第14話 カルロス様に婚約の事実を説明しただけなのに、なぜか私が振られたことになりました
翌朝、王宮へ向かう馬車の中で、アマリリアは窓の外を流れていく王都の街並みを眺めながら、昨日ムルール公爵から聞かされた話を頭の中で整理していた。
カルロス・ムルールは、自分とアマリリアの婚約について根本から勘違いしている。父親同士が勝手に進めた話であるにもかかわらず、本人の中では「アマリリアが自分へ恋をして、どうにか婚約まで漕ぎつけた」ということになっているらしい。
そこまでは、まだ本人一人の思い込みとして笑えば済んだかもしれない。
問題は、その思い込みが既にルシア・メイベルへ向けられた嫌がらせと結びつき始めていることだった。
「……考えれば考えるほど、分かりませんわね」
無意識に漏れた声へ、向かいに座っていたライルが反応した。
「カルロスのことか?」
「ええ。私は彼へ好意を伝えたことも、二人きりで親しく過ごしたことも、ましてや婚約をお願いしたこともございません。それなのに、なぜ『私が彼を愛している』という結論になるのでしょう」
ライルは腕を組み、しばらく真面目な顔で考えた。
アマリリアも少しだけ期待する。自分では理解できなくても、別の立場から見れば何か分かることがあるかもしれない。
「分からない」
「殿下」
「仕方ないだろう。俺も昨日から考えた」
「一晩も?」
「君のことだからな」
あまりに自然に返されて、アマリリアは一瞬だけ言葉を失った。
「まあ」
「何だ、その顔」
「殿下が一晩、私のことを考えてくださったのですね」
「話の中心が君だったんだから当然だろう」
「それでも嬉しいですわ」
「……そういうところだぞ」
「何がです?」
「最近、君に普通に返事をするだけで俺の方が困る」
ライルが窓の外へ顔を向ける。
耳が少し赤い。
アマリリアはその横顔を眺めながら、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。数日前までなら、彼が困る姿を面白がってさらに追い込んでいただろう。
今も半分くらいは面白い。
けれど残り半分は、ただ嬉しい。
「殿下」
「何だ」
「本日の会談では、怒らないでくださいませね」
「誰に?」
「カルロス様へ」
ライルの表情がすぐに変わった。
「それは本人次第だ」
「昨日のお話を聞いただけで既に怒っていらしたでしょう?」
「君を勝手に自分へ惚れている女として扱って、そのうえ別の女性への嫌がらせまで君のせいにしているんだぞ」
「まだ嫌がらせについては、カルロス様が一方的に結びつけているだけです」
「だから余計に腹が立つ」
言葉は少し強かったが、声は抑えている。
アマリリアは彼の表情を見つめた。
「私のために怒ってくださっているのですね」
「俺が腹を立てているだけだ」
「私のことで?」
「そうだよ」
即答だった。
今度はアマリリアの方が少しだけ視線を逸らした。
「殿下」
「何だ」
「最近、本当に反則ですわ」
「君にだけは言われたくない」
ライルはそう言いながら、膝の上に置いていた手を少し動かした。
そのまま、アマリリアの方へ差し出す。
「何ですの?」
「俺が落ち着くため」
「殿下が?」
「ああ」
アマリリアは少し笑ってから、その手へ自分の手を重ねた。
「では、会談が終わるまでこのままで?」
「それは無理だろう。公爵たちの前でずっと手を繋いでいるつもりか?」
「婚約者ですもの」
「まだ正式発表前だ!」
「残念ですわ」
「本気だったのか?」
「半分ほど」
「その半分が怖い」
いつもの調子に戻ったライルの声を聞き、アマリリアも少しだけ肩の力を抜いた。
今日の話し合いは、恐らく簡単には終わらない。
それでも。
一人ではない。
その事実だけで、以前なら必要としなかった安心感が確かにあった。
◇◇◇
王宮の中会議室には、昨日とほぼ同じ顔ぶれが揃っていた。
