第15話 私が何もしていない間に、なぜか悪役令嬢として完成しつつあります
翌朝のルナティック王立学園は、いつもと変わらない賑わいに包まれていた。
正門から校舎へ続く石畳には、次々と馬車を降りた貴族の子息令嬢たちが流れ込み、朝の挨拶や昨日の授業についての会話があちらこちらで交わされている。中央庭園では朝露を残した花々が柔らかな日差しを受け、噴水の水音が生徒たちの笑い声へ混じっていた。
そんな穏やかな朝の中を、アマリリアは普段と変わらない足取りで校舎へ向かっていた。
「ごきげんよう、アマリリア様」
「ごきげんよう」
「昨日は学園をお休みされていましたよね?」
「ええ。王宮へ少々」
「王宮ですか?」
声をかけてきた同級生の令嬢が、露骨に興味を示した。
アマリリアは余計なことを言わず、ただ曖昧に微笑む。昨日はカルロスとの婚約解消について王宮で正式な話し合いをしていたが、まだ家同士の手続きも終わっていない以上、学園で細かく話す必要はない。
「少し用事がございましたの」
「もしかして、第一王子殿下と?」
令嬢の視線が、校舎の反対側へ向く。
ちょうどそのとき、王家の紋章が入った馬車からライルが降りてきたところだった。
最近の二人を知っている生徒なら、気になるのも当然だろう。
旧図書塔。
王宮からの使者。
北の森。
そして昨日、二人揃って学園を休んでいる。
「殿下とは」
アマリリアは少しだけ考えてから答えた。
「以前より仲良くなりましたわ」
「えっ」
「では、私はこれで」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
それ以上は何も言わずに歩き出す。
背後では、先ほどの令嬢がすぐに友人たちへ囲まれ、ものすごい勢いで何かを説明し始めていた。
「少しくらい噂になっていただいた方が、正式発表のとき楽かもしれませんわね」
「何の話だ?」
すぐ横から声がして、アマリリアは振り返った。
「殿下」
「おはよう」
「ごきげんよう。今日はきちんと授業へ出られるのですね」
ライルがすぐ嫌そうな顔をする。
「朝一番の言葉がそれか?」
「心配して差し上げております」
「絶対に違う」
「では何だと思われます?」
「からかっている」
「正解ですわ」
「認めるな」
ライルはため息をつきながらも、自然にアマリリアの隣へ並んだ。
以前であれば、第一王子と伯爵令嬢が並んで歩くだけでもかなり注目されたはずだ。今も十分に視線は集まっているが、この数日で二人とも慣れてしまっていた。
「昨日の会談のあと」
ライルが少し声を落とす。
「カルロスから何か言われた?」
「いいえ。王宮でお別れしてからは」
「そうか」
「殿下」
「何だ」
「心配性ですわね」
「昨日のあれを見たあとで、心配しない方がおかしいだろう」
カルロスは、本人から何度否定されても、アマリリアが自分を愛していたという考えを完全には捨てなかった。
最後には「私を選ばなかったことを後悔しないといい」などと言い残している。
まともに考えれば、もう関わらないのが一番だ。
「むしろ私が気になるのは、ルシアさんの方ですわ」
「嫌がらせの話?」
「ええ。本人は私を疑っていないようですが、カルロス様が勝手に私と結びつけています」
「私物がなくなったとか、廊下で転びそうになったとか」
「それです」
アマリリアは少し歩調を緩めた。
「一つ一つなら偶然でも説明できます。置き忘れもあるでしょうし、人の多い廊下で誰かと足がぶつかることもあります」
「でも、重なると?」
「気になります」
ライルも表情を真面目なものへ変える。
「調べる?」
「既にゼインへお願いしております」
「いつ?」
「昨日、帰ってから」
「早いな」
「褒めました?」
「半分くらい」
「では、残り半分も」
「嫌だ」
「けちですわね」
軽口を交わしているうちに、二人は校舎前へ着いた。
本来ならここで別れるところだが、ライルはなぜかその場に立ち止まっている。
「殿下?」
「何だ」
「教室はあちらでは?」
「知っている」
「では?」
ライルは周囲を一度確認した。
露骨に見ないようにしながら、何人もの生徒がこちらを気にしている。
「昼」
「はい?」
「昼食」
アマリリアが瞬きをする。
「一緒にどうだ」
珍しい。
最近は一緒にいること自体増えたが、ライルの方から自然に誘ってくるのはまだ少ない。
「殿下からお誘いくださるのですね」
「嫌ならいい」
「誰が嫌と申しました?」
