第16話 悪役令嬢として追い詰められる前に、被害者本人とお茶をすることにしました
翌朝、アマリリアはいつもより少し早い時間にルナティック王立学園へ到着した。
まだ正門を通る生徒はまばらで、朝の冷たい空気が石造りの校舎の間を静かに流れている。中央庭園では庭師たちが花壇へ水を撒き、噴水の水音だけが普段より大きく聞こえるほど、校内には人の気配が少なかった。
アマリリアがこれほど早く登校するのは珍しい。
時間に余裕を持って行動する方ではあるし、学園主席を維持するための努力も惜しまない。だからといって、朝一番から教師より先に教室へ入り、ひたすら勉強するような性格でもなかった。
今日だけ早く来た理由は、もちろん別にある。
「お嬢様」
人通りのない渡り廊下へ差しかかったところで、背後から低い声が聞こえた。
アマリリアは振り返らず、そのまま歩みを続ける。
「ゼイン」
「はい」
「姿を見られておりませんね?」
「問題ございません」
ゼインは今日は黒装束ではなかった。
地味な茶色の上着に黒いズボン。片手には教材を入れた木箱まで持っており、知らない者が見れば、学園の補助職員か業者のようにしか見えない。
「普通の格好もできるのですね」
「お嬢様は私を何だとお考えで?」
「黒装束です」
「否定できません」
アマリリアは少し笑ったあと、すぐに声を落とした。
「三人の動きは?」
「今朝はまだ目立った行動はございません。ただし、エミリア・ローデン嬢は普段より早く登校しており、マリーネ・セルトン嬢とユフィナ・バレット嬢も既に校内におります」
「三人とも?」
「はい」
アマリリアは足を少しだけ緩めた。
昨日の夜、ルシアへ届いた脅迫状。
ベスター家の家紋を真似た銀花の印。
そして、その手紙が机へ入れられたと考えられる時間帯に、三令嬢が教室周辺へ出入りしていたという報告。
まだ確定ではない。
けれど。
「偶然にしては、少し早すぎますわね」
「私も同感です」
「ルシアさんは?」
「まだ登校されておりません」
「では、彼女が来る前に何か準備している可能性があります」
ゼインは小さく頷いた。
アマリリアも、そのまま先へ進む。
「今日の目的は、三人が何をするか確認することです」
「承知しております」
「ただし」
アマリリアは少しだけ表情を引き締めた。
「ルシアさん本人へ危険が及ぶ前には、必ず止めてください」
「人員は既に配置しております」
「どこへ?」
「必要な場所へ」
それ以上、ゼインは答えなかった。
アマリリアも無理に聞かない。
長い付き合いの中で、こういう場面の彼が仕事を中途半端にすることは一度もなかった。
「それから、昨日お願いした三家についての調査は?」
「進んでおります」
ゼインは懐から薄い紙を取り出した。
「三家に共通点が見つかりました」
「共通点?」
「ローデン子爵家、セルトン男爵家、バレット家。それぞれ規模は異なりますが、三家ともムルール公爵家が出資する商会と取引関係がございます」
「それだけなら珍しくはありませんわね」
現宰相であるムルール公爵家は、領地経営だけでなく複数の商会へ出資している。王都の中小貴族が何らかの形で関わっていても、それ自体は不自然ではない。
「はい。ただし、三家ともこの一年ほどで取引規模が縮小しております」
「理由は?」
「ムルール公爵家側の事業再編です。採算性の低い取引と、帳簿が不透明だった契約を整理した結果、三家に関係する取引も減ったようです」
アマリリアは目を細めた。
「つまり、三家にとってムルール公爵家との関係は以前より重要になっている」
「その可能性が高いかと」
「だから嫡男カルロス様との繋がりを維持したい?」
「考えられます」
「ルシアさんが邪魔だから排除する。その動機だけなら理解できます」
アマリリアは渡り廊下の先へ視線を向けた。
「ですが、私まで悪役に仕立てる理由としては弱いですわね」
「同感です」
「私とカルロス様との婚約が解消されれば、むしろ彼女たちにとって都合がよいはずです」
「はい」
「なのに、わざわざ私を巻き込む」
アマリリアは少し考え込んだ。
単純にルシアを排除したいだけではない。
自分の評判まで落としたい。
ならば。
「私と殿下の婚約が困る方」
「その可能性も調べております」
ゼインの返事は早かった。
