第81話 六人で始めるために
交流演習の第三班が正式に顔を合わせる日になっても、朝の学院は驚くほどいつも通りだった。
登校した俺とリビアを迎えたのは、正門を抜ける生徒たちの話し声と、朝の風に揺れる木々の葉音だった。空には薄い雲がいくつか浮かんでいるものの雨の気配はなく、校舎の白い壁には柔らかな朝日が差している。交流演習の班分けが発表されてから教室内の話題は自然と演習へ寄っていたが、だからといって今日の授業がなくなるわけでもなく、廊下を歩く生徒たちの手には普段と変わらず教本や筆記具が抱えられていた。
「セス、今日だったよね。第三班の顔合わせ」
「ああ。放課後に第二演習準備室だな。リビアも同じだから、忘れようがないけど」
「そうだけど、朝に確認したくなったの。顔合わせの時間まで、ずっと一緒にいるわけじゃないでしょう?」
隣を歩いていたリビアが楽しそうに笑う。午前中の授業は同じでも、昼休みには委員会関係の短い確認が入る可能性があり、放課後も顔合わせの直前まで互いに別の用事がないとは限らない。以前なら俺は彼女の予定まで細かく把握しようとしたかもしれないが、今は必要になったときに聞けばいいと思えるようになっていた。
(顔合わせまで一緒にいる必要なんてないし、別々に動いたって同じ時間に同じ場所へ行けばいい。それに、今日は俺とリビアだけの予定じゃないからな)
第三班には俺とリビア、それにサザリーがいる。残る三人については班分けの掲示で名前と所属学級を確認しているものの、きちんと話した経験はほとんどなかった。同じ学年の生徒が二人、上級学年の生徒が一人。演習で同じ班になった以上、俺たち三人だけで話を進めるわけにはいかない。
「セス、何を考えてるの?」
「今日、俺とリビアとサザリーだけで話を決めないようにしないとなって。俺たちは普段から話すことが多いし、サザリーとは考え方が似るときもあるから」
「うん。私も気をつける。私たち三人だけで分かった気になったら、残りの三人が入りにくくなるものね」
リビアがそう答えたところで教室の扉が近づき、俺たちは自然に会話を切り上げた。これから顔を合わせる相手がどんな人たちなのか、何を得意としているのかは、本人たちから聞けばいい。掲示された学級や事前に耳へ入った評判だけで決めつける必要はなかった。
教室へ入ると、先に来ていたイザークがこちらへ片手を上げた。
「おはよう。第三班の作戦会議はもう始まってるのか?」
「始めてないよ。むしろ始めないようにしてたところだ」
「なんだそりゃ」
イザークが笑いながら首を傾げる。その向こうではディーンとナナリーが何か話しており、少し離れた席ではミリアナが教本を開いていた。交流演習の班は分かれてしまったが、普段の教室まで班単位になるわけではないので、いつもの朝の空気はほとんど変わっていない。
「第三班は俺とリビアとサザリーが普段から話してるだろ。だから残りの三人と会う前に、こっちだけで役割まで決めるのはやめようって話だよ」
「ああ、そういう意味か。それなら正しいんじゃねえか? 俺なんか第五班で殿下と一緒だけど、昨日の時点で『剣を使う役なら任せろ』って言いそうになってやめたぞ」
「言わなかったんだ?」
「言ったらアルフォルド殿下に笑われそうだったからな。というか、そもそも何をやる演習なのか分かってねえし」
最後の一言が一番重要だった。交流演習について学院側から知らされているのは、複数学年と複数学級を混ぜた班で取り組むことや、普段とは異なる条件下で判断と協力を見るという大枠だけで、具体的な課題や勝敗条件はまだ示されていない。
剣が得意だから剣士役、魔術が得意だから魔術役と決めても、実際の課題がそれを必要とするとは限らない。まして俺の場合、五属性すべてが使えることだけを理由に何でも引き受ければ、班としての演習にならなくなる可能性もある。
「俺も、できることを全部やればいいって考えないようにするよ」
俺がそう言うと、隣にいたリビアがわずかに目を細めた。その表情が何を意味しているのかは、もう聞かなくてもある程度分かる。
「今のは安心した顔か?」
「うん。だって、前のセスだったら『俺ができるなら俺がやればいい』って最初に考えてたかもしれないでしょう?」
「……否定できないな」
自分でも苦笑すると、イザークが俺とリビアを交互に見たあと、妙に納得した顔で頷いた。
「じゃあ第三班はオリビア嬢がクルセスの首輪を持つところから始めればいいな」
「持たないよ」
「そこは即答なんだな」
「セスは犬じゃないもの。それに、今は自分で止まれるから必要ないよ」
冗談への返答なのに、最後だけ妙に真面目だった。俺が何か言うより先に予鈴が鳴り、教室のあちこちで立っていた生徒たちが席へ戻り始める。
(自分で止まれる、か)
そう言われることが、少し嬉しかった。
