第79話 名前の違う記録
翌朝、目を覚ました俺は、寝台から起き上がる前に身体の状態を確かめた。
頭痛はない。胸や腹にも痛みはなく、腕を上げても肩に妙な張りは感じない。呼吸も普段どおりで、昨夜までの疲れが残っている感覚もなかった。
そのまま寝台を降りて着替えを済ませると、部屋を出たところでグレイヴと顔を合わせた。
「おはよう、グレイヴ」
「おはようございます、セス。お加減はいかがでございますか?」
「問題ないよ。昨日のベルナルト先生の件、参加するって返事をお願いしていい?」
「承知いたしました。明日の放課後、第三資料室でございますね」
「うん」
グレイヴはそれ以上、体調について細かく尋ねなかった。
俺も、明日の研究に備えて今日の予定を減らしたり、何か特別な準備をしたりするつもりはない。ベルナルト先生から届いた伝言は、北東部の交易記録について追加確認をしたいというものだけだった。
(何が見つかったんだろう)
気にはなる。
けれど、答えを想像して先回りする必要はなかった。
「セス、朝食行くよ」
少し先からリビアの声が聞こえ、俺はグレイヴへもう一度頼んでから彼女のところへ向かった。
◇
朝食の席で、俺は明日の放課後にベルナルト先生と会うことをリビアへ伝えた。
「体調、大丈夫だった?」
「うん。今朝確認したけど問題なかった」
「じゃあ行くんだね」
「そのつもり。北東部の交易記録を追加で確認したいって」
リビアはパンを小さく切りながら、少し考えるように目を伏せた。
「淡灰晶のことかな」
「たぶん関係あると思う。でも、伝言にはそこまで書いてなかった」
「そっか」
「昨日の授業で思った地域ごとの呼び方のことも、聞けそうなら聞いてみる」
「うん。でも、私の結界資料とはまだ別だからね」
「分かってるよ」
古い技術で似た考え方が使われていたとしても、リビアが調べている結界技術と、俺たちが追っている古い測定器らしいものを同じ系統だと決める根拠はない。
リビア自身もそこを混ぜないようにしている。
「私も明日は図書館に行こうかな」
「研究?」
「それも少し。でも、借りてる本を返す日が近いから」
「現代の結界修復の本?」
「うん。もう一回読みたかったところは読めたし」
研究のためだけに図書館へ行くわけではないらしい。
「じゃあ帰り、時間合えば一緒になるかもね」
「合わなかったら先に帰っていいからね」
「リビアも」
「うん」
そこで話は終わった。
同じ学園にいても、放課後に必ず一緒にいる必要はない。それでも時間が合えば一緒に帰りたいと思うことは、今の俺たちにとって何も矛盾しなかった。
◇
学園へ着いて教室へ入ると、昨日話していた友達が自然に集まってきた。
「正式に大丈夫だった?」
最初に尋ねたのはディーンだった。
「うん。候補日に七人で来てもらって大丈夫だって」
俺が答えると、ナナリーとミリアナの表情が明るくなる。
「本当に公爵邸へ遊びに行くんだ……」
「昨日もその話してたでしょう?」
「決まると急に実感するの」
ミリアナは嬉しそうなのに、どこか緊張している。
「時間とか服装は?」
「そこは屋敷で調整してから伝えるよ。私的な集まりだから、正式な訪問みたいな格好じゃなくて大丈夫」
「お土産は?」
ナナリーが尋ねる。
「それも無理に用意しなくていいと思うけど、グレイヴに確認してから正式に言う」
「分かった」
イザークが腕を組む。
「剣は?」
「持ってこなくていい」
「まだ何も言ってないだろ」
「聞く前に分かった」
「木剣くらい――」
「遊びに来るんだから、まず普通に遊ぼうよ」
俺が笑いながら言うと、サザリーが小さく息を漏らした。
「ロズベル家でも同じような会話をしていた気がするね」
「今度は庭広いだろ?」
「広さの問題じゃないよ」
リビアまで笑う。
イザークも本気で不満があるわけではないらしく、「じゃあ盤上遊戯で勝負する」とすぐ別の方向へ切り替えた。
「セス、昨日のやつ以外もあるんだよな?」
「あるよ。でも俺も全部やったことあるわけじゃない」
「じゃあちょうどいい」
「何が?」
「全員初心者のやつでやれば公平だろ」
「それはいいかも」
ディーンも興味を示す。
まだ何をするか決める必要はないと思っていたが、こうして話す中で自然に候補が出るのは楽しかった。
