第8話 平穏な学園生活を望んだだけなのに、なぜか朝から人だかりができています
翌朝、王立学園の正門が見えてきたところで、俺は無意識に歩調を緩めていた。昨日と同じ道を、昨日とほとんど同じ時間に歩いているはずなのに、校門へ近づくほど周囲から向けられる視線が増えていくのが分かったからだ。
朝の空はよく晴れていて、薄い雲の隙間から差し込む光が白い校舎の壁を明るく照らしている。石畳の脇に並ぶ植え込みは朝露を残し、登校してきた生徒たちの靴音や話し声も昨日と変わらない。それなのに、俺とオリビア――リビアが通りかかるたび、いくつもの会話が不自然に途切れた。
「……やっぱり見られてるな」
声を落として言うと、隣を歩いていたリビアも銀青色の髪を揺らしながら周囲へ視線を向けた。少し前を歩いていた男子生徒二人は俺たちが近づいた途端に口を閉ざし、校門の脇で友人を待っていたらしい上級生まで、こちらを見ながら何かを囁いている。
「ええ。昨日よりずっと見られているわね」
「何でだ?」
「本気で分からないの?」
リビアが足を止めたので、俺も数歩先で立ち止まって振り返った。朝日に照らされた彼女は呆れたように眉を下げていたが、口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
「昨日のことなら、もう終わっただろ。ライゼル様の件は学園側で調べることになったし、俺は処分なしで帰された。だったら今日は普通に授業を受ければいいだけじゃないか?」
「昨日、編入初日の午前中に剣術の模擬戦で勝って、その日のうちに五属性を使えることが知られて、昼休みにはライゼル様の魔法を止めたのよ。その最後にフレイムストームへ自分から入っていって、本人を膝蹴りで倒したでしょう?」
「……言い方に悪意がないか?」
「事実を順番に並べただけよ」
反論しようとして口を閉じた。残念ながら、どこを取り上げても間違っていないし、順番まで正確だった。
俺としては、剣術の模擬戦では普通に勝負をしただけだし、魔法についても必要になったから使ったに過ぎない。ライゼル様との一件に至っては完全に巻き込まれた側なのだから、それら全部をまとめて俺の武勇伝のように扱われても困る。
「俺は平穏に過ごしたいんだけどな」
「昨日も同じことを言っていたわね」
「今日こそは普通に授業を受けて、普通に帰る。それなら何も問題ないだろ」
「その『普通』が、もう少し信用できればいいのだけれど」
リビアが小さく笑いながら再び歩き出すので、俺も隣へ並んだ。昨日のことは俺が望んで起こしたわけではないのだと訴えたものの、彼女は「それは分かっているわ」と楽しそうに返しただけだった。
校門へ近づくにつれて、周囲の囁き声まで少しずつ耳へ届くようになる。俺の名前を知らない者はもう少ないらしく、何人かの生徒がこちらを確認するように見てから、友人へ身を寄せて話していた。
「あれがクルセス・シルフィール?」
「昨日、ライゼル様と戦ったっていう子だろ?」
「五属性全部使えるらしいぞ。剣術もかなり強いって」
まだその程度なら理解できた。昨日の騒ぎを見ていた生徒はかなり多かったし、学園内で事件が起きれば噂になるのも仕方がない。
しかし、その少し後ろから聞こえてきた女子生徒たちの会話には、さすがに足を止めそうになった。
「昨日、オリビア様と手を繋いで帰ったらしいよ」
「見た子がいるって。学園長室から出てきて、そのままずっと一緒だったって」
「……そこまで広まってるのか?」
思わず声に出すと、リビアが俺の制服の袖を軽く摘まんだ。横を見ると、彼女は特に困った様子もなく、それどころか少し嬉しそうに見える。
「セス、いちいち反応していたら教室へ着く前に疲れるわよ」
「戦ったことが広まるのはまだ分かる。でも、手を繋いで帰ったことまで何で噂になるんだ?」
「授業が終わった後の廊下だったでしょう? あの時間なら大勢の生徒がいたのだから、見られていて当然よ」
言われてみればその通りだった。昨日は学園長室で長い事情聴取を受けた後だったこともあり、周囲のことまでほとんど気にしていなかった。
リビアが差し出してきた手を取って、そのまま一緒に帰っただけだ。幼い頃から何度もしてきたことなので、俺の中では特別な行動という意識がほとんどなかった。
「私は嫌じゃないけれど」
「何が?」
「セスと婚約していることが広まるの。むしろ、もっと知られてもいいくらいだわ」
リビアは前を向いたまま答えたものの、横から見える頬には柔らかな笑みが浮かんでいた。人前では公爵令嬢として感情を抑えることが多いのに、俺と婚約していることを話す時だけは妙に分かりやすい。