誰かに止めてもらわなければ無茶を続ける人間ではなく、任せることも、やらないことも自分で選べると思ってもらえている。それはきっと、剣や魔術が上達したと言われるのとは違う種類の信頼だった。
午前中は通常通りの座学が続き、午後には基礎魔術の授業も行われた。交流演習が近いからといって特別な訓練へ切り替わることはなく、エレナ先生も指定された基礎術式を普段通り扱わせただけだった。
俺も余計なことはせず、求められた出力と形を守って術式を終える。来月には実技確認が予定されているが、そのために授業中から特別な練習を増やす必要はない。指定属性も順番も事前にすべて公開されるわけではないものの、授業外の技術を突然要求されることはないと説明されている以上、今やるべきことは普段の基礎を普段通り続けることだった。
授業が終わると、エレナ先生は教卓の上に資料を置きながら教室全体を見渡した。
「交流演習の班別顔合わせが始まっているが、改めて言っておく。今日の顔合わせは作戦を完成させるための時間ではない。そもそも課題を知らない状態で完成する作戦などないからな」
何人かの生徒が苦笑し、俺も思わず口元を緩める。朝に話していたことを聞かれたわけではないだろうが、考えることはみんな似ているらしい。
「自分に何ができるかを正確に伝え、相手に何ができるかを聞け。得意なことだけでなく、苦手なことや経験の少ないことも必要なら共有すること。万能に見せることより、班員が判断を誤らない情報を渡す方が重要だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分が何を伝えるべきかを頭の中で整理しかけた。しかし、五属性、剣術、身体強化、魔力感知と並べ始めたところで、一度思考を止める。
(今ここで完璧な自己紹介を作る必要もないか。顔を合わせて、相手の話も聞きながら必要なところを補えばいい)
エレナ先生はそれ以上交流演習について詳しい説明をせず、授業を終えた。課題の内容をまだ知らせないという方針は変わらないらしい。
昼休みになると、リビアは委員会関係の確認のため一度教室を離れた。雨天時の待機場所と移動導線について、実人数を使った試験で見つかった問題を整理する短い打ち合わせらしく、俺はついていく理由もないので、そのまま教室に残った。
昼食を取りながらディーンたちと話していると、自然とそれぞれの班の話題になった。
「第七班は俺とナナリーが同じだけど、上級生が二人いるんだよな」
ディーンがパンをちぎりながら言うと、隣のナナリーが頷いた。
「でも、上級生だから指揮を取るって決まってるわけじゃないみたい。顔合わせの案内にも、学年だけで役割を決めないようにって書いてあったでしょう?」
「うちも似たようなものだよ」
ミリアナが飲み物の杯を置きながら会話へ加わる。第六班になった彼女は、同じ班に普段あまり話したことのない生徒が多いらしい。
「知らない人と組むのは少し緊張するけど、だから交流演習なんでしょうね。いつもの友達だけで班を作ったら、普通の授業とあまり変わらないもの」
「俺は殿下がいる時点で普通じゃない気がするけどな」
イザークがぼやくと、サザリーが静かに笑った。
「アルフォルド殿下本人は、そういう扱いをされたくないだろうね。第五班の人たちが全員殿下へ判断を預けたら、おそらく最初にそこを止めると思うよ」
「分かってる。だから俺も普通にやるつもりだ」
言葉では軽いが、イザークの表情に迷いはなかった。アルフォルドと剣を交えた経験がある俺には、彼が王子という立場だけで周囲を従わせる人ではないことが分かっている。イザークも同じように、相手の身分ではなく本人を見て接するつもりなのだろう。
やがて委員会の確認を終えたリビアが戻ってくると、俺の隣の空いていた席へ座った。打ち合わせは長引かなかったようで、表情にも疲れた様子はない。
「おかえり。何か決まった?」
「ただいま。今日は前の試験で出た問題を整理しただけだよ。同じ番号で色が違う札を見間違えそうになったことと、本当に雨が降ったときの床や傘の扱いは別に確認が必要だから、まだ最終形にはしないって確認したの」
「そっか」
それ以上、俺から解決策を出す必要はない。委員会には委員会の進め方があり、リビア自身も答えを急いでいない。
「クルセス、そこで『だったらこうしたらどうだ』って言わなくなったよな」
ディーンが何気なく口にした言葉に、俺は一瞬だけ瞬きをした。
「前は言ってたか?」
「言ってたというより、顔に出てた。何か問題を聞いたら、すぐ頭の中で解決しようとしてる顔」
「どんな顔だよ、それ」
「ちょっと目が細くなって、相手じゃなくて空中の何かを見始める」
ディーンが真面目な顔で再現しようとしたせいで、ナナリーが吹き出し、ミリアナまで口元を押さえる。リビアは否定するどころか、妙に納得した様子で頷いていた。
「分かる。セス、考え始めるとそういう顔になるよ」
「リビアまで……」
