第75話 友人の家へ行くということ
ディーンの家へ遊びに行く日の朝、俺は鏡の前で自分の服を見下ろしていた。
学園の制服ではない。
かといって、夜会や正式な訪問で着るような礼装でもない。濃紺を基調にした上着へ白いシャツを合わせた、きちんとしてはいるものの動きやすい服だ。
昨夜、グレイヴから「友人宅を訪問する十五歳の少年として自然な服装です」と説明された。
それでも鏡の前に立つと、本当にこれでいいのか少し気になる。
(友達の家へ遊びに行くだけなんだよな)
俺は自分へ言い聞かせるように考えた。
今日向かうのは、ロズベル子爵家の王都邸。
ディーンから招待された小さな昼食会で、参加するのは俺とリビアのほか、イザークとサザリーだと聞いている。
学園で一緒に昼食を食べる顔ぶれと、それほど変わらない。
ただし、場所が友人の家になる。
それだけのはずなのに、俺には少し特別だった。
これまでパウリー公爵家以外の貴族邸へ入ったことがないわけではない。執事見習いとして同行した経験もあれば、用事を届けたこともある。
けれど、それらは仕事だった。
今日は違う。
俺は使用人として行くわけでも、シルフィール伯爵家の名代として行くわけでもない。
ディーンの友人として招かれている。
(……本当に何もしなくていいのかな)
ついそんな考えが浮かぶ。
訪問先へ着いたら外套を預ける。
案内されたら従う。
食事の席では礼儀を守る。
必要なら挨拶をする。
そこまでは分かる。
問題は、その先だ。
主人より先に周囲を見る必要はない。
飲み物が減った相手を確認して使用人へ知らせる必要もない。
食器の配置を気にする必要もない。
客として座っていればいい。
分かっているのに、身体へ染みついたものは簡単には消えない。
そんなことを考えていると、扉が叩かれた。
「セス、準備出来た?」
「出来てるよ」
返事をすると、扉が開く。
入ってきたリビアを見て、俺は一瞬言葉を忘れた。
淡い水色のドレス。
正式な社交用ほど華やかではなく、裾も動きやすそうな長さに整えられている。銀青色の髪も複雑に結い上げてはおらず、後ろ側だけをまとめ、残りは柔らかく肩へ流していた。
装飾品も控えめだ。
それでも、普段の制服姿とは違う。
「……セス?」
「あ、ごめん」
「どうしたの?」
「似合ってる」
考えるより先に言葉が出た。
リビアの頬が少し赤くなる。
「ありがとう」
「すごく似合ってる」
「二回言った」
「本当に思ったから」
「……もう」
リビアは困ったように笑いながら、自分の髪へ触れた。
「侍女と相談して、あんまり正式にならないようにしたの。ディーン君のお母様が緊張するかもしれないから」
「でも公爵令嬢には見える」
「それはどうしようもないよ」
「確かに」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
リビアが今度は俺の服を見る。
「セスも似合ってる」
「グレイヴが選んでくれた」
「セスは?」
「これでいいと思う」
「自分で選んだところは?」
「シャツ」
「本当に?」
「二つ出されて、こっちにした」
「じゃあちゃんと自分で選んでるね」
「それでいいの?」
「いいと思う」
どうやらいいらしい。
◇
朝食後、玄関へ向かうとグレイヴが待っていた。
俺とリビアの姿を順番に確認し、特に直すところがないと判断したのか、小さく頷く。
「馬車の準備は整っております」
「ありがとう、グレイヴ」
リビアが答える。
俺も礼を言おうとしたところで、グレイヴが俺を見る。
「セス」
「何?」
「本日はロズベル子爵家の使用人として働く必要はございません」
「……まだ何も言ってないけど」
「顔に出ております」
リビアが隣で笑いを堪えた。
「そんなに?」
「少々」
「少々なんだ」
「少なくとも私には分かります」
長く一緒に暮らしている義父にそう言われてしまえば、否定しにくい。
