第19話 攫われたルシアさんを追ったら、私が悪役令嬢になるための台本まで用意されていました
王宮南門が開かれたのは、夜の鐘が一つ鳴り終わる少し前だった。
普段であれば、王族の馬車がこれほど慌ただしく門を抜けることなどない。ましてや先導する近衛騎士たちが完全武装し、その後ろへ第一王子本人を乗せた馬車が続くとなれば、門番たちも何か重大な事件が起きたことくらいは察する。
それでも、誰一人として余計な質問はしなかった。
国王直属の命令を受けた近衛隊は、南門から延びる三本の街道へすぐに分かれた。王都警備隊にも周辺封鎖の指示が飛び、さらにゼインの部下たちは街道沿いの宿場や脇道を先行して確認しながら、ルシアを乗せた馬車がどこへ向かったのかを追っている。
その中心にある馬車の中で、アマリリアは窓の外をじっと見つめていた。
王都の灯りは、もうかなり遠い。
街壁を抜けた途端に建物は急激に減り、新月直後の暗い夜道には、馬車へ取りつけた魔石灯だけが細い光の筋を作っている。舗装の甘い場所へ入るたび、車輪が小さく跳ね、車内へ鈍い振動が伝わってきた。
「アマリリア」
向かいからライルの声がする。
「はい」
「手」
「手?」
「さっきから握りすぎだ」
言われて、アマリリアはようやく自分の手元へ視線を落とした。
膝の上で両手を強く握り込み、爪が掌へ食い込んでいる。
「……気づきませんでしたわ」
「だと思った」
ライルが少しだけ身を乗り出す。
「貸して」
「何を?」
「手」
アマリリアは一瞬だけ迷ったものの、素直に右手を差し出した。
ライルはその手を取り、固く握られていた指を一本ずつゆっくり開いていく。掌には、爪が食い込んだ赤い跡がはっきり残っていた。
「痕がついている」
「この程度、すぐ消えます」
「そういう問題じゃない」
「では、どういう問題です?」
「焦っているんだろう」
アマリリアは返事をしなかった。
否定はできない。
ルシアが攫われた。
もちろん、実際に連れ去ったのはベルド側であり、アマリリアが命じたわけでも望んだわけでもない。それでも、自分を悪役へ仕立てるための計画の中でルシアが利用され、傷つけられていると思うと、胸の奥へ重いものが沈んでいく。
「私がもう少し早く」
「それは禁止」
「まだ何も言っておりません」
「『もっと早く黒幕へ気づいていれば』とか、『自分が先に全部片づけていれば』とか言うつもりだった」
アマリリアは少し黙った。
「……当たりですわ」
「君の考え方、少し分かってきた」
「喜ばしいことです」
「今は褒めていない」
ライルはアマリリアの手を握ったまま、少しだけ力を込めた。
「ルシア嬢を攫ったのは君じゃない」
「分かっております」
「でも、自分にも責任があると思っている」
「……少し」
「それも分かる」
馬車が小さな石を踏み、車内が揺れた。
それでもライルは手を離さなかった。
「だから助ける」
「はい」
「それでいい」
あまりにも単純な言葉だった。
けれど、今のアマリリアにはそれくらいがちょうどよかった。
「殿下」
「何だ」
「こういうとき、格好いいですわね」
「こういうとき?」
「普段は可愛らしい方が多いので」
「せっかく励ましたのに!」
「励まされました。ありがとうございます」
「なら最後の一言を足すな」
「本心ですもの」
少しだけ笑えた。
胸の奥に溜まっていた焦りが、ほんの少しだけ薄れる。
そのとき、馬車の外から騎馬の足音が近づいてきた。
「殿下!」
ディーンの声だった。
ライルがすぐ窓を開く。
「何か分かった?」
「ゼイン殿の部下から合図です。対象と思われる馬車が、南東街道から旧採石場方面へ入りました」
「旧採石場?」
アマリリアが反応する。
王都南東にある、かつて城壁補修用の石材を掘り出していた採石場だ。
十年以上前に主要な採掘を終え、今はほとんど使われていない。周辺には資材倉庫や廃屋が幾つか残っているものの、人の出入りは少なく、夜ともなれば誰かを隠すには十分すぎる場所だ。
