第12話 正式婚約の準備を始めたら、王妃様と父が戦争を始めました
王都へ戻った頃には、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
王宮の高い尖塔の向こうへ沈みかけた太陽が、白い石壁を淡い橙色に染めている。北の森から帰還した一行を迎えるため、正門から中央宮へ続く道にはいつも以上に多くの近衛騎士や侍従たちが並び、魔石灯にも一つずつ火が入れられていた。
表向きに公表されているのは、国王アルベルトと第一王子ライルが北部禁足地の緊急調査へ赴き、無事に帰還したという事実だけだ。
王家と月守の契約も、古代の民ルーナの存在も、八百年以上続いていた王家の罪も、まだごく一部の人間しか知らない。それでも国王と第一王子が揃って危険な森へ入ったこと自体が異例であり、出迎える者たちの顔には安堵と緊張が入り混じっていた。
先頭の馬車が止まり、まず国王が降りる。
近衛騎士たちが一斉に頭を下げ、その横では侍従長が待ちきれないように一歩前へ出た。アルベルトは彼らへ短く帰還を告げると、大きな怪我がないことを示すように片手を上げ、そのまま正面玄関の方へ歩き始める。
次の馬車からライルが降り、最後にアマリリアが姿を現した。
その瞬間だった。
周囲から向けられていた視線の幾つかが、明らかにアマリリアへ集中する。
北の森へ同行した伯爵令嬢。
しかも第一王子と同じ馬車で帰ってきた。
その時点で注目される理由は十分にあるのだろうが、どうにもそれだけではない気がした。騎士たちは仕事中なので露骨には見ないものの、侍女たちは互いに視線を合わせ、少し離れたところでは若い侍従が何かを聞きたそうな顔をしている。
アマリリアは外套の裾を整えながら、隣へ来たライルへ顔を向けた。
「殿下」
「何だ?」
「皆様、私を見ていらっしゃいません?」
ライルも周囲を確認し、わずかに眉を寄せた。
「気のせいではなさそうだな」
「何か顔についております?」
「森で泣いた跡なら、もう分からないと思う」
アマリリアの笑顔が固まった。
「殿下。そのお話は忘れてくださいませ」
「嫌だ」
「なぜ即答なさるのです?」
「君が泣いているところなんて、滅多に見られそうにないから」
「見世物ではありませんわ」
「そういう意味じゃない。ただ……忘れたくないだけだ」
さらりと言われた言葉に、アマリリアは返事が一瞬遅れた。
数日前までなら、そんなことを言われても好き勝手にからかえただろう。しかし今は互いに想いを伝え、本物の婚約をすると決めた後だ。同じ言葉でも胸へ届く場所がまるで違う。
「……最近、殿下も反則を覚えてきましたわね」
「君に散々鍛えられたからな」
「私はそのような教育をした覚えはございません」
「俺にはある」
二人がそんな会話をしている横で、ディーンが妙に遠くを見ていた。
アマリリアはすぐに気づく。
「ディーン様」
「何でしょうか」
「先ほどから、一度もこちらをご覧になりませんね」
「周囲を警戒しておりますので」
「そちらには壁しかございませんが」
「壁際も警戒対象です」
「なるほど。王宮の壁とは危険なのですね」
「……そういうことでお願いいたします」
返答が不自然だった。
アマリリアがさらに問い詰めようとしたとき、王宮正面の大扉が勢いよく開いた。
「ライル!」
聞き慣れた柔らかな声が響く。
王妃セレーネだった。
普段の優雅さを保とうとはしているものの、歩みは完全に早足だ。後ろから侍女たちが慌てて追いかけているあたり、王妃本人だけが平静を装えているつもりなのだろう。
「母上」
ライルの顔が、ふっと緩んだ。
