◎ひどいやつら【二】
※
わたしの久しぶりの恋愛は馴れ初めこそやや普通ではなかったが、以降は凡人として月並みな経緯を消化、入籍へと帰結した。周囲からは過分な祝福を頂戴し、誠に恐縮した次第である。アルテミスの出来心』からすでに二十年が経過していた。
彼女に出逢えたことこそ人生最大の僥倖である。つまる処、遠く彼方の月のあれこれも重要なのかもしれないが、手の届く範囲でのささやかなしあわせの方が遥かに人生を左右する。当たり前といえば実に当たり前の事だった。
とはいえ、わたしと妻の縁結びをしてくれたのは他ならぬぐねぐねさんだったので、そこだけは感謝している。
彼女は取り引き先の事務員のひとりだった。とある冬のある日、十九時過ぎに先方を訪れるとたまたま担当者が席を外しており、パーテーションで区切られた来客スペースに通された。パイプ椅子に腰を下ろし待っていると、彼女が温かいコーヒーを出してくれた。頭を下げるわたし。彼女も浅いお辞儀の後、早々に立ち去ろうとしたのだが、「あら」と小さく声を漏らして立ち止まる。その視線の先には閉じられた窓があり、夜のとばりに呑まれた街並みが拡がっていた。ネオンを散りばめられた繁華街。そしてまばらな星たちと、ほの白く輝く満月。
動きを止めて凝視を続ける彼女に次いで、わたしもまた小さくつぶやいてしまった。
「……あ、珍しいな……」
くるり、と振り返る彼女。「え……」
普段ならば絶対にないことなのだが、その驚嘆に彩られた表情に通じるものを感じたのである。好意的に捉えたと言い換えても差し支えはない。だからあっさりと認めた。
「失礼。あの形を見るのは久しぶりだなと思って」
「えええ!」
彼女はさらに驚く。おそるおそるといった感じで言葉を絞り出した。「あの……見える……のですか」
「……ええ」とわたしはうなづいた。「ハートをかたどってますよね、彼」
そしてもう一度繰り返した。「珍しいです」
強張っていた彼女の表情がゆるみはじめ、次に歓喜がにじみ始めた。声が震えながらも弾んでいる。
「……あ……あたし……初めて会いました……自分以外の見えるヒトに……あたしだけじゃないんだ……」
「……わたしも久しぶりです。中学校時代の友人の妹がそうでしたが、彼らは転校して行きましたので。それ以来ですよ」
はるか彼方先、満ちた月の表面にてぐねぐねさんがぐるりと身体をよじり、ハート的な形を成していたのである。もちろんただの偶然なのだろうが、『これは何かの暗示なのかもなぁ……』的に、わたしはぼんやりと考えていた。
そして大した時間も要せずに事実そうなった。これが妻との馴れ初めである。
※
『アルテミスの出来心』現象として人類の前に姿をあらわしたぐねぐねさんだったが、数週間後に突如として姿を消し始めた。
いなくなったのではない。
その姿を視認出来ないヒトが出て来たのである。
昨日まで見えていたのに、翌日の晩には見えなくなる。そのようなヒトがぽつりぽつりと声を上げ始めた。やがてそれは大きな波となり世界中に伝播、ほどなく【見えない派】が過半数と成り、人類未曾有の奇跡扱いだった『アルテミスの出来心』は、いつしか極々少数だけに限られた怪奇現象へと堕していった。
大衆はたちまち手のひらを返す。
『見える奴がおかしい』
『そんなものいる訳がない』
『変なクスリやってマス的な自白』
『サイコパス限定』
『アホくさ』
事態は収束へと加速度をいや増すばかり。そんな折、幼少時のわたしが月面の異形を指摘したのである。
「おつきさんになんかいる」
わたしの両親はご多分に漏れず【見えない派】だったので、慌てふためいたのは想像に難くない。あれやこれやで幼いわたしを言いくるめ、『これはいけない事なのだ』と理解させた。決して誰にも言ってはいけない。パパとママにももう言わなくていいからと。
「うん、わかった」
わたしはお菓子とおもちゃに釣られ、両親と堅く約束した。
とはいえ、ぐねぐねさんはいなくなってしまった訳ではない。【見える派】が表舞台から強制退場されられただけで、月の彼自体はその後も自由気ままに月面を這いずり回っていたのである。夜空を見上げる度に、それが半月であろうが三日月であろうがチラリチラリと顔を見せるぐねぐねさん。もちろんわたしにはその後もずっと見えていたのだが、それを口にするのははばかられていた。実際にいるんだけどなぁ……と思いつつも、もはや都市伝説の常連となった彼の事をケラケラ笑い飛ばす連中へ、適当に相槌を打つだけの自分。
「なんかその当時は月を爆撃する気だったんだってよ」
「ひえー、おっかねー」
「笑けるよなぁ。いる訳ねーだろっての、そんなの」
見えていないから存在していない。そんなものは月にはいない。
その判断が圧倒的大多数の意見で、それが正解という世間の風潮には逆らえないし、逆らうべきではない。少年時代には親の意図することが正しく呑み込めなかったが、歳を重ねていった結果おおむね理解は出来た。長いものには巻かれた方が良いし、寄るのなら大樹の陰に尽きる。朱に交わり赤くなった方が遥かに生きやすいのならばそうするべき。
そういう事なのだ。正義はそれを口にするヒトの数の多さで決まる。
それを信じて疑わずにわたしはこれまで生きて来たし、妻もそうだったようだ。
だからわたしたち夫婦の馴れ初めを正しく理解しているヒトはひとりとしていなかった。親にも友人にも話していない。あいまいに誤魔化したままである。ぐねぐねさんの話題を取り上げるのは二人の時だけ。これからもそうやって生きていく。二人で。
それだけの事である。
「どうして他の人には見えないんだろう……」
月明かりの中で、何気なく疑問を口にする妻。このやり取りも何回目だろうか。切り口は変えるが、その都度同じ答えを繰り返すわたし。
「見えてはいるのだけど、気にならない。気にしない。意識の外へ追いやる。無関心が常態化する。結果として認識しなくなる。見えなくなる……という一連の流れなんじゃないかな。正解かどうかはさておき」
「……あたしたちの子どもは見えるのかな……」
わたしの胸の中で甘える妻がそう漏らす。
「……まぁ、本人に任せようよ」
安アパートの三階部分に愛の巣を設けたわたしたち。その営みは終始高い位置からぐねぐねさんに見られていたが、気にするだけ無駄である。それでもチラリと顔を出し、目が合ったような気分にさせられたので『のぞくなよ』と心の中だけでいつものように抗議しつつ、わたしは妻を再び抱き寄せた。
【魔導の図書館閉鎖まで、あと十二日】




