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第80話 それぞれの役割へ


 ベルナルト先生と交易記録を確認した翌朝、俺はいつもと同じ時間に目を覚ました。


 身体を起こしてから首と肩をゆっくり動かし、呼吸の深さや手足の重さを確かめる。昨日は魔術を使っていないし、第三資料室で資料を読んでいただけだから当然と言えば当然だが、痛みも張りもなく、身体に残っている疲労感も普段と変わらなかった。


(問題なし。今日は普通に授業だな)


 そう確認して着替えを済ませ、部屋を出る。


 廊下では朝の仕事を始めている使用人たちが静かに行き交っており、窓の外には薄い朝日が差し始めていた。少し冷えた空気の中に、厨房から届く焼いたパンの匂いが混じっている。


 食堂へ向かう途中でグレイヴと会うと、彼は俺の顔を見て軽く頷いた。


「おはようございます、セス。昨日の調査はいかがでしたか?」


「面白かったよ。答えは出なかったけど、調べる方向は増えた」


「それは何よりでございます」


「普通は答えが出なかったって言ったら、残念だったねって言わない?」


「昨夜のお顔を拝見する限り、残念そうには見えませんでしたので」


「そんなに分かりやすかった?」


「少なくとも私には」


 少し恥ずかしくなったが、否定は出来なかった。


 研究が楽しかったことは事実だ。


「次の予定はまだないよ。先生が中間地域の目録を確認してから」


「承知いたしました。では、それまでは通常どおりでございますね」


「うん」


 グレイヴはそこで研究の話を終え、代わりに今日の予定を教えてくれた。


「それと、学園から帰宅されましたら、ロズベル様方をお招きする日の案内について一度ご確認いただきたく存じます」


「あ、決まった?」


「おおよその時刻と服装については整理出来ております。お土産につきましても、今回は不要とお伝えして問題ございません」


「分かった。帰ったら見るよ」


「お願いいたします」


 友達を家へ呼ぶための案内。


 それも、俺にとっては初めてのことだ。


 研究とは全然違うのに、少し楽しみなのは同じだった。


     ◇


 朝食の席では、リビアが昨日借りた庭園の本を脇に置いていた。


「おはよう、セス」


「おはよう。もう読んでた?」


「朝ちょっとだけ。昨日見てた庭園とは別のところも載ってるよ」


「帰ったら見せて」


「うん」


 俺が席へ着くと、給仕を担当する使用人が朝食を並べていく。


 以前なら、こうして座っている時でも皿の位置や茶器の残量へ意識が向き、誰かが動く前に自分が手を出したくなることがあった。


 今も仕事の流れそのものは目に入る。


 けれど、ここで俺が動く必要はない。


 俺は普通に朝食を受け取り、パンへ手を伸ばした。


「今日、帰ったらディーンたちへの案内確認するって」


「グレイヴから?」


「うん。時間と服装はだいたい決まったみたい。お土産もいらないって」


「それなら早めに伝えられるね」


「今日、みんなに言っていいか聞いてからになるけど」


 俺がそう答えると、リビアは少しだけ笑った。


「セス、楽しみ?」


「楽しみだよ」


「前より素直に言うようになったね」


「そう?」


「うん。前だったら『問題ない』とか『準備は出来てる』って答えてた気がする」


 言われてみれば、そうだったかもしれない。


 予定について聞かれた時、出来るか出来ないかを答えることは多かった。


 楽しみかどうかは、その後だった。


「じゃあ、楽しみ」


「知ってる」


「聞いたのリビアでしょ」


「もう一回聞きたかったの」


 楽しそうに笑うリビアを見ていると、俺まで笑ってしまった。


     ◇


 学園へ着き、午前最初の授業を終えたところで、担任教師から連絡があった。


「交流演習の班分けについて、予定どおり本日掲示する。午後の授業終了後、各自で中央掲示板を確認するように」


 教室の空気が少し変わった。


 すでに交流演習そのものについては説明を受けている。班は複数学科や複数の得意分野を考慮して組まれ、演習当日に与えられる条件へ対応することになる。


 ただし、誰と組むかは今日まで分からなかった。


「ようやくか」


 近くの席でイザークが小さく呟く。