セレーネは階段を下りると、そのまま息子を抱きしめる。ライルも一瞬だけ驚いたものの、すぐに母の背へ腕を回した。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「本当に、何もないのね? 怪我は?」
「ありません。少し疲れただけです」
「魔力は?」
「むしろ以前より安定したそうです」
それを聞いた王妃の肩から、ようやく力が抜けた。
「そう……よかった。本当によかった」
母親の声だった。
森へ入る前、「必ず帰ってきて」と繰り返していた彼女の姿を思い出し、アマリリアは少しだけ視線を外す。二人にしか分からない十三年間の後悔と恐怖があるのだろう。
ところが、セレーネは息子から離れると、そのまま真っ直ぐアマリリアへ向かってきた。
「アマリリアさん!」
「はい?」
「あなたも、お帰りなさい!」
次の瞬間には抱きしめられていた。
「お、王妃様?」
「あなたまで戻らなかったらどうしようかと、本当に心配していたの!」
「私はこの通り無事ですわ」
「怪我は?」
「ございません」
「本当に?」
「ええ。治癒術師にも確認していただきました」
セレーネは少し離れ、アマリリアの顔や腕を確かめるように眺めたあと、ほっと息をついた。
その様子に、アマリリアは不思議な温かさを感じる。
王妃が心配していたのはライルだけではなかった。
自分も帰ってくることを、本当に待っていてくれたのだ。
「ありがとうございます」
自然に言葉が出た。
「何が?」
「待っていてくださったことです」
セレーネの目元が少し柔らかくなる。
「当然でしょう? だって――」
そこで王妃は一度言葉を切った。
そして、アマリリアとライルを交互に見る。
その視線に妙な期待が混じった瞬間、ライルが警戒した。
「母上」
「何?」
「何か聞いていますね?」
「あら」
「その顔は絶対に何か知っている顔です」
「ライル。母に対して失礼ですよ」
「では聞きます。何を知っています?」
セレーネは隠す気もなく微笑んだ。
「婚約のこと」
沈黙が落ちた。
アマリリアとライルが同時に固まる。
少し離れたところでディーンがさらに視線を逸らした。
「……母上」
「はい」
「なぜご存じなのです?」
「アルベルトから聞きました」
二人の視線が同時に国王へ向く。
アルベルトは侍従長と話していたが、こちらの視線に気づくと、一瞬だけ目が合った。
そして、逸らした。
「父上!」
「何だ」
「今、目を逸らしましたね!」
「執務の話をしていただけだ」
「俺たちより先に母上へ婚約の話を伝えたでしょう!」
「夫婦だからな」
「俺は当事者です!」
「お前は森にいた」
「今、帰ってきました!」
「伝令の方が早かった」
「そういう問題ではありません!」
アルベルトは、息子の抗議などどこ吹く風で再び侍従長との話へ戻った。
セレーネは楽しそうに笑っている。
「正式発表はまだしていませんから安心して」
「まだ?」
ライルが嫌な予感を覚えた顔をした。
「その言い方、何です?」
「発表はまだ。でも準備は始めています」
「何の?」
「もちろん、婚約披露の」
「早い!」
ライルの声が王宮前へ響き渡った。
周囲にいた近衛騎士や侍従たちが、聞いていないふりをするのに必死になっている。先ほどから向けられていた視線の理由がようやく分かり、アマリリアも額へ手を当てた。
「つまり、王宮内では既にある程度……」
「噂になっています」
王妃は悪びれずに答えた。
「どの程度ですの?」
「第一王子がベスター伯爵令嬢と北の森へ行った、帰還後に二人がかなり親しそうだった、さらに王家で婚約話が出ているらしい、というくらいでしょうか」
「十分広がっておりますわね」
「王宮の噂は速いの」
「誰が広めたのです?」
アマリリアが尋ねると、セレーネは国王を見た。
アルベルトはまた目を逸らした。
「陛下?」
