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第99話 公爵令嬢様は、俺と同じ景色を見たいらしい


 朝のパウリー公爵邸は、昨夜から続く雨に包まれていた。


 窓の外では細かな雨粒が庭園の石畳を濡らし、手入れの行き届いた植え込みから落ちた雫が、小さな水音を立てている。普段なら朝日が差し込む廊下も今日は少し薄暗く、壁に設けられた魔導灯が、まだ柔らかな光を灯していた。


 俺は制服の上着を整えながら、机の上に置いた一冊の本を鞄へしまった。


 昨日、図書室での出来事をきっかけに読み進めていた、古い書物の保存方法についての解説書だ。昨夜は紙の傷みや湿気による変化について書かれた部分を読んでいたのだが、ちょうど雨が降り始めたこともあり、書かれている内容がいつもより身近に感じられた。


(本は、ただ棚に並べておけばいいわけじゃないんだな。あれだけたくさんの蔵書を管理するなら、目に見えないところでも相当な手間がかかっているはずだ)


 図書室の整理を手伝うまでは、俺も本を探して読むことばかり考えていた。


 もちろん、乱暴に扱わないようにはしていたし、借りたものは丁寧に返すよう心がけている。けれど、一冊の本が次の読者へ渡るまでに、どれだけ多くの人が関わっているのかまでは、あまり意識していなかった。


 知らなかったことを知るのは面白い。


 それに最近は、新しく覚えたことをリビアや友人たちと話す時間も楽しみになっていた。


 鞄の留め具を確かめて部屋を出ると、廊下の向こうから父さんが歩いてきた。


「おはよう、セス。今日は足元が悪い。学院へ着いてからも、廊下や階段には気をつけるようにな」


「おはよう、父さん。うん、分かった。玄関に近いところは、雨の日だと床が濡れやすいもんね」


 父さんは俺の返事に頷き、手にしていた書類を脇へ寄せた。


「そうだ。雨具を持ち込む者が多い場所では、床の状態が普段と変わる。歩く者が注意することも大切だが、管理する側も変化を見落としてはいけない」


「学院でも、雨の日は入口に布が敷かれていたりするよ。ああいう準備も、ちゃんと理由があるんだね」


「当然のことに見える仕事ほど、理由を知らないまま扱うと失敗しやすいものだ。もっとも、すべてをお前が確認する必要はないがな」


 最後の一言には、わずかな笑みが混ざっていた。


 俺は苦笑しながら頷いた。


「分かってるよ。今日は学院の人たちの仕事まで引き受けたりしないから」


「そこまで言ってはいない。ただ、困っている者を見かけたとき、何をするのが本当に助けになるかは考えるように」


 父さんの言葉に、昨日の出来事が思い浮かんだ。


 資料閲覧室を探していた生徒へ声をかけ、場所を知らなかった俺は、一緒に図書室の受付まで行った。以前の俺なら、相手を待たせてでも自分で調べようとしていたかもしれない。


「うん。昨日も、受付の人に聞いてよかったと思ったんだ」


「それなら、その経験を大切にするといい」


 父さんは満足そうに頷くと、仕事へ戻っていった。


 俺はその後ろ姿を見送り、食堂へ向かった。


 食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、窓際の席にはすでにリビアが座っていた。彼女の銀青色の髪はいつものように丁寧に整えられていて、雨に煙る庭園を眺めていた横顔が、俺の足音に気づいてこちらを向く。


「セス、おはよう!」


「おはよう、リビア。今日は雨だね」


「うん。朝からずっと降っているみたい。庭園のお花にはいい雨かもしれないけど、学院へ行く人たちは少し大変そうだね」


 リビアはそう言いながら、俺が隣へ座るのを待っていた。


 席に着くと、彼女は俺の鞄へ目を向ける。


「その本、昨日読んでいたもの?」


「うん。まだ途中なんだけど、湿気が本に与える影響について書いてあってね。ちょうど今日みたいな雨の日には、保管場所の状態にも気をつける必要があるらしいんだ」


「そうなんだ。図書室の方たちは、そういうことも考えながら本を管理しているんだね」


 リビアは感心したように頷いたあと、少し考え込む表情になった。


「ねえ、セス。雨の日って、学院の案内表示の見え方も変わるのかな?」


「表示の見え方?」


「うん。昨日、委員会で話していたでしょう? 表示をどこへ置くか、実際に利用する人がどう動くかって。晴れているときと雨の日では、廊下の明るさも違うし、歩く人の動きも変わるかもしれないなって思ったの」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 灰色の空を映した窓硝子には細かな雨粒が流れ、庭園の奥にある東屋も、晴れた日より少し暗く見えている。


「確かに、変わるかもしれないね。外から入ってきた人は、雨具を片づけたり、濡れた靴を気にしたりするだろうし」


「そうだよね。もちろん、今日すぐに試験をするって決まっているわけじゃないんだけど、気づいたことがあったら、委員会で相談してみようかな」


「うん。ただ、雨の日にしか分からないこともあれば、晴れた日と比べないと判断できないこともあると思う」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに笑った。