「前衛だといいね」


 俺が言うと、イザークが振り返った。


「まだ言うか?」


「自分で前衛になった時の練習考えてたって言ってたから」


「あれはもうやめた。役割決まってないのにやっても仕方ない」


「ちゃんと先生の話聞いてる」


「お前と一緒にするな」


「俺もやってないよ」


「知ってるから言ってる」


 俺たちのやり取りを聞いていたサザリーが、教科書を閉じながら口元を緩めた。


「班が決まった後でも、役割まで決まったとは限らないけどね」


「それなんだよな」


 イザークは少し残念そうだった。


「班の中で前衛向きが俺だけなら決まりだろ?」


「そうとも限らないよ。演習内容によっては、前衛という役割そのものが必要ないかもしれない」


「サザリー、夢がない」


「演習だよ?」


 俺は二人を見ながら笑った。


 班分けは気になる。


 誰と一緒になるかも楽しみだ。


 でも、掲示されるのは放課後なのだから、今考えても分からない。


 俺は次の授業の教科書を机へ出した。


     ◇


 昼休みになると、交流演習の話題は食堂のあちこちで聞こえていた。


 誰と組みたい。


 剣術が得意な生徒と同じ班がいい。


 魔術が得意な人が多い方が有利ではないか。


 逆に得意分野が偏ると困るのではないか。


 まだ演習内容が分からないからこそ、好き勝手な予想が飛び交っている。


 俺たちもいつものように席を囲んだ。


「セスと同じ班だったら楽そうだよね」


 ナナリーが何気なく言った。


「何で?」


「だって剣も魔術も出来るでしょう?」


「でも演習内容分からないよ」


「それでも出来ること多いじゃない」


「その考え方だと、サザリーも一緒の方がよくない? 俺が気づかないこと見つけるし」


「それを言うなら、リビアも何でも出来るよ」


 ミリアナが加わる。


「イザークも前衛なら頼りになるし、ディーンは人をまとめるの上手いし」


「俺は?」


 アルフォルドが尋ねる。


「殿下を班員として普通に評価していいんですか?」


 ナナリーが困った顔になる。


「交流演習では同級生だ」


「じゃあ強いです」


「雑だな」


 アルフォルドが苦笑した。


 カイゼルは隣で楽しそうに食事を続けている。


「結局、誰と組んでも出来ること探すしかないんじゃない?」


「カイゼルにしては普通のこと言った」


「セス、俺を何だと思ってる?」


「面白いこと言う人」


「悪くない評価だな」


 そこでサザリーが水を一口飲んでから、静かに言った。


「班員の能力より、最初に何を確認するかの方が重要かもしれないね」


「条件?」


「それも。演習の目的、制限時間、使える場所、禁止事項。それから、全員が何を出来るか」


「いきなり役割決めない方がいい?」


「少なくとも、名前や家柄だけで決めるのは危ないと思う」


 その言葉には俺も頷いた。


 俺は魔術を五属性使える。


 剣も使える。


 だからといって、どんな状況でも俺が一番適した役割になるとは限らない。


(班が決まったら、まず話すことだな)


 そこまで考えたところで、自分がすでに役割分担を始めかけていることに気づく。


(いや、演習内容もまだ分からない)


 俺はパンを食べながら、頭の中の予定表をいったん閉じた。


     ◇


 午後の魔術実技では、エレナ先生が担当だった。


 今日は特別な確認ではなく、全員が行う基礎制御の授業だ。


 指定された標的へ低出力の属性魔術を当て、一定時間維持した後に解除する。俺も周囲と同じ課題へ取り組み、余計な切り替えや出力変化は行わなかった。


 授業の終わり際、エレナ先生が全員を集める。


「来月の実技確認について、追加で一つだけ伝えておきます。個別の順番と使用する属性については、事前に全て公開しません」


 何人かが小さくざわめいた。


「理由は、指定された条件へ対応出来るかを見るためです。ただし、これは不意打ちを目的とした試験ではありません。授業で扱っていない技術を突然要求することもありません」


 俺は黙って聞く。


「特定の属性だけを集中的に練習して備える必要はありません。普段の授業を続けてください。また、体調不良や魔力状態に問題がある場合は当日に必ず申告すること。申告したことで評価を下げることはありません」


