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第98話 公爵令嬢様と、誰かのために考える一日


 朝のパウリー公爵邸では、いつもと変わらない時間が流れていた。


 窓から差し込む柔らかな日差しが廊下の絨毯を照らし、遠くからは食堂の準備を進める使用人たちの声が聞こえてくる。俺は自室で制服の襟元を整えながら、机の上に置いていた一冊の本へ目を向けた。


 昨夜、書庫から借りてきた古い製本技術についての解説書だ。


 昨日は学院の図書室で蔵書整理を手伝い、古い本の扱い方や分類の仕組みについて教えてもらった。その経験が思いのほか面白く、屋敷へ戻ってからも本の管理について少し調べたくなったのだ。


 もっとも、昨夜は夕食後に父さんから翌日の予定を確認され、そのあとは早めに休むよう勧められたため、まだ最初の数ページしか読めていない。


(読み始めると、つい続きが気になってしまうんだよな。でも、昨日は無理をしないで正解だったと思う)


 以前の俺なら、気になることがあれば睡眠時間を削ってでも調べようとしていたかもしれない。


 けれど最近は、明日できることを無理に今日終わらせなくてもよいのだと、少しずつ考えられるようになってきた。


 俺は本を机の端へ置き直し、鞄を手に取った。


 部屋を出ると、ちょうど廊下の向こうから父さんが歩いてくるところだった。


「おはよう、セス。支度は終わったか」


「おはよう、父さん。うん、もう大丈夫だよ」


 父さんは俺の制服を一度確認すると、満足そうに頷いた。


「今日は学院で何か予定があるのか?」


「特別な予定はまだないけど、昨日の図書室の整理で気になったことがあるから、時間があれば担当の人に聞いてみたいと思ってる。それから、リビアの案内表示の委員会も、そろそろ次の確認があるみたいなんだ」


「そうか。学院での活動が増えるのはよいことだが、何でも引き受けすぎないようにな」


 父さんの声には、いつもの落ち着いた響きがあった。


 俺は苦笑しながら頷く。


「分かってる。昨日も、決められた時間で作業を終わらせたよ」


「それならよい。お前は仕事を始めると、区切りをつけることを忘れがちだったからな」


 そう言われると、反論できなかった。


 父さんは少しだけ表情を和らげ、俺の肩へ軽く手を置いた。


「新しいことを学ぶのは大切だ。だが、学んだことを自分の中で整理する時間も必要になる。急いですべてを覚えようとしなくていい」


「うん。ありがとう、父さん」


 俺が答えると、父さんは頷いて仕事へ戻っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、俺は昨夜の本について考えた。


 今日は帰宅したら、続きを少し読んでみよう。


 そんな小さな楽しみがあるだけで、朝の気分がいつもより軽く感じられた。


     ◇


 食堂へ入ると、リビアはすでに席についていた。


 俺の姿を見つけると、彼女は嬉しそうに微笑んで手を振った。


「セス、おはよう!」


「おはよう、リビア。今日は早いね」


「ふふっ、昨日も同じことを言ってたよ?」


 楽しそうに笑われ、俺は思わず頬を掻いた。


「確かにそうだったね。最近、リビアの支度が早いから、つい驚いちゃうんだ」


「セスと一緒に朝を過ごす時間を、少しでも長くしたいんだもの」


 リビアはそう言って、隣の席を示した。


 俺が腰を下ろすと、彼女は少し身を寄せてきた。


「ねえ、セス。今日、学院で少し相談したいことがあるの」


「もちろん。どんなこと?」


「案内表示の委員会についてなんだけど、昨日、マリエッタ先輩から連絡があったの。前に試した表示案を、今度は別の場所でも確認してみたいんですって」


 俺は以前、学院の廊下で行われた試験を思い出した。


 あのときは、離れた位置から表示を読めるかどうかを確認したところ、文字や番号の大きさに問題が見つかった。番号を大きくすると全体の配置が崩れてしまうため、委員会では引き続き案を検討していたはずだ。


「そうなんだ。前の試験では、遠くから見たときに番号が読みづらかったんだよね」


「うん。それで、今回は表示の大きさだけじゃなくて、実際に利用する人がどうやって目的の場所を探すのかも確認したいみたいなの」


 リビアは少し真剣な表情になった。


「ただ、どこで試すのがいいか、まだ相談しているところなんだって。だから、私も何か考えてみようと思って」


「なるほど。実際に使う人の動きまで確認するなら、場所によって違いがありそうだね」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