「ふふっ、セスも同じことを考えてたんだね」


「そうなの?」


「うん。昨日から、どんなふうに確認したらいいのか考えていたの。今日はいつもと違う景色が見られそうだから、少し楽しみなんだ」


 その言葉に、俺も自然と笑みがこぼれた。


 雨の日を楽しみにするという発想は、今朝の俺にはなかった。


 けれど、リビアがそう言うと、学院へ向かう道にも何か新しい発見が待っているような気がしてくる。


「じゃあ、今日は俺も周りをよく見てみるよ」


「うん。でも、足元には気をつけてね。セスは考え事をすると、周りのことよりそっちに集中しちゃうときがあるから」


「……気をつけます」


 思わず素直に返事をすると、リビアは声を立てて笑った。


 そんな彼女の表情を見ていると、雨で薄暗かった朝の食堂まで、少し明るくなったように感じられた。


     ◇


 学院へ到着すると、馬車の乗降場所にはいつもより多くの生徒が集まっていた。


 雨を避けるために屋根の下へ入ろうとする者、濡れた外套を整える者、友人を待ちながら入口の様子をうかがう者。それぞれの動きが重なり、普段なら余裕のある玄関前も、今日は少し混み合っている。


 俺とリビアは馬車を降り、使用人が差し出してくれた傘の下から玄関へ向かった。


 石畳は雨に濡れて色を濃くしており、靴底が触れるたびに小さな水音がする。


「思っていたより混んでるね」


 俺が言うと、リビアは周囲を見回して頷いた。


「みんな、雨を避けながら入ろうとしているからかな。晴れている日なら、もう少し広がって歩いているものね」


 玄関の内側では、学院の職員が濡れた床を確認し、必要な場所へ滑り止めの敷物を追加していた。


 俺たちは通行の邪魔にならないよう端へ寄り、靴底の水気を落としてから廊下へ進む。


 その途中、壁に設置された案内板の前で、数人の生徒が立ち止まっているのが見えた。


 ただし、彼らが表示を読んでいるのか、友人を待っているのかは分からない。


 俺が少し視線を向けると、リビアも同じ場所を見ていた。


「セス、あそこ……」


「うん。でも、何をしているかまでは分からないね」


「そうだね。勝手に迷っているって決めつけちゃいけないよね」


 リビアは小さく頷き、鞄から手帳を取り出そうとして、すぐに手を止めた。


「……あとで、落ち着いてから書こうかな。今ここで立ち止まったら、私たちも通る人の邪魔になっちゃう」


「そうしよう。教室に着いてからでも覚えていられると思うよ」


 俺たちは歩き出した。


 普段なら何気なく通り過ぎる玄関も、今日は少し違って見える。


 けれど、その違いを見つけたからといって、すぐに原因や対策が分かるわけではない。


 リビアと一緒に歩きながら、俺はそんなことを考えていた。


 教室へ入ると、ガレスが窓際で外を眺めていた。


「おはよう、クルセス! オリビア様もおはようございます!」


「おはよう、ガレス。今日は訓練場が使いにくそうだね」


「そうなんだよ。外で剣を振るつもりだったんだけど、朝からこれじゃ無理そうだな」


 ガレスは少し残念そうに肩を落とした。


 けれど、すぐに気を取り直したように笑う。


「まあ、屋内でできることもあるしな。足運びの確認でもしてくるよ」


「それなら、雨で滑りやすい場所には気をつけてね」


 リビアが声をかけると、ガレスは少し照れくさそうに頷いた。


「ありがとうございます。昨日も先生に、足元を見ないで動くなって言われたところなんです」


 そのやり取りを聞いていたサザリーが、机の上の本を閉じた。


「雨の日の訓練では、普段と同じ動きをしようとすること自体が危険になる場合もあるからね。屋内だから安全だと決めつけない方がいいと思うよ」


「分かってるって。今日は無理しないさ」


 ガレスはそう答えたあと、俺へ顔を向けた。


「そういえば、昨日話してた図書室の手伝いなんだけど、サザリーも本当に参加するつもりらしいぞ」


「うん。本人から聞いたよ」


「俺も都合が合えば参加したいんだが、今日は雨だからな。蔵書整理の予定が変わったりするのか?」


 その問いに、俺は少し考えた。


「どうだろう。図書室の中でやる作業なら、雨だけで中止になるとは限らないと思うけど、担当の人に確認しないと分からないね」


「そうだよな。じゃあ、あとで聞いてみるか」


 サザリーは頷きながら、手元の予定表を確認した。


「僕は今日は放課後に別の用事があるから、参加するとしても別の日になるね。まずは作業の内容と時間を聞いておきたい」


 俺は二人の会話を聞きながら、昨日までとは少し違う嬉しさを感じていた。


 図書室の整理を手伝ったことが、俺一人の経験で終わらず、友人たちの興味にもつながっている。


 そのことが、何だか誇らしかった。


     ◇


 午前の授業では、魔術の制御についての講義が行われた。


 エレナ先生は教壇に立ち、黒板へいくつかの図を書きながら、魔力の出力を変化させる際の注意点を説明していた。