「正式には俺は何も広めていない」
「正式には?」
「必要な部署へ、第一王子の婚約手続きを準備する可能性があると伝えただけだ」
「それを広めたと言うのでは?」
「公務だ」
ライルが頭を抱えた。
「帰ってきたばかりなのに……」
「ですが、殿下」
「何だ」
「婚約披露そのものがお嫌なのです?」
アマリリアが尋ねると、ライルは言葉に詰まった。
「嫌ではない」
「でしたら問題ございませんわね」
「心の準備というものがあるだろう!」
「森で私へ求婚する心の準備はできたではありませんか」
「あれと、王宮中へ婚約を披露するのは別問題だ!」
「どちらも婚約ですわ」
「規模が違う!」
王妃は二人のやり取りを眺め、ますます嬉しそうに笑った。
「本当に仲良くなったのね」
「母上」
「以前のライルは、こんなに誰かと大声で言い合ったりしませんでしたよ」
「それはこの人が人を振り回すからです!」
「あら」
アマリリアは眉を上げた。
「最近は殿下もかなり私を振り回していらっしゃいますけど?」
「俺のどこが!」
「森で突然正式婚約を申し込まれました」
「あれは必要な流れだっただろう!」
「必要だったからではなく、私と婚約したかったのでしょう?」
「……そうだけど」
ライルの声が小さくなった。
アマリリアは満足そうに微笑む。
「でしたら、問題ございませんわ」
「その結論へ何でも持っていくな」
セレーネは耐えきれず笑い始めた。
「とにかく、中へ入りましょう。アマリリアさんとはお話したいことがたくさんあります」
王妃は自然にアマリリアの腕へ自分の腕を絡めた。
ライルがその様子を見て、少し不満そうに眉を寄せる。
「母上」
「何?」
「俺の婚約者です」
言った本人が、直後に固まった。
周囲も止まった。
アマリリアも一度瞬きをしてから、ゆっくりライルを見る。
「殿下」
「何も言うな」
「嬉しかったと申し上げようかと」
「だから言うな!」
「でも事実ですもの」
セレーネは口元を押さえて笑う。
「安心しなさい。取ったりしませんよ」
「そういう意味ではありません!」
「では?」
「ただ……一緒にいたかっただけです」
ライルが諦めたようにぼそりと言った。
アマリリアの胸がまた少し跳ねる。
「殿下」
「だから何も言うな」
「何も言っておりませんわ」
「顔に書いてある」
「何と?」
「嬉しい、と」
「正解です」
「やっぱり!」
そんな声を響かせながら、一行は王宮の中へ入った。
◇◇◇
王族用の私的な応接室へ通されたアマリリアは、扉を開けた瞬間に足を止めた。
つい数日前まで、ここでは月守や古代契約、ライルの命に関わる話をしていた。
その同じ部屋の中央。
長いテーブルの上には、今までとはまったく違うものが大量に並べられている。
布地の見本。
宝石。
花。
招待状用の紙。
菓子の試作品。
会場装飾の下絵。
そして何より、何枚ものドレスデザイン。
「……これは」
アマリリアが呟く。
ライルは目を閉じた。
「母上」
「何?」
「早いです」
「そう?」
「早いです! 俺たちは森から帰って一刻も経っていません!」
「でも、準備は早い方がいいでしょう?」
「いつ用意したのです!」
王妃は少しだけ視線を逸らした。
「森へ行く前から」
「母上!」
「仕方ないでしょう? あなたたちを見ていたら、何となくこうなりそうな気がしたのです」
「何となくでここまで準備します!?」
「母の勘です」
「強すぎる!」
アマリリアは思わず笑ってしまった。
テーブルへ近づき、一枚のデザイン画を手に取る。
深い青を基調に、銀糸で植物模様が刺繍されたドレスだった。王家の金色はごく控えめに使われており、華やかだが派手すぎない。
「こちら、素敵ですわね」
「でしょう?」
