第7話 学園長室で事情を話していただけなのに、どうして婚約者の話になるのでしょうか
王立学園の長い廊下を、俺は学園長のオズワルド先生とレイモンド先生に挟まれるような形で歩いていた。
つい先ほどまで火と風の魔法が飛び交っていた場所から少し離れただけなのに、こちら側は不気味なほど静かだった。昼休みの終了を告げる鐘はすでに鳴り終え、閉ざされた教室の扉の向こうからは教師の声や、何十人もの生徒が一斉に教科書をめくる音が漏れてくる。窓から差し込む午後の日差しまで穏やかで、焦げた石壁と割れた装飾の残る廊下にいたのが嘘のようだった。
俺は歩きながら、自分の右袖へ視線を落とした。
水魔法を使ったせいで制服の一部はまだ湿っている。その一方で右肩から胸元にかけては、フレイムストームを突破した時の熱で布の表面が僅かに焼け、鼻を近づけなくても薄い焦げ臭さが分かる程度には跡が残っていた。
皮膚までは届いていない。
髪の毛先がほんの少し焼けた程度で、腕も動くし息苦しさもない。
なら、大したことではない。
「シルフィール君」
横から声を掛けられ、顔を上げると、レイモンド先生がこちらを見ていた。
「はい」
「今、大したことではない、と考えていませんでしたか?」
俺は少しだけ黙った。
「先生は読心魔法も使えるのですか?」
「残念ながら使えません。ただ、あなたの顔が思った以上に分かりやすいだけです」
「それは執事として問題ですね」
「問題にするところが違います」
先生は呆れたように息を吐いたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。ただ、その視線は俺の焦げた制服から離れない。
「オリビアさんにも言われていましたね。もう少し自分の身体を大事にしなさい、と」
「怪我はありません」
「今回は、でしょう」
「……はい」
「あなたは『今回は大丈夫だった』という結果で、自分の行動を正当化する癖がありそうです」
そこまで言われると、反論しづらい。
お嬢様――オリビアにも、ほとんど同じことを言われたばかりだった。
俺としては、あの状況で一番早く確実にライゼル様を止められる方法を選んだだけだ。お嬢様が後ろで多重結界を維持し、周囲の生徒たちを守っていた以上、あのフレイムストームを長引かせる方が危険だった。
だから俺が前へ出た。
それだけのつもりだった。
「次は、もう少し安全な方法を考えます」
俺が答えると、レイモンド先生は一瞬だけ意外そうに目を瞬かせた。
「素直ですね」
「お嬢様にも約束しましたので」
「なるほど」
その一言で何かを納得したらしく、先生は僅かに口元を緩める。
「なら、ぜひ守ってください。あなたが思っている以上に、あなたが傷つけば困る人は多いでしょうから」
その言葉へ返事をする前に、少し前を歩いていたオズワルド先生が足を止めた。
視線の先には、深い茶色の木材で作られた大きな両開きの扉がある。中央には王立学園の紋章が刻まれ、金色の金具には長い年月を経た鈍い光沢が残っていた。
「着きました」
オズワルド先生が振り返る。
「緊張しなくて結構です。事情を整理するために話を聞くだけですから」
「処分を決めるためでは?」
「それも含めて確認はしますが、現時点であなたを一方的に責めるつもりはありません」
「……安心しました」
「今、逃げ道を探していましたね?」
「探していません」
「窓を見ていましたよ」
見ていた。
もし理不尽に怒られたら、あそこから出られるだろうかとは少し考えた。
「冗談です」
「顔が真剣でした」
「失礼しました」
学園長室へ入ると、最初に目についたのは壁一面の本棚だった。魔術理論、王国史、法学、教育学、古代語辞典らしき分厚い本まで、背表紙の色も大きさもばらばらな本がぎっしりと並んでいる。
正面には大きな執務机があり、その奥には歴代学園長と思われる肖像画が数枚掛けられていた。窓際には手入れされた観葉植物が置かれ、午後の日差しが葉の縁を淡く透かしている。豪華ではあるものの、パウリー公爵家の執務室を見慣れているせいか、圧倒されるほどではない。
「こちらへどうぞ」
応接用の長椅子へ座るよう促され、俺は背筋を伸ばして腰を下ろした。
