第77話 別々の放課後、そのあとで
翌朝、学園へ向かう馬車の中で、リビアは膝の上に置いた鞄を一度だけ開き、中に入っている紙束を確認していた。
昨日、マリエッタ先輩から委員会の開始時刻が少し早くなったと聞いている。実人数で行った雨天時の導線確認では大きな問題こそなかったものの、札を確認する生徒が一か所へ集まりやすく、その修正案を見る予定らしい。
「忘れ物?」
「ううん。昨日の記録をもう一度見ようと思って入れたんだけど、ちゃんと持ってきたか気になって」
「入ってた?」
「うん。セスは今日、放課後どうするか決めた?」
「まだ」
昨日の夜にも同じことを話したが、朝になっても予定は決めていなかった。
図書館へ行ってもいいし、授業が終わった時点でそのまま帰りたければ帰ればいい。剣を振りたくなったとしても、今日は約束した練習日ではないのだから、わざわざ放課後の予定へ組み込む必要もなかった。
「本当に決めてないんだ」
「そんなに珍しい?」
「少しだけ」
リビアは笑いながら鞄を閉じる。
「じゃあ、帰ったら何してたか教えてね」
「リビアも委員会のこと教えて」
「もちろん」
そこで会話が途切れた。
馬車の車輪が石畳を踏む一定の音を聞きながら、俺は窓の外へ視線を向ける。朝の王都には薄い雲がかかっていたが、雨が降るような暗さではない。風は昨日より弱く、道沿いの木々から落ちた葉が、路肩に細長く集まっていた。
今日の放課後は別々に過ごす。
それを寂しいとは思わない。
夜にはまた屋敷で会えると知っているから、むしろそれぞれが何をしていたのか話す時間が少し楽しみだった。
◇
学園へ到着して教室へ入ると、ディーンはすでに席にいた。
俺の姿を見つけた途端、昨日までとは少し違う緊張した顔で近づいてくる。
「クルセス、昨日の話って聞けたか?」
「うん」
「どうだった?」
「旦那様は、学園の友達を私的に招くこと自体は問題ないって。ただ、人数と候補日を決めてから改めて確認することになった」
ディーンの肩から、目に見えて力が抜けた。
「じゃあ、行ってもいい可能性はあるんだな」
「あるよ。俺も来てほしいし」
「そうか」
安心したらしいディーンの横から、イザークが顔を出す。
「俺も行っていいんだよな?」
「人数もまだ決めてないって言ったばかりなんだけど」
「昨日行ったやつは入るだろ」
「どうだろう。ナナリーとミリアナも行きたいって言ってたし」
「なら全員呼べばいいじゃないか」
「屋敷側に確認してからだよ」
俺が答えると、イザークは不満そうにするのではなく、意外なほど素直に頷いた。
「じゃあ先に日を決めるのか?」
「候補を相談して、それからかな。みんなの家の予定もあるでしょ」
「俺はだいたい空いてる」
「それ、家に確認してから言った方がいいよ」
「……そうだな」
昨日までの俺なら、イザークの返事を聞いて少し笑うだけだったかもしれない。
今は、自分も同じことをしないように気をつける。
俺個人として来てほしいと思うことと、公爵邸へ招待出来る日を決めることは別だ。
「急がなくていいよ。昨日行ったばかりだし」
俺が言うと、ディーンも頷いた。
「それもそうだな。うちの母上なんて、次は何を出したらいいかって昨日の夜から考えてたから、あんまりすぐ次を決めると本当に準備を始めそうだ」
「クラリッサ様ならやりそう」
「だろ?」
昨日のロズベル子爵邸で、クラリッサ様が客を迎えるためにいろいろ準備していた姿を思い出す。
楽しかった。
だから次もやりたい。
でも、次を今日決めなければならない理由はない。
「候補日、何日か考えてからにしよう」
「分かった」
話がまとまったところで、リビアたちも教室へ入ってきた。