「隠れるにはちょうどよい場所ですわね」
「そして逃げ道も多い」
ライルの表情が険しくなる。
「ディーン。先行部隊には突入させないで」
「よろしいので?」
「ルシア嬢がいる」
「承知しました」
「それと、馬車の数は?」
「確認できたのは一台です。ただし、採石場周辺には別の荷馬車が二台停まっております」
「共犯者がいる可能性もございますわね」
「はい」
ディーンが答える。
「分かりました。私たちもすぐ向かいます」
「ベスター令嬢」
「はい?」
「殿下からお聞きしております」
「何を?」
「決して一人で突入させるな、と」
アマリリアは隣を見る。
ライルは少しだけ視線を逸らした。
「殿下」
「何だ」
「信用がありませんわね」
「能力は信用している」
「またそれですか」
「無茶をしない部分だけ信用していない」
「失礼ですわ」
「当たってるだろう」
「半分ほど」
「十分だ!」
窓の外からディーンの声が聞こえる。
「では、その半分を私が警戒いたします」
「よろしく」
「殿下まで!」
短いやり取りだった。
けれど、それだけで緊張が少しだけほぐれた。
◇◇◇
ルシアは、馬車の揺れ方が変わったことに気づいていた。
先ほどまでは、比較的整った街道を走っていた。
今は車輪が何度も大きく跳ね、石や砂利を踏む音が車内まで響いている。明らかに整備の行き届いていない道へ入っており、少なくとも男爵家へ戻る道ではない。
手の中には、先ほど見つけた一枚の紙がある。
『私は君の父親だ』
『君をムルール公爵家へ嫁がせるために、邪魔者を全て消す』
何度読み返しても、意味が分からない。
ルシアにとって父親は、メイベル男爵だ。
幼い頃から少し厳しく、それでも優しい人だった。自分が熱を出せば仕事を休み、誕生日には必ず本を贈ってくれたし、姉たちと喧嘩をしたときも、誰が上だからではなく、何が悪かったのかを一緒に考えてくれた。
その人以外を。
父親だと。
考えたことすらない。
「嘘……」
ルシアは紙を握りしめる。
けれど、書いた人間は自分のことを知っている。
カルロスのこと。
アマリリアのこと。
ムルール公爵家との関係。
それら全てを知った上で書いている。
「誰なの……」
やがて馬車の速度が落ちた。
少しして完全に止まり、外から複数の足音が近づいてくる。
鍵が外れる音。
ルシアは座席の端へ身を寄せた。
逃げ道はない。
扉が開く。
そこに立っていたのは、見覚えのない四十代ほどの男だった。
平民らしい地味な服。
少し疲れた顔。
けれど。
自分を見る目だけが。
妙に。
近い。
「ルシア」
男が名前を呼んだ。
「……誰ですか」
「大きくなった」
「誰ですか!」
ルシアは強く言った。
男は少しだけ傷ついたような顔をする。
「ベルド・カシアン」
「知りません」
「そうだろうな」
「では」
ルシアは警戒したまま尋ねる。
「なぜ私を?」
男は一度息を吐いた。
「君の実の父親だからだ」
ルシアの表情が完全に止まった。
「……嘘」
「本当だ」
「私の父は」
「メイベル男爵」
「はい!」
「あの男は養父だ」
「嘘です!」
「君の母は、男爵家の親族だった。私は当時身分もなく、娘を引き取れる立場でもなかった」
「やめてください!」
ルシアは耳を塞いだ。
「だから君は母方の家へ」
「やめて!」
「ルシア」
「やめてください!」
叫び声が、廃採石場へ響いた。
男はようやく黙る。
しばらくして。
少しだけ声を柔らかくした。
「怖がらせるつもりはなかった」
「攫っておいて?」
ルシアは涙を浮かべながらも、男を睨んだ。
「私を騙して馬車へ乗せておいて?」
「必要だった」
「何が!」
「君を守るためだ」
「誰から!」
「アマリリア・ベスター」
その名前が出た瞬間。
ルシアの中で。
何かが切れた。
「違う!」
ベルドが少し驚く。
「何?」
「アマリリア様は違います!」