予定表を作るのではなく、やりたいことを話す。
それなら窮屈ではない。
「あと、お菓子」
ナナリーが言った。
「それは何?」
「ロズベル家で美味しかったから、今度も期待していい?」
「俺に聞かれても……」
「セスが作るんじゃないの?」
「作らないよ」
即答すると、リビアが隣で吹き出した。
「昨日グレイヴにも言われたの。セスは今回は給仕する側じゃないって」
「え、給仕するつもりだったの?」
ミリアナが目を丸くする。
「ちょっと考えただけだよ」
「お前、俺たち呼んで自分だけ働くつもりだったのか?」
イザークが呆れたように言う。
「だから、しないって」
「それならいい」
「何でイザークに許可されるんだよ」
「友達の家に遊びに行って、そいつがずっと茶を運んでたら落ち着かないだろ」
その言葉には反論出来なかった。
「分かった。ちゃんと一緒にいるよ」
「それでいい」
イザークが満足そうに頷く。
その横でサザリーが俺を見る。
「でも、もし君が趣味としてお茶を淹れたいなら、それは別なんだろうね」
「グレイヴも同じこと言ってた」
「理由の違いか」
「うん」
俺はそこまで話して、少しだけ可笑しくなった。
何をするかだけではなく、どうしてするのか。
同じ茶を淹れるという行動でも、使用人だからやらなければならないと思ってするのと、友達に飲んでもらいたくて自分からするのでは違う。
当日、本当に俺がお茶を淹れるかはまだ分からない。
今はみんなと一緒に過ごすことだけ決めておけば十分だった。
◇
午前の授業は魔術理論だった。
担当はエレナ先生ではなく、学年の理論担当教師だ。
今日扱ったのは、術式へ魔力を通す際の安定性と、出力変化によって生じる誤差についてだった。
俺にとっては少し気になる内容だったが、古い測定器の研究と直接結びつける話ではない。
「魔術式は、同じ構造であっても常に完全に同一の結果を返すわけではありません。術者側の魔力量、制御精度、周囲の魔力環境、使用する触媒や補助具によって微細な差が生じます」
教師が黒板へ簡単な術式図を書く。
「ここで重要なのは、差が生じたこと自体を即座に異常と判断しないことです。どの程度の差が許容されるのか、再現性があるのか、条件を変えた時にどうなるのか。それらを分けて考える必要があります」
俺はノートを取りながら、昨日エレナ先生から聞いた実技確認の話を思い出した。
水、土、風。
低出力へ戻した時、それぞれ少し違った変化が出ている。
でも、変化が出たから即座に問題というわけではない。
(実技確認でも、そこを見るんじゃなかったな)
あくまで指定に従って出力を変え、戻し、止める。
違和感があれば申告する。
研究の答えを出す場ではない。
俺はその区別をノートへ書く必要まではないと思い、そのまま授業へ集中した。
◇
昼休み、食堂へ向かう途中でアルフォルドに呼ばれた。
「クルセス、少しいいか?」
「うん」
カイゼルも一緒にいる。
二人は朝の集まりには参加していなかったから、公爵邸への招待が正式に決まったことをまだ伝えていなかった。
「候補日、決まった?」
カイゼルが尋ねる。
「決まったよ。二人は今回は参加しないってことで、そのまま七人で」
「了解」
「誘ってくれてありがとう」
アルフォルドが言う。
「参加しないのに?」
「誘われることと、参加出来ることは別だろう」
「……そうだね」
以前の俺なら、参加出来ないなら誘う意味がないと考えたかもしれない。
でも、声をかけられたこと自体が嬉しい時もある。
「次は、二人も来られる形で何か出来たらいいね」
「そうだな。ただし私たちを呼ぶ場合、どうしても護衛の問題はある。公爵家なら対応出来るからといって、毎回負担をかける必要もない」
「だったら学園の中で遊べばいいんじゃないか?」
カイゼルが軽い調子で言う。
「放課後に空いている談話室でも借りて盤上遊戯をすれば、王族の訪問にはならない」
「あ、それなら出来そう」
「まだ談話室を借りられるか確認してないけどな」
「候補だね」
「そういうことだ」
カイゼルは楽しそうに笑った。
すぐ日を決める必要はない。
でも、出来ない理由が一つあるからといって、全部を諦める必要もないらしい。
「アルフォルドもやる?」
