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『婚約を押し付けられたので、第一王子殿下を脅して婚約者になっていただきました』  作者: 伊佐波瑞樹


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18/43

第18話 真犯人を見つけたので、あえて泳がせることにしました


 夜の王都南区は、昼間とはまるで別の街に見えた。


 商人や荷馬車で賑わっていた大通りから一本裏へ入れば、店先の灯りは急に少なくなり、石造りの建物同士が作る細い路地には濃い影が落ちている。特に倉庫街まで来ると、夜間に働く荷運び人夫の姿さえほとんどなく、遠くから時折聞こえる馬車の音だけが静寂の中へ響いていた。


 その倉庫街の外れにある古びた煉瓦造りの建物を、ゼインは少し離れた屋根の上から見下ろしていた。


 窓は三つ。正面入口は閉ざされ、少し前に裏口から入った男はまだ外へ出てきていない。周囲にはゼインの部下が四人配置され、さらに少し離れた通りでは王宮近衛の私服部隊が待機している。


「確実ですか?」


 隣に伏せていた黒装束の男が、声を抑えて尋ねた。


「顔は確認した」


「ベルド・カシアン本人で?」


「ああ」


 ゼインは短く答えた。


 ベルド・カシアン。ムルール公爵家の元会計監査役であり、一年前の不正帳簿事件をきっかけに解雇された男。そして、ルシア・メイベルの実父でもある。


 現時点では、彼が一連の嫌がらせを全て指示した黒幕だと断定できる証拠までは揃っていない。


 だが、偶然と呼ぶには一致する点が多すぎた。


 三令嬢の家へ匿名の手紙が届き始めた時期と、ベルドが三家へ出入りしていた時期が重なる。彼はムルール公爵家の内部事情に詳しく、三家が不正取引に関わっているかもしれないという情報も知り得る立場にいた。


 そして何より、王都から姿を消したはずの男が、こうして人目を避けるように倉庫へ潜んでいる。


「突入しますか?」


 部下が尋ねる。


 ゼインはしばらく倉庫を見つめたあと、小さく首を振った。


「まだだ」


「しかし、逃げられる可能性もあります」


「裏手も含めて全て押さえてある。今捕らえるより、中で何をしているのか確かめた方がいい」


「証拠を?」


「ああ」


 倉庫の窓越しに、ほんの僅かに灯りが動いた。


 人影までは見えない。


 それでも、誰かが中で動いていることだけは分かる。


「お嬢様なら、今すぐ踏み込みそうですが」


 部下が少しだけ笑う。


「以前ならな」


「今は違うと?」


「殿下と相談する」


 自分で言ってから、ゼインはほんの少し口元を緩めた。


 以前のアマリリアなら、問題を見つけた瞬間に自分で答えを出し、周囲が止める前に動いていた。今も根本はそれほど変わっていないが、それでも最近は、少しずつ誰かへ頼ることを覚え始めている。


「王宮へ報告を」


「はい」


 部下が通信具を取り出す。


 淡い光が、夜の屋根の上で静かに瞬いた。


          ◇◇◇


 同じ頃。


 ベスター伯爵家のアマリリアの自室には、まだ明かりが灯っていた。


 机の上には学園の教材、王妃教育用の資料、ムルール公爵家との婚約解消に関する書類、そしてルシアへの嫌がらせに関する報告書が重なっている。量だけを見れば、普通の令嬢が一日の終わりに向き合う机とは到底思えない。


