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第95話 公爵令嬢様は、俺にも甘えてほしいらしい


 翌朝、パウリー公爵邸の窓から差し込む光は、昨日よりも少し柔らかく感じられた。


 秋が近づいているのか、庭園を渡る風にはわずかな涼しさが混じっている。まだ日差しの残る時間帯には暖かいものの、早朝の空気は以前より澄んでおり、開け放たれた廊下の窓からは、庭師たちが使う道具の音や小鳥の鳴き声が静かに届いていた。


 俺は自室で制服の襟元を整えながら、今日の予定を頭の中で確認していた。


 午前中は通常授業があり、午後には魔術に関する講義が予定されている。放課後については、昨日のように委員会の活動へ協力する約束はないため、授業が終わればリビアと一緒に帰宅することになるだろう。


 もっとも、学院では思いがけない相談を受けることもある。


 何か予定が変わったときには、その都度確認すればいい。


(以前だったら、空いている時間に何をすれば役に立てるか、もっと細かく考えていた気がするな)


 そう思ったところで、俺は小さく笑った。


 役に立つことを考えるのが悪いわけではない。ただ、自分の時間をすべて誰かのために使おうとする必要もないのだと、最近は少しずつ理解できるようになってきた。


 昨日の案内表示の確認でも、俺たちは協力を頼まれた範囲で意見を伝え、その後の整理は委員会へ任せている。


 もし俺が最後まで残って資料の整理や改善案の検討まで引き受けようとしていたら、マリエッタ先輩たちの活動をかえって邪魔していたかもしれない。


 自分にできることと、自分がやるべきことは同じではない。


 交流演習で学んだその考え方が、少しずつ普段の生活にも馴染み始めていた。


 制服を整え終えた俺は、机の上に置いていた教科書を鞄へ収めた。昨日の授業で使った資料も確認し、必要なものが揃っていることを確かめてから部屋を出る。


 廊下では、ちょうど朝の仕事を終えた使用人たちが行き交っていた。


「おはようございます、セス様」


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 挨拶を交わしながら階段へ向かうと、途中で父さんと顔を合わせた。


 父さんはいつものように隙のない身なりをしており、手元には屋敷の予定が記された書類を持っている。


「おはよう、セス。支度は済んだようだな」


「おはよう、父さん。うん、もう大丈夫だよ」


「そうか。今朝は特に追加の仕事はない。朝食まで少し時間があるから、無理に何かを探さず休んでいなさい」


 俺は思わず父さんの顔を見た。


 先回りして言われたような気がしたからだ。


「……そんなに仕事を探しそうに見えた?」


「見えたというより、これまでのお前ならそうしていただろう」


 父さんは平然と答えたあと、わずかに表情を和らげた。


「だが、最近は少し変わってきたようだな。昨日も、自分の担当を終えたところで、きちんと引き継いでいたと聞いている」


「うん。任せていい仕事まで俺が抱え込む必要はないと思ったから」


「その判断でよい。仕事を任せる側も、任される側も、互いの役割を理解していなければ屋敷は回らない。お前一人が働けば済むというものではないからな」


 父さんの言葉には、長年この屋敷を支えてきた執事長としての重みがあった。


 俺は素直に頷き、改めて礼を述べる。


「ありがとう、父さん。気をつけるよ」


「うむ。それと、セス」


「何?」


 父さんは少しだけ声を落とした。


「お嬢様との時間も大切にしなさい。お前は仕事のことになると、時々そちらを後回しにしそうになる」


 思いがけない言葉に、俺は一瞬返事に詰まった。


 確かに、以前なら仕事が残っていれば、リビアとの約束よりもそちらを優先しようとしたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 少なくとも、そうありたいと思っている。


