第93話 公爵令嬢様は、俺にも頼ってほしいらしい
朝のパウリー公爵邸には、焼きたてのパンの香りと、庭園から流れ込む涼しい風が満ちていた。
学院へ向かうまでにはまだ少し時間があり、俺は朝食を終えたあと、使用人たちが使う控え室で今日の仕事の確認をしていた。窓の外では庭師たちが花壇の手入れを始めており、廊下の向こうからは食器を片づける音が控えめに聞こえてくる。
机の上には、今朝の作業予定をまとめた書類が置かれていた。
学院へ通い始めてから、俺が屋敷で担当する仕事は以前よりも少なくなっている。それでも、執事見習いとして身につけてきたことを忘れたくはないし、何より、長い間世話になっているこの屋敷の役に立ちたいという気持ちは変わらなかった。
ただし、最近は少しだけ考え方が変わってきた。
以前なら、時間が空いていれば自分から仕事を探し、できる限り多くの作業を終わらせようとしていた。けれど、父さんから仕事の分担について教わり、学院の交流演習でも仲間たちと協力する経験をしたことで、何でも自分が引き受けるのが正しいわけではないと理解し始めている。
(とはいえ、長年の習慣って簡単には変わらないんだよな)
そんなことを考えながら予定表を確認していると、控え室の扉が軽く叩かれた。
「セス、少しいいかしら?」
聞き慣れた声に顔を上げると、扉の向こうからリビアがこちらを覗いていた。
銀青色の髪はいつものように美しく整えられ、学院の制服もきちんと着こなしている。朝の光を受けた彼女の姿は、どこから見ても完璧な公爵令嬢そのものだった。
もっとも、俺と目が合った途端、その表情は少しだけ柔らかくなった。
「おはよう、リビア。どうしたんだ?」
「おはよう、セス。朝食のあとに姿が見えなかったから、もしかしてここかなと思って」
リビアはそう言って部屋へ入り、俺の手元にある書類へ視線を落とした。
「またお仕事?」
「うん。今日の予定を確認してただけだよ。もうすぐ終わるところ」
「そうなんだ。それならよかった」
彼女は安心したように微笑んだものの、すぐにはその場を離れなかった。
何か言いたいことがあるのだろうか。
俺が首を傾げると、リビアは机の向かいにある椅子へ腰を下ろし、少しだけ真剣な表情になった。
「ねえ、セス。昨日、馬車の中で話したことを覚えてる?」
「昨日?」
「何か大変なことがあっても、二人で相談すればいいって言ってくれたでしょう?」
そう言われて、俺は昨日の帰り道を思い出した。
委員会の活動を終えたリビアが俺の肩へ頭を預け、屋敷へ戻るまでの間、いろいろな話をした。彼女が明日もいい日になるといいと言ったとき、俺は確かに、困ったことがあっても二人で相談すればいいと答えた。
「ああ、覚えてるよ」
「私、あの言葉がすごく嬉しかったの」
リビアはそう言って、膝の上で重ねていた両手を少し動かした。
「でもね、あとから考えていたら、一つだけ気になったことがあって」
「何か変なことを言ったかな?」
「ううん。そうじゃないの。ただ、セスは私が困っているときにはすぐに助けてくれるのに、自分が困っているときは、なかなか教えてくれないでしょう?」
俺は思わず返事に詰まった。
確かに、彼女の言うとおりかもしれない。
俺はリビアに何かあれば、できる限り力になりたいと思っている。けれど、自分のこととなると、まずは一人で解決できないか考えてしまう。
それは今に始まったことではなかった。
スラムで暮らしていた頃から、誰かに頼ることは簡単ではなかったし、パウリー公爵家に迎えられてからも、迷惑をかけないようにしようという気持ちが強かった。
「……そうだな。まだ、そういうところはあると思う」
俺が正直に答えると、リビアは少しだけ安心したように息を吐いた。
「責めたいわけじゃないの。セスが今まで頑張ってきたことも知っているし、すぐに変われないことだって分かってる」
彼女はそこで一度言葉を区切り、俺の目をまっすぐに見つめた。
「でも、私はセスの婚約者なんだよ?」
「うん」
「だったら、セスが私を助けたいと思ってくれるのと同じくらい、私もセスの力になりたいの」
その言葉は、静かだった。
けれど、彼女の表情には、普段の甘えるような雰囲気とは違う真剣さがあった。
俺は机の上に置いていた手をゆっくりと引き、リビアへ向き直った。