「もちろん。カイゼルに好き勝手言わせるつもりはない」
「盤上遊戯で何を争うつもりなの?」
「勝負なら勝ちたいだろう」
アルフォルドの答えは真面目だった。
俺は笑いながら頷いた。
◇
午後は通常の剣術基礎と座学が続いた。
剣術では二人一組で基本動作を確認したが、交流演習の前衛対応を意識して特別な動きを試すことはしなかった。
教師からも、昨日言われたとおり役割を予想した自主訓練は必要ないと改めて注意があった。
俺は相手の動きに合わせて基本の踏み込みと受けを繰り返す。
以前イザークとの手合わせで意識した、自分の一歩目が思ったより小さく、二歩目が伸びやすい癖も知っている。
でも今日は、それをどう変えるか考える日ではない。
決められた基礎動作を丁寧に行い、授業が終われば剣を戻す。
それだけだった。
「今日は普通だったな」
片づけの途中、イザークが隣から言った。
「普通の授業だからね」
「交流演習の話聞いたから、何か考えてるかと思った」
「役割決まってないのに?」
「それもそうか」
イザークは木剣を棚へ戻しながら笑った。
「俺も前衛になった時の練習とか考えたけど、先生にやるなって言われたからやめた」
「ちゃんとやめたんだ」
「お前にだけは驚かれたくない」
「何で?」
「似たようなもんだろ」
そう言われると否定しにくかった。
◇
放課後、今日はリビアと一緒に帰った。
委員会はなく、俺もベルナルト先生との約束は明日だ。
馬車へ乗り込むと、リビアが窓際へ座り、俺はその隣へ腰を下ろす。
「明日、図書館行くね」
「うん。俺は第三資料室」
「終わる時間、分からないよね」
「分からない。ベルナルト先生、長くなりすぎないようにしてくれると思うけど」
「じゃあ待ち合わせはしない?」
「しないでいいと思う。終わった時に会えたら一緒に帰ろう」
「うん」
それだけ決める。
「セス、明日の研究楽しみ?」
「楽しみ」
「すごく?」
「結構」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「うん」
リビアが笑う。
「北東部の交易記録って、何が気になるの?」
「一番は淡灰晶かな。前の工房記録だけだと、灰透晶と同じものか分からなかったでしょ。淡晶板って別の呼び方も出てるし」
「流量見も?」
「それも。名前だけだと魔力の流れを見る道具なのか、普通の液体とかの流量を見る道具に魔導部品を使ってるのか分からないし」
「前二刻、後三刻の一致は?」
「気になる。でも、ベルナルト先生に言われた通り、一致してるから同じものとは言えない」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
「ちゃんと覚えてる」
「忘れないよ。先生、わざわざ書いてくれたから」
『一致は手掛かりであり、同一性の証明ではない』
あの言葉は研究ノートにも残してある。
「明日、答え出ると思う?」
「出たら嬉しいけど、出ないと思って行く」
「どうして?」
「前も一個分かったら、分からないこと増えたから」
「嫌じゃない?」
「今は面白い」
自分で言って、改めてそう思う。
答えがすぐ出ない。
似ている記録が出ても、本当に同じものか分からない。
別の工房では少し違う方法が使われている。
以前なら、結論へ近づいているのか遠ざかっているのか分からず焦ったかもしれない。
今は、違いが見つかること自体が情報だと思える。
「セス、本当に研究好きになったね」
「たぶんね」
「ベルナルト先生に弟子入りする?」
「勝手に決めないでよ」
「でも楽しそう」
「先生に聞いたら『知らん』って言われそう」
以前話したことを思い出し、二人で笑った。
◇
その日の夜は、研究ノートを開かなかった。
明日見る資料について予習したい気持ちはあった。
けれど、何が出てくるか分からない状態で既存の記録を読み返し続けても、特定の答えを期待してしまうかもしれない。
俺は昨日の続きで『王都職人街の小さな工房』を読む。
今夜の章は時計職人だった。
小さな歯車を削る作業では、わずかなずれが積み重なると最後に大きな誤差になるため、一つの部品だけを見るのではなく、組み合わせた状態で確かめる必要があるらしい。
(面白いな)