国王アルベルト、王妃セレーネ、第一王子ライル、アマリリア、前ベスター伯爵ハロルド。そしてムルール公爵グレイアスが、それぞれの席についている。
違うのは一人だけだった。
今日の会談の中心人物。
カルロス・ムルール。
金色の髪は丁寧に整えられ、服装にも隙がない。顔立ちだけを見れば確かに華やかであり、学園でも彼へ好意を向ける令嬢がいるという話には納得できた。
ただし。
アマリリアが最初に気になったのは、その容姿ではなかった。
なぜか。
妙に余裕がある。
まるで自分がこの会談で傷つく側ではなく、誰かへ最後の情けをかける側だとでも思っているような顔だった。
目が合う。
カルロスは少しだけ憐れむように微笑んだ。
「アマリリア」
「何でしょう」
「今日は辛いだろうが、きちんと話そう」
まだ国王が会談開始の言葉すら口にしていない。
アマリリアは数秒黙ったあと、隣のライルへゆっくり顔を向けた。
「殿下」
「何だ」
「もう帰ってもよろしいでしょうか」
「まだ始まってすらいない」
「既に疲れました」
「俺も少し」
近くに座っていたセレーネが口元を押さえる。
笑うべきか、心配すべきか迷っているらしい。
グレイアスだけは、既に深く目を閉じていた。
「カルロス」
「はい、父上」
「まず陛下のお話を聞きなさい」
「分かっております。ただ、アマリリアが緊張しているようでしたので」
「しておりません」
アマリリアは即座に否定した。
カルロスは少しだけ目を細める。
「無理をしなくていい」
「何の無理です?」
「大勢の前では強がりたい気持ちも分かる」
「分からなくて結構です」
「君は昔から、自分の気持ちを素直に言えないところがあったからな」
アマリリアはもう一度ライルを見る。
「殿下」
「我慢しろ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
「何と?」
「何を言っているのか分からない、と」
「正解ですわ」
ライルが口元を押さえた。
今度こそグレイアスが額へ手を当てる。
「カルロス」
「何でしょう」
「頼むから少し黙ってくれ」
「ですが父上」
「頼む」
宰相として王国中の貴族を相手にしている男の声とは思えないほど、父親としての疲労が滲んでいた。
国王アルベルトが一度咳払いする。
「カルロス」
「はい、陛下」
「今日は、お前とベスター令嬢の婚約について話すために来てもらった」
「承知しております」
「ならば結論から言う。ムルール公爵家とベスター伯爵家の間で進められていた婚約話は、白紙に戻す」
「はい」
カルロスは驚かなかった。
むしろ当然のことを確認された程度の反応だ。
アマリリアは嫌な予感を覚えた。
国王も同じだったらしく、少し慎重に言葉を選ぶ。
「理解しているのか?」
「もちろんでございます」
「では、お前の認識を聞こう」
カルロスはアマリリアを見た。
そして。
とても穏やかな顔で。
「アマリリアが、ようやく私への想いを諦め、婚約を取り下げる決心をしたのでしょう」
静寂が落ちた。
広い会議室にいる全員が動きを止める。
最初に反応したのはライルだった。
「待て」
「殿下?」
「今、何と言った?」
カルロスは不思議そうに第一王子を見る。
「アマリリアが、私との婚約を取り下げる決心をしたのだと」
「誰が?」
「アマリリアが」
「なぜ?」
「私がルシアを愛していると、ようやく理解したのでしょう」
ライルの手が机の上でゆっくり拳になった。
アマリリアはすぐにその袖へ触れる。
「殿下」
「分かっている」
「まだ早いです」
「かなり厳しい」
「頑張ってくださいませ」
「君もな」
アマリリアは一度深く息を吐き、カルロスへ視線を戻した。
「カルロス様」
「何だ?」
「確認いたします。今回の婚約は、私が望んでムルール公爵家へ申し込んだものだと思っていらっしゃる?」
「違うのか?」
本気だった。
冗談でも。
強がりでもない。