「ありがとう、リビア。そう言ってもらえるのは、本当に嬉しいよ」
「それなら、もっと頼ってくれてもいいんだよ?」
「うん。少しずつ、そうしていきたいと思ってる」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
けれど、そのあと少しだけ悪戯っぽい表情になった。
「じゃあ、今日から練習してみない?」
「練習?」
「そう。何でもいいから、セスが私にお願いしたいことを一つ考えてみて」
思いがけない提案だった。
俺は少し考えたものの、すぐには何も思いつかなかった。
今のところ困っていることはないし、学院の授業も屋敷の仕事も、特別に助けが必要な状態ではない。
だからといって、何もないと答えれば、リビアはきっと残念がるだろう。
(お願いしたいこと、か……)
俺が考え込んでいると、リビアは楽しそうに笑った。
「そんなに難しく考えなくてもいいんだよ。例えば、今日の放課後に一緒に本を選んでほしいとか、勉強で分からないところを教えてほしいとか」
「それなら、普段からお願いしてる気もするけど」
「そういう小さなことでもいいの。大事なのは、セスが自分からお願いしてくれることだから」
彼女の言葉を聞きながら、俺は少しだけ考え方を変えてみた。
何か重大な問題が起きたときだけ、誰かに頼る必要があるわけではない。
自分一人でもできることを、誰かと一緒にしたいと思うことだってある。
それも、頼ることの一つなのかもしれない。
「じゃあ、今日の放課後、少しだけ時間をもらってもいい?」
俺が尋ねると、リビアはぱっと表情を明るくした。
「もちろん! 何をするの?」
「昨日読んでいた旅行記の続きを、一緒に見てほしいんだ。北方の街道について書かれているんだけど、リビアと話しながら読んだら、もっと面白そうだと思って」
リビアは嬉しそうに目を細めた。
「それ、すごくいいお願いだね」
「そうかな?」
「うん。だって、セスが私と一緒にしたいと思ってくれたんでしょう?」
彼女はそう言って、少しだけ頬を赤く染めた。
「そういうの、私はとっても嬉しいよ」
俺も自然に笑顔になった。
何かを頼むというのは、もっと難しいことだと思っていた。
けれど、こうしてリビアが嬉しそうにしてくれるなら、必要以上に遠慮することはないのだろう。
「それじゃあ、放課後に図書室で」
「うん。約束ね」
リビアはそう言って、小指を差し出してきた。
俺は思わず笑いながら、その小指へ自分の小指を絡める。
幼い頃から何度も交わしてきた、小さな約束の仕草だった。
公爵令嬢と平民出身の執事見習い。
今では婚約者同士になった俺たちだけれど、こうした何気ないやり取りは、昔からあまり変わっていない。
それが何だか嬉しかった。
◇
学院へ向かう馬車の中では、リビアが朝の約束について楽しそうに話していた。
「北方の街道って、雪が多い地域の話だったよね?」
「うん。今読んでるところは、冬の移動について書かれているんだ」
「雪の多い町って、どんな景色なんだろうね」
リビアは窓の外を眺めながら、少しだけ夢見るような表情になった。
「王都でも雪が降ることはあるけど、街道の目印が埋まってしまうほど積もる場所なんて、私はまだ見たことがないな」
「俺も実際には見たことがないよ。本には、屋根や木々が白く覆われて、町全体が静かに見えるって書いてあった」
「素敵だね。いつか行ってみたいな」
彼女はそう言って、俺へ視線を戻した。
「セスも一緒に来てくれる?」
「もちろん。リビアと一緒なら、きっと楽しいと思う」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、いつか二人で行こうね」
「うん。約束だ」
すぐに実現できる予定ではない。
俺たちはまだ学院へ通っているし、リビアには公爵令嬢としての役割もある。俺自身も、執事見習いとして学ばなければならないことがたくさん残っていた。
それでも、いつか二人で知らない町を訪れ、同じ景色を眺めることができたら嬉しい。
そんな未来を想像するだけで、胸の奥が温かくなった。
「ねえ、セス」
「どうした?」
「もし本当に北方へ行くことになったら、今度は私が旅行の準備を手伝ってもいい?」