「……忙しいですわね」


 アマリリアは椅子へ深く座り直した。


 北の森から帰れば、しばらくは穏やかな日々が戻ってくると思っていた。


 けれど実際には、正式な婚約準備が始まり、その直後にはカルロスの思い込みへ対応し、今度はルシアへの嫌がらせと、自分を悪役令嬢へ仕立てようとする動きまで出てきた。


 今日に至っては、人が階段から落ちかけている。


「私、何かしました?」


 誰もいない部屋で問いかけてみる。


 当然、返事はない。


 その代わり、少しして扉が軽く叩かれた。


「入ってくださいませ」


 扉が開く。


 入ってきたのはハロルドだった。


「お父様?」


「起きていたか」


「見れば分かるでしょう」


「父親に対する第一声が冷たい!」


「夜ですので」


「夜かどうかは関係ないだろう!」


 ハロルドは勝手に向かいの椅子へ座った。


 アマリリアは少しだけ眉を寄せる。


「何でしょう」


「今日の学園の話を聞いた」


「早いですわね」


「アレクからな」


「兄様までご存じなのです?」


「ああ。ルシア嬢が階段から落ちそうになったそうだな」


「ええ」


 ハロルドはそこで一度言葉を止めた。


 いつものように大声を出すわけでもなく、少しだけ言いづらそうにアマリリアを見る。


「お前は、大丈夫か?」


 アマリリアは少しだけ目を瞬いた。


「私?」


「ああ」


「落ちかけたのはルシアさんですわ」


「分かっている」


 ハロルドは机の上に積まれた報告書へ視線を向けた。


「だが、お前の名前を使って誰かがやっているんだろう」


「……」


「普通なら、嫌だろう。自分がしていないことを、自分のせいにされるのは」


 アマリリアはしばらく答えなかった。


 最近の父は、時々こういうことを言う。


 以前なら絶対に口へ出さなかったようなことを。


「少しは」


「そうか」


「怖くもあります」


 正直に答えると、ハロルドが僅かに目を見開いた。


「でも」


 アマリリアは少し笑う。


「殿下がおりますので」


 ハロルドの顔が複雑になる。


「そこで殿下か」


「何か問題でも?」


「いや」


 大きなため息。


「嬉しいような、寂しいような」


「お父様」


「何だ」


「気持ち悪いですわ」


「娘!」


「冗談です」


「半分くらい本気だろう!」


 アマリリアが笑い、ハロルドも結局少しだけ笑った。


 そのとき。


 窓の外で小さな光が瞬いた。


 アマリリアの表情がすぐに変わる。


「お父様」


「何だ?」


「少し席を外してくださいませ」


「何かあるのか?」


「仕事です」


「王家の?」


「私の」


「また黒装束か」


「ええ」


 ハロルドは立ち上がった。


「無茶するなよ」


「分かっております」


「本当に?」


「最近、皆様そこを疑いますわね」


「実績があるからだ!」


「失礼です」


「事実だ!」


 扉へ向かったハロルドは、そこで一度振り返った。


「リリア」


「はい」


「殿下に頼れ」


 アマリリアは少し驚いた。


「お父様がそれを仰いますの?」


「嫌だけどな!」


「嫌なのですね」


「当然だろう」


 それでもハロルドは、少しだけ真面目な顔になる。


「だが、一人で全部やるよりはいい」


 それだけ言うと、今度こそ部屋を出ていった。


 閉じた扉をアマリリアは数秒見つめる。


「……変わりましたわね」


 父も。


 そして多分。


 自分も。


 アマリリアは窓を開いた。


 するとすぐ、外から一人の黒装束が静かに入り込んでくる。


「お嬢様」


「報告を」


「ゼイン様より」


 差し出された紙を受け取り、目を通す。


 読み進めるにつれて、アマリリアの表情が変わった。


「見つけたのですね」


「はい」


「ベルド・カシアンを?」


「本人で間違いないとのことです」


「捕らえたのです?」


「まだです」


 アマリリアは顔を上げた。


「なぜ?」


「倉庫内部で何か準備しているようです。ゼイン様は証拠を押さえるまで泳がせるべきだと判断しております」


「罠の可能性も?」


「ございます」


 アマリリアは少し考える。


 以前なら。


 この時点で。


 もう立っていた。


 自分で確かめに行く。


 それが一番早いと思って。


 けれど。


「殿下へは?」


「既に王宮へ報告済みです」


「なら」


 アマリリアが立ち上がる。


「私も」


 その瞬間だった。


「行くな」


 扉が開く。


 そこにはライルが立っていた。


「殿下?」


「やっぱり言ったな」


 その後ろでディーンが疲れた顔をしている。


「殿下、王宮から馬車をかなり飛ばしてまいりましたので」


「聞こえている」