「その顔が」
「どの顔です?」
「からかう顔だ」
「これは嬉しい顔ですわ」
「見分けがつかない」
「婚約者なのですから覚えてくださいませ」
ライルは一瞬だけ黙った。
そのあと、小さく笑う。
「努力する」
「まあ」
「何だ」
「素敵ですわ」
「褒めなくていい!」
アマリリアは楽しそうに笑いながら教室へ向かった。
そして。
そんな二人のやり取りを見ていた生徒たちの間で、第一王子とアマリリアの関係についての噂が、また少しだけ大きくなった。
◇◇◇
同じ頃。
別棟の教室では、ルシア・メイベルが自分の机の前で立ち尽くしていた。
「……何、これ」
机の上には、教科書と筆記具。
そして。
細かく破られた紙が散らばっている。
昨日提出した課題の控えだった。
本物は既に教師へ渡しているため、授業そのものに支障はない。それでも、誰かが意図的に自分の机へ触れ、私物を破ったという事実だけは消えない。
「ルシア?」
近くの友人が気づいて駆け寄った。
「どうしたの?」
「これ……」
「え?」
友人の顔が変わる。
「誰がこんなことを?」
「分からない」
「昨日帰る前は?」
「何もなかった」
周囲の生徒たちも、少しずつ騒ぎに気づき始めた。
「また?」
「前も私物がなくなったって」
「廊下でも転びそうになったんでしょう?」
「誰かに狙われてるの?」
小さな声が。
少しずつ。
広がっていく。
ルシアは唇を噛んだ。
本当に心当たりがない。
高位貴族へ失礼な態度を取った覚えもなく、誰かと大きな喧嘩をしたこともない。
ただ。
カルロスと親しくなってから。
彼へ好意を寄せていた令嬢たちから冷たい視線を向けられることは増えた。
「先生へ言った方がいいわ」
「でも」
「今度は偶然じゃない」
友人の言葉にはっきりとした心配が滲む。
確かに。
紙は自然にここまで破れない。
「……うん」
ルシアが頷いたときだった。
「何があった?」
教室の入口から男性の声が響く。
「カルロス様」
ルシアが振り返る。
金髪の青年は人だかりの間を進み、ルシアの机の上を見た。
「これは」
彼の顔から、いつもの自信に満ちた笑みが消える。
「誰がやった?」
「分かりません」
「またか」
「カルロス様」
「私物がなくなり、廊下で転びかけ、今度はこれだ」
「でも」
「やはり誰かが君を狙っている」
「それは、そうかもしれません」
ルシアは慎重に答えた。
「でも、誰がしたかは分かりません」
カルロスの目が僅かに細くなる。
「君はまだアマリリアを庇うのか?」
「庇っているのではありません!」
ルシアの声が思ったより強く出た。
教室内が静かになる。
「私は、アマリリア様がしたなんて一度も言っていません」
「しかし」
「証拠がありません」
昨日。
自分でもカルロスへ伝えた。
その前には王宮でも。
何度も。
証拠がない。
それでもカルロスは、まだアマリリアを疑っている。
「分かった」
カルロスは一度息を吐いた。
「誰がしたのか、調べる」
「カルロス様が?」
「当然だろう」
「でも」
「君を守ると決めた」
ルシアは少し困った顔をした。
「そのお気持ちは嬉しいです」
「なら」
「でも、最初から犯人を決めないでください」
「……」
「お願いします」
カルロスは不満そうではあった。
けれど。
昨日、父親や国王、ライルから何度も言われたことを思い出したのか。
「分かった」
そう答えた。
ルシアの肩から少し力が抜ける。
「ありがとう」
その様子を。
教室の後方。
三人の令嬢が静かに見ていた。
薄茶色の髪をしたエミリア・ローデン。
赤茶色の髪のマリーネ・セルトン。
黒髪のユフィナ・バレット。
昨日。
校舎裏で。
カルロスとルシアの会話を聞いていた三人。
そして。
エミリアの懐には今も、匿名の紙が入っている。
『アマリリア・ベスターを悪役にすれば、公爵子息はこちらを信じる』
「大変ですわね」
エミリアはそう言いながらルシアへ近づいた。
「エミリアさん」
「よろしければ、後片づけをお手伝いいたします」
「でも」
「一人では大変でしょう?」
優しい笑顔。
ルシアは少し迷ったあと、頷いた。
「ありがとう」
「いいえ」
エミリアが床に落ちた紙片を拾い始める。
マリーネとユフィナも、それに続いた。
「君たちは」
カルロスが声をかける。
「はい?」
「ルシアと同じ講義を取ることが多いな」
「ええ」
「何か知らないか?」
エミリアの指先が僅かに止まった。