向かいにオズワルド先生、斜め横にレイモンド先生。
どうしても尋問のように見える。
「シルフィール君」
「はい」
「警戒しすぎです」
「していません」
「両膝に手を置いたまま、いつでも立てる姿勢になっていますよ」
「癖です」
「どこで身につけた癖ですか?」
「……昔です」
オズワルド先生はそれ以上追及しなかった。
代わりに机の上へ一枚の紙を置き、表情を少しだけ真面目なものへ変える。
「まず、怪我の確認からしましょう。身体に痛みは?」
「ありません」
「火傷は?」
「ありません」
「制服は焦げていますが」
「表面だけです」
「オリビアさんは知っていますか?」
「髪については」
「制服については?」
「聞かれませんでしたので」
レイモンド先生が静かに目を閉じた。
「何でしょう」
「いえ。午後の授業が終わった後が楽しみですね」
「先生は楽しそうですね」
「少しだけ」
「性格が悪くありませんか?」
「編入初日からこれだけ疲れさせられた教師のささやかな楽しみです」
「俺は何もしていません」
「そこなのですよ」
今度はオズワルド先生が深く息を吐いた。
「そこが一番困るのです」
「はい?」
学園長は手元の紙を見ながら、今日起きたことを一つずつ確認し始めた。
「朝、あなたは正式に編入しました」
「はい」
「午前中の授業を受け、その後、剣術の模擬戦でイザーク君に勝利」
「はい」
「昼休みに入り、オリビアさんたちと行動していたところ、ライゼル・シュザー君と口論になった」
「正確には、俺はほとんど口論していません」
「そこも確認しています」
オズワルド先生は一度だけ紙へ視線を落とし、続きを読み上げる。
「ライゼル君が最初に火球を使用。その後、ファイアランス。さらに複数のウィンドカッターを放ち、オリビアさんや周囲の生徒、アルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリー君まで巻き込んだ」
「はい」
「最後に火と風の複合魔法、フレイムストーム。あなたはそれを水魔法で崩しながら正面突破し、本人へ接近。迅雷撃破を解除した上で膝蹴りを一発」
「その通りです」
そこで声が止まった。
オズワルド先生もレイモンド先生も、しばらく何も言わない。
「……何でしょうか」
「言葉にすると改めて酷いですね」
「俺もそう思います」
「随分と他人事ですね」
「俺から始めたことは一つもありませんので」
「そうなのですよ」
オズワルド先生が額へ手を当てる。
「普通に登校した生徒が、なぜ初日の昼までに剣術科で注目を集め、第一王子と隣国の王子と宰相家の嫡男を巻き込み、魔法師団長の息子と戦うことになるのでしょう」
「俺にも分かりません」
「私にも分かりません」
妙な沈黙が落ちた。
「理不尽ですね」
「ええ」
「なら俺は悪くないのでは?」
「悪くはありません」
「良かったです」
「ただし困ってはいます」
「なぜですか」
「明日も同じ規模の事件が起きたら、学園の建物が持たないからです」
「俺だって困ります」
「そこだけは意見が一致しますね」
レイモンド先生が額を押さえている。
オズワルド先生は一度咳払いをしてから、話を本題へ戻した。
「現時点では、今回の件についてあなたへ懲罰を科す予定はありません。ライゼル君が先に攻撃し、あなたは防御と周囲の生徒の保護を優先していたことが複数人の証言から確認できています」
胸の奥にあった僅かな緊張がほどける。
「最後の膝蹴りもですか?」
「程度は確認しますが、あの時点で術者本人を止めなければ、さらに魔法が放たれていた可能性がある。制圧そのものは必要だったと判断しています」
「ありがとうございます」
「ただし」
やっぱり続く。
「あなたの行動に問題がなかった、という意味ではありません」
「フレイムストームですか?」
「分かっているではありませんか」
学園長は俺をまっすぐ見た。
「あなたは、あの魔法を確実に突破できると分かっていたのですか?」
「魔力の流れは読めていました」
「質問を変えましょう。失敗する可能性はゼロでしたか?」
「……ゼロではありません」
「水魔法が押し負ける可能性は?」