セレーネがすぐ隣へ来る。
「私もそれが一番似合うと思ったの。アマリリアさんは銀髪だから、濃い色が映えるでしょうし」
ライルは話の流れについていけず、少し離れたところで立っている。
アマリリアはデザイン画を彼へ向けた。
「殿下はどう思われます?」
「俺?」
「私の婚約披露用ですもの。婚約者のご意見も聞くべきでしょう?」
婚約者。
まだ言い慣れない。
けれど口にするたび、何となく嬉しい。
ライルはデザイン画を見たあと、アマリリアへ視線を移した。
恐らく、着ている姿を想像したのだろう。
耳が少し赤くなる。
「……いいと思う」
「どこが?」
「似合うと思う」
アマリリアが止まる。
王妃も止まる。
ライルは言ってから、自分が何を口にしたのか理解した。
「殿下」
「一回しか言わない」
「まだお願いしておりませんわ」
「絶対もう一回と言うだろう」
「大切な言葉は何度聞いても嬉しいものです」
「駄目だ」
「けちですわね」
セレーネは二人の会話を聞きながら、デザイン画を自分の手元へ引き寄せた。
「では、第一候補はこちらで」
「母上! 俺の一言で決定しないでください!」
「アマリリアさんも気に入っているのでしょう?」
「はい」
「なら問題ありません」
「俺の立場は!」
そのとき。
応接室の扉が外から激しく叩かれた。
「王妃陛下! 失礼いたします!」
聞き覚えのある声。
アマリリアが眉を寄せる。
「まさか」
扉が開いた。
そこへ現れたのは、ハロルドだった。
全力で王宮の廊下を歩いてきたのか、肩で息をしている。その後ろには疲れ切った顔のアレクが立っていた。
「お父様?」
「リリア!」
「王宮でその声量はお控えくださいませ」
「それどころではない!」
「父上。だから王宮内を走るなと言っただろう」
アレクが後ろから注意するが、ハロルドには届いていない。
彼の視線はテーブルの上へ向かっていた。
ドレス。
装飾品。
宝石。
招待状。
婚約披露の準備そのもの。
「もう始まっている!」
「何がです?」
「婚約準備だ!」
「そりゃ始まりますわよ」
「早すぎる!」
「先ほど殿下も同じことをおっしゃっていました」
ハロルドはライルを見る。
「殿下!」
「はい」
「私は殿下の意見に賛成です!」
ライルの顔が少し明るくなる。
「前伯爵もそう思いますか」
「はい! 婚約準備などもう少しゆっくり!」
「珍しく意見が合いましたね」
「ただし!」
ハロルドが続ける。
「娘はまだ渡しません!」
「味方ではなかった!」
ライルが本気で裏切られたような顔をした。
アマリリアは吹き出す。
「殿下。お父様を信用するからです」
「君の父親だろう!」
「だから信用しておりません」
「酷い親子だ!」
「リリア!」
「事実でしょう?」
「そこは父親を立てろ!」
ハロルドがさらに何か言おうとしたところで、王妃が静かに口を開いた。
「ハロルド殿」
「は、はい!」
先ほどまで娘や王子へ大声を上げていた男が、一瞬で背筋を伸ばした。
セレーネの声は柔らかい。
ただし。
笑顔の奥に、決して引かない強さがある。
「婚約準備を急ぐことに、何か問題が?」
「問題と申しますか、その……娘の心の準備が」
セレーネはアマリリアを見る。
「アマリリアさん。嫌ですか?」
「いいえ」
「リリア!」
「何です?」
「少しくらい迷え!」
「なぜです?」
「父親の気持ちが追いつかない!」
「お父様の問題ですわね」
「娘ぇ!」
ハロルドの悲痛な声が響く。
王妃は少し笑ったあと、今度は真面目な表情になった。
「ハロルド殿が娘さんを大切にされていることは分かります」
「……はい」
「私も息子を大切にしていますから」
ハロルドの勢いが少しだけ弱くなる。
「だからこそ、二人が自分たちで選んだ婚約なら、できる限り応援してあげたいのです」
