第13話 どうやらカルロス様は、自分が私に愛されていると思い込んでいるようです
翌朝の王都は、前日の薄曇りが嘘だったかのように晴れていた。
王宮へ続く大通りには朝早くから馬車が行き交い、商人たちは店先へ商品を並べ、通勤途中の役人や騎士たちが足早に石畳を歩いている。北の森で何があったのかを知る者はほとんどいないため、街そのものはいつもと変わらない朝を迎えていた。
しかし、ベスター伯爵家だけは少し違っていた。
「お父様」
「何だ」
「その服装は何ですの?」
朝食を終えたアマリリアは、玄関ホールで父ハロルドを見つけた瞬間、眉を寄せた。
昨日までのハロルドは、王宮へ向かう際も比較的落ち着いた礼装を選んでいた。ところが今日は、かつて伯爵家当主として重要な式典へ出席するときに使っていた濃紺の正装に身を包み、胸元には家紋入りの飾りまで付けている。
「今日はムルール公爵との話し合いだろう」
「ええ」
「ならば、俺も元当主として――」
「前当主です」
「分かっている!」
「では、なぜそのように偉そうな格好を?」
「服装に偉そうも何もあるか!」
ハロルドは不満げに胸元を整えた。
「今回の婚約話を最初に受けたのは俺だ。公爵へ謝罪も説明もする必要がある。ふざけた格好では行けんだろう」
その言葉に、アマリリアは少しだけ目を細めた。
父は確かに問題を起こした張本人だ。カルロスとの婚約話を、娘の意思を聞かずに受けたことも、見返りとして公爵家との取引を進めたことも、今さら消えるわけではない。
けれど、逃げずに自分からムルール公爵へ説明しようとしている姿勢だけは認めてもいい。
「なるほど。では、その点だけは評価いたします」
「その点だけ?」
「はい」
「他には?」
「ございません」
「即答するな!」
ハロルドの声が広い玄関へ響く。
少し離れたところで外套を着ていたアレクが、慣れたようにため息をついた。
「父上。朝から声が大きい」
「お前まで!」
「今日は王宮だぞ。余計なことを言って話をこじらせないでくれ」
「俺を何だと思っている!」
「こじらせる人です」
兄妹の答えがほぼ同時に重なった。
ハロルドが悲しそうな顔をする。
「お前たちは本当に父親への敬意がないな!」
「敬意を維持できるような行動をお願いいたします」
「リリア!」
アマリリアは父の抗議を軽く受け流し、自分の服装を最後に確認した。
今日は学園へ行く日ではないため、制服ではなく淡い青のドレスを選んでいる。ただし王宮で正式な会談へ出席するため、普段着よりは格式を上げ、銀色の髪も綺麗にまとめていた。
首元には月の首飾り。
北の森から帰って以降、この首飾りは以前のような強い反応を見せていない。それでも完全にただの装飾品へ戻ったわけではなく、ときおりアマリリアの魔力へ呼応するように微かな温かさを宿すことがある。
「リリア」
アレクが呼ぶ。
「何です?」
「緊張しているか?」
「私が?」
「今日の会談」
アマリリアは少し考えた。
「ムルール公爵とお話しすること自体には、あまり」
「カルロスのことは?」
「少々面倒ですわね」
「少々か?」
「殿下と一緒ですので」
自然に出た言葉に、アレクの表情が変わった。
「随分頼るようになったな」
「そうでしょうか」
「以前のお前なら、自分一人で全部片づけると言っていた」
「今でも片づけられますわ」
「そういうところは変わらないんだな」
「ですが」
アマリリアは扉の外へ視線を向けた。
間もなく王家から迎えの馬車が来るはずだ。
「一人で全部する必要はないと、少しだけ思うようになりました」
アレクは何も言わなかった。
ただ、ほんの少し嬉しそうに笑った。
「なら、それでいい」
「何ですの、その上から目線は」
「兄だからな」
「年が少し上なだけです」
「そこは認めろ」
言い合っているうちに、門の外から馬車の車輪が近づく音が聞こえてきた。
王家の紋章が入った黒い馬車が屋敷前へ止まり、先にディーンが降りる。そのあとから姿を見せた黒髪の青年を見て、アマリリアの口元が自然に緩んだ。
「ごきげんよう、殿下」
「おはよう」
ライルは階段を上がりながら、アマリリアを見た。
昨日とは違うドレス姿。