「分かってるよ。今日は客だから」
「はい。ですが、理解と習慣は別でございます」
「それも分かってる」
「もし何か手伝いたくなりましたら、まずは一度座ったまま考えてください」
「座ったまま?」
「立ち上がってから考えますと、そのまま働く可能性がございますので」
「……気をつけます」
リビアがとうとう吹き出した。
「セスなら本当にやりそう」
「やらないよ」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
グレイヴまでわずかに口元を緩めている。
「それから、昨日もお伝えしましたが、手土産については家同士の正式な贈答とは別に処理しております。セスが個人で何かを持参する必要はございません」
「うん」
「ロズベル子爵家側にも、本日は若い方々の私的な交流を主とする訪問である旨が共有されております」
「分かった」
「お嬢様も、必要以上に公爵家を代表するようなお振る舞いをなさる必要はございません」
「はい」
リビアも素直に頷く。
グレイヴはそこで説明を終えた。
「では、お楽しみください」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
注意でも、勉強でもない。
楽しんでこいと言われた。
「行ってきます」
「行ってまいります」
俺たちは屋敷を出た。
◇
ロズベル子爵家の王都邸は、パウリー公爵邸から馬車でそれほど遠くない場所にあった。
王都中心部の貴族街でも、公爵家や侯爵家の大邸宅が並ぶ一角からは少し離れている。通り沿いには同じ程度の規模の屋敷が並び、どの家も庭や門を持っているものの、パウリー公爵邸ほど広くはない。
馬車の窓から外を見ていたリビアが、小さく息を吐いた。
「ちょっと緊張してきた」
「リビアも?」
「するよ。友達の家に遊びに行くの、あんまりないから」
「俺も」
「セスは違う意味でも緊張してそう」
「働かないようにする」
「そこなんだ」
リビアが笑う。
やがて馬車が速度を落とした。
門の向こうに見える屋敷は、淡い灰色の石造りで二階建てだった。正面玄関までの道の両側には冬でも緑を残す低木が整えられ、建物の規模に対して庭が少し広めに取られている。
「綺麗な家だね」
「うん」
馬車が玄関前で止まる。
御者が扉を開けてくれた。
先に俺が降り、続いてリビアが降りる。
その瞬間、玄関扉が開いた。
「来た!」
最初に出てきたのはディーンだった。
学園で見る制服ではなく、茶色の上着を着ている。後ろから使用人らしい男性が一人ついてきたが、ディーン自身は普段とほとんど変わらない表情だった。
「ようこそ、二人とも」
「今日はありがとう」
「お招きありがとうございます」
俺とリビアがそれぞれ挨拶する。
「そんな固くしなくて大丈夫ですって」
ディーンはリビアへ言った後、俺を見る。
「クルセスも。今日は本当に遊ぶだけだからな」
「分かってる」
「その顔は分かってないだろ」
「グレイヴにも同じこと言われた」
「やっぱり」
いきなり笑われた。
でも、そのおかげで少し緊張が抜けた。
「イザークとサザリーは?」
「もう来てる。イザークが庭見て『剣振れそう』とか言い出したから止めたところ」
「振らないの?」
「お前まで乗るなよ」
「冗談」
「顔がちょっと本気だったぞ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは屋敷へ入った。
◇
玄関広間は明るく、壁には風景画が数枚飾られていた。
外套を預ける。
そこで俺の手が一瞬、リビアの外套へ伸びそうになった。
けれど、すぐ近くにロズベル家の侍女がいる。
(今日は俺の仕事じゃない)
俺は手を下ろした。
侍女が自然な動きでリビアの外套を受け取る。
何も問題は起きない。
当然だ。
「今、手出しかけた?」