 ライルはそのまま部屋へ入った。


「アマリリア」


「はい」


「今、行こうとしただろう」


「少しだけ」


「嘘をつけ」


「半分ほど」


「変わらない!」


 アマリリアは少し笑った。


「では、殿下も一緒に?」


「その前に考える」


「ここで?」


「ここで」


「捕らえに行かないのです?」


「ゼインが見つけている」


 ライルは報告書へ目を落とす。


「逃がさないんだろう?」


 黒装束が頷いた。


「はい。倉庫周辺は完全に押さえております」


「なら、今すぐ俺たちが行く必要はない」


 アマリリアは少しだけ不満そうに椅子へ戻る。


「慎重ですわね」


「君が慎重じゃなさすぎるんだ」


「私は」


「今日、ルシア嬢が階段から落ちかけたばかりだ」


 ライルの声が少し強くなる。


「分かってる?」


「……はい」


「次は君かもしれない」


「……」


「だから今夜は、勝手に突っ込まない」


 アマリリアは少し黙った。


 以前なら。


 反発。


 していた。


 でも今は。


「分かりました」


「本当に?」


「殿下と一緒に考えます」


 ライルの表情が少しだけ緩む。


「よし」


「子供扱いです?」


「少し」


「殿下」


「冗談だ」


 アマリリアは少しだけ頬を膨らませた。


 ディーンと黒装束の男は、何も見なかったように視線を外す。


「さて」


 ライルは机の上へ資料を広げた。


「ベルドを今捕まえるか、それとも泳がせるか」


「どちらだと思われます?」


 アマリリアが尋ねる。


「後者」


「私もですわ」


 二人の視線が合う。


「理由は?」


 ライルが聞く。


「現時点では、三令嬢への脅迫とベルドを直接繋ぐ証拠が弱いからです。三家への出入り記録だけでは、言い逃れができます」


「それに、倉庫の中へ証拠が残っている可能性が高い」


「ええ。手紙の控えや偽造印章まで見つかれば、かなり強い」


 ライルが頷く。


「意見が合うな」


「婚約者ですもの」


 ライルが一瞬止まる。


「先に言われた」


「早い者勝ちですわ」


「君、本当に便利に使うな」


「殿下もお使いになればよろしいのです」


「今から使う」


「まあ」


 アマリリアが少し笑った。


 そんな二人の空気を見ながら、黒装束の男が少し困ったように口を開く。


「お嬢様」


「はい」


「ゼイン様へ返答を」


「そうでした」


 アマリリアは咳払いをした。


「倉庫へはまだ突入しないように」


「はい」


「ただし、ベルドが外へ出れば尾行。中へ入る者、出る者、全員を記録してください」


「承知しました」


 ライルも続ける。


「王宮側も倉庫周辺を包囲する。ただし表からは見えない位置で」


 ディーンが頷く。


「すぐに手配いたします」


「そして」


 アマリリアが少し考える。


「もしベルドがカルロス様へ何か接触しようとするなら」


「止める?」


 ライルが尋ねる。


「いいえ」


 アマリリアの口元が少し上がった。


「できる限り、接触させましょう」


 ライルの目が細くなる。


「何を考えている?」


「カルロス様がどう動くか見たいのです」


「危険じゃないか」


「手紙の存在も接触も、全てこちらが把握している状態なら監視できます」


「……なるほど」


 ライルは少し考えてから頷く。


「ただし条件がある」


「何でしょう」


「カルロスが一人で危険な場所へ行きそうなら護衛を付ける」


「賛成です」


「ルシア嬢へ直接近づけさせない」


「それも」


「それから」


 ライルはアマリリアを見る。


「君を囮にしない」


 アマリリアが少し止まった。


「なぜそこだけ」


「絶対考えただろう」


「少しだけ」


「やっぱり!」


「でも、まだ何も」


「顔で分かる」


 ライルは手を差し出した。


「約束」


「何の?」


「自分から囮にならない」


 アマリリアはその手を見る。


 少しだけ笑う。


「分かりました」


「本当に?」


「殿下がそこまで仰るなら」


 その手へ自分の手を重ねる。


「自分から囮にはなりません」


「よし」


「ただし」


「まだあるのか」


「カルロス様が勝手に私のところへ来た場合は、私の責任ではございません」


 ライルが顔を覆った。


「抜け道を作るな!」


          ◇◇◇


 翌朝。


 王宮にある第一王子の執務室には、昨夜から集められた報告書が並べられていた。


 ベルド・カシアンは夜明け前まで例の倉庫から動かなかった。ただ、その間に一度だけ裏口から若い男が出ており、私服の王宮騎士が密かに尾行を続けている。


「追跡は?」


 ライルが尋ねた。


「継続中です」


