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第91話 昨日の経験が、今日の俺たちを変えていく


 翌朝、いつもの時刻に目を覚ました俺は、寝台から起き上がると、窓の向こうに広がる空を眺めた。


 薄い雲の間から朝日が差し込み、庭園の木々を柔らかく照らしている。昨日の交流演習では何度も通路を歩き、荷物を運び、班のみんなと相談を重ねたが、十分に休めたおかげで身体に疲れは残っていなかった。


 ただ、昨日の出来事は、今朝になっても不思議なくらい鮮明に思い出せた。


 第二確認室で新しい図面を受け取ったときのこと。術式確認区域でリビアが説明書を読み、見た目だけで判断しないよう注意してくれたこと。第三観測室で二つの経路を比較し、全員で西側を選んだこと。


 そして、第四保管室への物資搬入を終え、中央確認所で演習の完了を認められたときの、みんなの嬉しそうな顔。


(昨日は、俺一人だったら気づけなかったことが本当に多かったな)


 そう考えながら身支度を整え、執事見習いとしての仕事に取りかかった。


 屋敷の廊下には、早朝特有の静けさが残っていた。使用人たちはそれぞれの持ち場で仕事を始めているが、足音や話し声は控えめで、窓から差し込む朝の光が磨き上げられた床に長い模様を作っている。


 俺は担当する場所の確認を終えると、廊下の先から歩いてきた父さんと顔を合わせた。


「おはようございます、父さん」


「おはよう、セス。昨日はよく休めたか?」


 グレイヴ・シルフィール。


 パウリー公爵家の執事長であり、俺を養子として迎えてくれた人だ。


 父さんはいつもどおり背筋を伸ばしていたが、俺を見る目には仕事中の厳しさだけではない、穏やかなものがあった。


「はい。身体の方は問題ありません。昨日の演習も、無事に終えることができました」


「それは聞いている。オリビアお嬢様も、夕食の際に随分と嬉しそうに話しておられたそうだ」


「リビアが、ですか?」


「ああ。六人で相談して道を選んだことや、物資を無事に届けられたことを、旦那様へ報告されたと聞いている」


 父さんの言葉を聞き、昨日の馬車の中でリビアが見せてくれた笑顔を思い出した。


 彼女は俺と二人きりになったとき、演習が楽しかったと何度も話していた。もちろん、班のみんなと協力できたことが嬉しかったのだろうが、その気持ちを屋敷へ戻ってからも家族へ伝えていたらしい。


「俺も楽しかったです。最初は、もっと自分が動いた方がいいと思う場面もあったんですけど……みんなに任せた方がうまくいくことも多くて」


 父さんは俺の言葉を遮らず、最後まで聞いてくれた。


「そうか。それなら、良い経験になったようだな」


「はい。ただ、まだ慣れないところもあります。自分が手を出した方が早いと思うと、つい動きそうになるので」


「それ自体が悪いわけではない。状況によっては、お前が先に動くべき場合もあるだろう」


 父さんはそう言ってから、少しだけ表情を和らげた。


「大切なのは、何のために動くのかを見失わないことだ。誰かを助けるための行動が、結果としてその相手の役割や判断する機会を奪ってしまうこともある。逆に、任せることだけを意識して、必要な助けまで控えてしまっては意味がない」


 俺は思わず頷いた。


 昨日の演習で感じたことを、父さんはさらに分かりやすい言葉にしてくれた気がした。


「相手のことを見て、必要なことを考える……ということでしょうか」


「そうだな。お前は昔から、人のために動くことを苦にしない。だからこそ、相手が何を望み、何をできるのかを確かめることも覚えていくといい」


 父さんは俺の肩へ軽く手を置いた。


「もっとも、昨日の経験だけで何もかも変わる必要はない。少しずつ身につけていけばいいことだ」


「……はい。ありがとうございます、父さん」


 俺が頭を下げると、父さんは小さく頷き、仕事へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、俺は胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。


 父さんは、俺ができなかったことを責めるのではなく、これからどうすればいいのかを考えさせてくれる。


 それは、俺がこの家へ来てから何度も助けられてきたことだった。


     ◇


 朝食の席では、旦那様が昨日の演習について尋ねてくださった。


 アルセス・パウリー公爵。


 リビアの父親であり、俺にとっては長く仕えてきた屋敷の主人でもある。


 今では俺とリビアの婚約を認めてくださっているが、だからといって執事見習いとしての立場がなくなったわけではない。俺はそのことを忘れないようにしながら、いつものように席へ着いた。