「それは困る。今でも十分目立ってるのに、これ以上広まったら余計に面倒なことが増えそうだ」
「もう増えているじゃない」
「朝からそれを言うな。まだ今日こそ平穏に終わる可能性は残ってる」
そう返すと、リビアは一瞬だけ俺から目を逸らした。その反応が気になって問い詰めたものの、彼女は「思っていないわ」と言いながら前を向き、話を終わらせるように歩く速度を少し上げた。
どう考えても、今日も平穏には終わらないと思っている顔だった。
校門をくぐってからも、向けられる視線は減らなかった。昨日なら、リビアが公爵令嬢だから見られているのだろうと思えたが、今日は明らかに俺へ向けられているものの方が多い。
好奇心や驚き、警戒、憧れ。敵意を露骨に向けてくる者はほとんどいないのに、それがかえって落ち着かなかった。
スラムにいた頃も、人から見られることには慣れていた。ただし、あの頃に向けられていたのは、汚れた服を着た孤児を避ける目や、何かを盗むのではないかと警戒する目ばかりだった。
そういう視線なら、どう振る舞えばいいのか分かる。近づかず、目を合わせず、相手の邪魔にならない場所へ移動しておけば、大抵はそれ以上何も起きない。
けれど、今向けられているものは違う。俺が何者なのか知りたい、昨日の噂は本当なのか確かめたい、どれくらい強いのか見てみたい――そんな感情が、隠されることもなくこちらへ向けられている。
危険ではないと頭では分かっているのに、足が少しだけ速くなった。
「セス」
すぐ隣から呼ばれて顔を向けると、いつの間にかリビアが半歩ほど近づいていた。彼女は俺の歩調に合わせながら、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「歩くの、少し速くなってるわよ」
「授業に遅れたくないからだ」
「まだ鐘が鳴るまでかなり時間があるでしょう?」
「……そうだったな」
昨日はレイモンド先生に考えていることが顔へ出やすいと言われ、今日は朝からリビアに気づかれる。執事として表情を隠す訓練をもう少し増やした方がいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、リビアの指が俺の制服の袖をもう一度摘まんだ。今度は単に呼び止めるためではなく、そのまま離さずに歩き始める。
「嫌なら、無理に周りを見なくていいわ。私がいるから」
「視線くらいでどうにかなるわけじゃない。ただ、慣れてないだけだ」
「それならいいけれど、変なことを言う人がいたら私に教えてね」
「教えたらどうするんだ?」
「ちゃんと話をするわ」
そう言ったリビアの表情が妙に真剣だったので、思わず笑ってしまった。
「その顔で言われても信用できないぞ。今、結構怖い顔してるからな」
「どういう意味?」
「俺を馬鹿にした相手へ、本当に話だけで済ませる顔じゃない」
リビアは驚いたように自分の頬へ触れ、それから慌てて表情を戻した。俺がさらに笑うと、彼女は恥ずかしそうに眉を寄せる。
「だって、セスを馬鹿にされたら嫌だもの」
「昨日までならともかく、今日はそういう感じじゃないだろ。むしろ逆だ」
「……それも少し困るのよね」
「何で?」
問い返すと、リビアは少しだけ言いにくそうに視線を逸らした。何度か周囲を確認した後、最後だけ声を小さくする。
「女の子も結構見ているから」
「女の子?」
「何でもないわ」
「いや、今――」
「何でもないったら何でもないの」
少しだけ頬を膨らませ、リビアが前を向いてしまう。怒ったのかと思って尋ねると、彼女は「怒ってないわ」と即答した。
それなら問題ないだろうと納得して前を向いたところ、隣から小さなため息が聞こえた。
「……セス」
「今度は何だ?」
「そこは、もう少しくらい聞いてもいいと思う」
「でも怒ってないんだろ?」
「そうだけど、そういうことじゃないの」
何が違うのか分からないまま黙っていると、リビアはもう一度息を吐いた。ただし、俺の袖を摘まんでいた指は離れず、むしろ少しずつ距離を詰めてくる。
肩が触れそうな距離まで近づかれても、嫌な感じはしない。むしろ周囲から向けられる視線が少し遠くなったように思えて、そのまま一緒に校舎へ向かった。
玄関へ入ると、磨かれた石床に大勢の靴音が反響していた。正面の大階段へ向かう者や友人を待っている者が行き交う中、俺たちに気づいた同学年らしい男子生徒三人が揃って動きを止める。
「あ……クルセス・シルフィール」
「はい?」
名前を呼ばれたので立ち止まって返事をすると、三人とも一瞬驚いたような顔をした。俺が普通に「おはようございます」と挨拶をすると、今度はさらに戸惑ったように顔を見合わせる。