「王家の婚約者となる私の評判を落とせば、正式発表を遅らせられる」
「あるいは破談へ持ち込める」
「随分と大きな話になってまいりましたわね」
「相手がそこまで考えていれば、ですが」
アマリリアは小さく息を吐いた。
北の森から帰ってからというもの、問題が終わるどころか増えている。
「殿下と婚約した途端、急に忙しくなりましたわ」
「お嬢様」
「何でしょう」
「元からかなり忙しい方です」
「そうでしょうか」
「ご自覚がないのですね」
「失礼ですわね」
アマリリアが少し睨むと、ゼインはほんの僅かに口元を緩めた。
「では、私はこれで」
「ええ。何かあればすぐに」
「承知しました」
ゼインは次の角を曲がる。
ほんの数秒。
もう。
姿。
見えない。
アマリリアは少しだけ眉を上げた。
「……やはり普通の職員ではございませんわね」
◇◇◇
教室へ鞄を置いて廊下へ出たところで、アマリリアはすぐに見慣れた黒髪を見つけた。
「早いな」
「殿下こそ」
ライルはいつもより少し早い時間に登校していた。
「君が早く来ると聞いた」
「誰からです?」
「ディーン」
「なぜディーン様が?」
「君の黒装束が朝から学園周辺を動いていると報告が来た」
アマリリアは少し黙った。
「殿下」
「何だ」
「王宮の情報網も怖いですわね」
「君の方が言うか?」
「私は個人ですもの」
「そこが余計怖いんだ」
ライルは苦笑しながらアマリリアの隣へ並んだ。
「何を調べている?」
「三令嬢の動きと、三家の背景です」
「俺には相談してから動くと言わなかったか?」
「相談する前の情報収集ですわ」
「その理屈、便利だな」
「褒めました?」
「呆れている」
アマリリアは気にせず笑った。
「ですが、今からご相談しようと思っておりました」
「本当か?」
「本当です」
「なら聞く」
二人は、まだ人の少ない庭園側の回廊へ移動した。
朝日が柱の間から差し込み、磨かれた石床へ細長い光と影を作っている。授業開始まではまだ時間があり、遠くを通る生徒の足音が時折聞こえる程度だった。
アマリリアはゼインから聞いた三家とムルール公爵家の取引関係について説明した。
ライルは途中で口を挟まず、最後まで聞いてから腕を組む。
「三家ともムルール家との繋がりが弱くなっている」
「ええ」
「だからカルロスへ近づきたい」
「一つの理由にはなりそうです」
「でも、君を悪役にする必要がない」
「その通りです」
ライルは少し考え込んだ。
「別の誰かがいるな」
「私もそう思っております」
「三人へ指示している人間?」
「恐らく」
「目的は」
「まだ分かりません」
「君の評判を落としたい」
「そして」
アマリリアは少しだけライルを見る。
「殿下との婚約を邪魔したい」
ライルの表情が変わった。
「そこまで?」
「可能性の一つです」
「誰が困るんだ」
「殿下との婚約を望んでいた令嬢は、かなりいらっしゃるのでは?」
「知らない」
「第一王子殿下ですのに?」
「興味がなかった」
「まあ」
アマリリアの口元が緩む。
ライルはすぐに気づいた。
「何だ」
「今は?」
「何が」
「婚約」
「君とする」
「そうですわね」
「なぜ嬉しそうなんだ」
「嬉しいからです」
あまりにそのまま答えたせいで、ライルは少し言葉に詰まった。
「……君は本当に朝から」
「何です?」
「心臓に悪い」
アマリリアは少しだけ笑う。
「殿下」
「何だ」
「お互い様ですわ」
「俺は何もしてない」
「先ほど『君とする』と即答なさいました」
「事実だろう」
「そういうところです」
アマリリアは少し視線を外した。
最近。
ライル。
以前より。
強い。
自然。
返す。
それ。
アマリリア。
弱い。
「話を戻します」
「君が逸らしたんだろう」
「そんなことはございません」
「絶対にある」
少し笑ったあと。
ライルは真面目な顔へ戻る。
「三人を泳がせるのはいい。でも、ルシア嬢へ直接危害が及びそうなら止める」
「もちろんです」
「君自身も」
「私?」
「狙われている可能性があるなら、一人で人気のない場所へ行くな」
アマリリアは少し周囲を見た。
「今ここ、かなり人気がございませんわね」
「俺がいる」
「まあ」
「何だ」
「守ってくださるのですね」
「当たり前だろう」
迷いのない返事。