ディーンが同じ説明をすると、リビアも「それなら、まずみんなの都合を聞こう」と答えた。ナナリーとミリアナにも後で話してみることになったが、その場で日程表を作り始める者はいなかった。
それくらいの速さが、今はちょうどいい気がした。
◇
午前の授業は、交流演習とは関係のない歴史と法制度だった。
昨日説明を受けたばかりだから、教室のあちこちで交流演習の話が続くかと思っていたが、授業が始まれば皆それぞれ目の前の課題へ集中する。
俺も同じだった。
午前最後の授業では、領地間を移動する商人に対して複数の領が異なる通行規則を設けていた時代の事例を扱った。
教師が黒板へ三つの領地名を書き、それぞれの制度がどう違ったかを説明していく。
「この時期、北側二領では商業馬車へ積載量に応じた通行税を課していました。一方、南側の領では積載量ではなく車軸数を基準としていたため、同じ荷物を運ぶ場合でも経路によって費用が変化します」
俺は教科書の図を追いながら、ふと古い魔導具の資料を思い出した。
地域が違えば、同じものでも呼び方や扱いが変わる。
ベルナルト先生と調べている淡灰晶や淡晶板も、そうした地域差や工房ごとの違いが混ざっている可能性がある。
けれど、それは今の授業で確認出来る話ではない。
俺は思いついたことだけをノートの端へ短く残し、教師の説明へ意識を戻した。
(あとでベルナルト先生に聞ける時があれば聞こう)
今すぐ第三資料室へ行く必要はない。
資料を見なければ何も確かめられないし、先生から次の調査日程もまだ聞いていない。
そうやって一度脇へ置くと、授業の内容へ集中するのは難しくなかった。
◇
昼休み、食堂へ向かう途中でリビアが俺のノートを見た。
「端に何か書いてたでしょう?」
「見てたの?」
「席近いから少しだけ。研究?」
「授業で地域ごとに制度が違うって話が出たから、淡灰晶の呼び方も似たようなことあるのかなって思っただけ」
「調べに行く?」
「今日は行かないよ。ベルナルト先生との予定もないし」
「そっか」
リビアはそれ以上何も言わなかった。
食堂へ着くと、いつもの席ではすでにイザークとサザリーが話していた。内容は昨日説明された交流演習ではなく、午前の歴史授業についてだった。
「車軸で税を取るなら、車輪を増やしたら損するってことだろ?」
「基本的にはそうだけれど、当時の道路状態や荷重制限も考えないと単純ではないよ」
サザリーが答えている。
「だったら馬車を大きくすればいい」
「大きくすれば通れない道も増える」
「面倒だな」
「だから商人は経路を考えるんだよ」
俺たちが席へ着くと、イザークがこちらを見る。
「クルセスならどうする?」
「何を?」
「税が違う領地を通って荷物運ぶなら」
「荷物の種類と量と目的地が分からないと決められないよ」
「お前とサザリー、そういうところ似てるよな」
「何で?」
「すぐ条件聞くところ」
サザリーが苦笑する。
「条件なしで答えを出す方が難しいと思うけれどね」
そこでディーンとナナリー、ミリアナも合流した。
全員が席へ着いてから、ディーンが朝の話を二人へ伝える。
「パウリー家の方は、候補日と人数を決めてから改めて確認だって」
「じゃあ本当に行けるかもしれないんだ」
ナナリーが嬉しそうに言う。
ミリアナは少し考えてから、リビアへ視線を向けた。
「服って、普通でいいの?」
「普通でいいよ」
「オリビアの普通は信用出来ない」
「ディーン君にも似たようなこと言われたんだけど」
「だって公爵家でしょう?」
「遊びに来るのに夜会の服で来られても困るよ」
「それは分かるけど……」
ミリアナはまだ不安そうだった。
俺は昨日グレイヴに言われたことを思い出す。
「たぶん、私的な訪問用の服で大丈夫だと思う。正式に決まったら、その辺も確認して伝えるよ」
「助かる」