「そうなの。セスは、何か思いつく?」


 すぐに答えようとして、俺は少し考え直した。


 学院の廊下や階段は、時間帯によって人の流れが大きく変わる。


 教室の位置を知っている生徒なら、案内表示を見なくても目的地へ向かえるだろう。反対に、初めて訪れる人や、普段利用しない場所へ行く生徒にとっては、表示の分かりやすさが重要になる。


「そうだね……案内を必要としている人が、実際にどこで立ち止まるのかを見られたら、参考になるかもしれない」


「立ち止まる場所?」


「うん。例えば、廊下の分かれ道で迷う人が多いなら、分かれ道へ入る前に表示があった方がいいかもしれない。でも、どこで迷うかを知らないまま表示を増やしても、あまり役に立たない可能性があると思う」


 リビアは俺の話を聞きながら、ゆっくり頷いた。


「そっか。表示を作ることだけじゃなくて、使う人が何に困っているかを知ることも大切なんだね」


「俺も詳しいわけじゃないけど、昨日の図書室の整理でも似たようなことを感じたよ。本が正しく並んでいても、探す人が分類を理解できなければ、目的の本を見つけるのは難しいだろうから」


 俺がそう説明すると、リビアは少し考え込んだ。


 そして、何かを思いついたように顔を上げる。


「それなら、図書室の方にお話を聞いてみるのもいいかもしれないね」


「図書室?」


「うん。あそこには、普段から本を探している人がたくさんいるでしょう? 案内表示とは少し違うけど、どうすれば目的のものを見つけやすいか、参考になることがあるかもしれないの」


