第94話 公爵令嬢様のお願いは、俺には少し難しい
朝のパウリー公爵邸には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
窓の外では庭師たちが花壇の手入れを始めており、廊下には磨き上げられた床へ朝日が差し込んでいる。俺は学院へ出発するまでの時間を使って、執事見習いとして任されている仕事を一通り確認していた。
昨日の朝、リビアから言われたことが、まだ頭の中に残っている。
もっと自分を頼ってほしい。
困ったことがあるときだけでなく、一緒に何かをしたいときにも、遠慮せずお願いしてほしい。
その言葉を受けて、昨日は俺から旅行記を一緒に読んでほしいと頼んだ。リビアはとても喜んでくれて、放課後の図書室では北方の雪深い町について、時間を忘れるほど話し込んでしまった。
楽しかったし、またああいう時間を過ごしたいとも思う。
ただ、改めて考えてみると、俺は今まで、自分が何かをしてほしいと望むこと自体に慣れていなかったらしい。
(リビアが何をしたいのかは、普段から気にしているんだけどな。自分が何をしてほしいかって聞かれると、途端に難しくなる)
手元の書類を整えながら、そんなことを考えていた。
今朝の仕事は、前日に確認した備品記録を所定の場所へ戻し、担当者へ引き継ぐだけだった。以前の俺なら、時間が余っていることを理由に別の作業まで探していたかもしれないが、今日は自分に割り当てられた範囲を終えたところで手を止める。
書類を受け取った使用人は、内容を確認すると穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、セス様。こちらの確認は私どもで進めておきます」
「お願いします。もし記録に分からないところがあれば、出発前なら確認できますので」
「承知いたしました。どうぞ、学院のお支度をなさってください」
そう言って頭を下げられ、俺も礼を返した。
自分の担当ではない仕事を無理に引き受けず、必要な情報だけを伝えて次の人へ任せる。
最近ようやく意識できるようになってきたことだが、こうして実際にやってみると、思っていたほど難しいわけではなかった。
もちろん、相手がきちんと仕事をしてくれると分かっているからこそ、安心して任せられるのだろう。
廊下へ出ると、向こうから父さんが歩いてきた。
「セス、仕事は終わったか」
「はい、父さん。記録は担当の方へ引き継ぎました」
「そうか。今日は少し余裕があるようだな」
父さんは俺の手元に書類が残っていないことを確認し、小さく頷いた。
「学院へ出る前に、旦那様からお話があるそうだ。お嬢様と一緒に応接室へ伺いなさい」
「旦那様から、ですか?」
「ああ。急ぎの用件ではないと聞いている。身構える必要はない」
俺の表情から何かを察したのか、父さんは少しだけ口元を緩めた。
「お前は旦那様に呼ばれると、いまだに仕事の不備を探し始めるところがあるな」
「……そんなに分かりやすいですか?」
「少なくとも、私にはな」
父さんはそう答えると、いつもの落ち着いた足取りで廊下を進んでいった。
俺はその背中を見送り、思わず苦笑する。
(父さんには、本当に何でも見抜かれるな)
もっとも、旦那様からの呼び出しが珍しいわけではない。
俺とリビアの学院生活について尋ねられることもあるし、屋敷での仕事や今後の予定について話すこともある。婚約を認めていただいてからは、以前よりも家族として接してくださる場面が増えた気がする。
それでも、パウリー公爵家の当主である旦那様を前にすると、どうしても背筋が伸びてしまうのだった。
◇
応接室へ向かう途中でリビアと合流すると、彼女は俺の姿を見つけて嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、セス。お父様からお話があるんだってね」
「おはよう、リビア。うん、父さんから聞いたところだよ」
「何のお話だろうね。今朝はお父様も少し時間に余裕があるみたいだけど」
リビアはそう言いながら、俺の隣へ並んだ。
彼女の表情に不安は見られない。むしろ、父親と一緒に話せることを楽しみにしているようだった。
俺も必要以上に緊張するのはやめようと思い、彼女と並んで応接室へ向かった。
扉を叩くと、中から旦那様の声が返ってきた。
「入りなさい」
「失礼いたします」
俺が扉を開けると、旦那様は窓際の椅子に腰を下ろし、手元の書類を閉じたところだった。
室内には朝の柔らかな光が差し込み、テーブルにはまだ湯気の立つ茶器が置かれている。忙しい公爵家の当主としては、珍しく落ち着いた時間を過ごされているようだった。
「おはようございます、お父様」