「お土産は?」
ナナリーが尋ねる。
「それもまだ決まってないから、今は考えなくていいんじゃない?」
「クルセスがそう言うなら待つ」
「何で俺が基準なの?」
「住んでる人だから」
「それはそうか」
食卓に小さな笑いが広がる。
俺は自分の皿へ視線を戻した。
公爵邸へ友達を招く。
少し前の俺なら、その言葉だけで使用人側の準備を先に考えていたかもしれない。
今も、屋敷の人たちへ負担がかかることは考える。
だからこそ勝手には決めない。
でも、準備そのものを俺が引き受ける必要はない。
俺は招く側の一人として、来てほしい相手と相談すればいい。
◇
午後の授業が終わる頃には、朝から空を覆っていた薄い雲が少しずつ切れ始めていた。
窓から差し込む光が机の上を斜めに照らす。
教師が教室を出ると、生徒たちは帰宅や委員会、部活動に向けて動き始めた。
リビアは普段より早く鞄をまとめる。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。頑張って」
「セスも、好きに過ごしてね」
「分かった」
一緒に教室を出たものの、階段を下りたところで進む方向が分かれた。
リビアはマリエッタ先輩たちと合流するため、第二予備教室のある方へ向かう。
俺はその後ろ姿を少しだけ見送った。
待つ必要はない。
手伝う必要もない。
委員会で何をするかも聞いているから、不安になる理由もない。
(さて、どうしようかな)
昨日の夜に決めなかった放課後が、本当にそのまま目の前へ来た。
図書館へ行く。
帰る。
友達が残っていれば話す。
どれでもいい。
俺は昇降口へ向かう廊下を歩き始めた。
◇
「クルセス?」
途中で名前を呼ばれ、足を止める。
振り返ると、サザリーが数冊の本を抱えていた。
「帰るところ?」
「まだ決めてない。サザリーは?」
「図書館へ返却に行くところだよ。その後は帰るつもりだけれど」
「じゃあ一緒に行っていい?」
「もちろん」
結果として、俺の放課後は図書館へ行くことになった。
何かを調べようと決めていたわけではない。
サザリーと話しながら歩いた先に図書館があったから、そのまま行く。
そういう決まり方も悪くない。
「研究の本を探すの?」
廊下を歩きながらサザリーが聞く。
「今日はそのつもりないよ。何か面白そうなのがあれば借りる」
「珍しいね」
「リビアにも言われた」
「予定を決めていないことが?」
「うん」
サザリーは少し笑った。
「君は以前から柔軟に対応出来る人だったけれど、空白そのものを残すのは得意ではなかったからね」
「そんなに?」
「僕から見るとね。何も予定がないなら、その時間で出来ることを探していた印象がある」
言われてみれば、その通りかもしれない。
空いている時間があれば剣を振る。
魔術を練習する。
執事の仕事を手伝う。
勉強する。
リビアの予定を確認する。
何もしないままにしておく方が落ち着かなかった。
「今日は、サザリーに会ったから図書館に来た」
「それでいいんじゃないかな」
「うん。俺もそう思う」
図書館へ着くと、扉を開けた瞬間に紙と革表紙の匂いがした。
午後の光が高い窓から差し込み、書架の間へ細長い明るさを作っている。授業直後だからか利用者はまだ少なく、受付の近くでは司書が返却された本を分類していた。
サザリーが返却手続きをしている間、俺は入口近くの新着棚を見る。
研究書。
歴史書。
地理書。
物語。
旅行記もある。
以前なら研究書の背表紙から見ていた気がする。
今日は特に目的がないので、端から順番に眺めていった。
◇
一冊の薄い本が目に留まった。
題名は『王都職人街の小さな工房』。
魔導具の専門書ではなく、王都で働く職人たちの暮らしを紹介した読み物らしい。