「何かおかしいですか?」
「いや、そういうわけじゃなくて……もっと怖い人なのかと思ってた」
「なぜです?」
「だって、昨日ライゼル様を膝蹴り一発で倒したって聞いたから」
そこだけ切り取られると、俺がいきなり人へ膝蹴りをする危ない人間みたいに聞こえる。事情を説明すると、三人は「でも膝蹴り自体はしたんだよな」と確認してきた。
「しましたけど、その前にかなり色々ありましたから」
「やっぱりしたんだ……」
「何で少し後ろへ下がるんですか」
困っていると、隣から小さな笑い声が聞こえた。リビアは俺と男子生徒たちを見比べながら、楽しそうに目を細めている。
「ちゃんと話せば、セスが怖い人ではないって分かってもらえるでしょう?」
「俺は最初から怖い人じゃない」
「それは私も知っているわ。ただ、普通ではないと思うけれど」
「何でだよ」
「五属性全部に適性があって、複合魔法も使えて、剣術も強くて、迅雷撃破まで使える人を普通とは言わないもの」
その言葉へ重なるように、背後から「私もそう思います」と声がした。
振り返ると、ナナリー様とミリアナ様がこちらへ歩いてくるところだった。二人とも昨日の騒動に居合わせていたからか、俺を見る表情には恐れよりも親しみの方が強い。
「おはようございます、クルセス様。オリビア様」
「おはようございます」
俺たちも挨拶を返すと、ナナリー様はすぐに俺の顔を確認するように見た。その視線が肩や腕の辺りまで移ったので、何を気にしているのかはすぐに分かった。
「クルセス様、昨日は帰ってからちゃんと怪我を確認してもらいましたか?」
「怪我はありませんでしたので、確認するほどでも――」
「ほら」
すぐ横からリビアの声が飛んできた。
「やっぱりこう言うでしょう?」
「ですね」
「何で二人で納得してるんだ」
「セスが自分の怪我を軽く扱うからよ。昨日だって制服が焦げていたでしょう?」
「焦げたのは服だ」
「その服の中にセスがいるの!」
言われてみれば当然なのだが、何となく納得しづらい。反論しようとしたところで、ナナリー様まで真面目な表情でこちらを見る。
「クルセス様。オリビア様が本当に心配されていたんですから、もう少しご自身を大切にしてください」
「……分かりました」
昨日、学園長室でも同じことを言われたばかりだった。しかもリビアとは、自分自身も守ると約束したばかりなのだから、ここで意地を張っても仕方がない。
俺が素直に頷くと、リビアは少しだけ安心したように表情を緩めた。その変化を見ていると、昨日学園長に言われたことを思い出す。
俺が倒れれば、誰がリビアを守るのか。
あの時は、他にも守れる人間がいると答えた。
でも、リビアが望んでいるのは、誰かが代わりに守ればいいという話ではないのだろう。俺自身に、無事でいてほしいと思っている。
「それと、昨日は本当にありがとうございました」
今度はミリアナ様が一歩前へ出た。彼女は胸元で両手を重ね、一度息を整えてから深く頭を下げる。
「風の刃が飛んできた時、クルセス様が間に入ってくださらなかったら、私は避けられなかったと思います。本当に、ありがとうございました」
反射的に「大したことでは」と返しかけて、止まった。
横を見るまでもない。
リビアもナナリー様も、きっと同じ顔をしている。
昨日までなら、助けられて当然のことをしただけだと思っていた。けれど、学園長から言われたことや、今のリビアの表情を考えると、それだけで終わらせるのは違う気がした。
「……どういたしまして」
少しだけ言い慣れない言葉を口にする。
「怪我がなくて本当に良かったです。礼は受け取りますから、もう頭を上げてください」
「はい」
ミリアナ様が顔を上げると、その表情には昨日まで残っていた緊張が少し薄れ、柔らかな笑みが浮かんでいた。隣ではリビアも満足そうに頷いている。
「今のは良かったわ」
「何の採点だよ」
「セスがちゃんとお礼を受け取れるかどうか」
「そんなものまで練習する必要があるのか?」
「あるわ。少なくともセスには必要よ」
ナナリー様まで強く頷いたので、俺はこれ以上反論するのをやめた。三人が顔を見合わせて笑うのを見ていると、周囲から向けられる視線も先ほどほど気にならなくなっていた。
四人で教室へ向かう間も、俺の名前を囁く声は何度も聞こえた。中にはわざわざ別の廊下から顔を出してくる上級生までおり、どうやら噂は同学年だけに留まっていないらしい。
そして、リビアが気にしていた通り、女子生徒から向けられる視線も少なくなかった。