ディーンが小声で聞いてくる。
「出してない」
「途中まで動いたよな?」
「止めたから出してない」
「なるほど」
妙に納得した顔をされた。
リビアは何も言わず、俺の袖を軽くつまんだ。
見れば、笑っている。
「何?」
「ちゃんと座る前に止まれたね」
「まだ座ってないけど」
「じゃあグレイヴに報告しないと」
「しなくていいよ」
案内されたのは、玄関から近い小さな応接室だった。
そこにはすでにイザークとサザリーがいる。
「遅いぞ」
「時間ちょうどだよ」
「俺たちが早かっただけだね」
サザリーが苦笑する。
テーブルの上には軽い飲み物と小さな焼き菓子が用意されていた。
俺たちが座ったところで、ディーンが少し姿勢を正す。
「その前に、父と母が挨拶したいって」
「もちろん」
リビアが答える。
俺も頷いた。
しばらくすると扉が開き、男女が入ってきた。
ディーンと同じ栗色の髪を持つ男性と、柔らかな茶色の髪をまとめた女性だ。
「父上、母上」
ディーンが立つ。
俺たちもそれに合わせて立ち上がった。
「父のエドガー・ロズベルと、母のクラリッサです」
ロズベル子爵は落ち着いた表情で俺たちを見る。
「ようこそ。ディーンの父、エドガー・ロズベルです。本日は息子の招待に応じてくださり、ありがとうございます」
「こちらこそ、お招きありがとうございます」
リビアが公爵令嬢として整った礼を返す。
ただし、夜会で見るような硬いものではない。
「オリビア・パウリーです。今日はディーン君のお友達として伺いました」
その一言で、クラリッサ夫人の肩からわずかに力が抜けたのが見えた。
「ありがとうございます。どうぞ、今日はごゆっくりお過ごしください」
俺も続けて挨拶する。
「クルセス・シルフィールです。本日はありがとうございます」
「君のことも息子から聞いているよ」
子爵が言う。
「何て聞いてます?」
「ディーン」
「俺を見るなよ!」
ディーンが慌てる。
子爵が少し笑った。
「学園で出来た友人の一人だと。剣も魔術も優秀だが、本人はあまりそれを普通と区別していないとも聞いている」
「ディーン?」
「だって事実だろ!」
「余計なところまで話してるな」
「父上が学園どうだって聞くから!」
いつもの学園と変わらない会話になった。
子爵夫妻もそれを止めない。
むしろクラリッサ夫人は楽しそうに息子を見ている。
「ディーンが学校の話をこれほどするようになったのは、最近なのですよ」
「母上!」
「よいではありませんか」
夫人が笑う。
「皆様のおかげなのでしょうね」
俺は少し意外に思った。
学園ではディーンは普通に話す。
俺たちの昼食にも混ざる。
だから、以前は家で学校の話をあまりしなかったとは知らなかった。
サザリーもわずかに表情を和らげている。
イザークは完全に面白がっていた。
「ディーン、家だと静かだったのか?」
「お前は黙ってろ」
「今度からもっと話題提供してやるよ」
「いらない」
また笑いが起きる。
ロズベル子爵は俺たちを見渡してから、満足そうに頷いた。
「では、若い者同士で楽しみなさい。昼食には私たちも少しだけ同席するが、その後は邪魔をしないようにしよう」
「ありがとうございます」
俺たちが礼を言う。
子爵夫妻はそれ以上長居せず、部屋を出ていった。
扉が閉まると、ディーンが深く息を吐く。
「終わった……」
「そんなに緊張してたの?」
リビアが聞く。
「俺が一番緊張してました」
「何で招いた側が一番緊張してるんだよ」
イザークが笑う。
「お前らは帰れば終わりだろ。俺はあとで母上から『皆さん楽しんでいたかしら』って聞かれるんだぞ」
「楽しんでたって言えばいいじゃん」
「まだ始まったばっかりだ!」
◇
昼食まで少し時間があるということで、ディーンが庭を案内してくれた。
ロズベル家の庭は広大ではないが、中央に芝生があり、その周囲を低木と花壇が囲んでいる。