手に取って目次を見ると、鍛冶、革細工、時計、家具、菓子型、馬具など、さまざまな工房について書かれている。
「それにするの?」
返却を終えたサザリーが隣へ来た。
「まだ分からない。面白そうだなと思って」
「魔導具ではないんだね」
「うん。普通の職人の話みたい」
適当に開いたページには、家具職人の工房で弟子が木材の乾燥具合を見分ける話が載っていた。
専門的な研究に使う本ではない。
授業にも直接関係ない。
でも、少し読みたい。
「借りようかな」
「いいと思うよ」
サザリーも別の棚を見始める。
俺は本を持ったまま、もう少し書架の間を歩いた。
途中、魔術史の棚が目に入る。
淡灰晶。
流量見。
前二刻、後三刻。
気になる言葉はいくつもある。
けれど、今日はベルナルト先生との調査日ではない。
俺一人で資料を広げても、今まで先生と分けて整理してきた「分かっていること」と「まだ分からないこと」を混ぜる可能性がある。
足を止めはしたものの、棚から本は抜かなかった。
「今日はこっちでいいや」
手元の職人街の本を見る。
調べたいものがあることと、毎回それを調べることは同じではない。
受付で貸出手続きを済ませると、サザリーも一冊借りていた。
「何借りたの?」
「南部の河川輸送についての本だよ」
「授業の影響?」
「少しね。車軸税の話を聞いて、陸路以外の輸送費が気になった」
「やっぱり調べるんだ」
「君に言われたくないな」
二人で笑った。
◇
図書館を出たところで、サザリーとは別れた。
彼は迎えの馬車が来る正門へ向かい、俺は少しだけ遠回りして校舎の外周を歩くことにした。
急いで帰る必要はない。
だからといってリビアの委員会が終わるまで待つつもりもない。
中庭側へ近づくと、第二予備教室へ続く廊下が遠くに見えた。
窓越しに何人かの生徒が動いているのが分かる。
誰が誰かまでは見えない。
俺はそこで足を止めなかった。
(今頃、配置を試してるのかな)
それだけ考え、正門へ向かう。
迎えの馬車へ乗り込む頃には、空の雲がかなり薄くなっていた。
リビアはまだ学園にいる。
俺は先に帰る。
それでいい。
◇
一方、第二予備教室では、オリビアが床へ置かれた目印の位置を見ながら腕を組んでいた。
実人数に近い規模で行った確認では、中庭側から校舎側へ一方向に流す方式そのものに大きな問題は出なかった。
四つの色と大きな番号を組み合わせた札も、遠くから見分けやすい。
しかし、第二予備教室へ入る直前になると、自分の札をもう一度確認しようとする生徒が足を緩め、その後ろに人が集まりやすかった。
「入口のすぐ前で確認させない方がいいと思います」
オリビアが言うと、マリエッタは手元の記録へ視線を落とした。
「私もそう思うわ。確認場所を前へずらす?」
「はい。廊下の途中に色と番号の対応表を一枚増やせば、入口まで来てから迷う人は減ると思います。ただ、掲示を見るためにそこで止まる人が増える可能性もあります」
「なら壁際へ寄せる?」
「それなら通路を塞ぎにくいです」
委員の一人が床の目印を動かす。
別の生徒が廊下へ出て、実際にどこから掲示が見えるかを確認した。
オリビアも入口から数歩離れ、視線の高さを変えながら位置を見る。
「ここだと、前の人で隠れますね」
「もう少し高くする?」
「高すぎると番号が見にくくなる人もいるかもしれません。まず少しだけ上げて試しませんか?」
「そうしましょう」
誰か一人の案だけで決めるのではなく、実際に動いて確かめる。
最初に考えた配置がそのまま残らなくても構わない。
問題が見つかったなら直せばいい。
オリビアは廊下を歩く生徒たちを見ながら、ふと昼間のセスを思い出した。
交流演習の説明を聞いていた彼は、条件が途中で変わると知った時、明らかに楽しそうだった。