アマリリアは一瞬、何も言えなくなった。
「殿下」
「何だ」
「最近、本当にずるくなりましたわね」
「何が」
「以前ならそんなことを、さらりとは仰らなかったでしょう?」
「君が一人で何でもやろうとするからだ」
「それとこれとは」
「同じだ」
ライルはアマリリアの額へ軽く指を当てた。
「少しは守られろ」
アマリリアは完全に黙った。
「……」
「アマリリア?」
「今の」
「何だ」
「かなり好きです」
ライルの指が止まる。
「だからそういう返しをするな!」
「本心ですもの」
「分かったから!」
朝の回廊へライルの声が響いた。
少し離れたところを歩いていた生徒が驚いてこちらを見る。
アマリリアは楽しそうに笑った。
「声が大きいですわ」
「君のせいだ!」
「私は何もしておりません」
「言葉でしている!」
「恋人ですので」
「婚約者だ!」
「ほぼ同じでしょう」
「同じではない!」
その短いやり取りの間だけ。
嫌がらせも。
噂も。
少し。
遠く。
感じる。
◇◇◇
ルシアが登校したのは、その少し後だった。
昨日の脅迫状の件が教師へ伝わっていることもあり、今日は寮監の判断で友人二人と一緒に教室まで来ている。本人も以前より周囲を気にするようになっており、廊下で大きな物音がするたびに肩が僅かに揺れた。
「大丈夫?」
友人の一人が心配そうに声をかける。
「うん」
「無理しないでね」
「ありがとう」
ルシアは笑った。
ただ、その笑顔には少し疲れが残っている。
教室へ入り、自分の机を見る。
今日は。
何も。
ない。
教科書も。
筆記具も。
昨日帰る前のまま。
「……よかった」
小さく息を吐く。
「今日は先生も見回りを増やすって」
「うん」
「大丈夫よ」
「そうだね」
少し安心。
する。
そのとき。
「ルシアさん」
エミリアが近づいてきた。
「おはようございます」
「おはよう。昨日は眠れた?」
「少し」
「怖かったでしょう」
「……うん」
エミリアの表情は心配そうだった。
少なくとも。
表面。
そう。
見える。
「今日は私たちも近くにいるから」
「ありがとう」
「何かあったらすぐ言ってね」
「はい」
マリーネとユフィナも後ろで頷く。
ルシアは少しだけ安心したように笑った。
その笑顔を見ながら。
エミリア。
胸。
痛い。
昨夜。
新しい。
匿名。
指示。
『次は、ルシア本人の口からアマリリアの名を言わせろ』
簡単ではない。
カルロスと違い、ルシアは既にアマリリアを犯人と決めつけていない。
むしろ昨日の食堂をきっかけに、疑うこと自体へ違和感を持ち始めている。
「そういえば」
エミリアは少し声を落とした。
「何?」
「昨日の脅迫状」
ルシアの顔が僅かに強張る。
「銀の花の」
「……うん」
「先生は何か?」
「ベスター家の正式な家紋とは少し違うって」
「そうなの?」
「花びらの数が違うみたい」
エミリアは少し驚いたような顔を作った。
「では、アマリリア様ではない?」
「分からない。でも」
「何?」
「私は違うと思いたい」
エミリアは一瞬だけ黙った。
「どうして?」
「昨日、食堂で見たから」
「何を?」
「アマリリア様を」
ルシアは机へ視線を落とす。
「私がスープをかけられたとき、本当に驚いた顔をしていたの」
「演技かもしれないわ」
「エミリアさん」
「ごめんなさい」
すぐに引く。
「でも、高位貴族の方は感情を隠すのが上手でしょう?」
「……」
「ごめんなさい。忘れて」
種だけ。
置く。
強く。
押さない。
「私も怖くて、変なことばかり考えているの」
「大丈夫」
「ありがとう」
ルシアは責めなかった。
エミリアは微笑んだ。
その瞬間。
教室の入口を。
一人。
教材。
持つ。
学園職員。
通る。
ほんの一瞬。
エミリア。
見る。
その視線。
誰も。
気づかない。
ゼインの部下。
既に。
会話。
聞く。
◇◇◇
午前の二限目が終わったあとだった。
アマリリアが教室で次の授業の準備をしていると、担任教師から声をかけられた。
「ベスター嬢」
「はい」
「少しよろしいですか」
「もちろんです」
教師の表情が少し硬い。
周囲の生徒たちも気づき、会話を止める者がいる。
アマリリアは何も尋ねず席を立ち、教師のあとについて教室を出た。
案内されたのは、職員室の隣にある小さな面談室だった。