「おはようございます、旦那様」
「ああ、おはよう。二人とも、こちらへ座りなさい」
旦那様は俺たちへ椅子を勧め、向かいに腰を下ろすのを待ってから口を開いた。
「最近の学院生活について、少し話を聞きたくてな。先日の交流演習も無事に終わったと聞いているが、その後はどうだ?」
俺はリビアと顔を見合わせた。
演習が終わってからは通常の授業へ戻り、友人たちとも変わらず過ごしている。特別な問題は起きていないが、演習で学んだことを日常の中で意識する機会は増えていた。
「はい。授業も問題なく受けていますし、演習で同じ班だった友人たちとも、引き続き話をしています」
俺が答えると、旦那様は頷いた。
「それはよかった。セス、お前はあの演習で何を得たと思う?」
予想していなかった質問に、俺は少しだけ考えた。
班の仲間と協力して目的地へ到着できたこと。
通行条件を確認し、無理に進まない判断ができたこと。
荷物の管理や安全確認について学べたこと。
思い返せば、得たものはたくさんある。
けれど、今の俺にとって最も大きかったのは、別のことだった。
「……自分ができることと、自分がやるべきことは、必ずしも同じではないと学びました」
俺が答えると、旦那様は静かに目を細めた。
「ほう。続けてみなさい」
「俺は今まで、自分にできることなら、できるだけ自分でやった方がいいと思っていました。でも、演習では班員それぞれに役割があって、俺が全部を引き受けたら、かえってうまくいかなかったと思います」
言葉を選びながら、俺は続けた。
「誰かに任せることも、相手が判断できるように情報を伝えることも、大切なんだと分かりました。まだ普段の生活では迷うこともありますが、少しずつ意識しています」
旦那様はしばらく俺を見つめていた。
その表情から考えを読み取ることは難しかったが、やがて穏やかに頷いてくださった。
「なるほど。よい経験になったようだな」
「はい」
「グレイヴからも、最近のお前は仕事の進め方を考えるようになったと聞いている。急に何もかも変える必要はないが、学んだことを日々の行動へ移しているのなら、それは立派な成長だ」
そう言われると、少し照れくさかった。
俺が礼を述べるより先に、隣のリビアが嬉しそうに口を開いた。
「お父様、セスは私にもお願いをしてくれるようになったんですよ」
旦那様の視線が、ゆっくりとリビアへ移った。
「ほう。セスがリビアに?」
「はい。昨日は放課後に、一緒に旅行記を読んでほしいって頼んでくれたんです」
リビアは本当に嬉しかったらしく、昨日の図書室での出来事を楽しそうに話し始めた。
北方の雪深い町のこと。
街道の標識や冬の移動について書かれていたこと。
そして、いつか二人でそんな場所へ行ってみたいと話したこと。
旦那様は娘の話を穏やかに聞いていたが、最後の部分で少しだけ眉を上げた。
「二人で北方へ、か」
「あ、もちろん、すぐにという話ではありません」
俺は慌てて補足した。
「学院の勉強もありますし、具体的な予定を決めたわけではなくて、いつか行けたらいいなと話しただけです」
「分かっている。そう慌てなくてもよい」
旦那様は小さく笑った。
「旅行の話をすること自体は悪くない。むしろ、二人で将来の楽しみを考えられるのは、よいことだろう」
「そうですよね、お父様!」
リビアは満面の笑みを浮かべた。
旦那様はそんな娘を見て、少しだけ苦笑する。
「ただし、実際に出かけるとなれば、季節や街道の状態、滞在先などを十分に確認する必要がある。北方の冬は、旅行記に描かれた美しい景色だけで成り立っているわけではないからな」
「はい。それは本にも書かれていました」
俺が答えると、旦那様は満足そうに頷いた。
「ならば、まずは勉強を続けることだ。知らない土地について学ぶのも、学院生活の楽しみの一つだろう」
その言葉に、俺とリビアは揃って頷いた。
話が一区切りついたところで、旦那様は茶器へ手を伸ばした。
俺は反射的に立ち上がりかけたが、すぐに動きを止める。
ここには給仕を担当する使用人が控えており、旦那様の茶器にもすでにお茶が注がれている。
俺が何かをする必要はなかった。
その小さな動きを見ていたのか、旦那様は口元を緩めた。
「セス、今は客として座っていなさい」
「……はい、旦那様」
「お前がこの屋敷の仕事を大切にしていることは、よく分かっている。だが、私がお前を呼んだのは、給仕をしてもらうためではない」
穏やかな声だったが、その言葉にははっきりとした意味があった。
俺は改めて椅子へ座り直し、膝の上で手を重ねる。
隣ではリビアが、少しだけ得意そうに微笑んでいた。
「ほら、セス。お父様もそうおっしゃってるでしょう?」
「うん。分かってるよ」