その視線が一瞬止まる。
「……」
「殿下?」
「何だ」
「何か?」
「いや」
「何でしょう」
「何でもない」
露骨に視線を逸らす。
アマリリアはすぐに察した。
「似合っております?」
「自分から聞くのか」
「気になりましたので」
「……似合っている」
「ありがとうございます」
あまりにも素直に返されたため、今度はアマリリアの方が少しだけ頬を熱くした。
それに気づいたライルの口元がわずかに上がる。
「あれ?」
「何です?」
「君でも照れるんだな」
「照れておりません」
「顔が少し赤い」
「朝日ですわ」
「屋敷の玄関は日陰だ」
「殿下」
「何だ」
「最近、生意気になりましたわね」
「誰のせいだと思っている」
「私でしょうか」
「そうだ」
すっかりお決まりになったやり取りを見て、ディーンが遠い目をする。
ハロルドはそんな二人をじっと見つめ、さらに複雑な顔をしていた。
「……やはり近い」
「お父様?」
「距離が近い!」
「婚約者ですので」
「まだ正式発表前だ!」
「本人同士は決まっております」
「そういう問題ではない!」
ライルが少し困ったようにハロルドへ頭を下げた。
「前伯爵」
「はい!」
「今日の会談、よろしくお願いします」
王子から真正面に言われると、ハロルドは一瞬で姿勢を正した。
「こちらこそ。私が原因でございますので、必要な説明は全ていたします」
「助かります」
「ただし!」
また始まった。
アマリリアとアレクが同時に嫌そうな顔をする。
「娘との婚約については、まだ父として完全に納得したわけでは――」
「お父様」
「何だ」
「王宮へ向かいましょう」
「最後まで言わせろ!」
「遅刻いたします」
「まだ十分時間はあるだろう!」
「主席は余裕を持って行動するものです」
「そこで学園主席を持ち出すな!」
ライルが笑う。
「本当に朝から賑やかだな」
「申し訳ございません」
「謝る必要はない。少し羨ましいくらいだ」
その一言に、ハロルドもアレクも少しだけ黙った。
王族の家庭が仲が悪いという意味ではない。
けれど、ライルは長い間、自分が十八歳で消える未来を一人で抱え込んでいた。そのため家族の前でも本心を出すことが少なかったのだろう。
「でしたら、殿下」
アマリリアが言う。
「そのうち慣れますわ」
「何に?」
「うちの家族に」
「おい」
今度はハロルドが反応した。
「なぜ殿下が我が家へ入ってくる前提なんだ!」
「婚約者ですので」
「またそれか!」
玄関に笑いが広がった。
緊張していたはずの朝は、結局いつもと変わらない騒がしさの中で始まった。
◇◇◇
王宮へ到着すると、昨日とは違い、すぐに会談用の部屋へ案内された。
今回使われるのは王族の私的な応接室ではなく、宰相や高位貴族との重要な話し合いに使われる中会議室だった。
長い楕円形の机。
高い天井。
壁には歴代国王の肖像画が並び、窓には厚い深紅のカーテンが掛けられている。入口の両側には近衛騎士が立ち、室内にも記録官と侍従が一名ずつ待機していた。
既に国王アルベルトと王妃セレーネが席についている。
アマリリアたちが入室すると、セレーネは嬉しそうに微笑んだ。
「おはようございます、アマリリアさん」
「おはようございます、王妃様」
「そのドレスも似合いますね」
「ありがとうございます」
「昨日選んだ婚約披露用も、やはり青系がよさそうです」
「母上」
ライルがすぐ止める。
「今から公爵との話です」
「分かっています」
「なら婚約衣装の話はあとに」
「緊張をほぐそうと思っただけです」
「母上は楽しんでいるだけでしょう」
「それも少し」
「認めるのですか」
国王が額を押さえた。
「セレーネ。ライル。公爵が来る前にやめておけ」
「陛下も大変ですわね」
アマリリアが言うと、アルベルトは疲れた笑みを浮かべる。
「君が王宮へ来れば、もっと大変になりそうだ」
「まあ。歓迎のお言葉でしょうか」
「どうしてそうなる」
「アマリリア。父上まで振り回すな」
「まだ何もしておりませんわ」
「君は何もしなくても会話がそうなる」
「酷いです」
そんなやり取りをしていると、扉が叩かれた。
空気が一気に変わる。
「ムルール公爵閣下がお見えになりました」