「でも、私はその顔も好きだよ?」
「そういう追加の仕方はずるくないか?」
思わず声を落とすと、リビアは楽しそうに笑った。向かい側ではイザークが露骨に顔をしかめている。
「昼飯中に自然にそういうこと言うのやめてくれないか?」
「嫌なら聞かなければいいでしょう?」
「同じ卓にいるのにどうやって聞かないんだよ」
いつものようなやり取りが続き、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
放課後に初めてまともに話す班員がいることへの緊張は、まったくないわけではない。ただ、それは怖さではなく、知らない相手とこれから何かを始める前の落ち着かなさに近かった。
午後の授業が終わるころには、窓から差し込む光が朝よりも低くなっていた。俺とリビアは必要な教本を鞄へ収め、同じく第三班のサザリーと合流して第二演習準備室へ向かう。
第二演習準備室は、普段の教室より一回り小さい部屋だった。演習用の地図や木札を広げられる大きな長机が中央に置かれ、その周囲には八脚ほどの椅子が並んでいる。壁際には簡易黒板と収納棚があり、窓から差す夕方の光が長机の端を斜めに照らしていた。
俺たちが入った時点で、すでに二人の生徒が来ていた。
一人は班分けの掲示で確認していた同学年の男子生徒で、赤みのある茶髪を短く整え、体格は俺より少し大きい。剣術が得意で、火と土の基礎魔術を使うと聞いているが、それ以上のことはほとんど知らない。
もう一人は同じく別学級の女子生徒で、淡い金茶色の髪を肩のあたりでまとめている。机の上には筆記具と小さな手帳だけが置かれており、俺たちが入ると姿勢を正して軽く頭を下げた。
「こんにちは。第三班のクルセス・シルフィールです」
「オリビア・パウリーです。よろしくお願いします」
「サザリー・レグナード。これからよろしく」
こちらが名乗ると、男子生徒は椅子から立ち上がった。少し緊張しているようだったが、リビアの家格を意識して過剰に礼を取ることはせず、学院内での挨拶として頭を下げる。
「ガレス・フォルナーです。同学年の第二学級。よろしく。……クルセスのことは知ってる。もちろんオリビア嬢とサザリーも」
「有名人が三人まとめて来たから、ちょっとだけ緊張してます」
女子生徒がそう言って小さく笑った。
「私はエミリア・ハース。同学年の第四学級です。治癒魔術は使えませんけど、水属性と風属性の基礎魔術、それから魔力を使わない応急手当を少し習っています」
「もう得意分野まで言うんだな」
ガレスが笑うと、エミリアは少しだけ頬を赤くした。
「だって、そのための顔合わせでしょう?」
「それはそうだけど」
二人のやり取りから、少なくとも険悪な関係ではないことが分かる。ただ、もともと親しいというほどでもなさそうだった。
俺たちが席へ着いて間もなく、廊下から足音が近づき、最後の一人が入ってきた。
「遅れてはいないと思うが、最後になったようだね」
入ってきたのは上級学年の男子生徒だった。濃い青色の髪を後ろへ流し、細身ながら姿勢がいい。俺たち全員を一度見渡してから扉を静かに閉め、空いている席へ向かう前に名乗った。
「二学年上のレオル・ヴァーグナーだ。雷属性と風属性を主に使う。剣は基礎程度で、学院の野外実習には二度参加している。学年は上だが、それを理由に班長になるつもりはないから、そこは最初に伝えておくよ」
落ち着いた声だった。
その一言で、部屋に残っていたわずかな緊張が少し薄れる。上級生が一人だけいる以上、俺も無意識に相手がどう振る舞うのか気にしていたらしい。
「ありがとうございます」
リビアが答え、レオル先輩は軽く頷いた。
「君がオリビア・パウリー嬢で、こちらがクルセス・シルフィール君だね。サザリー君も知っている。残る二人は、すまないが名前と顔が一致していなかった」
「俺も先輩の名前は掲示で初めて知りました。お互い様です」
ガレスが気負わず返すと、レオル先輩の口元に笑みが浮かんだ。
六人がそろったところで、机の中央に置かれていた一枚の紙へ視線が集まる。学院側からの顔合わせ用案内で、そこには今日確認する項目だけが簡潔に書かれていた。
氏名、学年、主な得意分野、経験のある活動、不得意または経験の少ない分野。そして最後に、演習中に配慮が必要な事情があれば共有すること。
「じゃあ、順番に話す?」
エミリアが手帳を開きながら尋ねると、サザリーがすぐに口を開きかけた。しかし俺と視線が合ったところで、彼はわずかに笑って口を閉じる。
「どうした?」
「いや、僕が進め方を決めそうになった。クルセスと二人で話していると、つい先に整理したくなるんだよ」
「俺も今、同じことを考えてた」
俺たちが揃って苦笑すると、ガレスが不思議そうに眉を上げた。
「仲がいいのか悪いのか分からないな」
「仲はいいよ。ただ、考え方が近いところがあるから、二人で決めると他の人が入りにくくなることがあるんだ」