「もちろん。でも、どうして?」
「だって、セスに任せたら、きっと私の荷物まで全部準備してくれそうなんだもの」
リビアは少しだけ頬を膨らませた。
俺は否定しようとして、言葉を止めた。
確かに、旅行の準備を任されたら、必要なものを調べ、荷物を整え、移動の予定まで考えてしまいそうだ。
それが執事としての習慣でもある。
「……否定できないな」
俺が苦笑すると、リビアは楽しそうに笑った。
「でしょう? だから、二人で行くなら二人で準備したいの」
「そうだな。リビアが行きたい場所もあるだろうし、一緒に考えた方が楽しそうだ」
「うん。それに、私だってセスの役に立ちたいんだから」
その言葉に、俺は朝の会話を思い出した。
リビアは本当に、俺と対等に支え合いたいと思ってくれているのだろう。
俺が彼女を守りたいと思うのと同じように、彼女も俺を支えたいと願っている。
その気持ちを受け取ることも、婚約者として大切なことなのかもしれない。
◇
学院へ到着すると、いつものように生徒たちが校舎へ向かっていた。
朝の中庭には柔らかな日差しが降り注ぎ、花壇のそばでは数人の生徒が楽しそうに話している。廊下へ入ると、授業の準備をする生徒たちの足音や、教室から聞こえる話し声が重なっていた。
俺とリビアが教室へ入ると、サザリーが席で資料を読んでいた。
「おはよう、サザリー」
「おはよう、クルセス。オリビア様も、おはようございます」
「おはようございます、サザリー君」
リビアが微笑んで挨拶すると、サザリーは資料を閉じた。
「今日は二人とも、いつもより楽しそうだね。何かいいことでもあったのかい?」
俺は少し驚いた。
朝もリビアから似たようなことを言われたが、そんなに表情へ出ているのだろうか。
「実は、放課後に一緒に本を読む約束をしたんだ」
俺が答えると、サザリーは穏やかに微笑んだ。
「なるほど。それは楽しみだね」
「うん。昨日の旅行記の続きを、リビアと一緒に読もうと思ってる」
「北方の街道について書かれている本だったかな?」
「そう。前に話したやつだよ」
サザリーは頷き、少し興味深そうな表情になった。
「北方の街道か。確か、冬季の移動が難しい地域もあるんだよね」
「うん。本にもそう書かれてた。雪が積もると道が分かりにくくなるから、標識の工夫が必要らしい」
「なるほど。そういう話なら、地理の勉強にもつながりそうだね」
俺たちが話していると、教室の扉が開き、ガレスが入ってきた。
「おはよう! ……って、何の話をしてるんだ?」
「北方の街道についてだよ」
俺が答えると、ガレスは少し首を傾げた。
「北方? 雪が多いところか?」
「そう。今読んでいる旅行記に出てくるんだ」
「へえ。俺、そういう場所には行ったことないな。雪道で剣を振ったら、足元が滑って大変そうだ」
ガレスらしい感想に、俺たちは思わず笑った。
けれど、彼の言うことにも一理ある。
足場が悪い場所では、普段どおりに身体を動かせるとは限らない。
「確かに、雪の上だと踏み込み方も変わりそうだな」
俺が言うと、ガレスは興味深そうに頷いた。
「だろ? もし雪の多い場所へ行くことがあったら、そういう訓練もしてみたいな」
「ただし、安全な場所で、ちゃんと指導を受けてからだね」
サザリーが穏やかに付け加える。
「分かってるって。俺だって、いきなり雪の中で剣を振り回したりしないぞ」
ガレスは苦笑しながら答えた。
そのやり取りを聞いて、俺は少し嬉しくなった。
以前なら、ガレスはもっと勢いよく何かを試そうとしていたかもしれない。
けれど、交流演習を経験してからは、行動する前に条件を確認することの大切さを、少しずつ意識するようになっている。
もちろん、俺も同じだ。
できることと、今やるべきことは違う。
そのことを、俺たちはそれぞれの形で学んでいるのだろう。
◇
午前の授業が終わり、休憩時間になると、俺は教室の窓際で次の授業の資料を確認していた。
すると、近くにいたガレスが声をかけてきた。
「なあ、クルセス。ちょっと相談してもいいか?」
「もちろん。どうした?」
ガレスは少しだけ言いにくそうに頭をかいた。
「実はさ、昨日の演習のことを家で話したんだよ。そしたら、父さんからいろいろ聞かれてさ」
「どんなことを?」