「通せ」
国王の許可が出る。
扉が開き、入ってきたのは一人の中年男性だった。
四十代後半ほど。
茶色の髪を綺麗に後ろへ撫でつけ、濃い灰色の礼服を身につけている。息子カルロスの華やかな金髪とは似ていないが、整った顔立ちと堂々とした立ち姿から、若い頃はかなり目立つ人物だったことが窺えた。
彼こそムルール公爵家当主。
現王国宰相、グレイアス・ムルール公爵。
「陛下、王妃殿下、第一王子殿下。このたびは急な面会をお許しいただき、感謝申し上げます」
深く礼をする。
「よい。座れ、グレイアス」
「ありがとうございます」
公爵は指定された席へ向かう途中、アマリリアとハロルドを見た。
表情は崩さない。
けれど一瞬だけ、かなり複雑そうな色が浮かんだ。
「ベスター令嬢」
「お久しぶりでございます、ムルール公爵閣下」
「うむ」
次にハロルド。
「ハロルド殿」
「公爵」
二人の間に微妙な空気が流れる。
元々は、娘と息子を婚約させる方向で話を進めていた二人だ。
それが今では、ハロルドは当主の座を降ろされ、アマリリアは第一王子と本物の婚約をする直前。
数日のうちに状況が変わりすぎている。
全員が席へつく。
国王が最初に口を開いた。
「グレイアス。書状は読んだ」
「はい」
「カルロスとベスター令嬢の婚約について、重大な誤解があると書いていたな」
「……はい」
グレイアスの声が重かった。
「その前に」
公爵はアマリリアを見る。
「ベスター令嬢へ、私から謝罪を申し上げたい」
「私に?」
「今回の婚約についてだ」
アマリリアは少し意外に思った。
グレイアスは席を立つと、伯爵令嬢であるアマリリアへ深く頭を下げる。
「息子カルロスとの婚約を、私からハロルド殿へ強く希望した」
「存じております」
「息子の現状を見かねた結果とはいえ、本人同士の意思を十分に確認しなかった。公爵という立場を用いて、格下の家へ圧力をかけたと思われても反論できない」
ハロルドが気まずそうに視線を落とす。
「公爵、それについては私も――」
「ハロルド殿」
「はい」
「あなたが受けたことと、私が提案したことは別だ」
グレイアスの声は静かだった。
「私は息子を立て直したかった。勉学、礼法、武術。どれも本人が真剣に向き合おうとせず、注意しても聞かない。そんなとき、学園主席でありながら武術にも秀で、伯爵家の実務にまで口を出せる令嬢がいると聞いた」
ライルの眉が僅かに動く。
「それがアマリリア?」
「はい、殿下」
「つまり、息子の教育係にするつもりで婚約を?」
「……否定できません」
ライルの表情が明らかに険しくなった。
アマリリアはテーブルの下で、彼の袖を軽くつまむ。
「殿下」
「何だ」
「まだお話の途中です」
「分かっている」
「顔が怖いです」
「君を教育係代わりに結婚させようとしたと聞けば、多少はな」
声は低い。
グレイアスにも聞こえた。
「殿下のお怒りはごもっともです」
「いや」
ライルは一度息を吐いた。
「今は怒りたいわけではない。続けてくれ」
「ありがとうございます」
グレイアスは再び席についた。
「私は、優秀な伴侶を得れば息子も自覚を持つのではないかと考えた。今思えば、あまりにも他人任せな考えだった」
「それで、うちのお父様が喜んで飛びついたと」
アマリリアがハロルドを見る。
「リリア」
「違います?」
「……違わない」
「今日は素直ですわね」
「反省しているんだ!」
「それは結構です」
グレイアスは苦い表情を浮かべた。
「ハロルド殿からは、ベスター令嬢本人も最終的には納得するだろうと聞かされていた」
全員の視線がハロルドへ向く。
「……」
「お父様?」
「その」
「何です?」
「言った」
「なるほど」
アマリリアは微笑んだ。
ハロルドの顔が青くなる。
「待て、リリア。ここは王宮だ」
「存じております」
「手は出すなよ」
「もちろん」
「本当か?」
「今は」
「今は!?」
国王が咳払いする。
「親子の話は帰ってからにしてくれ」
「承知しました、陛下」
ハロルドだけが「助かった」と小さく呟いた。
グレイアスは続ける。
「しかし、昨日になって私は、婚約話について改めて息子と話した」