「セス、昨日は随分と考えることの多い演習だったようだな」


「はい、旦那様。通行条件の変更や物資の確認などがありましたが、第三班の全員で相談しながら進めることができました」


「ふむ。オリビアからも聞いたが、お前自身はどうだった?」


 旦那様の問いかけに、俺は少しだけ考えた。


 昨日の演習について話すなら、無事に終えたことや、みんなが活躍したことを伝えるのが自然だろう。


 けれど、旦那様が聞いているのは、それだけではないように思えた。


「自分の得意なことだけで判断しないようにするのが、思っていた以上に難しかったです。ただ、みんなの意見を聞いたことで、自分では気づけなかったことも分かりました」


「そうか。それは良い経験をしたな」


 旦那様は満足そうに頷いた。


 隣に座るリビアが、嬉しそうに俺を見ている。


「お父様、セスは昨日、ちゃんとみんなの意見を聞いてくれたんですよ。私たちが術式確認区域へ行ったときも、勝手に魔術で調べようとしなかったですし」


「リビア、それは普通のことだと思うけど……」


「でも、セスは自分でできることが多いでしょう? だから、ちゃんと説明を待ってくれたのが嬉しかったの」


 彼女が微笑むと、旦那様は少しだけ面白そうな表情になった。


「なるほど。オリビアは、セスが周囲を頼るようになったことを喜んでいるわけだな」


「はい。だって、私だってセスの力になりたいですから」


 リビアは当然のことのように答えた。


 俺は少し照れくさくなり、目の前の食事へ視線を落とす。


 彼女が俺を大切に思ってくれていることは、もう十分に分かっている。


 それでも、こうしてまっすぐ言葉にされると、どうしても胸が落ち着かなくなる。


「セス」


 旦那様に呼ばれ、俺は顔を上げた。


「オリビアがこう言っているのだから、遠慮せず頼るといい。ただし、お前が何でも任せきりになるのも違うぞ」


「はい。そこは気をつけます」


「うむ。二人とも、自分の考えを持ちながら、互いの意見を尊重することだ」


 旦那様はそこで一度言葉を区切り、穏やかに微笑んだ。


「婚約者同士としても、悪くない経験だったのではないかな」


 リビアが嬉しそうに頷き、俺も少し遅れて同意した。


 昨日は学院の演習だったはずなのに、こうして振り返ってみると、俺たちのこれからにも関わることを学んだ気がする。


 リビアと一緒に過ごしていく時間は、これからも続いていく。


 その中で、俺だけが何かを決めたり、彼女だけに負担をかけたりするのではなく、二人で相談できる関係でありたいと思った。


     ◇


 学院へ向かう馬車の中では、リビアが昨日の班のみんなについて話していた。


 窓の外には、朝の王都の街並みが流れていく。店先では商人たちが商品を並べ、通りを行き交う人々の声が、閉じた窓越しにもかすかに聞こえてきた。


「エミリアさん、最後の報告のとき、少し緊張していたよね」


「うん。でも、物資の数量を全部覚えていて、きちんと説明できてた。すごかったと思う」


「私もそう思う。最初に役割を決めたときは、少し不安そうだったけど、昨日は自分から確認の提案もしてくれたでしょう?」


 リビアはそう言って、膝の上で両手を重ねた。


「ガレス君も、途中で滑りやすい床を見つけてくれたし、障害物のところでも無理に進まなかったよね」


「そうだな。ガレスは剣術の方が得意だって言ってたけど、周りを見て危険に気づくのも上手だったと思う」


 俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。


 昨日の演習を通して、同じ班になった三人のことを以前よりよく知ることができた。


 ガレスは明るく、自分の得意なことには自信を持っているが、分からないことを無理に隠そうとはしない。


 エミリアは丁寧で慎重な性格だが、必要な場面では自分から意見を出せる。


 レオル先輩は経験があるからといって一人で決めず、俺たちの話を聞きながら判断をまとめてくれた。


 そしてサザリーは、確認できた情報と推測を分けることを最後まで忘れなかった。


「サザリーも、ずっと記録を整理してくれてたね」


「うん。最初の頃は、全部を書き留めようとしてたみたいだけど、途中から必要な情報だけ残すようにしてた」


「そういうところも、みんな少しずつ変わっていったんだね」