 その発想に、俺は感心した。


 昨日の経験を、別の活動へつなげようとしている。


 リビアは昔から学問に優れているが、こうして一つの出来事から新しい考えを広げていくところも、彼女の魅力なのだと思う。


「いい考えだと思うよ。ただ、委員会の活動だから、まずはマリエッタ先輩に相談してみた方がいいかもしれないね」


「うん。今日、時間が合えば聞いてみるつもり」


 リビアは満足そうに微笑み、朝食へ手を伸ばした。


 俺も食事を始めながら、彼女の横顔を見つめた。


 昨日、リビアは俺の知らない一面をもっと見つけたいと言ってくれた。


 けれど、俺の方こそ、彼女の新しい一面を毎日のように見つけている気がする。


 それが何だか嬉しかった。


     ◇


 学院へ到着した頃には、廊下に多くの生徒が行き交っていた。


 朝の授業が始まるまでにはまだ少し時間があり、教室へ向かう生徒や友人と話している生徒の声が響いている。


 俺とリビアが教室へ入ると、サザリーが窓際の席で資料を読んでいた。


「おはよう、クルセス。オリビア様もおはようございます」


「おはよう、サザリー。今日は早いね」


「少し確認したいことがあってね。昨日の図書室の整理について、ガレスから話を聞いたんだ」


 サザリーはそう言って、手元の資料を閉じた。


「思っていたより興味深い作業だったみたいだね。書名だけでなく、版の違いや本の状態まで確認する必要があるとは知らなかったよ」


「うん。俺も実際にやってみて、初めて分かったことが多かったよ」


 俺が答えると、サザリーは頷いた。


「記録の照合という点では、授業で学んでいることとも関係があるね。今度、僕も参加してみようと思っているんだ」


「それなら、担当の人に参加できる時間を聞いてみるといいと思う。昨日も、無理のない範囲で協力してほしいって言ってたから」


「ありがとう。そうしてみるよ」


 そのとき、教室の入口からガレスが入ってきた。


「おはよう! お、もう図書室の話してるのか?」


 彼は俺たちの顔を見ると、楽しそうに笑った。


「昨日、サザリーに話したら、結構興味持ってたんだよな。俺としては、ああいう細かい作業をあいつがどうやるのか、ちょっと見てみたいんだけど」


「ガレスが思っているほど、僕も完璧にできるわけじゃないよ」


 サザリーは苦笑しながら答えた。


「記録を読むことと、実際に書棚を確認することは違うだろうしね。昨日の君たちの話を聞いて、そこが面白そうだと思ったんだ」


 ガレスは少し意外そうな顔をした。


「へえ。サザリーでも、そういうふうに思うんだな」


「当然だよ。知らないことはたくさんあるし、実際に経験してみないと分からないこともあるからね」


 俺は二人の会話を聞きながら微笑んだ。


 以前なら、サザリーは記録を扱うことが得意で、ガレスは体を動かすことが得意だと、それぞれの特徴だけで考えていたかもしれない。


 けれど最近は、得意なことの違いだけでなく、苦手なことへどう向き合うかにも、その人らしさが表れるのだと感じるようになった。


 ガレスは昨日、最初こそ分類番号に戸惑っていたものの、途中から自分なりに規則を見つけて楽しんでいた。


 サザリーも、記録の扱いに詳しいからこそ、実際の作業との違いを知りたがっている。


 そんな仲間たちと一緒に学べることが、俺には嬉しかった。


     ◇


 午前の授業が終わる頃、リビアのもとへ委員会から連絡が届いた。


 マリエッタ先輩が、昼休みの後半に短い打ち合わせを行うらしい。


 リビアは連絡を確認すると、少し考え込んだあと、俺へ顔を向けた。


「セス、今日のお昼なんだけど、途中で委員会の打ち合わせに行ってもいい?」


「もちろん。俺のことは気にしなくていいよ」


 俺が答えると、彼女は少し安心したように微笑んだ。


「ありがとう。たぶん長くはかからないと思うけど、終わったらまた声をかけるね」


「うん。頑張ってきて」


 そう言うと、リビアは嬉しそうに頷いた。


 俺たちは食堂へ向かい、昼食を取ることにした。


 いつもの席には、すでにガレスとサザリーが座っていた。


 少し遅れてエミリアもやってきて、昨日の図書室の話を聞きたがったため、俺たちは作業の内容を説明した。


 エミリアは特に、傷んだ本を見つけたときの対応に興味を示していた。


「古い本って、やっぱり扱いが難しいんですね。私、普段は何気なく読んでいましたけど、保存するためにはいろいろ気をつけないといけないんだなって思いました」


「うん。昨日は、無理に開いたり、自分で修理したりしないようにって説明されたよ」


 俺が答えると、彼女は真剣な表情で頷いた。


「そういうところは、応急処置の考え方とも少し似ているかもしれませんね。自分にできることを見極めて、必要なら詳しい人へ任せるという意味では」


「確かに、そういう共通点はあるね」


 サザリーが答えた。


 ただし、彼はすぐに言葉を続けた。


「もちろん、本の管理と人への応急処置では、危険の大きさも判断の基準も違うけれど。共通する考え方として参考にするのはよさそうだ」


「そうですね。何でも同じように考えていいわけではありませんから」


 エミリアは納得したように微笑んだ。


 そのやり取りを聞きながら、俺は共同演習で彼女が見せた落ち着いた判断を思い出した。


 エミリアは、水や風の魔術を細かく制御することが得意だ。


 けれど、彼女の長所はそれだけではない。


 誰かが困っているときに、まず状況を確かめようとする慎重さも、大切な力なのだと思う。


 昼食が終わりに近づいた頃、リビアが席を立った。


「それじゃあ、私は委員会へ行ってくるね」


「うん。気をつけて」


 俺が答えると、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。


「ふふっ、すぐ近くだよ?」


「それでも、行ってらっしゃいって言いたかったから」


 そう答えると、リビアは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「うん。行ってきます!」


 彼女が食堂を出ていくと、ガレスが俺の顔を見て、何とも言えない表情になった。


「……クルセス、お前さ」


「どうした?」


「いや、何でもない。最近、前より自然にそういうこと言うようになったなって思っただけだ」


 俺は首を傾げた。


「そういうこと?」


「まあ、気にするな。オリビア様が嬉しそうだったから、いいんじゃないか?」


 ガレスはそう言って笑った。


 サザリーも小さく微笑んでいたが、何も言わずに食後の飲み物へ手を伸ばした。


 俺は少し不思議に思いながらも、リビアが嬉しそうだったならよかったと考えることにした。


     ◇


 昼休みの後半、俺は図書室へ向かっていた。


 昨日の作業で気になったことがあり、担当者へ少し質問してみようと思ったのだ。


 もちろん、相手の仕事を邪魔するつもりはない。


 受付が忙しそうなら、また別の機会にすればいい。


 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、前方で一人の生徒が立ち止まっているのが見えた。


 見覚えのない下級生らしい少年で、手には何枚かの書類を抱えている。


 彼は廊下の左右を交互に見つめ、壁に掛けられた案内板へ目を向けたあと、困ったように眉を寄せていた。


 俺は少し足を緩めた。


(何か探しているのかな。急いでいる様子ではないけど、少し困っているみたいだ)