「俺がどんな役割をしたのかとか、荷物を運ぶときに何を考えたのかとか。最初は普通に説明してたんだけど、途中で『お前は自分の判断で動けたのか』って聞かれて」
ガレスはそこで一度言葉を区切った。
俺は資料を閉じ、彼の話へ耳を傾ける。
「もちろん、みんなで相談して決めたことは多かった。でも、俺が自分で考えて動いた場面もあったと思うんだ。なのに、いざ説明しようとしたら、うまく言葉にできなくてさ」
彼は少し困ったように笑った。
「俺、ちゃんと役に立ててたのかなって、あとから気になっちまった」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
昨日の演習で、ガレスは確かに多くの場面で力を貸してくれた。
重い木箱を運ぶだけでなく、通路の幅や足場を確認し、荷物を安全に移動させる方法についても意見を出していた。
それは、俺が一人で考えていたら見落としていたかもしれないことだった。
「ガレスは、ちゃんと自分で考えて動いてたと思うよ」
俺が答えると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「本当か?」
「うん。例えば、荷物を運ぶとき、通路の幅を見て、どこなら安全に受け渡せるか考えてくれただろ?」
「ああ、あれか」
「それに、重い木箱を持つときも、無理に一人で運ぼうとせず、レオル先輩や俺と確認しながら動いてくれた。あれも大事な判断だったと思う」
ガレスはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そう言ってもらえると、ちょっと安心するな」
「俺も、ガレスがいてくれて助かったよ」
俺が続けると、彼は嬉しそうに頷いた。
「ありがとな。今度、父さんにもう少しちゃんと説明してみるよ」
「うん。きっと伝わると思う」
ガレスはそう言って、自分の席へ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ考え込んだ。
誰かに頼ることは、自分ができないことを押しつけることではない。
相手が持っている力を信じ、その力を必要な場面で発揮してもらうことでもある。
そして、相手が自分の役割を果たしたときには、そのことをきちんと伝えることも大切なのだろう。
昨日の演習で学んだことが、こうして日常の中でも少しずつ形になっている。
俺はそのことを嬉しく思いながら、次の授業の準備を再開した。
◇
昼休みになると、俺たちはいつものように食堂へ向かった。
今日は窓際の席が空いており、俺とリビア、サザリー、ガレスの四人で座ることができた。
温かな料理の香りが広がる中、ガレスは午前の授業で扱った内容について、少し興奮した様子で話していた。
「いやあ、今日の授業は結構面白かったな。魔術の出力を変えるときの考え方って、実際にやってみると難しそうだけど」
「そうだね。理論として理解することと、実際に安定させることは別だから」
サザリーが答える。
「でも、基礎をちゃんと覚えておけば、実技のときにも役に立つと思うよ」
「だよな。俺も、もう少し勉強しておくかな」
ガレスはそう言って、料理を口へ運んだ。
俺は二人の会話を聞きながら、以前エレナ先生と確認した実技のことを思い出した。
実施日はまだ先だが、決められた手順を守り、無理のない範囲で魔力の状態を確認することになっている。
自分にとっては簡単に感じる内容かもしれない。
けれど、だからといって勝手に条件を変えてよいわけではない。
そのことは、昨日も先生から改めて教わったばかりだった。
「クルセス、何か考え事かい?」
サザリーに声をかけられ、俺は顔を上げた。
「ああ、ちょっと実技のことを思い出してた」
「エレナ先生と確認しているものだね」
「うん。まだ先だけど、ちゃんと準備しておこうと思って」
俺が答えると、ガレスが興味深そうに身を乗り出した。
「そういえば、クルセスの実技って、どんなことをするんだ?」
「低い出力から始めて、状態を保ちながら段階的に変化させるんだ。高い出力を使ったり、複数の属性を混ぜたりするわけじゃないよ」
「へえ。お前ならもっとすごい魔術も使えそうなのに、意外と地道なんだな」
ガレスは少し驚いたように言った。
俺は苦笑しながら頷いた。