「ありました」
「魔力の核を見誤る可能性は?」
「少しは」
「ライゼル君が途中で術式を変える可能性も?」
「否定はできません」
一つずつ答えているうちに、自分でも何を言われようとしているのか分かってきた。
「それでも、あなたは行った」
「はい」
「なぜです?」
考えるまでもなかった。
「後ろにお嬢様がいましたから」
口にした瞬間、二人の教師が僅かに表情を変えた。
「それから、生徒もいました。お嬢様が結界を張っていたとはいえ、あの規模の炎を長く受け続ければ負担は増えます。なら、術者を先に止めた方が早いと思いました」
「オリビアさんを守るため」
「はい」
「では、あなたが炎の中で倒れたら?」
その問いには、すぐ答えられなかった。
「彼女は結界を維持しながら、ライゼル君へ対応することになります。アルフォルド殿下たちもいましたし、教師もこちらへ向かっていた。あなた以外にも戦える人間はいたのですよ」
「……はい」
「あなた一人ですべてを背負う必要はありません」
責めるような声ではなかった。
だから余計に胸へ残った。
俺は膝の上に置いた自分の手を見る。薄い古傷がいくつもある。スラムにいた頃についたものも、訓練中についたものもある。
「昔からなんです」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「危険なら、自分が先に行った方が早いと思ってしまうのが」
オズワルド先生は急かさなかった。
レイモンド先生も黙っている。
「スラムにいた頃は、誰かを待つなんてできませんでした。食べるものを守る時も、寝る場所を取られそうな時も、自分で何とかしないと何も残らなかったので」
公爵家へ来てからは違う。
義父がいる。
旦那様がいる。
お嬢様がいる。
使用人も、護衛もいる。
頼れる人間はいくらでも増えた。
なのに。
「多分、身体の方がまだ覚えているんだと思います。危険なら先に自分が行けって」
「……なるほど」
学園長がゆっくり息を吐いた。
「それは、一日で変えられるものではないでしょう」
「はい」
「ですが、今のあなたには、あなたが倒れることで悲しむ人がいる。そのことも覚えておいてください」
俺はさっきのオリビアの顔を思い出した。
炎の中から出た俺へ駆け寄り、焦げた髪を見つけた時の顔。
怒っていた。
でも。
怒りより先にあったのは、怖さだった。
「次からは」
一度、言葉を選ぶ。
「もう少し自分も守るようにします」
「それでいいと思います」
「お嬢様にも約束しましたので」
レイモンド先生が小さく笑った。
「やはり、彼女の言葉が一番効くのですね」
「そうでしょうか」
「ええ。かなり」
そんな自覚はない。
「では、次の確認へ移ります」
オズワルド先生が紙をもう一枚めくった。
「あなたの魔法適性についてです」
「はい」
「火、水、風、土、雷。五属性すべてに適性がある」
「あります」
「その反応で済ませないでください」
レイモンド先生がすぐ横から口を挟む。
「普通は五属性も持ちません」
「義父にも珍しいとは言われました」
「珍しい、では少し足りませんね」
「そうなのですか?」
二人が黙る。
またこの反応だ。
「シルフィール伯爵から、自分の能力を外で安易に見せるなとは言われていませんでしたか?」
「言われています」
「では、なぜ今日だけでほぼ全部見せたのです」
「必要だったので」
言った瞬間。
レイモンド先生の目が細くなった。
「あ」
「その言葉、オリビアさんに禁止されたのでは?」
「お嬢様からだけです」
「では私も禁止します」
「困ります」
「なぜですか」
「便利なので」
「だから禁止するのです!」
学園長が堪えきれず、口元を押さえる。
「失礼。少しだけ面白くて」
「学園長まで」
「続けましょう。迅雷撃破についてですが、あれは既存の雷属性身体強化と少し違いますね?」
「自分で調整しています」
「具体的には?」
「雷魔力を筋肉と神経へ流して、反応速度と身体能力を上げています」
「危険性は?」
「あります。制御を誤れば筋肉を傷めますし、魔力を流しすぎれば神経にも負担がかかります。最悪の場合は心臓にも」