中には学年主任。
そして。
一人。
ルシア。
「……」
アマリリアは少しだけ目を見開いた。
ルシアも驚いたようにこちらを見る。
「アマリリア様」
「ルシアさん」
二人がきちんと向かい合うのは。
これが。
ほぼ。
初めて。
だった。
「お二人とも座ってください」
教師に促され。
アマリリア。
椅子。
座る。
ルシアも。
正面。
座る。
少し。
緊張。
「何かございました?」
アマリリアが尋ねる。
学年主任は机の上へ一枚の紙を置いた。
昨日の脅迫状。
正確には、その写し。
「ベスター嬢」
「はい」
「あなたを疑っているわけではありません」
最初にそう言われる。
アマリリアは表情を変えない。
「ですが、この印について確認したくて」
「ベスター家の家紋に似ておりますね」
「ええ」
「正式なものとは異なります。花弁の数が違います」
「確認済みですか」
「はい」
「いつ?」
「昨日の夜に、家の者へ調べさせました」
嘘ではない。
ゼイン。
家の者。
そこ。
間違い。
ない。
「そうですか」
学年主任は少し頷く。
「学院としても、現時点であなたが関係しているとは考えていません」
「では、なぜ私を?」
「噂が広がり始めています」
「存じております」
「そして」
教師はルシアを見る。
「メイベル嬢本人から、一度あなたと直接話したいと」
アマリリアはルシアへ視線を向けた。
「私と?」
ルシアは少し緊張したまま頷く。
「はい」
「理由を伺っても?」
「このままだと」
一度。
息。
吸う。
「周りが勝手に話を作るからです」
アマリリアの目が少し柔らかくなる。
「その通りですわね」
「カルロス様も」
名前を出した瞬間。
少し。
困る。
「アマリリア様を疑っていて」
「ええ」
「私は」
ルシアは膝の上で手を握る。
「違うと思っています」
アマリリアは少しだけ驚いた。
「なぜ?」
「分かりません」
「……」
「でも」
ルシアは顔を上げた。
「私はアマリリア様から直接何かされたことが、一度もありません」
「そうですわね」
「話したことも、ほとんど」
「今日が初めてに近いです」
「はい」
ルシアは少し苦笑した。
「だから、誰かが勝手に私とアマリリア様を争わせているような気がして」
アマリリアは静かに彼女を見る。
思っていたより。
ずっと。
冷静。
「ルシアさん」
「はい」
「私も同じことを考えております」
「……え?」
「誰かが貴女へ嫌がらせをしている。そして、その責任を私へ押しつけようとしている」
教師たちの表情が変わる。
「証拠は?」
学年主任が尋ねる。
「まだございません」
「では」
「ですが、偶然にしては出来すぎています」
アマリリアは脅迫状の写しを指先で軽く叩く。
「家紋を真似る。私と関係があるような情報を意図的に口へ出す。嫌がらせが起きた直後に『高位貴族の令嬢がルシアさんを嫌っている』という噂まで広がる」
「誰かが意図的に?」
「可能性は高いと考えています」
「心当たりは?」
「候補はございます」
アマリリアは少し考えた。
「ですが、今は名前を申し上げません」
「なぜ?」
「確証がないからです」
教師は何も言わない。
アマリリアは続ける。
「証拠もないのに誰かの名前を出したら、私がカルロス様と同じになります」
ルシアの目が少しだけ大きくなる。
その意味。
分かる。
カルロス。
何度も。
証拠。
なく。
アマリリア。
疑う。
「……」
ルシア。
少し。
俯く。
「申し訳ありません」
「なぜ貴女が謝るのです?」
「カルロス様が」
「カルロス様はカルロス様です」
「でも」
「貴女が命令したのです?」
「違います!」
「でしょう?」
アマリリアは少し笑った。
「なら、謝る必要はございません」
ルシアは返す言葉を失った。
アマリリア。
怖い。
そう。
思う。
こと。
あった。
学園主席。
高位令嬢。
父を当主から降ろした。
そんな。
噂。
でも。
今。
目の前。
少なくとも。
想像。
だけ。
で。
怖い人。
では。
ない。
「それより」
アマリリアは少し身体を前へ向けた。
「一つお願いがございます」
「何でしょう」
「今後、何か起きたら」
「はい」
「私にも知らせていただけます?」
ルシアは驚いた。
「アマリリア様に?」
「嫌です?」