 声をかけるべきか迷ったが、少年がもう一度案内板を見上げてため息をついたため、俺は近づくことにした。


「こんにちは。何か探しているの?」


 少年は驚いたように振り返った。


「あっ、すみません。えっと、資料閲覧室へ行きたいんですけど、場所がよく分からなくて……」


「資料閲覧室?」


 俺は少し考えた。


 学院の図書室には、一般の書架とは別に、申請した資料を閲覧するための部屋がある。


 ただ、俺自身はまだ利用したことがなく、正確な入口の位置までは把握していなかった。


「ごめん。俺も場所を正確には覚えていないんだ。図書室の受付で聞けば、案内してもらえると思うけど、一緒に行く?」


 少年は少し安心したように頷いた。


「いいんですか? ありがとうございます。僕、初めて行くので、どこから入ればいいのか分からなくて」


「大丈夫だよ。俺もちょうど図書室へ行くところだったから」


 俺たちは並んで歩き始めた。


 少年は書類を抱え直しながら、少し恥ずかしそうに笑った。


「案内板を見れば分かると思ったんですけど、資料閲覧室って書いてある場所が見つからなかったんです」


「そうなんだ。あの案内板には、図書室の場所は書いてあったよね」


「はい。でも、資料閲覧室が図書室の中にあるのか、それとも別の部屋なのか分からなくて……」


 その言葉に、俺は思わず足を緩めた。


 案内板には、図書室の位置は記されている。


 けれど、そこを初めて利用する人にとっては、図書室の中にどんな施設があるのかまでは分からない。


 俺は朝、リビアと話した内容を思い出した。


 案内表示を作るときには、利用する人がどこで困るのかを知ることが大切なのではないか。


 まさに今、目の前でそれを感じている。


「教えてくれてありがとう。俺も、今まで気づかなかったよ」


 俺が言うと、少年は少し驚いたように顔を上げた。


「えっ? 僕、何か変なこと言いましたか?」


「ううん。初めて来る人には分かりにくいところがあるんだなって思っただけだよ」


 少年は少し安心したように笑った。


 やがて図書室へ到着すると、俺たちは受付の担当者へ声をかけた。


 担当者は少年の持っている書類を確認し、資料閲覧室の利用方法を丁寧に説明してくれた。


 どうやら、資料閲覧室へ入るには、まず受付で利用手続きをする必要があるらしい。


「初めて利用される方には、こちらでご案内しています。入口は奥の廊下にありますが、申請の確認が必要ですので、先に受付へお越しください」


 担当者がそう説明すると、少年は何度も頷いた。


「ありがとうございます。先に受付へ来ればよかったんですね」


「いえ、案内が少し分かりにくかったかもしれませんね。ご不便をおかけしました」


 担当者は穏やかに答え、必要な手続きを進めてくれた。


 俺はその様子を見守りながら、案内表示について考えていた。


 もし廊下の案内板に資料閲覧室の名前が追加されていたとしても、受付で手続きが必要だと知らなければ、直接部屋へ向かってしまう人がいるかもしれない。


 単に場所を示すだけでは、十分でない場合もあるのだ。


 少年は手続きを終えると、俺へ向き直った。


「本当にありがとうございました。声をかけてもらえなかったら、もう少し迷っていたと思います」


「役に立てたならよかったよ。資料、無事に見られるといいね」


「はい!」


 少年は明るく返事をし、担当者の案内で奥へ向かっていった。


 俺はその後ろ姿を見送り、受付の女性へ改めて挨拶した。


「すみません。少し質問してもいいでしょうか?」


「はい。何でしょう?」


「昨日、蔵書整理を手伝ったときに、分類札や案内の仕組みが気になったんです。図書室では、利用する人が迷わないように、どんな工夫をしているんでしょうか?」


 担当者は少し考えてから、穏やかに答えてくれた。


「そうですね。まず、書棚の分類を分かりやすくすること。それから、受付で必要な案内をすることも大切です。ただ、利用される方によって、探し方が違うんですよ」


「探し方、ですか?」


「ええ。書名を知っている方もいれば、分野だけを決めて探す方もいます。初めて来られる方は、そもそもどこへ行けばよいのか分からないこともありますから」


 俺は頷いた。


 先ほどの少年も、まさにそうだった。


 資料閲覧室という名前は知っていたが、利用方法までは分かっていなかった。


「そういうときは、案内板だけでは足りないこともあるんですね」


「そうですね。案内板は便利ですが、すべての情報を一度に書くと、かえって読みにくくなってしまいます。ですから、どこまで表示して、どこから先は職員が説明するのか、その分け方も大切なんです」