冬が近づいているため花は少ないものの、常緑樹が多く、寂しい印象はなかった。
「ほら、ここなら剣振れるだろ」
イザークが芝生を見る。
「振るなって」
「木剣ないの?」
「あるけど出さない」
「クルセス」
「俺を見るなよ」
「一回だけ」
「今日は遊びに来たんだから、別に剣じゃなくてもいいだろ」
俺が答えると、イザークが露骨に驚いた顔をした。
「お前が言うのか」
「何で?」
「剣見たら振りたくなる側だと思ってた」
「振りたいけど」
「振りたいんじゃないか」
「でも今日はそれだけじゃないから」
サザリーが笑う。
「成長したね」
「何の?」
「遊び方の」
「俺、前から遊べるよ」
「それはどうかな」
何故か全員に微妙な顔をされた。
リビアまで笑っている。
「リビアまで?」
「だってセス、昔は一緒に庭へ行っても、途中で私の護衛みたいになってたでしょう?」
「危ないことあったら困るから」
「公爵邸の庭で?」
「転ぶかもしれないし」
「それ」
リビアが俺を指す。
「そういうところ」
否定しようとしたが、昔の自分を思い返してやめた。
確かに、リビアと遊んでいる最中でも周囲を見ていた。
彼女が転びそうならすぐ支えられる位置にいたし、服が汚れそうなら先に気づこうとしていた。
今でも危険があれば動く。
でも、それだけではない。
「今日は普通に遊ぶよ」
「何して?」
「……何するの?」
ディーンを見る。
「そこで俺に聞くのかよ」
「招いたのディーンでしょ」
「庭見た後は、俺の部屋でも行く? 集めてる盤上遊戯がある」
「それやろう」
サザリーがすぐに乗った。
「俺も」
イザークも剣から切り替えたらしい。
俺とリビアも賛成し、庭を一周した後で屋敷へ戻った。
◇
ディーンの部屋は、俺が想像していたより普通だった。
本棚。
机。
長椅子。
壁には学園でも使われている王国地図があり、別の壁には小さな風景画が飾られている。
ただ、棚の一角だけは盤上遊戯の箱で埋まっていた。
「こんなにあるの?」
リビアが驚く。
「父上が好きなんです。それで俺も」
「どれやる?」
「人数多いから、これかな」
ディーンが取り出したのは、領地経営を題材にした遊戯だった。
盤上には小さな町や道、畑、森、川が描かれている。
各自が資源を集め、道や市場を整備し、最後に一番多くの点を得た者が勝つらしい。
「これ、サザリー強そう」
俺が言う。
「まだやってもいないのに?」
「領地のこと考える課題、得意だったし」
「遊戯と実務は違うよ」
サザリーはそう言った。
けれど、始めてみるとやっぱり強かった。
「何でそんなに資材残ってるんだ?」
イザークが自分の駒を見ながら唸る。
「序盤で道を増やしすぎたからじゃないかな」
「道いるだろ」
「必要だけど、維持費もかかるよ」
「そんなところまであるのかよ、この遊び」
「説明聞いてなかったの?」
ディーンが呆れる。
俺は自分の盤を見る。
最初に市場を増やした結果、人は集まったが食料が足りなくなりかけている。
「これ、畑増やさないとまずい?」
「まずいね」
サザリーが答える。
「でも今から畑作ると、次の季節の市場拡張は遅れる」
「じゃあ市場止める」
「早いな」
「食べ物ない方が困るでしょ」
「まあ、それはそうだね」
隣ではリビアが静かに駒を動かしていた。
「リビア、何してるの?」
「川沿いの道を一本だけ作る」
「何で?」
「次の札で雨が来たら、こっちの道が使えなくなるから」
盤の端には、季節ごとの出来事を決める札がある。
「雨来るって分かるの?」
「分からないよ」
「じゃあ来なかったら?」
「その時は普通の道として使う」
俺は自分の盤を見る。
雨対策はしていない。
(これ、リビアも強いな)
数巡後、本当に雨の札が出た。
「うわ!」
イザークの領地で道が一本使えなくなる。
俺も市場へつながる経路が一つ塞がった。