「……うん。リビアとの時間も、ちゃんと大切にするよ」


 そう答えると、父さんは満足そうに頷いた。


「ならばよい。行ってきなさい」


 俺はもう一度礼をして、階段を下りた。


 父さんの言葉を思い返しながら歩いていると、胸の奥が少し温かくなった。


 父さんは俺に仕事を教えてくれるだけではない。


 俺自身がどう生きていくのかということまで、気にかけてくれているのだろう。


 そのことを、今は以前よりも素直に嬉しいと思えた。


     ◇


 朝食の席でリビアと顔を合わせると、彼女は俺を見つけた途端、嬉しそうに微笑んだ。


「おはよう、セス。今日はいつもより少し早いね」


「おはよう、リビア。支度が早く終わったんだ。父さんにも、朝食までゆっくりしていなさいって言われたよ」


「ふふっ。お父様みたいなことを言われたんだね」


 リビアは楽しそうに笑いながら、俺の隣へ座った。


 テーブルには焼きたてのパンや温かなスープが並び、食堂には穏やかな朝の空気が満ちている。俺たちは使用人たちの給仕を受けながら、今日の予定について話し始めた。


「昨日の委員会の活動、どうだった?」


 俺が尋ねると、リビアは少しだけ考えてから答えた。


「昨日のうちに、マリエッタ先輩が記録をまとめ始めてくださったの。まだ全部の整理は終わっていないけれど、思っていたよりいろいろな意見が集まったみたい」


「そうなんだ。俺たちも、見る場所によって感じ方が違ったからな」


「うん。だから、すぐに一つの案へ決めるんじゃなくて、もう少し確認を重ねることになりそう」


 リビアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。


「セスたちが協力してくれたおかげで、考え直した方がいいところも見つかったんだよ」


「それならよかった。俺たちの意見が少しでも役に立ったなら嬉しいよ」


 俺が答えると、彼女は満足そうに頷いた。


 しばらく食事を進めていると、リビアがふと思い出したように俺へ目を向けた。


「ところで、セス。今日は放課後に何かしたいことはある?」


 その質問に、俺は少し考えた。


 特別な予定はない。


 図書室へ行ってもいいし、早めに帰って屋敷でゆっくり過ごすのも悪くない。


 けれど、どちらがいいかと聞かれると、すぐには答えが出なかった。


「うーん……今日は特に決めてないかな。リビアは何かしたいことがある?」


 俺が尋ね返すと、彼女は少しだけ頬を膨らませた。


「もう、セスったら」


「えっ?」


「私が何をしたいか聞いてくれるのは嬉しいんだけど、今日はセスが何をしたいか聞いてるんだよ?」


 その言葉に、俺は思わず苦笑した。


 確かに、また同じことをしてしまった。


 リビアの希望を優先するのが、すっかり癖になっているらしい。


「ごめん。つい、いつもの調子で」


「謝らなくてもいいよ。でもね、セスがしたいことも聞きたいの」


 リビアは穏やかな声で続けた。


「昨日は私のお願いを聞いてもらったでしょう? だから今日は、セスのお願いを聞きたいなって思ったの」


 俺は彼女の顔を見つめた。


 リビアは冗談を言っているわけではない。


 本当に、俺が何を望んでいるのか知りたいと思ってくれているのだろう。


 それが分かるからこそ、適当に答えるのは違う気がした。


(俺がしたいこと、か……)