 その説明に、俺は感心した。


 案内表示を増やせば増やすほど、分かりやすくなるとは限らない。


 必要な情報を、必要な場所で伝えること。


 それが大切なのだろう。


「ありがとうございます。とても参考になりました」


 俺が礼を述べると、担当者は微笑んだ。


「こちらこそ、興味を持ってくださって嬉しいです。昨日の整理も丁寧に手伝っていただきましたし、また時間が合えばよろしくお願いしますね」


「はい。ぜひ」


 俺はもう一度頭を下げ、図書室をあとにした。


     ◇


 午後の授業が始まる少し前、リビアが教室へ戻ってきた。


 彼女は俺の姿を見つけると、嬉しそうに近づいてきた。


「セス、ただいま!」


「おかえり、リビア。委員会の打ち合わせはどうだった?」


「うん。いろいろ話し合えたよ。まだ正式に決まったわけじゃないけど、次の確認では、実際に案内を利用する人の動きも見てみようって意見が出たの」


 リビアはそう言って、手元のメモを見せてくれた。


 そこには、表示の見やすさだけでなく、立ち止まる場所や進行方向、案内を見たあとに迷わず移動できるかどうかなど、いくつかの確認項目が書かれている。


「朝、セスと話したことも、参考にしてみたんだ」


「そうなんだ。役に立ったなら嬉しいよ」


 俺が答えると、彼女は微笑んだ。


「それでね、マリエッタ先輩が、図書室の案内方法についても興味を持ってくださったの。委員会として確認できるか、担当の方に相談してみることになったんだよ」


 俺は少し驚いた。


「実は、さっき俺も図書室で似たような話を聞いてきたんだ」


「えっ、本当?」


 リビアは目を丸くした。


 俺は昼休みに出会った少年のことを説明した。


 資料閲覧室の場所が分からず、案内板の前で困っていたこと。


 図書室の受付で、利用手続きが必要だと分かったこと。


 そして、担当者から、案内板だけですべてを説明しようとすると、かえって読みにくくなる場合があると教えてもらったこと。


 リビアは俺の話を最後まで聞き、真剣な表情で頷いた。


「なるほど……それって、すごく大切なことかもしれないね」


「うん。俺も、今日初めて気づいたよ」


 彼女は少し考え込んだあと、俺を見た。


「セス、その話、委員会でも紹介していいかな? もちろん、個人の名前とかは出さずに、案内で困った人がいたっていう事例として」


「うん。それなら大丈夫だと思う。ただ、俺が見たのは一人の例だから、ほかの人も同じところで迷うかどうかは分からないよ」


「そうだね。だからこそ、次の確認で調べてみる価値があるのかもしれない」


 リビアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、セス。今日の話、すごく参考になったよ」


 俺は少し照れくさくなりながら頷いた。


 自分が何気なく経験したことが、リビアの活動へつながる。


 それは、思っていた以上に嬉しいことだった。


     ◇


 放課後、リビアはマリエッタ先輩へ昼休みの話を伝えるため、少しだけ委員会の部屋へ寄ることになった。


 俺はその間、教室で授業の復習を進めることにした。


 窓の外では、運動場で訓練を続けている生徒たちの姿が見える。


 剣を打ち合わせる音が遠くから響き、時折、指導する教師の声が聞こえてきた。


 俺はノートを開き、今日の授業で学んだ内容を整理していった。


 しばらくすると、教室の入口から声がした。


「クルセス、まだ残ってたのか?」


 顔を上げると、ガレスが立っていた。


「うん。リビアが委員会へ行ってるから、少し待ってるんだ。ガレスはこれから訓練?」


「そう。今日は剣の基本動作を確認してくるつもりなんだ」


 ガレスはそう言いながら、俺の机へ近づいてきた。


「なあ、昨日の図書室のことなんだけどさ」


「うん?」


「俺、帰ってからちょっと考えたんだよ。ああいう作業って、最初は面倒そうに見えるけど、やってみると意外と面白いんだなって」


 彼は少し照れくさそうに笑った。


「だから、今度はサザリーと一緒に参加してみようかなって思ってる。あいつなら、俺が見落とすところにも気づきそうだし」


「いいと思うよ。サザリーも興味があるって言ってたし」


 俺が答えると、ガレスは満足そうに頷いた。


「だよな。それに、昨日はお前とオリビア様に助けてもらったところも多かったから、今度は俺ももう少し自分でできるようになりたいんだ」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 ガレスは普段から、自分の得意なことにまっすぐ向き合う人だ。