俺としては男子と女子で何が違うのか分からないのだが、隣を歩くリビアにはかなり違うらしい。最初は制服の袖を摘まんでいただけだった指が、いつの間にか俺の腕へ回っている。
「リビア」
「何?」
「近くないか?」
「婚約者だもの」
「婚約者だと、この距離で歩くものなのか?」
「そうよ」
昨日までは普通に隣を歩いていただろうと指摘すると、リビアは少しも悪びれず「今日から変えました」と答えた。理由を尋ねても「必要だから」としか言わず、説明するつもりはないらしい。
「その言葉、昨日俺が先生に禁止されたんだけど」
「私が使う分にはいいの」
「理不尽じゃないか?」
「いいの」
後ろを歩くナナリー様は口元を押さえており、ミリアナ様も何とも言えない笑顔になっている。どうやら俺以外には、リビアが何をしているのか分かっているらしい。
その時、前方にいた三人の女子生徒が何度かこちらを見た後、意を決したように近づいてきた。
「ク、クルセス君」
「はい」
先頭に立った栗色の髪の少女は、俺へ声を掛けた後で隣のリビアへ気づいたらしく、明らかに緊張した。少し話してもいいかと尋ねられたので頷くと、俺の腕へ回されているリビアの手に僅かに力が入る。
「昨日のことなんだけど、私の友達もあの廊下にいたの」
「そうだったのですか。怪我はありませんでしたか?」
「うん。ウィンドカッターが飛んできた時、クルセス君が間に入ってくれたから」
少女は胸元で両手を握り、一度息を整えた。その後ろにいる二人も緊張したようにこちらを見ている。
「だから、ありがとうって言いたくて。昨日は話しかけられなかったから」
「私の従姉妹も助けてもらったって言ってた」
「あの時、本当に怖かったから……」
昨日の廊下を思い出す。
ライゼル様の放った風の刃は、俺やリビアだけを狙ったものではなかった。避ければ後ろにいた生徒へ当たる軌道もあり、だから俺は迅雷撃破を使って何人かの間へ割り込んだ。
あの時は、助けた相手の顔まで確認していなかった。
ただ守るべき人がいたから動いただけだと思っていた。
けれど、その相手にはその後の時間がある。
怖かったと感じた時間も、無事だったことへ安心した時間もある。
そこまで含めて考えるなら、俺の「大したことではない」という言葉は、たしかに少し違うのかもしれない。
「どういたしまして」
今度は、最初からそう答えた。
「皆さんが無事で良かったです。それなら、俺も間に入った意味がありました」
「うん。本当にありがとう」
少女の表情がぱっと明るくなった。
礼を言われるのは、まだ少し落ち着かない。
褒められることも同じだ。
スラムにいた頃は、何かをして感謝されることより、余計なことをして怒られない方が大切だった。公爵家へ来てからも、執事として仕事をするなら、できて当然だと思っている部分がある。
けれど、相手がそう言いたいのなら。
受け取ってもいい。
三人が去っていくのを見送り、俺は小さく息を吐いた。
「……朝から疲れるな」
「人気者ね、セス」
横から聞こえた声が妙に静かだったので、そちらを見る。リビアは笑っているものの、口元だけで、目はほとんど笑っていない。
「何で怒ってるんだ?」
「怒ってないわ」
「その顔で?」
「怒ってない」
そう言いながら、俺の腕は離さない。
少し後ろを歩いていたナナリー様とミリアナ様が、さりげなく距離を取ったのが見えた。
「リビア、何か嫌だった?」
「別に」
「でも明らかに機嫌が――」
「……セスが女の子に囲まれてるのが嫌だっただけ」
そこでリビアの足が止まったので、俺も一緒に立ち止まった。彼女は俺の腕を掴んだまま少し俯き、いつもの公爵令嬢らしい表情を作ることもせず、自分の靴先を見ている。
「礼を言われただけだぞ?」
「分かってるわ」
「なら問題ないだろ?」
「分かっていても嫌なものは嫌なの」
顔を上げたリビアの頬は、少し赤かった。
怒っている。
でも、それだけではない。
どちらかといえば、不安そうに見えた。
「昨日までは、セスが強いことを知っている人なんてそんなにいなかったでしょう?」
「公爵家の人間は知ってるけど」
「そういう意味じゃないの。学園では、ほとんどの人がセスのことを知らなかったでしょう?」
リビアは俺の袖を指先で摘まみ直し、少しだけ視線を落とす。
「セスが剣術も魔法もすごいこと。勉強だってできること。誰かが危ない時、自分が危険でも迷わず助けに行くこと。そういうところを、これから皆が知るでしょう?」
「最後は直せって昨日怒られたけどな」
「そこは本当に直して」
「はい」
即答すると、リビアの口元が僅かに緩んだ。