「魔術を安定して使うためには、最大出力を高めることだけを考えてはいけません。指定された範囲で出力を保ち、必要なときに確実に下げられることも重要です」


 先生は教室を見渡し、言葉を続けた。


「来月予定している個別の実技確認でも、この点を重視します。以前説明したとおり、使用する属性や手順は担当教員の指示に従ってください。勝手な変更や、許可されていない技術の使用は認めません」


 俺はノートへ要点を書き留めた。


 実技確認では、水・土・風の中から教師が指定する二属性を扱い、低出力から中程度の出力へ移り、再び低出力へ戻して停止する。


 各段階で保持する時間が設けられ、出力の変化だけでなく、安定性や停止の確実さも確認される予定だ。


 俺が得意とする雷の身体強化や、複数属性を組み合わせた独自の方法を試す場ではない。


(普段できることと、指定された条件で正確にできることは別なんだよな。今回は、決められた手順を守ることが何より大切だ)


 そんなことを考えていると、先生が一枚の図を示した。


「例えば、同じ出力を維持しているつもりでも、本人の集中が別のところへ向けば、わずかな変動が生じる場合があります。変動が小さいから問題ないと判断するのではなく、変動が起きた理由を把握することが重要です」


 隣の席でリビアが真剣に話を聞いている。


 彼女は無属性の結界魔法に優れているが、今回の実技確認では、通常の授業で使う結界を勝手に展開してよいわけではない。


 安全管理は教師側が担当し、受験する生徒は指定された範囲の操作へ集中することになっている。


 俺は以前、リビアとこの話をしたときのことを思い出した。


 得意な技術があるからといって、それをいつでも使ってよいわけではない。


 むしろ、使わないと決められたときに、その判断を守れることも大切なのだ。


 講義が終わると、ガレスが大きく息を吐いた。


「いやあ、出力を上げるより下げる方が難しいって話、何度聞いても耳が痛いな」


 サザリーが苦笑した。


「君は勢いよく魔力を流すのが得意だからね。でも、最近は以前より調整を意識しているように見えるよ」


「そうか? 自分じゃ、まだまだだと思うけどな」


「自分で課題を分かっているなら、それは前進しているということだと思うよ」


 俺が言うと、ガレスは少し驚いた顔をした。


「クルセスにそう言われると、何だか頑張れる気がするな」


「俺も、まだ学ぶことは多いよ」


 そう答えると、ガレスは笑った。


「お前がそれを言うと、こっちはもっと頑張らないといけない気がするけどな!」


 周囲の生徒たちからも小さな笑い声が上がった。


 俺は少し照れくさくなりながら、ノートを閉じた。


     ◇


 昼休みになる頃には、雨脚が少し強くなっていた。


 食堂の窓を細かな雨粒が叩き、外の植え込みは薄い水煙に包まれている。普段なら中庭へ出る生徒たちも今日は屋内に残っているため、食堂はいつもより賑やかだった。


 俺たちは空いている席を探し、ガレス、サザリー、エミリアと一緒に昼食を取ることにした。


 エミリアは食事を運んでくると、窓の外を見て少し眉を寄せた。


「今日はずいぶん降りますね。朝はここまで強くなると思っていませんでした」


「午後には少し弱くなるといいね」


 リビアが答えると、エミリアは頷いた。


「そうですね。雨そのものは嫌いじゃないんですけど、廊下が混んでいると、移動に時間がかかってしまって」


 その言葉に、俺は朝の玄関を思い出した。


「確かに、今日は入口も混んでいたね。普段なら気にならないところで、人が立ち止まっているように見えたよ」


「私もそう思いました。特に、傘を片づける場所の近くは人が集まりやすいみたいです」


 エミリアはそう言ってから、少し考えるように首を傾げた。


「でも、今日は雨が強いですから、いつもそうなのかは分かりませんね」


 サザリーが頷いた。


「一日だけの様子で判断するのは難しいね。天候だけでなく、授業の開始時刻や生徒の数も関係するだろうし」


 リビアは二人の話を聞きながら、手元の飲み物を置いた。


「実は、委員会でもそういうことを考えているの。案内表示をどこに置けばいいか、実際に利用する人の動きを確認できないかって」


「なるほど。それなら、雨の日の様子も参考になるかもしれませんね」


 エミリアは興味深そうに微笑んだ。


「ただ、雨の日は普段と違うことが多いから、そのまま基準にはできないかもしれませんけど」


「うん。だから、今日のことも、気づいたこととして整理しておこうと思ってるの」


 リビアはそう答えた。


 ガレスは少し考え込んだあと、口を開いた。


「案内表示って、結局は迷わず行けるようにするためのものなんだよな?」


「そうだね。少なくとも、今回の委員会ではその目的が大きいと思う」


 サザリーが答える。


 ガレスは腕を組み、しばらく考えてから続けた。


「だったらさ、表示を見る前に迷ってる人もいるんじゃないか? 俺、今朝は入口が混んでたから、いつもの階段へ行くのに少し遠回りしたんだよ。ああいうとき、普段の道しか知らないと困るだろ?」