「王妃陛下」
「もちろん、今すぐ結婚させるつもりではありません」
その言葉に、ハロルドは少し安心した顔をした。
だが。
「ただし、正式な婚約発表は早めに行う必要があります」
「なぜです?」
アレクが尋ねる。
セレーネはテーブルの上に置かれていた書類を一枚手に取った。
「理由は二つあります。まず一つ目は、ムルール公爵家との婚約問題です」
空気が少しだけ変わった。
楽しい婚約準備の話に隠れかけていたが、カルロス・ムルールとの婚約はまだ正式には解消されていない。
ハロルドが勝手に了承したとはいえ、公爵家側には一度成立した話として伝わっている。
「王家がアマリリアさんとの婚約を正式に公表するなら、その前にムルール公爵へ筋を通さなくてはなりません」
「当然ですわね」
アマリリアも頷く。
「公爵本人は宰相としても真面目な方です。こちらから一方的に話を終わらせるのは避けるべきでしょう」
「はい。さらに問題なのは――」
セレーネが少しだけ表情を曇らせた。
「カルロス本人が、この婚約についてどこまで正確に理解しているか分からないことです」
「どういうことです?」
ライルが尋ねる。
アマリリアは腕を組んだ。
「カルロス様は、父親同士が勝手に進めた婚約話を、私が自分へ惚れた結果だと思っている可能性がございます」
「……なぜそうなる」
「カルロス様ですので」
「説明になっていない」
「実際に会えば分かります」
ライルは少し嫌そうな顔をした。
「会いたくなくなってきた」
「奇遇ですわね。私もです」
ハロルドが小さく咳払いする。
「カルロス殿も、そこまで悪い男では」
アマリリア。
アレク。
ライル。
三人の視線が同時にハロルドへ向いた。
「……何だ」
「お父様」
「何だ」
「勉学」
「苦手だな」
「武術」
「苦手だ」
「礼法」
「少々……」
「女性関係」
「……」
「性格」
「……」
「唯一のお取り柄は?」
「顔」
「ほら」
「顔も立派な長所だろう!」
「娘の結婚相手を顔だけで決めないでください!」
「だから反省している!」
アレクが父の肩へ手を置いた。
「父上」
「何だ」
「今回は黙っていた方がいい」
「息子まで冷たい!」
セレーネが再び話を戻す。
「明日、ムルール公爵を王宮へ呼びます」
「明日ですか」
「ええ。こちらから連絡するつもりでしたが、ちょうど先ほど公爵側からも面会の希望が届きました」
アマリリアの目が少し細くなる。
「公爵側から?」
「はい」
「何かを察したのでしょうか」
「可能性はあります」
ライルが考え込む。
「俺たちが森へ行ったことは、宰相なら把握しているだろう。王宮で婚約準備の動きが始まったことも、完全には隠せない」
「公爵は優秀な方ですものね」
アマリリアが言う。
「少なくとも息子よりは」
「比較対象が低すぎないか?」
「お気になさらず」
「気になる」
王妃は書類へ目を落とした。
「最初は公爵本人だけを呼ぶ予定です」
「カルロス様は?」
「後です」
「なぜ?」
「公爵が何を把握しているのか確認したいからです」
アマリリアは頷いた。
「私との婚約がどのようにカルロス様へ伝えられているのか」
「そうです」
「そしてルシアさんとの関係も」
「ルシア?」
ライルが聞き返す。
「学園でカルロス様が親しくしている女性です」
「親しく?」
「本人はかなり本気らしいですわ」
「それで君とも婚約するのか?」
「ですから、私へ聞かれても困ります」
「本当に訳が分からないな」
「ようやく私の気持ちがお分かりになりました?」
「少し」
「では同情してくださいませ」
「それはする」
「まあ」
アマリリアは少し嬉しそうに笑った。
ハロルドが横から咳払いする。
「その会談」
「はい?」