 少し考えてみる。


 リビアと一緒に過ごせるなら、何をしていても楽しい。


 けれど、それだけでは彼女の質問への答えにならない。


 俺は食堂の窓から見える庭園へ目を向けた。


 朝の光を受けた花壇には、まだ色鮮やかな花々が咲いている。庭師たちが丁寧に手入れしているおかげで、季節が変わり始めても美しい景色が保たれていた。


 その光景を眺めているうちに、一つ思いついたことがあった。


「……それなら、今日は屋敷に帰ってから、庭園を少し散歩したいかな」


 俺がそう答えると、リビアは目を輝かせた。


「庭園を?」


「うん。最近は学院のことばかり考えてたから、ゆっくり歩く時間があまりなかっただろ? 今日は特に急ぐ予定もないし、リビアと一緒に散歩できたら嬉しいなって」


 言い終えてから、少しだけ照れくさくなった。


 特別なことではない。


 ただ、一緒に庭園を歩きたいというだけだ。


 けれど、リビアはまるで素敵な贈り物を受け取ったかのように微笑んだ。


「うん! 私も一緒に歩きたい!」


 彼女は嬉しそうに頷き、それから少しだけ声を落とした。


「……セスからそういうお願いをしてくれるの、本当に嬉しいな」


 俺は彼女の笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分の希望を伝えるだけで、こんなにも喜んでもらえる。


 そのことが、まだ少し不思議だった。


「じゃあ、今日の放課後は、帰ってから庭園を散歩しよう」


「約束だよ?」


「うん、約束」


 リビアは満足そうに微笑み、再び朝食へ手を伸ばした。


 俺も食事を進めながら、今日の夕方が少し楽しみになっていることに気づいた。


     ◇


 学院へ到着すると、教室にはすでに何人かの生徒が集まっていた。


 窓際ではサザリーが資料を読んでおり、少し離れた席ではガレスが友人と話している。朝の教室にはまだ落ち着いた空気があり、授業が始まるまでの時間をそれぞれ自由に過ごしているようだった。


 俺たちが入ると、ガレスが手を上げた。


「おはよう、クルセス、オリビア様」


「おはよう、ガレス」


「おはようございます、ガレス君」


 挨拶を交わすと、ガレスは少しだけ笑った。


「昨日の案内表示、結構面白かったな。俺、帰ってからも廊下の表示をつい見ちゃったよ」


 その言葉に、リビアが嬉しそうに微笑んだ。


「本当? どんなところが気になったの?」


「いや、普段は気にしてなかったけど、表示って場所によって見やすさが違うんだなと思ってさ。階段の近くにあるやつなんか、正面から見るのと横から見るのとで、結構印象が違ったんだ」


 ガレスはそう言いながら、少し照れくさそうに頭をかいた。


「まあ、俺が今まで気にしてなかっただけかもしれないけど」


「そんなことないよ。私も委員会に関わるまでは、そこまで意識してなかったもの」


 リビアは穏やかに答えた。


 そのやり取りを聞いていたサザリーが、資料を閉じてこちらへ向き直る。


「おはよう。昨日のことなら、僕も少し考えていたんだ」


「おはよう、サザリー。何か気づいたことがあった?」


 俺が尋ねると、サザリーは頷いた。


「表示の見やすさを確認するとき、どこから見たかを記録しておくのは大切だと思ったんだ。同じ人でも、位置が違えば意見が変わることがあったからね」


「確かに、昨日もそうだったな」


 俺は頷いた。


 ガレスも納得したように腕を組む。


「俺なんか、場所が変わったら選ぶ案まで変わったからな」


「そういう変化も、記録しておく意味があるんだと思う」


 サザリーは穏やかに微笑んだ。


「もちろん、委員会の皆さんはすでに考えているだろうけどね」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。今日、マリエッタ先輩にお会いしたら、みんながそんなふうに考えてくれていたこともお伝えするね」