「そうだな。でも、先生が確認したいのは、どれだけ強い魔術を使えるかじゃないから」
「なるほど。目的が違うってことか」
ガレスは納得したように頷いた。
その隣で、リビアが穏やかに微笑んだ。
「セスは、できることが多いからこそ、決められた条件を守ることも大切なんだと思うの」
「そうだね。僕もそう思う」
サザリーが頷く。
「能力が高い人ほど、周囲との違いを意識する必要があるのかもしれないね」
俺は二人の言葉を聞きながら、少しだけ考えた。
自分では、特別なことをしているつもりはない。
けれど、周囲から見ると、俺の魔力量や制御力は普通ではないらしい。
そのことを完全に理解できているかと言われれば、まだ自信はなかった。
ただ、だからこそ、先生や友人たちの意見を聞くことが必要なのだろう。
「ありがとう。俺も、気をつけるよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。セスなら、きっと大丈夫」
その言葉に、俺も自然に笑顔になった。
◇
午後の授業が終わると、俺は約束どおり図書室へ向かった。
リビアは委員会の活動がない日だったため、少し遅れて合流することになっている。
図書室へ入ると、窓から差し込む午後の光が書架の間へ伸び、室内には紙と木材の落ち着いた匂いが漂っていた。
俺はいつもの席へ座り、昨日読んでいた旅行記を取り出した。
北方の街道について書かれたその本は、古いものらしく、表紙の角が少し擦り切れている。それでも、丁寧に扱われてきたのだろう。ページはしっかりとしており、挿絵も比較的きれいな状態で残っていた。
しばらく本を眺めていると、入口の方から足音が聞こえてきた。
顔を上げると、リビアがこちらへ歩いてくるところだった。
「セス、お待たせ」
「お疲れさま。今日は早かったな」
「うん。今日は委員会の活動がなかったから、授業が終わってすぐに来られたの」
リビアは嬉しそうに微笑み、俺の隣へ座った。
「それで、今日はどこから読むの?」
「昨日の続きからだよ。ちょうど、北方の町へ向かう旅人たちの話が始まるところなんだ」
俺は本を開き、彼女にも見やすいように少しだけ位置を変えた。
リビアは身を寄せ、挿絵へ目を向ける。
そこには、雪に覆われた街道と、遠くに見える小さな町が描かれていた。
「わあ……きれい」
リビアは思わず声を漏らした。
俺も挿絵を見つめながら頷いた。
白く覆われた道の両側には背の高い木々が並び、その向こうには煙突から煙を上げる家々が描かれている。
実際に見たことのない景色なのに、不思議と静かな空気まで伝わってくるようだった。
「こんな場所を歩いたら、どんな感じなんだろうね」
リビアが小さな声で言った。
「寒いとは思うけど、きっときれいなんだろうな」
「うん。雪の音って、どんなふうに聞こえるのかな」
彼女はそう言って、少しだけ首を傾げた。
俺は考えてみたものの、うまく答えられなかった。
王都で降る雪なら見たことがある。
けれど、深く積もった雪の中を歩いた経験はない。
「実際に行ってみないと分からないな」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いつか確かめに行こうね」
「うん。そうしよう」
俺たちは顔を見合わせ、静かに笑った。
そのあと、旅行記を少しずつ読み進めていった。
北方の町では、冬になると街道の利用が制限されることがあるらしい。
雪が深く積もると道が分かりにくくなり、吹雪の日には遠くの標識さえ見えなくなる。
そのため、旅人たちは天候や道の状態を確認しながら移動し、必要に応じて町や宿で待機するという。
「やっぱり、雪の多い場所では無理に進まないことが大切なんだね」
リビアが言った。
「そうだな。道が分からない状態で進んだら、危険だろうし」
「何だか、昨日の演習を思い出すね」
彼女は少しだけ微笑んだ。
俺も頷いた。
交流演習では、通行条件が変わったときに、確認せず進むことはしなかった。
遠回りになっても、安全に移動できる道を選んだ。
もちろん、雪道の旅とは状況が違う。
けれど、分からないことを確認し、必要なら立ち止まるという考え方には、共通するものがあるのかもしれない。
「そう考えると、旅をするのも簡単じゃないんだな」