「私も出る」
全員が父を見る。
「お父様も?」
「原因を作ったのは俺だ」
「ご自覚が?」
「ある!」
「珍しいですわね」
「娘がいちいち刺してくる!」
ハロルドは少し声を落とした。
「公爵へ話を持ちかけられたとき、俺がどう答えたかも説明する必要があるだろう。責任を全部向こうへ押しつけるつもりはない」
その言葉に、アマリリアは少しだけ父を見る目を変えた。
以前の彼なら、逃げようとしたかもしれない。
少なくとも。
今は自分のしたことへ向き合おうとしている。
「分かりました」
「リリア?」
「お父様も同席してくださいませ」
「いいのか?」
「はい。ただし」
アマリリアはにっこり笑った。
「余計なことを仰ったら退室していただきます」
「どうやって!」
「ゼインを」
「王宮へ黒装束を持ち込むな!」
ライルが即座に止めた。
「ではディーン様へお願いを」
「俺の護衛を父親の排除に使うな!」
「アレク兄様」
「俺も巻き込むな!」
アレクも即座に拒否した。
セレーネが口元を押さえて笑う。
「賑やかですね」
「王妃様。慣れない方がよろしいですわ」
「どうして?」
「慣れますと、お父様が調子に乗ります」
「リリア!」
「事実です」
ハロルドが何か言い返そうとしたところで、王妃が手を叩いた。
「では明日の会談については決まりですね。それまでに婚約発表の準備も進めておきましょう」
「まだ進めるのですか!?」
ライルがまた悲鳴を上げる。
「もちろん」
「母上!」
「ムルール公爵との話が円満に終われば、すぐ発表できた方がよいでしょう?」
「理屈は分かりますが」
「では問題ありません」
「アマリリアと同じことを言う!」
「光栄ですわ」
「君まで乗るな!」
◇◇◇
婚約準備の打ち合わせは、結局そこからさらに一刻以上続いた。
正式発表の日程。
招待する貴族の範囲。
婚約披露の形式。
警備体制。
衣装。
王宮内でアマリリアが利用する部屋。
そして何より、王族の婚約者となる以上避けて通れない教育についても話が及んだ。
「王妃教育、ですか」
アマリリアは渡された資料へ目を通す。
その厚さを見て、さすがの彼女も少し眉を寄せた。
「ご安心ください。一般的な令嬢が受けるものを全て最初から学ぶ必要はありません」
セレーネが説明する。
「アマリリアさんは礼法も学問も十分ですし、現在学園主席なのでしょう?」
「はい」
「また自慢した」
隣に座るライルが呟く。
「事実ですので」
「最近その言葉を免罪符のように使っていないか?」
「便利ですもの」
「認めるな」
セレーネは笑いながら続けた。
「ですから、必要なのは王宮特有の知識が中心です。王族の公務、各部署との関係、外交儀礼、他国王族の家系、晩餐会や式典の進行、王太子妃あるいは王妃となった場合の権限などですね」
「多いですわね」
「数年かけて覚えるものですから」
「数年」
アマリリアが少し遠い目をした。
ライルが横で小さく笑う。
「市井で穏やかに暮らす夢から随分遠くなったな」
その言葉で、アマリリアの表情が僅かに変わった。
ライルもすぐ気づく。
「……すまない」
「いいえ」
アマリリアは資料を閉じ、少し考えた。
「確かに、以前思い描いていた生活とはかなり違います」
小さな家。
王都の喧騒から少し離れた場所。
庭。
好きな本。
面倒な貴族社会から離れた暮らし。
それは今でも嫌いになったわけではない。
セレーネが静かに尋ねる。
「市井で暮らしたいの?」
「はい。今でも、その夢自体はございます」
「なら、全部諦めなくてもよいのでは?」
「……え?」
アマリリアだけでなく、ライルまで王妃を見る。
「王族だからといって、二十四時間ずっと王宮にいなければならないわけではありません」