俺が説明すると、サザリーも素直に頷いた。
「だから今回は、誰か一人が全部進めるより、案内に沿って一人ずつ話してから考えた方がいいと思っている。これは提案だけど、どうかな?」
「それなら賛成」
エミリアが最初に応じ、レオル先輩とガレスも異論はないようだった。リビアは俺たちのやり取りを見て少し笑っていたが、口を挟まずに全員の反応を待っている。
結局、席順に自己紹介を兼ねて話すことになった。
最初はガレスだった。
「俺はさっき言った通り、ガレス・フォルナー。第二学級で、剣術が一番得意だ。火と土も使えるけど、魔術は基礎の範囲を出ないと思ってくれ。火なら小さい攻撃術式、土なら足場を少し固めたり低い壁を作ったりする程度だな」
彼は自分を大きく見せようとせず、できることの範囲をかなり具体的に説明した。剣術についても対人戦の経験は学院の授業が中心で、魔物との実戦経験はないらしい。
「苦手なのは細かい魔力操作。形を維持するのが必要な術式は、正直あまり得意じゃない。あと地図を読むのも速くない」
「地図が苦手って、ちゃんと言っていいんだね」
エミリアが感心したように言うと、ガレスは肩をすくめた。
「演習中に俺へ地図を任せて全員迷ったら、その方が困るだろ」
「確かに」
俺は頷きながら、ガレスに対する最初の印象を少し修正した。体格と剣術が得意だという情報だけを見れば、前に出たがるタイプを想像することもできたが、実際には自分の不得意をかなり冷静に見ている。
(やっぱり、本人から聞かないと分からないな)
次はエミリアだった。
彼女は水と風の基礎魔術を扱えるが、攻撃術式はあまり得意ではなく、代わりに魔力制御と観察が得意だという。家族に医療関係者がいるわけではないものの、学院外で行われている一般向けの応急手当講習に何度か参加した経験があり、止血や固定など魔術を使わない処置の基礎を知っていた。
「治癒魔術が使える人がいると、怪我をしたとき全部その人に任せればいいって思う人もいるけど、演習で治癒魔術が使えるとは限らないし、怪我の種類によっては動かさない方がいいこともあるから……それで覚えました」
「それは十分、班に伝えておく価値があると思う」
レオル先輩が言うと、エミリアはほっとしたように笑った。
その次はレオル先輩だった。
雷と風を主属性として使い、特に風による索敵補助や遠距離への合図を得意としている。ただし、広範囲へ魔力を伸ばす技術は周囲の状況に影響されやすく、建物内部や障害物の多い場所では精度が落ちるらしい。
「野外実習を二度経験しているから、学院の敷地外で班行動をした経験はある。ただ、今回も野外とは限らないし、過去の演習と同じ形式だと考えない方がいいだろう。不得意なのは、重い荷物を持って長時間移動することかな。見た通り、腕力にはあまり自信がない」
そう言って細い腕を軽く持ち上げたレオル先輩に、ガレスが笑う。
「じゃあ重い物は俺が持てます」
「必要なら頼むよ。ただし、君一人に全部持たせるとはまだ決めないでおこう」
「……なるほど」
ガレスが納得したように頷いた。
次はサザリーだった。
「僕はサザリー・レグナード。同学年で、得意なのは情報整理と条件を比較して判断すること。魔術も剣術も授業についていく程度にはできるけれど、前衛として突出しているわけではない。領地や物流に関する課題をクルセスと一緒に扱った経験があるから、限られた条件の中で複数案を比べるような作業には慣れていると思う」
以前、一緒に取り組んだ領地課題のことだろう。ただし、サザリーはそこで何を解決したかまで細かく説明せず、今回使えそうな経験だけを抜き出して話した。
「苦手というか、注意したいこともある。僕とクルセスは考え方が同じ方向へ寄ることがあるんだ。二人で話すと整理は速いけれど、間違った方向でも二人一緒に納得して進む可能性がある。だから僕たちが同意していても、それだけで班の結論にはしないでほしい」
「本人からそれ言うのか?」
ガレスが目を丸くすると、サザリーは平然と答えた。
「弱点を共有する時間なんだろう?」
「いや、そうだけど。なんかもっと、魔術が苦手とかそういう話かと思ってた」
「判断の癖も弱点になり得るよ」
その言葉に、俺も頷いた。
「俺からも同じようにお願いしたい。サザリーと俺が同じ案を出してても、他に気になることがあったら普通に止めてほしい」
そこで自分の番が近づいていることに気づき、俺は一度息を整えた。
何をどこまで話すべきか。五属性すべてを使えることは、学院内ではすでに隠している情報ではない。剣術についても、授業や試合を見た生徒ならある程度知っている。迅雷撃破まで説明する必要はないし、そもそも今回の演習で使えると決まっていない技術を並べても意味がない。