「何をでしょう」
「嫌がらせをしている者だ」
「……」
ほんの一瞬。
三人の間で視線が交わされる。
「分かりませんわ」
エミリアはそう答えた。
そして。
少しだけ躊躇するような仕草を見せる。
「ですが」
「何だ?」
「最近、ルシアさんについて、あまりよくないお話をする方がいるという噂は聞いたことがございます」
ルシアの顔が曇る。
「どんな?」
「私からは」
「言ってくれ」
カルロスが一歩近づく。
「君たちを責めたりしない」
エミリアは困ったように視線を下げた。
「身分を弁えず、高位貴族の男性へ取り入っている、と」
周囲がざわついた。
ルシアの表情が傷つく。
「誰が言った?」
カルロスの声が低くなる。
「直接聞いたわけではありません」
「では」
「知り合いから、そういう噂があると」
誰の名前も出さない。
ただ。
言葉だけ。
置く。
そして。
カルロスの頭の中で。
勝手に。
繋がる。
「……アマリリア」
「カルロス様!」
ルシアがすぐに止めた。
エミリアは小さく目を伏せる。
口元に浮かびかけたものを。
誰にも見えないように隠しながら。
◇◇◇
午前の授業が終わる頃には、ルシアの机に置かれていた紙が破かれた件は、同じ学年のかなり広い範囲へ伝わっていた。
学園という場所は、噂が広がるには狭すぎる。
誰か一人が廊下で話し、それを別の生徒が聞き、さらに少し面白い形へ変えて他の友人へ話す。昼休みを迎える頃には、元の出来事よりも「誰が何のためにやったのか」という推測の方が大きくなっていた。
「また嫌がらせですって」
「ルシアさん?」
「そう」
「カルロス様と親しいから?」
「やっぱり嫉妬?」
「誰が?」
「分からないけど、高位貴族の令嬢って話」
食堂へ向かう廊下。
アマリリアは。
普通に。
聞こえた。
そして。
何人かが自分を見る。
視線が合うと。
すぐ逸らす。
アマリリアは足を止めた。
「アマリリア様?」
後ろを歩いていた同級生が不思議そうに呼ぶ。
「少々」
アマリリアは振り返り、少し離れたところで話していた令嬢たちへ向き直った。
「ごきげんよう」
「あ、アマリリア様」
「先ほど、私の名前が聞こえた気がしたのですが」
三人の令嬢が固まる。
「何かございました?」
「い、いえ」
「何も」
「そうですか」
アマリリアは穏やかに微笑む。
「では、続きをどうぞ」
「続きを?」
「お話の」
「……」
三人の顔色が悪くなる。
アマリリアは少し首を傾けた。
「私、気になりますの」
「怒っていらっしゃいます?」
「いいえ」
「本当に?」
「まだ」
余計に顔色が悪くなった。
アマリリアは少し反省する。
「冗談ですわ」
「……」
「半分ほど」
「アマリリア様!」
とうとう一人が観念したように口を開いた。
「ル、ルシア・メイベルさんのことで」
「はい」
「今朝、また嫌がらせがあったそうです」
「また?」
「机に置いていた紙が破られていたと」
アマリリアの表情から笑みが消えた。
「そうですか」
「それで、その」
「何でしょう」
「高位貴族の令嬢が、ルシアさんをよく思っていないという話が」
「それだけで私に?」
三人は言葉に詰まる。
一人が小さく答えた。
「カルロス様との婚約のお話がございましたので」
「なるほど」
アマリリアは状況を理解した。
「カルロス様とルシアさんが親しい。私とカルロス様には婚約話があった。だから、私がルシアさんへ嫉妬して嫌がらせをしている、と?」
「……」
誰も答えない。
でも。
それが答えだった。
「馬鹿馬鹿しいですわね」
「アマリリア様」
「貴女方へ怒っているわけではありません」
アマリリアは声を少し柔らかくした。
「ただ、噂を口にするときは、それが誰かの人生へ影響を与えることくらいは考えてくださいませ」
三人の令嬢が俯く。
「……はい」
「申し訳ございません」
「分かりました」
「それで」
アマリリアは続ける。
「その話は、誰から?」
三人が顔を見合わせる。
「私は友人から」
「私は同じ講義の方に」
「私は寮で聞きました」
ばらばらだ。
もう。
出所。
簡単。
追えない。
「そうですか」
アマリリアは少し考える。
嫌がらせが起きた。
その日のうちに。
自分へ繋がる噂も広がる。
出来すぎている。
「アマリリア」
背後からライルの声がした。
振り返る。
「殿下」
「何かあった?」
「少々」
三人の令嬢は第一王子の姿を見ると、さらに緊張した。
「失礼いたします!」