「そうではなくて」
「誰かが私を犯人にしたいのなら、次も何かするでしょう」
教師が口を挟む。
「学院への報告を最優先してください」
「もちろんです」
アマリリアはすぐ答えた。
「そのうえで、私にも」
「なぜ?」
「私は自分の名前が使われるのを止めたい」
一度。
間。
「そして、貴女もこれ以上傷つけられない方がよろしいでしょう?」
ルシアはアマリリアをじっと見た。
そして。
ゆっくり。
頷く。
「はい」
「では、協力しましょう」
アマリリアは手を差し出した。
ルシアはその手を見た。
少し迷う。
でも。
最後。
自分。
手。
重ねる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
学年主任と担任教師は、二人を見て少しだけ安心したように表情を緩めた。
「学院側でも警戒を強めます」
「お願いいたします」
「ただし、勝手な調査は控えてください」
アマリリアは微笑んだ。
「もちろんです」
教師。
少し。
疑う。
「本当に?」
「できる限り」
「ベスター嬢」
「冗談ですわ」
半分。
くらい。
でも。
今。
言わない。
◇◇◇
面談室を出ると。
廊下の壁際に。
ライル。
いる。
腕。
組む。
待つ。
「殿下」
「終わった?」
「ええ」
ルシアも後ろから出てくる。
ライルは少し表情を真面目にし、彼女へ向き直った。
「メイベル嬢」
「殿下」
ルシアは緊張しながら礼をする。
「カルロスの件」
ライルは少し言葉を選んだ。
「俺が謝ることではないとは思うが、何度もアマリリアを疑う形になって悪かった」
「いえ」
「アマリリアは、本当に何もしていない」
「分かっています」
ライルが僅かに驚く。
「そうか」
「はい」
「なら」
一度。
息。
吐く。
「助かる」
ルシアは少し不思議そうに顔を上げた。
「殿下が?」
「俺は」
ライル。
一瞬。
言葉。
迷う。
「婚約者が根拠なく悪く言われるのが嫌なんだ」
アマリリアの頬が少し熱くなる。
「殿下」
「何だ」
「ここで?」
「事実だろう」
「そうですが」
ルシアは二人を見た。
そして。
ほんの少し。
笑う。
「仲がよろしいのですね」
「ええ」
アマリリアは即答した。
「待て」
ライルが慌てる。
「否定なさる?」
「いや」
「では」
「そうだけど!」
ルシアは今度こそ少しはっきり笑った。
カルロスが言っていたこと。
アマリリアが自分を愛している。
第一王子を選んだのは失恋の反動。
でも。
今。
二人。
見れば。
違う。
明らか。
「アマリリア様」
「何でしょう」
「一つだけ」
「はい」
ルシアは少し恥ずかしそうに視線を下げた。
「カルロス様のこと」
ライルの表情が少しだけ硬くなる。
アマリリアは何も言わず続きを待った。
「本当に、お好きではなかったのですね」
「一度も」
即答。
ルシアは少し驚く。
ライルは横で。
少し。
満足。
顔。
「殿下」
「何だ」
「なぜ嬉しそうです?」
「別に」
「口元が」
「気のせいだ」
アマリリアは笑った。
ルシアも少しだけ笑う。
「ありがとうございます」
「なぜ?」
「……安心しました」
ルシアは小さく頭を下げると、待っていた友人たちの方へ歩いていった。
アマリリアとライルはその背中を見送る。
「うまくいった?」
「協力していただけることになりました」
「ルシア嬢が?」
「ええ」
「それは大きいな」
「思ったより、ずっと話の分かる方でした」
「カルロスより」
「殿下」
「言ってない」
「言おうとしました」
「まあ」
ライルは少し笑った。
「でも、敵じゃなくてよかった」
「本当に」
アマリリアは素直に頷いた。
被害者本人まで自分を敵だと思っていたなら。
状況。
もっと。
面倒。
だった。
「殿下」
「何だ」
「お昼」
「ああ」
「今日はルシアさんもお誘いしてみようかしら」
「三人で?」
「嫌です?」
「いや」
ライルは少し考えた。
「カルロスが見たら倒れそうだな」
アマリリアの動きが止まる。
そして。
口元。
ゆっくり。
上がる。
「殿下」
「何だ」
「面白そうですわね」
「その顔やめろ!」
◇◇◇
昼休み。
学園食堂。
窓際。
いつも。
ライル。
アマリリア。
二人。
座る。
席。
今日。
三人。
「……」