 その言葉に、ガレスは少し慌てたように手を振った。


「いやいや、そんな大したことじゃないって。俺はただ、昨日のことを思い出しただけだから」


「でも、それが嬉しいんだよ」


 リビアは柔らかく微笑んだ。


「自分たちが取り組んでいることを、ほかの人にも考えてもらえるのって、すごくありがたいから」


 ガレスは少し照れくさそうに笑い、サザリーも穏やかに頷いた。


 俺はその様子を見ながら、昨日の活動が一度きりの経験で終わっていないことを嬉しく思った。


 演習でもそうだったが、何かを経験したあと、それについて考えたり、ほかの人と話したりすることで、新しい気づきが生まれることがある。


 それは、授業の内容を覚えることとは少し違う学びなのかもしれない。


     ◇


 午前の授業が始まると、教室の空気は自然と引き締まった。


 今日の講義では、魔術を使用する際の安全確認について説明があり、特に複数人が同じ場所で術式を扱う場合の注意点が取り上げられた。


 教師は黒板へ簡単な図を描きながら、魔術を使用する者同士の位置関係や、周囲の状況を把握することの重要性を説明していく。


 俺はその内容を聞きながら、以前エレナ先生から指導を受けたことを思い出していた。


 魔力の制御に自信があっても、周囲の安全確認を省略してはいけない。


 自分の術式だけでなく、ほかの人が何をしているのかにも注意を払う必要がある。


 それは、俺が普段から意識しているつもりのことだった。


 けれど、教師の説明を聞いていると、まだ考えが足りない部分もあるように感じられた。


(俺は魔力の制御そのものには慣れているけど、周囲の人がどう感じるかまで十分に考えられているかな)


 自分にとって扱いやすい魔術でも、ほかの人にとってはそうではないかもしれない。


 それに、魔力量が大きいからといって、何でも自由に使っていいわけではない。


 学院での実技には、安全のための規則がある。


 俺はその規則を守ることも、学ぶべきことの一つなのだと改めて感じた。


 授業の途中、教師は生徒たちへ質問を投げかけた。


「では、複数人で魔術を使用する際、最も注意すべきことは何だと思いますか?」


 何人かの生徒が手を上げた。


 教師に指名された生徒は、術式同士が干渉しないよう距離を取ることが大切だと答えた。


 別の生徒は、事前に使用する魔術を共有しておくことが必要だと述べた。


 教師はそれぞれの意見を聞き、黒板へ書き加えていく。


 俺も少し考えたあと、手を上げた。


「クルセス君、どうぞ」


「はい。使用する魔術だけでなく、途中で何か問題が起きたときに、誰がどう判断するのか決めておくことも大切だと思います」


 俺が答えると、教師は興味深そうに頷いた。


「なるほど。続けてください」


「例えば、誰かが危険を感じたときに、すぐに中止を伝えられるようにしておけば、無理に続けずに済むと思います。全員が同じ状況を見ているとは限らないので、情報を共有することも必要だと思います」