一斉に頭を下げ、逃げるように去っていく。
ライルはその背中を見送った。
「俺が追い払った?」
「少し」
「悪かった」
「いいえ。むしろ助かりました」
ライルの隣にはディーンもいる。
「何を聞いた?」
アマリリアは今朝の嫌がらせと、自分へ繋がる噂について簡単に説明した。
ライルの表情が少しずつ険しくなる。
「もう君の名前まで出始めている?」
「まだ『高位貴族の令嬢』程度ですが」
「婚約話を知っている人間なら連想できる」
「ええ」
「狙っているように見える」
アマリリアはライルを見る。
「殿下もそう思われます?」
「ああ」
「私もです」
ディーンも真面目な顔になる。
「誰かが意図的に?」
「可能性がございます」
「心当たりは?」
「まだ」
アマリリアは小さく首を振った。
「ゼインにも調べさせております」
「アマリリア」
「はい」
「一人で動くなよ」
アマリリアは眉を上げる。
「私を信用しておりません?」
「能力は信用している」
「では?」
「無茶をしない部分は信用していない」
「失礼ですわね」
「北の森で何回言ったと思っている」
「数えておりません」
「俺は数えたいくらいだ」
アマリリアは少し笑った。
「分かりました」
「本当か?」
「殿下へ相談してから動きます」
ライルが僅かに驚く。
「素直だな」
「婚約者ですので」
「……」
「何です?」
「その言葉を使えば俺が弱ると分かってるだろう」
「もちろんですわ」
「認めるな」
横でディーンが視線を逸らした。
「ところで殿下」
「何だ」
「昼食のお約束」
「ああ」
「覚えております?」
「俺が誘ったんだぞ」
「確認です」
「君こそ」
「私は主席ですので」
「何の関係がある」
「記憶力も優秀です」
「自分で言うな」
少しだけ。
いつもの調子へ戻る。
けれど。
廊下の向こう。
まだ。
何人か。
こちら。
見る。
そして。
すぐ。
視線を外す。
噂。
もう。
形を持ち始めている。
◇◇◇
昼休みの食堂は、いつものように多くの生徒で賑わっていた。
アマリリアとライルが一緒に入ってきた瞬間、少しだけ周囲の空気が変わる。朝から二人の関係について新しい噂が広がっていたこともあり、露骨ではないものの、かなりの視線が集まった。
「殿下」
「何だ」
「注目されておりますわね」
「君が朝に何か言ったせいだろう」
「『仲良くなりました』とだけ」
「十分だ!」
「事実ですもの」
「正式発表前だぞ」
「嘘は申しておりません」
ライルはため息をつきながらも、少し笑っている。
二人はいつもの窓際の席へ座った。
料理が運ばれ。
アマリリアはスープへ手を伸ばす。
ふと。
食堂の別の一角へ視線を送る。
ルシアがいる。
友人たちと一緒。
少し離れたところにはカルロスも。
視線が合う。
カルロスがこちらを見る。
アマリリアは。
すぐ。
興味を失い。
視線を戻す。
「見なくていい」
ライルが言う。
「誰を?」
「カルロス」
「殿下こそ見ておりますわよ」
「警戒だ」
「嫉妬では?」
ライルは一瞬止まった。
「……少しは」
今度はアマリリアのスプーンが止まる。
「殿下」
「何だ」
「素直すぎません?」
「昨日、君に隠しても意味がないと分かってきた」
「素晴らしいですわ」
「褒めるな」
「嬉しいです」
「そういうことを普通に言うから困る」
「慣れてくださいませ」
「努力中だ」
アマリリアが笑った。
そのとき。
食堂の別の場所から。
小さな悲鳴が上がる。
「きゃっ!」
食器が床へ落ちる音。
金属が石床へぶつかり。
一瞬。
周囲の会話が止まる。
ルシアが立っていた。
制服の胸元へ。
スープ。
かかる。
向かいには、一人の令嬢。
真っ青。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫です」
「手が滑って」
「本当に大丈夫ですから」
偶然。
そう見える。
少なくとも。
今は。
ルシアの友人がハンカチを差し出す。
そこへ。
カルロスが立ち上がった。
「誰だ!」
声が響く。
「カルロス様、大丈夫です!」
「大丈夫ではない!」
スープをこぼした令嬢が怯える。
「わ、私は本当に」
「なぜルシアへ」
「手が滑っただけで」
そのとき。
少し離れた位置にいたエミリアが近づいてきた。
「カルロス様」
「何だ」
「その方は」
一度。
迷うように。
「アマリリア様と同じ礼法研究会に参加されていた方では?」
空気が止まった。