 ディーンが答える。


「行き先は?」


「王都中央郵便所ではなく、私設の配達屋でした」


 アマリリアが横から口を挟む。


「宛先は?」


「カルロス・ムルール様です」


 ディーンは封筒の外観を写した紙を机へ置いた。


「配達前ですので中身は確認しておりませんが、宛名は間違いありません」


「開けないままでいいですわ」


「俺もそう思う」


 ライルが少しだけ笑った。


「昨日の話通り、届けさせる」


 アマリリアはその横顔を見る。


「殿下」


「何だ」


「昨日より悪い顔ですわ」


「君に言われたくない」


「私は上品です」


「黒装束で俺を囲んだ人が?」


「過去ですわ」


「数日前だ!」


「十分昔です」


「感覚がおかしい!」


 ディーンはもう慣れたのか、何も言わず資料の整理を続けている。


 そこへ別の騎士が入ってきた。


「殿下。ベルドの倉庫についてご報告が」


「何か見つかった?」


「本人が一時的に外出したため、王命による限定捜索を実施しました」


 アマリリアが顔を上げる。


「令状は?」


「国王陛下より」


 騎士が書類を差し出す。


 正式な捜索許可だった。


「さすが陛下ですわ」


「昨夜、母上が父上を寝かせなかったらしい」


 ライルが少し笑う。


「王妃様が?」


「『息子の婚約者を悪役令嬢に仕立てる人間を朝まで放置する気ですか』って」


 アマリリアの胸が少し温かくなる。


「王妃様」


「本当に君のこと気に入ってる」


「嬉しいですわ」


「俺より?」


「比べられません」


「少し気になる」


「殿下」


「冗談だ」


 そう言いながら。


 少しだけ。


 本気。


 顔。


 する。


 アマリリアは笑った。


「それで、捜索結果は?」


「こちらです」


 騎士が押収品の一覧を机へ並べる。


「偽造印章が三点。うち一つはベスター家の銀花を模したものです」


「やはり」


「さらに、三令嬢宛と思われる手紙の控えが複数」


「カルロス様宛は?」


「下書きが一通見つかりました」


 ライルの表情が変わる。


「内容は?」


 騎士が一枚の紙を差し出した。


 ライルが読み、アマリリアも横から覗く。


『ルシア嬢を階段から落とそうとした真犯人は、まだ捕まっていない』


『アマリリア・ベスターは証拠を隠している』


『第一王子殿下も彼女に騙されている』


 ライルの手に少し力が入った。


「俺まで」


「殿下」


「分かってる」


 アマリリアは彼の袖へそっと触れた。


「怒る前に、最後まで読みましょう」


「うん」


 続き。


『ルシア嬢を本当に守りたいなら、今夜、旧西門倉庫へ一人で来い』


 アマリリアの表情から笑みが消えた。


「一人で」


「完全に罠だな」


「カルロス様なら」


 二人。


 ほぼ同時に。


「行く」


「でしょうね」


「絶対行く」


「ええ」


 ディーンが少し困った顔をした。


「お二人とも即答ですね」


「実績が十分ございますので」


 アマリリアが答える。


 ライルも否定しなかった。


「問題は、ベルドが何をしたいかだ」


「カルロス様を使って、私を責めさせる?」


「それだけなら、別の場所へ呼び出す必要はない」


 ライルが紙を机へ置く。


「旧西門倉庫は、今ベルドがいる倉庫とは別の場所です」


 ディーンが補足する。


「では、カルロス様へ何かを見せるつもり」


 アマリリアは少し考え込んだ。


「偽の証拠?」


「可能性は高い」


「あるいは、ルシアさんが危険だと思わせる何か」


「本人を連れ出す?」


「警護がありますから難しいでしょう」


「なら、演出だけ」


 ライルが小さく机を叩く。


「どちらにしても止める」


「ええ」


 アマリリアはすぐ立ち上がった。


「学園へ」


「待て」


 ライルが腕を掴む。


「何です?」


「カルロスへ手紙が届くのは?」


 ディーンが答える。


「昼前の予定です」


「まだ時間がある」


 アマリリアは少しだけ黙る。


 そして。


 珍しく。


 すぐに座った。


「では、計画を立てましょう」


 ライルが少し笑う。


「偉い」


「殿下」


「冗談」


「子供扱いしました?」


「してない」


「顔がそうですわ」


「君も読むようになったな」


 少しだけ笑い合う。


 それくらいの余裕が。


 今は。


 必要だった。


          ◇◇◇


 昼前。


 ルナティック王立学園のカルロスの教室へ、一人の配達員がやってきた。


「ムルール様へ」


「私に?」


「はい」


「差出人は?」


「匿名です」


 カルロスは眉を寄せた。


 昨日、ルシアが階段から落ちそうになり、エミリアたち三令嬢が誰かに脅されていたらしいことは聞いている。


