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第92話 頼ることと、任せることの間には


 朝の執務室には、紙をめくる音と、窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりが静かに重なっていた。


 俺は机の上に並べられた書類を確認しながら、記載された数字と実際の備品数を照らし合わせていた。学院へ通うようになってからも、朝の時間にできる範囲で執事見習いとしての仕事を続けているが、最近は以前よりも仕事の進め方について考えることが増えている。


 きっかけは、やはり先日の交流演習だった。


 第三班の六人で役割を分担し、通行条件の変更や物資の運搬に対応した経験は、演習が終わったあとも俺の中に残っている。昨日も父さんや友人たちと話すうちに、誰かに任せることは自分の責任を放棄することではないのだと、改めて感じた。


 もっとも、頭では理解できても、長年の習慣がすぐに変わるわけではない。


「……あれ?」


 備品一覧の最後まで確認したところで、俺は小さく首を傾げた。


 記載されている予備の燭台の数と、今朝確認した保管棚の数が一つだけ合わない。昨日の記録では数量に問題がなかったはずなので、どこかで移動された可能性があった。


(別の部屋で使うことになったのかもしれないな。確認すればすぐ分かると思うけど……)


 俺は椅子から立ち上がりかけ、そこで動きを止めた。


 燭台の移動記録は、別の担当者が管理している。


 俺が自分で保管棚や各部屋を調べれば、数を合わせることはできるだろう。しかし、それでは担当者がすでに把握している情報を確認せず、余計な時間を使うことになるかもしれない。


 昨日、父さんが話してくれたことを思い出す。


 誰かを助けるつもりの行動が、相手の役割を奪ってしまう場合もある。


 俺は書類を閉じると、廊下へ出て、備品の移動記録を担当している使用人のところへ向かった。


 事情を説明すると、相手はすぐに記録帳を確認してくれた。


「予備の燭台でしたら、昨日の夕方に客間へ一つ移しております。今朝の一覧へ反映する予定でしたが、まだ記入できておりませんでした」


「そうだったんですね。ありがとうございます。それなら、こちらの記録にも移動済みとして記載しておきます」


「お手数をおかけしました。こちらもすぐに更新しておきます」


 相手が申し訳なさそうに頭を下げたため、俺は首を横へ振った。


「いえ、移動したことが確認できれば問題ありません。こちらこそ、教えていただいて助かりました」


 そのまま執務室へ戻り、必要な箇所だけを修正する。


 作業自体は、それほど時間のかかるものではなかった。


 けれど、いつものように自分で調べ始めていたら、もっと多くの時間を使っていたかもしれない。


(こういう小さなことでも、先に聞いた方がいい場合があるんだな)


 そう考えながら書類を整えていると、開いた扉の向こうから父さんの声が聞こえた。


「セス、少しいいか」


「はい、父さん」


 俺が顔を上げると、父さんは執務室へ入り、机の上に置かれた書類へ目を向けた。


「備品の確認は終わったようだな」


「はい。燭台の数に違いがありましたが、移動記録を担当している方へ確認して、修正しました」


「そうか。では、その書類はこちらで預かろう」


 父さんは俺から書類を受け取り、内容へ目を通した。


 いつもなら、確認が終わればそのまま次の仕事へ移るところだが、今日は少し違った。


「セス、今朝の確認について、一つ聞いてもいいか?」


「はい。何でしょうか」


「燭台の数が合わなかったとき、お前は最初にどうしようと思った?」


 思いがけない質問だった。


 俺は少し考えてから、正直に答えた。


「最初は、自分で保管棚を調べようと思いました。でも、移動記録の担当者に聞いた方が確実だと思って、確認しに行きました」


 父さんは静かに頷いた。


「それでよい。今回のお前の仕事は、備品の数と記録が一致しているか確認することだ。移動の経緯をすべて自分で調べることではない」


「はい」


「もちろん、担当者が不在だったり、記録に不自然な点が残ったりした場合は、別の確認方法を考える必要がある。だが、今回は担当者へ聞くのが最も確実だっただろう」


 俺は頷きながら、父さんの言葉を聞いた。


 執事の仕事では、細かなことに気づく力が必要になる。


 けれど、それと同じくらい、誰が何を把握しているのか知っておくことも大切なのだろう。


「父さん、俺はまだ、任せることと自分でやることの区別が難しいです」


 思わず口にすると、父さんは少しだけ目を細めた。


「難しくて当然だ。どちらか一方が常に正しいわけではないからな」


 父さんは書類を机へ置き、俺へ向き直った。


「例えば、お前が気づいた問題を誰かに伝えたとしても、それで確認が終わったことにはならない。相手が対応できる状況か、必要な情報が伝わっているか、最終的に問題が解決したか。そこまで考える必要がある」