室内が静かになる。
「……それを十五歳が使っているのですか」
「制御できますので」
「できていることが問題なのですよ」
また分からないことを言われた。
「あなた、自分がどの程度強いのか理解していますか?」
「それなりには」
「例えば誰を基準に?」
「義父には勝てません」
「シルフィール伯爵ですか」
「はい」
「他は?」
「旦那様にも勝てません」
「パウリー公爵……」
オズワルド先生は目を閉じた。
「比較対象がおかしいですね」
「毎日近くにいるので」
「王国でも指折りの実力者を基準にすると、普通の基準が壊れます」
「そういうものですか」
「そういうものです」
学園長はしばらく考えた後、机へ指先を置いた。
「迅雷撃破の高出力使用については、今後、訓練や模擬戦では教師立ち会いを原則としてください」
「実戦では?」
「命に関わる状況まで禁止するつもりはありません。ただし、自分の身体への負荷を無視して使わないこと」
「分かりました」
「それから複合魔法」
「はい」
「できますね?」
「できます」
「どの程度?」
「火と風、水と風、土と雷。火と土も調整次第では――」
「もう結構です」
「まだありますが」
「聞きたくありません」
「学園長?」
「情報量が多いのです」
レイモンド先生まで深く頷いている。
その時、学園長室の扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは魔術科のエレナ先生だった。
先ほど、倒れたライゼル様の状態を確認していた教師だ。
「ライゼル・シュザー君の応急処置が終わりました」
「状態は?」
「意識ははっきりしています。鼻骨に軽度の損傷がありますが、治癒魔法で問題なく治ります。頭部にも異常はありません」
「良かった」
思わず口から出る。
エレナ先生がこちらを見た。
「蹴った本人が一番安心していますね」
「死なせるつもりはありませんでしたので」
「どの程度加減したのです?」
「死なない程度に」
先生の眉が僅かに動く。
「……オリビアさんの指示ですか?」
「骨折二本までなら、と」
「彼女なら言いそうですね」
「納得するんですか?」
「少なくとも想像はできます」
お嬢様は普段、完璧な公爵令嬢として通っているはずなのだが。
なぜ先生たちまでこんなに理解しているのだろう。
「それと、本人から事情を聞きました」
エレナ先生の声が少し真面目になる。
「ライゼル君は、クルセス君がオリビアさんを惑わせていると思っていたようです」
「俺が?」
「本人はそう主張しています」
「何をして?」
「そこまでは明確ではありませんでした」
「魔法ですか?」
「違います」
「薬?」
「それも違います」
「なら、何でしょう」
「単純に嫉妬でしょう」
レイモンド先生が静かに言った。
「ライゼル君が以前からオリビアさんへ好意を持っていたことは、この学園ではかなり知られています」
「そうなのですか?」
三人の教師がこちらを見る。
「知らなかったのです?」
「今日来たばかりです」
「ああ」
揃って納得された。
「本人の中では、自分こそがオリビアさんに相応しいと思っていたのでしょう」
エレナ先生が続ける。
「そこへ正式な婚約者としてあなたが現れた。しかもオリビアさん本人があなたを選んでいる。それを受け入れられなかった可能性が高いです」
「迷惑ですね」
率直に言っただけなのだが、三人の口元が少し緩んだ。
「何ですか?」
「いえ。あまりに簡潔だったので」
「だって迷惑でしょう。お嬢様本人が嫌だと言っているのに」
そこまで言うと、エレナ先生が俺を少し観察するように見る。
「クルセス君」
「はい」
「あなたはオリビアさんをどう思っているのです?」
「……何の話でしょう」
「今回の事件の発端を理解するために」
「俺の気持ちは関係ないのでは?」
「それはそうですね」
あっさり引かれた。
ただし。
オズワルド先生とレイモンド先生は、なぜかまだこちらを見ている。
「何でしょう」
「少し興味があるだけです」
学園長が言う。
「あなたとオリビアさんの婚約は、公爵家同士の都合で決められたものですか?」
「違います」
「では?」