魔導具とは違う。
でも、物を作る人が何を考えているのか知るのは楽しい。
研究に役立つかどうかを考えず、そのまま読み進めた。
◇
翌朝も体調に問題はなかった。
通常どおり学園へ行き、授業を受け、昼食を食べる。
ベルナルト先生との約束があるからといって、一日中そのことばかり考えていたわけではない。
ただ、午後最後の授業が終わった時だけは、少し早く鞄をまとめた。
「楽しんできてね」
リビアが言う。
「研究に言う言葉かな、それ」
「セスには合ってると思う」
「リビアも図書館楽しんで」
「うん。終わったら先に帰るかもしれないからね」
「分かった」
教室を出たところで、俺たちは別々の方向へ向かった。
リビアは図書館。
俺は第三資料室。
廊下を歩きながら、昨日まで頭の中にあった言葉が少しずつ戻ってくる。
淡灰晶。
灰透晶。
淡晶板。
流量見。
緩衝の刻み。
前二刻、後三刻。
似ている。
でも、まだ同じとは言えない。
俺は第三資料室の前へ到着すると、扉を軽く叩いた。
「入れ」
ベルナルト先生の声が聞こえる。
扉を開けると、先生はいつもの机の前に座っていた。
ただし今日は、机の上に三つの紙束が並べられている。
「失礼します」
「来たか。座れ」
「はい」
指定された椅子へ腰を下ろす。
ベルナルト先生は俺の顔を一度見てから尋ねた。
「体調は」
「問題ありません。今朝も確認しました」
「なら始める。今日は魔術を使わん。記録を見るだけだ」
「はい」
「先に言っておくが、答えは出ていない」
最初から言われた。
俺は思わず笑ってしまう。
「何だ」
「いえ。俺も、答えが出るとは思わずに来ました」
「ならちょうどいい」
ベルナルト先生は机の左側にある紙束をこちらへ寄せた。
「前に見せた北東部の工房記録とは別だ。交易所の搬入記録と、商会の荷札控えを照合した」
「交易記録って、これですか?」
「そうだ。原本は状態が悪い。これは読める部分を転記したものだ」
紙には年代と地名、品目、数量らしい数字が並んでいる。
俺は先生が指した箇所を見る。
『淡灰晶板 薄型 二十四』
『北東第三工房区 受入』
「淡灰晶板……」
「前は『淡灰晶』だったな」
「はい。それと別の工房で『淡晶板』」
「そうだ」
俺は紙を見たまま考える。
「これだけだと、淡灰晶を板に加工したものなのか、『淡灰晶板』で一つの名前なのか分かりませんね」
「その通りだ」
先生は次の紙を出す。
「こちらは同じ商会の荷札控えだ。年代は二年後」
そこには別の表記があった。
『薄淡灰板 八』
『計測工房向け』
「また名前が違う……」
「しかも厄介なことに、搬出元は先ほどと同じ地域だ」
「薄淡灰板が、淡灰晶板と同じものかは?」
「分からん」
即答だった。
「計測工房向けって書いてありますけど、何を測る工房かも分からない?」
「分からん。重量、距離、流量、魔力量、温度、その他。候補はいくらでもある」
「ですよね」
俺は紙へ視線を戻す。
似た名前が増えた。
でも、同じものが増えたとは限らない。
「先生」
「何だ」
「昨日、授業で地域ごとの制度の呼び方についてやったんですけど、素材名も地域で変わることってありますか?」
「ある」
「工房ごとにも?」
「ある」
「じゃあ、淡灰晶と淡灰晶板と薄淡灰板と淡晶板が、同じものを違う名前で呼んでる可能性もある?」
「ある」
「全部別物の可能性も?」
「ある」
「……やっぱりそうですよね」
「だから記録を追っている」
ベルナルト先生の口調はいつもどおりだったが、わずかに楽しそうにも聞こえた。
「ただし、一つ進んだことはある」
「何ですか?」
「これだ」
先生は中央の紙束から一枚を抜いた。
「同じ商会の帳簿に、荷の価格差が残っていた」
俺は身を少し前へ寄せる。
「淡灰晶板と薄淡灰板?」
「そうだ。同じ枚数ではないから単純比較は出来ん。厚みも完全には残っていない。だが、単位当たりの価格を推定すると差が大きすぎる」
「同じものじゃない可能性が上がった?」
「待て」
止められ、俺は口を閉じる。
「価格差の理由は素材差とは限らん。加工精度、厚み、品質、輸送距離、契約条件、納入先、時期による価格変動。考えられるものはいくらでもある」
「……はい」