 俺は思わず顔を上げた。


 ガレスの言うとおりだった。


 案内表示の前まで来れば、書かれた情報を確認できる。


 けれど、そこへたどり着く前に別の道を選ばなければならない場合もある。


「確かに、普段の経路が使いにくいときは、別の案内が必要になるかもしれないね」


 俺が言うと、ガレスは少し得意そうに笑った。


「だろ? まあ、俺は単に混んでるところを避けただけなんだけどさ」


「それも立派な経験だと思うよ」


 リビアが答えると、ガレスは照れくさそうに頭を掻いた。


 エミリアはその様子を見ながら、穏やかに微笑んでいた。


「みんな、見ているところが違うんですね。私は床が濡れていないか気になっていましたし、ガレスさんは人の流れを見ていたんですね」


「僕は表示の位置と、通路の広さが気になったかな」


 サザリーがそう言うと、リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。こうやって話してみると、私一人では気づかなかったことがたくさんあるね」


 俺は彼女の横顔を見つめた。


 リビアは委員会の活動に真剣に取り組んでいる。


 けれど、すべてを自分だけで決めようとはしていない。


 周囲の意見を聞き、その違いを面白がりながら考えを広げている。


 その姿が、俺にはとても頼もしく見えた。


     ◇


 午後の授業が終わると、リビアは委員会の連絡を確認していた。


 今日は正式な試験や設置作業を行う予定はないものの、マリエッタ先輩が、朝の玄関付近の様子について意見を聞きたいらしい。


「セス、少しだけ委員会の部屋へ寄ってもいい?」


「もちろん。俺は図書室で本を返してから、教室で待っているよ」


 そう答えると、リビアは少し考えるように俺を見た。


「ねえ、セス。今日は一緒に来てもらうことってできるかな?」


「俺も?」


「うん。もちろん、先輩に確認してからになるけど。朝の玄関で気づいたことを、セスも話してくれたでしょう? できれば、一緒に聞いてもらえたら嬉しいなって」


 俺は少し驚いた。


 以前の俺なら、リビアに頼まれればすぐに引き受けていたと思う。


 けれど、今回は委員会の活動だ。


 部外者である俺が、勝手に話し合いへ参加してよいわけではない。


「リビアがそう思ってくれるのは嬉しいよ。ただ、委員会の人たちの話し合いだから、俺が入ってもいいか確認してからにしよう」


「うん。私もそう思ってたの。じゃあ、先に聞いてみるね」


 リビアはそう言って、委員会の連絡係へ声をかけに行った。


 しばらくすると戻ってきて、嬉しそうに頷いた。


「マリエッタ先輩が、短い意見交換なら参加してもいいって。正式な委員会の判断は委員の人たちでするけど、朝の様子を話してもらえると助かるっておっしゃってたよ」


「それなら、俺も参加させてもらうよ」


「ありがとう、セス!」


 リビアは満面の笑みを浮かべた。


 その表情を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。


 俺たちは一緒に教室を出て、委員会の部屋へ向かった。


 廊下では雨に濡れた生徒たちが外套を抱えて歩いており、窓の向こうには灰色の空が広がっている。朝よりも人の数は少なかったが、玄関へ近づくにつれて、傘を持った生徒たちの姿が増えていた。


 リビアはその様子を見ながら、小さく呟いた。


「朝と帰りでも、やっぱり違うんだね」


「そうだね。朝はみんな中へ入ろうとしていたけど、今は外へ出ようとしている人が多いから」


「同じ場所でも、時間によって使い方が変わるんだ……」


 彼女は真剣な表情で頷いた。


 俺たちは通行の邪魔にならないよう歩き続け、委員会の部屋へ向かった。


     ◇


 委員会の部屋では、マリエッタ・クロード先輩が数枚の資料を机へ並べていた。


 ほかにも委員の生徒が何人か集まっており、俺たちが入ると、先輩は穏やかな笑みで迎えてくれた。


「オリビアさん、クルセス君。来てくれてありがとう」


「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


 俺が挨拶すると、マリエッタ先輩は頷いた。


「今日は正式な試験ではなく、今後の確認方法を考えるための意見交換です。気づいたことを話してもらえれば十分ですから、難しく考えなくて大丈夫ですよ」


「分かりました」


 俺たちは勧められた席へ腰を下ろした。


 机の上には、以前廊下で試した案内表示の写しと、学院の通路を簡単に描いた図が置かれている。


 ただし、表示の形はまだ検討中のもので、正式に採用されたものではない。


 マリエッタ先輩は資料を示しながら説明を始めた。


「前回の確認では、番号の大きさや矢印の見やすさについて、いくつか課題が見つかりました。けれど、表示そのものが見やすくなっても、設置場所が適切でなければ十分ではありません」