 エレナ先生の視線が一瞬こちらへ向いた気がしたが、俺だけへ言っているわけではない。


 全員への説明だ。


「質問は?」


 数人が順番や評価について尋ねたものの、エレナ先生はすでに決まっている範囲だけを答え、細かな条件については当日説明するとした。


 俺も質問はしなかった。


 俺の確認手順については、すでに個別で説明を受けている。


 最初の指定属性を低出力から始め、維持し、中程度まで上げ、再び低出力へ戻してから停止する。その時点で体調と魔力状態を確認し、問題がなければ二つ目の指定属性を低出力で維持して停止する。


 速い切り替えを見る試験ではない。


 複合魔術も使わない。


 迅雷撃破も関係ない。


(当日指定されたものをやればいい)


 それ以上でも、それ以下でもない。


     ◇


 最後の授業が終わると、教室の空気が朝より明らかに落ち着かなくなった。


 中央掲示板へ向かう生徒が一気に増えれば混雑するため、教師から学級ごとに少し時間をずらすよう指示が出る。


 俺たちは教室でしばらく待つことになった。


「何班かな」


 ナナリーが窓の外を見ながら言う。


「俺は誰とでもいいけど、知ってる奴一人くらいいると楽だな」


 イザークはそう言いつつ、やはり気になっているらしい。


 ディーンも鞄を閉じながら笑う。


「全員ばらばらだったら、それはそれで面白そうだけど」


「七人全員同じ班だったら?」


 ミリアナが尋ねる。


「それは先生が偏らせすぎだよ」


 サザリーが答えた。


 やがて移動してよい時間になり、俺たちは中央掲示板へ向かった。


 廊下を進むにつれて、別の学級の生徒も増えていく。


 中央棟一階の広い掲示板には何枚もの紙が貼られており、その前に生徒たちが集まっていた。


「押さないでください!」


 近くに立つ教師が声をかけている。


 俺たちは少し離れたところで人が減るのを待った。


「セスなら後ろから見える?」


 リビアが尋ねる。


「見えないよ。そこまで背高くないから」


「魔術で浮けば?」


 カイゼルが言う。


「怒られるでしょ」


「冗談だよ」


 しばらくすると前が空き、ようやく掲示板の近くまで進めた。


 紙には班番号と名前が並んでいる。


 俺は上から順番に自分の名前を探す。


「……あった」


 第三班。


 クルセス・シルフィール。


 その下へ視線を移す。


 オリビア・パウリー。


「リビア、一緒だ」


「本当だ」


 隣から覗き込んだリビアが少し嬉しそうに笑う。


 さらに名前を追う。


 サザリーの名前もあった。


「僕も同じだね」


 背後から声がした。


「サザリー」


「他は?」


 俺は残りの名前を見る。


 同じ学年で顔は知っているが、普段あまり話したことのない男子生徒が一人。


 別学級の女子生徒が一人。


 さらに、交流演習のために組み込まれた上級学年の生徒が一人。


 合計六人だった。


「イザークは?」


「第五班」


 少し離れた紙を見ていたイザークが答える。


「アルフォルドと一緒だ」


「本当か?」


 アルフォルドが自分でも確認し、頷いた。


「ディーンは?」


「第七班。ナナリーと一緒だな」


「私は第七班!」


「私、第六班だ」


 ミリアナは別になったらしい。


「カイゼルは?」


「第四班。知ってる名前少ないな」


 それぞれの班が分かれていく。


 いつもの友人だけで固められてはいない。


 俺はもう一度、第三班の名前を見る。


 リビア。


 サザリー。


 そして、普段ほとんど話したことのない三人。


(まず、何が出来る人なのか知らないとな)