「騙されている」
「違います!」
「彼女は」
「私を助けてくださいました!」
階段から落ちかけたとき。
最初に駆け寄ってくれた。
無事を確認し。
三令嬢をその場で犯人と決めつけず。
事情を聞いた。
「昨日、私が落ちそうになったときも!」
「あれも」
「まだ言うのですか!」
ルシアは立ち上がった。
「カルロス様と同じです!」
ベルドの表情が少し歪む。
「カルロスと同じ?」
「そうです! 証拠もないのに、何でもアマリリア様のせいにして!」
「私は違う」
「何が違うのです!」
「私は君の父だ!」
「だから何ですか!」
口にしてから。
ルシア自身が少し驚いた。
でも。
止まれない。
「私の父親はメイベル男爵です!」
「血は」
「血だけで父親になるのですか!」
ベルドの言葉が止まる。
「私が困っていたとき、あなたはどこにいたのですか!」
「……」
「私が熱を出したときも、学園へ入るときも、ずっとお父様とお母様が私を育ててくれました!」
ベルドは拳を握った。
「私は」
「知りません!」
ルシアの呼吸が乱れる。
「今さら父親と言われても」
涙が頬を伝った。
「分かりません……」
怒りだけではない。
怖い。
混乱している。
本当に何を信じればいいのか分からない。
「分かりません……」
ベルドはしばらく何も言わなかった。
けれど。
やがて。
また。
顔を硬くする。
「いずれ分かる」
「……」
「全部、君のためだ」
「違います」
「ムルール公爵家へ嫁げば」
「私はそんなことを頼んでいません!」
「カルロスは君を愛している」
「それでも!」
「公爵家へ入れば、君は」
「それでも!」
ルシアは顔を上げた。
「人を傷つけていい理由にはなりません!」
今度こそ。
ベルドは。
何も返せなかった。
◇◇◇
旧採石場の外れへ到着したアマリリアたちは、馬車を木立の陰へ止めた。
近衛騎士の先行班は既に周辺を囲んでいる。
ただし、まだ突入はしていない。
採石場周辺には、廃坑跡、資材倉庫、古い石切り小屋など複数の建物が点在しており、ルシアがどこへ連れ込まれたのか完全には特定できていないからだ。
「ゼイン」
アマリリアが小声で呼ぶ。
すぐに木の影から男が姿を現した。
「お嬢様」
「状況は?」
「対象の馬車は中央倉庫裏へ入っております」
「ルシアさんは?」
「中央倉庫内部へ連れ込まれたことを確認しました」
「ベルドは?」
ゼインは一瞬だけ言葉を止めた。
「……旧西門倉庫で確保しております」
アマリリアが止まる。
「では、中にいるのは?」
「ベルドではありません」
ライルの表情が変わる。
「偽物?」
「恐らくは」
「どういうことですの?」
ゼインは簡潔に説明した。
旧西門倉庫で確保した男は、ベルド・カシアン本人として確認されている。それにもかかわらず、こちらの倉庫では別の男がルシアへ接触し、自分が父親だと名乗っているらしい。
「共犯者がベルドの名前を使っている?」
アマリリアが尋ねる。
「あるいは」
ライルが続ける。
「こちらの男が、ベルドの代理として動いている」
「現在、王宮側でも改めて身元確認を進めております」
「まずいな」
ライルの声が低くなる。
「俺たちは、黒幕を捕まえたと思わされた」
「その隙に、別の人間へルシアさんを連れ出させた」
二重の罠。
最初から。
ベルドは。
自分が捕まる可能性まで。
考えていた。
「殿下」
「ああ」
「急ぎましょう」
「でも」
ライルはアマリリアの腕を軽く掴んだ。
「一緒に」
「分かっております」
「絶対?」
「今日は本当に信用がありませんわね」
「ある」
ライルは真っ直ぐアマリリアを見る。
「だから一緒に行く」
アマリリアは一瞬黙ったあと、静かに頷いた。
「……はい」
腰に隠した短剣と眠り針を確認する。
使わずに済むなら。
それが一番。
今日は。
何より。
救出。
優先。
「ディーン」
「はい」
「正面は騎士隊で」