「母上。以前俺がお忍びを増やしたいと言ったときは、王族には自由がないと」
「一人で勝手に出歩くからでしょう」
「そこですか!?」
「婚約者と一緒なら、護衛計画も立てやすいです」
「何かがおかしい!」
セレーネは気にせず指折り数える。
「公務の少ない日に王都へ出る。王宮とは別に小さな屋敷を持つ。長期休暇に地方を巡る。方法はいくらでもあります」
アマリリアの目が少し輝いた。
「旅行も?」
「もちろん」
「王都の外も?」
「ライルも見たがっていたでしょう?」
ライルが少し驚く。
「母上、覚えていたのですか」
「母ですから」
短い言葉。
ライルは何も返せなくなった。
アマリリアは彼の横顔を見て、そっと笑う。
「では殿下」
「何だ」
「旅行計画を立てましょう」
「今から!?」
「早い方がよいです」
「母上と同じ理論を使うな!」
「二か月に一度くらい」
「多い!」
「では三か月に」
「具体的な交渉を始めるな!」
「殿下」
「何だ!」
「私と一緒に生きたいのでしょう?」
ライルが止まる。
数日前。
森で互いに言った言葉。
それを使われると弱い。
「……そうだけど」
「では」
「何でも通ると思うな」
「駄目です?」
「内容による」
アマリリアの口元が上がる。
「交渉の余地がありますわね」
「しまった」
セレーネが楽しそうに二人を眺めている。
「うまくやっていけそうですね」
「母上。俺が一方的に負けているように見えません?」
「今のところは」
「今のところ!?」
「そのうち反撃を覚えるでしょう」
「もう覚え始めておりますわ」
アマリリアが言う。
「最近は殿下の言葉で私の方が困らされることも増えました」
「まあ」
「余計なことを母上へ報告するな!」
「例えば?」
王妃が食いついた。
「母上!」
「森で――」
「アマリリア!」
ライルが慌てて止める。
応接室にまた笑いが広がった。
◇◇◇
夜も深くなり、ようやくベスター伯爵家へ戻る時間になった。
正式婚約が発表されるまでは、アマリリアはこれまで通り自宅から学園へ通う。王宮へ移る必要もなく、王妃教育もまずは週に数回程度から始める予定だ。
王宮正面玄関前。
ベスター家の馬車が準備され、アレクとハロルドは既に別の馬車へ乗り込んでいる。
アマリリアが自分の馬車へ向かおうとすると、ライルも一緒についてきた。
「殿下?」
「何だ」
「お見送りです?」
「ああ」
「わざわざ?」
「婚約者を見送るくらい普通だろう」
自然に言われる。
アマリリアは一瞬だけ黙ったあと、嬉しそうに笑った。
「普通ですわね」
「何だ、その顔」
「いえ」
「絶対何か考えた」
「婚約者という言葉に慣れてきましたのね」
「……」
「殿下?」
「言わなければよかった」
「もう遅いですわ」
馬車の前まで来る。
御者が扉を開けた。
けれどライルは、なかなか離れようとしない。
アマリリアは少し待つ。
「殿下」
「何だ」
「まだ何か?」
「いや」
「では?」
「……明日も来るよな」
アマリリアは瞬きをした。
「王宮へ?」
「ああ」
「ムルール公爵との会談がございますもの」
「そうだな」
「忘れていらした?」
「違う」
ライルは少し気まずそうに視線を逸らす。
アマリリアは数秒考え。
理解した。
一歩近づく。
「殿下」
「何だ」
「寂しいのです?」
「違う!」
「まだ最後まで言っておりません」
「どうせそう言うつもりだっただろう!」
「今、殿下ご自身で言いましたわ」
「……しまった」
アマリリアは堪えきれず笑った。
「可愛らしいですわね」
「やめろ」
「この数日、ずっと一緒でしたものね」
「森も王宮もな」
「急に別々の場所へ帰るのが少し寂しい」
「だからそれを口に出すな!」
「私は嬉しいです」
「何が」
「殿下がそう思ってくださることが」