「私だけが知っていたわけじゃないわ。お父様もグレイヴも、屋敷の皆も知ってる。でも、学園では今までセスのことを知らない人ばかりだったから……」
そこで言葉が途切れた。
リビア自身も、自分の感情をどう説明すればいいのか迷っているようだった。
「今日みたいに女の子がセスを見て、話しかけて、すごいって思って、そのうち好きになる人が出てくるかもしれないでしょう?」
「ああ」
「そこで普通に『ああ』って返さないで!」
急に声が大きくなったので、近くを歩いていた生徒が何人か振り返る。リビアはそれに気づくと慌てて声を落としたものの、頬の赤みは消えなかった。
「何て答えればいいんだよ」
「少しくらい否定してくれてもいいでしょう?」
「でも可能性の話だろ。絶対にないとは言えないし」
「そうだけど、そういう正しい答えが欲しいわけじゃないの!」
難しい。
何を求められているのか本当に分からない。
ただ、一つだけ理解できた。
リビアは、俺が他の誰かに好意を向けられるかもしれないことを嫌がっている。
その理由まで完全に理解できているわけではない。
でも、嫌がっていること自体は分かる。
「俺は変わらないぞ」
何となくそう言うと、リビアが顔を上げた。
「誰に何を言われても、俺がリビアの婚約者なのは変わらないだろ。それに、公爵家の執事であることも変わらない」
そこまで言ってから、少し考える。
今の俺に言えることは、それだけではない。
「俺が学園で誰と話しても、リビアが一番大切なのも変わらない。それじゃ駄目なのか?」
言い終えた後、リビアが何も言わなくなった。
銀青色の瞳を少し大きくして、ただ俺を見ている。
「リビア?」
「……ずるい」
「また?」
「そういうことを、何でもないみたいに言うから」
「何でもなくはないぞ。大切だから言ってる」
「それがずるいの!」
リビアは顔を赤くして俺から視線を逸らした。
少し離れたところにいたナナリー様は、なぜか額へ手を当てている。ミリアナ様も頬を赤くして、俺たちを見ないよう窓の外へ顔を向けていた。
「何なんだ?」
「クルセス様は、そのままでいいと思います」
ナナリー様が疲れたような声で答える。
「さっきリビアにも似たようなこと言われたぞ」
「オリビア様は大変だと思いますけど」
「何が?」
「何でもありません」
またそれだ。
今日は皆、俺に分からない話をしすぎではないだろうか。
すると、リビアが俺の腕から手を離した。
一瞬、まだ怒っているのかと思ったが、違った。
その手が今度は俺の右手へ触れる。
「セス」
「何だ?」
「手、繋ぐ」
「急だな」
「昨日も繋いだでしょう?」
「そうだけど」
「今日も繋ぐの」
そう言われて断る理由もなかったので、俺は手を開いた。リビアの指が自然に重なり、掌同士が触れ合う。
幼い頃から何度も握った手だ。
昨日だって帰り道で普通に繋いだ。
それなのに、今日は少しだけ意識した。
さっき言われたことが頭に残っているからかもしれない。
女の子が俺を見る。
誰かが俺を好きになるかもしれない。
そんなことを、今まで真面目に考えたことはなかった。
そしてリビアは、それが嫌らしい。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「嫌だった?」
「嫌じゃない。リビアと手を繋ぐのは昔から慣れてるし」
「……そう」
答えた途端、リビアは一瞬だけ不満そうな顔をした。
ただ、その後すぐに笑ったので、何がいけなかったのかは分からない。
そのまま歩き始めると、周囲から小さなざわめきが起こった。俺たちの手元を見た生徒たちが、こちらへ聞こえないようにしているつもりなのか、声を潜めて話している。
「見た?」
「オリビア様から手を……」
「やっぱり本当に仲いいんだ」
「婚約しただけじゃないんだな」
リビアにも聞こえているはずだ。
しかし、さっきまでとは違って機嫌がいい。
「……わざとか?」
「何が?」
「皆が見てるところで手を繋いだだろ」
「偶然よ」
「絶対違う」
「婚約者同士が手を繋いで何が悪いのかしら?」
完璧な公爵令嬢の笑顔。
こういう顔をした時のリビアは、何を言っても認めない。
「まあ、俺も嫌じゃないからいいけど」
そう言うと、リビアの足が僅かに止まりかけた。
「……そう」
「何だ?」
「何でもないわ」
言葉とは反対に、繋いでいる手へ少しだけ力が入った。俺も握り返すと、リビアは嬉しそうに目を細めた。
教室へ入った瞬間、それまで続いていた話し声が不自然に途切れた。
窓から差し込む朝日で明るい室内には、すでに大半の生徒が集まっている。教科書を読んでいた者も、友人と話していた者も、俺とリビアを見る。