 けれど、苦手なことについても、こうして前向きに考えられるのは彼らしいと思った。


「ガレスなら大丈夫だと思うよ。昨日も、俺たちが気づかなかった本の傾きを見つけてくれただろ?」


「そうだったな。あれ、結構嬉しかったんだよ」


 彼はそう言って笑った。


 俺も自然に笑みがこぼれた。


 共同演習では、荷物を運ぶときの安全確認や、道の状態を確かめる場面で、ガレスの力が大きな助けになった。


 昨日の図書室でも、彼は自分なりの視点で問題を見つけていた。


 得意なことが違っても、一緒に何かをすると新しい発見がある。


 そんな経験を、これからも仲間たちと重ねていけたら嬉しい。


「それじゃあ、俺は行ってくる。また明日な!」


「うん。訓練、頑張って」


 ガレスは手を振り、教室を出ていった。


 俺はその後ろ姿を見送ってから、再びノートへ目を落とした。


     ◇


 それからしばらくして、リビアが教室へ戻ってきた。


「セス、お待たせ!」


 彼女は少し急いだ様子で入口から入ってきたが、俺の姿を見つけると安心したように微笑んだ。


「ごめんね。思っていたより少し長くなっちゃった」


「大丈夫だよ。俺も復習が進んだから、ちょうどよかった」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「よかった。マリエッタ先輩に昼休みの話を伝えたら、すごく興味を持ってくださったの」


「そうなんだ」


「うん。でも、すぐに案内表示を変えるんじゃなくて、まずは担当の方に相談して、実際にどんな困りごとがあるのか確認しようってことになったよ」


 その言葉に、俺は頷いた。


 昨日の図書室でも、分からないことを勝手に判断せず、担当者へ確認することが大切だった。


 案内表示についても、同じなのだろう。


「いい進め方だと思うよ。実際に使っている人の意見も聞けたら、もっと分かりやすくなるかもしれないね」


「うん。私もそう思う」


 リビアは少し考え込んだあと、俺へ顔を向けた。


「ねえ、セス。今日のこと、私、すごく嬉しかったの」


「今日のこと?」


「うん。朝、一緒に考えたことが、昼休みにセスの経験とつながって、放課後には委員会の話し合いにも役立ったでしょう?」


 彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。


「セスと一緒に考えたことが、少しずつ形になっていくみたいで、楽しかったんだ」


 俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。


 俺も、同じように感じていた。


 何かを一人で考えるのも楽しい。


 けれど、誰かと話し合うことで、自分だけでは気づかなかったことが見えてくる。


 そして、その考えが別の場所で役立つこともある。


「俺も楽しかったよ。リビアが朝、図書室の案内方法を参考にできるかもしれないって言ってくれたから、昼休みに担当の人へ聞いてみようと思えたんだ」


「そうだったの?」


「うん。だから、今日の発見はリビアのおかげでもあるよ」


 リビアは少し驚いたように目を丸くした。


 それから、頬をほんのり赤く染めて微笑んだ。


「……そう言ってもらえると、すごく嬉しい」


 俺は彼女の手をそっと握った。


「これからも、一緒にいろんなことを考えていこうね」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。約束だよ、セス」


     ◇


 帰りの馬車では、リビアが委員会での話し合いについて、もう少し詳しく教えてくれた。


 今回の案内表示は、まだ試験段階にある。


 前に行った確認では、遠くから見たときに番号が小さく、読み取りにくいという問題が見つかっていた。


 そのため、文字の大きさや配置を調整した案を検討しているものの、実際に利用する人の動きを確認しなければ、どの案が適切なのか判断しにくいらしい。


「マリエッタ先輩がね、表示を見やすくすることと、必要な場所へちゃんと案内できることは、同じようで少し違うんじゃないかっておっしゃってたの」


 リビアはそう説明した。


「例えば、文字が大きくても、表示がある場所に気づいてもらえなければ意味がないし、逆に表示が見つけやすくても、書いてある内容が分かりにくかったら迷ってしまうでしょう?」