「……なるほど」


「逆に、相手が十分に対応できると分かっているのに、心配だからとすべて自分で引き受ければ、相手はいつまでも経験を積めないだろう」


 その言葉に、俺はガレスの顔を思い出した。


 昨日の朝、彼は俺に言ってくれた。


 心配してくれるのは嬉しいが、自分にも役に立てると信じてほしい、と。


 俺はそのとき、確かに納得したつもりだった。


 けれど、父さんの説明を聞いていると、それを日々の行動へ移すには、まだ意識することが多そうだと分かる。


「ありがとうございます。少しずつ考えてみます」


「ああ。それでいい」


 父さんは穏やかに微笑んだ。


「それから、今日の学院での予定について、何か変更はあるか?」


「通常の授業があります。あと、エレナ先生から、今後予定されている魔術実技について確認する機会があるかもしれません」


「そうか。以前から話していた、出力の変化を段階的に確認する実技だな」


「はい。ただ、実施日はまだ先ですし、今日すぐに試す予定はありません」


「ならば、先生の指示をよく聞くことだ。お前は魔力の制御に優れているが、だからといって準備を省いてよい理由にはならない」


「分かっています」


 俺が答えると、父さんは満足そうに頷いた。


 そのあと、学院へ出発するまでの仕事を確認し、俺たちはそれぞれの持ち場へ戻った。


 廊下を歩きながら、俺は今朝の出来事を思い返す。


 備品の数が一つ合わなかっただけの、小さな出来事だった。


 けれど、誰かの役割を尊重するというのは、こういう日常の中でも必要なことなのだろう。


 特別な演習のときだけ意識していても、意味はないのかもしれない。


     ◇


 朝食を終え、学院へ向かう馬車に乗ると、リビアは俺の顔を見て少し不思議そうに首を傾げた。


「セス、今日は何かいいことがあった?」


「どうして?」


「何となく、いつもより考え事をしているように見えるのに、楽しそうだから」


 そう言われて、俺は少し驚いた。


 自分では普段と変わらないつもりだったが、リビアには何か違って見えたらしい。


「実は、今朝の仕事でちょっとしたことがあってさ」


 俺は備品の確認で起きた出来事を話した。


 数が合わなかったこと。


 最初は自分で調べようとしたこと。


 けれど、担当者へ確認した方が確実だと思い直したこと。


 そして、父さんから仕事を任せることについて教わったこと。


 リビアは途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。


「そうだったんだ。セス、ちゃんと考えて行動したんだね」


「うん。でも、父さんに言われて気づいたことも多かったよ」


「それでいいと思うな。私だって、分からないことはお父様や先生に教えていただくもの」


 彼女はそう言って、膝の上で両手を重ねた。


「それに、セスが誰かに相談するようになったのは、私は嬉しいよ」


「リビアは前からそう言ってくれてるよな」


「うん。だって、セスは本当に何でも一人で頑張ろうとするんだもの」


 リビアは少しだけ頬を膨らませた。


 その仕草が可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまう。


「笑うところじゃないよ、セス」


「ごめん。でも、リビアがそうやって心配してくれるのが嬉しくて」


 俺が答えると、彼女は少しだけ驚いたように瞬きをした。


 それから、頬を赤く染めながら視線を逸らす。


「……もう。最近のセスは、そういうことを普通に言うんだから」


「嫌だった?」


「嫌なわけないでしょう?」


 リビアはすぐにこちらを向き、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。


「嬉しいに決まってるよ。ただ、心の準備ができていないと、ちょっと困るだけ」


 俺は彼女の言葉に笑い、そっと手を差し出した。


 リビアはその手を見て、嬉しそうに指を重ねてくれる。


 昨日の馬車でも、俺たちはこうして手をつないでいた。


 以前なら、彼女から手を伸ばしてくれるのを待っていたかもしれない。


 けれど今は、自分から触れたいと思ったときに、素直に手を差し出せるようになってきた。


(リビアが嬉しそうにしてくれるなら、俺も遠慮する必要はないんだよな)