「俺はクルセス・シルフィール。同学年です。剣術と体術、それから火、水、風、土、雷の五属性を使えます。無属性では身体強化と魔力感知を使えますが、演習で何が許可されるか分からないので、今の時点では使える技術の一つとしてだけ考えてください」
俺がそこまで言ったところで、ガレスとエミリアが同時に瞬きをした。
知っていると言っていたガレスでさえ、実際に本人の口から五属性と聞くと少し印象が違うらしい。
「本当に五つ全部なんだな」
「うん。ただ、五属性が使えるから何でも俺に任せてほしい、とは思ってない」
自分で口にすると、その言葉が思っていた以上に自然に出てきた。
「むしろ、俺ができることを理由に役割を集めすぎるのは避けたい。できることと、俺がやるべきことは同じじゃないから。演習の内容が分かってから、必要な役割をみんなで決めたいです」
最後はレオル先輩もいるので少し言葉を整える。先輩は何も言わず、続きを促すように頷いた。
「不得意というより注意してほしいのは……俺は自分でできることを見つけると、先に引き受けようとする癖がありました。今は前より止まれると思いますけど、もし役割が偏ってると思ったら言ってください。それと、魔術については高出力や特殊な使い方を勝手に試すつもりはありません。学院から指定された範囲で使います」
「ありました、なんだ?」
ガレスがそこへ反応した。
「昔よりは減ったから」
「オリビア嬢、本当?」
「うん」
なぜ俺ではなくリビアへ確認するのかと思ったが、彼女は少し考えてから穏やかに答えた。
「セスは前よりずっと、自分で止まれるようになったよ。だから私も、最初から止める前提では見てないの。ただ、もし私が気づいていないところで無理をしていたら、みんなも普通に言ってくれると嬉しい」
「分かりました」
エミリアが真面目に頷き、ガレスも「了解」と答える。
(リビアが俺の代わりに管理する、じゃないんだな)
以前の俺たちなら、周囲からそう見えた可能性もある。けれど今のリビアは、俺を止める役を独占しようとはしないし、俺自身も彼女だけに任せようとは思っていない。
次はリビアの番だった。
「私はオリビア・パウリー。同学年です。剣術と魔術、それから結界魔法が得意です。特に結界は、単純に攻撃を防ぐものだけじゃなくて、範囲や形を調整する訓練もしています」
リビアはそこで一度言葉を区切り、机を囲む全員へ視線を向けた。
「でも、私はセスを守るためだけに結界を使うつもりはありません。必要なら誰にでも使うし、私自身が前に出る方がいい場面なら前に出ます。セスと婚約していることと、演習でどう動くかは分けて考えてほしいです」
俺は思わずリビアの横顔を見た。
彼女がそう考えていることは知っていた。俺を守られるだけの側に置きたいわけでも、自分が守られるだけの側になるつもりでもないことは、これまで何度も話している。それでも、初対面に近い班員たちの前で彼女自身がはっきり口にしたことには、別の意味があるように感じた。
「分かった」
最初に答えたのはレオル先輩だった。
「婚約者同士が同じ班なら、互いを優先する可能性を考えるのは自然だ。ただ、最初からそれを前提に配置を決める必要もない。二人ともそう望んでいないなら、なおさらね」
「ありがとうございます」
「それと、君の結界については後で詳しく聞きたい。どの程度の範囲まで維持できるかは、課題が判明したら重要になるかもしれない」
「はい。ただ、条件で変わるので、そのときに必要な範囲で説明します」
リビアの返答にレオル先輩が頷く。
これで六人全員の基本的な話が終わった。
机の上にはエミリアが取った簡単なメモがあり、それぞれの得意分野と注意点が並んでいる。しかし、そこには「班長」「前衛」「後衛」といった役割名は一つも書かれていなかった。
「で、ここからどうする?」
ガレスが尋ねる。
俺は反射的に案を出しそうになったが、その前にエミリアが案内用紙を指で示した。
「最後に、今日の確認内容を班でまとめて提出するって書いてあります。役割決めは不要って」
「本当だ。下まで読んでなかった」
「地図だけじゃなくて案内も最後まで読もうね、ガレス」
「それは地図と関係ないだろ」
二人のやり取りに笑いが起こり、部屋の空気がさらに柔らかくなった。
提出用の用紙には、六人の得意分野と経験を簡潔にまとめることになった。誰が書くかについても、自然にエミリアが「私、さっきから書いてるからまとめてもいい?」と申し出たため、全員がそれを頼む。
ただし、彼女一人に任せきりにはせず、書かれた内容を全員で確認した。
「クルセスのところ、『五属性魔術、剣術、体術、状況判断』でいい?」
「状況判断はサザリーの方が得意じゃないか?」
「別に一人しか書けないわけじゃないよ」
サザリーが笑いながら言う。
「それに、僕と君では判断の仕方が少し違う。僕は情報を並べて比較する方が得意で、君は現場で条件が変わったときに対応するのが速い。領地課題のときもそうだっただろう?」