「ただし、『名前が似ているから同じ品を雑に書いただけだ』と片づけるには、少し気になる差ではある」
「手掛かりではあるけど、証明じゃない」
「覚えていたか」
「はい」
先生は満足したのか、次の紙へ進んだ。
◇
「次だ。こちらは別の交易所から出た記録だ」
紙には、今度は聞き覚えのある名前が書かれていた。
『灰透晶 薄板』
『観測具補修用』
「灰透晶……」
「これまでで初めて、工房内部の技術記録ではなく交易側の文書に出た」
「観測具補修用って書いてあります」
「そこが重要だ。ただし『観測具』が、我々の追っている測定器と同一だとは限ん」
「はい」
俺はすぐに頷いた。
ベルナルト先生は紙の別の行を指す。
「そして搬出地域を見ろ」
地名そのものには覚えがなかった。
でも、資料に添えられた簡単な地図を見ると位置関係が分かる。
「北東部じゃない……?」
「西寄りだ」
「前に灰透晶が出た資料と近い地域ですか?」
「比較的近い。少なくとも淡灰晶の工房記録が集中している北東部とは別の交易圏だ」
俺は机の上にある資料を見比べる。
灰透晶。
淡灰晶。
淡晶板。
淡灰晶板。
薄淡灰板。
似た名前ばかりだ。
でも、分布を見ると少し違う。
「先生。もしかして、灰透晶と淡灰晶は地域による呼び方の違いじゃなくて、本当に別のものだった可能性もありますか?」
「以前よりは考慮する価値が上がった」
「でも確定じゃない」
「そうだ。交易圏が違えば同じ品の呼称が変わることもある。逆に、似た性質を持つ別素材へ似た名が付くこともある」
「まだ両方あるんですね」
「だから面白い」
先生がさらりと言った。
俺は顔を上げた。
「先生も面白いんですか?」
「面白くなければ、こんな読みにくい帳簿を何日も追わん」
「……それもそうですね」
「何だと思っていた」
「研究だからやってるのかと」
「研究者が研究を嫌々やっていると思っていたのか?」
「そういう意味じゃないです」
思わず笑ってしまう。
ベルナルト先生もそれ以上追及しなかった。
◇
先生は最後の紙束を開いた。
「今日、一番確認したかったのはこちらだ」
俺は姿勢を整える。
「流量見に関する記録ですか?」
「直接ではない」
紙には工房間の取引らしい文章が残っている。
完全な文ではなく、欠損部分も多い。
先生が読める部分へ印をつけていた。
『……変流器……』
『……薄板二枚……』
『……前刻二、後刻三……』
『……急変時……』
『……曇り強き場合、交換……』
俺は息を止めそうになり、意識して普通に呼吸した。
「前刻二、後刻三」
「前の流量見補修記録と一致する」
「急変時に曇り……淡灰晶の記録にも似てる」
「似ている」
「でも、これは変流器?」
「そう読める。ただし文字の欠損があるから、器具名の一部だけ残っている可能性もある」
「同じ道具とは言えない」
「言えん」
俺は紙をじっと見る。
前二、後三。
急な変化。
曇り。
似た要素が三つもある。
偶然と言うには気になる。
でも、それでも同じ装置だとは証明出来ない。
「先生、この『曇り強き場合、交換』って、前の『急なる変わりには曇りを生ず』と同じ意味なんでしょうか」
「分からん。だが少なくとも今回は、交換という語がある」
「じゃあ物理的に曇る可能性が少し上がった?」
「上がったと考えてよい。ただし、魔力応答の異常を『曇り』と表現し、一定以上なら部品交換していた可能性もまだ残る」
「目で見える曇りかどうかは分からない」
「そうだ」
「でも交換する対象なら、ただ観測値が一時的に乱れるだけじゃなくて、部品側に何か変化が残る可能性もある?」
先生はすぐに答えなかった。
「可能性としてはある」
「壊れる?」
「そこまで言うな。交換理由が劣化とは限らん」
「あ……そうか」
「精度基準を満たさなくなっただけかもしれん。表面処理の問題かもしれん。曇りが可逆か不可逆かも分からん」
「分からないこと多いですね」
「今さら気づいたか」
「前より増えてません?」
「増えたな」
先生は平然と答えた。
俺は思わず笑った。
でも、嫌ではない。
むしろ、最初は一枚の古い測定器らしい図だったものが、少しずつ別の工房や交易路、別の器具へつながっている。
同じ答えへ近づいているのか、それとも同じ時代に広く存在した技術思想へ近づいているのか。