 先輩は通路図の一か所を指した。


「例えば、ここは玄関から教室棟へ向かう通路です。晴れている日なら、ほとんどの生徒がそのまま進みますが、今日は雨具を片づける人が増え、通行の流れが変わっていました」


 俺は朝の様子を思い出しながら頷いた。


「確かに、今日は玄関の内側に人が集まっていました。案内板の前にも何人か立ち止まっていましたが、表示を読んでいたのか、誰かを待っていたのかまでは分かりませんでした」


「そうですね。そこを区別する必要があります」


 マリエッタ先輩は俺の言葉を受け止め、資料の余白へ何かを書き込んだ。


「立ち止まっていた人がいるという事実と、案内が分かりにくくて迷っていたという判断は、別に考えなければいけませんから」


 リビアも頷いた。


「私も朝、同じ場所を見ていました。でも、通る人の邪魔になりそうだったので、その場では記録せず、教室へ着いてから手帳に書きました」


「それでよかったと思います。確認のために通路を塞いでしまっては、本来の目的に反しますから」


 先輩は微笑んだあと、別の資料を示した。


「今後、実際の利用状況を確認するとしたら、どんな方法がよいと思いますか?」


 俺はすぐには答えず、机の上の図へ目を向けた。


 玄関、階段、教室棟へ続く廊下。


 それぞれの場所には、普段から多くの生徒が行き交っている。


 ただ、通る人を観察するだけでは、なぜその道を選んだのか分からない。


「通行する人の邪魔にならない場所から、どの方向へ進む人が多いかを見ることはできると思います。でも、それだけだと、案内を見て進んだのか、もともと道を知っていたのかは分からないですよね」


 俺がそう答えると、先輩は頷いた。


「ええ。その違いは重要ですね」


「それなら、実際に案内を必要としている人に、どこで困ったか聞いてみる方法もあると思います。ただ、授業の移動中に声をかけると迷惑になるかもしれませんし、誰にでも協力をお願いできるわけではないと思います」


 リビアは俺の言葉を聞き、少し考え込んだ。


「だったら、協力してくれる人を事前に募る方法もあるのかな。例えば、普段あまり使わない場所へ行くときに、どんな案内が必要だったか教えてもらうとか」


 マリエッタ先輩は興味深そうに頷いた。


「それは一つの方法ですね。ただし、協力する人が事前に目的地を知っていた場合や、案内の位置を教えられていた場合には、結果が変わる可能性があります」


「そうですね……」


 リビアは少し眉を寄せた。


 俺は彼女の横顔を見ながら、先輩の言葉について考えた。


 以前、廊下で表示案を確認したときも、俺たちは事前に何を比べるのか説明を受けていた。


 だから、まったく初めて表示を見る人と同じ条件ではなかった。


 その違いを、俺たちは当時も意識していたはずだ。


「前に俺たちが協力したときも、表示の違いを知ったうえで見ていましたよね。今度は、何を知っている人に協力してもらうのかも考えた方がよさそうです」


「ええ。協力者の知識によって結果が変わる可能性はあります」


 先輩は頷き、机の上の資料を整えた。


「だから、まずは委員会の中で、何を確かめたいのか整理する必要がありますね。文字の見やすさを調べたいのか、目的地までの移動を確かめたいのか。それによって方法も変わりますから」


 俺はその説明を聞きながら、以前の共同演習を思い出した。


 あのときも、与えられた目的を正確に理解しなければ、どの道を選ぶべきか判断できなかった。


 荷物を運ぶこと。


 指定された装置の状態を確認すること。


 全員が安全に到着すること。


 それぞれの条件を満たすために、俺たちは仲間と話し合った。


 今回の委員会でも、何を達成したいのかを明確にすることが大切なのだろう。


 ただし、共同演習と案内表示の検討は同じものではない。


 似た考え方が役立つとしても、必要な確認はそれぞれ違う。


 俺はその違いを意識しながら、話を聞き続けた。


     ◇


 意見交換が一段落した頃、マリエッタ先輩は机の端に置かれていた一枚の紙を手に取った。


「そういえば、オリビアさん。昨日話していた図書室の案内について、担当の方へ相談する件ですが、委員会として正式に依頼する前に、確認したいことがあります」


「はい。何でしょうか?」


「図書室の方たちは、普段から利用者の案内を行っていますよね。私たちが参考にしたいのは、その方たちがどんな情報を必要としているか、という点です。ただ、蔵書の管理や利用手続きまで委員会が変更できるわけではありません」