カルロスの顔には、純粋な疑問しか浮かんでいない。
「違います」
「……」
「はっきり申し上げます。私は一度も、カルロス様との婚約を希望したことはございません」
カルロスの眉が僅かに動いた。
「無理をしなくてもいい」
「何の無理です?」
「殿下や陛下の前だ。振られた女と思われたくない気持ちは分かる」
「カルロス様」
アマリリアは声を少し強めた。
怒鳴ってはいない。
ただし、相手が聞き流せないほどには明瞭だった。
「私は貴方を、恋愛対象として見たことが一度もございません」
カルロスの余裕が、初めて僅かに崩れた。
「……何?」
「私から婚約を申し込んでもおりません。私は父から『お前の婚約が決まった』と聞かされて、初めてその話を知りました」
横でハロルドが小さくなる。
「そして、その直後に私はお父様を当主から退かせました」
「リリア。そこまで説明する必要が」
「経緯ですので」
「父親の名誉が」
「まだ残っていらしたのです?」
「娘!」
カルロスは二人を交互に見る。
「では、ベスター前伯爵が勝手に?」
「その点は」
グレイアスが口を開いた。
「私から説明する」
「父上?」
「婚約を提案したのは私だ」
「……」
「お前を立て直すため、優秀な伴侶を得れば少しは自覚を持つのではないかと考えた」
カルロスの顔が少しずつ強張る。
「つまり」
「ああ」
「アマリリアから望んだ話ではない?」
「一度も」
公爵の返事は短かった。
カルロスはアマリリアを見る。
「しかし」
「まだ何か?」
「君は以前、私を見て緊張していた」
「しておりません」
「最初に話した夜会で」
「覚えております」
アマリリアはそのときの記憶を思い返した。
確かに、あの日のことは覚えている。
「私は『ごきげんよう』と申し上げただけです」
「声が硬かった」
「初対面の公爵子息へ礼儀正しくご挨拶しただけです」
「目を逸らした」
「カルロス様が『私の容姿を見て緊張しているのだろう』と仰ったので、どう返答すべきか分からなかっただけです」
セレーネの肩が僅かに震えた。
アルベルトも手元の書類へ視線を落としている。
グレイアスだけは、完全に俯いていた。
「それだけで」
ライルの声が低くなる。
「アマリリアが自分へ惚れていると思ったのか?」
「殿下。女性は好意を隠すことがございます」
「本人が今、違うと言っている」
「それは」
「それは?」
ライルの声に鋭さが増した。
アマリリアは彼の袖を軽くつまむ。
「殿下」
「まだ怒鳴っていない」
「顔がかなり怖いです」
「声は抑えている」
「成長しましたわね」
「今褒めるな」
カルロスは、そんな二人の距離を妙な顔で見つめていた。
アマリリアの指が自然にライルの袖へ触れる。
ライルもそれを当然のように受け入れている。
「……なるほど」
嫌な言葉だった。
アマリリアはすぐ反応した。
「何がなるほどです?」
「そういうことか」
「何がですの?」
カルロスは妙に納得したように息を吐いた。
「私へ振られることを恐れ、次の相手として第一王子殿下へ近づいたのだな」
室内の空気が変わった。
今度はアマリリアが黙る。
「……何と?」
「私とルシアの関係を知って傷つき、殿下へ」
「カルロス」
グレイアスの声が強くなる。
「黙れ」
「父上?」
「それ以上は、殿下への侮辱にもなる」
「そのようなつもりでは」
「第一王子殿下が、令嬢に取り入られただけで婚約を決めるような方だと言いたいのか?」
そこでようやく、カルロスの顔色が変わった。
「い、いえ。そのような意味では」
「ならば言葉を選べ」
「……申し訳ございません」
ライルは何も言わなかった。
ただ。
怒っている。
アマリリアには分かる。
「カルロス様」
「何だ」
「一つ訂正いたします」
アマリリアは真っ直ぐ彼を見る。
「私は殿下へ取り入ったわけではありません」
ライルが少しだけ嫌な予感のする顔をした。