ルシアはものすごく緊張していた。
「そんなに固くならなくても」
アマリリアが言う。
「む、無理です」
「なぜ?」
「第一王子殿下と一緒に昼食なんて」
「俺は気にしない」
ライルが普通に答える。
「殿下が気になさらなくても、私が気にします!」
ルシアは困ったように言い返す。
アマリリアは少し笑った。
「すぐ慣れますわ」
「慣れません!」
「私も最初は」
「待て」
ライル。
即。
止める。
「何です?」
「君の最初は特殊すぎる」
「屋上で?」
「言うな!」
ルシアは意味が分からず首を傾げる。
「何があったのです?」
「秘密です」
ライルが即答した。
「残念ですわ」
アマリリアが笑う。
少しずつ。
ルシア。
緊張。
抜ける。
周囲。
視線。
多い。
当然。
第一王子。
婚約。
噂。
アマリリア。
そして。
嫌がらせ。
被害者。
ルシア。
三人。
同じ。
席。
「アマリリア様」
「はい」
「皆様、見ていらっしゃいます」
「でしょうね」
「気にならないのですか?」
「慣れました」
「殿下は?」
「諦めた」
「諦め?」
「アマリリアといると目立つ」
「殿下が第一王子だからでしょう?」
「半分は君だ」
「失礼ですわ」
三人。
少し。
笑う。
そのとき。
食堂の入口。
カルロス。
来る。
そして。
見つける。
完全。
止まる。
「……」
アマリリア。
気づく。
ライル。
気づく。
ルシア。
気づく。
三人。
一瞬。
静か。
カルロスはそのまま真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「ルシア」
「カルロス様」
「なぜ」
視線。
アマリリア。
ライル。
往復。
「ここに?」
ルシアは少し緊張しながら答えた。
「アマリリア様にお誘いいただきました」
「アマリリアが?」
「はい」
カルロスの目が少し険しくなる。
「何のために」
「昼食ですわ」
アマリリアが普通に答える。
「そうではなく」
「他に何が?」
「ルシアへ何を」
「カルロス様」
ルシアがすぐに止めた。
「私は何もされていません」
「だが」
「アマリリア様と、お話ししたかったのです」
「君から?」
「はい」
カルロスは理解できないという顔をする。
「なぜ」
「誤解を解くためです」
「誤解?」
「アマリリア様が私を嫌っているという」
「それは」
「違いました」
はっきり。
カルロス。
止まる。
「本人がそう言っただけでは」
「カルロス」
ライルの声が低くなる。
「またか」
「殿下」
「昨日、何を言われた?」
「……」
「証拠なく疑うな」
「ですが」
「ルシア嬢本人も違うと言っている」
「……」
「なら、少しは本人の話を聞け」
カルロスはルシアを見る。
ルシアは今度は視線を逸らさなかった。
「カルロス様」
「……何だ」
「私は」
一度。
息。
吸う。
「アマリリア様を疑いたくありません」
「……」
「そして、カルロス様にももう決めつけてほしくありません」
カルロスの表情に傷ついたような色が浮かぶ。
「私が君を守ろうとしているのに?」
「分かっています」
「なら」
「でも」
ルシアは静かに言う。
「守ることと、誰かを悪者にすることは違います」
アマリリアは少し驚いた。
ライルも。
同じ。
顔。
ルシア。
思った。
以上。
強い。
カルロスは何も言えなくなる。
「……分かった」
ようやく。
絞る。
でも。
最後。
アマリリア。
見る。
まだ。
少し。
疑い。
残る。
それ。
分かる。
「今日は何もしない」
アマリリアの眉が上がる。
「今日は?」
「カルロス様!」
ルシアが怒る。
「いや、そういう意味では」
「では何です?」
「……」
言えない。
ライルが大きく息を吐いた。
「もう教室へ戻れ」
「殿下」
「今はルシア嬢の意思を尊重しろ」
カルロスは不満そうだった。
でも。
最終。
頷く。
「……はい」
去る。
ルシアは長く息を吐いた。
「申し訳ありません」
「だから、貴女が謝る必要はございません」
「でも」
「むしろ」
アマリリアは少し笑った。
「よく言いましたわね」
ルシアは驚く。
「私なら、もう少し早く怒っております」
「アマリリア様なら」
ルシア。
少し。
笑う。
「カルロス様を殴りそうです」
沈黙。
ライル。
アマリリア。