「そう言われると……じゃあ、それで」
「オリビア嬢は結界、剣術、魔術、状況に応じた防御範囲の調整……長いかな」
「結界制御でいいと思うよ。細かいことは課題が分かってから説明するから」
リビア自身が情報を削り、ガレスも自分の火・土魔術について「基礎」と明記するよう頼む。レオル先輩は野外活動経験と風による索敵補助、エミリアは応急手当と魔力制御、サザリーは情報整理と条件比較が中心になった。
六人分を書き終えた紙を見ると、思っていた以上に役割が重なっていない。
(俺が五属性を使えるからって、それで班の全部が埋まるわけじゃないんだよな)
応急手当について俺は基礎的な知識しかなく、エミリアほど講習経験はない。野外実習もレオル先輩の方が経験しているし、ガレスのように土魔術を足場や低い壁へ使うことを得意としているわけでもない。サザリーの情報整理や、リビアの結界制御も、それぞれ本人が積み重ねてきたものだ。
五属性という言葉だけを見れば、できることは多く見える。
けれど、一緒に何かをする相手の得意分野を知れば知るほど、それは「全部できる」という意味ではないことがよく分かった。
「なんか、思ったより普通だな」
ガレスが提出用紙を眺めながら呟いた。
「何が?」
俺が聞き返すと、彼は少し言いにくそうに頬を掻いた。
「いや、悪い意味じゃないぞ。班分け見たとき、クルセスとオリビア嬢とサザリーが一緒って聞いて、俺たち残り三人はついていくだけになるのかと思ってたんだ。お前は五属性で、オリビア嬢は結界も剣もできて、サザリーは頭いいって聞いてたから」
その言葉に、エミリアも少し迷ったあとで頷いた。
「私も、ちょっとだけ思ってました。しかも公爵令嬢とその婚約者が同じ班でしょう? 意見を言っていいのかなって」
「言ってほしい」
俺より先にリビアが答えた。
声は柔らかかったが、迷いはなかった。
「私が公爵家の娘なのは変えられないし、セスと婚約しているのも隠すことじゃない。でも、それで演習中までみんなが私に合わせるのは嫌なの。私が間違っていると思ったら、ちゃんと言ってほしい」
「俺も同じです。婚約者だからリビアの案に賛成する、みたいなことはしません。逆に、リビアが俺に合わせる必要もない」
「二人で意見が割れたら?」
ガレスの質問に、俺とリビアは顔を見合わせた。
「話す」
「話すよね」
ほぼ同時に答えてしまい、俺たちは揃って笑った。
「それで決まらなかったら、他の四人の意見も聞くよ。六人の班なんだから」
リビアが続けると、ガレスの肩から少し力が抜けたように見えた。
その様子を、サザリーは黙って見ていた。
◇
サザリー・レグナードは、クルセスが自分の能力を説明するところを聞きながら、以前との違いを考えていた。
五属性すべてを扱えることも、剣術や体術に優れていることも変わっていない。学院内でクルセスの実力を知る者が増えた今、その事実そのものに以前ほど驚く者はいなくなりつつある。
けれど今日、サザリーが気になったのは能力ではなかった。
(「できること」と「自分がやるべきこと」は同じじゃない、か)
以前のクルセスなら、誰かが困る可能性を見つけた時点で、自分が対応できるかを考えていただろう。そして対応できるなら、自分が引き受けることをかなり自然な結論としていた。
それは優しさでもあり、能力の高さゆえに成立してしまう危うさでもあった。
今の彼は、できることを隠してはいない。それどころか五属性も剣術も、班員が判断を誤らないよう正確に伝えている。そのうえで、それらを「だから自分が全部やる」という結論へつなげなかった。
サザリーには、その違いがかなり大きく見えた。
さらに興味深いのは、オリビアとの関係だった。
婚約者になった二人は以前より明らかに近い。昼休みのやり取りを見れば、恋愛感情を隠している様子などまるでない。それでも、交流演習では互いを一つの組として扱うのではなく、それぞれが一人の班員として話していた。
クルセスが無理をしそうならオリビアだけが止めるのではなく、班員も言ってほしい。
オリビアを守る役をクルセスへ固定せず、彼女自身も必要なら前へ出る。
(近くなったから二人だけで完結するんじゃなくて、近くなったまま外へ開いているんだな)
それはサザリーにとって、少し面白い変化だった。
同時に、自分自身も気をつけなければならない。クルセスと意見が合いやすいことを弱点として口にしたのは冗談ではなく、実際に二人だけで課題を整理したとき、互いの思考速度が近いせいで別の視点を後回しにした経験がある。
今回の班には六人いる。
ならば、六人いる意味を消さない方がいい。
サザリーはエミリアがまとめた提出用紙へ視線を落とし、まだ空欄になっている「班内で今後確認したい事項」の欄を指した。
「ここには、『課題提示後に各能力の使用条件を再確認する』でどうかな。今の段階で役割を固定しないことも書いておけば、今日の結論として分かりやすい」