「アマリリア」
「何でしょう」
「まさか」
「むしろ最初は脅しました」
全員が止まった。
「リリア」
ハロルドが顔を覆う。
「今それを言う必要があるのか?」
「事実ですので」
「事実なら全部言ってよいわけではない!」
王妃は口元を押さえ。
国王は目を閉じ。
ライルは額へ手を当てた。
「アマリリア」
「はい」
「もう少し綺麗な言い方はなかったのか」
「例えば?」
「協力をお願いした、とか」
「黒装束で囲み、首へ刃を当てた状態で?」
「具体的に言うな!」
カルロスの顔から完全に理解が消えていた。
「脅した?」
「はい」
「第一王子殿下を?」
「はい」
「なぜ?」
「貴方との婚約を回避するためです」
沈黙。
今度こそ。
カルロスの顔が完全に止まった。
「私と」
「はい」
「婚約したくなくて?」
「はい」
「第一王子殿下を脅した?」
「先ほどからそう申し上げております」
ライルが小さく息を吐いた。
「改めて聞くと本当に酷いな」
「殿下」
「事実だろう」
「否定はできませんけれど」
アマリリアは咳払いをした。
「もちろん、その後いろいろございました。今は脅しでも取引でもなく、双方の意思で正式に婚約することを決めております」
「双方?」
カルロスが聞く。
今度はライルが答えた。
「ああ」
静かな声だった。
迷いはない。
「俺がアマリリアへ正式に婚約を申し込んだ」
「殿下から?」
「そうだ」
「なぜ?」
ライルの眉が少し動いた。
「なぜ?」
「はい」
「君へ説明する必要があるのか?」
「い、いえ」
「でも」
ライルは一度アマリリアを見た。
視線が合う。
「分かりやすく言うなら」
アマリリアは。
少しだけ。
心臓が速くなるのを感じた。
「好きだからだ」
言われると思っていた。
それでも。
実際に聞けば。
違う。
カルロスの顔が固まり。
ハロルドも黙り。
グレイアスが僅かに目を見開く。
セレーネは嬉しそうな笑顔を浮かべ、アルベルトだけが「また始まった」とでも言いたげに小さく息を吐いた。
「殿下」
「何だ」
「ここでおっしゃいます?」
「父上にも母上にも前伯爵にも言った。今さらだろう」
「カルロス様の前ですわ」
「だから何だ」
ライルは少し不満そうにカルロスを見る。
「俺の婚約者になる女性を、いつまでも『自分に惚れている』と思われている方が嫌だ」
アマリリアの胸がまた熱くなる。
「殿下」
「何だ」
「私も好きです」
「なっ」
「お返しですわ」
「今ここで言う必要があるか!?」
「殿下が先です」
「俺は説明として!」
「私も説明です」
「何の!」
「私がカルロス様を好きではない証明ですわ」
「俺への告白を証明に使うな!」
王妃がとうとう笑い始めた。
「セレーネ」
アルベルトが困ったように見る。
「ごめんなさい。でも」
王妃は二人を見る。
「可愛いんですもの」
「母上!」
ライルの顔が赤い。
アマリリアも少し赤い。
カルロスだけが完全に会話から置いていかれた顔をしていた。
「……待ってください」
カルロスが口を開く。
「何でしょう」
アマリリアが返す。
「君は本当に」
一度。
言葉を探す。
「私へ未練がないのか?」
アマリリアは数秒、何も言えなかった。
「カルロス」
グレイアスが低く呼ぶ。
「もうやめろ」
「しかし父上」
「今の会話を聞いて、なぜそこへ戻る!」
「ですが、長い間」
「想っておりません」
アマリリアは即座に否定する。
「急に殿下へ気持ちを移しただけでは」
「移しておりません」
「失恋の反動で」
「そもそも恋をしておりません!」
今度はさすがに声が強くなった。
ライルが少し驚く。
ハロルドは黙り。
グレイアスはまた顔を覆った。
アマリリアは一度深く息を吸う。
「カルロス様。よくお聞きくださいませ」
「……」
「私は、これまで一度も貴方を好きになったことがございません」
ゆっくり。
逃げ道がないように。