まだ分からない。
◇
「先生、前二、後三って、何で数が違うんでしょう」
「それを今から考えるな」
「え?」
「考えること自体は構わんが、資料が足りない。二と三の違いへ意味を見いだそうとすると、都合のいい説明を作り始める可能性がある」
「例えば?」
「入力側より出力側の方が細かな調整が必要だった、などとな」
「……今ちょっと思いました」
「だろうな」
先に言われた。
「でも、それが正しい可能性もありますよね?」
「ある。間違っている可能性も同じようにある」
「だから保留?」
「そうだ」
先生は別紙へ簡潔に書き込む。
『二/三の非対称性――理由不明。機能差と結びつけない』
「そこまで書くんですか?」
「書いておかないと、人は自分が一度思いついた説明を事実だと勘違いする」
「先生も?」
「当然だ」
ベルナルト先生が迷わず答えたので、少し驚いた。
「先生でも思い込みますか?」
「研究者を何だと思っている。人間だ」
「……はい」
「だから記録する。何が資料に書かれていて、何が自分の推測なのかを分ける」
俺は自分のノートへ同じ意味のことを書き留める。
事実。
推測。
未確認。
これまでも分けていたつもりだった。
でも、資料が増えるほど、その区別はもっと重要になるのだろう。
◇
そこからしばらく、俺たちは交易記録を年代順に並べた。
灰透晶が西寄りの交易圏に現れる記録。
淡灰晶や淡灰晶板が北東部で多く見つかる記録。
淡晶板が別工房で使われていた記録。
薄淡灰板という新しい表記。
それぞれが同じ素材なのか、似た素材なのか、加工段階による名称差なのかは分からない。
ただ、地図上へ印を置くと、名称ごとに少し偏りがあるように見えた。
「先生、これって……」
「まだ言うな」
「はい」
「記録数が少なすぎる。残っている資料に偏りがあるだけかもしれん」
「ですよね」
「ただし、次に探す方向は決められる」
先生は北東部と西側の間にある交易路を指した。
「中間地域の記録だ」
「そこで両方の名前が出るかを見る?」
「それも一つだ。同じ商会が両方を扱っていれば、価格や用途を比較出来る可能性がある」
「別々の商品として同じ帳簿に載ってたら、別物の可能性がかなり上がる?」
「上がる。ただし等級名や加工名の違いという可能性は残る」
「何を見つけても一回で確定しないですね」
「そういうものだ」
先生は資料をまとめ始めた。
俺は机の上を見て、もう終わる時間なのだと気づく。
「今日はここまでだ」
「はい」
もっと見たい気持ちはある。
中間地域の記録も今すぐ探してみたい。
でも、先生はすでに資料を保管用の箱へ戻している。
「次はいつですか?」
「まだ決めん。こちらで中間地域の目録を確認する。お前に独自で探させる段階でもない」
「分かりました」
「今日の要点だけ持って帰れ。原資料の転記は禁止だ」
「はい」
俺は許可された範囲のメモを確認する。
新しく分かったことは多い。
でも、確定した答えは一つもない。
それでも、十分だった。
◇
第三資料室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。
思っていたより時間は経っている。
リビアはもう帰っただろうか。
そう考えながら階段を下り、玄関へ向かう。
途中で図書館へ寄るつもりはない。
待ち合わせもしていないから、そのまま帰ればいい。
けれど玄関広間へ近づいたところで、正面の廊下から見慣れた銀青色の髪が見えた。
「あ」
リビアも俺に気づいた。
「セス」
「まだいたんだ」
「図書館出たところ。借りてた本を返して、新しいの見てたら少し遅くなった」
「何か借りた?」
「一冊だけ」
「結界?」
「違うよ」
リビアが鞄を軽く持ち上げる。
「王都の庭園についての本」
「庭園?」
「うん。北の雪の町の本探してたら、近くにあって気になったの」
「雪の町の本は?」
「今日はなかった」
「そっか」
以前、いつか行ってみたいと言っていた北の雪の町。
見つからなかったからといって、急いで探す必要はない。
「研究どうだった?」
「面白かった」
「答え出た?」
「出なかった」
即答すると、リビアが笑った。
「その顔で言うんだ」
「だって、名前増えた」
「増えたの?」