(セス、こういうの本当に好きなのね)
状況を見て考え、必要ならやり方を変える。
今の委員会でしていることも、少し似ている気がした。
ただし、セスならどうするかを考えて答えを決めるつもりはない。
これは自分たちの委員会の仕事だ。
「オリビア様、この位置ならどうでしょう?」
呼ばれ、意識を戻す。
「今、そちらから見ます」
オリビアは掲示から距離を取り、実際に生徒が歩いてくる方向へ回った。
色は見える。
番号も読める。
入口前で立ち止まらなくても、自分がどこへ向かうべきか確認出来そうだ。
「さっきよりいいと思います。でも、人数を入れた状態でもう一度見たいです」
「今日はそこまでやる?」
マリエッタが尋ねる。
オリビアは窓の外を見た。
日が傾き始めている。
「今日は配置を決めるところまでにして、次に少人数で確認するのはどうでしょう。今から全員集め直すと遅くなります」
「賛成。確認したいからって、予定を伸ばし続けるのも違うものね」
マリエッタが記録用紙へ書き込む。
その言葉を聞き、オリビアは少しだけ笑った。
以前のセスなら、必要だと思えば時間を延ばしてでも確認したがったかもしれない。
けれど今なら、次に回せるものは次に回すだろう。
(私も同じね。今日全部終わらせなくていい)
作業を終える時刻までに、修正案をまとめる。
次の確認は次の機会にする。
それで十分だった。
◇
委員会が終わった頃には、窓の外は夕暮れに近づいていた。
オリビアは資料を鞄へしまい、マリエッタたちへ挨拶して第二予備教室を出る。
廊下には、もうセスはいない。
分かっていたことだった。
それでも、以前なら彼が待っている姿を探していたかもしれない場所へ、一度だけ自然に目が向いた。
誰もいない廊下を見て、寂しさより先に別の感情が浮かぶ。
(今頃、何してるのかな)
帰ったら聞ける。
そう思うと、足取りが少し軽くなった。
◇
俺が屋敷へ戻った後、借りてきた本を読み始めてしばらく経った頃だった。
『王都職人街の小さな工房』は思った以上に面白い。
家具職人の章を読み終え、今は菓子型を作る金属職人の話へ入っている。
同じ形の型を大量に作る場合でも、菓子職人によって求める深さや縁の厚みが違うらしい。完成品だけ見れば小さな違いでも、焼き上がりには差が出ると書かれていた。
(こういう仕事もあるんだな)
魔導具とは関係ない。
剣とも関係ない。
でも、知らなかったことを知るのは面白い。
ページをめくったところで、廊下から足音が聞こえた。
少しして扉がノックされる。
「セス、いる?」
「いるよ」
返事をすると、リビアが扉を開けた。
制服から着替えているが、髪はまだ学園から帰った時の形に近い。
「おかえり」
「ただいま」
俺は本へ栞を挟み、隣の場所を空ける。
リビアはそこへ座ると、俺の手元を見た。
「図書館行ったんだ?」
「うん。サザリーに会ったから一緒に行った」
「何借りたの?」
「職人街の本。魔導具じゃなくて、家具とか馬具とか菓子の型とか作ってる人の話」
「面白い?」
「面白いよ。菓子型でも作る相手によって深さ変えるんだって」
「へえ」
リビアは本の表紙を覗き込む。
「セスがそれ選ぶとは思わなかった」
「俺も図書館入るまで知らなかった」
「そういうの、いいね」
「リビアはどうだった?」
尋ねると、彼女は待っていましたと言わんばかりに鞄から紙を取り出した。
「入口前で人が詰まりやすかった理由、やっぱり札を見直す人が多かったからみたい。それで、入口より前に確認用の掲示を増やす案になったの」
机へ紙を広げ、廊下と第二予備教室の簡単な配置図を指す。
「最初はここに置こうとしたんだけど、歩いてる人で隠れやすかったから、少し壁側に寄せて高さも変えたの。今日は配置案までで終わって、次に少人数で確認する予定」