「これから好きになる予定もございません。ルシアさんと貴方がどのような関係であろうと、私には関係ございません」
「しかし」
「嫉妬もしておりません」
カルロスの表情が少し動く。
「そして、ルシアさんへ嫌がらせを命じたこともございません」
「それは」
「何でしょう」
「彼女は最近、私物を隠され、廊下でも転びかけた」
「それがなぜ私になるのです?」
「君以外に」
「大勢おりますでしょう」
「だが」
「証拠は?」
カルロスが黙る。
「私が命じた証拠はございます?」
「……」
「ルシアさん本人が、私にされたと仰いました?」
「それは」
「仰っていないのですね」
「……はい」
アマリリアは目を細めた。
「でしたら、今の段階で私を犯人扱いするのはおやめくださいませ」
声は静かだった。
けれど。
今までより明確に怒っている。
「私が貴方を好きだという前提で、何もかも都合よく結びつけるのも」
カルロスは何も言えない。
「もう、おやめください」
長い沈黙が落ちた。
グレイアスが深く息を吐く。
「ベスター令嬢」
「はい」
「本当に申し訳ない」
「公爵が謝ることでは」
「父親だ」
「……」
「ここまで思い込みを強くしたことに、私の育て方が無関係だったとは言えない」
グレイアスは息子を見る。
「カルロス」
「はい」
「今聞いた通りだ」
「……」
「この婚約は終わる。いや、本人の意思確認すら十分にされなかった時点で、最初から間違っていた」
「父上」
「今後、ベスター令嬢へ婚約者としての権利を主張することを禁じる」
「……」
「自分への好意を前提に話すこともだ」
「しかし」
「禁じる」
宰相の声。
低い。
カルロスは、それ以上言い返せなかった。
「それから、ルシア嬢の件も」
「はい」
「証拠なくベスター令嬢を犯人と決めつけるな」
「……はい」
「返事は」
「はい」
明らかに不満そうではある。
それでも、父親の命令には従った。
アルベルトが口を開く。
「婚約解消については、王家立会いのもと正式に書面を作る」
「承知いたしました」
グレイアスが頭を下げる。
「ベスター家側が受け取った利益についても整理する」
ハロルドの肩が僅かに跳ねた。
「陛下」
「何だ」
「その」
「返すぞ」
「はい」
「全部だ」
「……はい」
アマリリアが父を見る。
「お父様」
「分かっている!」
「まだ何も申し上げておりません」
「絶対『当然です』と言う顔だった!」
「正解ですわ」
ライルが少し笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
ただし。
カルロスだけは。
まだ完全には納得していない。
それが。
アマリリアには分かった。
◇◇◇
会談が一段落すると、記録官が婚約解消に必要な書類を準備するため、一度部屋を出ていった。
王妃セレーネの指示で茶が用意され、温かな紅茶の香りが室内へ広がる。先ほどまでの険しい空気が少し和らぎ、ハロルドなどはようやく呼吸を思い出したようにカップへ手を伸ばしていた。
アマリリアは紅茶を飲みながら、向かい側のカルロスを観察する。
彼は黙っている。
けれど。
納得はしていない。
時折こちらを見る目に、まだ何か考えている色が残っていた。
「殿下」
「何だ」
「嫌な予感がいたします」
小声で言う。
ライルもカルロスを見る。
「俺も」
「何でしょう」
「分からない。でも」
一度。
表情を険しくする。
「話を理解した人間の顔じゃない」
「ですわよね」
そんな二人の予感を裏付けるように。
カルロスが口を開いた。
「アマリリア」
「何でしょう」
「最後に一つだけ」
「はい」
「君が今、殿下を選ぶというなら」
アマリリアは少し眉を寄せる。
「私はそれを受け入れよう」
「……」
「ただ」
カルロスの表情が真面目になる。
「ルシアへ危害を加えるのはやめてくれ」
アマリリアはゆっくりティーカップを置いた。