 教師は俺の説明を聞き、ゆっくりと頷いた。


「よい意見ですね。魔術を安全に扱うためには、術式そのものの理解だけでなく、周囲との連携も重要です」


 その言葉に、教室の何人かが頷いた。


 俺は席へ座り直し、少しだけ息を吐いた。


 以前の俺なら、魔術を安定させるための技術的な方法ばかり考えていたかもしれない。


 けれど、交流演習を経験してからは、誰が何を判断するのかということも意識するようになった。


 自分の考え方が少しずつ変わっているのだと感じられた。


 隣ではリビアが、嬉しそうに微笑んでいた。


 俺が視線を向けると、彼女は小さく頷いてくれる。


 その仕草だけで、胸の奥が少し温かくなった。


     ◇


 昼休みになると、俺たちはいつものように食堂へ向かった。


 今日はエミリアとも顔を合わせ、交流演習のときの話を少しすることになった。


 彼女は食事を載せた盆を持って席へやってくると、穏やかに微笑んだ。


「皆さん、こんにちは。こちらに座ってもよろしいですか?」


「もちろん。どうぞ」


 リビアが答えると、エミリアは礼を述べて席へ着いた。


 ガレスは彼女の姿を見ると、少し嬉しそうに笑った。


「そういえば、エミリアは最近どうしてる? 演習が終わってから、あまり話せてなかったよな」


「はい。授業はいつもどおりですが、演習で教わったことを少しずつ復習しています」


 エミリアはそう答え、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。


「特に、物資の確認や記録については、思っていた以上に大切なことが多かったので」


「エミリアはあのとき、すごく丁寧に確認してくれてたよな」


 俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように俺を見た。


「ありがとうございます。でも、皆さんが協力してくださったから、落ち着いて確認できたんです」


「それでも、エミリアがしっかり見てくれていたから、俺たちも安心できたんだと思う」


 俺はそう答えた。


 あの演習では、保存食や飲料水、応急処置用の布包みなど、複数の物資を運ぶ必要があった。


 途中で数や封印の状態を確認し、最後まで問題なく届けられたのは、班員それぞれが役割を果たしたからだ。


 エミリアは少し照れくさそうに微笑み、手元の杯へ視線を落とした。


「……そう言っていただけると、嬉しいです」


 その様子を見ていたサザリーが、穏やかに口を開いた。


「演習が終わってからも、こうして話せるのはいいですね。普段は学級が違うと、なかなか顔を合わせる機会がありませんから」


「確かにそうだな」


 ガレスも頷いた。


「俺なんか、演習の前はエミリアとほとんど話したことなかったし」


「私もです。でも、今は皆さんとお話しできるようになって、少し嬉しいです」


 エミリアは柔らかく微笑んだ。


 リビアもその言葉に頷き、嬉しそうに口を開いた。


「私も同じです。演習では大変なこともありましたけど、みんなと一緒に過ごせてよかったと思っています」


 俺は彼女たちの会話を聞きながら、静かに微笑んだ。


 演習の目的は、決められた条件を満たして無事に終えることだった。


 けれど、そこで得られたものは、それだけではなかった。


 それまであまり話したことのなかった人と知り合い、互いの得意なことや苦手なことを知る。


 そして、演習が終わったあとも、こうして自然に会話できる関係が残っている。


 そのことが、俺には何より嬉しかった。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、窓の外の光が少しずつ傾き始めていた。


 今日の講義では、魔術を扱う際の判断について学んだが、俺はその内容を今後の実技でも意識しておこうと思っていた。


 エレナ先生の監督下で予定されている実技については、まだ実施日まで時間がある。


 そのため、今すぐ何かを試す必要はない。


 むしろ、事前に決められた手順や安全条件をきちんと理解し、当日に落ち着いて取り組めるよう準備しておくことが大切だろう。


 俺が資料を鞄へ収めていると、リビアが隣へやってきた。


「セス、今日の授業もお疲れ様」


「リビアもお疲れ様。今日は魔術の安全確認について、いろいろ考えさせられたよ」


「うん。私も、結界を使うときに気をつけたいことがあったな」


 リビアはそう言いながら、少し考え込むような表情を見せた。


 彼女は無属性魔法による結界を得意としているが、だからこそ、その扱いについても真剣に考えているのだろう。


「リビアは普段から、周囲のことをよく見てると思うよ」


 俺がそう言うと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとう。でも、まだまだ勉強しないといけないことはたくさんあるよ」


「それは俺も同じだな」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 教室の外では、生徒たちが帰宅の準備を進めている。


 廊下からは友人同士の話し声が聞こえ、遠くでは教師が何かを説明している声も響いていた。


 俺は鞄を肩へかけ、リビアへ目を向けた。


「それじゃあ、帰ろうか。今日は庭園を散歩する約束だったし」


 そう言うと、リビアの表情がぱっと明るくなった。


「うん! 楽しみにしてたんだよ」


「俺もだよ」


 俺が答えると、彼女は少しだけ嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、朝に自分から散歩を提案してよかったと思えた。


 何か特別なことをしなくても、こうして一緒に過ごす時間を楽しみにできる。


 それは、俺にとってとても大切なことだった。


     ◇


 パウリー公爵邸へ戻った頃には、空が柔らかな夕暮れの色に染まり始めていた。


 俺たちはそれぞれ帰宅の挨拶を済ませ、制服から動きやすい服へ着替えたあと、庭園へ向かった。


 庭園には、昼間の暖かさがまだ少し残っていた。


 花壇には季節の花々が咲き、整えられた小道の両側には低い生け垣が続いている。遠くでは庭師たちが仕事を終える準備をしており、夕方の穏やかな風が木々の葉を揺らしていた。