 同時に、向こうも俺について知っているとは限らない。


 俺が五属性を使えることは学年内ではかなり知られているだろうが、それだけで何が出来るか全部分かるわけではない。


「セス」


 リビアに呼ばれて振り向く。


「もう役割考えてない?」


「……ちょっとだけ」


「やっぱり」


 サザリーまで笑っている。


「演習内容が出てからだね」


「分かってるよ」


「本当に?」


「分かってるって」


 俺は掲示板から離れた。


     ◇


 そのまま帰るつもりだったが、第三班の他の生徒たちも掲示を確認していたため、自然と顔を合わせることになった。


 最初に声をかけてきたのは、同じ学年の男子生徒だった。


「シルフィール、パウリー嬢、サザリー。俺も第三班だ」


 彼の名前は掲示で確認したばかりだ。


 同じ学年の別学級にいる生徒で、剣術実技の合同授業では何度か見たことがある。


「よろしく」


 俺が答えると、彼も頷いた。


「俺は剣術の方が得意だ。魔術は火と土なら基礎程度」


「分かった。俺は――」


 自分の能力を説明しようとして、少し止まる。


 今ここで全部決める必要はない。


「詳しいことは班で集まった時に、全員で確認した方がいいかな」


「ああ、それもそうだな」


 彼も納得した。


 別学級の女子生徒も近づいてくる。


「私も第三班です。よろしくお願いします」


「よろしく」


 リビアとサザリーも挨拶を返す。


 彼女は少し緊張しているようで、特にリビアへ向ける視線には硬さがあった。


 公爵令嬢と同じ班になったのだから、無理もないのかもしれない。


 リビアはそれに気づいたのか、普段の教室と変わらない声で尋ねた。


「得意なことの話、今少しだけする? それとも全員揃ってからにする?」


「あ……全員揃ってからの方が、いいと思います」


「私もそう思う」


 リビアがすぐ頷いたことで、女子生徒の肩から少し力が抜けた。


 最後の一人である上級生は、少し離れたところで教師と話していた。


 交流演習では学年をまたぐ班が一部作られると聞いていたが、俺たちの班がそれに当たったらしい。


「今日は顔合わせだけにしておこうか」


 サザリーが提案する。


「集合日時は先生から連絡があるはずだし、勝手に打ち合わせを始めると他の班と条件が変わるかもしれない」


「そうだね」


 俺も賛成した。


 何も知らないうちから準備しすぎない。


 それは先生たちから何度も言われている。


 俺たちは簡単に挨拶だけ済ませ、その場で解散した。


     ◇


 帰りの馬車では、俺とリビアが並んで座った。


「同じ班だったね」


「うん」


「嬉しい?」


「嬉しいよ」


「私も」


 リビアは素直に答えた。


 俺も嬉しい。


 ただ、それだけで今回の班が楽になるとは思っていない。


「サザリーも一緒なの、ちょっと安心する」


「分かる。俺とサザリー、考えが同じ方向に寄りすぎることあるけど」


「そこは私が止める?」


「お願い」


「任せて」


 冗談半分で頼むと、リビアは胸を張った。


「でも、他の三人のこともちゃんと知らないとね」


「うん。同じ学年の男子は剣が得意だって言ってた。女子の方はまだ聞いてない」


「上級生の人も」


「先生と話してたね」


「知ってる?」


「顔は見たことある気がするけど、話したことはない」


「私も」


 俺たちはそこで、誰がどの役割になるかを予想し始めることはしなかった。


 班が決まった。


 今分かっているのは、それだけだ。


「セス、私が同じ班だからって守ることばっかり考えないでね」


 リビアがふいに言った。


「考えてないよ」


「本当に?」


「リビアが自分で戦えるの知ってるし」


「ならいいけど」


「必要なら守る。でも、リビアも俺を守るでしょ?」


「もちろん」


「じゃあ同じだよ」


 俺がそう答えると、リビアは一度瞬きをしてから、ゆっくり笑った。


「うん。同じだね」


 俺はその笑顔を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 守る側と守られる側を最初から固定する必要はない。