「お嬢様が旦那様へ頼みました」
「オリビアさん本人が?」
「はい」
「あなたは?」
「了承しました」
「なぜ?」
そこで少しだけ言葉に詰まった。
お嬢様と結婚する。
昔なら考えたこともなかった。
俺はスラム出身。
お嬢様は公爵令嬢。
住む場所も、食べるものも、着る服も、何もかも違った。
でも。
お嬢様は昔から変わらなかった。
俺をセスと呼び。
笑い。
怒り。
たまに泣き。
人前では見せない顔を、俺には平然と見せる。
それが特別だということくらいは分かっている。
「大切だからです」
自然に言葉が出た。
「誰よりも」
室内が静かになる。
「それが恋愛感情かと言われると、まだよく分かりませんが」
エレナ先生が僅かに目を細める。
「なるほど」
「何です?」
「オリビアさんは苦労しそうですね」
「なぜですか」
「本人へ聞いてください」
「よく分かりません」
その時、再び扉が叩かれた。
「失礼する」
入ってきたのはアルフォルド殿下だった。
その後ろにはカイゼル殿下、さらにサザリー様もいる。
三人とも騒動の目撃者として呼ばれたらしい。
「クルセス」
アルフォルド殿下は部屋へ入るなり俺を見た。
「無事か?」
「はい」
「処分は?」
「今のところありません」
「そうか」
ほんの僅か。
殿下の肩から力が抜けたように見えた。
お嬢様への求婚者という印象が強かったが、普通に心配してくれる程度には俺のことも見ているらしい。
「まあ、炎の中へ自分から入っていく人間を心配する必要があるのかは悩むところだけどね」
カイゼル殿下が肩をすくめる。
「僕たちのことは放置したし」
「まだ気にしているのですか?」
「少しね」
「殿下方なら自分で防げると判断しました」
「そこまで迷わず切り捨てられると、むしろ清々しいよ」
「信頼していますので」
カイゼル殿下が一瞬黙った。
「……それを真正面から言われると、文句を言いにくいな」
サザリー様は小さく息を吐いた。
「クルセスは、相手の身分ではなく対応能力で優先順位を決めたのでしょう」
「はい」
「それは分かるが、王族二人と宰相家の息子がまとめて後回しなのは少し珍しい」
「皆さん強いでしょう」
「理屈は正しい」
サザリー様は否定しなかった。
学園長が三人へ席を勧めると、事情聴取が再開された。
「まず確認します。クルセス君からライゼル君への挑発はありましたか?」
「ない」
最初に答えたのはアルフォルド殿下だった。
「むしろ何度か止めようとしていた。最初に魔法を使ったのもライゼルだ」
「私も同じ認識です」
サザリー様が続ける。
「ウィンドカッターが周囲へ拡散した時、クルセスは自分への攻撃より先にオリビア嬢と一般生徒を守っています」
「僕らは自力でね」
カイゼル殿下が付け加えた。
「殿下」
「冗談だよ」
「本当に気にしていませんか?」
「三割くらいは」
「結構気にしているじゃないですか」
少しだけ室内の空気が緩む。
「最後のフレイムストームについては?」
学園長が問うと、サザリー様の表情が真面目になった。
「危険な行動だったことは間違いありません。ただ、あのまま術式が維持されれば、オリビア嬢の結界へ負荷が掛かり続けました。術者を止める判断自体は妥当です」
「他に止められる者は?」
「距離を考えれば、即座に接近できたのはクルセスだけでしょう」
学園長はしばらく書類へ何かを書き込み、やがて顔を上げた。
「分かりました。現時点で確認できた証言を踏まえ、クルセス・シルフィール君へ今回の件で処分は行いません」
「ありがとうございます」
ようやく肩の力が抜ける。
「ただし、ライゼル君については別です」
部屋の空気が再び締まった。
「学園内で複数回にわたり高威力魔法を使用し、無関係な生徒まで危険へ晒した。本人への聞き取りだけで即日処分を決められる内容ではありませんので、シュザー家への連絡と正式な審議を行います」
ライゼル様の父親は魔法師団長だ。
その立場を考えれば、簡単な話ではないのだろう。
「処分が決まるまでは?」
アルフォルド殿下が尋ねる。
「少なくとも通常授業へそのまま戻すことはありません。詳細はこれからです」
それ以上はまだ決めない。