そう答えると、リビアは満足そうに頷いた。
旦那様は俺たちのやり取りを眺めながら、静かにお茶を口へ運んだ。
その表情がいつもより少し柔らかく見えたのは、きっと気のせいではないのだろう。
◇
学院へ向かう馬車の中で、リビアは朝の出来事を思い出したのか、何度か楽しそうに笑っていた。
「セス、お父様に褒められてよかったね」
「うん。ちょっと驚いたけど、嬉しかったよ」
「お父様はね、セスのことをちゃんと見てくださってるんだよ」
リビアはそう言って、俺の手へそっと指を重ねた。
「もちろん、父さんもそうだけど、旦那様にも気にかけてもらえているのはありがたいな」
「ふふっ。お父様だって、セスがそんなふうに思ってくれているって知ったら喜ぶと思う」
俺は少しだけ笑った。
旦那様は普段、屋敷の当主として厳格な一面を見せることが多い。
けれど、リビアと接しているときには優しい父親の顔になるし、俺に対しても、ただの執事見習いとしてではなく、一人の人間として向き合ってくださることがある。
そのことを、以前よりも素直に受け止められるようになってきた。
「ところで、セス」
リビアが少しだけ身を寄せてきた。
「今日の放課後は、何か予定がある?」
「今日は特にないよ。授業が終わったら、少し図書室へ寄ろうかと思ってたくらいかな」
「それなら、私からお願いしてもいい?」
「もちろん。何をしたいんだ?」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「昨日の案内表示の試案について、セスにも見てもらいたいの」
俺は少し驚いた。
リビアが委員会で取り組んでいる案内表示については、これまでにも何度か話を聞いている。
色や枠の形を工夫し、離れた場所からでも分かりやすくするために、実際の廊下で試案を確認していることも知っていた。
ただ、俺が委員会の活動へ直接関わることは、これまでなかった。
「俺が見てもいいの?」
「うん。もちろん、正式に委員会へ参加してもらうわけじゃないよ。マリエッタ先輩にも相談して、協力してくれる生徒に試案を見てもらうことになったの」
リビアは丁寧に説明してくれた。
「委員会の人たちは、何度も試案を見ているから、どうしても内容を覚えてしまうでしょう? だから、あまり詳しく知らない人が見たときに、ちゃんと分かるか確かめたいんだって」
「なるほど。それなら、俺も協力できそうだ」
「本当?」
「うん。ただ、俺はリビアから何度か話を聞いてるから、完全に初めて見る人とは違うかもしれないけど」
俺がそう言うと、リビアは少し考えてから頷いた。
「確かにそうだね。それなら、セスが知っていることも先輩に伝えておこうかな」
「その方がいいと思う。知らないつもりで答えたら、確認にならないかもしれないし」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、セス。そういうところまで考えてくれるの、すごく助かるよ」
「俺も、リビアが頑張ってることを少し見てみたいと思ってたんだ」
何気なく答えたつもりだったが、リビアは少しだけ目を見開いた。
それから、頬をほんのり赤く染める。
「……もう。そんなことを言われたら、ますます頑張りたくなっちゃうじゃない」
彼女は照れくさそうに笑い、俺の手を握り直した。
俺もその手を握り返しながら、窓の外へ目を向けた。
朝の王都には人々の活気が戻り、商店の前では荷物を運ぶ人たちが行き交っている。
今日も学院では、きっといろいろなことがあるのだろう。
その中で、リビアが大切にしている活動へ少しでも協力できるなら、俺も嬉しかった。
◇
午前の授業は、魔術理論と歴史についての講義だった。
魔術理論では、術式を安定させるために必要な条件について説明があり、以前エレナ先生から聞いた内容と重なる部分もあった。
ただし、授業で扱われたのはあくまで一般的な基礎理論であり、俺が今後予定している個別の実技とは目的が異なる。
俺はその違いを意識しながら、先生の説明を聞いていた。
授業が終わると、ガレスが資料を手にこちらへやってきた。
「なあ、クルセス。今日の説明で、ちょっと気になったところがあるんだけど」
「どこだ?」
「魔力を安定させるためには、術式の形だけじゃなくて、使う人の状態も関係するってところだよ」
ガレスは資料の一節を指差した。
そこには、魔術を使用する際の集中や姿勢、魔力の流れを一定に保つことの重要性が書かれている。
「俺、剣を使うときは姿勢を意識してるけど、魔術でも同じように考えた方がいいのかな?」
俺は少し考えた。
魔術と剣術は異なる技術だが、身体の状態が動作へ影響するという点では、共通する部分もあるだろう。