 そう考えながら握った手へ少しだけ力を込めると、彼女も同じように握り返してくれた。


 馬車の窓から差し込む朝日が、リビアの銀青色の髪を柔らかく照らしている。


 俺たちはしばらく他愛のない話をしながら、学院へ向かった。


     ◇


 午前の授業が始まる前、教室へ入ると、サザリーが自分の席で資料を読んでいた。


 昨日の交流演習についてまとめた記録とは違い、今日は魔術の基礎理論に関する資料らしい。


「おはよう、サザリー」


「おはよう、クルセス。オリビア様も、おはようございます」


「おはようございます。今日は魔術の勉強ですか?」


 リビアが尋ねると、サザリーは資料を閉じて頷いた。


「はい。午後の授業で扱う範囲を少し確認していました。昨日、先生から次に使う資料の案内があったので」


「そうだったね。私もあとで確認しておこうかな」


 リビアはそう言って、自分の席へ鞄を置いた。


 俺も席へ着き、授業の準備を始める。


 しばらくすると、ガレスが教室へ入ってきた。


 彼は俺たちの姿を見つけると、いつもの明るい声で挨拶した。


「おはよう! なあ、クルセス。ちょっと聞いてもいいか?」


「もちろん。どうした?」


「午後の魔術理論で使う資料なんだけどさ、昨日のうちに読んでみたら、途中の説明がよく分からなくて」


 ガレスは鞄から資料を取り出し、俺の机へ広げた。


 そこには、魔力を一定の状態に保つための基本的な考え方が書かれている。


 魔術の種類や属性によって細かな違いはあるが、魔力を急に変化させるのではなく、目的に応じて調整することの重要性を説明した部分だった。


「ここなんだけど、出力を上げるときに一度状態を保つって、どういう意味なんだ?」


 ガレスが指差した箇所を見て、俺は少し考えた。


 魔力制御については、普段から感覚的に行っている部分も多い。


 けれど、それを人へ説明するとなると、ただ自分の感覚を伝えるだけでは分かりにくいだろう。


「たとえば、急に力を込めるんじゃなくて、今どのくらいの魔力を使っているか確認してから、少しずつ変えるってことだと思う」


「なるほど……でも、確認してる間に魔術が止まったりしないのか?」


「そこは術式によるけど、資料で言ってるのは、出力を一定に保つ練習のことじゃないかな」


 俺が説明すると、ガレスは少しだけ考え込んだ。


「うーん。言ってることは分かるんだけど、実際にやるところが想像しにくいな」


 その反応を見て、俺は説明の仕方を変えることにした。


「じゃあ、剣を振るときのことを考えてみてくれ。最初から全力で振り下ろすんじゃなくて、相手の動きを見ながら力加減を調整することってあるだろ?」


「ああ、それなら分かるぞ。相手の動きに合わせて、踏み込みや剣の速度を変えることはあるな」


「それと完全に同じではないけど、考え方は少し似てると思う。魔力を強くすることだけじゃなくて、必要な状態で保つことも大切なんだ」


 ガレスは資料へ目を落とし、ゆっくり頷いた。


「なるほどな。そう考えると、ちょっと分かりやすい」


 彼は嬉しそうに笑った。


「助かったよ、クルセス。やっぱりお前に聞いてよかった」


「どういたしまして。でも、俺の説明だけで分かりにくいところがあったら、授業で先生にも確認してくれよ」


「もちろん。そこはちゃんと聞くつもりだ」


 ガレスは資料を片づけながら、少し照れくさそうに笑った。


「俺、魔術の細かい理論はあんまり得意じゃないけど、分からないままにしておくのも嫌なんだよな」


「それでいいと思うよ。俺だって、知らないことはたくさんあるし」


 俺が答えると、ガレスは少し意外そうな顔をした。


「お前でも分からないことがあるのか?」


「そりゃあるよ。知らない魔導具の仕組みとか、古い記録の内容とか、分からないことばかりだ」


 俺は先日の術式確認区域を思い出しながら答えた。


 あのときも、見たことのない魔導具を前に、俺たちは説明書を確認しなければ正しく判断できなかった。


 魔力を扱えることと、魔導具の仕組みをすべて理解していることは違う。


 ガレスは俺の話を聞き、少し安心したように笑った。


「そうか。じゃあ、俺も焦らず覚えていくかな」


「うん。それがいいと思う」


 俺たちが話していると、近くで聞いていたサザリーが穏やかに口を開いた。


「今の説明、僕にも参考になったよ。資料の文章だけだと少し抽象的だったけど、実際の動作と結びつけると分かりやすいね」


「そう言ってもらえるならよかった」


 俺が答えると、リビアも嬉しそうに微笑んだ。


 こうして授業が始まる前に友人たちと話す時間は、以前よりもずっと自然なものになっている。


 何か特別な出来事がなくても、分からないことを聞いたり、互いの考えを話したりできる。


 俺はそのことが、少し嬉しかった。


     ◇


 午前の授業が終わり、次の教室へ移動しようとしていたときだった。


 廊下の先からエレナ先生が歩いてくるのが見えた。


 先生は俺とリビアに気づくと、穏やかに声をかけてくださった。


「クルセス君、オリビアさん。少し時間はありますか?」


「はい。次の授業までは少し余裕があります」


 俺が答えると、先生は頷いた。


「それなら、以前から予定している魔術実技について、確認しておきたいことがあります。長くはかかりませんので、少しお話ししましょう」


「分かりました」


 俺たちは先生の案内で、廊下の端にある小さな相談用の机へ向かった。


 そこは授業の合間に教師と生徒が短い相談をするための場所らしく、壁際には椅子が並び、窓からは中庭の様子が見えていた。


 先生は机へ資料を置き、俺たちが座るのを待ってから話し始めた。


「まず、今回の確認は実技そのものではありません。実施は以前お伝えした予定に従い、当日の安全確認を終えてから行います」


「はい」


「今日、魔力を出してもらうこともありません。内容と手順を理解しているか確認するだけです」


 俺は頷いた。


 エレナ先生と相談している実技は、魔力の出力を段階的に変化させたときの状態を確認するものだ。


 ただし、何でも自由に試してよいわけではない。


 使用する属性は当日に水、土、風の中から二つを選び、低い出力から始めて、一定の状態を保ちながら段階的に変化させることになっている。


 高出力の魔術や複数属性の混合、雷を利用した身体強化などは対象外だ。


「クルセス君、現在の手順を、自分の言葉で説明できますか?」


 先生に尋ねられ、俺は資料を見ずに答えることにした。


「まず、低い出力で始めて、その状態を一定時間保ちます。次に、先生の指示があれば中程度まで上げ、そこでまた状態を確認します。そのあと低い出力へ戻して、最後に停止します」