 ただし。


 詳細。


 知らない。


 父グレイアスからは、「これ以上勝手なことをするな」と厳しく言われた。


 それでも。


 気になる。


 封を切る。


 読み進めるにつれ。


 顔。


 変わる。


「……」


 隣の友人が気づく。


「どうした?」


「何でもない」


 カルロスは手紙を折り畳み、懐へしまった。


 その様子を。


 教室の外。


 私服。


 騎士。


 一人。


 確認する。


 そのまま。


 静かに。


 報告へ。


          ◇◇◇


 昼休み。


 アマリリアとライルは、昨日と同じ食堂の窓際席へ座っていた。


 今日はルシアの姿はない。


 昨日の階段事件を受け、教師の判断でしばらくは友人たちと教室で昼食を取ることになっている。


「カルロス様」


 アマリリアは少し離れた席へ視線を向けた。


「落ち着きがございませんわね」


 カルロスは食事をしている。


 けれど。


 何度も。


 時計。


 見る。


「手紙を読んだ」


「ええ」


「俺たちが見ていることは知らない」


「いいですわね」


 ライルが少し笑う。


「楽しそうだな」


「罠を仕掛けた側ではございません」


「でも、相手が罠へかかるのを見る顔をしてる」


「失礼ですわね」


「当たってる?」


「少し」


「やっぱり」


 アマリリアは何事もなかったようにスープを一口飲んだ。


「殿下」


「何だ」


「今夜、旧西門倉庫へ行くのは」


「俺たちじゃない」


「分かっております」


「本当に?」


「殿下も疑り深くなりましたわね」


「本当に?」


「……私は行きません」


 ライルの肩から少し力が抜ける。


「よし」


「ですが」


「まだあるのか」


「近くには」


「行かない」


「なぜです!」


「君が現場にいたらベルドが警戒する」


「では殿下も?」


「俺も行かない」


「珍しい」


「囮はカルロス」


「殿下」


「本人は知らないけど」


「それ、かなり酷いですわね」


「君が言うか?」


「私はそこまで」


「俺を囮に婚約しただろ」


「違います!」


「似ている」


「全然違いますわ!」


 少しだけ声が大きくなり、周囲の生徒がこちらを見る。


 二人は同時に咳払いした。


「静かに」


「殿下が」


「君が」


「両方ですわね」


 小声で。


 二人。


 少し。


 笑う。


「カルロスには護衛を付ける」


 ライルはすぐ真面目な顔へ戻る。


「ディーン様が?」


「別班だ」


「ベルドが出てきたら?」


「確保」


「倉庫内に共犯者がいれば?」


「まとめて捕らえる」


「手紙の証拠は?」


「写しを取る」


 アマリリアは満足そうに頷いた。


「完璧ですわね」


「君が現場へ行かなければ」


「まだ言います?」


「一番の不確定要素だから」


「酷いですわ」


 それでも。


 アマリリアは少し笑った。


「では、今夜は殿下と王宮で待ちます」


 ライルが一瞬止まる。


「何です?」


「いや」


「嫌?」


「逆」


「では?」


「君からそう言われると」


 少し。


 照れたように。


「何か嬉しい」


 アマリリアが今度は止まる。


「殿下」


「何だ」


「それは反則ですわ」


「たまにはいいだろう」


「よくありません」


「なぜ?」


「私が困るからです」


 ライルは少し楽しそうに笑った。


「お互い様」


「成長しましたわね」


「君のせいだ」


          ◇◇◇


 その日の放課後。


 カルロスは、父グレイアスから王宮へ戻るよう命じられていたにもかかわらず、学園を出たあと迎えの馬車へ乗らなかった。


「先に帰ってくれ」


 御者が困ったように振り返る。


「ですが、公爵閣下より真っ直ぐ王宮へ戻るようにと」


「少し用事がある。父上には私から説明する」


「ムルール様」


「大丈夫だ」


 強く言われれば。


 御者も。


 嫡男。


 逆らいにくい。


 結局、馬車は先に出た。


 カルロスは徒歩で裏門を抜け、そのまま王都西側へ向かう。


 少し離れた後方では、私服の騎士が二人、距離を保ちながら後を追っていた。


 さらに。


 屋根の上。


 別の影。


 黒装束。


 アマリリア。


 部下。


 彼らもまた、カルロスに気づかれないまま追跡を続けていた。


          ◇◇◇


 夕方。


 旧西門倉庫。


 王都西側には、かつて使われていた古い城門跡が残っている。新しい外壁と門が完成してからは役目を終え、周辺の建物は安価な倉庫や資材置き場として使われるようになっていた。


