◎ひどいやつら【五】
※
どうせ誰にも見えていない。
ぐねぐねさんの可視を宣言する被告人。もちろんそれが真実で、本当に見えていたところで不思議ではない。わたしにも見えるからだ。問題はそこではなかった。
一度は認めた殺意を否定、検察と真っ向から争う姿勢を示した事が何よりも不愉快だった。だったら調書の段階で最初からそう言えよと。
どうにかしていくらかでも罪を軽くしたい。拘置所にて制限のある生活を強いられたゆえの心境の変化……辺りが妥当か。危険運転致死傷罪の適用を逃れようとする意図は明白であるが、何にせよ、保身を再優先としたその姿勢はただただわたしに嫌悪感を強いた。まったく反省していない。どうなるのだ、これは?
ぐねぐねさんの関与が証明された場合、罪が軽くなるのか?
わたしの不安は一点のみで、確かに被告人の言う通り、事故のあの時、昼間の月にぐねぐねさんは姿を見せていたのである。それは何よりわたし自身が見ている。おそらくは助手席の妻も。
弁護側は『見えていた』事に軸足を置き、論旨を展開する。第三者には証明出来ないが、同様に否定も出来ない。
罪状否認の件を耳にしたのだろう、閉廷後に例の被害者支援員氏が連絡をくれた。
もし、万が一にですが……と念入りに前置きをしてから、こう続ける。
『危険運転致死傷罪が見送られ、過失致死傷害なら最長でも七年です』
脇き見運転と同じ扱い……と判断されたのなら、そうなるらしい。
「過程はさておき、結果として妻は被害に遭っている。その事実は何ら変わらないのでは?」
電話口の向こうで、彼を首を横に振っているのがなぜか感じられた。『悪質か否か、なのです』
とは言え、わたしも引き下がれない。「充分に悪質だと思うのはわたしが遺族だからですか?」
『殺意の有無はとても重要です。悪意の無い不本意な事故であるのなら、情状酌量の余地を検討しなければならないという話なんです』
決して支援員氏が被告人をかばっているのではないのは確かだ。彼はあくまでも可能性を述べているに過ぎない。だからこそ、わたしは憤るしかなかった。
「『見えていた』証人を用意するのではないのですか、弁護側は。わたしでもそれくらいの策は思い付く」
『証人は証言の前に宣誓を義務付けられています。真実のみを述べると。虚偽だと発覚した場合、それは偽証罪の対象となります』
わたしは言葉を飲み込む。
……その嘘を誰も証明出来ないのだ……しかも……あの時、月にぐねぐねさんはいた……わたしには見えていた……だから被告人も証人も嘘は言っていない、という事になる……
……嘘ではない事を嘘だと決めつけなければならないのだが、その決め手がどこにも存在しない……このままでは被告人の主張が通ってしまうのでは……
スマートフォンを握る手に変な力が加わる。弁護側の道筋が完成している。ぐねぐねさんのせいで。
と、スマートフォンから支援員氏の早口の声が聴こえた。
『どうか落ち着いてください。まだすべてが決まった訳ではありません。裁判はこれからです』
……その通り、決まってはいないが、これはあまりにも一方的すぎないか……
不毛の問いかけは百も承知、それでもわたしは言わずにはおれなかった。
「情状酌量の余地があると言われたが、それは被告人にも人権があるからですか。だったら喪われた妻の人権はどこで、誰が、どういう形で補ってくれるのでしょうか」
今度は彼が息を呑む番だった。
『……どうか冷静に……』と、同じ事を繰り返された。わかってはいる。責めるべきは彼ではない。わかってはいるのだ。
顔に刻まれたぐねぐねさんが、やはりあらためて脈打つようにうづいた。
……誰のための裁判なんだ……これは……
唐突に鈍器で殴られた気分だった。
ぐねぐねさんは変わらず見えているが、妻は見えなくなったままである。もう帰ってこない。そういう事らしい。そう認識しなければ。こんなタイミングだったのだ。
口が半開きとなり、下まぶたがぽってりと重くなった。涙腺の感覚など持ち合わせていないが、それでも小刻みに震えているのを嫌というほど自覚させられた。
わたしは妻を失った。見えなくなったのではない。もういない。
二度と逢えない。
※
さらに事態は混迷を深める。