教師たちの口調からも、それが分かった。
「それと」
オズワルド先生が今度は俺たち四人を見回す。
「今回の件を踏まえて、一つ忠告しておきます」
嫌な予感がする。
「今後、オリビアさんを巡る争いを学園内へ持ち込まないように」
「……俺もですか?」
「あなたもです」
「婚約者なのですが」
「だからこそです」
アルフォルド殿下の眉が僅かに動く。
カイゼル殿下は面白そうにこちらを見ており、サザリー様だけが真面目に学園長の話を聞いていた。
「オリビアさんへ婚姻の意思を示している人物は、私が把握しているだけでも複数います。アルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリー君、今回のライゼル君、それ以外にも」
「多いですね」
「他人事ですね」
「俺が増やしたわけではありませんので」
カイゼル殿下が噴き出した。
「君、時々かなり強いことを言うよね」
「事実です」
「では、嫉妬などは?」
学園長に聞かれ、俺は少し考えた。
「あります」
三人の求婚者が同時にこちらを見る。
「あるのか?」
アルフォルド殿下が驚いたように聞き返す。
「ありますよ」
「どの程度だ」
「仕事中にお嬢様へ話しかけられると予定がずれます」
沈黙。
「……それは嫉妬なのかな」
カイゼル殿下が困ったように笑う。
「他に何があるのです?」
「いや、いい。君はそのままでいて」
「なぜですか」
「面白いから」
「納得できません」
俺はアルフォルド殿下へ視線を向けた。
「それより殿下」
「何だ」
「今後、お嬢様を訪ねる際はできれば事前に連絡してください」
「なぜだ」
「予定へ組み込めます」
「私の求婚を予定表へ入れるつもりか?」
「来客対応ですので」
「私の求婚を来客対応と呼ぶな!」
「公爵家へ来られれば来客でしょう」
アルフォルド殿下が言葉に詰まる。
「正論だね」
カイゼル殿下が楽しそうに笑った。
「殿下も同じです」
「僕も?」
「隣国の王子なら、なおさら事前連絡が必要です」
「それも正しい」
「サザリー様は」
「私は公爵家の職務を妨げるつもりはありません。事前に連絡します」
「ありがとうございます」
「サザリー!」
アルフォルド殿下が思わず声を上げる。
「なぜ一人だけ素直に受け入れる!」
「当然の配慮だからです」
「ほら」
「クルセス、お前は少し黙れ!」
なぜ俺が怒られるのだろう。
学園長はとうとう額へ手を当て、レイモンド先生は天井を見上げている。エレナ先生だけは完全に笑いを堪えていた。
「……シルフィール君」
「はい」
「あなたがいる限り、今年の学園はかなり騒がしくなりそうですね」
「平穏に過ごすつもりです」
「今日一日の内容を思い出してから言ってください」
「俺から始めた問題はありません」
「それが一番怖いのです」
反論しようとした、その時だった。
遠くから午後の授業終了を告げる鐘の音が響いた。
俺の背中が僅かに強張る。
「どうしました?」
オズワルド先生が気づいた。
「いえ」
嫌な予感。
というより。
確定している未来がある。
お嬢様が来る。
授業が終わったら学園長室へ行く、と言っていた。
俺は待つと約束した。
そして。
お嬢様はまだ、制服が焦げていることを知らない。
「学園長」
「はい」
「もう帰ってもいいでしょうか」
「駄目です」
「即答ですか」
「オリビアさんと待ち合わせているのでしょう?」
「だからです」
「約束を破って逃げるつもりですか?」
「窓からなら」
「処分を検討します」
「……分かりました」
レイモンド先生の肩が小さく揺れている。
「先生、笑っていますね」
「少しだけ」
「性格が悪いです」
「今日一日の分です」
そこへ、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。
速い。
かなり速い。
俺が扉を見るのとほぼ同時に、それが勢いよく開かれた。
「セス!」
「オリビアさん、ノックを!」
学園長の声が飛ぶ。
「あっ」
入口でお嬢様が固まった。
その後ろにはナナリー様、ミリアナ様、さらにアシュまでいる。
「……失礼いたしました」