アマリリアの目が細くなる。
ライルの表情も変わった。
スープをこぼした令嬢本人が、驚いてエミリアを見る。
「え?」
エミリアはすぐ口元を押さえた。
「申し訳ございません。関係のないことでしたわ」
遅い。
十分。
言葉。
置かれた。
カルロスの視線が。
アマリリアへ向く。
周囲の生徒も。
同じ。
令嬢が慌てて叫ぶ。
「違います! 私はアマリリア様に何も言われておりません!」
それ。
逆に。
疑い。
増える。
「言われてない?」
「なぜ急にアマリリア様?」
「やっぱり」
「まさか」
ライルが立とうとする。
アマリリアはすぐに彼の腕へ触れた。
「待ってくださいませ」
「でも」
「今は私が前へ出れば、余計に面白がられます」
「放っておく?」
「いいえ」
アマリリアは静かに周囲を見た。
「見ます」
「何を?」
「誰が動くかを」
ライルは一瞬だけ考え。
座り直す。
カルロスはアマリリアを睨む。
だが。
昨日。
父。
国王。
ライル。
全員から。
証拠なく疑うな。
言われる。
だから。
すぐ。
責めない。
「……」
拳。
握る。
ルシアがそんな彼を止めた。
「カルロス様」
「何だ」
「アマリリア様は関係ありません」
「しかし」
「今の方も何も言われていないと」
「脅されている可能性も」
「カルロス様!」
ルシアの声が強く響いた。
食堂が静まる。
「やめてください」
「ルシア」
「私は」
一度。
息。
整える。
「アマリリア様に何かされたなんて、一度も言っていません」
アマリリアは少し驚いた。
ルシアがこちらを見る。
目が合う。
少し。
気まずそう。
でも。
小さく。
頭を下げる。
アマリリアも。
会釈。
返す。
「私は大丈夫です」
ルシアはそう言い、友人たちと食堂を出ていった。
カルロスはその場に残り。
複雑そうな顔で。
アマリリアと。
ルシアが去った方向を。
交互に見る。
エミリアは。
ほんの一瞬。
アマリリアへ視線を向け。
すぐに逸らした。
その動き。
アマリリアは。
見逃さない。
「……殿下」
「何だ」
「一人」
「誰?」
「まだ」
アマリリアは少し声を落とした。
「確証がございません」
ライルの目が細くなる。
「調べる?」
「ええ」
「一緒に」
「もちろんですわ」
アマリリアは小さく笑った。
「約束しましたもの」
食堂。
まだ。
ざわめき。
続く。
今日。
この瞬間。
証拠。
何も。
ない。
それでも。
『アマリリア・ベスターがルシアへ嫌がらせをしている』
その噂は。
ついに。
具体的な姿を持ち始めた。
◇◇◇
午後の授業が始まる少し前。
アマリリアは教室へ戻らず、使われていない小さな準備室へ入っていた。
ライルも一緒。
ディーンは廊下で周囲を警戒している。
「また呼ぶの?」
ライルが尋ねる。
「ええ」
アマリリアは窓を開き、指を一度鳴らした。
すぐに。
外から。
学園職員とほとんど変わらない服装をしたゼインが入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「最近、黒装束ではないのですね」
「学園ですので」
ライルが少し眉を上げる。
「普通の格好もできるんだな」
「殿下は私を何だと」
「黒装束」
「否定できません」
アマリリアが間へ入る。
「それより、調査結果を」
「はい」
ゼインは数枚の紙を出した。
「ルシア・メイベル嬢の周辺で起きた件について、現時点で確認できている内容です」
「お願いします」
「最初の私物紛失については、教材用の小物入れでした。翌日、ルシア嬢が使用していない別教室の棚から見つかっています」
「誰かが移した?」
「その可能性が高いかと」
「廊下の件は?」
「目撃者が二名。ルシア嬢の進行方向へ、小さな木製の玉のような物が転がったという証言がございます」
ライルが眉を寄せる。
「物は?」
「見つかっておりません」
「今朝の紙」
「故意です」
ゼインが続ける。
「そして、食堂のスープについては、現時点では事故の可能性が高いと見ています」
「事故?」
アマリリアは少し考える。
「では、エミリア様があの場で私との関係を口にしたことの方が重要ですわね」
「はい」
「エミリア・ローデン子爵令嬢」
ライルが名前を出す。
「殿下、ご存じで?」
「顔と名前くらいだ。礼法研究会にも一度参加していたと思う」
「だからあの言葉」
アマリリアは少し目を細める。
「ゼイン」
「はい」