予期せぬ展開をむかえた第一回公判より数日後、とある週末の正午過ぎの事だった。街外れの大型商業施設内のベンチに腰かけ、ぼんやりと行き交う人たちを眺めていたところへ、スラックスに突っ込んでいたスマートフォンが着信に震えた。
手に取ってみれば登録していない何者かからだった。迷ったが、何かが引っかかる。予感がするというか……わたしは応じる事とした。
聞こえて来たのは滑舌の良い若い男性の声。聞き覚えの無い氏名を名乗り、そして身分を明かした。
『直接会ってお話できませんか』
スマートフォンの向こうから、弁護人はのうのうとそう言ってのけた。
「あなた方と話す事は何もありません」
抑えたつもりだったが、つい突き放すような答え方になってしまっていた。弁護人氏はただ仕事をしているだけなのだ。わかってはいるが、どこかで何かのスイッチが入ったように、わたしはむきになっていた。
「この会話すら録音しているのでしょう? それくらいの想像はつくが?」
弁護人氏は即座に否定して来た。『していません。ご安心を』
嘘である。うかつな事は話せない。証拠として提出されれば上げ足を取られるどころでは済まない……ここで小さく舌打ち。しまった、わたしが録音しておくべきだったのでは……この辺りのうかつさが素人なのである。とはいえ今さら変な間を開け、スマートフォンをペタペタ操作するのも愚か過ぎる。苦虫を噛みながら、先方の言い分を聞くしかなかった。
『検察の方、支援員さんが付いていると思うのですが、えーと、何か言われていたりします? 弁護士が接触してきたら要注意デスとか?』
さながら友人のように話し掛けてくる弁護人氏。気さくすぎる。こちらを怒らせる意図なのかと勘繰ってしまう。感情的にさせ、面会の口約束を取り付ける狙いか。直接会ってどうする? 天地がひっくり返ろうがぐねぐねさんが月面から降りて来ようが、示談など論外である。落ち着け。奴……いや、彼の術中にからめ取られてはならない。軽い深呼吸をひとつ。
「そちらに有っても、こちらに用はありませんので。これで失礼します」
スマートフォンを耳から離そうとした瞬間だった。
『二の矢は精神鑑定です』
「……なにが?」
思わず聞き返してしまっていた。
『月面をぐねぐね這うバケモノが見えたので事故を起こしました、なんて不自然な事をのたまう被告人は、刑事責任能力を問われて当然でしょう。何より検察側は月の異形について全否定なのでしょうから、心神耗弱の可能性を肯定してくれているようなものです。申請はすんなり通ると考えていますよ、はい』
だから何だ?
精神鑑定が何だというのだ。
ぐねぐねさんが見える事をかたくなに主張したら、精神疾患だと言うのか。だったらわたしもだ。わたしも普通ではない。わたしもどこかおかしい。だから何だ? 病んでいようが病んでいまいが、犯した罪は罪だろうが。殺された者の無念と、奪われた遺族の無念はどうやって、誰がどういう形で補填するのか。
……生者に甘いんだ……
どうやら法が裁くという事は、加害者に反省と贖罪いう名の救済を与える事らしい。遺族の意向は度外視。ただただ被告人に再生の機会を見いだしてやる。そういう儀式のようだ。
「……わかった。話を聞く」
結局わたしは彼の口車にまんまと乗ってしまっていた。
では今週末に……日時と場所は後日お知らせします……弁護士氏に礼を告げられ、通話は終わった。
※
ところが、話はそれだけでは済まなかった。
その翌日、裁判所から封書が届いた。第二回公判における弁護側の情状証人としての出廷要請。我が目を疑うしかなかった。
よもやの三の矢。悪い冗談としか思えなかった。弁護側が証人を準備するであろう戦略は容易に想定出来たが、こともあろうにわたしを証人として起用して来るとは。
「……どういう……」
動揺するなという方が無理である。しばらく身じろぎひとつ満足に出来なかった。
……わたしが……見えるのを……わかっているとでも?……
ご丁寧にも書状には、偽証罪についての注意喚起の一文も添えられていた。
虚偽の証言は罪に問われる場合があります……
……誰に言っているんだ……
もはや笑うしかなかった。引きつった半笑いではあったが。
【魔導の図書館閉鎖まで、あと七日】