「先ほどのお話、聞いていらっしゃいました?」
「聞いた」
「私は何もしていないと申し上げました」
「君はそう言った」
「そう言った?」
ライルが反応する。
「カルロス」
「はい、殿下」
「今の言い方だと、まだアマリリアが嘘をついていると思っているように聞こえる」
「殿下」
カルロスは少し躊躇した。
「女性同士の争いというものは」
「知らない」
ライルが切った。
「え?」
「俺は女性同士の争いについて詳しくない」
「ですが」
「でも、証拠がない人間を犯人扱いするのが間違っていることくらいは分かる」
カルロスが黙る。
「ルシア嬢を守りたいなら、本当に誰が何をしたのか調べろ」
「……」
「アマリリアが犯人だという結論から始めるな」
「殿下」
「それから」
ライルの声が少しだけ冷たくなる。
「俺の婚約者を、根拠なく悪人扱いするのは今後やめてくれ」
アマリリアの心臓が大きく跳ねた。
こういう言葉。
弱い。
本当に。
「殿下」
「何だ」
「好きです」
「今言うな!」
「仕方ありません」
「何が!」
「嬉しかったので」
「だから!」
セレーネが楽しそうに笑っている。
「アマリリアさん」
「はい」
「分かります」
「母上まで!」
アルベルトが額へ手を当てる。
グレイアスは父親としてさらに疲れ。
ハロルドはなぜか腕を組んでライルを見ていた。
「……殿下」
「何です、前伯爵」
「今のは」
少し。
言いづらそうに。
「かなりよかったです」
「ありがとうございます?」
「娘を守る姿勢として」
「お父様」
「何だ」
「上からですわね」
「父親だからな!」
「それ便利ですわね」
「お前も婚約者という言葉を便利に使っているだろう!」
少しだけ。
笑いが起きる。
ただ。
カルロスはその空気へ入れずにいた。
彼はアマリリアとライルを交互に見つめている。
そして。
何か。
まだ。
自分の中で答えを作ろうとしていた。
◇◇◇
婚約解消の書類は、その日のうちに仮署名まで進んだ。
ベスター家側は正式には現当主アレクの署名が必要になるため、最終手続きは数日後になる。それでも王家立会いのもと両家が解消へ同意した以上、実質的にカルロスとアマリリアの婚約話は終わった。
会談が終わり、ムルール公爵親子が退室する。
カルロスは扉の前まで歩いたところで、一度振り返った。
「アマリリア」
「何です?」
「……幸せに」
思ったより普通の言葉だった。
アマリリアは少しだけ驚く。
「ありがとうございます」
カルロスも僅かに笑った。
これで終わる。
そう思った。
けれど。
「いつか」
続きがあった。
「私を選ばなかったことを後悔しないといいが」
アマリリアは静かに目を閉じた。
「カルロス」
グレイアスの声が低くなる。
「行くぞ」
「はい、父上」
扉が閉まる。
数秒。
誰も話さなかった。
最初に口を開いたのはライルだった。
「最後まで駄目だったな」
「殿下」
「何だ」
「完全に同意です」
国王は天井を見上げる。
「グレイアスも苦労するな」
「本当ですわね」
王妃も頷く。
ハロルドが腕を組んだ。
「俺も息子には苦労して」
「お父様」
「何だ」
「兄様はまともです」
「俺の苦労は?」
「兄様の方がしております」
「なぜだ!」
ライルが笑う。
「前伯爵」
「はい?」
「大丈夫です。あなたはあなたで十分大変です」
「殿下、それは慰めでございますか!?」
「多分」
「多分!?」
アマリリアも少し笑った。
少なくとも。
婚約問題そのものは。
片づいた。
そう思っていた。
この時点では。
◇◇◇
その日の夕方。
ルナティック王立学園。
王宮から戻ったカルロスは、放課後の校舎裏にある小さな庭園へルシアを呼び出していた。
日中の賑わいが薄れた庭にはほとんど生徒の姿がなく、花壇の向こうを部活動へ向かう者が時折通る程度だった。
「カルロス様」
ルシアは少し不安そうに彼を見る。
「王宮では、どうだったのですか?」