「完全に同じではないと思うけど、姿勢が崩れると集中しにくくなることはあるんじゃないかな。俺も、魔力を細かく制御するときは、余計な力が入らないように気をつけてるよ」
「なるほど。じゃあ、やっぱり普段から意識しておいた方がよさそうだな」
ガレスは納得したように頷いた。
そこへ、近くで話を聞いていたサザリーが加わった。
「ただ、姿勢だけ整えれば安定するというわけでもないと思うよ。授業でも、術式の理解や魔力量の調整が必要だと説明されていたからね」
「そうだな。俺も、そこは分けて考えた方がいいと思う」
俺が答えると、ガレスは苦笑した。
「やっぱり、魔術は覚えることが多いなあ」
「剣術だって、最初から全部できたわけじゃないだろ?」
俺がそう言うと、ガレスは少し考えてから笑った。
「確かにな。最初は構え方だけでも何度も直されたし、今だってまだまだだ」
彼は資料を閉じ、少しだけ真剣な表情になった。
「だったら、魔術も焦らず覚えていくしかないか」
「うん。それがいいと思う」
俺たちが話していると、リビアが席から立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「みんな、今日の放課後は何か予定がある?」
突然の質問に、ガレスが首を傾げた。
「俺は特にないけど、どうしたんだ?」
「実は、委員会で案内表示の試案を確認することになっていて、協力してくれる生徒を探しているの」
リビアはそう言って、活動の内容を説明した。
正式な案内表示を決める前に、試案を実際の廊下へ置き、初めて見る人にも意味が伝わるか確認したいこと。
見やすさだけでなく、どのように受け取られるかも知りたいこと。
そして、参加は任意で、授業やほかの予定を優先して構わないこと。
説明を聞いたガレスは、興味深そうに頷いた。
「へえ。面白そうだな。俺でも役に立つなら協力するぞ」
「本当? ありがとう、ガレス君」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
サザリーも少し考えてから口を開いた。
「僕も時間はあるよ。ただ、案内表示の話は以前少し聞いているから、その点は伝えておいた方がいいかな」
「うん。私もそう思う。先輩に確認しておくね」
リビアはそう答え、二人へ礼を述べた。
その様子を見て、俺は少しだけ嬉しくなった。
リビアは自分一人で何とかしようとせず、必要な協力を周囲へお願いしている。
そして、ガレスもサザリーも、彼女の活動へ自然に力を貸そうとしてくれていた。
俺たちが演習で学んだことは、こういう場面にもつながっているのかもしれない。
◇
昼休みの食堂は、いつもより少し賑やかだった。
窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、温かな料理の香りが広がっている。俺たちは四人で席を囲み、午後の授業や放課後の予定について話していた。
「案内表示って、そんなにいろいろ考えることがあるんだな」
ガレスは食事を進めながら、感心したように言った。
「俺なんか、普段は矢印があれば大体分かると思ってたよ」
「でも、初めて来た場所だと、矢印だけでは分かりにくいこともあるでしょう?」
リビアが答えると、ガレスは少し考えた。
「そう言われると、確かにな。知らない建物で右へ進めって書いてあっても、その先に何があるのか分からなかったら困るかもしれない」
「そうなの。だから、場所の名前や番号、表示する位置も考えないといけないんだって」
リビアは楽しそうに説明していた。
その姿を見ながら、俺は彼女がこの活動へ真剣に取り組んでいることを改めて感じた。
公爵令嬢として学問や魔術に優れているリビアだが、だからといって、何でも最初から分かっているわけではない。
実際に試し、ほかの人の意見を聞き、少しずつ改善していく。
その過程を楽しんでいるように見えた。
「それにしても、オリビア様はすごいですね」
サザリーが穏やかに言った。
「委員会の活動でも、きちんと目的を考えて取り組んでいらっしゃる。僕だったら、最初は表示の見た目ばかり気にしてしまいそうです」
「そんなことないですよ。私も最初は、色や形をどうするかばかり考えていましたから」
リビアは少し照れくさそうに微笑んだ。
「でも、マリエッタ先輩が、実際に使う人の立場で考えることが大切だと教えてくださったんです」
「なるほど。よい先輩なんですね」
「はい。とても丁寧に教えてくださるんです」
リビアの声には、先輩への尊敬が感じられた。
俺はそのやり取りを聞きながら、ふと思った。
俺たちは普段、授業や演習の中で教師から多くのことを学んでいる。