さらに、俺たちが手を繋いでいることに気づくと、今度は別の意味でざわめきが広がった。
「……来た」
「本当に一緒だ」
「手まで繋いでるぞ」
「昨日の噂、本当だったんだ」
「どの噂だよ。多すぎるだろ」
最後の一言には俺も同意したかった。
リビアはまるで気にした様子もなく自分の席へ向かい、そこでようやく手を離した。俺も隣の席へ鞄を置いて椅子へ腰を下ろしたが、周囲から向けられる視線は消えない。
むしろ、さっきより近くなった。
「クルセス」
数秒もしないうちに、近くの席にいた男子生徒が一人やってくる。
「昨日のフレイムストーム、本当に正面から抜けたのか?」
「正面というか、魔力の薄い部分を探して、水魔法で崩しながら近づきました」
「魔力の薄いところ?」
「術式には流れがありますから。ライゼル様の場合は火と風を無理にまとめていたので、核になっている部分を崩せば全体が乱れると思って」
説明し終えてから、周りが静かになっていることに気づいた。
「何でしょう?」
「それ、見ただけで分かったのか?」
「大体は」
「大体で炎の中に入ったのかよ……」
「だから昨日怒られたんです」
「そこは怒られたんだ」
「かなり」
男子生徒の後ろから笑いが起こった。
さっきまで遠くから俺を見ていた生徒たちも、その笑いで少し緊張が解けたらしい。今度は別の男子が近づき、迅雷撃破について尋ねてくる。
「本当に雷を自分の身体へ流してるのか?」
「そうです。筋肉だけじゃなく、神経側にも補助を掛けています」
「怖くないのか?」
「制御を失敗すれば危険ですけど、出力を抑えれば――」
「それを普通みたいに言うのが怖いんだよ」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
俺としては普通に説明しただけなのだが、どうやら周囲の反応を見る限り、また何か感覚がずれているらしい。
そこからは質問が続いた。
剣術では魔法を使うのか。
五属性の中で一番得意なのは何か。
複合魔法はどこまで使えるのか。
昨日のファイアランスをどうやって止めたのか。
気づけば、俺の席の周囲にはかなりの人数が集まっていた。
ただ、不思議と嫌ではなかった。
遠巻きに見られているより、こうして直接話しかけてもらう方がずっと楽だ。
「剣術の時は基本的に魔法は使いません。使う必要がある相手なら別ですけど」
「イザーク相手でも?」
「昨日は必要ありませんでした」
「本人の前で言ってみろよ」
「言えますよ」
「おい」
少し離れたところから低い声がした。
視線を向けると、イザーク様が自分の席に座ったままこちらを見ている。怒っているように聞こえるが、昨日の模擬戦直後ほど空気は鋭くない。
「聞こえていたのですか?」
「この距離で聞こえないと思ったのか?」
「すみません」
「謝るくらいなら最初から言うな。それより、周りも噂を鵜呑みにするなよ」
イザーク様は机に頬杖をつき、俺の周囲に集まった生徒たちを見回した。
「こいつが強いのは事実だ。でも、俺が一瞬で倒されたことになってる噂まである」
「違うのか?」
「違う!」
声が教室へ響く。
「ちゃんと打ち合った! 負けたのは認めるが、一撃で吹き飛ばされて壁に埋まったことにはするな!」
「そんな噂まであるのですか?」
「お前が知らないのか!?」
「初めて聞きました」
「昨日から俺まで被害を受けてるんだぞ!」
教室中から笑いが起こった。
イザーク様は不機嫌そうに顔を背けたものの、本気で怒ってはいないようだった。
「すみません」
「お前が謝ることでもない。だが、次は勝つ」
「はい。俺も負けません」
そう返すと、イザーク様はほんの少しだけ口元を上げた。
昨日、剣を交えた時にも思ったが、この人は真っ直ぐだ。
負けたことに悔しさはある。
でも、その悔しさを別の形でぶつける人ではない。
ライゼル様とは、そこが違う。
そんなことを考えているうちに、今度は女子生徒たちまで近づいてきた。
「クルセス君、五属性の中で一番得意なのって雷なの?」
「多分そうですね。ただ、水もかなり使います」
「昨日も水魔法でファイアランスを止めたんでしょう?」
「はい」
「すごい……」
感心したような視線を向けられる。
どう反応すればいいのか、やっぱり分からない。
ただ、今朝のことを思い出して「ありがとうございます」と返してみた。
すると、隣から視線を感じた。
リビアだ。
笑顔ではある。
けれど、少し怖い。
「お嬢様」
「何かしら?」
「そろそろ授業始まるよな?」
「まだ少し時間はあるわよ」
「そうか」
「ええ」
何となく助けを求めたのだが、笑顔の意味が分からないまま返される。