お嬢様は一度扉を閉めた。
少しして。
コンコン、と今度はきちんとノックの音がする。
「どうぞ」
扉が開く。
「失礼いたします!」
礼儀正しく一礼。
次の瞬間。
「セス!」
「結局同じじゃないか」
お嬢様は一直線に俺のところまで来た。
「大丈夫だった!? 何か言われた? 処分は?」
「大丈夫だ。処分もない」
「本当に?」
「ああ」
その答えを聞いた瞬間、お嬢様の肩から明らかに力が抜けた。
「……良かった」
声も小さい。
あれだけ怒っていたのに。
ずっと心配していたのだろう。
お嬢様は俺の顔を確認し、焦げた髪の先へ指を伸ばした。そのまま首、腕、肩へ視線を落としていき――途中で止まる。
「……セス」
「何だ?」
「これは何?」
右肩。
焦げた制服。
「あ」
「髪だけって言ったわよね?」
「髪について聞かれたから」
「服も焦げているじゃない!」
学園長室に声が響いた。
「表面だけだ」
「少しではありません!」
「皮膚には届いていない」
「火傷は!?」
「ない」
「見せて」
「ここで?」
「見せて!」
「制服を脱ぐことになるぞ」
「脱いで!」
「オリビア様!?」
ナナリー様が顔を真っ赤にする。
アシュまで慌てて間へ入った。
「お嬢様、さすがにここは学園長室です」
「でもセスは怪我を隠すのよ!」
「隠さない」
「昔、足を切った時に三日黙っていたでしょう!」
「あれは擦っただけだ」
「血が出ていました!」
「血くらい出る」
「ほら!」
なぜか。
その場にいた全員が俺を見る。
「何でしょう」
アルフォルド殿下が深く息を吐いた。
「クルセス」
「はい」
「今回はオリビアが正しい」
「殿下まで?」
「僕もそう思うよ」
カイゼル殿下。
「私もだ」
サザリー様。
「クルセス様、反省してください」
ナナリー様。
「セス」
アシュまでため息を吐く。
「今回は私も庇えません」
「味方がいない!」
思わず声が出た。
室内に笑いが広がる。
ただ。
お嬢様だけは完全には笑っていなかった。
焦げた制服へ触れたまま、僅かに眉を下げている。
その顔を見た時。
さっき学園長から言われた言葉が蘇った。
俺が倒れたら。
誰がお嬢様を守る。
「……リビア」
「何?」
「ごめん」
お嬢様の目が大きくなる。
「次からは、もう少し自分も守る」
しばらく。
返事はなかった。
お嬢様は俺の顔をじっと見たまま、何かを確かめるように唇を結んでいる。
「……本当?」
「ああ」
「また『必要だったから』って言わない?」
「なるべく」
「なるべくじゃ駄目」
「努力する」
「絶対に?」
「約束する」
ようやく。
お嬢様の表情が柔らかくなった。
「……うん」
焦げた制服を掴んでいた指が離れる。
「破ったら?」
「何だ?」
「一週間、私の部屋で寝てもらいます」
「なぜそうなる」
「監視します」
「別室でいいだろ」
「駄目」
「何でだ」
「寝ている間に危険なことをしないか見張るため」
「寝ていたら何もできない」
「セスなら寝ながら窓から飛び出すかもしれないでしょう」
「俺を何だと思ってる」
「セス」
「説明になってない!」
今度こそ。
お嬢様も笑った。
その笑顔を見て、俺もようやく肩の力を抜くことができた。
「では」
オズワルド先生が立ち上がる。
「今日はこれで終わりにしましょう」
「帰っていいですか?」
「ええ」
「良かった……」
「ただし」
「まだあるのですか?」
「明日も普通に登校してください」
「します」
「普通に」
「その予定です」
「事件を起こさず」
「俺は起こしていません!」
横からレイモンド先生が口を挟む。
「学園長、その言い方では足りません」
「と言いますと?」
「事件に巻き込まれず、です」
「なるほど」
「それこそ俺にはどうしようもないでしょう!」
二人が黙る。
「確かに」
「確かに、ではありません!」
また笑い声が広がった。
納得はできない。
でも。
不思議と嫌ではなかった。
スラムにいた頃。
王立学園など、自分とは一生関係のない場所だと思っていた。
貴族の子供たちが立派な制服を着て。
魔術や剣を学び。
いずれ国を動かすために集まる場所。
自分がそんな場所へ通う未来など、想像したことすらない。