 先生は静かに頷いた。


「そのとおりです。では、途中で状態が安定しなかった場合は?」


「無理に次の段階へ進まず、先生へ報告します。必要ならその時点で停止します」


「よろしい。追加の確認を行う場合については?」


「最初の手順が終わったあと、先生が許可した場合だけ、低い出力で短く確認して停止します」


 俺が答えると、先生は資料へ目を落とした。


「理解できていますね。では、最後に一つ。予定している手順が簡単に感じられた場合、どうしますか?」


 俺は少しだけ考えた。


 自分にとって低い出力の魔術を保つことは、それほど難しくない。


 だからといって、勝手に出力を上げたり、別の属性を試したりしてよいわけではない。


「決められた範囲で行います。簡単に感じても、先生の許可なく条件を変えません」


 先生は満足そうに微笑んだ。


「その認識で結構です。今回確認したいのは、どれほど大きな魔術を使えるかではありません。指定した条件の中で、状態を安定させ、変化を確認できるかどうかです」


 その説明を聞き、俺は改めて頷いた。


 魔力の量が多いことと、必要な条件を守れることは別の話だ。


 それは先日の交流演習で学んだこととも、少し似ている気がした。


「オリビアさんから、何か確認しておきたいことはありますか?」


 先生が尋ねると、リビアは少し考えてから口を開いた。


「セスが実技を行うとき、私が近くにいる場合も、勝手に結界を使わない方がいいのでしょうか?」


 先生はリビアの質問に頷いた。


「そうですね。実技では、必要な安全対策を教師側で準備します。オリビアさんが結界を使う必要がある場合は、こちらから明確に指示しますので、それまでは見守っていてください」