けれど、こうして先輩や友人から教わることも、学院生活の大切な一部なのだろう。
自分が知らないことを、誰かが知っている。
自分が気づかなかったことに、別の誰かが気づく。
その違いを認め合うことで、できることが少しずつ増えていくのかもしれない。
「セス?」
リビアに声をかけられ、俺は顔を上げた。
「どうしたの? また考え事?」
「うん。リビアが楽しそうに話してるのを見て、俺も嬉しくなってた」
俺が答えると、彼女は少しだけ目を見開いた。
それから、頬を赤く染めながら微笑む。
「……もう。セスは本当に、最近そういうことを普通に言うんだから」
ガレスが不思議そうに首を傾げ、サザリーは静かに笑っていた。
俺は少しだけ照れくさくなりながらも、リビアの笑顔を見て、やはり言ってよかったと思った。
◇
午後の授業が終わると、俺たちは約束していた場所へ向かった。
案内表示の試案を確認するのは、普段から生徒たちが行き交う校舎の廊下だった。ただし、通行の妨げにならないよう、委員会では壁際の一角を使い、教師の許可を得た範囲で確認を行うことになっているらしい。
廊下の先では、マリエッタ先輩が数枚の紙を机へ並べていた。
先輩は俺たちに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「オリビアさん、協力してくださる方を連れてきてくれたのね」
「はい。クルセスと、サザリー君、ガレス君です」
リビアが紹介すると、俺たちは順番に挨拶した。
マリエッタ先輩は一人ずつ丁寧に応じ、机の上の資料へ視線を落とした。
「今日はありがとうございます。難しいことをお願いするわけではありませんから、見たまま、感じたままを教えてくださいね」
「分かりました」
俺が答えると、先輩は頷いた。
「まず確認しておきたいのですが、皆さんは今回の試案について、どの程度ご存じですか?」
俺はリビアから聞いていた内容を説明した。
色と枠の形を組み合わせていること。
番号の見やすさを調整していること。
昨日、実際の廊下で試してみたところ、離れた場所からは読み取りにくい部分があったこと。
サザリーも以前に概要を聞いていると伝え、ガレスは詳しい形までは知らないと答えた。
先輩はそれぞれの説明を聞き、手元の記録用紙へ簡単に書き込んだ。
「ありがとうございます。それなら、皆さんのご意見は、事前に知っていた情報と合わせて整理しますね」
そう言ってから、先輩は壁際に用意された試案を示した。
そこには、同じ行き先を表す三種類の案内表示が並べられていた。
一つ目は、文字と番号を中心にしたもの。
二つ目は、番号を大きくし、枠の形で区別できるようにしたもの。
三つ目は、文字と番号に加えて、方向を示す矢印を少し目立たせたものだった。
色もそれぞれ少しずつ違うが、極端に派手なものではない。
学院の落ち着いた雰囲気を損なわないよう、配慮されているのだろう。
「では、まず少し離れた場所から見ていただきます。どれが正しいというわけではありませんので、読み取りやすいと思ったものを教えてください」
マリエッタ先輩の説明を聞き、俺たちは指定された位置へ移動した。
廊下にはほかの生徒たちも行き交っていたが、試案を置いた場所の周囲には十分な空間が確保されている。
俺は壁際に並んだ三種類の表示へ目を向けた。
近くで見れば、どれも意味は分かる。
けれど、少し離れると、文字の大きさや枠の形によって印象が変わってくる。
俺はしばらく見比べたあと、二つ目の案へ視線を戻した。
(番号は二つ目が一番分かりやすいな。でも、方向まで含めて見ると、三つ目も悪くない気がする)
ただ、俺は事前に表示の目的を知っている。
そのことを忘れず、まずは自分が実際に見て感じたことだけを伝えるべきだろう。
「クルセス君、どうでしょう?」
先輩に尋ねられ、俺は少し考えてから答えた。
「番号の見やすさなら、二つ目が一番分かりやすいと思います。ただ、どちらへ進めばいいかをすぐに判断するなら、三つ目の矢印も見やすいです」
先輩は頷き、記録用紙へ書き込んだ。
「なるほど。番号と方向で、見やすいと感じる案が違うのですね」
「はい。どちらを優先するかで、選び方が変わりそうです」
俺がそう答えると、先輩は少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます。では、ほかの皆さんはどうでしょう?」
ガレスは三つ目を指差した。
「俺はこれかな。ぱっと見たときに、矢印が一番分かりやすかったです」
「番号は読めましたか?」
「近づけば分かりますけど、ここからだとちょっと小さいですね。でも、どっちへ進めばいいかはすぐ分かりました」
ガレスは少し考えてから付け加えた。