「実人数でもう一回やらなかったんだ?」
「時間が遅くなるからやめた」
「そっか」
「今日全部やらなくてもいいでしょう?」
「うん」
俺は素直に頷く。
「それで問題出たら、また直す?」
「そのつもり。色と番号の札自体は今のところ大きな問題ないから、そこは残すと思う」
「一方向にするのも?」
「中庭側から校舎側へ流す形は、今のところ維持する予定。でも、まだ最終決定ではないよ」
「分かった」
俺が頷くと、リビアは少し笑った。
「聞くだけ?」
「何か手伝ってほしい?」
「ううん」
「じゃあ聞く」
「そうして」
俺たちは配置図を見ながら、もう少し委員会の話をした。
俺が思いついたことを勝手に提案するのではなく、リビアが今日何をしたのかを聞く。
彼女も、俺に答えを求めているわけではない。
ただ話したいのだと思う。
それが分かるから、俺も面白かったところや困ったところを聞いた。
◇
「そういえば」
委員会の話が一段落したところで、俺は昼間の授業を思い出した。
「今日の歴史で地域ごとの制度差やったでしょ?」
「うん」
「あれ聞いて、淡灰晶とか淡晶板も地域で呼び方違う可能性あるのかなって思った」
リビアの表情が少しだけ研究の時のものへ変わる。
「ベルナルト先生には?」
「まだ。思っただけだから、ノートに書いただけ」
「調べなかったの?」
「うん。今日は予定なかったし、俺一人で資料見て同じものだって思い込んだら困るから」
「そっか」
リビアは納得したように頷く。
「私の方も、古い結界資料との言葉の比較はまだ先生に確認してる途中。勝手に一緒にはしないよ」
「うん」
「でも、地域で同じような技術の呼び方が変わること自体はありそうだね」
「ありそう。でも、それだけで同じ素材とは言えない」
「分かってる」
二人で顔を見合わせる。
そこから先は進めなかった。
今あるのは、気づいたことだけだ。
ベルナルト先生と次に資料を見る時、確認すればいい。
◇
夕食までには少し時間があった。
リビアは持ってきた委員会資料を片づけ、俺の隣へ座り直す。
「セス」
「ん?」
「今日、待ってなくて平気だった?」
「平気だったよ。サザリーと図書館行って、本借りて帰ってきた」
「私も平気だった」
「うん」
「でも、終わった時に廊下見ちゃった」
「俺いると思った?」
「思ってないよ。いないって分かってたけど、いつも待ってくれてた場所だったから見ただけ」
リビアは少し恥ずかしそうに笑う。
「それで、いなかったから嫌だった?」
「全然。帰ったら会えるって思った」
俺は彼女の言葉を聞きながら、胸の奥がゆっくり温かくなるのを感じた。
ずっと隣にいなければ大切に出来ないわけではない。
離れている時間があるから、戻ってきた時に話せることも増える。
「俺も、委員会の近く通ったよ」
「え?」
「帰る時に外周を歩いたら、第二予備教室の方が見えた。でも、そのまま帰った」
「中に来ようと思わなかった?」
「思わなかったよ。リビアの委員会だし」
「……そっか」
リビアは嬉しそうだった。
待っていなかったことを喜ばれるというのは、昔の俺なら少し不思議に感じたかもしれない。
今は分かる。
俺が自分の時間を過ごすことを、リビアは喜んでくれる。
俺も、彼女が自分の場所で過ごしていることを嬉しいと思える。
「でも、帰ってきたら会いたかった」
俺が言うと、リビアの頬が少し赤くなった。
「私も」
彼女の手が長椅子の上を少しだけ動く。
俺はその動きを見て、自分の手を重ねた。
指を絡めるほど強く握るのではなく、手のひらを合わせる。
リビアも軽く握り返してきた。
◇
そのまましばらく座っていた。
暖炉の火が小さく揺れ、窓の外はもう暗い。