「薄淡灰板」
「また似てる」
「でしょ?」
俺たちは並んで玄関を出た。
ちょうど迎えの馬車が来ている。
◇
馬車の中で、俺は今日分かったことを順番に話した。
淡灰晶板。
薄淡灰板。
交易側の記録に出てきた灰透晶薄板。
名称ごとに交易圏が少し違って見えること。
ただし資料数が少ないため、地域差だとはまだ言えないこと。
そして、変流器らしい記録に前二刻、後三刻と急変時の曇り、交換という語が出てきたこと。
リビアは途中で口を挟まず聞いていた。
「じゃあ、前より分かったのは……名前がもっと増えた?」
「それも」
「灰透晶と淡灰晶が同じものだって考えは?」
「前より少し怪しくなった。でも別物だとも言えない」
「流量見と変流器は?」
「似た記録がある。でも同じものとは言えない」
「曇りは?」
「物理的な変化の可能性は少し上がったけど、まだ分からない」
リビアが少し考えた後、楽しそうに笑う。
「本当に答え出てないね」
「うん」
「でもセス、嬉しそう」
「面白かったから」
「そっか」
彼女はそれ以上、無理に整理しようとしなかった。
自分の結界研究へ結びつけることもしない。
「私の方は、庭園の本借りたよ」
「どんな本?」
「王都にある古い庭園と、新しく造られた庭園を比べてるみたい。まだちゃんと読んでないけど、植える植物の違いとか、歩く道の作り方とか載ってた」
「面白そう」
「セスも読む?」
「リビアが読み終わったら借りてもいい?」
「いいよ」
研究の話から庭園の話へ変わる。
それでいい。
◇
屋敷へ戻った後、俺は研究ノートを一度だけ開いた。
ベルナルト先生から許可された範囲で、今日の要点を整理する。
淡灰晶板――北東部交易記録。淡灰晶との関係未確定。
薄淡灰板――同地域、別年の荷札控え。計測工房向け。淡灰晶板との同一性不明。価格差あり。ただし理由不明。
灰透晶薄板――西寄り交易圏。観測具補修用。既存の灰透晶記録と地域的には近いが、対象器具は不明。
変流器らしき記録――前刻二、後刻三。急変時の曇り。曇りが強い場合は交換。流量見との同一性不明。
名称分布――偏りがあるように見えるが、資料数不足。地域差と断定しない。
次の方向――中間交易地域の記録。同一商会で複数名称が併記される資料の有無。
最後に、ベルナルト先生が今日言ったことも残す。
『事実と推測を分ける。二/三の非対称性へ機能上の意味を与えない』
そこまで書いて、ノートを閉じた。
追加で調べることはしない。
先生から独自調査はまだ必要ないと言われている。
俺は椅子の背へ身体を預け、軽く息を吐いた。
(名前が増えただけなのに、面白かったな)
いや、名前だけではない。
交易圏。
価格。
用途らしい記述。
交換という言葉。
少しずつ、古い技術が使われていた場所の輪郭が見え始めている。
答えそのものではなくても、前には見えていなかったものだ。
◇
夕食後、小居間へ行くとリビアが先にいた。
長椅子に座り、今日借りた庭園の本を開いている。
「もう読んでる」
「ちょっとだけね」
「面白い?」
「うん。古い庭園は、歩いた先で景色が変わって見えるように木の位置を決めてるんだって」
「へえ」
「こっち座る?」
「うん」
俺は隣へ腰を下ろした。
リビアは本を少しこちらへ傾ける。
見開きには庭園の簡単な平面図が載っていた。
「入口から全部見せないようにしてるみたい」
「何で?」
「歩く楽しみを作るためだって。曲がった先で池が見えたり、木の間から建物が見えたりするように」
「面白いな」
「セス、こういうの好きそう」
「何で?」
「一度に全部分からないから」
言われて、俺は少し黙った。
「研究と同じ?」
「ちょっとだけ」
「庭園まで研究みたいにしないよ」
「でも気になるでしょう?」
「……ちょっと」
リビアが笑う。
俺も笑った。
「今度、王都の庭園行く?」
俺が何気なく尋ねると、リビアは本から顔を上げた。
「行きたい」
「じゃあ、いつか」
「うん。今すぐ日を決めなくていいよ」
「分かってる」
行きたい場所がまた一つ増えた。
海。
リビアが見たい北の雪の町。
そして王都の庭園。
全部、まだ予定ではない。
それでも「いつか行きたい」と話すだけで少し楽しい。
◇
リビアが本を閉じる。