「エミリア様を含め、ルシアさんの周囲にいる三人の令嬢を調べてくださいませ」
「既に確認しております」
「さすがですわ」
ライルが少し笑う。
「君たち、本当に話が早いな」
「長い付き合いですので」
「俺もそのうち」
「はい?」
「君が何を考えているか、言わなくても分かるようになるのかな」
アマリリアは。
少し。
止まる。
「なりたいのです?」
「……少しは」
ゼインが静かに視線を逸らした。
アマリリアは頬が少し熱くなるのを感じる。
「殿下」
「何だ」
「今は調査中です」
「君が聞いたから答えたんだ!」
「場所を考えてくださいませ」
「理不尽だ!」
ゼインが淡々と口を開く。
「私は何も聞いておりません」
「絶対聞いていただろう!」
「必要な技能ですので」
「ディーンと同じことを言うな!」
空気が少しだけ緩む。
しかし。
すぐ。
調査。
戻る。
「もう一つ」
ゼインが別の紙を出した。
「噂についてです」
「もう調べたのです?」
「お嬢様がかなり悪役令嬢らしく扱われ始めておりますので」
「……」
ライルが反応する。
「どんな噂?」
「『アマリリア様はカルロス様を第一王子殿下へ取られた腹いせに、ルシア嬢を攻撃している』」
「逆ですわ!」
アマリリアが即座に声を上げる。
「そこから違います!」
「私もそう思います」
「次」
「まだ?」
「『カルロス様を捨てたように見せて、実際には未練がある』」
「ございません!」
「『ルシア嬢を学園から追い出そうとしている』」
「しておりません!」
「『第一王子殿下を利用してムルール公爵家へ圧力を』」
「それは」
アマリリアが止まる。
ライルを見る。
「何だ」
「最初は」
「俺を利用しようとはしたな」
「婚約の件では」
「そこだけ急に罪悪感を持つな」
「ですが」
「今は違うだろう」
「……はい」
「ならいい」
あまりにも自然に言われて、アマリリアは少し黙った。
「続けますか?」
ゼインが尋ねる。
「もう結構です」
「まだございます」
「聞きたくありません」
「珍しいですね」
「私にも限界はございます」
ライルが少し笑った。
「悪役令嬢として完成してきたな」
「殿下」
「悪い」
「笑い事ではございません」
「分かっている」
すぐ真面目な顔へ戻る。
「噂は放っておくとまずい」
「ええ」
「正式婚約の発表前だ」
「だからこそ、今すぐ強く否定するのも危険かもしれません」
「なぜ?」
「誰が何のためにやっているのか分からないからです」
アマリリアは机の上に置かれた報告書を見る。
「今ここで私が大きく反論したあと、より強い証拠を捏造されたら」
ライルがすぐ理解する。
「『先ほど否定したのに嘘だった』という形にされる?」
「ええ」
ゼインも頷く。
「現在の嫌がらせは被害としては小さい。しかし噂と組み合わせれば、印象を先に作ることができます」
「では」
ライルが言う。
「少し泳がせる?」
「そうしたいところですが」
アマリリアの表情が曇る。
「ルシアさんへの被害が増えるのは困ります」
「学園側へ相談するか」
「私の名前が疑われているという話は、ひとまず伏せて?」
「ああ。嫌がらせそのものが続いていることを理由に、警備を増やしてもらう」
「それがよろしいですわね」
ゼインも頷く。
「こちらからも、学院警備側へ匿名で情報を入れておきます」
「お願いします」
「それから、お嬢様」
「はい?」
「今後しばらく一人で動かれないように」
アマリリアはじっとゼインを見る。
「ゼインまで?」
「殿下からのご指示です」
ライルが気まずそうに視線を逸らす。
「殿下」
「何だ」
「勝手に」
「必要だろう」
「私、一人でも」
「できるのは知ってる」
ライルは真っ直ぐアマリリアを見る。
「でも、一人でやる必要はない」
アマリリアは。
少し。
何も言えなくなる。
「……そうですわね」
「珍しく素直」
「皆様、最近そればかりです」
「事実だからな」
ゼインが小さく笑った。
◇◇◇
その日の放課後。
ルシアは友人二人と一緒に寮へ戻るため、中央校舎を出た。
午前中に起きた出来事のせいで疲れているのか、普段より口数が少ない。今日の食堂で汚れた制服は学園の洗濯係へ預け、今は予備の制服を着ている。
「今日は一緒に寮まで行くから」
「ありがとう」
「当然でしょう。何かあったら怖いもの」
「……うん」
ルシアは無理に笑った。
怖くないと言えば嘘になる。
誰かが。
自分を狙っている。
理由も。
分からない。
そして。