俺が言うと、リビアは頷いた。
「うん。でも、だからこそ、誰かと一緒に行くのは心強いのかもしれないね」
彼女はそう言って、俺へ視線を向けた。
「セスと一緒なら、私も安心して旅ができそう」
「俺も、リビアと一緒なら心強いよ」
俺が答えると、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
それから、頬を赤く染めながら微笑んだ。
「……もう。セスは本当に、最近そういうことを普通に言うんだから」
「嫌だった?」
「嫌なわけないでしょう?」
リビアは小さく笑い、俺の手へそっと指を重ねた。
俺もその手を握り返す。
図書室なので、あまり目立つことはできない。
それでも、隣にいる彼女の温もりを感じられるだけで、十分に嬉しかった。
◇
しばらく本を読んでいると、リビアがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、セス。今朝のお願い、覚えてる?」
「もちろん。今日、一緒に本を読んでほしいってお願いしたことだろ?」
「うん。それでね、私からも一つお願いしていい?」
「何?」
リビアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「これからも、こういうお願いをしてほしいな」
俺は少し驚いた。
彼女は続ける。
「何か困ったことがあるときだけじゃなくて、楽しいことを一緒にしたいときも、私に言ってほしいの。セスが何をしたいのか、もっと知りたいから」
その言葉を聞いて、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
俺はこれまで、誰かの役に立つことを大切にしてきた。
それは今でも変わらない。
けれど、自分が何をしたいのかを誰かに伝えることは、あまり得意ではなかった。
特に、リビアのように大切な相手には、彼女の希望を優先したいと思ってしまう。
けれど、それだけでは、彼女が望んでいる関係とは少し違うのだろう。
「……分かった。これからは、もっと自分の希望も話すようにするよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も、セスにいろんなお願いをするからね」
「それは今までどおりじゃないか?」
俺が笑いながら言うと、リビアは少しだけ頬を膨らませた。
「もう、セスったら。確かにそうかもしれないけど、これからはもっと遠慮しないってこと!」
「それなら、俺も覚悟しておかないとな」
「ふふっ。楽しみにしててね」
彼女は悪戯っぽく笑った。
その表情を見ていると、俺まで楽しくなってくる。
リビアは公爵令嬢として完璧に振る舞うことができる。
けれど、俺の前ではこうして甘えたり、少し拗ねたり、嬉しそうに笑ったりする。
その姿を見せてくれることが、俺は何より嬉しかった。
そして、彼女が俺にも同じように自分の気持ちを見せてほしいと思ってくれているのなら、その期待に応えたい。
俺はそう考えながら、彼女の手を少しだけ強く握った。
◇
図書室を出たあと、俺たちは並んで校舎の廊下を歩いていた。
放課後の学院には、授業中とは違う穏やかな空気が流れている。
部活動へ向かう生徒たちの足音や、友人同士で話す声が聞こえ、窓の外では夕日に照らされた中庭の木々が静かに揺れていた。
「セス、今日はありがとう」
リビアが隣から話しかけてきた。
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
「ううん。私もすごく楽しかったよ」
彼女はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「北方の町、ますます行ってみたくなっちゃった」
「俺もだよ。いつか本当に行けたらいいな」
「うん。そのときは、二人で準備しようね」
「もちろん」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
そのまま歩いていると、廊下の先から数人の生徒がやってきた。
俺たちは通行の邪魔にならないよう少し端へ寄り、彼らが通り過ぎるのを待った。