「確かに、そうだね」


 俺は頷いた。


 今日、資料閲覧室を探していた少年も、案内板の存在には気づいていた。


 けれど、そこに必要な情報が書かれていなかったため、どこへ行けばよいのか分からなかった。


 案内表示の役割は、単に文字を読ませることではない。


 利用する人が、次に何をすればよいのか判断できるようにすることなのだろう。


「だから、次の確認では、表示の前で立ち止まる場所とか、どこへ進もうとするかとか、そういうことも見てみたいんだって」


 リビアは楽しそうに続けた。


「でも、まだ具体的な方法は決まっていないの。委員会で相談してから、先生方にも確認することになると思う」


「うん。実際に人の動きを見るなら、授業や通行の邪魔にならないようにする必要もあるだろうしね」


「そうなの。だから、急いで決めるんじゃなくて、ちゃんと準備したいなって思ってる」


 その言葉に、俺は微笑んだ。


 リビアは何かに興味を持つと、とても熱心に取り組む。


 けれど、ただ早く結果を出そうとするのではなく、周囲への影響まで考えながら進めようとしているところが、彼女らしいと思った。


「リビアなら、きっといい案を考えられると思うよ」


 俺が言うと、彼女は少し照れくさそうに笑った。


「ありがとう。でも、私一人で考えるわけじゃないからね。委員会のみんなで、ちゃんと話し合いたいの」


「うん。それが一番いいと思う」


 俺たちは顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


 馬車の窓からは、夕方の街並みが見えている。


 通りを歩く人々の姿や、店先で片づけを始める商人たちの様子を眺めていると、今日の出来事が少しずつ頭の中で整理されていった。


 案内表示のこと。


 図書室で出会った少年のこと。


 そして、リビアと一緒に考えたこと。


 どれも大きな事件ではない。


 けれど、こうした小さな経験が積み重なることで、少しずつ自分の考え方が広がっていくのだろう。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関で迎えてくれた。


 俺たちは帰宅の挨拶を済ませ、学院での出来事を簡単に報告した。


 父さんは案内表示の話を聞くと、少し興味深そうに頷いた。


「なるほど。利用する者の立場から考えるというのは、よい着眼点だな」


「うん。今日、図書室で困っている生徒に会って、俺も改めてそう思ったんだ」


 俺が答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。


「屋敷の仕事でも同じことが言える。こちらが分かりやすいと思っている説明が、相手にとっても分かりやすいとは限らないからな」


「そうだね。俺も、仕事を教えてもらうときに、最初は分からなかったことがたくさんあったよ」


 父さんは少し懐かしそうに目を細めた。


「そうだったな。お前は覚えるのが早かったが、だからこそ、分からないことを自分で解決しようとしすぎるところがあった」


 俺は苦笑した。


「今でも、そういうところはあると思う」


「だが、最近は以前より、周囲へ相談することが増えたように見える。それはよい変化だ」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 父さんは俺のことを、昔からよく見てくれている。


 けれど、自分ではまだ十分に変われていないと思うことも多い。


 だからこそ、父さんからそう言ってもらえるのは嬉しかった。


「ありがとう、父さん。これからも、気をつけていくよ」


 俺が答えると、父さんは頷いた。


「無理に変わろうとする必要はない。必要なときに、自分で気づいて選べるようになればよい」


 その言葉を胸に留めながら、俺はリビアと一緒に屋敷の奥へ向かった。


     ◇


 夕食までの時間、俺たちは庭園を少し散歩することにした。


 空はゆっくりと夕暮れの色へ変わり始めており、木々の間を通り抜ける風には、昼間より少しだけ涼しさが混ざっている。


 庭園の小道を並んで歩きながら、リビアは今日の出来事を楽しそうに振り返っていた。


「ねえ、セス。今日、図書室で困っていた生徒さんに声をかけたでしょう?」


「うん」


「私、そういうところもセスらしいなって思ったの」


 俺は少し不思議に思い、彼女へ顔を向けた。


「そうかな?」


「うん。セスって、困っている人を見ると、自然に声をかけるでしょう? でも、今日の話を聞いていたら、ちゃんと自分が分からないことも伝えて、一緒に確認しに行ったんだよね」


 リビアはそう言って、柔らかく微笑んだ。


「昔のセスだったら、先に自分で全部調べてから案内しようとしたかもしれないなって思ったの」


 俺は少し考え込んだ。


 確かに、以前の俺なら、相手を待たせてでも自分で正確な場所を探そうとしたかもしれない。


 誰かに頼ることよりも、自分で解決することを優先していたからだ。


「そうかもしれないね。でも、今日は俺も場所を知らなかったし、受付で聞くのが一番確実だと思ったんだ」


「うん。それでいいと思う」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「私ね、セスが何でもできるところも大好きだけど、そうやって誰かと一緒に考えたり、分からないことを聞いたりするところも好きなの」