一方、リビアは作っておいた川沿いの道で問題なく動けている。
「ずるくない?」
イザークが言う。
「何が?」
「雨来るの知ってただろ」
「知らないよ」
「絶対委員会で雨のこと考えてるからだ」
「それはあるかも」
リビアが笑う。
俺も笑いながら駒を動かした。
途中から勝つことより、他の人が何を考えているのかを見る方が面白くなっていた。
サザリーは無駄が少ない。
リビアは問題が起きた時に止まりにくい形を作る。
ディーンは大きく稼ぐより、少しずつ確実に点を増やす。
イザークは勢いがすごい。
そして俺は、自分でも驚くほど途中で方針を変えていた。
最初は市場中心。
食料不足が見えたら畑。
雨で道が止まったら別経路。
必要になったら変える。
「クルセス、最初と全然違う領地になってるな」
ディーンが盤を見て言う。
「だめ?」
「いや。これ、途中で計画変えると損することもあるから、俺はあんまりやらない」
「でもこのままだと食料なくなってたし」
「そこはそうなんだけど」
サザリーが俺の盤を見る。
「クルセスは、最初の計画を守ること自体にはあまり執着しないんだね」
「必要なら変えるよ」
「実際の仕事でもそうだったね」
以前一緒に行った領地課題を思い出しているらしい。
俺も頷いた。
「決めたからって、ずっと同じにしなくてもいいでしょ」
「うん。ただ、君は昔よりそれを自分自身にも使うようになった気がする」
その言葉に、俺は少し考えた。
仕事なら昔から変更出来た。
目的を達成するためなら手段を変えることに抵抗はない。
でも、自分自身については違ったのかもしれない。
執事だから。
平民だったから。
リビアを守る側だから。
そう決めたものを、自分のことだけはなかなか変えられなかった。
「……そうかも」
それだけ答え、俺は次の駒を動かした。
◇
昼食の時間になると、俺たちは食堂へ案内された。
ロズベル子爵夫妻も最初だけ同席する。
食卓は正式な晩餐ほど大きくなく、料理も昼食らしい軽めのものだった。
席へ着いた瞬間、俺は無意識にテーブル全体を見た。
食器の位置。
飲み物。
配膳する使用人の動線。
そこでグレイヴの言葉を思い出す。
(座ったまま考える)
俺は動かなかった。
給仕の男性がスープを運んでくる。
何も問題なく俺の前へ置かれる。
隣のリビアを見ると、気づいていたらしく小さく笑っている。
「何?」
「何でもない」
「絶対気づいてたでしょ」
「ちゃんと座ってたね」
「座ってるよ」
向かいのディーンが不思議そうに俺たちを見る。
「何の話?」
「セスが働かない練習」
「そんな練習あるの?」
「今日限定であるらしい」
「リビアまで……」
クラリッサ夫人が口元へ手を添えながら笑った。
「クルセス様は、パウリー公爵家で執事のお仕事もなさっているのでしたね」
「見習いです」
「では、他家で客として過ごすのは落ち着かないでしょう」
「少しだけ」
「お気持ちは分かります。私も実家へ帰ると、つい昔のように台所へ顔を出したくなることがありますから」
「奥様もですか?」
「ええ。結婚前はよく菓子作りをしていましたので」
意外だった。
クラリッサ夫人は穏やかに続ける。
「役割が変わっても、昔からしていたことは身体に残るものなのでしょうね」
俺はその言葉を少し考えた。
「じゃあ、無理に消さなくてもいいんでしょうか」
「私はそう思いますよ。ただ、今どの立場でその場所にいるのかを忘れなければ」
ロズベル子爵が妻を見る。
「それは私にも言っているのか?」
「あなたは休日にも書類を開こうとなさいますから」
「……耳が痛いな」
食卓に笑いが広がる。
俺も笑った。
(消すんじゃなくて、今は使わない)
執事として周囲を見る癖がなくなる必要はない。
今日は客だから、必要がないだけだ。
その違いなら、俺にも分かる。
◇
昼食の後、ロズベル子爵夫妻は席を外した。