 俺が庭園の入口で待っていると、少ししてリビアがやってきた。


 彼女は淡い色合いのワンピースを着ており、銀青色の髪が夕日に照らされて柔らかく輝いている。


「セス、お待たせ」


「ううん。俺も今来たところだよ」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「それじゃあ、行こうか」


「うん」


 俺たちは並んで歩き始めた。


 庭園の小道は、普段から何度も通っている場所だ。


 子供の頃からリビアと一緒に歩いたこともあるし、屋敷の仕事で通ることもある。


 けれど、今日は少しだけ違って感じられた。


 急ぐ必要がない。


 誰かに呼ばれているわけでもない。


 ただ、リビアと一緒に歩くために、ここへ来ている。


 そのことが、俺には不思議なくらい新鮮だった。


「セス、今日はどこまで歩こうか?」


 リビアが尋ねてきた。


 俺は少し考えてから、庭園の奥へ続く小道を指差した。


「あっちの方まで行ってみない? 最近、ゆっくり歩いてなかったから」


「うん、いいよ」


 彼女は嬉しそうに頷き、俺の隣へ少し近づいた。


 俺たちは歩幅を合わせながら、ゆっくりと庭園を進んだ。


 途中、リビアが花壇の前で足を止めた。


「見て、セス。あの花、少し前より咲いてるね」


 彼女が指差した先には、小さな花がいくつも咲いていた。


 淡い色の花びらが夕方の光を受け、風に揺れている。


「本当だ。庭師の人たちが丁寧に手入れしてくれてるんだな」


「うん。季節が変わると、庭園の雰囲気も少しずつ変わるよね」


 リビアはそう言いながら、花を見つめていた。


 俺も隣に立ち、しばらくその光景を眺める。


 普段なら、花壇の状態を確認しても、仕事に関係がなければそのまま通り過ぎていたかもしれない。


 けれど、今日は急ぐ必要がない。


 リビアが見つけた小さな変化を、一緒に楽しめばいい。


「こういう時間も、いいな」


 俺が呟くと、リビアがこちらを見た。


「うん。私もそう思う」


 彼女は少しだけ照れくさそうに微笑んだ。


「でもね、セス。私、今日の散歩がいつもより嬉しい理由があるんだ」


「そうなの?」


「うん」


 リビアは俺の手へそっと指を伸ばした。


「セスが、自分から誘ってくれたから」


 その言葉に、俺は少しだけ胸が温かくなった。


 彼女は俺の手を握りながら、ゆっくりと続けた。


「今までも一緒に散歩したことはあったし、いろんなところへ行ったよね。でも、セスはいつも、私がしたいことを優先してくれてたでしょう?」


「……そうかもしれない」


「もちろん、それも嬉しかったよ。セスが私のことを大切にしてくれてるって分かってたから」


 リビアは少しだけ視線を落とした。


「でも、私ばっかりお願いしてるみたいで、時々気になってたの」


 俺は彼女の横顔を見つめた。


 そんなふうに感じていたとは、知らなかった。


 俺にとっては、リビアが喜んでくれることが何より嬉しかったからだ。


 けれど、彼女はそれだけではなく、俺自身が何を望んでいるのかも知りたかったのだろう。


「……ごめん。俺、そこまで考えてなかった」


 俺がそう言うと、リビアはすぐに首を横へ振った。


「謝らなくていいんだよ。セスが優しいことは、ちゃんと分かってるから」


 彼女は俺の手を少しだけ強く握った。


「ただね、私もセスの力になりたいの。セスが困ってるときだけじゃなくて、嬉しいときも、楽しいときも、一緒にいたい」


 その声は、とても穏やかだった。


 けれど、言葉の一つ一つに、彼女の気持ちが込められているように感じられた。


 俺はしばらく黙っていた。


 何を答えればいいのか、すぐには分からなかったからだ。


 ただ、リビアの手の温もりを感じていると、胸の奥にある気持ちが少しずつ形になっていくようだった。


(俺は、リビアに喜んでもらいたいと思ってきた。でも、リビアも同じように、俺に喜んでほしいと思ってくれてるんだな)