「昨日?」
アマリリアが聞く。
「ああ。王宮で第一王子殿下の婚約に関する動きがあるという噂を耳にしたためだ」
「やはり、漏れておりましたのね」
ライルが遠い目をする。
「父上」
「必要部署へ伝えただけだ」
「それがもう宰相まで」
「宰相なら当然だろう」
「俺の心の準備はどこへ」
「後でしろ」
「父上まで母上に似てきましたね」
「夫婦だからな」
グレイアスは少しだけ困ったような顔をした。
「話を続けても?」
「すまない」
ライルが謝る。
「息子に、ベスター令嬢との婚約をどう考えているのか尋ねた」
「カルロス様は何と?」
アマリリアが問いかける。
グレイアスは。
なぜか。
すぐに答えなかった。
「公爵?」
「……非常に」
一度、目を閉じる。
「言いにくい」
その反応だけで、アマリリアは嫌な予感がした。
「大丈夫です。大抵のことでは驚きませんわ」
グレイアスがアマリリアを見る。
「本当に?」
「はい」
「俺は不安になってきた」
ライルが呟く。
アマリリアも同意したくなったが、ひとまず黙って続きを待つ。
「カルロスは」
グレイアスがゆっくり話す。
「自分とベスター令嬢の婚約について、私から強制されたものだとは理解していなかった」
「はい?」
「むしろ」
公爵の顔が。
本気で疲れている。
「ベスター令嬢が、自分との婚約を強く望んだ結果だと思っていた」
室内が静まり返った。
「……」
アマリリアは数秒。
本当に。
理解できなかった。
「申し訳ございません」
「何だろう」
「もう一度お願いできます?」
「リリアが聞き返した」
ハロルドが驚く。
「お父様は黙っていてください」
「はい」
アマリリアはグレイアスを見る。
「カルロス様は、私が?」
「ああ」
「カルロス様との婚約を?」
「ああ」
「強く望んだと思っていらっしゃる?」
「……そうだ」
アマリリアは黙った。
ライルも黙った。
王妃も。
国王も。
アレクはいないが、もしここにいたら同じ顔をしていただろう。
「なぜですの?」
ようやく出た言葉。
「私にも分からん」
グレイアスが即答した。
「父親でしょう!」
「父親だからこそ分からなくて困っている!」
宰相の威厳が一瞬だけ消えた。
グレイアスは額を押さえる。
「私が『ベスター家へ婚約を申し込んだ』と言ったところ、息子は『やはりアマリリアが父上へ頼んだのですね』と」
「頼んでおりません」
「分かっている」
「一度も」
「分かっている!」
「むしろ嫌でした」
「本当に申し訳ない!」
公爵が再び頭を下げかける。
「いえ、公爵が悪いというより」
アマリリアは途中で止まった。
「……お父様?」
「なぜ俺を見る!」
「何か余計なことをカルロス様へ言いました?」
「言っていない!」
「本当に?」
「本当だ!」
「では、なぜ」
「俺に聞くな!」
ライルが静かに口を開く。
「そのカルロスという男は、普段からそうなのか?」
グレイアスは苦しそうに頷いた。
「自分に都合のよい解釈をするところは、昔から」
「昔から?」
「幼い頃から容姿だけはよく褒められた」
「顔ですね」
アマリリア。
「はい」
グレイアス。
悲しい一致だった。
「使用人や親族にも可愛がられ、何か失敗しても周囲が助けた。その結果、自分は望まれて当然、好かれて当然という考えが少々……いや、かなり強くなった」
「かなり」
「父として何度も直そうとしたが」
「直らなかった」
「はい」
国王アルベルトが何とも言えない顔で宰相を見る。
「苦労していたのだな」
「陛下」
「宰相としては優秀なのに、家では随分」
「それ以上はご容赦を」
「すまない」
ライルはアマリリアへ顔を向ける。
「君、その男と本当に会話したことは?」
「数回ございますわ」
「どんな?」
「学園の式典や夜会で。ほとんど会話になりませんでしたが」
「例えば?」
「初めてきちんとお話ししたとき、私が『ごきげんよう』と申し上げました」
「普通だな」
「すると『そんなに緊張しなくても、君の気持ちは分かっている』と」
ライルの眉が寄る。
「何の気持ち?」
「私も分かりませんでした」
「その時点で?」
