◎ひどいやつら【四】
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その日、ありふれた普段の休日として午前は消化された。妻と二人して遅く起き、朝食なのか昼食なのかよくわからない食事を摂る。ネットのニュースにも新しいものはなく、穏やかな晴天は心地良く、時間に追われる平日からすればとても贅沢に時間を浪費していた。
昼下がり、助手席に妻を乗せ、郊外の商業施設を目指してわたしはハンドルを握っていた。主要幹線道路から脇道へと逃れようとしたところで信号に足止めを喰らう。「いつも捕まるよね、ここ」と、妻。
わたしは鼻先をごしごしとこすりながら答えた。「タイミングだからね」
「タイミングって適正な和訳ないんだって」と、妻。
「え、時機とかじゃないの?」
「ちょっとざっくり過ぎない?」
「んー、そうかな……」
この交差点を曲がれば小高い位置に控える大型商業施設がやや遠方に望める。目線をちらりと上を向けると、思わず声が漏れた。
「あ」
釣られて妻もわたしの目線を追ったようだ。
「あ」
夫婦で同じ反応をしてしまい、顔を見合わせた後、互いに吹き出した。ささやかな幸せは何気なくそこら辺に転がっている。これもまたタイミングである。
ただそれは、真逆の結果をもたらすものと常に背中合わせであり、そちらも容易に拾えてしまったりする。誤りに気付いた処ですでに遅く、もう取り返しがつかない。
信号が青に変わったので右折レーンから十字路の中央へと進む。対向車線からの車列の切れるのを待っていたその時だった。
まさかの左側からの追突を視覚が捉える直前、そして聴覚が激突音を取らえる瞬間、なぎ倒される衝撃の感覚がすべてを上廻った。
とっさに助手席側へ左腕を伸ばす。
妻の手をつかめるかどうか……というところで、記憶の断片が唐突に自己主張を始める。
思い出の中には、やわらかく笑う妻の姿があった。
……日傘と雨傘……どちらが先に開発されたでしょうか……はい、そうです、日傘ですね……撥水性能に寄せた生地の登場なんて、ずっと後年なんでしょうね……たぶん。
……でもね、雨傘の語源はラテン語の【影】とか【日陰】らしいんだけど、だったらそれは日傘じゃないの? って話……
……ちなみに日傘の語源は【日よけ】ってラテン語みたい。いや、どっちも一緒やん、みたいな……
……だからね、どこかで、何かのタイミングでアンブレラを雨除けに使ったヒトがいて、その使い勝手の良さがそのまま大衆に広まって定着しちゃったと。でも日傘も必要だよね、って事でパラソル名義の日傘が発売されたと……そんな感じなのかなぁ……後半はがっつりワタクシの想像ですけれど……
……そうそう、何ごともタイミングって大事だよね……場合によっては後の運命をねじ曲げてしまうほどに……
わたしは深く同意したのを覚えている。思えばきみとの出逢いもタイミングだったじゃないか。わたしときみの運命も大きく変わった。ふたりで歩いていけるよう、人生のカタチそものもが変わった。素敵な方へ。
だから一分。せめて三十秒。早いか遅いか、ズレていれば。
この信号で止まらなければ。わたしの車が先頭でなければ。すべてはタイミングだった。
助手席側は妻を巻き込み、わたしの真横でシートやらドアそのもやらがぐしゃりと潰れた。わたしの意識も刹那で遮断された。
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目が覚めた時はそこが病室だと認識するのにかなり手間取ったものである。
治療室にベッドはひとつきりで、隣には誰もいなかった。妻が即死だったのを知らされたのは、それから数日が過ぎてからの事である。わたしの外傷は軽微で済んだが、額から右頬にかけて鼻柱を避ける感じで裂傷の跡が刻まれた。後日の外科手術で目立たなく出来ますよとは言われたが、特に興味は湧かなかった。どうでもいい。洗面台の鏡でその傷痕を眺めていると、既視感が顔をのぞかせる。なんだろう……と数秒だけ考えて思いつく。ぐねぐねさんである。野放図に月面を這う彼の姿を思わせるのだ。まぁどうでもいい。些末である。
脳震盪の経過観察から退院まで十日ばかり要した。その間に葬儀関係はすべて済まされ、自宅にてわたしの帰宅を出迎えてくれたのは、薄っぺらで小さくなってしまった妻の遺影だった。それでも彼女は笑顔でわたしを出迎えてくれた。
……お帰りなさいと。
突きつけられたのは現実のはずなのだが、しかし不思議と説得力に欠けていた。
これは何か違う。
あるいは……わたしには妻の姿を見つけられなくなったのでは?
妻が見えなくなった。他の人がぐねぐねさんを見つけられないように。そういう事なのではないだろうか……
見上げた窓に夜空、月にぐねぐねさん。ぴょこっと顔だけのぞかせ、じっと動かない彼をしばらくぼんやりと眺め続けた。
そこでようやく思い当たる。わたしは妻のために泣いていない。一滴の涙もこぼしていない。
きみはもういない……ほんとに?