見る。
「殴る?」
「失礼ですわ」
「父親は踏んだ」
「殿下!」
ルシアが目を大きくする。
「踏んだ?」
「忘れてくださいませ」
「気になります」
「聞かなくていい」
ライルが即座に言う。
「なぜ殿下が?」
「話すと長い」
「本当です?」
「本当だ」
アマリリアの顔が少し赤くなる。
そして。
三人。
初めて。
普通。
笑う。
その様子を。
食堂。
少し。
離れ。
エミリア。
見てる。
顔。
青い。
「まずい」
マリーネが小さく言う。
「仲良くなってる」
「どうするの?」
ユフィナの声も不安を含む。
エミリアは指先の震えを押さえるように、制服の裾を掴んだ。
昨夜の指示。
『ルシア本人の口からアマリリアの名を言わせろ』
なのに。
真逆。
ルシア本人。
アマリリア。
庇う。
「……次」
エミリアは小さく言った。
「もっと強いことをするしかない」
「でも」
「もう戻れない」
その言葉を。
三人。
誰も。
聞かない。
思う。
でも。
少し。
後ろ。
食器。
片づける。
職員。
一人。
いる。
学園。
普通。
服。
その耳。
全部。
拾う。
ゼインの部下は何も表情を変えず、そのまま食器を運びながら食堂を出た。
◇◇◇
放課後。
アマリリアはライルと一緒に、旧図書塔近くの小さな中庭へ来ていた。
ここは人通りが少なく、落ち着いて話すにはちょうどいい。
「ルシア嬢」
ライルが先に口を開いた。
「かなりまともだな」
「カルロス様と比べるのは失礼ですわ」
「言ってない」
「顔が」
「君も読むようになったな」
「婚約者ですので」
「便利だな、その言葉」
「殿下も使っております」
「否定できない」
二人はベンチへ座った。
アマリリアは少しだけ空を見上げる。
「でも」
「何だ」
「これで少し楽になりました」
「ルシア嬢が味方?」
「味方とまでは」
「少なくとも敵ではない」
「ええ」
アマリリアは少し息を吐いた。
「私が何もしていないのに、勝手に悪役令嬢に仕立てられるのは腹が立ちます」
「知ってる」
「しかも被害者本人と争っていることにされる」
「実際は昼飯を一緒に食べた」
「少し面白いですわね」
「笑えるか?」
「少しは」
ライルは横からアマリリアを見る。
「強いな」
「何が?」
「普通なら、もっと怖いと思う」
「噂が?」
「自分がやっていないことを、周りが信じ始めること」
アマリリアは少し黙った。
怖い。
ない。
言えば。
嘘。
「……少しは」
ライルが少し驚く。
「珍しい」
「何がです?」
「君が認めるの」
「白鹿さんに言われましたので」
「泣かない者は苦しくなる?」
「覚えていらしたのですね」
「君のことだから」
また。
さらり。
言う。
アマリリアは少し目を伏せた。
「殿下」
「何だ」
「そういうところですわ」
「何が」
「好きになるところ」
ライルが完全に固まる。
「……君」
「はい」
「少しは照れて言え」
「照れております」
「嘘だ」
「本当です」
「顔が普通だ」
「中は大変です」
「分からない!」
アマリリアは少し笑った。
でも。
そのあと。
真面目。
なる。
「怖いです」
ライルは黙る。
「少しだけ」
「うん」
「私が何を言っても、誰かが信じなかったら」
「俺は信じる」
即答。
アマリリアは何も言えない。
「ルシア嬢も」
「はい」
「父上も母上も、前伯爵も、アレクも、ディーンも」
「……」
「君を知っている人間は、少なくとも話を聞く」
アマリリアの胸が温かくなる。
「それでも」
ライルは続けた。
「怖いなら、言え」
「何と?」
「怖いって」
「殿下に?」
「ああ」
「何をしてくださるのです?」
「聞く」
「それだけ?」
「必要なら抱きしめる」
アマリリアが完全に止まった。
ライルは言ってから自分の言葉に気づいた。
「……」
「……」
「殿下」
「忘れろ」
「嫌です」
「分かってた!」
「今、少し怖いです」
「今使うのか!?」
「必要な場面です」
「絶対違う!」
「では抱きしめてくださいませ」
「ここ学園だぞ!」
「誰もおりません」
「そういう問題ではない!」
アマリリアは笑った。
ライルの顔は真っ赤だ。
「冗談ですわ」
「……」
「半分」
「半分なのか!」
「残り半分は本気です」
「もっと悪い!」
声が中庭へ響く。