 リビアの言葉を聞き、俺は頷いた。


 演習の前に役割を決めたときは、みんなが何をできるのか、まだ十分には分かっていなかった。


 けれど、実際に一緒に動いてみると、それぞれの得意なことだけでなく、苦手なことや、困ったときにどんな判断をするのかまで少しずつ見えてきた。


「また六人で何かする機会があったら、今度はもっと自然に協力できるかもしれないな」


「そうだね。私も、また一緒に活動してみたいな」


 リビアはそう言ってから、少しだけ俺の方へ身を寄せた。


「でも、セスと二人で過ごす時間も大切だからね?」


「もちろん。それは俺も同じだよ」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 昨日も馬車の中で手をつないでいたことを思い出し、俺はそっと手を差し出した。


 リビアは少しも迷わず、その手を握ってくれる。


「セス、昨日より自然になったね」


「そうかな?」


「うん。前は、私が手をつなぐ方が多かった気がするもの」


 彼女が少し楽しそうに笑う。


 俺は言い返そうとして、結局何も言えなかった。


 確かに、以前の俺は自分から触れることに遠慮していたと思う。


 今では婚約者として気持ちを伝え合い、二人きりのときには自然に手をつなぐことも増えた。


 それでも、リビアの方が積極的な場面は多い。


「……じゃあ、これからは俺からも、もっと手をつなぐようにするよ」


 そう答えると、リビアは少し驚いたように目を見開いた。


 それから、頬をほんのり赤く染めながら、俺の手を握る力を少しだけ強める。


「うん。楽しみにしてる」


 彼女の笑顔を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。


 昨日の演習で学んだこととは少し違うかもしれないが、自分から気持ちを伝えることも、きっと大切なのだろう。


     ◇


 学院へ到着すると、いつものように多くの生徒たちが校舎へ向かっていた。


 交流演習は複数の班に分かれて行われているため、昨日のうちに終えた生徒もいれば、これから参加する生徒もいるらしい。廊下では演習について話している声が聞こえ、掲示板の前には予定を確認する生徒たちが集まっていた。


 俺とリビアが教室へ向かっていると、前方からサザリーが歩いてきた。


「おはよう、クルセス。オリビア様も、おはようございます」


「おはよう、サザリー」


「おはようございます。昨日はお疲れさまでした」


 リビアが微笑むと、サザリーは少しだけ表情を和らげた。


「こちらこそ。昨日の記録を整理していたんだけど、思ったより確認した項目が多かったよ」


「もう整理したのか?」


「うん。忘れないうちに書き直しておこうと思ってね。演習中の記録は、急いで書いたところもあったから」


 サザリーは鞄から薄い紙束を取り出した。


 そこには、昨日の経路変更や物資確認、第三観測室での判断理由が、分かりやすい順番でまとめられていた。


 俺はその丁寧さに感心しながら、紙へ目を通す。


「すごいな。これなら、あとから見ても何をしたのか分かる」


「そう言ってもらえると嬉しいよ。ただ、全部を書き直したわけじゃないんだ。細かな移動の順番まで残しても、かえって大事な判断が見えにくくなると思ったから」


 サザリーは少し照れくさそうに笑った。


「昨日、エミリアさんと話していて気づいたんだけど、記録は多ければいいわけじゃないんだね。何を残す必要があるのか考える方が、ずっと難しいみたいだ」


「確かにそうだな。俺も、全部説明されるより、重要なところをまとめてもらった方が分かりやすいと思う」


 俺が答えると、リビアも頷いた。


「必要な情報を見つけやすいことも大切だよね。今、委員会で考えている通路案内の表示も、少し似ているかもしれない」


 その言葉に、サザリーが興味を示した。


「通路案内の表示ですか?」


「うん。色や番号、枠の形を使って、初めて通る人でも分かりやすい案内にできないか検討しているの。まだ試している段階だけどね」


 リビアはそう説明しながら、廊下の先にある掲示板へ視線を向けた。


「昨日の演習でも、正式な通行変更と、まだ確認が必要な表示を区別することが大切だったでしょう? 案内表示でも、何を伝えたいのかがはっきりしていないと、見る人が迷ってしまうと思うの」