「ええ。ですので、『何のことでしょう』と尋ねましたら、『隠さなくていい。私の容姿を見て緊張しているのだろう』と」
「……」
「私はその場で帰りました」
「正しい」
ライルが即答した。
王妃が口元を押さえる。
国王も少し顔を逸らした。
グレイアスだけは深刻そうに俯いている。
「公爵」
アマリリアが少し申し訳なくなる。
「そこまで落ち込まなくても」
「自分の息子の話だ」
「まあ」
「改めて他人の口から聞くと、本当に酷いな」
「今ごろですの?」
「ベスター令嬢」
「失礼しました」
「いや、正しい」
完全に父親として疲れている。
「では」
ライルが話を戻した。
「カルロスは今も、アマリリアが自分を好きだと思っている?」
「それだけではございません」
グレイアスの表情がさらに暗くなる。
「まだあるのか」
「あります」
アマリリアの嫌な予感が強くなる。
「何です?」
「私は昨日、息子へこの婚約を白紙に戻す可能性が高いと伝えた」
「当然ですわね」
「すると」
また間。
「『ようやくアマリリアも身を引く決心をしたのですね』と」
「……」
「……」
今度は。
ライルが。
顔を覆った。
「待て」
「殿下?」
「頭が追いつかない」
「奇遇ですわね。私もです」
「なぜ婚約を解消される側の男が、君が身を引いたことになるんだ?」
「私へ聞かないでくださいませ」
グレイアスが答える。
「息子の中では、ベスター令嬢が自分との婚約を望み、自分は父親の意向だから仕方なく受け入れてやっている、ということになっているらしい」
「やっている?」
ライルの声が低くなる。
アマリリアはまた袖をつまんだ。
「殿下」
「何だ」
「落ち着いて」
「かなり腹が立つんだが」
「私もです」
「なら」
「ですが、公爵のお話を最後まで」
ライルは渋々黙る。
その手がテーブルの下でアマリリアの指を探すように動いたため、彼女は少し迷ってから自分から手を重ねた。
握った瞬間。
ライルの苛立ちが少しだけ和らいだように感じる。
「さらに」
グレイアスが続ける。
「カルロスには現在、学園で親しくしている女性がいる」
「ルシアさん」
「知っていたか」
「噂だけは」
「ルシア・メイベル。男爵家の三女だ」
セレーネが用意されていた資料へ目を落とす。
「学園での成績は中の上。大きな問題行動の記録はありませんね」
「表向きは」
グレイアスの言葉に、アマリリアが顔を上げる。
「何か?」
「息子の話では、ルシア嬢とは互いに想い合っているらしい」
「では、私との婚約を解消できるなら喜ぶのでは?」
「私もそう思った」
グレイアスは深くため息をついた。
「ところが、息子はこう言った」
嫌な予感。
今度こそ。
本当に強い。
「『アマリリアが嫉妬で何をするか分かりません。ルシアを守るためにも、私からきちんと拒絶してやる必要があります』と」
「……」
アマリリアの表情が消えた。
ライルの眉が大きく寄る。
王妃の笑顔も消えた。
国王は無言で天井を見た。
ハロルドは口を半開きにしている。
「私が」
アマリリアはゆっくり言う。
「ルシアさんへ嫉妬?」
「息子はそう考えている」
「なぜ?」
「……」
「公爵」
「分からん」
「父親でしょう!」
「先ほども言った!」
ついにアマリリアと公爵が同時に声を上げた。
ライルが額を押さえる。
「すごいな」
「何がです?」
「君と公爵の会話が、君と前伯爵の会話に似てきた」
「嫌ですわ」
「俺も嫌だ!」
グレイアスまで反応した。
ハロルドが傷ついた顔をする。
「俺は?」
「お父様は黙っていてください」
「はい」
アマリリアは一度深く息を吐いた。
「整理いたしましょう」
「そうしてくれ」
ライルが頷く。
「カルロス様は、私が彼へ恋心を抱いていると思っている」
「ああ」
「私からムルール公爵家へ婚約を望んだと思っている」
「ああ」
「しかしカルロス様本人はルシアさんを愛している」
「そう言っている」
「そして私がルシアさんへ嫉妬していると」
「そうだ」
「さらに婚約が解消されそうになったことで、私がようやく諦めたと思っている」
「はい」
「……」
アマリリアは。
静かに。
目を閉じた。
数秒。
ライルが心配そうに顔を覗き込む。
「アマリリア?」