 人通りは少ない。


 夕暮れを過ぎれば、なおさら。


 カルロスは手紙を握ったまま、指定された倉庫の前へ立った。


「ここか」


 扉は半分だけ開いている。


 中は暗い。


「誰かいるのか!」


 返事はない。


「手紙を送った者!」


 それでも誰も答えない。


 カルロスは中へ入った。


 追跡していた騎士たちは外で待機する。


 まだ。


 動かない。


 倉庫の奥。


 小さな灯り。


 一つ。


 その下。


 机。


 紙。


 何枚か。


 置かれている。


「何だ?」


 カルロスが近づく。


 最初に目へ入ったのは。


 一枚の魔導記録。


 昨日。


 階段下。


 座る。


 ルシア。


 泣いているように見える。


「ルシア」


 胸の奥へ怒りが湧く。


 その横。


 紙。


『アマリリア・ベスターは三令嬢を利用し、全てを彼女たちの罪にした』


『第一王子はそれを隠している』


『ルシア嬢を守れるのは、あなただけだ』


 カルロスの拳が強く握られる。


「やはり」


「やはり?」


 暗闇から声がした。


 カルロスが振り返る。


 灰色の外套を着た男が、倉庫の奥からゆっくり姿を現す。


 帽子を深く被り、顔は半分以上隠れている。


「誰だ」


「あなたの味方です」


「名を言え」


「今は必要ありません」


 男は机の上の写真を指した。


「重要なのは、ルシア嬢が危険だということです」


「アマリリアが?」


「はい」


「本当に?」


 カルロスは。


 一瞬。


 迷う。


 昨日。


 ルシア。


『アマリリア様は助けてくださいました』


 その言葉。


 思い出す。


「ベスター令嬢は頭の切れる方です」


 男は静かに言葉を続ける。


「自分が疑われていると知れば、先に味方のふりをすることくらい考えるでしょう」


 カルロスの表情が揺れる。


「第一王子殿下も、彼女に利用されております」


「殿下まで?」


「思いませんか?」


 男が一歩近づく。


「なぜ、あれほど急に婚約話が進んだのか。なぜ、あなたとの婚約解消直後なのか。そしてなぜ、彼女はいつも都合よく現場にいるのか」


 少し前のカルロスなら。


 全部。


 信じたかもしれない。


 でも。


 今は。


 ルシアの言葉がある。


 父の言葉も。


 ライルの言葉も。


『証拠なく決めつけるな』


 何度も。


 言われる。


 だから。


 カルロスは初めて。


 少し。


 踏みとどまった。


「証拠は?」


 男の動きが止まる。


「何?」


「アマリリアがやったという証拠はあるのか?」


 倉庫の中が一瞬だけ静かになった。


「ここに」


 男は別の紙を差し出す。


 カルロスが受け取る。


 三令嬢の名前。


 そして。


 署名。


『アマリリア様の指示で行いました』


「証言?」


「はい」


「本人たちが?」


「そうです」


 カルロスは紙を見る。


 でも。


 おかしい。


 昨日。


 三人。


 泣く。


 脅されていた。


 そう。


 聞く。


 詳しい事情までは知らない。


 でも。


 この署名。


 いつ。


「……これは、いつ書いた?」


 男の表情が僅かに変わる。


「何?」


「三人がこれを書いたのはいつだ」


「少し前です」


「昨日?」


「それ以前です」


 カルロスの眉が寄る。


「なら、父上へ見せる」


 倉庫の空気が少し変わった。


「公爵へ?」


「ああ」


「なぜ」


「本当に証拠なら、王宮へ出せばいい」


 男は黙る。