そのたびに。
カルロスがアマリリアの名前を出す。
「アマリリア様」
無意識に名前が漏れた。
「何?」
友人が聞く。
「今日の食堂で」
「うん」
「私が見たとき」
ルシアは少し考えた。
「本当に驚いた顔をしていた」
「アマリリア様が?」
「うん」
「第一王子殿下と一緒だったものね」
「そう」
「すごく仲良さそうだった」
ルシアは頷く。
「だから」
「何?」
「カルロス様が言うようには、見えないの」
自分へ嫉妬。
カルロスへ未練。
その二つ。
少なくとも。
今日見たアマリリアには。
感じなかった。
「私」
ルシアは少しだけ声を落とす。
「カルロス様に、もうアマリリア様のことを決めつけてほしくない」
「なら、ちゃんと言った方が」
「言ってるの」
「聞いてくれない?」
「聞くとは言ってくださるけど」
結論。
いつも。
同じ。
「困ったわね」
「……うん」
そのとき。
後ろから。
「ルシアさん」
声がした。
振り返る。
「エミリアさん?」
エミリア、マリーネ、ユフィナ。
三人。
「少しよろしい?」
「何でしょう」
エミリアは。
一通の封筒。
持つ。
「これ」
「私に?」
「先ほど、教室の机の中に」
友人たちが警戒した顔になる。
「何?」
「分からないわ」
封筒の表。
『ルシア・メイベルへ』
綺麗。
文字。
「開けない方が」
「でも」
ルシアは迷った。
周囲。
まだ。
生徒。
何人か。
一人。
ではない。
だから。
開く。
中。
紙。
一枚。
読み。
顔。
変わる。
「……」
「何が書いてあるの?」
友人が横から見る。
息を呑む。
『身分を弁えなさい』
『公爵家の嫡男にも、第一王子殿下にも近づく資格はない』
『これ以上目障りな真似をすれば、次は紙では済まない』
名前。
ない。
ただ。
紙の端。
小さな。
銀色の花。
印。
「銀の花」
エミリアが呟く。
「これ」
マリーネが少し声を落とす。
「ベスター家の?」
「違う」
ルシアはすぐに言った。
「でも」
「アマリリア様の家紋は」
ルシアも。
知っている。
銀の花。
意匠。
完全。
同じか。
細部。
分からない。
「先生へ持っていこう」
友人が言う。
「うん」
ルシアは紙を握った。
手。
少し。
震える。
今まで。
明確な証拠。
なかった。
でも。
今回は。
わざわざ。
銀の花。
「ルシアさん」
エミリアは優しく肩へ触れた。
「大丈夫?」
「……はい」
「無理しなくていいのよ」
声。
優しい。
その背後。
エミリア。
マリーネ。
ユフィナ。
一瞬だけ。
視線を交わす。
そして。
誰にも見えないところで。
顔。
強張る。
この時点では。
三人も。
まだ。
自分たちが。
どこまで深い場所へ足を踏み入れ始めているのか。
完全には。
理解していなかった。
◇◇◇
その夜。
ベスター伯爵家。
アマリリアは自室で、ゼインから届いた報告書を読んでいた。
机の上には紅茶と学園の資料。
窓の外では、王都の灯りが夜の中に点々と浮かんでいる。
北の森から帰れば、少しくらい落ち着ける。
そんな期待。
完全。
外れる。
「悪役令嬢ですか」
報告書の中。
噂。
また。
増える。
『アマリリアがルシアへ圧力をかけている』
『第一王子との婚約話を利用している』
『カルロスへの未練が残っている』
『身分差を理由にルシアを排除しようとしている』
「誰が元婚約者ですの」
そもそも。
本人。
望んでいない。
婚約。
なのに。
いつの間にか。
悲恋。
物語。
作られる。
コンコン。
扉。
「入りなさい」
ゼインが入ってきた。
いつもより少し表情が硬い。
「追加報告がございます」
「何でしょう」
「ルシア・メイベル嬢へ脅迫状が届きました」
アマリリアの手が止まる。
「内容は?」
ゼインが写しを渡す。
アマリリアは一通り読み。
眉。
寄る。
「第一王子殿下にも近づく資格がない」
「はい」
「なぜ殿下まで?」
「お嬢様との関係を意識させるためでしょう」
「そして」
紙の端。
「銀の花」
「ベスター家の家紋に似せてあります」
「似せて?」
「微妙に違います」
アマリリアが顔を上げる。
「どこが?」
「ベスター家の正式紋章は六枚花弁の銀花と二本の葉。こちらは五枚花弁です」
「つまり」
「家紋を正確に知らない者が真似たか」
「わざと間違えたか」
「はい」
アマリリアは紙の端を指先でなぞった。
「雑ですわね」
「ですが、噂を広げるには十分です」
「でしょうね」
学園中の生徒が。