ライルが黙った。
アマリリアは少しだけ迷ってから、自分から彼の手を取った。
「私も」
「……何?」
「少し寂しいですわ」
今度はライルが固まる番だった。
「君が?」
「はい」
「俺と離れるのが?」
「何度確認なさるのです?」
「確認したい」
「以前の私なら、明日また会うのに何を寂しがる必要があるのかと思ったでしょうね」
「今は?」
「今は、もう少し一緒にいたかったと思っております」
ライルの指が、アマリリアの手を少し強く握った。
「……そうか」
「はい」
「なら」
「はい?」
「明日、早く来い」
アマリリアは笑う。
「命令です?」
「お願いだ」
「まあ」
「何だ」
「殿下が素直ですので」
「君相手に格好をつけても仕方ないと分かった」
「よい成長ですわ」
「誰のせいだ」
「私でしょうか」
「そうだ」
二人とも笑った。
「それでは、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
アマリリアは馬車へ乗り込もうとして。
途中で振り返る。
「殿下」
「何だ」
「また明日」
「ああ」
「私の婚約者様」
ライルの顔が一瞬で赤くなった。
「アマリリア!」
「出してくださいませ」
「承知いたしました」
御者が慣れた手つきで扉を閉める。
「待て! 最後にそれを言って逃げるな!」
馬車がゆっくり動き出す。
アマリリアは窓を開け、顔だけを覗かせた。
「何か問題が?」
「俺だけ恥ずかしいだろう!」
「事実を申し上げただけですわ」
「君は!」
「では、また明日。婚約者様」
「二回言うな!」
王宮前へ響いたライルの声を聞きながら、アマリリアは楽しそうに窓を閉じた。
胸の奥が温かい。
「婚約者、ですか」
一人になった車内で小さく呟く。
最初は利用するだけの予定だった。
カルロスとの婚約を潰すため。
終われば別れるつもりだった。
それが今では、明日会うだけなのに離れるのが少し寂しい。
「恋とは、面倒ですわね」
そう言いながら。
口元は、ずっと笑っていた。
◇◇◇
同じ頃。
王宮執務室。
国王アルベルトは、北の森から持ち帰った契約原本と、ルーナに関する古文書を机へ並べていた。
王家の歴史をどう公表するか。
土地の所有権をどう整理するか。
貴族院へどう説明するか。
婚約騒ぎの裏では、国王として片づけなければならない問題が山ほど残っている。
「……帰ってからが本番とは言ったが」
机の上に積み重なった書類を眺め、アルベルトは疲れたように額を押さえた。
そこへ、侍従長が新たな書状を一通持って入ってきた。
「陛下。ムルール公爵より至急の書状が届いております」
「ムルールから?」
明日、こちらから呼び出す予定だった相手だ。
アルベルトは封蝋を切り、中の文章へ目を通す。
最初は通常の挨拶。
続いて。
『我が嫡男カルロス・ムルールと、アマリリア・ベスター嬢との婚約について、至急ご相談申し上げたく存じます』
ここまでは想定内。
しかし。
その下。
最後の一文を読んだところで、国王の眉間に深い皺が刻まれた。
『なお、愚息本人は現在、本婚約について重大な誤解を抱いている可能性が高く、父としても事態の把握に苦慮しております』
「……重大な誤解?」
嫌な言葉だった。
ムルール公爵は宰相として優秀な男であり、簡単に大げさな表現を使う人物ではない。
その彼が。
重大な誤解。
苦慮。
そこまで書いている。
アルベルトは長い息を吐いた。
「明日、面倒なことになるな」
そして。
その予感は。
残念ながら。
見事に的中する。
翌日。
アマリリアとライルは。
カルロス・ムルールが自分の婚約について。
想像を遥かに超える勘違いをしていることを。
初めて知ることになるのだった。