「ただ、初めて来た場所だったら、矢印の先に何があるのかも知りたいかもしれません」
その言葉に、マリエッタ先輩は興味深そうに頷いた。
「確かにそうですね。方向だけ分かっても、行き先が分からなければ困る場合があります」
続いてサザリーが意見を述べた。
「僕は二つ目が分かりやすいと思いました。番号と枠の形が対応しているので、少し離れていても区別しやすいです。ただ、文字を読む必要がある場合は、もう少し近づきたくなります」
先輩は二人の意見も丁寧に記録した。
俺はその様子を見ながら、少しだけ感心していた。
同じ場所から同じ表示を見ても、気になるところが違う。
ガレスは進む方向を重視し、サザリーは番号と形の対応に注目している。
俺自身も、二人の意見を聞いて初めて気づいたことがあった。
もし俺一人で見ていたら、そこまで考えられなかったかもしれない。
マリエッタ先輩は記録を終えると、リビアへ目を向けた。
「オリビアさん、今のご意見を聞いて、どう思いましたか?」
リビアは少し考え込んだ。
彼女は試案を見つめながら、すぐには答えを出さなかった。
「……番号を大きくすれば分かりやすくなると思っていたんですけど、それだけでは足りないのかもしれません」
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「どこへ行くための表示なのか、どちらへ進むのか。その両方が分からないと、初めて来た人は迷ってしまうかもしれません」
先輩は穏やかに頷いた。
「そうですね。ただ、すべての情報を大きくすれば、今度は表示が見づらくなることもあります。だからこそ、何を優先して伝えるのか考える必要があるのでしょう」
「はい」
リビアは真剣な表情で頷いた。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ胸が温かくなった。
彼女は自分の考えを持っている。
けれど、ほかの人の意見を聞いたとき、それを否定したり、無理に自分の案へ合わせようとしたりしない。
必要なら考え直し、よりよい方法を探そうとする。
その姿が、俺にはとても頼もしく見えた。
◇
最初の確認が終わると、マリエッタ先輩は試案の位置を少し変えた。
今度は廊下の反対側から見た場合や、歩きながら視線を向けた場合について確認するらしい。
ただし、走ったり、ほかの生徒の通行を妨げたりしないよう、先輩から事前に説明があった。
俺たちは指示された順番に移動し、それぞれの位置から表示を確認した。
すると、先ほどとは少し違うことが分かった。
正面から見たときには読みやすかった文字が、斜めから見ると分かりにくくなる。
また、窓から差し込む光の当たり方によって、色の違いが目立ちにくくなる場所もあった。
「なるほど……これは、机の上で見ているだけじゃ分からないな」
俺が思わず呟くと、隣のサザリーが頷いた。
「そうだね。表示そのものだけじゃなくて、置く場所も重要なんだ」
ガレスも少し驚いたように試案を見つめていた。
「俺、さっきは三つ目が一番いいと思ったけど、こっちから見ると二つ目の方が分かりやすいな」
彼はそう言って、少しだけ首を傾げた。
「これって、どっちが正しいんだ?」
その質問に、マリエッタ先輩はすぐには答えなかった。
代わりに、穏やかな声で問い返した。
「ガレス君は、どうしてそう感じたと思いますか?」
ガレスは少し考えた。
「うーん……最初に見た場所だと矢印が目立ってたんですけど、今の場所だと番号の方が見やすかったから、ですかね」
「そうですね。見る位置によって、目立つ部分が変わったのでしょう」
先輩は頷いた。
「ですから、今の段階で一つに決める必要はありません。どの位置から見ても分かりやすくするにはどうすればよいか、これから考えていきます」
ガレスは納得したように頷いた。
「なるほど。じゃあ、今日の確認は、そのための材料を集めてるんですね」
「そのとおりです」
先輩は嬉しそうに微笑んだ。
俺はそのやり取りを聞きながら、交流演習のことを思い出した。
あのときも、最初に見た情報だけで判断せず、必要な確認を重ねてから進む道を決めた。
今回の案内表示も、同じように一つの結果だけで結論を出さないことが大切なのだろう。
ただし、ここで俺が勝手に改善案を決める必要はない。
俺たちの役割は、実際に見て感じたことを伝えることだ。
その情報をもとに、委員会の人たちが次の案を考える。
それぞれの役割が違うからこそ、協力する意味があるのだと思った。
確認を終えたところで、リビアが俺の隣へやってきた。
「セス、今日は協力してくれてありがとう」
「こちらこそ。俺も面白かったよ」
「本当?」