すると、リビアは椅子から立ち上がり、俺の周囲に集まっている生徒たちへ向き直った。声も表情も柔らかいままで、公爵令嬢らしい穏やかな笑みを浮かべている。
「皆さん、セスへ興味を持ってくださるのは嬉しいのですけれど、そろそろ授業の準備をした方がよろしいのではなくて?」
「あ」
「そうだな」
「ご、ごめんなさい」
集まっていた生徒たちが少しずつ自分の席へ戻っていく。
俺は心の底から助かったと思った。
「ありがとう、リビア」
「どういたしまして」
「……怒ってる?」
「怒ってないわ」
「本当に?」
「ええ。ただ、セスが思ったより女の子に人気が出そうなので、少し対策を考えようと思っただけ」
その言葉に、少し嫌な予感がした。
「何の対策?」
「秘密」
「怖いんだけど」
「大丈夫よ。私が婚約者だって、ちゃんと皆に分かってもらうだけだから」
「もう知ってるだろ」
「知っていることと、理解していることは別なの」
意味が分からない。
聞こうとしたところで教室の扉が開き、レイモンド先生が入ってきた。
「席についてください」
生徒たちが慌てて席へ戻り、教室のざわめきが少しずつ収まっていく。先生は教壇へ教材を置き、いつも通り出席を取っていった。
ただ、一つだけ呼ばれない名前がある。
ライゼル様。
昨日まで座っていた席が、今は静かに空いている。
教室の何人かも同じ場所を見ていた。
さっきまで笑っていた空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「授業を始める前に、昨日の件について伝えておきます」
レイモンド先生の声に、教室が静かになった。
「ライゼル・シュザー君については、本日から当面の間、通常授業への参加を停止します。ただし、これは正式な処分が決定したという意味ではありません」
教室のあちこちから小さなざわめきが起こったが、先生は構わず続ける。
「昨日の魔法使用、周囲の生徒を巻き込んだ危険行為、その前後の状況について、本人、家族、目撃者への確認が必要です。それらが終わるまでは、通常授業へ戻しません」
俺は空席を見る。
ライゼル様は、どうなるのだろう。
昨日、俺を憎むように見ていた。
リビアが俺に騙されていると、本気で思っていた。
あれほど強い思い込みが、簡単に消えるものなのか。
分からない。
ただ、今の段階で俺が何かを決めることではないのだろう。
「また、クルセス・シルフィール君については、学園側で確認した結果、今回の件に関する処分はありません」
先生の視線がこちらへ向き、それにつられて教室中の視線まで集まる。俺が背筋を伸ばすと、レイモンド先生は少しだけ眉を寄せた。
「ただし、本人には今後もう少し自分の安全も考えるよう指導しています」
今度は教室から笑いが起こった。
「先生、それは皆に言う必要あります?」
「あります」
「何でですか」
「あなたが忘れないようにです」
横を見ると、リビアが大きく頷いている。
「リビアまで」
「当然でしょう?」
「昨日から味方がいない」
「自分を大切にすることに関しては、セスの味方をしたら駄目だと思ってるもの」
教室にまた笑いが広がった。
でも、昨日とは少し違う。
俺を笑っているというより。
俺と一緒に笑っている。
その違いが、何となく分かった。
レイモンド先生は笑いが収まるのを待ち、それから声を少し厳しくした。
「それから、昨日の事件について面白半分で本人や関係者へ聞き回る行為は控えてください。また、クルセス君へ危険な魔法の再現を求めたり、実力を確かめる目的だけで模擬戦を申し込んだりすることも禁止します」
何人かの生徒が目を逸らした。
それが気になって尋ねると、先生は疲れたように息を吐く。
「今朝だけで三件、私のところへ『クルセス君と模擬戦をしたい』という相談が来ています」
「三件も?」
「全て断りました」
「ありがとうございます」
本気で助かった。
昨日一日で十分目立ったのに、今日まで模擬戦ばかりしていたら平穏な学園生活からさらに遠ざかる。
「それから、噂についても一つ」
レイモンド先生は教壇へ片手を置き、教室全体を見回した。
「昨日の出来事が、かなり誇張されています。今朝までに私の耳へ入ったものだけでも、事実とは言えない話が複数あります」
嫌な予感がする。
「『クルセス君が一人で百人の魔術師を倒した』」
「倒してません」
「『第一王子と隣国の王子を両脇に抱えて守りながら戦った』」
「むしろ自力で防いでもらいました」
「『ライゼル君を三回壁へ叩きつけた』」
「一回もしてません」
教室に笑いが広がる。
ここまで来ると、いったい何をどう伝えればそんな話になるのか分からない。