「いいと思う」
クルセスが答えたあと、すぐに他の四人へ視線を向ける。
以前なら自分とサザリーの間で成立した時点で話を先へ進めたかもしれない。そんな小さな違いを、本人がどこまで自覚しているのかは分からない。
けれどサザリーは、それをわざわざ指摘しなかった。
変化というものは、すべて名前を付けて本人へ返す必要もないのだろう。
◇
「私は賛成です」
エミリアが言い、ガレスとレオル先輩も頷いた。リビアも内容を確認してから同意したため、最後の欄にはサザリーの提案を少し整えた文章が書き込まれた。
課題提示後、必要に応じて各自の能力・経験・使用条件を再確認すること。現時点では役割を固定しないこと。
たったそれだけだが、今の俺たちには十分だった。
「提出は誰がする?」
「俺が行こうか?」
ガレスが申し出たので、そのまま頼むことになった。彼は用紙を受け取ると、教員室前の提出箱へ入れてくると言って先に部屋を出ていく。
残った五人も机の上を片づけ始めた。使ったのは案内用紙と筆記具くらいなので大した作業ではないが、エミリアが自分の手帳を閉じ、レオル先輩が椅子を元の位置へ戻しているのを見て、俺も近くの椅子を整える。
「クルセス君」
「はい?」
レオル先輩に呼ばれて振り向くと、彼は窓から入る夕方の光を背にして、少し考えるように俺を見ていた。
「一つ聞いてもいいかな。五属性を使えるというのは知っていたが、君自身はどれが一番得意なんだ?」
簡単そうで、意外と答えに迷う質問だった。
五属性それぞれを使えることについては何度も説明してきたが、「一番好き」や「一番得意」と聞かれる機会はそれほど多くない。
「制御だけなら、どれか一つだけが特別という感じではないです。ただ……」
そこで俺は少し考えた。
「状況によって使い分けるのが、一番得意なのかもしれません。一つの属性を極めてるというより、その場で必要なものを選ぶ方が俺には合ってる気がします」
「なるほど。それなら『五属性』という情報だけより、ずっと分かりやすい」
レオル先輩は納得したように頷いた。
「課題が出たら、その判断を頼る場面があるかもしれない。ただし、君一人に判断させるという意味ではないよ」
「はい」
その付け加え方が少しおかしくて、俺は笑った。
エミリアも帰る準備を終え、俺たちは第二演習準備室を出た。廊下へ出ると、別の準備室からも顔合わせを終えたらしい生徒たちが出てきており、あちこちで班員同士の会話が続いている。
階段へ向かう途中で、提出を終えたガレスが追いついてきた。
「入れたぞ。あと先生が、次の連絡は各班へ同じタイミングで出すって言ってた。いつかまでは教えてくれなかったけど」
「じゃあ、それまでは待てばいいね」
リビアが言うと、ガレスは「そうだな」と頷いた。
待つ。
その言葉を聞いても、何か準備しておかなければという焦りは起こらなかった。課題が分からない以上、今から想像だけで対策を増やしても意味は薄い。普段の授業を続けながら、連絡が来たときに六人で考えればいい。
校舎の一階まで下りたところで、レオル先輩とエミリア、ガレスとは帰路が分かれた。
「次もよろしく」
ガレスが気軽に手を上げる。
「よろしくお願いします」
エミリアも微笑み、レオル先輩は「次に会うときは課題が分かっているといいね」と言って上級学年の校舎側へ歩いていった。
三人の姿を見送ったあと、俺は隣のサザリーへ目を向ける。
「思ってたより話しやすかったな」
「僕もそう思う。ただ、それは向こうも同じかもしれないよ」
「どういう意味?」
「ガレスとエミリアは、最初は僕たち三人に少し構えていただろう? たぶん班分けだけ見た段階では、僕たちが全部決めると思われていたんじゃないかな」
「ああ……本人たちも言ってたな」
「だから、今日の顔合わせでそれが違うと分かっただけでも意味はあったと思う」
サザリーの言葉に俺は頷いた。
正門へ向かう途中で彼とも別れ、俺とリビアは迎えの馬車へ向かった。夕方の風は昼より少し冷たく、校庭ではまだ残っている生徒たちの声が遠く聞こえている。
馬車へ乗り込むと、リビアは俺の向かいではなく隣へ座った。扉が閉まり、車輪がゆっくり動き始めてから、彼女は小さく息を吐く。
「楽しかった」
「顔合わせが?」
「うん。知らない人と班になるの、ちょっと楽しみにしてたから」
「俺も。最初は何を話せばいいか少し考えてたけど、始まったら普通だったな」
「ガレス君、いい人そうだったね。エミリアさんも話しやすかったし、レオル先輩も上級生だからって前に出ようとしなかった」
「みんな、自分のできないことも普通に言ってたのがよかった」
ガレスは細かい魔力操作と地図、エミリアは攻撃魔術、レオル先輩は腕力について自分から話した。できないことを隠すより、最初に伝えた方が班のためになると理解しているのだろう。
「セスも言えてたよ」