「うん。同じ表示でも、見る場所によってこんなに違うとは思わなかった」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も最初は驚いたの。でも、実際に試してみると、いろんなことが分かるんだね」
「そうだな。リビアたちが何を考えてるのか、少し分かった気がするよ」
彼女は少しだけ目を細めた。
「それなら、お願いしてよかった」
その言葉を聞いて、俺も自然に笑顔になった。
誰かに頼ることは、必ずしも自分が困っているときだけではない。
自分が大切にしていることへ、相手にも関わってほしいと思うこと。
そして、相手の考えを聞きたいと思うこと。
それもまた、信頼の形なのかもしれない。
◇
確認作業が終わると、マリエッタ先輩は協力した俺たちへ改めて礼を述べた。
「今日は本当にありがとうございました。いただいた意見は委員会で整理して、次の試案を考えるときに参考にします」
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺が答えると、ガレスも嬉しそうに頷いた。
「俺、こういう活動って初めてだったんですけど、結構面白かったです」
「そう言っていただけると嬉しいです」
先輩は穏やかに微笑んだ。
サザリーは手元の記録用紙へ目を向けながら、少し考えたあとで口を開いた。
「一つだけ、確認してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「今日の結果は、どのように整理する予定ですか? 見る位置によって意見が変わったので、単純に一番人気だった案を選ぶわけではないと思うのですが」
先輩は感心したように頷いた。
「ええ。そのとおりです。今回は、どの位置で何が見やすかったかを分けて記録しています。最終的な案を決める前に、ほかの生徒にも確認してもらう予定です」
「なるほど。ありがとうございます」
サザリーは納得したように微笑んだ。
俺はそのやり取りを聞きながら、改めて思った。
サザリーは、情報を整理することが本当に得意だ。
俺なら見落としてしまいそうな部分にも気づき、何を確認すればよいのか考えている。
ガレスは実際に動いたときの分かりやすさを率直に伝えていたし、リビアはそれぞれの意見を受け止めながら、改善の方向を考えていた。
同じ活動へ参加していても、役に立つ方法は人によって違う。
その違いがあるからこそ、協力する意味があるのだろう。
マリエッタ先輩が資料を片づけ始めたため、俺たちも手伝おうとしたが、先輩は穏やかに首を横へ振った。
「ありがとうございます。でも、こちらの片づけは委員会で行いますので、皆さんはどうぞお帰りの準備をしてください」
俺は一瞬、何かできることはないかと考えた。
けれど、先輩がはっきりと役割を分けてくださっている以上、無理に手伝う必要はない。
「分かりました。今日はありがとうございました」
俺がそう答えると、先輩は微笑んだ。
リビアも先輩へ礼を述べ、俺たちは廊下をあとにした。
◇
校舎を出る頃には、空が少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。
中庭では部活動を終えた生徒たちが行き交い、遠くからは楽しそうな話し声が聞こえてくる。俺たちはガレスとサザリーに別れを告げ、迎えの馬車が待つ場所へ向かった。
リビアは隣を歩きながら、今日の確認作業について楽しそうに話していた。
「セス、今日は本当にありがとう。みんなのおかげで、いろいろなことが分かったよ」
「俺も勉強になったよ。リビアたちがあんなふうに考えてるなんて、知らなかったから」
「ふふっ。委員会の活動って、意外と奥が深いでしょう?」
「うん。正直、最初は案内表示を作るだけなら、そんなに難しくないと思ってた」
俺が答えると、リビアは小さく笑った。
「私も最初はそう思ってたの。でも、実際に考え始めると、気をつけることがたくさんあるんだよね」
彼女は少しだけ空を見上げた。
「だから、今日みたいにいろんな人の意見を聞けるのは、すごくありがたいの」
その横顔を見ながら、俺はふと思った。
リビアは普段、俺に頼ってほしいと言ってくれる。
けれど、彼女自身も、必要なときには周囲の人たちへ協力をお願いしている。
それは決して、何かができないからではない。
よりよいものを作りたいからこそ、自分とは違う考え方を持つ人たちの力を借りているのだ。
「リビアは、すごいな」
思わず口にすると、彼女は不思議そうに俺を見上げた。
「どうしたの、急に?」
「今日の活動を見て、そう思ったんだ。リビアは自分の考えをちゃんと持ってるのに、ほかの人の意見も大切にしてるだろ?」