 その言葉に、俺は少し照れくさくなった。


 昨日も似たようなことを言ってくれたが、改めて聞くと、やはり胸が温かくなる。


「ありがとう、リビア。俺も、リビアと一緒に考える時間が好きだよ」


 彼女は嬉しそうに微笑み、俺の手をそっと握った。


「ふふっ。じゃあ、これからもいっぱい一緒に考えようね」


「うん」


 俺たちは手をつないだまま、庭園の小道をゆっくりと歩いた。


 やがて、リビアが少しだけ真剣な表情になった。


「でもね、セス。私、今日の委員会で一つ気づいたことがあるの」


「どんなこと?」


「誰かのために何かを考えるときって、自分がいいと思うものを作るだけじゃ足りないんだなって」


 彼女は足を緩め、庭園の向こうへ目を向けた。


「案内表示も、私たちが見やすいと思っていても、初めて学院へ来る人には分かりにくいかもしれないでしょう? だから、ちゃんと相手のことを知ろうとしないといけないんだなって思ったの」


 俺は彼女の言葉を聞きながら、静かに頷いた。


 それは、俺自身にも当てはまることだった。


 リビアを守りたいと思うあまり、彼女の気持ちを確かめる前に、自分だけで判断しようとしてしまうことがある。


 相手のためだと思っていても、相手が何を望んでいるのかを知らなければ、本当に必要なことを選べないかもしれない。


「俺も、そう思うよ」


 俺が答えると、リビアは顔を上げた。


「セスも?」


「うん。俺は昔から、リビアの役に立ちたいって思ってきたけど、最近は、それだけじゃ足りないんだなって感じることがあるんだ」


 俺は少し言葉を選びながら続けた。


「リビアが何を考えているのか、何をしたいのか、ちゃんと聞くことも大切なんだと思う。俺が勝手に決めるんじゃなくて、一緒に考えていきたい」


 リビアはしばらく俺を見つめていた。


 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……うん。私も、そうしたい」


 彼女の声は穏やかだった。


 けれど、その表情には、言葉以上の嬉しさが滲んでいるように見えた。


 俺は彼女の手を少しだけ強く握った。


「これからも、よろしくね。リビア」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「こちらこそ、セス」


 夕暮れの光が庭園を柔らかく染める中、俺たちはしばらく言葉を交わさずに歩いた。


 手の温もりが伝わってくる。


 隣にいる彼女の存在が、何より心強かった。


     ◇


 その夜、夕食を終えて自室へ戻った俺は、机の上に置いていた製本技術の本を開いた。


 昨日は途中までしか読めなかったが、今日は少し時間がある。


 古い書物の保存方法について書かれたページを読み進めていると、紙の湿気や光による傷みについての説明が目に留まった。


 図書室で見た古い本も、きっと長い時間をかけて大切に保管されてきたのだろう。


 俺はページをめくりながら、今日の出来事を思い出した。


 資料閲覧室を探していた少年。


 図書室の担当者から教えてもらった、案内の工夫。


 そして、委員会で新しい確認方法を考えているリビア。


 それぞれ別の出来事のように見えて、どこかでつながっている。


 誰かが困っていることに気づく。


 その理由を確かめる。


 そして、どうすれば少しでもよくなるのかを考える。


 そうした積み重ねが、誰かの役に立つのだろう。


(俺も、もっといろんなことを知りたいな。自分ができることを増やすためだけじゃなくて、誰かと一緒に考えられることを増やすために)


 俺は本を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 庭園には夜の静けさが広がり、遠くの灯りが淡く揺れている。


 明日も学院では、いつもどおり授業がある。


 リビアの委員会も、まだ正式な案が決まったわけではない。


 図書室の整理も、これから少しずつ続いていくのだろう。


 けれど、だからこそ楽しみだった。


 急いで答えを出す必要はない。


 分からないことがあれば、調べればいい。


 一人で考えきれなければ、誰かに相談すればいい。


 そして、隣にいる大切な人と一緒に、新しいことを見つけていけばいい。


 俺は机の上の本を丁寧に閉じ、明日の支度を整えた。


 今日もまた、少しだけ自分の世界が広がった気がする。


 そのことを嬉しく思いながら、俺は穏やかな気持ちで一日を終えた。

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