「俺?」
「できるからって全部やらないって」
リビアが俺の手元へ視線を落とし、少し迷うように指先を動かした。俺が手のひらを上へ向けると、彼女はそこへ自分の手を重ねる。
「前だったら、私がそれを言わなきゃいけなかったかもしれない。でも今日は、セスが自分でみんなに言ってたでしょう?」
「……うん」
指を絡めるほど強くは握らず、触れた手の温度を確かめるように軽く包む。
(俺も変わったのかな)
変わったと言い切るのは、少し気恥ずかしい。
けれど、昔と同じではないことくらいは認めてもいい気がした。
「リビアも、自分で前に出るって言ってたな」
「だって本当だもの。セスと同じ班になれたのは嬉しいけど、セスを守るためだけに入った班じゃないよ。私も演習をやりたいし、他のみんなとも一緒に考えたい」
「俺も同じだよ」
「うん」
リビアは嬉しそうに目を細めたあと、肩を俺の方へ少し寄せた。
馬車の窓から流れていく王都の街並みを眺めながら、俺は今日会った三人のことを思い返す。まだ一度話しただけで、相手の全部を知ったわけではない。演習が始まれば意見がぶつかることもあるだろうし、実際の課題によっては得意分野が思ったように役立たないこともあるかもしれない。
それでも、最初から俺たち三人だけで完成した班ではなかった。
六人で始められた。
それが今日、一番よかったことなのだと思う。
パウリー邸へ戻ると、玄関でグレイヴが俺たちを迎えた。俺はいつものように帰宅の挨拶をしてから、交流演習の顔合わせが問題なく終わったことを簡潔に伝える。
「役割はまだ決めていません。課題が出てから、六人で必要なことを確認することになりました」
「承知しました。それが学院側の意図にも合っているのでしょう」
「たぶん。あと、同じ班の三人とも話しやすそうだった」
俺が自然にそう付け加えると、グレイヴはほんの少し目元を和らげた。
「それは何よりです」
それ以上、彼は演習について尋ねなかった。代わりに、俺とリビアが着替えるため廊下へ進もうとしたところで、「一つだけ」と呼び止める。
「ご友人をこちらへお招きする件ですが、候補日を二つまで絞りました。皆様の学院予定を確認したうえで、明日以降にお伝えできます」
「分かった。ありがとう、父さん」
「セス」
グレイヴの前で自然にそう呼んだ俺を、リビアが嬉しそうに見ていた。
「何?」
「ううん。なんでもない」
なんでもないと言いながら、明らかに機嫌がいい。
俺は首を傾げたものの、無理に理由を聞かず、自室へ向かう廊下の分かれ道で一度リビアと別れた。
着替えを終えたあと、今日は研究資料を開かなかった。
ベルナルト先生との調査は気になっているし、淡灰晶や流量見について考えるのは楽しい。けれど、今日の俺の頭には六人で囲んだ長机や、ガレスが地図を苦手だとあっさり認めたときの顔、エミリアの丁寧なメモ、レオル先輩の落ち着いた声が残っていた。
だから机へ向かって演習の予想を始めるのでもなく、旅行記を開くことにした。
海辺の町へ着いた旅人は、そこからさらに港沿いを歩くらしい。
(研究もしたい。演習も楽しみだし、みんなを家へ呼ぶのも楽しみだ。旅行記の続きも読みたい)
どれか一つを選ばなければならないとは、今は思わなかった。
窓の外では夕方の光がゆっくり薄れ始め、屋敷の中にも夜の支度をする使用人たちの気配が広がっている。俺もあとで必要なら仕事を手伝うし、夕食になればリビアたちと食卓を囲む。
俺は執事として身につけてきたことを嫌いになったわけではない。
研究が好きだと分かったからといって、剣を手放したいわけでもない。
友人と遊ぶ時間が増えたからといって、リビアと過ごす時間の価値が薄れるわけでもない。
そして、リビアの婚約者になったからといって、それ以外の俺が消える必要もなかった。
(たぶん、こういうのを少しずつ知っていけばいいんだろうな)
将来どんな仕事をするのか、どこで暮らすのか、研究をどこまで続けるのか。それらの答えはまだ決まっていない。
けれど、答えが決まっていないことと、自分に何もないことは違う。
今日、六人で得意なことと不得意なことを並べたように、自分についても、持っているものを一つずつ確かめていけばいい。
ページをめくると、港へ入った旅人が潮風の匂いについて書いていた。
以前から気になっていた海の匂いを想像しながら、俺は少しだけ笑う。
いつかリビアと確かめられたらいい。
その「いつか」がいつなのかは、まだ決めなくていい。
交流演習の課題も、友人を屋敷へ招く日も、俺自身の将来も、まだすべてが決まったわけではない。それでも、決まっていないものを急いで埋めなくても、今日みたいに必要なときに人と話して、一つずつ選んでいける。
六人で始めたばかりの第三班と同じように、俺自身にもまだ役割を書き込んでいない余白が残っている。
今の俺は、その余白を以前ほど怖いとは思わなかった。