「そして、『オリビアさんを片腕で抱えたままフレイムストームを突破した』」
「してません!」
今度は教室中が大きく笑った。
リビアまで顔を逸らし、肩を震わせている。
「笑うなよ」
「だって……片腕で……」
「やってないだろ」
「分かってるけど」
「どこから出たんだよ、その話」
レイモンド先生が片手を上げると、少しずつ笑いが収まっていった。
「噂とは、そうやって事実から離れていきます。皆さんも、聞いた話を確認せずに広めないようにしてください」
先生はそこで一度俺を見る。
「本人も困っていますから」
「……先生、ありがとうございます」
一瞬だけ驚いたような顔をした後、レイモンド先生は柔らかく笑った。
「どういたしまして。ただし、クルセス君」
「はい」
「今日こそ普通に過ごしてください」
「俺は昨日も普通に過ごすつもりでした」
「そこが一番怖いのですよ」
また教室に笑いが広がった。
その後、一時限目の授業が始まる。
教科書を開き、先生の説明を聞き、必要な部分をノートへ書き写していく。問いを出されれば答え、分からないところがあれば考える。
こういう時間は落ち着く。
何をすればいいのかが分かっているからだ。
周囲から向けられていた視線も、授業が進むにつれて少しずつ前へ戻っていった。
俺も余計なことを考えず、目の前の授業へ集中する。
昨日は編入初日からあまりにも色々ありすぎた。
だからこそ、先生の話を聞いて教科書へ目を落とし、普通に授業を受けているだけの時間がありがたかった。
何も起こらない。
誰も魔法を撃ってこない。
炎の中へ入る必要もない。
ただ、それだけで随分と平和に感じる。
授業終了を知らせる鐘が鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
先生が教室を出ていき、生徒たちが次の授業の準備を始める。俺も教科書を閉じて鞄へ戻していると、隣からリビアが声を掛けてきた。
「セス」
「何だ?」
「次、魔術実習よ」
「ああ」
「先生に言われたこと、覚えてる?」
「無茶するな」
「それも」
「自分も守る」
「それも」
「……まだあるのか?」
リビアは真面目な顔で俺を見る。
「目立たない」
「それは先生に言われてない」
「私が今言いました」
「勝手に増やすなよ」
「だって、絶対に皆セスを見るもの」
リビアが教室の入口へ視線を向ける。
つられて俺もそちらを見ると、別のクラスの生徒らしい数人が扉の向こうからこちらを覗いていた。俺と目が合った途端、慌てて顔を引っ込めたが、すぐにまた一人だけ覗いてくる。
「……何でいるんだ?」
「昨日の噂を聞いたんでしょうね」
「授業は?」
「まだ移動時間だから」
「俺を見るためだけに来たのか?」
「たぶん」
朝から何度目か分からないため息が出た。
「今日の魔術実習、絶対に皆セスを見るわよ」
「普通にやればいいだろ。昨日みたいなことが起きなければ問題ない」
「セス」
「何だ?」
リビアは少しだけ呆れた顔をした。
「あなたの普通は、もう信用されてないの」
「酷くないか?」
「昨日の自分に言って」
何も言い返せない。
窓の外へ目を向けると、青空の下で木々が穏やかに揺れていた。
風も弱い。
日差しも柔らかい。
学園そのものは平和だ。
問題なのは、どうやら俺の周りだけらしい。
「……リビア」
「何?」
「今日、普通に帰れると思う?」
リビアはすぐには答えなかった。
教室の入口でこちらを覗いている生徒たちを見て、それから次の授業用に準備した杖を見て、最後に俺へ視線を戻す。
そして、何とも言えない優しい笑顔を浮かべた。
「頑張って」
「答えになってない」
「私も一緒にいるから大丈夫よ」
「そっちは余計に嫌な予感がするんだけど」
「失礼ね」
リビアが楽しそうに笑う。
その笑顔を見ると、俺もつられて少しだけ笑ってしまった。
編入二日目。
まだ一時限目が終わっただけだ。
それなのに、朝から視線を集め、知らない相手に礼を言われ、リビアが妙に俺へくっつくようになり、教室では質問攻めにされた。
次は魔術実習。
昨日、俺が五属性を使えることはすでに知られている。
複合魔法についても先生たちは知っているし、迅雷撃破は使用制限まで付けられた。
どう考えても、目立たず終わる方が難しい。
それでも。
俺はまだ諦めていない。
今日こそは、何事もなく授業を受けて、何事もなく帰る。
そのくらいなら、きっとできるはずだ。
そう思いながら教室を出る準備をしている俺の横で、リビアが小さく笑っていた。
どうして笑ったのか。
その時の俺には、まだ分からなかった。