「なるほど。確かに、情報を整理するという意味では共通しているね」


 サザリーは少し考え込むような表情になった。


「もし必要なら、僕も記録の整理くらいは手伝えると思う。ただ、委員会の活動だから、勝手に関わるわけにはいかないだろうけど」


「ありがとう。今のところは委員会で進めているから、必要になったら相談させてもらうね」


 リビアは嬉しそうに答えた。


 俺は二人のやり取りを聞きながら、昨日の経験が今日の別の活動にもつながっていることを感じていた。


 演習は終わった。


 けれど、そこで気づいたことまで終わるわけではない。


 そう考えると、少し不思議な気分だった。


     ◇


 午前の授業が始まる前、教室には昨日の演習について話す生徒たちの声が広がっていた。


 窓際では数人が図面を広げ、別の班が通った経路について話している。教室の後方では、荷物を運ぶ途中で苦労したという話が聞こえ、周囲の生徒たちが笑いながら耳を傾けていた。


 俺が席へ着くと、少し遅れてガレスが教室へ入ってきた。


「おう、クルセス! 昨日はお疲れ!」


「おはよう、ガレス。腕の調子はどうだ?」


「全然問題ないぞ。昨日は少し疲れたけど、寝たらすっかり戻った」


 ガレスは自分の腕を軽く動かして見せた。


 俺は安心して頷いたが、彼は俺の顔を見て少し笑った。


「クルセスは、相変わらず人のことを気にするんだな」


「そりゃ、昨日は重い木箱を何度も持ってもらったからな」


「まあな。でも、俺だって自分の状態くらい分かるって。無理そうだったら言うから、そこは信用してくれよ」


 ガレスの言葉には、責めるような響きはなかった。


 むしろ、気軽に頼ってほしいという気持ちが伝わってくる。


「そうだな。悪かった」


「謝ることじゃないって。心配してくれるのは嬉しいしさ。ただ、俺もちゃんと役に立てるって思ってもらえた方が、もっと嬉しいかな」


 俺は少しだけ目を見開いた。


 昨日、父さんから聞いた言葉が頭をよぎる。


 相手のために動くことと、相手を信頼すること。


 その両方が大切なのだと、今のガレスの言葉からも感じられた。


「分かった。次に何かあったら、また頼りにするよ」


「おう! その代わり、俺が分からないことは教えてくれよな」


 ガレスは嬉しそうに笑い、自分の席へ向かった。


 その背中を見送りながら、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 誰かに頼ることは、自分の役割を放り出すことではない。


 相手の力を認めることでもあるのだろう。


 そんなことを考えていると、教室の入口からイザークが顔を出した。


「クルセス、ちょっといいか?」


「イザーク? どうしたんだ?」


 俺が尋ねると、彼は教室の中へ入ってきた。


 相変わらず真剣そうな表情をしているが、以前のように会うたび剣の勝負を申し込んでくるわけではない。


「昨日の交流演習、終わったんだろ?」


「ああ。第三班は無事に終わったよ」


「そうか。こっちはまだ細かい報告が終わってなくてな。どんな感じだったのか、少し気になってた」


 イザークはそう言ってから、俺の隣の席へ視線を向けた。


「別に、課題の内容を教えてほしいわけじゃないぞ。班ごとに違う条件があるかもしれないし、そういうのを聞くのは違うだろうからな」


「うん。それなら、感想くらいなら話せると思う」


 俺は頷き、昨日の演習で感じたことを簡単に伝えた。


 通路の変更があったことや、物資を運ぶために協力したことは、すでに終わった自分たちの経験として話したが、ほかの班に影響するかもしれない細かな指示や判定基準については触れなかった。