生徒たちは俺たちへ軽く会釈し、楽しそうに話しながら階段の方へ向かっていく。
その姿を見送りながら、俺はふと思った。
学院へ入学したばかりの頃は、こうして多くの生徒が行き交う場所にいるだけでも、どこか落ち着かなかった。
自分がここにいていいのか、周囲の人たちにどう見られているのか、気にしてしまうことが多かった。
今でも、身分の違いが完全になくなったわけではない。
俺が元スラム出身の平民であり、シルフィール伯爵家の養子として学院へ通っていることも変わらない。
けれど、少しずつ友人が増え、リビアと一緒に過ごし、学院での生活にも慣れてきた。
その積み重ねが、俺の中の不安を少しずつ小さくしてくれているのかもしれない。
「セス?」
リビアが不思議そうに俺を見上げた。
「どうしたの? また考え事?」
「うん。学院に来てから、いろいろ変わったなと思って」
俺が答えると、彼女は少しだけ目を細めた。
「そうだね。私も、セスと一緒に学院へ通えるようになって、毎日がすごく楽しいよ」
「俺もだよ」
その言葉に、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは並んで校舎を出て、迎えの馬車へ向かった。
◇
屋敷へ戻る馬車の中では、リビアが少し疲れたように座席へ身体を預けていた。
今日は通常の授業に加えて、図書室で長い時間本を読んでいたのだから、無理もないだろう。
「リビア、少し休む?」
俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「うん。でも、その前に一つだけお願いしてもいい?」
「もちろん。何?」
リビアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「今日も、セスの肩を借りてもいいかな?」
俺は思わず笑った。
「そんなの、いつでもいいよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに俺の肩へ頭を預けた。
銀青色の髪が肩に触れ、柔らかな感触が伝わってくる。
俺は彼女が楽な姿勢でいられるよう、少しだけ身体の向きを変えた。
「ありがとう、セス」
「どういたしまして」
リビアは目を閉じたまま、小さく笑った。
窓の外では、夕暮れの王都の街並みがゆっくりと流れている。
通りを行き交う人々の声が遠くに聞こえ、馬車の車輪が石畳を進む音が一定のリズムで続いていた。
俺は隣にいるリビアの温もりを感じながら、今日一日の出来事を思い返した。
朝、リビアからもっと頼ってほしいと言われたこと。
学院でガレスやサザリーと話したこと。
そして、放課後に二人で旅行記を読んだこと。
どれも、特別に大きな事件ではない。
けれど、その一つ一つが、今の俺にとって大切な時間だった。
(俺は、こういう毎日を大事にしたいんだな)
そう思いながら、リビアの手へそっと自分の手を重ねた。
彼女は目を閉じたまま、その手を握り返してくれる。
「セス」
「どうした?」
「今日も、楽しかったね」
リビアは小さな声でそう言った。
俺は彼女の顔を見つめ、静かに頷いた。
「うん。俺も楽しかった」
「明日も、いい日になるといいな」
「そうだな。でも、何か大変なことがあっても、二人で相談すればいいと思う」
俺が答えると、リビアはゆっくりと目を開けた。
そして、嬉しそうに微笑む。
「うん。そうだね」
彼女は俺の肩へもう一度頭を預け、安心したように息を吐いた。
俺たちはそのまま、しばらく静かな時間を過ごした。
誰かに頼ること。
誰かへ任せること。
そして、自分の気持ちを素直に伝えること。
それは、何か大きな問題が起きたときだけ必要になるものではない。
こうして何気ない毎日を過ごす中でも、少しずつ身につけていくものなのだろう。
俺は隣にいるリビアの手を握りながら、窓の外へ目を向けた。
夕日が王都の建物の向こうへ沈み始め、街並みが柔らかな橙色に染まっている。
明日も学院がある。
屋敷での仕事も、友人たちとの時間も、リビアと過ごす時間も続いていく。
その一つ一つを大切にしながら、少しずつ成長していきたい。
俺はそう思い、静かに微笑んだ。
馬車は穏やかに揺れながら、俺たちの帰る屋敷へ向かって進んでいった。