「分かりました」


「もちろん、実際に危険な状態が発生した場合は、安全確保が最優先です。ただし、通常の確認中に独自の判断で術式へ干渉することは避けてください」


 リビアは真剣な表情で頷いた。


 俺は隣に座る彼女を見て、少しだけ胸が温かくなった。


 リビアは、俺が危険な目に遭わないように考えてくれている。


 けれど、心配だからと何でも自分で対処しようとするのではなく、先生の指示や実技の目的を確認しようとしてくれていた。


 それは、俺が最近考えていることと同じなのかもしれない。


「ありがとうございます、先生。俺も当日は、決められた手順を守ります」


「ええ。期待していますよ。ただし、無理をしないことも忘れないでくださいね」


「はい」


 先生は資料をまとめ、俺たちへ軽く頷いた。


 相談を終えて廊下へ戻ると、次の授業へ向かう生徒たちの足音が聞こえてきた。


 俺とリビアも教室へ向かって歩き始める。


「セス、先生のお話、ちゃんと聞けてよかったね」


「うん。実技の日までに確認しておくことが分かったよ」


「私も、見守るときに何を気をつければいいのか分かって安心した」


 リビアはそう言って、少しだけ微笑んだ。


「セスならきっと上手にできると思うけど、だからって無理はしないでね」


「分かってるよ。リビアも、心配しすぎないでくれ」


「それは……ちょっと難しいかもしれない」


 彼女は困ったように笑った。


 俺もつられて笑いながら、隣を歩く彼女へ目を向ける。


 リビアが心配してくれるのは嬉しい。


 けれど、その気持ちに甘えて何も考えなくなるのも違うし、逆に心配させまいとして自分の状態を隠すのも違う。


 きっと、互いに言葉を交わしながら、少しずつちょうどいい距離を見つけていくのだろう。


     ◇


 昼休みになると、俺たちは食堂へ向かった。


 今日はサザリーとガレスも一緒で、窓際の席を確保することができた。


 温かな料理の香りが広がる中、ガレスは午前の授業で扱った内容について、少し興奮した様子で話していた。


「いやあ、朝にクルセスへ聞いておいてよかったよ。授業で先生が説明したとき、前よりずっと分かりやすかった」


「それならよかった」


 俺が答えると、ガレスは嬉しそうに頷いた。


「でも、まだ細かいところは難しいな。魔力を一定に保つって、剣の力加減と似てるようで、やっぱり違うところもあるし」


「そうだね。感覚が似ていても、同じものとして考えすぎると間違えるかもしれない」


 サザリーが言う。


「僕も今日の授業で、説明の例えと実際の仕組みは分けて考えた方がいいと思ったよ」


 ガレスは少し考えてから、納得したように頷いた。


「なるほど。じゃあ、分かりやすくするための例えは例えとして覚えて、ちゃんと理論も勉強しないとな」


「うん。その方がいいと思う」


 俺たちはそんな話をしながら食事を進めた。


 しばらくすると、サザリーが俺へ視線を向けた。


「そういえば、クルセス。さっきエレナ先生と話していたみたいだけど、何かあったのかい?」


「ああ。以前から予定している魔術実技について、手順を確認していたんだ」


「なるほど。実施日が決まったの?」


「いや、まだ先だよ。今日は説明だけで、魔術も使ってない」


 俺が答えると、サザリーは頷いた。


「そうなんだ。クルセスの魔術は普段から安定しているように見えるけど、改めて条件を決めて確認するんだね」


「うん。先生からも、出力の大きさじゃなくて、指定された状態を保てるかどうかが大切だって言われたよ」


 その言葉に、ガレスが興味を示した。


「それって、朝に俺が聞いた話と似てるな」


「そうだな。ちょうど同じようなことを確認してた」


 俺が答えると、ガレスは少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ、俺も今のうちに基礎をちゃんと覚えておくかな。いつか実技で必要になるかもしれないし」


 サザリーも頷いた。


「基礎を理解しておくのは大切だね。ただ、クルセスの実技は先生が個別に確認しているものだから、僕たちが同じことを勝手に試すのは違うと思う」


「分かってるって。俺だって、勝手に変なことをするつもりはないぞ」


 ガレスは苦笑しながら答えた。


 そのやり取りを聞いて、俺は少し安心した。


 魔術の話になると、どうしても強い術式や珍しい技術へ興味が向きやすい。


 けれど、今の友人たちは、何かを試す前に条件や目的を確認することの大切さを理解してくれている。


 それが嬉しかった。


 食事を終える頃、リビアがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、今日の放課後、委員会で案内表示の試案をもう一度確認することになっているの」