 演習なら、なおさらだ。


     ◇


 屋敷へ戻ると、グレイヴが約束どおり案内内容を用意してくれていた。


 俺とリビアは小居間へ移り、机の上へ置かれた紙を一緒に確認する。


「到着は昼食の少し前。帰宅は夕刻前を目安……」


「はい。各家へは送迎の都合がございますので、幅を持たせております」


「服装は私的な外出着で問題なし」


「パウリー家への正式な訪問ではございませんので、礼装は不要でございます」


「贈り物も不要」


「はい。先方のご家族が個人的に何か持たせたいとお考えになる場合まで禁ずる必要はございませんが、少なくともこちらから求めるものはございません」


 俺は一つずつ確認する。


「当日は、どこ使うの?」


「昼食は庭に面した小食堂を予定しております。その後は天候がよろしければ庭、屋内で過ごされる場合は西側談話室をご利用ください」


「俺の部屋とかじゃないんだ」


「七名でございますので、少々手狭かと」


「確かに」


 リビアが紙を覗き込む。


「盤上遊戯は?」


「談話室へいくつかご用意出来ます。何を使用されるかは当日お選びいただけばよろしいかと」


「それがいい」


 俺も頷いた。


 何時に何をする、と全部決める必要はない。


「グレイヴ」


「はい」


「俺、当日は本当に何もしなくていいの?」


「何もしてはいけない、とは申し上げません」


「じゃあ、お茶淹れるくらいは?」


 グレイヴはすぐには答えず、俺の顔を見た。


「なぜ淹れたいのでございますか?」


 前にも似たことを聞かれた。


 今度は迷わない。


「友達に飲んでもらいたいなら」


「それでしたら、ご自由になさってよろしいかと存じます」


「仕事としてじゃなく?」


「はい。ただし、皆様がいらしている間ずっと給仕へ回ることはお勧めいたしません」


「それはしないよ」


「では問題ございません」


 リビアが隣で嬉しそうに笑っている。


「何?」


「ちゃんと答えたなって思って」


「俺だって成長するよ」


「知ってる」


 またそれを言われた。


     ◇


 案内の確認を終えた後、俺は交流演習の班分けについてグレイヴにも話した。


「リビアとサザリーが一緒。あと三人いるけど、まだちゃんと話したことない人」


「左様でございますか」


「班が決まったからって、まだ何も準備しないよ。先生から顔合わせの日程が出るまでは普通にしてる」


「承知いたしました」


 グレイヴはそれだけ答えた。


 以前なら「無理をしないように」と続けられたかもしれない。


 でも、今は必要がなければ言わない。


 それが少し嬉しかった。


     ◇


 夕食まで時間があったので、俺とリビアは庭へ出た。


 訓練ではない。


 剣も持っていない。


 ただ少し歩きたかっただけだ。


 夕方の庭には柔らかな風が吹き、花壇の間を通る道には木々の長い影が伸びている。昨日読んだ庭園の本のことを思い出したのか、リビアは道の先にある植え込みを見ながら足を緩めた。