「殿下」
「何だ」
「私、今までカルロス様を馬鹿だと思っておりました」
「かなり直接的だな」
「訂正いたします」
「お?」
「想像以上です」
ライルが口元を押さえた。
笑う場面ではない。
でも。
少し。
耐えきれなかったらしい。
「笑わないでくださいませ」
「すまない」
「私は真剣です」
「分かっている」
「でも笑っています」
「だって君が」
「殿下」
「悪かった」
グレイアスは完全に力を失っていた。
「ベスター令嬢」
「はい」
「本当に申し訳ない」
「公爵」
「何だろう」
「今のお話を聞いて、公爵に対する怒りはかなり減りました」
「本当か?」
「代わりに同情が増えました」
「……ありがとうと言ってよいのか分からん」
「私も分かりません」
国王がようやく口を開く。
「問題は、これからどうするかだ」
空気が引き締まる。
「グレイアス」
「はい」
「カルロスにはまだ第一王子とベスター令嬢の婚約について話していないのだな?」
「はい。噂程度は耳にしている可能性がありますが、私からは何も」
「なら、正式発表前に一度本人を呼ぶべきだ」
「陛下」
ライルが言う。
「王宮へ?」
「ああ」
「カルロス様も?」
アマリリアが少し嫌そうな顔をする。
「逃げたい?」
ライルが横から聞く。
「少しだけ」
「珍しいな」
「あなたが私に惚れていると本気で思い込んでいる男性と、王宮で何を話せと?」
「それは確かに」
「しかも私がルシアさんへ嫉妬していることになっています」
「……俺も会いたくなくなってきた」
「でしょう?」
二人で顔を見合わせる。
セレーネが静かに言った。
「だからこそ、正式な場で誤解を解いた方がよいでしょう」
「王妃様」
「カルロス本人へ、アマリリアさんから気持ちは一切ないこと。そして今回の婚約は父親同士の話であり、あなたが望んだものではないことを明確に伝える」
「はい」
「そのうえで、ライルとの婚約については、王家から正式に説明する」
ライルも頷く。
「俺も同席します」
「もちろんです」
「殿下」
「何だ」
「怒ってはいけませんわよ」
「君こそ」
「私は冷静です」
「さっき想像以上の馬鹿だと言った」
「事実確認です」
「便利な言葉だな」
「殿下も覚えれば?」
「使わない」
国王はグレイアスを見る。
「カルロスを明日、王宮へ」
「承知いたしました」
「ただし」
「はい」
「ルシア嬢はまだ呼ばない」
グレイアスが少し考え、頷く。
「私もその方がよいと思います」
「なぜですの?」
アマリリアが尋ねる。
「まず息子の認識がどこまで本人の思い込みで、どこからがルシア嬢の話なのか分けたい」
「なるほど」
セレーネも資料を見る。
「ルシア嬢本人が、アマリリアさんから嫌がらせを受けていると訴えている記録は現時点ではありません」
「では、カルロス様が勝手に?」
「可能性があります」
アマリリアは少し考える。
ルシア本人のことは、まだよく知らない。
学園で見かけたことはある。
ピンクゴールドの髪。
人当たりがよく、友人も多い。
少なくとも今の段階では、アマリリアと正面から揉めたことなど一度もない。
「では、現時点でルシアさんを敵と決めつけるのは早いですわね」
「俺もそう思う」
ライルが頷く。
「カルロス本人が勝手に話を作っているなら、彼女も巻き込まれている可能性がある」
「そうですわね」
そこで。
ハロルドが恐る恐る手を上げた。
「一つよいか?」
「何です、お父様」
「カルロス殿が、リリアに自分からきちんと拒絶する必要があると言ったのだろう?」
「そうらしいですわね」
「それはつまり」
ハロルドの表情が引きつる。
「学園で何かする気では?」
室内が静かになった。
アマリリアは父を見る。
グレイアスも。
ライルも。
「……公爵」
アマリリアが尋ねる。
「カルロス様は、具体的にどのような方法で私を拒絶すると?」
グレイアスの顔色が変わる。
「昨日は、そこまで聞かなかった」
「では」
「待て」
ライルが口を挟む。
「嫌な予感がする」
「奇遇ですわね」
「君も?」
「ええ」
アマリリアは自分の額へ指を当て、カルロスという人物の性格を思い返す。
容姿を褒められて育った。