「承知しました」
「ゼイン」
「裏へ回ります」
「アマリリア」
「何でしょう」
「俺の隣に」
「命令です?」
「お願い」
アマリリアは少しだけ笑った。
「でしたら」
手を差し出す。
「守ってくださいませ」
ライルはその手を握る。
「ああ」
◇◇◇
中央倉庫の中。
ルシアはベルドと名乗った男から少し距離を取っていた。
さっきまでの会話。
自分の実父だという話。
全部。
まだ。
信じられない。
ただ。
一つだけ。
はっきり。
分かる。
この男は。
自分を見ていない。
「あなた」
「何だ」
「本当に」
ルシアは一度息を吸った。
「私の父親なのですか」
男が少しだけ止まる。
「何を言っている」
「さっきから」
怖い。
でも。
言う。
「私のことを全然見ていない」
男の表情が変わる。
「見ている」
「違います」
「何が違う」
「私ではなく」
ルシアは胸元を押さえた。
「ムルール公爵家へ嫁ぐ私だけを見ている」
男は黙った。
「私がカルロス様を好きなのか」
「好きだろう」
「私が公爵家へ入りたいのか」
「入りたいはずだ」
「私が何をしたいのか」
そこで。
男は。
何も言えない。
「一度も聞いていません」
ルシアは涙を拭った。
「それで父親?」
「……」
「違う」
小さい声。
でも。
はっきり。
「あなたは違います」
男の顔が変わった。
「黙れ」
「違います」
「黙れ!」
初めて、男の声が荒くなる。
ルシアの身体が震えた。
「私は!」
男が一歩前へ出る。
「君のために!」
腕を掴む。
「痛い!」
「全部やった!」
「離してください!」
「アマリリア・ベスターを悪役へ仕立てたのも!」
ルシアの目が大きくなる。
「……」
「カルロスが君だけを見るように、公爵家が君を受け入れるように!」
「やっぱり」
「何?」
「あなたが」
ルシアの声が震える。
「全部」
男も、自分が言いすぎたと気づいたらしい。
握る力が少し緩む。
その瞬間だった。
倉庫の外で大きな音が響く。
「王宮近衛だ!」
男の顔が変わった。
「っ!」
ルシアが振り返る。
「中にいる者は武器を捨てろ!」
聞き覚えのある声。
「殿下……!」
男はすぐにルシアの腕を引いた。
「来い!」
「嫌!」
「来い!」
「離してください!」
男は裏口へ向かおうとする。
だが。
その扉が先に開いた。
黒装束の男たちが立っている。
「お待ちください」
「っ!」
男はすぐに進路を変えた。
倉庫横の階段。
二階へ。
資材用の足場。
外へ繋がる搬出口を狙っている。
「嫌!」
「黙れ!」
その瞬間。
正面扉が破られた。
近衛騎士たちが一気に突入する。
その後ろ。
ライル。
そして。
アマリリア。
「ルシアさん!」
「アマリリア様!」
男がアマリリアを見た。
顔が大きく歪む。
「お前!」
「私?」
「全部、お前のせいだ!」
アマリリアは少し眉を寄せた。
「随分と一方的ですわね」
「お前がカルロスとの婚約を受けていれば!」
「嫌です」
即答だった。
男が止まる。
「何だと?」
「そもそも、なぜ私が好きでもない方と結婚しなければならないのです?」
「お前が!」
「私は殿下が好きです」
「アマリリア」
「今は必要な説明です」
「そうだけど!」
男が苛立ったように声を荒らげる。
「第一王子を選んだから!」
「選びました」
「カルロスが」
「勝手に私を好きだと思っていただけです」
「お前さえ」
「何でも私のせいにするのは、カルロス様一人で十分ですわ」
その言葉に。
ルシアは。
こんな状況なのに。
少しだけ。
笑いそうになる。
でも。
腕が痛い。
「殿下」
アマリリアが小声で言う。
「ルシアさんの腕」
「ああ」
男は片手でルシアを掴んだまま、もう一方の手を懐へ入れた。
ライルが警戒する。
「動くな」
「近づくな!」
男が短剣を抜いた。
刃先。
ルシアの首元。
近い。
空気が一気に張り詰める。
「アマリリア」
「分かっております」