「昨日も話してたやつ?」


 俺が尋ねると、彼女は頷いた。


「うん。昨日は色や枠の形について意見を出したんだけど、今日は実際に廊下で見たときの分かりやすさを確認する予定なの」


「なるほど。実際の場所で見るんだね」


「そうなの。机の上で見るのと、廊下の少し離れた場所から見るのとでは、印象が違うかもしれないでしょう?」


 リビアはそう言って、少し楽しそうに微笑んだ。


 俺は昨日、図書室で彼女が見せてくれた試案を思い出した。


 色だけでなく、番号や枠の形を組み合わせた表示。


 まだ正式なものではないが、使う人の立場で考えようとしていることが伝わってくる。


「うまくいくといいな」


「ありがとう。まだ試している段階だけど、少しずつ良くしていきたいな」


 リビアは嬉しそうに答えた。


 その表情を見ていると、俺も自然に笑顔になる。


 彼女が自分の役割を大切にし、周囲の人たちと協力しながら進めていることが、何だか誇らしかった。


     ◇


 午後の授業が終わると、リビアは委員会の活動へ向かった。


 俺はいつものように図書室へ寄ろうと思っていたが、廊下へ出たところでサザリーに声をかけられた。


「クルセス、少しだけ時間はあるかな?」


「うん。どうした?」


「昨日の演習の記録について、確認したいことがあるんだ。僕の書き方で、少し気になるところがあってね」


 サザリーはそう言って、鞄から紙束を取り出した。


 昨日、俺たちが第三観測室で西側の通路を選んだ理由をまとめた部分らしい。


 俺たちは廊下の端にある長椅子へ移動し、紙を広げた。


「ここなんだけど、最初は『西側の方が安全だったため選択』って書いていたんだ。でも、あとから読み直すと、少し言い切りすぎている気がして」


 俺は記録へ目を落とした。


 確かに、俺たちは西側の通路を選んだ。


 けれど、東側が危険だったからというわけではない。


 東側にも利用条件があり、それを守れば通行できたはずだ。


「そうだな。東側も、物資を分けて運べば使えたんだよな」


「うん。だから、『物資を分けずに運搬でき、班員全員で移動できるため選択』に直そうと思っているんだ」


 サザリーはそう言いながら、修正した文章を指差した。


「これなら、僕たちが何を重視したのか分かると思うんだけど、どうかな?」


「うん。そっちの方が正確だと思う」


 俺が答えると、サザリーは安心したように息を吐いた。


「よかった。記録って、事実だけ書けばいいと思っていたけど、言葉の選び方で印象が変わるんだね」


「確かに。俺も、言われるまでそこまで考えてなかったよ」


 俺たちはしばらく記録を見比べた。


 サザリーはほかにも、途中の障害物について書いた部分を確認していた。


 そこには、荷物を受け渡す方法を選んだ理由や、封印の状態を確認したことが簡潔にまとめられている。


「こうして見ると、昨日は本当にいろいろ考えてたんだな」


 俺が言うと、サザリーは小さく笑った。


「そうだね。演習中は次に何をするか考えるので精一杯だったけど、あとから整理すると、みんながそれぞれ判断していたことが分かるよ」


「サザリーが記録してくれたから、こうして振り返れるんだと思う」


 俺が答えると、彼は少し照れたように視線を落とした。


「ありがとう。でも、僕一人じゃここまで整理できなかったよ。みんながその場で理由を話してくれたから、記録に残せたんだ」


 その言葉に、俺は頷いた。


 昨日の演習では、サザリーが情報整理を担当していた。


 けれど、情報を集めるためには、ほかの五人が気づいたことを伝える必要があった。


 役割を分けるというのは、仕事を完全に切り離すことではないのだろう。


「そういえば、クルセス」


 サザリーが紙をまとめながら、少しだけ真剣な表情になった。


「昨日、中央確認所で君が話したこと、覚えているかい?」


「全員で判断することが大切だって話したこと?」


「うん。あれを聞いて、僕も少し考えたんだ」


 彼は膝の上へ紙束を置き、ゆっくりと言葉を続けた。


「僕は情報を整理するのが得意だと思っているけど、だからといって、全部の情報を僕が集めなければならないわけじゃないんだよね。必要な人へ直接伝えた方が早い場合もあるし、僕が確認できないことは、ほかの人に見てもらう必要もある」


「そうだな。俺も昨日、それを実感したよ」


「だから、次に誰かと協力する機会があったら、最初からもう少し柔軟に考えてみたいと思っているんだ」


 サザリーはそう言って、穏やかに微笑んだ。


 俺はその表情を見ながら、少し嬉しくなった。


 昨日の演習で何かを学んだのは、俺だけではなかった。


 サザリーも、ガレスも、エミリアも、レオル先輩も、リビアも、それぞれに感じたことがあったのだろう。


 同じ出来事を経験しても、気づくことは人によって違う。


 だからこそ、あとから話し合うことにも意味があるのかもしれない。


「また何か一緒にできるといいな」


 俺が言うと、サザリーは嬉しそうに頷いた。


「うん。僕もそう思うよ」


     ◇


 サザリーと別れたあと、俺は図書室へ向かった。


 窓から差し込む午後の光が書架の間へ伸び、室内には紙と木材の落ち着いた匂いが漂っている。


 いつもの席へ座り、以前から読んでいる北方の旅行記を開いた。


 今日は、雪の多い地域で使われる街道の標識について書かれた部分だった。


 冬になると道の境目が雪に埋もれてしまうため、街道沿いには背の高い目印が設けられているらしい。場所によっては色のついた板や、遠くからでも見分けられる形の標識を使うこともあるという。


 俺はその記述を読みながら、リビアが委員会で取り組んでいる案内表示のことを思い出した。


(場所は全然違うけど、遠くからでも分かるようにするっていう考え方は似てるのかもしれないな)


 もちろん、北方の雪道で使う標識と、学院の廊下に設置する案内表示では、必要な条件が違う。


 雪の中では視界が悪くなることもあるし、標識そのものが雪に埋もれないようにする工夫も必要だろう。


 一方、学院では人の行き来や掲示する場所、廊下の明るさなどを考えなければならない。


 それでも、使う人が迷わないようにするという目的には、共通するものがある気がした。


 俺は読み進めながら、気になった箇所を覚えておくことにした。


 リビアへ話してみれば、何か参考になるかもしれない。


 ただし、委員会の案を俺が勝手に決めるつもりはない。


 彼女が必要だと思ったときに、一つの例として伝えられれば十分だろう。


 そう考えながら本を読んでいると、しばらくして図書室の入口から足音が聞こえてきた。


 顔を上げると、リビアがこちらへ歩いてくるところだった。


 彼女は俺の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。


「セス、お待たせ」


「お疲れさま。委員会の方はどうだった?」


「今日は、実際に廊下へ試案を置いて、少し離れた場所から見え方を確認したの」


 リビアは俺の隣へ座り、鞄から紙を取り出した。


 そこには、昨日見せてもらったものと似た案内表示が描かれている。


 ただし、番号の位置や枠の形が少し変わっていた。


「最初は、机の上で見たときと同じように分かると思っていたんだけど、実際に廊下で見ると、少し離れた場所からは番号が読みにくいところがあったの」


「そうだったんだ」


「うん。それで、番号を少し大きくした案も試してみたんだけど、今度はほかの表示とのバランスが難しくて」


 リビアは少し困ったように笑った。


 俺は紙を見ながら、彼女の説明を聞いた。


 確かに、番号を大きくすれば見やすくなるかもしれないが、その分だけほかの情報を置く場所が狭くなる。


 色や枠の形も組み合わせるとなれば、単純に大きくすればよいというものでもないのだろう。


「でも、実際に試したから分かったことなんだよね」


 俺が言うと、リビアは頷いた。


「そうなの。最初から完璧な案を作るのは難しいけど、試してみれば直した方がいいところが分かるんだね」


 彼女はそう言って、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「マリエッタ先輩も、すぐに決める必要はないって言ってくださったの。何人かに見てもらって、分かりやすいかどうか確認してから考えようって」