それなのに今。
俺はここにいる。
隣にはお嬢様がいて。
少し後ろにはナナリー様やミリアナ様、アシュがいる。
面倒な求婚者たちとも、普通に言葉を交わしている。
平穏ではない。
少なくとも今日一日だけなら、全く平穏ではなかった。
「セス」
「何だ?」
「帰りましょう」
お嬢様が手を差し出す。
「お父様にも今日のことを全部報告しないと」
「……」
忘れていた。
「リビア」
「何?」
「今日の件」
「ええ」
「少しだけ黙っておくのは?」
「駄目」
「即答するな」
「全部話します」
「ライゼル様が暴走したところだけでいいだろ」
「炎の中へ飛び込んだことも」
「それは」
「制服が焦げたことも」
「待ってくれ」
「迅雷撃破を使ったことも」
「リビア」
「先生から、自分を大事にしなさいって言われたことも」
お嬢様がにっこり笑う。
「全部」
「……はい」
「報告します」
「分かった」
逃げられない。
旦那様。
義父。
両方に知られる。
もしかすると、今日一番怖い時間はこれからなのかもしれない。
「じゃあ、帰ろう」
「ええ」
差し出された手を取る。
いつものように。
何も考えず。
その瞬間。
「待て」
アルフォルド殿下の声が飛んだ。
「何でしょう」
「なぜ手を繋ぐ」
「婚約者なので」
「だからといって、私の前でそんな自然に!」
「殿下が勝手に見ているだけでは?」
「クルセス!」
「セス」
今度はお嬢様が俺の腕を少し引いた。
「もっと言って」
「煽るな」
「だって」
お嬢様は本当に楽しそうに笑う。
「私、セスとこうして帰れるの、嬉しいもの」
「……」
一瞬。
言葉が出なかった。
何だろう。
胸の奥が少しだけ妙な感じがする。
嫌ではない。
むしろ。
何となく。
もっと聞いていたいような。
「セス?」
「……帰るぞ」
「ふふっ。はい」
お嬢様は俺の反応が面白かったらしく、指を少しだけ強く絡めてくる。
その様子を。
アルフォルド殿下が見ていた。
カイゼル殿下も。
サザリー様も。
三人とも、さっきまでの軽い空気が嘘のように真剣な顔になっている。
「……これは厳しいな」
カイゼル殿下が小さく呟いた。
「何がです?」
「君は知らなくていいよ」
「なぜですか」
「その方が面白いから」
「納得できません」
「セス、行きましょう」
「ああ」
学園長室を出る。
午後の授業を終えたばかりの廊下には、すでに多くの生徒が戻ってきていた。
そして。
俺とお嬢様が並んで歩き始めた瞬間。
周囲の空気が少し変わった。
話していた生徒が声を落とす。
教室から出てきた生徒がこちらを見る。
少し離れたところでは、こちらを見ながら何人かが顔を寄せ合っていた。
「……あれが」
「シルフィール君だろ?」
「本当にオリビア様と手を繋いでる……」
「ライゼル様のファイアランス止めたって」
「それだけじゃない。最後は複合魔法の中に突っ込んだらしいぞ」
「五属性って聞いたけど、本当なの?」
「剣術でもイザーク様に勝ったんでしょ?」
小さな声が。
あちらこちらから聞こえてくる。
俺は思わず足を止めた。
「どうしたの?」
お嬢様がこちらを見る。
「なぜ皆、俺を見ている?」
「今日のことが広まったのでは?」
「早すぎないか?」
「王立学園ですもの」
「それは理由になるのか?」
「なるわ」
お嬢様は楽しそうだ。
俺は嫌な予感しかしない。
朝。
校門をくぐった時。
確かに思った。
できれば。
平穏な学園生活を送りたい、と。
だが。
剣術の模擬戦。
王族たち。
ライゼル様の暴走。
学園長室への呼び出し。
そして今。
廊下中から集まる視線。
ここまで来ると。
少しくらい認めた方がいいのかもしれない。
俺の望んでいた平穏な学園生活は。
編入初日にして。
かなり遠い場所へ行ってしまったらしい。
そして。
翌朝。
その予想すら甘かったことを、俺は知ることになる。
『編入初日に学年最強候補を剣で倒し、五属性魔法を使い、魔法師団長の息子を膝蹴り一発で沈めた平民執事』
誰が言い始めたのか分からない。
妙に長く。
しかも余計な部分だけ正確なその噂が。
俺の知らないところで。
王立学園中へ、完全に広がり始めていた。