無茶をしない。
約束。
でも。
距離を測る。
ライルなら魔術を使える。
しかし。
刃が近すぎる。
「要求は?」
ライルの声が低くなる。
「馬車を用意しろ」
「用意する」
「殿下!」
ルシアが叫ぶ。
「大丈夫」
ライルは男から視線を外さない。
「用意する」
アマリリアは一瞬だけライルを見る。
分かる。
時間を稼ぐ。
「それと」
男が続ける。
「アマリリア・ベスター」
「私?」
「こっちへ来い」
「駄目だ」
ライルが即答する。
「殿下」
「駄目」
アマリリアは少しだけ困った顔をした。
「私も行けば、ルシアさんを」
「君まで人質になる」
「でも」
「約束した」
ライルは強い目で見る。
「囮にならない」
アマリリアは黙った。
「……はい」
男が笑う。
「第一王子は随分大事にしているらしい」
「当然だ」
ライルはまた即答した。
アマリリアの頬が少し熱くなる。
「殿下」
「今は黙って」
「はい」
男はルシアを引きながら二階の足場を後退していく。
その先には、外へ繋がる搬出口。
逃げるつもり。
でも。
男は知らない。
外には。
ゼインたち。
いる。
「馬車!」
「用意している!」
ディーンが答える。
その間。
アマリリアは。
倉庫内。
見る。
床。
石粉。
古い資材。
そして。
足場横の柱。
上。
滑車。
吊るされた。
大袋。
「殿下」
ごく小さな声。
「左の柱」
「何」
「見ないで」
ライルは正面を向いたまま、視界の端だけで確認する。
すぐ。
分かる。
柱の上。
大量の石粉が入った袋。
古い金具で吊られている。
「できる?」
アマリリアが尋ねる。
「魔力で?」
「落とせます?」
「音を出す?」
「ええ」
「ルシア嬢を反対側へ?」
「はい」
短いやり取り。
でも。
通じる。
ライルの右手が僅かに動いた。
「何をしている!」
男が叫ぶ。
「何も」
その瞬間。
上から。
ギィ。
古い金具が鳴る。
男が反射的に視線を上げた。
次の瞬間。
反対側の大袋が落ちる。
大きな音。
そして。
白い石粉。
一気に舞う。
「っ!」
男が目を閉じる。
ルシアも咳き込む。
でも。
腕を掴む力。
緩む。
「今!」
ライルが弱い風魔法を放った。
ルシアを男から離す方向へ。
同時に男の身体を逆側へ崩す。
アマリリアが走る。
「アマリリア!」
「これは囮ではありません!」
「屁理屈!」
それでも。
距離は。
もう。
近い。
アマリリアはルシアの腕を掴み、一気に自分の方へ引いた。
ライルも同時に前へ出る。
男の短剣が手から落ちる。
ディーンが飛び込み、腕を捻り上げた。
「ぐっ!」
「確保!」
近衛騎士が一斉に男を押さえる。
ルシアはそのままアマリリアの胸へぶつかった。
「アマリリア様!」
「大丈夫です?」
「はい!」
声を上げた途端。
ルシアの目から。
涙。
溢れる。
アマリリアはその背へ手を回した。
「よかった」
心の底から。
言う。
「本当に」
「怖かったです」
「ええ」
アマリリアは少しだけ抱く力を強くした。
「泣いてよろしいですわ」
「……」
「今は」
ルシアは。
さらに泣いた。
アマリリアは急かさず、そのまま背中をゆっくり撫でる。
少し離れたところで、ライルがこちらを見ていた。
安心したような顔。
アマリリアと視線が合う。
「殿下」
「何だ」
「無事です」
「見れば分かる」
「怒っています?」
「少し」
「なぜ」
「走った」
「必要でした」
「約束」
「囮にはなっておりません」
「そういう問題では」
ライルは言いかけて。
でも。
最後。
少し。
笑った。
「……まあ、いい」
「珍しいですわね」
「ルシア嬢が無事だから」
ルシアは涙を拭った。
「殿下」
「何?」
「ありがとうございます」
「俺だけじゃない」
ライルはアマリリアを見る。
「ほぼこの人」
「まあ」
「何だ」
「嬉しいです」
「調子に乗るな」
「もう乗っています」
「早い!」
緊張が少しだけ緩み。