昨日のようにキスをしたいかと考えなかったわけではない。
けれど、今は手を繋いで話しているだけで心地よかった。
「明日、ディーン君に候補日考えようって言う?」
「うん。ナナリーたちにも家の予定確認してもらおうかな」
「私も確認する。公爵家の予定は私だけじゃ決められないし」
「俺もグレイヴに聞くよ」
「今度はセスの家でもあるんだから、セスも招く側だね」
その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。
パウリー公爵邸。
俺が執事として働いてきた場所。
リビアの家。
旦那様の家。
そして今は、俺が暮らしている家でもある。
(俺の家、か)
以前なら、その言い方に戸惑ったと思う。
自分は使用人側だから、と訂正したかもしれない。
今も屋敷の主人が俺だと思っているわけではないし、公爵家のことを勝手に決められるとも思っていない。
それでも、ここは帰ってくる場所だ。
「うん」
俺はリビアの手を握ったまま答えた。
「俺も招く側なんだと思う」
言葉にすると、少しだけ照れくさかった。
けれど、不自然ではなかった。
リビアは何も大げさなことを言わず、ただ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、みんなに楽しんでもらいたいね」
「うん。でも準備は屋敷の人と相談してやる」
「自分で全部やらない?」
「やらないよ」
「お菓子作り始めたりしない?」
「何で?」
「セスなら出来そうだから」
「出来るかもしれないけど、招待決まってもないのに作らないよ」
「よかった」
「信用ないなあ」
笑いながら返すと、リビアも声を立てて笑った。
◇
夕食後は、俺たちはそれぞれの部屋へ戻った。
今日は小居間で一緒に本を読むこともしない。
昼間は別々。
帰宅後は一緒。
夜はまた別々。
それでも一日を通して、離れていたような感じはしなかった。
自室へ戻った俺は、机の上へ借りてきた本を置く。
その横には、授業用のノートがある。
端へ書いた小さなメモが目に入った。
『地域差――素材名・工房名・制度名も同様か? ベルナルト先生へ確認』
今夜調べるつもりはない。
次に先生と研究する機会が来た時に聞けばいい。
俺はノートを閉じ、『王都職人街の小さな工房』を開いた。
次は馬具職人の章だった。
馬によって身体の大きさも癖も違うため、同じ型をそのまま使うのではなく細かな調整が必要になるらしい。
読み進めているうちに、今日の委員会について話していたリビアの顔を思い出した。
入口前で人が詰まったから、掲示の位置を変える。
今日中に全部確かめず、次へ残す。
最初に決めたものを守るためではなく、実際に使う人が困らないように変えていく。
(リビアも、自分の場所でちゃんとやってるんだよな)
当然のことなのに、以前の俺は彼女のそばにいることばかり考えて、その当然を十分に見ていなかったのかもしれない。
守りたい人。
好きな人。
婚約者。
それだけではない。
リビアには俺がいない時間があり、そこで自分の考えを持ち、自分で誰かと話し、自分の仕事を進めている。
俺にも同じように、彼女がいない時間がある。
その二つが夜になればまた交わる。
俺はページを一枚めくった。
明日になれば、ディーンたちと次の集まりについて話すかもしれない。
交流演習の班分けはまだ分からない。
ベルナルト先生との次の調査日も決まっていない。
実技確認も少し先だ。
分からない予定を無理に埋める必要はなかった。
今夜はただ、読みたいと思って借りてきた本を読む。
それで一日を終えていい。
窓の外で風が木々を揺らし、かすかな葉擦れの音が聞こえた。
俺はその音を聞きながら、次のページへ視線を落とした。