自分は女性から好かれて当然と思っている。
ルシアへいいところを見せたい。
自分がアマリリアを振る側だと信じている。
「……人前」
アマリリアが呟く。
「何?」
ライルが聞く。
「カルロス様は、人前で何かするのが好きです」
「目立ちたがり?」
「かなり」
「まさか」
グレイアスの顔から血の気が引く。
「学園で?」
「可能性はございます」
「明日まで待たず、今すぐ息子を止めた方が」
公爵が立ち上がりかける。
しかし。
国王が手を上げた。
「落ち着け」
「陛下!」
「今から何を止める? まだ具体的に何をするか分からない」
「しかし」
「息子の周辺だけは監視させろ」
「……はい」
「それから学園側へ、明日はカルロスを王宮へ呼ぶと伝える」
「承知しました」
アマリリアは少し考え込む。
嫌な予感。
確かにある。
けれど。
何か。
引っかかる。
第1話冒頭。
まだ本編では起きていない未来。
その場面で。
カルロスは食堂の中央で。
『アマリリア・ベスター、私は貴様とは結婚しない!!』
そう宣言した。
ルシアを抱き寄せ。
三人の令嬢を証人として。
アマリリアが嫌がらせを命じたと。
今の段階では。
まだ。
そこまで話は進んでいない。
つまり。
これから。
何かが起こる。
「アマリリア」
ライルに呼ばれ。
意識が戻る。
「何を考えていた?」
「少し」
「カルロスのこと?」
「はい」
「嫌か?」
「何が?」
「明日会うの」
アマリリアは少し考える。
「面倒ではあります」
「代わりに俺が全部話してもいい」
「殿下」
「何だ」
「それでは、私が逃げたようでしょう?」
「別に逃げても」
「嫌です」
即答。
ライル。
苦笑。
「そう言うと思った」
「でしたら聞かないでくださいませ」
「一応な」
アマリリアはライルの手を見る。
そして。
テーブルの下で。
そっと。
指を重ねる。
「ですが」
「何だ?」
「隣にいてくださいませ」
ライル。
少し。
目を見開く。
「君から頼るの、珍しいな」
「嫌です?」
「まさか」
握る。
「いるよ」
「ありがとうございます」
「婚約者だからな」
「まあ」
「何だ」
「今の言い方、好きですわ」
「いちいち言うな!」
少し。
顔。
赤い。
アマリリア。
笑う。
緊張。
少し。
消える。
◇◇◇
会談が終わり。
グレイアス公爵が王宮を出たあと。
アマリリアたちはしばらく同じ部屋に残っていた。
ハロルドは先ほどから何度もため息をついている。
「お父様」
「何だ」
「どうされました?」
「俺」
「はい」
「本当にとんでもない相手へお前を嫁がせようとしていたんだな」
「今ごろお気づきに?」
「そこまでだと思わなかった!」
「私は申し上げました」
「お前は大抵の相手を悪く言うから!」
「失礼ですわね」
「過去三人の縁談も全部潰しただろう!」
「三人とも問題がございました」
ライルが反応する。
「その話、昨日も聞いたな」
「殿下」
「何だ」
「忘れてください」
「嫌だ」
「なぜ?」
「気になる」
「過去です」
「婚約者の過去は気になる」
アマリリア。
止まる。
「……殿下」
「何だ」
「最近、その言葉を使えば私が弱ると気づいていません?」
「少し」
「認めましたわね」
「君も『一緒に生きたいのでしょう』を使うだろう」
「ではお互い様です」
「そうだな」
ハロルドが二人を見ながら。
また。
大きなため息。
「何だか」
「お父様?」
「カルロス殿と婚約するくらいなら」
一拍。
「殿下の方が百倍ましだ」
ライル。
顔。
引きつる。
「前伯爵」
「はい」
「褒められている気がしません」
「褒めております!」
「比較対象が低すぎますわね」
アマリリア。
「リリア!」
「事実です」
国王。
とうとう。
吹き出す。
「アルベルト?」
王妃が見る。
「いや、すまない」
「陛下まで!」
「前伯爵。もう少し言い方を考えろ」
「申し訳ございません!」
ハロルドは慌てて頭を下げた。
ライルも苦笑する。
そして。
少し。
真面目。
「前伯爵」
「はい」
「俺は」
ハロルド。
見る。
「比較ではなく、ちゃんとアマリリアに選んでもらえるよう努力します」
アマリリア。