「セス」
「ん?」
「今日、研究してる時、私のこと考えた?」
突然の質問だった。
「考えたよ」
「いつ?」
「急変時の曇りって記録見た時、リビアの結界研究と混ぜないようにしないとなって」
「……そういう意味じゃないんだけど」
少し頬を膨らませた。
「じゃあどういう意味?」
「普通に私のこと」
俺は今日の第三資料室を思い返す。
資料を読んでいる時は、ほとんど資料のことを考えていた。
前二、後三の意味。
交易圏の違い。
名前の違い。
先生との会話。
「研究中は、あんまり考えてなかったかも」
正直に答えると、リビアは一瞬だけ目を丸くした。
「そっか」
「嫌?」
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「むしろ、ちょっと嬉しい」
「何で?」
「セスが夢中になれるものがあるから」
リビアは閉じた本の表紙を指でなぞる。
「前は、セスが何かしてる時って、私のためとか、お父様のためとか、仕事だからっていうことが多かったでしょう?」
「剣は好きだったよ」
「うん。でも剣も、私を守るためって考えること多かったじゃない」
否定出来なかった。
「今日の研究は?」
「俺が知りたかったから」
「でしょう?」
「うん」
「だから嬉しい」
俺は彼女の横顔を見る。
「リビアがいない時間に楽しんでても?」
「楽しんでてほしい」
迷いのない返事だった。
「その代わり、帰ってきたら教えて」
「今日みたいに?」
「うん。私は私で、セスがいない時に面白かったこと話すから」
「庭園の本とか?」
「委員会も。授業も。友達と話したことも」
それなら俺も同じだ。
研究。
剣。
授業。
サザリーと図書館へ行ったこと。
職人街の本。
「じゃあいっぱい話すこと増えるね」
「そうだよ」
リビアは嬉しそうに笑った。
◇
俺たちはしばらく庭園の本を一緒に眺めた。
肩が触れる距離に座り、時々リビアが図を指す。
俺は彼女の説明を聞きながら、知らなかった庭園の作り方を知る。
研究の答えは出なかった。
交流演習の役割もまだ決まっていない。
実技確認の属性も当日まで分からない。
友達を屋敷へ招くことは決まったが、何をして遊ぶかは決めていない。
行きたい場所も増えたけれど、いつ行くかは決めていない。
決まっていないことばかりだ。
それなのに、以前のように空白を埋めたくはならなかった。
「セス、ここ見て」
リビアがページの端を指す。
庭園の奥に、小さな休憩所が描かれている。
「ここ、木に隠れて入口から見えないんだって」
「本当だ。道も真っ直ぐじゃない」
「歩いてから見つけるようにしてるみたい」
「じゃあ、行った時に地図見ない方が楽しいかな」
「セス、絶対途中で道の作り方考え始めるよ」
「リビアだって結界置くならどこがいいか考えそう」
「……それはちょっと考えるかも」
二人で顔を見合わせて笑う。
俺は長椅子の上へ置いていた手を少し動かし、リビアの手へ触れた。
彼女は本を片手で支えたまま、空いている手の指を俺の指へ絡める。
今日はそれで十分だった。
◇
部屋へ戻った後、机の上には研究ノートと職人街の本が並んでいた。
俺は少し迷ってから、研究ノートではなく職人街の本を選んだ。
ベルナルト先生との研究は、次の資料が見つかるまで進められない。
分からないものは、分からないまま置いておく。
その間に別のものを読んでも、研究が遠ざかるわけではない。
ページを開きながら、今日見た交易記録を思い出す。
灰透晶。
淡灰晶。
淡晶板。
淡灰晶板。
薄淡灰板。
似た名前が並んでいる。
どれが同じで、どれが違うのかはまだ分からない。
けれど、違う名前があるからこそ、調べられることも増えた。
(答えが増えたんじゃなくて、問いが増えたんだな)
それは悪いことではない。
俺は本のページへ視線を戻す。
明日は普通の授業がある。
友達を屋敷へ招くための細かな案内も、そのうちグレイヴから聞けるだろう。
交流演習の班分けは数日後。
実技確認はさらに先だ。
研究の次の日程はまだない。
今すぐ答えを出さなければならないものは、一つもなかった。
窓の外では、夜の風が木々を揺らしている。
俺はその音を聞きながら、急ぐことなく次のページをめくった。