 イザークは真剣に聞いていたが、俺が全員で判断することの大切さを話すと、少し意外そうな顔をした。


「お前が、そんなことを言うようになるとはな」


「そんなに意外か?」


「意外だろ。前のお前なら、自分で何とかできると思ったら、真っ先に動いてただろうし」


 言い返そうとして、俺は口を閉じた。


 確かに、そのとおりかもしれない。


 イザークは俺の反応を見て、少しだけ笑った。


「別に悪い意味じゃないぞ。お前が強いのは知ってるし、剣の勝負だって簡単には勝てないと思ってる。でも、何でも一人でやろうとするのと、強いことは別だろ?」


「……そうだな」


「まあ、俺も人のことは言えないけどな。勝負になると、つい自分で何とかしたくなるし」


 彼は肩をすくめた。


 その言葉に、俺も思わず笑った。


「じゃあ、お互いに気をつけないとな」


「そうだな。ただし、次に剣を交えるときは遠慮するなよ」


「もちろん。そこは手を抜かないよ」


 俺が答えると、イザークは満足そうに頷いた。


 以前は、彼と話すときに少し身構えてしまうこともあった。


 けれど今では、剣術について競い合いながら、こうして普通に話せるようになっている。


 その変化も、俺にとっては嬉しいものだった。


     ◇


 午前の授業が終わり、昼休みになると、俺たちは食堂へ向かった。


 学院の食堂はいつもどおり賑わっており、窓際の席には柔らかな日差しが差し込んでいる。焼きたてのパンや温かな料理の香りが広がり、午前中の授業を終えた生徒たちが、思い思いに食事を楽しんでいた。


 俺とリビアが席を探していると、少し離れた場所から声がかかった。


「クルセス君、オリビア様! こちら、空いていますよ」


 振り向くと、エミリアが手を振っていた。


 彼女の隣にはサザリーとガレスが座っており、向かい側にはレオル先輩の姿もある。


「ありがとう。ご一緒してもいい?」


 リビアが尋ねると、エミリアは嬉しそうに頷いた。


「もちろんです。ちょうど昨日の話をしていたところなんです」


 俺たちは食事を持って席へ着いた。


 六人がこうして同じ食卓を囲むのは、昨日の演習前に集まったときとは少し違う雰囲気だった。


 役割を決めるための話し合いではなく、同じ経験をした仲間同士の食事。


 その違いが、何となく嬉しかった。


「レオル先輩、今日は午前中の授業が終わったところですか?」


 俺が尋ねると、先輩は頷いた。


「うん。午後にも授業があるけど、昼休みは少し余裕があるんだ。昨日の演習のことを話していたら、みんなと食事をしたくなってね」


「私もです。昨日は終わったあと、すぐにそれぞれの予定へ戻りましたから」


 エミリアが微笑む。


 ガレスはパンを一口食べてから、楽しそうに話し始めた。


「俺、家に帰ってから昨日のことを話したんだ。そうしたら、剣を振るより荷物を運ぶ方が大変だったのかって笑われたぞ」


「実際には、荷物を運ぶだけじゃなかったのにね」


 エミリアが言うと、ガレスは大きく頷いた。


「そうなんだよ。だからちゃんと説明したんだけど、途中で自分でも何を言いたいのか分からなくなってさ」


 その言葉に、サザリーが少し笑った。


「それなら、昨日の記録を見せればよかったかもしれないね」


「いや、あれを家に持って帰って説明するのも大げさだろ?」


「確かに、家族へ話すだけなら、そこまで細かくなくてもいいかもしれない」


 サザリーは穏やかに答えた。


 俺たちは笑い合いながら食事を進めた。


 しばらくすると、レオル先輩が昨日の経路選択について話し始めた。


「そういえば、第三観測室で西側を選んだとき、みんなの意見が思ったより早くまとまったよね」


「そうでしたね。私は、もっと迷うかと思っていました」


 エミリアが答える。


「東側の方が短かったから、そちらを選びたい人もいると思っていたんです。でも、みんなが物資管理のことを考えてくれたので、少し安心しました」


「俺は、荷物を何度も運ぶのが面倒だったっていうのもあるけどな」


 ガレスが笑う。


「でも、途中で分かれて行動するのは、何となく嫌だったんだよ。六人で始めたんだから、できれば六人で進みたかったし」


 その言葉を聞き、俺は少しだけ胸が温かくなった。


 昨日、俺も同じことを考えていた。


 全員で移動できることは、安全確認の面でも大切だったが、それだけではない。


 一緒に進むこと自体に、意味があるように感じていたのだ。


「僕も、みんなが同じ場所にいる方が判断しやすいと思っていたよ」


 サザリーが言った。


「ただ、東側を選んだからといって間違いだったわけじゃないんだよね。条件を守って安全に運べるなら、そちらにも利点はあったはずだから」


「そうだね。僕たちが選んだ方法だけが正解だったとは限らないと思う」


 レオル先輩が頷いた。


 その言葉に、俺は少し考え込んだ。


(そうか。昨日は西側を選んでうまくいったけど、だからといって東側が間違いだったわけじゃないんだな)