少し。
目。
大きくなる。
ハロルドも。
黙る。
「殿下」
「何だ」
「もう選んでおりますわよ?」
「分かっている」
「なら?」
「これからもだ」
ライル。
少し。
照れくさそうに。
「婚約したから終わりじゃないだろう」
胸。
また。
熱い。
ハロルド。
何も言えない。
しばらくして。
「……百倍ではなく」
「お父様」
「何だ」
「言わなくてよろしいです」
「今、もっと上げようと!」
「不要です」
「父親なりの評価を!」
「結構です!」
いつもの空気へ戻る。
けれど。
アマリリアは。
隣のライルへ。
少し。
身体を寄せた。
「殿下」
「何だ」
「ありがとうございます」
「何が?」
「全部です」
「分からない」
「分からなくて結構です」
「何だそれ」
でも。
ライル。
笑う。
アマリリアも。
笑う。
◇◇◇
同じ日の午後。
ルナティック王立学園。
授業の終わった教室で。
カルロス・ムルールは。
机へ肘をつきながら。
目の前に座る少女へ。
自信に満ちた笑みを向けていた。
「安心してくれ、ルシア」
ピンクゴールドの髪を持つ少女。
ルシア・メイベル。
彼女は少し困ったような顔でカルロスを見る。
「カルロス様?」
「父上から、明日は王宮へ来るよう言われた」
「王宮へ?」
「ああ」
カルロスは。
満足そうに。
頷く。
「恐らく、アマリリアとの婚約についてだ」
「……」
ルシア。
少し。
顔。
曇る。
「婚約」
「心配しなくていい」
カルロス。
手。
伸ばす。
ルシアの手。
握る。
「私は君を愛している」
「カルロス様」
「父上にも、きちんと話す」
「でも」
「何だ?」
「アマリリア様は」
ルシア。
少し。
迷う。
「本当にカルロス様のことを?」
「もちろんだ」
即答。
「彼女は昔から、私を見るたび緊張していた」
「……」
「婚約の話も、彼女の父親を通じて私の家へ来たのだろう」
完全に。
逆。
しかし。
カルロスは。
疑わない。
「ただ」
表情。
少し。
真面目。
「君と私の関係を知ってから、少々様子がおかしい」
「様子が?」
「最近、私へ近づいてこない」
そもそも。
元から。
近づいていない。
「恐らく嫉妬しているのだ」
「……そうでしょうか」
「間違いない」
カルロスは胸を張る。
「女性というものは、好きな男の前では素直になれないものらしい」
「誰から聞いたのです?」
「本で読んだ」
「……」
「それに」
カルロス。
声。
低く。
「君が最近、私物を隠されたと言っていただろう?」
ルシアの表情が。
少し。
変わる。
「それは」
「転びそうになったことも」
「でも、誰がしたかは」
「分かっている」
「カルロス様」
「アマリリアだ」
ルシア。
目。
大きくなる。
「証拠はありません」
「彼女自身が手を出すはずはない」
「では」
「取り巻きにやらせているんだ」
カルロス。
自信。
満ちる。
「高位貴族の令嬢なら、そのくらいする」
「アマリリア様に取り巻きなんて」
「いるだろう」
「私は、あまり」
「君は優しすぎる」
カルロス。
握った手。
強める。
「だから私が守る」
「カルロス様」
「明日、王宮で父上へ話す」
「……」
「そして」
カルロス。
目。
細く。
何か。
決意。
「アマリリアにも、そろそろ現実を理解させなければならない」
「現実?」
「ああ」
金髪。
揺れる。
「私は彼女を愛していない」
その言葉。
近く。
聞いていた。
三人の令嬢。
互い。
視線。
合わせる。
一人。
口元。
僅かに。
笑う。
カルロスは。
気づかない。
「ルシア」
「はい」
「もう少し待っていてくれ」
自信。
「必ず」
一拍。
「皆の前で、私の意思をはっきり示す」
ルシア。
不安そう。
でも。
何も。
言えない。
そして。
教室の端。
三人の令嬢のうち。
一人が。
静かに。
廊下へ出る。
その手。
小さな紙。
握っている。
紙に。
書かれている。
一文。
『アマリリア・ベスターを悪役にすれば、公爵子息はこちらを信じる』
誰が。
書いたのか。
まだ。
分からない。
ただ。
カルロスの勘違いは。
もう。
本人一人の中だけでは。
終わらなくなり始めていた。