「それはよかったな」


「うん。私も、急いで決めるより、ちゃんと確かめたいと思ってる」


 リビアの表情には、疲れだけでなく充実した様子も感じられた。


 俺はその姿を見て、少しだけ嬉しくなった。


 彼女は公爵令嬢として多くのことを学び、周囲から期待されている。


 けれど、こうして学院の委員会で一つの案を考え、ほかの生徒たちと相談しながら進めているときのリビアは、どこか楽しそうだった。


 自分の考えを持ちながら、ほかの人の意見も聞く。


 その姿は、俺がよく知っているリビアらしいと思った。


「そういえば、リビア」


 俺は開いていた旅行記へ目を向けた。


「今読んでる本に、北方の街道で使われる標識の話が出てきたんだ」


「標識?」


「うん。雪が積もると道が分かりにくくなるから、遠くからでも見分けられる形や色を使っているらしい」


 俺が説明すると、リビアは興味深そうに本を覗き込んだ。


「へえ……そんな工夫があるんだね」


「学院の廊下とは条件が違うけど、遠くから見やすくするっていう考え方は、少し参考になるかもしれないと思って」


 俺は該当するページを示した。


 リビアは文章を読み、少し考え込むような表情になった。


「確かに、形で区別できるようにするのは大切かもしれないね。でも、雪道の標識と同じ形にするわけにはいかないし、学院で使うなら別の工夫が必要そう」


「そうだな。俺も、あくまで考え方の参考くらいだと思う」


 リビアは頷き、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、セス。こういう話を聞けるの、すごく助かるよ」


「そう言ってもらえるならよかった」


 俺が答えると、彼女は少しだけ身を寄せてきた。


「セスは、私が何か考えているとき、ちゃんと話を聞いてくれるよね」


「リビアが頑張ってることだから、俺も知りたいんだ」


 そう答えると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。


 それから、頬をほんのり赤く染めながら微笑む。


「……そういうところ、本当に好き」


 小さな声だった。


 けれど、静かな図書室では、その言葉がはっきりと聞こえた。


 俺は一瞬返事に迷い、周囲へ目を向けた。


 幸い、近くの生徒たちはそれぞれ本へ集中している。


 俺は少しだけ声を落とし、リビアへ答えた。


「俺も、リビアのそういうところが好きだよ」


 彼女は嬉しそうに目を細めた。


 その笑顔を見ていると、俺まで胸が温かくなる。


 以前なら、こうして気持ちを伝えることにもっと戸惑っていたかもしれない。


 けれど今は、好きだと思った気持ちを、できるだけ言葉にしたいと思うようになっていた。


 もちろん、いつでも上手に伝えられるわけではない。


 それでも、リビアが嬉しそうにしてくれるなら、少しずつ慣れていきたい。


     ◇


 図書室を出たあと、俺たちは並んで校舎の廊下を歩いていた。


 放課後の学院には、授業中とは違う穏やかな空気が流れている。


 部活動へ向かう生徒たちの足音や、友人同士で話す声が聞こえ、窓の外では夕日に照らされた中庭の木々が静かに揺れていた。


「セス、今日もいろいろあったね」


 リビアが隣から話しかけてきた。


「そうだな。朝は父さんと話して、学院ではガレスに魔術の説明をして、エレナ先生とも実技の確認をしたし」


「サザリー君とも話してたんでしょう?」


「うん。昨日の演習の記録を見せてもらったんだ」


 俺はサザリーとの会話について簡単に説明した。


 記録の言葉を少し変えるだけで、伝わる意味が違ってくること。


 自分たちが選んだ道が正解だったからといって、別の道が間違いだったとは限らないこと。


 そして、情報整理も一人で完結する仕事ではないということ。


 リビアは興味深そうに聞いていた。


「サザリー君らしいね。ちゃんとあとから振り返って、もっと正確にしようとしてるんだ」


「うん。俺も、ああいうところは見習いたいと思ったよ」


 俺が答えると、リビアは穏やかに微笑んだ。


「セスも、最近は前より自分の考えを話してくれるようになった気がする」


「そうかな?」


「うん。前は、何か考えていても、私が聞くまで話してくれないことが多かったもの」


 その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。


 確かに、以前の俺は、自分の考えを誰かへ伝えることに慣れていなかった。


 特に、困っていることや迷っていることは、自分の中で解決しようとしていた気がする。


 それは、リビアを心配させたくなかったからでもあるし、誰かに頼ることを当たり前だと思えなかったからでもある。


 けれど、今は少し違う。


 リビアは俺の婚約者であり、これからも一緒に歩んでいきたいと思っている相手だ。


 だからこそ、自分の考えを隠すのではなく、話していきたい。


「……リビアには、ちゃんと話したいと思うようになったんだ」


 俺がそう言うと、彼女は足を止めた。


 俺も立ち止まり、隣を見る。


 リビアは少し驚いたような顔をしていたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「嬉しい。私も、セスにはいろんなことを話したい」