ルシアも。
泣きながら。
ほんの少し。
笑った。
◇◇◇
男を拘束し、ルシアを治癒術師へ預けたあと、倉庫の捜索が始まった。
そして。
出てくる。
出てくる。
紙。
偽造印章。
学園生徒の情報。
ムルール公爵家の帳簿の写し。
ベスター家の家紋を模した印。
偽造書類。
「これは」
ディーンが奥にあった木箱を開いた。
中に一冊の冊子が入っている。
「何でしょう」
アマリリアが受け取る。
表紙に題名はない。
何気なく開いた。
そして。
顔が少し固まる。
「殿下」
「何?」
「これ」
ライルも横から覗く。
一枚目。
『学園食堂』
『昼休み』
『カルロス・ムルールがルシアを伴い中央へ』
次。
『アマリリア・ベスターへ公開婚約破棄を宣言』
アマリリアの眉が寄る。
さらにページをめくる。
『三令嬢が証言』
『私物隠し』
『転倒工作』
『悪口』
『ベスター家から圧力』
治療を受けていたルシアも、その内容が聞こえたらしく顔を青くした。
「……これ」
アマリリアはさらにページをめくる。
『周囲の生徒がアマリリアを非難』
『カルロスはルシアを庇う』
『第一王子が不在であることが望ましい』
次のページには、赤い書き込み。
『第一王子が現れた場合』
『アマリリアと第一王子の関係を利用』
『アマリリアは王子へ取り入るためカルロスを捨てたと誘導』
ライルの表情が冷たくなる。
「台本か」
「ですわね」
さらにめくる。
『最終目的』
その下。
『アマリリア・ベスターの王家婚約者としての信用を失墜させる』
『ムルール公爵家は、息子が選んだルシアとの婚姻を受け入れざるを得なくする』
ルシアの身体が小さく震えた。
「私」
「ルシアさん」
「私を公爵家へ入れるために、こんな」
アマリリアは冊子を閉じた。
「貴女が望んだことではありません」
「でも」
「違います」
少し強めに言う。
ルシアが顔を上げる。
「ここに書かれているのは、貴女の未来ではありません」
一度。
言葉を選ぶ。
「誰かが勝手に作った筋書きです」
ルシアの目にまた涙が浮かぶ。
「私は」
「自分で選びましょう」
アマリリアは静かに言った。
「貴女も」
自分自身。
他人が決めた婚約から。
逃れるため。
あれこれ。
した。
だから。
分かる。
「カルロス様とどうするのかも、ムルール家へ入るのかも、誰を父親と思うのかも」
ルシアの目が大きくなる。
「貴女が決めることです」
「アマリリア様」
「私は、そう教わりました」
ルシアは少し泣いた。
でも。
今度は。
少しだけ。
笑う。
「……はい」
横ではライルが、またアマリリアを見ていた。
「殿下」
「何だ」
「褒めたいのです?」
「後で」
「今でも」
「今は真面目な場だ」
「先日も同じことを」
「覚えていたのか!」
そのやり取りに。
ほんの少し。
笑い。
生まれる。
そこへゼインが近づいてきた。
「お嬢様」
「はい」
「拘束した男の身元が判明しました」
「ベルドです?」
「いいえ」
全員の表情が変わった。
「名はハインツ・ローマン。ベルド・カシアンの元部下です」
「では」
ライルが尋ねる。
「ベルド本人は」
「旧西門倉庫で確保した男で間違いありません」
「本人?」
「確認が取れました」
アマリリアは少し考える。
「つまり、ベルドは自分が捕まったあとも、この男へ計画を続けさせた」
「はい」
「独断ではなく?」
「現時点の供述では」
ゼインは一度間を置いた。
「ベルドから『自分が捕まった場合でも、計画は最後まで進めろ』と指示されていたそうです」
ルシアの顔が白くなる。
「父親」
小さく。
呟く。
「本当に」
ゼインがルシアを見る。
「ベルド・カシアンが、ですか?」
「……はい」
「そうですか」
ルシアは一度目を伏せた。
けれど。
崩れない。
少し前より。
強く。
顔。
上げる。
「会えますか」
全員が驚いた。
「ルシアさん」
「会いたいです」
「今?」
「今でなくても構いません」