月面にバケモノがいるのだ。妻の姿が見えなくなったくらい、まったくあり得る話である。
どっちつかずの覚めない悪夢は、それからしばらくわたしにつきまとう。
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意図的な信号無視に加え、ノーブレーキ及びスピード超過による激突。
「人生がどうでもよくなり、誰かを殺して自分も死のうと思った。誰でもよかった」
現場にて身柄を拘束された加害車両の運転手は、そのように取り調べで述べたという。死ぬつもりだった本人はエアバッグが功を奏し軽傷、死ぬ気などさらさら無かったわたしの妻が被害にあった。理不尽にもほどがある。
自暴自棄と化す絶望的な何かに見舞われたのかもしれないが、その事に妻はまるで関係ない。被告人の悪意が妻と私の未来を台無しにしてくれた。動機が何があったのか、これからの取り調べでつまびらかにすると、警察関係者はお悔やみの後にそう述べてくれた。被害者へ寄り添ってくれる心遣いには感謝しかなかったが、だからといって妻が見えるようになる訳ではない。仮に加害者の男へ極刑が下され、それが執行されたとて、元の生活には戻れない。それでも日常は繰り返される。職場に復帰し、業務をこなし、帰宅。ひとりで食事をし、冷たいベッドで寝る。時おり顔を見せるぐねぐねさん。迎えた翌朝、ベッドは温まってはいるが、しかしそれはわたし自身の体温が移っただけのものにしか思えなかった。
わたしはなかなかきみを見つけられずにいた。
やはり本当に死んでしまったのでは……いや、見えないだけ、見つけられないだけで、ずっと側にいてくれている……これもまた何かのタイミングなのだろうか……何かが噛み合っていないから、姿を見つけられない。そういう事なのかも……
わたしが自分自身のおかしさに気付くのは、もう少し先の話である。
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被害者支援員だと名乗ってくれたその検察の方は、落ち着いた物腰の初老の男性だった。公判に際して戸惑うわたしへ、適切な助言と丁寧な対応をしてくれた。
「被害者参加制度を利用されれば、法廷内で検察側の席に座れます。私は同席できませんが」
丁寧な申し入れだったが、それは辞退した。傍聴席から俯瞰したい旨を伝えると、彼は「そうですか」と特に理由を確認するでもなく、話題を切り替えた。
「何より被告人が無差別な殺意を認めています。どこをどう切り取っても悪質ですから、危険運転致死傷罪が適用されるはずです」
「……どれくらいの量刑になりますか」
裁判。検察。被告人。そして罪と罰。テレビドラマや映画の中だけのものだと思っていたあれこれの単語が、鼻先を当たり前のように飛び交う日常。わたしにはぐねぐねさんよりも遥かに非現実的だった。
「実刑は確実です。拘禁刑で二十年以下ですが、どれくらいの求刑になるかは現段階では何とも……」
どこか申し訳なさそうに、彼はそう言葉をにごした。人ひとり殺めておきながら、最長でもこんなものなのです……御主人のお気持ちはよくわかります……飲み込んだであろうコトバの数々は、その表情から容易にすくい取ることが出来た。あまたの被害者遺族と関わり、その苦悩と哀切を目の当たりにして来たからこその心痛。慣れるものでもないのだろう。
「大丈夫です。わたしは妻を喪ってはいませんので」
あえての微笑を刻み、弾んだ声でうなづいて見せた。
「ただ姿が見えないだけなんです」
被害者支援員の彼の表情から、次にわたしが抽出できたのは困惑だけではなかった。哀れみ。憐憫。同情……すべて同じ方向を向いていた。
※
ところが始まった第一回公判の罪状認否にて一転、被告人は傍聴するわたしの目の前で当初の証言を自らひるがえした。
『久しぶりに昼間の月にバケモノが見えたので、見とれていたら交差点に進入していた。前方不注意の過失は認める。しかし偶然による不幸な事故であり故意ではない』
まさかの殺意否定。
……よりにもよってぐねぐねさんのせいにするのか……
顔のぐねぐねさんがずくりとうづく。
不思議と怒りは湧かなかった。むしろ冷静だった。
どうせ誰にも見えていない。
この主張で公判に臨もうという小賢しい選択。心変わりの果ての悪手。しょせんどこまで行ってもクズはクズなのだという事。謝罪も反省もそもそも最初から期待していない。ただ死んでほしい。そのふざけた顔や姿かたちを見えなくなるようにしてほしい。
わたしの興味は自身の内面へと向いていた。
……あぁ……こういうものなんだ……
激情に代わり萌芽したのは、三十数年生きて来て初めて味わう感情のひとつだった。
なるほど。
殺意を覚えるとはこういう感じなのか……これならなんとか飼い慣らせそうだ……
証言台に立つ被告人の無様な背中を眺めながら、傍聴席にてわたしは小さくつぶやくにとどめた。
「 お前は初手を誤った 」
【魔導の図書館閉鎖まで、あと八日】