俺たちは再びディーンの部屋へ戻り、盤上遊戯の続きを始めた。
最終的に一位になったのはリビアだった。
「何で?」
イザークが本気で納得していない。
「最後に市場二つ繋いだから」
「そんな点入るのかよ!」
「最初に説明しただろ」
ディーンが笑う。
二位がサザリー。
三位がディーン。
俺は四位。
イザークが最下位だった。
「もう一回やろう」
「負けたから?」
「次は勝つ」
「剣じゃないんだから」
「勝負は勝負だろ」
結局、二回目を始める。
今度は最初から雨対策をしようとしたイザークが、逆に資材不足になった。
「何でだ!」
「雨、まだ来てないからじゃない?」
俺が言う。
「さっき来ただろ!」
「毎回来るとは限らないよ」
「来た時困るだろ!」
「だから全部じゃなくて少しだけ準備すれば?」
「……お前、急にこの遊び慣れてない?」
「一回やったから」
そんなやり取りをしているうちに、時間は驚くほど早く過ぎていった。
研究のことも、実技確認のことも、婚約者としての勉強のことも考えなかった。
ただ遊んだ。
負けて笑って、相手の失敗を見て笑って、自分の計画が崩れてまた笑った。
それだけだった。
◇
帰る時間になり、玄関でロズベル子爵夫妻へ挨拶する。
「今日はありがとうございました」
リビアが礼を言う。
「とても楽しかったです」
俺も続ける。
「俺も楽しかったです。また遊びたいです」
口にしてから、少しだけ考えた。
これは俺個人の希望だ。
パウリー家やシルフィール家としての約束ではない。
だから、そのまま言っていい。
ロズベル子爵もその意図を自然に受け取ったらしい。
「そう言ってもらえると、ディーンも喜ぶだろう。また子供たちで都合が合う時に相談するといい」
「はい」
俺はそこで次の日程を約束しなかった。
ディーンが隣から口を挟む。
「次はクルセスの家でもいい?」
一瞬、俺は答えかけた。
でも、ここは俺だけで決めることではない。
「俺は来てほしい。でも、屋敷のことは旦那様たちに確認してから」
「お」
ディーンが少し笑う。
「ちゃんと止まった」
「何で試すんだよ」
「いや、前にそういう話してただろ?」
「俺、ディーンに話したっけ?」
「学園で招待の返事すぐしなかった時に、家に確認するって言ってたから」
「ああ」
その程度なら知っていても不思議ではない。
リビアも横から言う。
「私も来てほしい。でもお父様に聞いてからね」
「分かりました」
ディーンは素直に頷いた。
「じゃあ候補ってことで」
「うん」
確定ではない。
でも、断ったわけでもない。
次に繋がる話として残しておけばいい。
◇
馬車へ乗り、ロズベル邸が見えなくなってから、リビアが俺を見る。
「楽しかった?」
「楽しかった」
即答出来た。
「リビアは?」
「私も」
「盤上遊戯、強すぎ」
「セスも途中から上手だったよ」
「四位だけど」
「順位じゃなくて」
リビアは少し考えてから続ける。
「セス、最初の予定を変えるの、全然嫌がらなかったでしょう?」
「だめになったら変えるしかないから」
「サザリー君が言ってたこと、私も思った」
「自分にも使うようになったって?」
「うん」
馬車の窓から午後の王都が流れていく。
休日の通りは平日より人が多く、商店の前には買い物客が集まっていた。
「俺、自分のことだけは計画変えるの苦手だったのかな」
「計画っていうより……決めつけ?」
「決めつけ?」
「セスは執事だからこうする、平民だったからこうする、私を守るならこうする、って」
責める口調ではない。
俺も否定しなかった。
「そうかも」
「今は?」
「執事なのは変わらないよ」
「うん」
「リビアを守りたいのも変わらない」
「うん」
「でも、それだけじゃない」
今日はディーンの友達だった。
昨日はベルナルト先生と資料を調べる生徒だった。
学園では剣を振る。
魔術も学ぶ。
リビアの婚約者でもある。