 俺たちは、自分たちが持っていた情報をもとに、納得できる判断をした。


 別の班なら、別の方法を選んでいたかもしれない。


 その違いを考えることも、きっと演習の目的の一つなのだろう。


「私、昨日はみんながちゃんと理由を話してくれたのが嬉しかったな」


 リビアが穏やかに言った。


「同じ結論になったとしても、どうしてそう考えたのか分からなかったら、次に別の問題が起きたとき困るかもしれないでしょう?」


「確かに。理由が分かれば、状況が変わったときにも考え直せるからね」


 レオル先輩が答える。


 俺たちはその言葉に頷き、しばらく昨日の経験について話し続けた。


 食事が終わる頃には、演習前よりもずっと気軽に会話できるようになっていることに気づいた。


 ガレスはレオル先輩へ以前の野外演習について質問し、エミリアはサザリーと記録のまとめ方について話している。


 リビアはその様子を楽しそうに眺めていた。


「セス、よかったね」


 彼女が小声で言う。


「うん。みんなと仲良くなれた気がする」


「私も。最初は少し緊張していたけど、今は一緒にいるのが楽しいもの」


 リビアの言葉に、俺も自然に笑った。


 俺たちが同じ班になったのは、学院の演習がきっかけだった。


 けれど、その時間が終わっても、こうして一緒に食事をすることができる。


 それは、演習の結果とは別の、大切なものを得られたように思えた。


     ◇


 午後の授業を終えたあと、リビアは委員会の用事があると言って、校舎の別の場所へ向かった。


 通路案内の表示について、以前から検討している内容を確認するらしい。


「今日は長くならないと思うから、終わったらいつもの場所で合流しようね」


「分かった。俺は図書室へ寄ってるよ」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、あとでね、セス」


「ああ。またあとで」


 彼女を見送ったあと、俺は図書室へ向かった。


 午後の図書室は静かで、窓から差し込む光が書架の間に落ちている。紙と木材の匂いが混ざった空気の中、数人の生徒が机へ向かい、黙々と本を読んでいた。


 俺は以前から読んでいる北方の旅行記を取り出し、空いている席へ座った。


 雪に覆われた街道や、冬の町で使われる灯りについて書かれた本だ。


 リビアといつか一緒に旅をしてみたいと話したこともあり、読み進めるたびに、知らない土地の風景を想像するのが楽しくなっていた。


 今日開いたページには、冬の市場についての記述があった。


 雪の多い町では、通りに屋根付きの小さな店が並び、寒さを避けながら買い物ができるよう工夫されているらしい。


 市場の中央には温かな飲み物を売る店もあり、旅人たちはそこで身体を温めながら休むのだという。


(リビアと一緒に行ったら、きっと喜ぶだろうな)


 俺は文章を読みながら、彼女が雪景色を眺めている姿を想像した。


 もちろん、すぐに旅へ出られるわけではない。


 学院の授業もあるし、屋敷での仕事もある。


 それに、将来どこで暮らし、どのような役割を担うのかについても、まだ決まっていないことが多い。


 けれど、いつか二人で知らない土地を訪れ、その土地の景色や文化を楽しむことができたら、きっと素敵だろう。


 そんなことを考えながらページをめくっていると、図書室の入口から小さな足音が聞こえてきた。


 顔を上げると、リビアがこちらへ歩いてくるところだった。


 彼女は俺の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。


「セス、お待たせ」


「お疲れさま。委員会の方はどうだった?」


「今日は、今まで試していた案内表示の確認をしたの。まだ決まったわけじゃないけど、少しずつ意見がまとまってきたよ」


 リビアは俺の隣へ座り、鞄から一枚の紙を取り出した。


 そこには、色や番号、枠の形を組み合わせた案内表示の試案が描かれている。


「昨日の演習で、正式な変更と確認が必要な表示を区別するのが大切だって思ったでしょう? だから、そのことも少し話してみたの」


「なるほど。何か参考になった?」


「うん。色だけで区別するんじゃなくて、番号や枠の形も合わせた方が分かりやすいかもしれないって、みんなで話したの」


 リビアはそう言いながら、紙の一部を指差した。


 そこには、同じ色でも枠の形が異なる表示が並んでいる。


 俺はそれを見比べ、少し考えた。


「確かに、これなら色が分かりにくい場所でも区別できそうだね」


「そうなの。でも、まだ試している段階だから、実際に使う人がどう感じるかも確認しないといけないんだって」


「それは大切だな。作った人には分かりやすくても、初めて見る人には分かりにくいこともあるだろうし」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「セスもそう思う?」