家紋。
細部。
覚える。
わけ。
ない。
銀花。
見れば。
ベスター家。
連想。
する。
「ルシアさんは?」
「すぐに教師へ提出しております。現在、寮監と学院警備が確認中です」
「カルロス様は?」
「知ったようです」
アマリリアは長く息を吐いた。
「王宮で何を聞いていたのでしょうね」
「恋は盲目と申します」
「使い方が違いません?」
「恐らく」
ゼインが珍しく少し笑った。
「ただし、一つ気になることが」
「言ってください」
「脅迫状が机へ入れられたと考えられる時間帯に、三名の令嬢が教室周辺へ出入りしております」
アマリリアが身体を少し前へ傾ける。
「名前は?」
「エミリア・ローデン子爵令嬢。マリーネ・セルトン男爵令嬢。ユフィナ・バレット嬢」
「やはり」
「ご存じで?」
「今日、食堂でエミリア様が」
アマリリアは昼の出来事を説明した。
「偶然スープをこぼした令嬢と私を繋げるような発言をしました」
「なるほど」
「露骨ですわね」
「少々」
「でも」
アマリリアは考える。
「なぜ三人がルシアさんへ嫌がらせをするのでしょう」
「現在調査中です」
「カルロス様を狙っている?」
「可能性はございます」
「それなら、ルシアさんだけを排除すればいい」
「はい」
「なぜ私まで悪役へ?」
そこが。
分からない。
「ベスター家へ恨みは?」
「現時点では目立ったものはございません」
「王家は?」
「三家とも反王家派ではありません」
「ムルール家への恨み?」
「父親世代はむしろ関係良好です」
アマリリアは机へ指先を置き、ゆっくり二度ほど叩いた。
「誰かに使われていますわね」
ゼインが静かに頷く。
「私もその可能性を考えております」
「三人自身が黒幕ではない」
「恐らく」
「では」
アマリリアは。
少し。
笑った。
「私を悪役令嬢に仕立てたい方がどなたなのか」
声。
静か。
「ゆっくり教えていただきましょう」
「承知いたしました」
ゼインは深く頭を下げた。
◇◇◇
同じ頃。
王都の高級住宅街にある小さな屋敷の一室で、エミリア・ローデンはマリーネ、ユフィナと向かい合っていた。
三人とも学園で見せていた穏やかな顔ではない。
「脅迫状」
マリーネが小さく言う。
「先生へ渡ったわ」
「噂も」
ユフィナが続ける。
「かなり広がってる」
エミリアは机の上に置いた封筒を見る。
匿名。
差出人。
不明。
ただ。
指示。
いつも。
具体的。
「これでいいのよね」
「本当に?」
マリーネが不安そうに尋ねる。
「ルシアさん、本当に怖がってた」
「分かってる」
「だったら」
「でも」
エミリアは唇を噛んだ。
「やめたら」
一度。
声。
低い。
「家がどうなるか分からない」
三人。
黙る。
最初の手紙には。
こう。
書かれていた。
『ルシア・メイベルがムルール公爵家へ入れば、三家との取引は完全に切られる』
三家。
それぞれ。
ムルール家の商会との関係。
弱く。
なる。
父親たち。
焦る。
だから。
カルロスとルシア。
関係。
壊す。
必要。
そう。
思わせられた。
次。
『ルシアを直接攻撃すれば、カルロスは彼女を守ろうとする』
その通りだった。
嫌がらせ。
起きる。
カルロス。
守る。
むしろ。
二人。
近づく。
そして。
次。
『アマリリア・ベスターを悪役にすれば、公爵子息はこちらを信じる』
これも。
当たった。
カルロス。
すぐ。
アマリリア。
疑う。
「でも」
ユフィナが呟く。
「誰なの?」
「何が」
「この手紙を送ってくる人」
「……」
「怖くないの?」
エミリアは封筒を見た。
怖い。
もちろん。
最初から。
怖い。
でも。
今さら。
止まる。
もっと。
怖い。
「もう」
一度。
息。
吐く。
「やめられないわ」
そのとき。
窓際。
小さな音。
三人。
顔。
向く。
何も。
ない。
でも。
机。
上。
いつの間にか。
新しい封筒。
「……」
「いつ」
「誰が」
エミリア。
手。
震える。
開く。
中。
一枚。
紙。
『次は、ルシア本人の口からアマリリアの名を言わせろ』
三人。
沈黙。
「どうやって?」
ユフィナの声が小さい。
「分からない」
エミリアは紙を握る。
「でも」
目を閉じる。
「考えるしかない」
その時点で。
三人はまだ。
知らなかった。
自分たちが。
アマリリアを悪役令嬢へ仕立てるために動くたび。
同時に。
自分たちを操る者へ繋がる痕跡を。
一つずつ。
残していることを。