 リビアは真剣に頷いた。


「はい。図書室の運営に関わることは、担当の方たちが判断するべきだと思います」


「そのとおりです。ですから、まずはお話を伺えるかどうか相談し、委員会の活動にどこまで協力していただけるか確認したいと思っています」


 先輩はそう説明したあと、俺へ目を向けた。


「クルセス君は昨日、資料閲覧室を探していた生徒さんと一緒に受付へ行ったそうですね」


「はい。場所が分からなかったので、受付の方に案内していただきました」


「そのとき、何が分かりにくかったのか、もう少し教えてもらえますか?」


 俺は記憶を整理しながら答えた。


「その生徒は資料閲覧室という名前は知っていました。でも、図書室の中にあるのか、別の場所なのか分からなかったそうです。受付で聞いて、利用手続きが必要だと分かりました」


「なるほど。場所の問題だけではなかったんですね」


「はい。ただ、俺が聞いたのはその生徒一人の話ですし、ほかの利用者も同じように困っているかは分かりません」


 マリエッタ先輩は頷いた。


「十分です。むしろ、そこを区別して話してくれるのは助かります」


 リビアが隣で嬉しそうに微笑んだ。


 俺は少し照れくさくなったが、話を続けた。


「受付の方からは、案内板にすべての情報を書くと、かえって読みにくくなることもあると教えていただきました。必要な情報を表示することと、職員の方が説明することを分けて考えているそうです」


「それは参考になりますね」


 先輩はしばらく考え込んだ。


 そして、資料へ新しい項目を書き加えた。


「表示だけで完結させる必要がある場所と、案内できる人がいる場所では、必要な情報が違うかもしれません。これは今後の検討に加えたいと思います」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます、先輩」


「こちらこそ。オリビアさんが新しい視点を持ってきてくれたおかげで、考えることが増えました」


 先輩はそう言って微笑んだ。


「もちろん、考えることが増えたからといって、すべてを一度に調べる必要はありません。優先順位を決めて、少しずつ確認していきましょう」


 その言葉に、リビアは真剣な表情で頷いた。


「はい。私も、急いで結論を出さないようにしたいです」


 俺は二人のやり取りを見守りながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。


 リビアは委員会の活動を通して、以前とはまた違う経験を重ねている。


 自分の考えを伝えること。


 ほかの人の意見を聞くこと。


 そして、すぐに答えが出ない問題へ向き合うこと。


 どれも、彼女がこれまで積み重ねてきた学問や魔術の訓練とは、少し違う形の学びなのだろう。


 そんな彼女の姿を近くで見られることが、俺には嬉しかった。


     ◇


 意見交換が終わると、俺たちはマリエッタ先輩へ礼を述べ、委員会の部屋をあとにした。


 廊下へ出ると、雨音は少し弱くなっていた。


 窓の外では灰色の雲がゆっくりと流れ、遠くの建物の輪郭が、先ほどよりはっきり見えるようになっている。


「セス、今日は一緒に来てくれてありがとう」


 リビアが隣で微笑んだ。


「ううん。俺も勉強になったよ。案内表示って、思っていたよりいろんなことを考える必要があるんだね」


「うん。私も、最初は文字を大きくしたり、矢印を分かりやすくしたりすればいいのかなって思ってたの。でも、実際にはそれだけじゃ足りないんだね」


 リビアはそう言って、少し考え込んだ。


「今日、先輩がおっしゃってたでしょう? 何を確かめたいのか決めてから、方法を考えるって」


「うん」


「私ね、あの言葉を聞いて、少し安心したの」


 俺は彼女へ顔を向けた。


「安心した?」


「うん。委員会でいろんな意見が出るたびに、全部ちゃんと考えなきゃって思ってたの。でも、全部を一度に決めなくてもいいんだなって」


 彼女は少し照れくさそうに笑った。


「セスには、いつも無理しないでって言ってるのにね。自分のことになると、つい頑張りたくなっちゃうみたい」


 俺は思わず笑みをこぼした。


「それなら、俺たちは似ているのかもしれないね」


「ふふっ、そうかもしれない」


 リビアは楽しそうに笑ったあと、俺の手へそっと指を伸ばした。


 廊下にはほかの生徒たちもいたため、俺たちは少しだけ手を重ね、すぐに歩き始めた。


 その短い触れ合いだけでも、彼女の嬉しさが伝わってくるようだった。


 階段へ向かう途中、リビアがふと立ち止まった。


「ねえ、セス。少しだけ、あっちの窓から外を見てもいい?」


「もちろん。どうしたの?」


「雨が弱くなったから、朝とは違う景色が見られるかなって思って」


 彼女が示したのは、廊下の突き当たりにある大きな窓だった。


 そこは通路の中央から少し外れており、立ち止まってもほかの生徒の邪魔になりにくい。


 俺たちは窓辺へ歩み寄った。


 硝子の向こうには学院の中庭が広がり、濡れた石畳が淡い光を反射している。雨に洗われた木々の葉は普段より鮮やかに見え、花壇の縁には小さな水滴が並んでいた。


「綺麗だね」


 リビアが小さく呟いた。


「うん。雨の日の庭も、いいものだね」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


「朝は、雨で暗くなっちゃうなって少し思ったの。でも、こうして見ると、晴れている日とは違う綺麗さがあるんだね」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 雨の日には、足元が滑りやすくなったり、移動に時間がかかったりする不便さがある。