俺は少し照れくさくなりながらも、言葉を続けた。
「俺はまだ、誰かに任せたり、頼ったりすることに慣れてない。でも、リビアはそれを自然にやってるように見えるから、見習いたいと思った」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、少しだけ頬を赤く染めながら微笑んだ。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいな」
彼女はそう言って、俺の袖をそっとつまんだ。
「でもね、セス。私だって、最初から上手にできたわけじゃないんだよ?」
「そうなの?」
「うん。お父様や先生、マリエッタ先輩にも、いろいろ教えていただいてるもの」
リビアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「それに、今日だってセスたちが協力してくれなかったら、気づけなかったことがあったと思う」
俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
誰かに頼ることは、自分の弱さを認めることだけではない。
相手の力を信じることでもある。
そして、頼られた側も、自分が必要とされていると感じられる。
そのことを、俺は今日の活動で少し理解できた気がした。
「ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、セス」
俺たちは顔を見合わせ、静かに笑った。
◇
屋敷へ戻る馬車の中では、リビアが少し疲れたように座席へ身体を預けていた。
今日は通常の授業に加えて委員会の活動もあったのだから、無理もないだろう。
「リビア、少し休む?」
俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「うん。でも、その前に一つだけお願いしてもいい?」
「もちろん。何?」
リビアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「今日も、セスの肩を借りてもいいかな?」
俺は思わず笑った。
「そんなの、いつでもいいよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに俺の肩へ頭を預けた。
銀青色の髪が肩に触れ、柔らかな感触が伝わってくる。
俺は彼女が楽な姿勢でいられるよう、少しだけ身体の向きを変えた。
「ありがとう、セス」
「どういたしまして」
リビアは目を閉じたまま、小さく笑った。
窓の外では、夕暮れの王都の街並みがゆっくりと流れている。
通りを行き交う人々の声が遠くに聞こえ、馬車の車輪が石畳を進む音が一定のリズムで続いていた。
俺は隣にいるリビアの温もりを感じながら、今日一日の出来事を思い返した。
朝、旦那様から学院生活について尋ねられたこと。
ガレスやサザリーと魔術の話をしたこと。
そして、放課後にリビアの委員会活動へ協力したこと。
どれも、特別に大きな事件ではない。
けれど、その一つ一つが、今の俺にとって大切な時間だった。
(俺は、こういう毎日を大事にしたいんだな)
そう思いながら、リビアの手へそっと自分の手を重ねた。
彼女は目を閉じたまま、その手を握り返してくれる。
「セス」
「どうした?」
「今日も、楽しかったね」
リビアは小さな声でそう言った。
俺は彼女の顔を見つめ、静かに頷いた。
「うん。俺も楽しかった」
「明日も、いい日になるといいな」
「そうだな。でも、何か大変なことがあっても、二人で相談すればいいと思う」
俺が答えると、リビアはゆっくりと目を開けた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「うん。そうだね」
彼女は俺の肩へもう一度頭を預け、安心したように息を吐いた。
俺たちはそのまま、しばらく静かな時間を過ごした。
誰かに頼ること。
誰かへ任せること。
そして、自分の気持ちを素直に伝えること。
それは、何か大きな問題が起きたときだけ必要になるものではない。
こうして何気ない毎日を過ごす中でも、少しずつ身につけていくものなのだろう。
俺は隣にいるリビアの手を握りながら、窓の外へ目を向けた。
夕日が王都の建物の向こうへ沈み始め、街並みが柔らかな橙色に染まっている。
明日も学院がある。
屋敷での仕事も、友人たちとの時間も、リビアと過ごす時間も続いていく。
その一つ一つを大切にしながら、少しずつ成長していきたい。
俺はそう思い、静かに微笑んだ。
馬車は穏やかに揺れながら、俺たちの帰る屋敷へ向かって進んでいった。