 カルロスはその沈黙を見た。


「あなたは」


 少し。


 目。


 細く。


「なぜ私一人を呼んだ?」


 男の計算が。


 初めて。


 少し。


 狂う。


 カルロスなら。


 全部信じる。


 そう。


 思う。


「あなたは、ルシア嬢を守りたくないのですか?」


 男の声に僅かな苛立ちが混じる。


「守りたい」


「なら」


「だからこそだ」


 カルロスは紙を握った。


「父上へ持っていく」


 その瞬間。


 男の手が懐へ入った。


「待て」


 カルロスも気づく。


 けれど。


 少し遅い。


 短剣。


 一閃。


 ただし。


 狙い。


 カルロス。


 ではない。


 天井から吊るされた魔石灯。


 刃。


 当たる。


 灯り。


 砕ける。


 倉庫。


 闇。


「なっ!」


 外で待機していた騎士たちがすぐに動いた。


「今だ!」


 扉が開き、複数の騎士が突入する。


 男は倉庫奥へ走った。


 裏口へ。


 扉を開く。


 しかし。


 その先。


 一人。


 黒装束。


 立つ。


「お待ちしておりました」


 ゼインだった。


「っ!」


 男はすぐ反転する。


 別の窓。


 逃げる。


 でも。


 そこにも。


 騎士。


 いる。


 逃げ道は。


 ない。


「ベルド・カシアン!」


 名前が呼ばれる。


 男は止まった。


 ゆっくり顔を上げる。


「王命により拘束する!」


 数の差は圧倒的だった。


 それでも。


 ベルドは。


 なぜか。


 笑った。


「遅い」


 暗闇の中。


 カルロスが声を上げる。


「何がだ」


 ベルドはカルロスを見る。


「もう、ルシアは動いている」


 ゼインの表情が変わった。


「何をした」


「父親が」


 ベルドは帽子を取り、顔を晒す。


 疲れた。


 歪んだ。


 笑顔。


「娘に会うだけだ」


「父親?」


 カルロスは混乱する。


 ゼインはすぐに通信具を取り出した。


「王宮へ報告を!」


          ◇◇◇


 同じ頃。


 王宮の私的応接室。


 アマリリアとライルは、夕食にもほとんど手をつけないまま報告を待っていた。


 王妃セレーネが途中で軽食を運ばせたものの、アマリリアは紅茶を飲んだだけ。ライルもパンを少し口へ運んだ程度だった。


「アマリリア」


「何でしょう」


「食べろ」


「殿下こそ」


「俺は食べた」


「パンを一口です」


「君は紅茶だけ」


「飲みました」


「食事じゃない」


「細かいですわね」


「こういうときくらい」


 その瞬間。


 通信具が光った。


 ライルがすぐに手へ取る。


「ディーン?」


『殿下』


 返ってきた声には、明らかな緊張があった。


『ベルド・カシアンを確保しました』


 アマリリアの肩から少しだけ力が抜ける。


「カルロス様は?」


『無事です』


「証拠は?」


『複数押収しております。ただし』


 声が変わる。


 アマリリアもすぐに表情を引き締めた。


「何です?」


『ベルドが、ルシア嬢について意味深な発言をしました』


「何と?」


『「もうルシアは動いている」「父親が娘に会うだけだ」と』


 室内の空気が一気に冷えた。


「ルシアさんは?」


 ライルが尋ねる。


『学園寮にいるはずです』


「はず?」


『すぐに確認します』


「今すぐ!」


 通信先が切り替わる。


 学園。


 警備。


 数秒。


 ただ。


 待つ。


 それだけ。


 なのに。


 長い。