 けれど、それだけではない。


 いつもと違う景色が見えたり、普段は気づかないことに目を向けたりするきっかけにもなる。


 今日、俺たちはそんな一日を過ごしていた。


「リビアと一緒に見られてよかったよ」


 自然にそう言うと、彼女は少し驚いたように俺を見た。


 それから、頬をほんのり赤く染めて微笑んだ。


「……私も、セスと一緒に見られて嬉しい」


 その声は、雨音に混ざってしまいそうなほど柔らかかった。


 俺たちはしばらく窓辺に並び、静かに中庭を眺めていた。


     ◇


 帰りの馬車では、リビアが今日の委員会の話をもう一度整理していた。


 彼女は手帳を開き、マリエッタ先輩から聞いたことや、自分が考えたことを確認している。


 俺はその隣で、図書室から借りている本を鞄へしまい直した。


「セス、ちょっと聞いてもいい?」


「うん。どうしたの?」


「今日の話し合いでね、案内表示を作るときには、見る人が何を知っているかも大切だって分かったでしょう?」


「うん。初めて来る人と、普段から通っている人では、必要な情報が違うかもしれないね」


「そうなの。それで、私、少し考えたんだけど……」


 リビアは言葉を選ぶように手帳へ目を落とした。


「人によって見えているものが違うなら、同じ場所にいても、気づくことが違うんだよね」


「そうだと思うよ。今日の昼休みも、ガレスは人の流れを見ていたし、エミリアは床の状態を気にしていたから」


「うん。私も、みんなの話を聞いて初めて気づいたことがあったの」


 リビアはそう言って、少し微笑んだ。


「だからね、セスが見ている景色も、もっと知りたいなって思ったの」


 俺は彼女へ顔を向けた。


「俺が見ている景色?」


「うん。セスは、私が気づかないところに気づくことがあるでしょう? 人の動きとか、困っている人の様子とか。それに、昔から屋敷の仕事をしてきたから、私とは違う見方をすることもあると思うの」


 彼女は少し照れくさそうに笑った。


「もちろん、全部同じように見えるようになりたいってことじゃないよ。ただ、セスが何を見て、何を考えているのか、もっと知りたいなって」


 その言葉を聞き、俺はしばらく考え込んだ。


 リビアは俺のことを、昔からよく知っている。


 幼い頃から一緒に過ごし、俺がどんなことを得意としているのか、どんなときに無理をしようとするのかも、誰よりよく理解してくれている。


 それでも、彼女はもっと知りたいと言ってくれる。


 俺の知らない俺自身の一面まで、見つけようとしてくれている。


(俺は、リビアのことをどれだけ知っているんだろう。長い時間を一緒に過ごしてきたけど、まだ知らないこともたくさんあるんだろうな)


 俺は彼女の手帳へ目を向けた。


 そこには、今日の委員会で話し合った内容が丁寧に書き込まれている。


 文字の並び方や、項目ごとの区切り方からも、彼女が真剣に考えていることが伝わってきた。


「俺も、リビアが見ている景色をもっと知りたいよ」


 そう答えると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。


「本当?」


「うん。今日だって、俺は雨の日の学院を少し不便だなって思っていたけど、リビアは新しい発見があるかもしれないって楽しみにしていただろ?」


 リビアは小さく頷いた。


「うん」


「そのおかげで、俺もいつもと違うところに目を向けられたんだ。だから、これからもリビアが何を見て、何を感じているのか、教えてほしい」


 俺がそう言うと、リビアはしばらく何も言わなかった。


 けれど、その表情は少しずつ柔らかくなり、やがて嬉しそうな笑みが広がった。


「……うん。いっぱい教えるね」


 彼女は手帳を閉じ、俺の肩へそっと寄りかかった。


 俺も彼女の手を握り返す。


 馬車の外では、雨がほとんど止みかけていた。


 雲の切れ間から淡い夕方の光が差し込み、濡れた街路を柔らかく照らしている。


 俺たちはしばらく言葉を交わさず、その景色を眺めていた。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関で迎えてくれた。