アマリリアは少し笑ってから、肩をライルの方へほんの少し寄せた。
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……うん」
「かなり楽になりました」
「ならいい」
二人は少しの間、何も言わずに座った。
その静けさを破るように。
足音。
近づく。
ディーン。
表情。
真面目。
「殿下。ベスター令嬢」
「何だ?」
「ゼイン殿から急ぎの報告です」
アマリリアは顔を上げた。
「何が?」
「食堂で、例の三令嬢が話していた内容を聞いた者がいます」
「内容は?」
ディーンは少し声を落とした。
「『仲良くなっている。次はもっと強いことをするしかない』と」
アマリリアから笑みが消えた。
ライルも表情を変える。
「次はもっと強い?」
「恐らく」
「ルシアさんが危険ですわ」
アマリリアはすぐ立ち上がろうとした。
ライルがその腕を軽く掴む。
「一人で動かない」
「……はい」
「俺も行く」
「殿下は」
「婚約者だろう?」
アマリリアは一瞬黙った。
「それ」
「何だ」
「ずるいですわ」
「君が使うから覚えた」
ライルは立ち上がる。
アマリリアも。
今度。
一人。
先。
行かない。
「では」
手。
出す。
「一緒に」
ライルはその手を握る。
「ああ」
◇◇◇
その日の夜。
エミリアの屋敷の一室では、三人の令嬢が新たな匿名の手紙を前にして黙り込んでいた。
食堂でルシアとアマリリアが一緒に昼食を取った。
しかも、ルシア本人がアマリリアを疑っていない。
計画は。
少しずつ。
崩れ。
始める。
「どうするの」
マリーネが不安そうに言う。
「もう、ルシアさんはアマリリア様を疑ってない」
「分かってる」
「なら」
「私だって!」
エミリアの声が少し強くなる。
すぐ。
後悔。
「……ごめんなさい」
三人の間へ沈黙が落ちる。
「やめない?」
ユフィナが小さく言った。
「今ならまだ」
「でも」
エミリアは机の上の封筒を見る。
「やめたら」
最初の手紙。
三家。
取引。
完全。
切れる。
そう。
書く。
父たち。
困る。
家。
危うい。
でも。
今日。
ルシア。
笑う。
アマリリアと。
一緒。
食事。
その姿。
思う。
「私たち」
マリーネが呟く。
「本当に正しいのかな」
「正しいわけないでしょう」
エミリアは苦しそうに答えた。
「でも、もう」
そのとき。
窓の外。
小さな。
音。
三人。
振り向く。
窓辺。
誰も。
いない。
ただ。
机。
上。
いつの間にか。
新しい封筒。
置く。
「……また」
エミリアの顔から血の気が引く。
誰も入ってきていない。
扉も。
窓も。
開いていない。
それなのに。
届く。
「開けないで」
ユフィナが言う。
「でも」
「もう嫌」
「私も」
マリーネの声が震える。
エミリアは封筒を見つめた。
怖い。
でも。
開けない方が。
もっと。
怖い。
封。
切る。
紙。
一枚。
読む。
顔。
完全。
固まる。
「何が書いてあるの?」
マリーネが恐る恐る聞く。
エミリアは答えない。
紙。
握る。
指。
震える。
ユフィナが横から覗く。
そこには。
短い。
二行。
『次は、階段を使え』
『ルシアを落とせ』
三人の息が止まった。
「……無理」
マリーネが最初に言った。
「こんなの」
「私も」
ユフィナの顔が青い。
「これは嫌がらせじゃない」
「分かってる」
エミリアの声も震えていた。
紙を隠そうとしたとき。
裏。
新しい。
一文。
ある。
『拒めば、三家が関わった不正取引の証拠を王家へ送る』
三人は何も言えなくなった。
「不正取引?」
「何のこと?」
「知らない」
でも。
父たち。
家。
金。
話。
増えた。
ムルール公爵家。
取引。
減る。
それ。
何か。
ある。
「もし」
マリーネの声がかすれる。
「本当なら」
「家が」
ユフィナも顔を伏せる。
エミリアは紙を握ったまま、何も答えられなかった。
今まで。
自分たちは。
計画。
協力。
している。
そう。
思っていた。
けれど。
違う。
最初から。
選択肢。
なかった。
脅され。
動かされ。
使われていた。
そして翌日。
三人は。
初めて。
ルシアを傷つけることを望んでいないまま。
本当に人を傷つけるかもしれない場所へ。
追い込まれることになる。




