った。
「絶対騒ぐだろ」
「ええ」
「泣く?」
「恐らく」
「俺に絡む?」
「かなり」
「行きたくない」
「殿下」
「何だ」
「婚約者ですので」
「その言葉で全部押し切る気だろ!」
アマリリアは楽しそうに笑った。
「逃がしませんわ」
「君、本当に変わってないところも多いな!」
五日後。
王宮で。
正式婚約発表。
その先には、まだ片づけるべきことがいくつも残っている。
ルシアとベルドの対面。
三令嬢への処分。
ベルドとハインツへの正式な裁き。
カルロスの更生。
王家との関係。
ベスター家との関係。
それでも。
今は。
誰かに押し付けられた予定ではない。
アマリリア自身が選び。
ライルも選んだ。
二人で。
五日後へ向かう時間だった。