 雨はすでに弱まっていたものの、庭園の石畳にはまだ水が残っている。


 俺たちは外套を預け、帰宅の挨拶を済ませた。


「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」


「ただいま、父さん」


「ただいま戻りました、グレイヴ」


 父さんは俺たちの様子を確認し、穏やかに頷いた。


「今日は雨で移動が大変だっただろう。学院では問題なかったか?」


「うん。玄関が少し混んでいたけど、職員の人たちが床を確認してくれていたから、特に困ることはなかったよ」


 俺が答えると、父さんは頷いた。


「そうか。雨の日は普段と違うことが起こりやすい。無事に戻れたなら何よりだ」


 リビアは少し楽しそうに微笑んだ。


「今日は、雨のおかげで新しい発見もあったんです」


「ほう。それは興味深いですね」


 父さんがそう答えると、リビアは委員会の話を簡単に説明した。


 雨の日には人の動きが変わること。


 案内表示の位置や内容を考えるとき、利用する人が何を知っているかも重要になること。


 そして、正式な試験を行う前に、何を確かめたいのか整理する必要があること。


 父さんは最後まで話を聞き、静かに頷いた。


「なるほど。よい学びを得られたようですね」


「はい。まだ分からないことも多いんですけど、少しずつ考えていきたいと思っています」


「それがよろしいでしょう。答えを急ぐより、必要なことを確かめながら進める方が、結果としてよい仕事につながる場合もあります」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


 俺も父さんの言葉を聞きながら、今日の出来事を振り返っていた。


 朝の玄関。


 昼休みの会話。


 委員会での意見交換。


 どれも、すぐに何かが決まったわけではない。


 けれど、少しずつ考えが深まっていることは確かだった。


     ◇


 夕食までには少し時間があったため、俺とリビアは庭園へ出ることにした。


 雨上がりの空気はひんやりとしており、濡れた草木からは、普段より強い緑の香りが漂っている。石畳にはところどころ水が残っていたため、俺たちは滑りにくい小道を選び、ゆっくりと歩いた。


 リビアは花壇の前で足を止め、雨粒をまとった花へ目を向けた。


「見て、セス。花びらに水滴が残ってる」


「本当だ。光が当たると、少し硝子みたいに見えるね」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「うん。朝は雨で暗かったのに、今はこんなに綺麗なんだね」


 俺たちは花壇を眺めながら、しばらく穏やかな時間を過ごした。


 遠くでは庭師たちが雨で落ちた小枝を片づけており、濡れた葉を揺らす風の音が静かに聞こえている。


 リビアは俺の隣へ少し近づき、そっと手を握った。


「ねえ、セス。今日、一緒に委員会へ来てくれて嬉しかった」


「俺も、リビアの活動を近くで見られてよかったよ」


「ふふっ。私ね、委員会ではまだ分からないことがたくさんあるんだけど、みんなと一緒に考えるのが楽しいの」


 彼女はそう言って、少し照れくさそうに笑った。


「セスと一緒に考えるのも、もちろん大好き。でも、先輩やほかの委員の人たちと話すと、自分では思いつかなかったことが出てくるでしょう?」


「うん。今日も、マリエッタ先輩の話を聞いて、俺は気づかなかったことがたくさんあったよ」


 俺が答えると、リビアは頷いた。


「そういう時間を、これからも大切にしたいなって思ったの」


 俺は彼女の横顔を見つめた。


 以前の俺なら、リビアが何かに取り組むとき、できるだけ近くで支えようとしていた。


 彼女が困らないように、必要なことを先回りして準備しようとしていた。


 けれど、最近は少し違う。


 リビアが自分で考え、仲間と話し合い、新しい経験を重ねていく姿を見ることが嬉しい。


 俺がすべてを手伝わなくても、彼女は自分の力で進んでいける。


 そして、必要なときには俺へ声をかけてくれる。


 その関係が、今の俺にはとても心地よかった。


「俺も、リビアが楽しそうにしているのを見るのが好きだよ」


 そう言うと、彼女は少し驚いたように俺を見た。


「……セスって、最近そういうことを自然に言うようになったよね」


「そうかな?」


「うん。前は、私が好きって言うと、照れてなかなか返してくれなかったのに」


 リビアは楽しそうに笑った。


 俺は少し頬が熱くなるのを感じた。


「今でも照れてるよ。でも、ちゃんと伝えたいと思うようになったんだ」


 彼女は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに微笑んだ。


「……そっか」


 リビアは俺の手を少し強く握った。


「じゃあ、私ももっと伝えるね」


「うん」


 俺たちは顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 雨上がりの庭園には、柔らかな夕方の光が差し込んでいる。


 同じ場所を歩いていても、見ているものは少しずつ違うのかもしれない。


 それでも、隣にいる人が何を見ているのか知ろうとすることはできる。


 そして、その違いを楽しみながら、一緒に歩いていくこともできる。


 俺はリビアの手を握り返し、彼女と並んで小道を進んだ。


 明日もきっと、知らなかったことに出会うだろう。


 分からないことも、すぐには答えが出ないこともあるはずだ。


 けれど、今はそれが楽しみだった。


 リビアと一緒に、新しい景色を見つけていけるのだから。

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