ルシアは一度息を整える。
「聞きたいことがあります」
「何を?」
アマリリアが優しく尋ねる。
「なぜ」
ルシアの声は少し震えていた。
「私のためだと言いながら」
一度。
言葉。
止める。
「私の気持ちは一度も聞かなかったのか」
アマリリアは何も言わなかった。
それは。
自分たちが。
代わりに答えることではない。
「分かりました」
ライルが答える。
「父上へ話す」
「ありがとうございます」
ルシアは深く頭を下げた。
◇◇◇
その後、旧採石場から押収された物品の確認は夜明け近くまで続いた。
もっとも、アマリリアとライルは途中で王宮へ戻されることになった。
理由は単純だった。
「未成年者を朝まで捜査へ付き合わせるな」
国王アルベルトの命令。
そして。
「アマリリアさんを休ませなさい」
王妃セレーネの命令。
当然。
ライルも。
同じ。
「私、元気ですわ」
「駄目です」
「でも」
「駄目です」
王妃の返事は強かった。
アマリリアは隣のライルを見る。
「殿下」
「諦めろ」
「早いですわね」
「母上はこういうとき無理だ」
「経験者?」
「十八年」
「重いですわね」
結局、二人は王宮の私的応接室へ戻され、そこで少し休むことになった。
軽食も出された。
今度は。
ライル。
アマリリアが食べるまで。
見ている。
「殿下」
「何だ」
「監視です?」
「そうだ」
「食べますから」
「昨日、紅茶しか飲まなかった」
「根に持っています?」
「少し」
「心配性ですわね」
「誰のせいだ」
「私?」
「そうだ」
アマリリアは仕方なくパンを一口食べる。
「これで?」
「スープも」
「厳しいですわ」
「全部」
「王妃様みたい」
「母上の気持ちが分かってきた」
「嬉しい成長ですわね」
少しだけ笑う。
けれど。
机の端。
先ほどの冊子の写し。
置かれている。
アマリリアはそれへ視線を向けた。
「殿下」
「何だ」
「この食堂の台本」
「ああ」
「随分具体的ですわね」
「かなり実行直前まで準備していたんだろうな」
「三令嬢の証言まで細かく指定されています」
「ベルドが用意させたんだろう」
「そして、カルロス様」
アマリリアはページを見ながら小さくため息をついた。
「本当に、この通りのことをやりそうなのが困りますわ」
「……否定できない」
「殿下」
「何だ」
「これ」
一度。
考える。
「逆に使えません?」
ライルの表情に嫌な予感が浮かぶ。
「何を考えている」
「いえ」
「その顔」
「何です?」
「悪い顔」
「上品な顔です」
「絶対違う」
アマリリアは冊子を閉じた。
「ベルドたちが何を計画していたのか、学園全体へはいずれ説明が必要です」
「そうだな」
「私が悪役だという噂も」
「ああ」
「ルシアさんが身分を弁えない女だという噂も」
「うん」
「三令嬢が単純な加害者だという話も」
ライルが少し眉を上げる。
「全部?」
「全部です」
アマリリアは少し笑った。
「ベルド様が作った台本より、もっと分かりやすく事実をお見せしましょう」
「面白くする必要ある?」
「あります」
「なぜ」
「学園中が勝手に騒いだのですもの」
「……」
「最後まで見届けていただきませんと」
ライルはしばらく黙っていた。
そして。
少し。
諦めたように。
「俺もいる?」
「もちろんです」
「やっぱり」
「婚約者ですので」
その言葉に。
ライルは少しだけ笑った。
「分かった」
「協力してくださる?」
「一緒に考えるって言っただろう」
「まあ」
「何だ」
「好きですわ」
「話の途中で言うな!」
夜明け前の王宮へ、久しぶりに少しだけ明るい声が響いた。
机の上には、押収された台本の写し。
その最初の頁に書かれていたのは。
『学園食堂』
そこは。
数日後。
実際に。
アマリリア、カルロス、ルシア、そしてライルが一堂に会する場所となる。
ただし。
ベルドが望んだ筋書きとは。
まったく違う形で。