 当たり前のことなのかもしれない。


 けれど、俺にはそれが、とても大切な発見だった。


「……ありがとう、リビア」


 俺は彼女の手を握り返した。


「俺も、リビアと一緒にいろんなことをしたい。これからは、もっと自分の気持ちも伝えるようにするよ」


 リビアは少しだけ目を見開いた。


 それから、嬉しそうに微笑む。


「うん。約束だよ?」


「うん、約束」


 俺たちは顔を見合わせ、静かに笑った。


 夕方の風が二人の間を通り抜け、花壇の花々を揺らしていく。


 その穏やかな空気の中で、俺は彼女の手を離さずにいた。


     ◇


 庭園の奥へ進むと、小さな休憩用の東屋が見えてきた。


 そこは子供の頃から何度も訪れた場所で、屋根の下には木製の長椅子が置かれている。周囲には背の低い木々が植えられており、夏の強い日差しを避けるにも、秋の涼しい風を楽しむにも、ちょうどよい場所だった。


「少し座ろうか」


 俺が提案すると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。そうしよう」


 俺たちは長椅子へ腰を下ろした。


 東屋からは庭園の一部が見渡せる。


 夕日に照らされた小道には長い影が伸び、遠くの花壇では庭師たちが最後の確認をしている姿が見えた。


 俺はその光景を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。


「こうして座ってると、なんだか懐かしいな」


 俺がそう言うと、リビアは少しだけ首を傾げた。


「懐かしい?」


「うん。子供の頃も、ここでよく休んでただろ?」


 リビアは少し考えてから、嬉しそうに微笑んだ。


「そうだね。セスが屋敷へ来てから、何度も一緒に来たよね」


「うん。あの頃は、今みたいになるなんて思ってなかったな」


 俺がそう言うと、リビアは少しだけ頬を赤く染めた。


「……私は、ちょっとだけ思ってたかも」


「えっ?」


 思わず彼女を見ると、リビアは恥ずかしそうに笑った。


「だって、昔からセスのことが好きだったんだもの」


 その言葉に、俺は胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


 リビアが俺を好きでいてくれたことは、今では知っている。


 俺たちは互いの気持ちを伝え合い、婚約者として一緒に過ごしている。


 それでも、彼女がこうして素直に気持ちを伝えてくれるたび、少しだけ照れくさくなってしまう。


「……俺は、あの頃はそんなことまで考えられなかったよ」


 俺が正直に答えると、リビアは小さく笑った。


「知ってる。セスは昔から、私のことになると一生懸命だったけど、自分のことには鈍かったもの」


「それは……否定できないな」


 俺は苦笑した。


 リビアは楽しそうに笑いながら、俺の肩へ少しだけ寄りかかった。


「でも、今はこうして一緒にいられるから、嬉しいよ」


「俺もだよ」


 そう答えると、彼女は満足そうに目を細めた。


 俺たちはしばらく、静かに庭園を眺めていた。


 何か特別な話をしているわけではない。


 ただ、隣に座って、同じ景色を見ている。


 それだけなのに、不思議なくらい落ち着いた。


 やがて、リビアが小さな声で口を開いた。


「ねえ、セス」


「どうした?」


「私、これからもセスにいっぱいお願いすると思う」


 俺は彼女の顔を見た。


 リビアは少しだけ照れくさそうに微笑んでいる。


「一緒に本を読んでほしいとか、散歩したいとか、たまには甘えたいとか……きっと、いろいろお願いしちゃうと思うの」


「うん。いいよ」


 俺が答えると、彼女は少しだけ首を横へ振った。


「でもね、それと同じくらい、セスにもお願いしてほしいの」


 その言葉に、俺は静かに頷いた。


「分かった。俺も、少しずつ慣れていくよ」


「ふふっ。無理しなくていいんだよ。ただ、遠慮しないでほしいだけだから」


 リビアはそう言って、俺の手を握った。