「うん。昨日の演習でも、図面だけ見ていたときと、実際に通路を歩いたときでは印象が違ったから」


 リビアは少し考え込むような表情になった。


「そうだね。実際に使う人の立場で考えるのって、やっぱり大切なんだね」


 俺たちはしばらく案内表示について話した。


 ただ、委員会で正式に決まっていないことまで、俺が勝手に口を出すつもりはなかった。


 リビアもそのことを分かっているのか、俺の意見を聞きながら、自分たちで検討していく必要があると話していた。


 その姿を見ていると、彼女が学院での活動を大切にしていることが伝わってくる。


 公爵令嬢としての立場だけでなく、一人の生徒として、周囲の人たちのためにできることを考えているのだ。


「そういえば、セスは何を読んでたの?」


 リビアが俺の手元へ視線を向けた。


「北方の旅行記だよ。今日は冬の市場について読んでた」


「冬の市場?」


「うん。雪が多い町では、屋根付きの店が並んでいて、温かい飲み物を売る場所もあるらしいんだ」


 俺が説明すると、リビアの表情が明るくなった。


「素敵だね。雪の中で温かい飲み物を飲むのって、きっとおいしいんだろうな」


「俺もそう思う。いつか一緒に行けたらいいな」


 その言葉に、リビアは少しだけ目を見開いた。


 それから、ゆっくりと微笑む。


「うん。セスと一緒なら、どこへ行っても楽しいと思う」


 俺はその笑顔を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 将来のことは、まだ分からない部分が多い。