「どれか一つだけじゃなくてもいいって、最近思う」
「私もそう思う」
「今日、奥様に言われたのも分かりやすかった。昔からやってたことを消すんじゃなくて、今どの立場でいるかを忘れなければいいって」
「セス、今日はちゃんとお客さんだったよ」
「途中で外套取ろうとしたけど」
「止まったから大丈夫」
「食事の時も一回テーブル見た」
「知ってる」
「全部見られてるな」
「だって隣にいたから」
リビアが笑う。
俺も笑った。
◇
屋敷へ戻ると、グレイヴが玄関で迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、グレイヴ」
「ただいま」
外套を預けたところで、グレイヴが俺を見る。
「いかがでしたか?」
「楽しかった」
「それは何よりです」
「ちゃんと働かなかったよ」
「左様でございますか」
「一回外套取ろうとしたけど止めた」
「食事の時もテーブル見てたよ」
「リビア」
「報告」
グレイヴは笑いを堪えるように少しだけ目元を緩めた。
「十分でございましょう」
「あと、ディーンが今度うちにも来たいって」
俺は続ける。
「俺は来てほしいって答えた。でも屋敷へ招いていいかは旦那様たちに確認してからって言った」
「適切かと存じます」
「リビアも同じ返事した」
「では、旦那様へお伝えしておきましょう。ただし、まだ招待は成立していないという認識でよろしいですね?」
「うん。候補だけ」
「承知しました」
それだけだった。
正解だと大げさに褒められることも、詳しい講義が始まることもない。
普通に確認され、普通に次へ回された。
俺にはそれが心地よかった。
◇
その夜、自室へ戻ってから、俺は机の前へ座った。
いつものように何かを書こうとして、筆記具へ手を伸ばしかける。
今日学んだこと。
友人宅では客として過ごす。
個人的な再訪希望と家としての招待は分ける。
昔の役割を消す必要はなく、現在の立場に応じて使い分ける。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
でも、俺は手を止めた。
(今日は書かなくてもいいか)
忘れたくない重要な研究記録なら残す。
正式な手順なら残す。
でも、友達の家へ遊びに行って楽しかったことまで、学びとして整理しなくてもいい。
俺は筆記具から手を離した。
代わりに椅子へ深く座り、今日のことを思い出す。
ディーンの母親が思ったより話しやすかったこと。
イザークが盤上遊戯でも勝負に本気だったこと。
サザリーがやっぱり強かったこと。
リビアが雨対策をして、本当に雨を引いたこと。
俺が四位だったこと。
全部、記録するほどのことではない。
それでも、楽しかった。
扉が軽く叩かれた。
「セス?」
「どうぞ」
入ってきたのはリビアだった。
「まだ起きてた」
「うん。リビアも」
「ちょっとだけ話したくて」
「今日のこと?」
「それもある」
彼女は俺の机を見た。
「何か書いてた?」
「書こうと思ったけどやめた」
「珍しいね」
「今日のこと、勉強としてまとめなくても覚えてると思うから」
リビアは少しだけ驚いた後、嬉しそうに笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、何が一番楽しかった?」
「一番?」
難しい。
盤上遊戯。
昼食。
庭。
ディーンの家族との会話。
どれも楽しかった。
「決めなくてもいい?」
「いいよ」
「全部」
「それ、ずるくない?」
「本当だから」
リビアは笑いながら、机の横へ置かれた椅子へ座った。
「私はね、セスが普通に友達の部屋で遊んでるの見るのが楽しかった」
「俺?」
「うん」
「リビア自身じゃなくて?」
「私も楽しかったよ。でもセス、仕事じゃないのに他の貴族のお屋敷へ行って、何もしないで遊んだの初めてに近いでしょう?」
「たぶん」