 俺はその手を握り返しながら、少し考えた。


 今、この場で何かお願いできることはないだろうか。


 特別なことではなくてもいい。


 リビアと一緒にしたいことを、素直に伝えればいいのだろう。


 そう思っていると、一つだけ浮かんだことがあった。


「……じゃあ、リビア」


「うん?」


「もう少しだけ、ここにいてもいいかな」


 俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を見開いた。


 それから、ゆっくりと微笑む。


「もちろん」


 彼女は俺の肩へ頭を預けた。


「私も、もう少し一緒にいたいな」


 その声は、とても優しかった。


 俺は彼女の温もりを感じながら、静かに庭園へ目を向けた。


 夕日が少しずつ低くなり、東屋の床へ差し込む光が柔らかく変わっていく。


 遠くでは小鳥が枝へ戻り、庭園には一日の終わりを告げるような静けさが広がり始めていた。


 俺たちはそのまま、しばらく言葉を交わさずに過ごした。


 けれど、その沈黙は少しも気まずくなかった。


 むしろ、こうして何も話さずにいられることが、嬉しかった。


     ◇


 屋敷へ戻る頃には、空が薄い紫色へ変わり始めていた。


 俺たちは庭園の小道をゆっくりと歩きながら、今日の出来事について話していた。


 授業で学んだこと。


 昼休みにエミリアたちと話したこと。


 そして、明日も学院でいつもどおりの一日が待っていること。


 リビアは楽しそうに話し、俺もその言葉へ耳を傾けた。


 屋敷の入口が見えてきたところで、彼女がふと足を止めた。


「セス、今日はありがとう」


 俺は少しだけ首を傾げた。


「こちらこそ。俺が誘ったのに、ありがとうって言われると不思議な感じがするな」


 そう答えると、リビアは小さく笑った。


「だって、すごく楽しかったんだもの」


 彼女は俺の手を握ったまま、少しだけ真剣な表情になった。


「セスが自分から誘ってくれたことも、一緒にゆっくり歩けたことも、全部嬉しかった」


 俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「俺も楽しかったよ。また、こういう時間を作ろう」


「うん。約束だよ」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


 俺たちは顔を見合わせ、静かに笑った。


 屋敷の扉が近づくと、俺は自然に彼女の手を離そうとした。


 けれど、リビアは少しだけ名残惜しそうに指へ力を込めた。


「……もう少しだけ」


 小さな声だった。


 俺は彼女の顔を見つめ、静かに微笑んだ。


「うん。もう少しだけ」


 そう答えると、リビアは安心したように笑った。


 俺たちはそのまま、ゆっくりと屋敷の入口へ向かった。


 夕暮れの光が二人の影を長く伸ばし、庭園には穏やかな風が吹いている。


 俺は隣にいるリビアの手を握りながら、今日一日のことを思い返した。


 誰かに頼ること。


 自分の気持ちを伝えること。


 そして、相手が何を望んでいるのかだけでなく、自分が何を望んでいるのかも大切にすること。


 それは、俺にとってまだ簡単なことではない。


 けれど、リビアが隣にいてくれるなら、少しずつ変わっていける気がした。


 俺は彼女の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。


 リビアも俺の視線に気づき、嬉しそうに笑い返してくれる。


 その笑顔を見て、俺は改めて思った。


 これからも、彼女と一緒にいろいろなことを経験していきたい。


 嬉しいことも、楽しいことも、時には難しいことも。


 一人で抱え込むのではなく、二人で相談しながら進んでいきたい。


 そんなことを考えながら、俺たちは屋敷の扉をくぐった。


 今日もまた、穏やかで大切な一日が終わろうとしていた。

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