『殿下』


「ルシア・メイベルは?」


 返事が少し遅れた。


『一刻ほど前、メイベル男爵家から迎えが来たとして、寮を出ています』


 アマリリアの顔色が変わった。


「本物の迎えですの?」


『現在確認中です。家紋入りの馬車と、正式な書状を持っていたため』


「偽造です」


 アマリリアはすぐに言った。


「ベルドは偽造印章を持っていました」


 ライルが立ち上がる。


「ルシア嬢はどこへ向かった?」


『馬車は南門方面へ』


 アマリリアとライルの視線が合う。


「殿下」


「分かってる」


「今度は」


「止めない」


 ライルは外套を手に取った。


「一緒に行く」


 アマリリアは一瞬だけ笑う。


「はい」


「ディーン」


『こちらです』


「南門周辺を封鎖。王都外へ出る馬車も全て確認してくれ」


『既に動かしております』


「父上にも」


『国王陛下へは報告済みです』


 王宮は。


 もう。


 動いている。


 アマリリアも自分の外套を羽織った。


「殿下」


「何だ」


「今夜」


「ああ」


「絶対にルシアさんを連れ戻しましょう」


 ライルは手を差し出した。


「一緒に」


 アマリリアが握る。


「ええ」


          ◇◇◇


 その頃。


 王都南門から少し離れた街道を、一台の馬車が王都の灯りを背にして走っていた。


 車内でルシアは、ようやく違和感を覚え始めている。


 窓の外。


 暗い。


 道。


 知る。


 でも。


 男爵家へ向かう方向ではない。


「……ここ」


 ルシアは窓へ顔を近づけた。


「男爵家へ向かう道ではありませんよね?」


 御者から返事はない。


「すみません!」


 扉を開こうとする。


 開かない。


 外から。


 鍵。


 掛かる。


「え?」


 ルシアの顔から血の気が引いた。


「開けてください!」


 扉を叩く。


 返事はない。


 むしろ馬車の速度が上がる。


「誰か!」


 そこで。


 向かい側の座席。


 足元。


 小さな封筒。


 置く。


 気づく。


 拾う。


 表。


『ルシアへ』


 文字を見た瞬間。


 嫌な。


 予感。


 封を開く。


 最初の一文。


『驚かせてすまない』


 次。


『私は君の父親だ』


 ルシアの息が止まる。


 さらに。


 最後。


『君をムルール公爵家へ嫁がせるために、邪魔者を全て消す』


「……何、これ」


 指先が震える。


 アマリリア。


 カルロス。


 第一王子。


 三令嬢。


 ここ数日。


 起きる。


 こと。


 全部。


 頭。


 中。


 繋がらない。


「お父さん?」


 ルシアには父親がいる。


 メイベル男爵。


 幼い頃から。


 ずっと。


 育てる。


 優しい。


 父。


 養父。


 なんて。


 知らない。


「嘘……」


 馬車が大きく揺れた。


「誰か!」


 ルシアは扉を叩きながら叫ぶ。


「助けて!」


 けれど、夜の街道には人影がない。


 馬車はそのまま王都からさらに遠ざかっていく。


 一方。


 王宮を飛び出したアマリリアとライルは、まだ知らなかった。


 ベルド・カシアンが用意していた最後の計画は、ルシアを攫うことだけでは終わらない。


 その先には。


 第一王子の婚約者であるアマリリアを。


 公の場で完全な悪役令嬢へ仕立てるための。


 最後の仕掛けまで。


 既に用意されていた。

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