「ああ」
カルロスはしばらく答えなかった。
いつもの自信に満ちた顔とは少し違う。
「アマリリアとの婚約は解消される」
「……そうですか」
ルシアの肩から僅かに力が抜けた。
「喜ばないのか?」
「いえ。その」
「何だ?」
「アマリリア様は?」
カルロスは少しだけ顔を強張らせる。
「第一王子殿下と婚約するらしい」
「本当に?」
「ああ」
ルシアは驚いたものの、どこか納得したような表情を浮かべた。
「では」
「何だ」
「アマリリア様は、本当にカルロス様のことを」
「ルシア」
カルロスが遮る。
「大丈夫だ」
「何がです?」
「彼女はようやく私を諦める決心をした」
ルシアは黙った。
「カルロス様」
「何だ」
「王宮で、アマリリア様ご本人がそう仰ったのですか?」
「いや」
「では?」
「彼女は最初から私を好きではなかったと言っていた」
「……それなら」
ルシアは少し困ったように首を傾げる。
「本当に、そうなのでは?」
カルロスの顔が固くなる。
「いや」
「どうして?」
「殿下の前だった」
「……」
「新しい婚約相手の前で、以前の男を愛していたとは言えないだろう」
ルシアは何も答えられなかった。
「だから」
カルロスは自分自身へ言い聞かせるように続ける。
「私がきちんと終わらせる必要がある」
「今日、王宮で終わったのでは?」
「形式上は」
「形式上?」
「彼女の中ではまだ」
「カルロス様」
ルシアの声が少し強くなる。
「もう、アマリリア様のことはやめませんか?」
「何を?」
「疑うことです」
カルロスが驚いた顔をした。
「私は、アマリリア様が私へ嫌がらせをしたなんて一度も言っていません」
「君は優しいから」
「そうではありません」
「私物がなくなった」
「あとで見つかりました」
「廊下で転びそうになった」
「誰かに足をかけられたのかも分かりません」
「でも」
「証拠はないです」
王宮で。
父から。
ライルから。
アマリリアから。
何度も言われた言葉。
証拠。
カルロスは黙った。
「……分かった」
「本当に?」
「ああ」
返事はした。
けれど。
その顔は。
まだ。
完全に納得していない。
「君は心配しなくていい」
「カルロス様」
「私が守る」
「だから」
ルシアは困ったように目を伏せた。
「その前に、私の話を聞いてください」
カルロスは何か言い返そうとして。
やめた。
「……分かった」
少しだけ。
本当に。
ほんの少しだけ。
変化。
でも。
遅い。
彼らから少し離れた校舎の陰。
三人の令嬢。
静かに。
会話を聞いていた。
薄茶色の髪をしたエミリア・ローデン。
赤茶色の髪をしたマリーネ・セルトン。
黒髪のユフィナ・バレット。
三人は顔を見合わせる。
エミリアの手には、小さく折り畳まれた紙があった。
そこには一文だけ。
『アマリリア・ベスターを悪役にすれば、公爵子息はこちらを信じる』
誰が書いたのか。
まだ。
三人自身も知らない。
「本当にやるの?」
マリーネが小声で尋ねた。
「……」
「エミリア」
「やるしかないわ」
エミリアは紙を強く握る。
「そうしないと」
「家が?」
「うん」
ユフィナが不安そうに周囲を見る。
「でも、ルシアさんは」
「分かってる」
エミリアの顔は。
決して楽しそうではない。
「まずは」
一度。
息を吸う。
「小さなことから」
その言葉と同時に。
少し離れた回廊で。
学園の使用人に紛れた一人の男が。
静かに。
三人の姿を見ていた。
ゼインの部下ではない。
まだ。
誰にも。
正体を知られていない。
男は。
三人が去るのを確認すると。
口元を僅かに上げた。
「そうだ」
誰にも届かない声で。
「小さなことからでいい」
そして。
その日の翌朝から。
ルシアの周囲で起きる嫌がらせは。
偶然では済まない形へ。
少しずつ。
変わり始める。
同時に。
その一つ一つが。
アマリリア・ベスターという名前へ繋がるように。