 彼女はそう言って、俺の袖をそっとつまんだ。


「楽しいことも、困ったことも、ちょっと恥ずかしいことも。全部を一度に話さなくてもいいから、少しずつ共有していけたらいいな」


「うん。俺もそう思う」


 俺たちは顔を見合わせ、静かに笑った。


 そのまま再び歩き始めると、廊下の先から数人の生徒がやってきた。


 俺たちは通行の邪魔にならないよう少し端へ寄り、彼らが通り過ぎるのを待った。


 生徒たちは俺たちへ軽く会釈し、楽しそうに話しながら階段の方へ向かっていく。


 その姿を見送りながら、俺はふと思った。


 学院へ入学したばかりの頃は、こうして多くの生徒が行き交う場所にいるだけでも、どこか落ち着かなかった。


 自分がここにいていいのか、周囲の人たちにどう見られているのか、気にしてしまうことが多かった。


 今でも、身分の違いが完全になくなったわけではない。


 俺が元スラム出身の平民であり、シルフィール伯爵家の養子として学院へ通っていることも変わらない。


 けれど、少しずつ友人が増え、リビアと一緒に過ごし、学院での生活にも慣れてきた。


 その積み重ねが、俺の中の不安を少しずつ小さくしてくれているのかもしれない。


「セス?」


 リビアが不思議そうに俺を見上げた。


「どうしたの? また考え事?」


「うん。学院に来てから、いろいろ変わったなと思って」


 俺が答えると、彼女は少しだけ目を細めた。


「そうだね。私も、セスと一緒に学院へ通えるようになって、毎日がすごく楽しいよ」


「俺もだよ」


 その言葉に、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 俺たちは並んで校舎を出て、迎えの馬車へ向かった。


     ◇


 屋敷へ戻る馬車の中では、リビアが少し疲れたように座席へ身体を預けていた。


 今日も通常の授業に加えて委員会の活動があったのだから、無理もないだろう。


「リビア、少し休む?」


 俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「うん。でも、その前に一つだけお願いしてもいい?」


「もちろん。何?」


 リビアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。


「今日も、セスの肩を借りてもいいかな?」


 俺は思わず笑った。


「そんなの、いつでもいいよ」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに俺の肩へ頭を預けた。


 銀青色の髪が肩に触れ、柔らかな感触が伝わってくる。


 俺は彼女が楽な姿勢でいられるよう、少しだけ身体の向きを変えた。


「ありがとう、セス」


「どういたしまして」


 リビアは目を閉じたまま、小さく笑った。


 窓の外では、夕暮れの王都の街並みがゆっくりと流れている。


 通りを行き交う人々の声が遠くに聞こえ、馬車の車輪が石畳を進む音が一定のリズムで続いていた。


 俺は隣にいるリビアの温もりを感じながら、今日一日の出来事を思い返した。


 朝の仕事で、担当者へ確認することを選んだこと。


 ガレスへ魔術の説明をしたこと。


 エレナ先生から、実技の手順と安全確認について改めて教わったこと。


 サザリーと記録の言葉について話したこと。


 そして、リビアが委員会で頑張っていることを聞き、旅行記の話をしたこと。


 どれも、特別に大きな事件ではない。


 けれど、その一つ一つが、今の俺にとって大切な時間だった。


(俺は、こういう毎日を大事にしたいんだな)


 そう思いながら、リビアの手へそっと自分の手を重ねた。


 彼女は目を閉じたまま、その手を握り返してくれる。


「セス」


「どうした?」


「今日も、楽しかったね」


 リビアは小さな声でそう言った。


 俺は彼女の顔を見つめ、静かに頷いた。


「うん。俺も楽しかった」


「明日も、いい日になるといいな」


「そうだな。でも、何か大変なことがあっても、二人で相談すればいいと思う」


 俺が答えると、リビアはゆっくりと目を開けた。


 そして、嬉しそうに微笑む。


「うん。そうだね」


 彼女は俺の肩へもう一度頭を預け、安心したように息を吐いた。


 俺たちはそのまま、しばらく静かな時間を過ごした。


 昨日の交流演習で学んだことは、今日の仕事や授業、友人たちとの会話の中でも、少しずつ形を変えて生きている。


 誰かに頼ること。


 誰かへ任せること。


 そして、相手の力を信じること。


 それは、何か大きな問題が起きたときだけ必要になるものではない。


 こうして何気ない毎日を過ごす中でも、少しずつ身につけていくものなのだろう。


 俺は隣にいるリビアの手を握りながら、窓の外へ目を向けた。


 夕日が王都の建物の向こうへ沈み始め、街並みが柔らかな橙色に染まっている。


 明日も学院がある。


 屋敷での仕事も、友人たちとの時間も、リビアと過ごす時間も続いていく。


 その一つ一つを大切にしながら、少しずつ成長していきたい。


 俺はそう思い、静かに微笑んだ。


 馬車は穏やかに揺れながら、俺たちの帰る屋敷へ向かって進んでいった。

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