「ここの庭も、入口から全部見えないようになってるね」


「本当だ」


「今まで気にしたことなかった」


「俺も」


 いつも見ている庭なのに、知ったことが一つ増えるだけで見え方が少し変わる。


「この先に池があるの、初めて来た人は分からないかも」


「ディーンたちにも見せる?」


「天気よかったらね」


「イザークが走り出さないようにしないと」


「子供じゃないんだから」


「でも木剣持ってこようとしてたよ」


「それは否定出来ない」


 俺たちは笑いながら歩く。


 しばらく進むと、庭の奥にある小さな池が見えてきた。


 水面には夕方の空が映っている。


 俺たちは池の近くにあるベンチへ腰を下ろした。


「交流演習、同じ班でよかった」


 リビアが改めて言う。


「うん」


「でも、セスと一緒じゃなくても大丈夫だったと思う」


「俺も」


 その言葉を口にしても、寂しくはなかった。


「前だったら、リビアと別の班だったら心配してたかも」


「私が?」


「俺が」


「何を?」


「守れないとか」


 リビアは少しだけ黙った。


 風が水面を揺らし、反射していた光が細かく崩れる。


「今は?」


「リビアなら大丈夫って知ってる。それに、何かあったら同じ班の人がいるし、先生もいる」


「うん」


「だから別でも大丈夫だった。でも一緒なのは嬉しい」


 俺がそう言うと、リビアは俺の肩へ軽く身体を寄せた。


「私も同じ」


 彼女の髪が腕へ触れる。


「セスと一緒じゃなくても、ちゃんとやれる。でも一緒なら嬉しい」


「それが一番いいかもね」


「うん」


 俺はベンチの上で手を動かし、彼女の手へ重ねた。


 リビアは自然に指を絡める。


     ◇


 しばらく池を眺めていると、リビアがぽつりと言った。


「セスって、最近忙しいよね」


「そうかな」


「研究して、授業して、剣もやって、魔術もやって、アルセスお父様から婚約者としてのことも教わって、友達とも遊ぶでしょう?」


「リビアも似たようなものじゃない?」


「私は委員会もある」


「ほら」


 二人で笑う。


「でも、前みたいな忙しさじゃない気がする」


 リビアが続けた。


「どう違う?」


「前のセスは、やらなきゃいけないことばっかりだった」


 俺はすぐには答えなかった。


 執事としての仕事。


 リビアを守ること。


 公爵家に迷惑をかけないこと。


 学園で問題を起こさないこと。


 自分の能力を危険なく扱えるようにすること。


 もちろん、今も責任はある。


 でも、それだけではない。


「今は、やりたいことも増えたからかな」


「研究?」


「研究も。剣ももっとやりたいし、友達とも遊びたい。旅行記も読みたいし、リビアと庭園にも行きたい」


「海も」


「雪の町も」


「いっぱいあるね」


「うん」


 全部を同時には出来ない。


 だからといって、一つだけ選ばなければならないわけでもない。


「仕事は?」


 リビアが尋ねる。


「執事?」


「それも好き?」


「好きだよ」


 迷わず答えた。


「今までやってきたからってだけじゃなくて?」


「うん。人の予定整えたり、必要なもの考えたり、問題が起きないように準備したりするの好きだと思う」


「領地の仕事にも似てるね」


「サザリーとやった課題も面白かったしね」


「じゃあ、セスが将来何するか決めるの大変そう」


「本当だよ」


 でも、嫌ではなかった。


 以前は、自分の将来を考える時、何を捨てなければならないのかを先に考えていた気がする。


 執事を続けるなら。


 婚約者になるなら。


 公爵家に関わるなら。


 リビアと結婚するなら。


 どれかを選べば、別の何かを諦めるものだと思っていた。


(でも、本当にそうなのかな)


 まだ分からない。


 分からないからこそ、今決めなくてもいい。


「セス?」


「何でもない」


「考えてたでしょう?」


「うん」


「何を?」


 俺は少し考えてから、今の気持ちをそのまま言った。


「将来、一個の名前だけで生きなくてもいいのかなって」


「一個の名前?」


「執事とか、研究する人とか、リビアの婚約者とか。どれか一つだけじゃなくていいのかなって」


 リビアはすぐに答えなかった。


 俺の手を握ったまま、少しだけ考えている。


「私は、公爵令嬢だけじゃないよ」


「うん」


「学生だし、結界の研究もしたいし、委員会もやってるし、セスの婚約者でもある」


「そうだね」


「じゃあ、セスも一個じゃなくていいんじゃない?」


 単純な答えだった。


 でも、その単純さが今は心地よかった。


「そうかも」


「それに、まだ十五歳だよ?」


「リビアもね」


「今から一生分決めなくてもいいと思う」


「うん」


 俺は握っていた手へ少し力を込めた。


     ◇


 その日の夜、俺は机に向かった。


 交流演習の班名簿を書き写そうか一瞬考えたが、やめた。


 学園で正式な資料が配られるだろうし、今必要なのは班員の名前を覚えておくことくらいだ。


 研究ノートも開かない。


 代わりに、職人街の本を机へ置いた。


 ページをめくる前に、今日一日を思い返す。


 交流演習の班が決まった。


 リビアとサザリーが一緒だった。


 他の三人とはこれから知り合う。


 実技確認は、事前に全ての条件が分かるわけではない。


 友達を屋敷へ招く案内もほぼ整った。


 どれも少し先につながっている。


 研究だけではない。


 学園も、友達も、リビアとの時間も、将来のことも。


 いろいろなものが同時に進んでいる。


(全部ちゃんとやろうとしたら、また抱え込むかもしれないな)


 だから、全部を今やる必要はない。


 研究は次の資料を待つ。


 交流演習は正式な顔合わせを待つ。


 実技確認は普段の授業を続ける。


 友達を招く日は、その日になったら遊ぶ。


 将来は、今すぐ一つへ決めない。


 俺はそこまで考えてから本を開いた。


 今夜読むのは、職人街にある小さな染色工房の章だった。


 研究に関係があるかもしれないからではない。


 ただ読みたいから読む。


 それでいい。


     ◇


 同じ頃、別の部屋でリビアも机に向かっていた。


 開いているのは、今日借りてきた庭園の本だった。


 けれど、彼女の視線はしばらく同じページに留まっている。


(セス、変わったな)