 それでも、こうして二人で行きたい場所を話し、いつかの楽しみを少しずつ増やしていくことはできる。


 その時間が、俺には何より嬉しかった。


     ◇


 図書室を出る頃には、窓の外の光が少しずつ柔らかくなっていた。


 俺たちは並んで廊下を歩き、校舎の出口へ向かう。


 途中、別の班の生徒たちが演習について話している声が聞こえてきた。


 その中には、思っていたより難しかったという声もあれば、仲間に助けられたという声もある。


 俺はその会話を聞きながら、昨日の第三班のことを思い出した。


 もし、俺たちが最初から何も相談せずに進んでいたら、どうなっていただろう。


 通行条件の変更を見落としていたかもしれない。


 物資の管理が複雑になっていたかもしれない。


 あるいは、誰かが無理をしてしまっていたかもしれない。


 もちろん、実際には起きなかったことだから、確かなことは言えない。


 けれど、相談することや確認することが、結果として俺たちを助けてくれたのは間違いないと思う。


「セス、また昨日のことを考えてる?」


 リビアが隣から尋ねた。


「うん。ちょっとだけ」


「ふふっ。セスらしいね」


 彼女は楽しそうに笑った。


「でも、私も考えてたよ。昨日の演習が終わってから、みんなともっと仲良くなれた気がするなって」


「俺も同じだよ。今日、一緒に昼食を食べられたのも嬉しかった」


「うん。ああいう時間、これからも大切にしたいね」


 俺は頷いた。


 学院へ入学してから、俺の周りには少しずつ友人が増えている。


 以前は、リビアと父さん、そして屋敷の人たちが、俺にとっての世界の中心だった。


 もちろん、今でもその大切さは変わらない。


 けれど、学院で出会った人たちと話し、競い合い、協力するうちに、俺の世界は少しずつ広がっている。


 それが嬉しいと思えるようになったことも、俺自身の変化なのかもしれない。


 校舎の出口へ近づくと、外から涼しい風が吹き込んできた。


 俺はリビアの歩幅に合わせながら、隣を歩く彼女へ目を向ける。


「リビア」


「なあに?」


「昨日も今日も、いろいろ考えることがあったけど……やっぱり、リビアと一緒にいられるのが嬉しいよ」


 自分で言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。


 けれど、リビアは驚いたように瞬きをしたあと、頬を赤く染めて微笑んだ。


「……セス、最近そういうことを自然に言うようになったね」


「そうかな?」


「うん。すごく嬉しいけど、ちょっとずるいと思う」


 彼女はそう言いながら、俺の袖をそっとつまんだ。


「だって、私ばっかりセスに甘えてると思ってたのに、最近はセスの方から嬉しいことを言ってくれるんだもの」


「それなら、もっと言った方がいい?」


 俺が尋ねると、リビアは一瞬言葉に詰まった。


 それから、少しだけ顔を伏せながら答える。


「……うん。でも、あんまり急に言われると、私も照れちゃうから」


 その様子が可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。


 リビアは少しだけ頬を膨らませたが、すぐに俺の腕へそっと寄り添ってくる。


 俺たちはそのまま校舎を出て、迎えの馬車へ向かった。


 周囲にはほかの生徒たちもいたため、必要以上に目立たないよう気をつけながら歩いたが、彼女が隣にいることを隠したいとは思わなかった。


 俺たちは婚約者同士だ。


 それは、もう誰かに言われて仕方なく受け入れている関係ではない。


 俺自身が望み、リビアも望んでくれている、大切な約束だった。


     ◇


 屋敷へ戻る馬車の中で、リビアは少し疲れたように座席へ身体を預けていた。


 昨日は演習、今日は通常の授業に加えて委員会の活動もあったのだから、無理もないだろう。


「リビア、少し休む?」


 俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「うん。ちょっとだけ、セスの肩を借りてもいい?」


「もちろん」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑み、そっと俺の肩へ頭を預けた。


 馬車の揺れは穏やかで、窓の外には夕暮れの王都が広がっている。


 遠くの建物の屋根が夕日に照らされ、通りを行く人々の影が長く伸びていた。


 俺は彼女が楽な姿勢でいられるよう、少しだけ身体の向きを変えた。


「ありがとう、セス」


「どういたしまして」


 リビアは目を閉じたまま、小さく笑った。


 その表情を見ていると、俺も自然に肩の力が抜けていく。


 昨日の演習では、六人で協力することの大切さを学んだ。


 今日の学院では、その経験が友人たちとの会話や、リビアの委員会活動にもつながっていることを知った。


 そして今、こうして彼女が安心して寄りかかってくれていることにも、以前とは少し違う意味を感じている。


 守ることだけが、相手を大切にする方法ではない。


 頼ってもらうことも、頼ることも、同じくらい大切なのだろう。


(俺は、これからもリビアの力になりたい。でも、それと同じくらい、リビアにも俺の力になってもらいたいんだ)


 そう思いながら、俺は彼女の手へそっと自分の手を重ねた。


 リビアは目を閉じたまま、その手を握り返してくれる。


「セス」


「どうした?」


「私ね、昨日の演習が終わってから、ずっと考えてたことがあるの」


 彼女はゆっくりと目を開け、俺を見上げた。


「セスと一緒にいると、私ももっと頑張りたいって思うの。でも、頑張るだけじゃなくて、楽しいこともたくさん見つけたいなって」


 俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。


「うん。俺もそう思う」


「学院でのことも、屋敷でのことも、これから先のことも。全部を急いで決めるんじゃなくて、一つずつ一緒に考えていきたいの」


 リビアは少しだけ照れたように微笑んだ。


「だから、セスも何か考えてることがあったら、ちゃんと私に話してね?」


「分かった。リビアにも、遠慮せず話すようにするよ」


 俺が答えると、彼女は満足そうに頷いた。


 そして、もう一度俺の肩へ頭を預ける。


 俺たちはしばらく言葉を交わさず、馬車の揺れに身を任せていた。


 窓の外では、夕日が少しずつ街並みの向こうへ沈み始めている。


 明日も学院の授業がある。


 これから予定されている魔術実技の準備も、エレナ先生の指示に従って進めなければならない。


 リビアには委員会の活動があり、俺には執事見習いとしての仕事がある。


 それぞれにやるべきことは違うけれど、だからこそ、互いの話を聞きながら過ごしていきたい。


 昨日の演習で得た答えは、特別な課題の中だけで役に立つものではなかった。


 今日の何気ない会話や、友人たちとの食事、リビアと過ごす時間の中にも、その答えは少しずつ息づいている。


 俺は隣にいる彼女の温もりを感じながら、静かに微笑んだ。


 これから先、どんな道を選ぶことになっても、俺たちはきっと一人ではない。


 そう思えることが、今の俺には何より心強かった。

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