 以前から優しかった。


 以前から努力家だった。


 何でも出来るのに、それを自慢することもなかった。


 けれど、その優しさの中には、自分を後回しにする癖がずっと混じっていた。


 リビアを守る。


 公爵家へ恩を返す。


 執事として役に立つ。


 誰かのために動く理由なら、セスはいくらでも見つけられた。


 自分がやりたいからという理由だけは、なかなか選べなかった。


 最近は違う。


 研究が面白い。


 旅行記を読みたい。


 友達の家へ遊びに行きたい。


 友達を自分の家へ呼びたい。


 庭園へ行きたい。


 剣も続けたい。


 それらを話す時のセスは、以前より少しだけ年相応に見える。


(私のことを考えてない時間があるのが、嬉しいなんて変かな)


 でも、本当に嬉しかった。


 自分のためだけに生きてほしいわけではない。


 まして、自分から離れてほしいわけでもない。


 ただ、セスの世界の中心に自分一人だけがいる状態にはしたくなかった。


 彼が自分で好きなものを見つけ、自分で選んだ人たちと関わり、それでも最後に自分のところへ戻ってきてくれるなら、その方がずっと嬉しい。


(婚約者だから一緒にいるんじゃなくて、セスが一緒にいたいからいてくれる方がいい)


 今日、池の前で言っていた。


 別の班でも大丈夫だった。


 でも、一緒なのは嬉しい。


 リビアにとっても同じだった。


 彼がいなければ何も出来ない自分にはなりたくない。


 それでも、隣にいれば嬉しい。


 その両方が一緒にあっていい。


 リビアは庭園の本へ視線を戻し、ページをめくった。


 王都には、まだ二人で行ったことのない場所がたくさんある。


 急いで全部へ行く必要はない。


 いつか一つずつ、一緒に見ればいい。


     ◇


 翌朝。


 学園へ着くと、中央掲示板の前には昨日ほど人が集まっていなかった。


 俺とリビアが教室へ向かっている途中、廊下の先からサザリーが歩いてくる。


「おはよう」


「おはよう、サザリー」


「おはよう」


 挨拶を交わしたところで、サザリーが一枚の紙を見せた。


「第三班の顔合わせ、明後日の放課後だって」


「もう決まったんだ」


「さっき教師から渡された。僕たちの教室にも同じ連絡が来ると思う」


「場所は?」


「第二演習準備室。最初は能力と得意分野の確認、それから演習の基本規則について説明を受けるらしい」


「役割決める?」


「そこまでは書いてない」


「じゃあ、まだだね」


「そうだね」


 俺たちは歩きながら話す。


 隣にいるリビアが俺を見る。


「セス」


「何?」


「今日と明日で、勝手に作戦表作らないでね」


「作らないよ」


「本当に?」


「班員が何出来るか知らないのに作れないでしょ」


「それなら安心」


 サザリーが横で笑う。


「僕も気をつけるよ。セスと二人で考え始めると、たぶん止まらなくなるから」


「サザリーまで?」


「僕たちの弱点として確認済みだからね」


 以前の課題で、二人とも同じ方向へ納得しすぎるところがあると分かった。


 そのことを覚えているからこそ、今回は最初から気をつけられる。


「じゃあ、明後日は全員の話を聞くところから」


「うん」


 リビアが頷く。


「私もいるからね」


「頼りにしてる」


「任せて」


 俺たちはそのまま教室へ向かった。


 明後日には、新しい班で初めて話す。


 その先にどんな演習が待っているのかは、まだ分からない。


 研究の答えも分からない。


 将来の仕事も決まっていない。


 けれど、分からないことがあるたびに、自分一人で先回りして答えを作る必要はなくなっていた。


 必要な時に、必要な人と話せばいい。


 自分に出来ることを伝えて、相手に出来ることを聞く。


 知らないことは知らないまま確認し、決めなくていいことは決めない。


 そして、選べる時が来たら、自分がどうしたいのかも忘れない。


 俺は教室の扉へ手をかけながら、隣を歩くリビアと、その向こうにいるサザリーを見た。


 これから先、俺がどんな役割を選ぶのかはまだ分からない。


 それでも、その答えを誰かに決めてもらうのではなく、自分で考えて選んでいきたいと思っている。


 婚約者としても。


 執事としても。


 学生としても。


 剣を振るう時も、魔術を学ぶ時も、古い記録を追う時も。


 そのどれか一つだけが俺なのではなく、全部を抱えたまま、それでも進める道があるのかもしれない。


 教室へ入ると、いつもの朝の声が俺たちを迎えた。


 明後日の顔合わせまで、まずは今日の授業がある。


 俺は自分の席へ向かい、鞄から最初の教科書を取り出した。

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