「だから」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「そういう時間が増えたらいいなって思った」
胸の奥が温かくなる。
「俺も増やしたい」
「うん」
「今度、本当にうちへ呼べるといいね」
「お父様なら、たぶん駄目とは言わないと思う。でも確認してから」
「分かってる」
「えらい」
「子供扱いしてない?」
「してないよ」
「本当に?」
「婚約者扱い」
さらっと言われ、俺の方が少し照れた。
リビアはそれを見て楽しそうに笑う。
◇
「セス」
「何?」
「手、繋いでいい?」
「うん」
リビアが椅子から立ち、俺の近くへ来る。
差し出された手を握った。
今日は屋敷へ戻ってからも何度か近くにいたが、二人だけでこうして触れるのは初めてだった。
指を絡める。
それだけで落ち着く。
「今日、キスは?」
今度は俺から聞いた。
リビアは少し考える。
「したい」
「俺も」
互いの答えを聞いてから、俺は椅子を立った。
近づく。
リビアも逃げない。
俺は彼女の顔を見て、もう一度確かめる。
「していい?」
「うん」
顔を寄せ、唇を重ねた。
長くはない。
でも、急ぐ必要もなかった。
離れた後も、手は繋いだままだ。
リビアの頬が少し赤い。
たぶん俺も同じだ。
「今日の最後、これでいい?」
リビアが聞く。
「うん」
「もう一回しなくていい?」
「したい?」
「今は一回で満足」
「俺も」
俺たちは笑った。
キスをした日。
しなかった日。
したかったけれど場所を選んだ日。
一度で満足した日。
どれが正しいわけでもない。
その日に二人がどうしたいかを言えばいい。
それだけでよかった。
◇
リビアを部屋の前まで送った後、自室へ戻る。
今日は研究の進展もなかった。
魔術の新しい発見もない。
剣の試合もしていない。
大きな事件も起きていない。
ただ、友達の家へ行った。
食事をして、遊んで、笑って帰ってきた。
それなのに、妙に満たされている。
(こういう日も、俺の生活なんだな)
以前の俺なら、役に立ったかどうかで一日を見ていたかもしれない。
誰かを守れた。
仕事を終えた。
魔術を覚えた。
剣が上達した。
問題を解決した。
そういうものがあれば、その日は意味があった。
今日は違う。
誰かの役に立つために行ったわけではない。
それでも意味がないとは思わない。
ディーンの家へ遊びに行って楽しかった。
また行きたいと思った。
今度は自分の家へ呼びたいとも思った。
その気持ちは、何かの成果に変えなくても残していい。
俺は寝台へ腰を下ろし、今日の盤上遊戯を思い出した。
最初に決めた計画は途中で変わった。
市場を増やすつもりが畑を作り、道が塞がれたから別の経路を作った。
結果は四位だった。
でも楽しかった。
人生を盤上遊戯と同じに考えるつもりはない。
それでも、最初に決めた形から変わったからといって、全部が失敗になるわけではないのだろう。
俺は執事になった。
リビアを守ると決めた。
それは今も変わらない。
そこへ友達が増えた。
研究が面白くなった。
剣を勝つためだけでなく楽しめるようになった。
婚約者としてリビアの隣にいたいと思うようになった。
将来の仕事も暮らす場所も、まだ一つには決まっていない。
最初の形から増えただけだ。
(全部を残せるかは、まだ分からない)
いつか選ぶ時が来るかもしれない。
でも、その時が来る前から捨てなくてもいい。
今日の俺は、ディーンの友達として遊んだ。
屋敷へ帰れば執事見習いでもある。
リビアの婚約者でもある。
明日になれば、また学園の生徒になる。
どれも俺だった。
それを一つに絞らなくてもいいと思えるようになったことが、今日一番大きかったのかもしれない。
けれど、それさえノートへ書く必要はない。
俺は灯りを落とし、寝台へ横になった。
次にディーンたちを屋敷へ呼べるかは、まだ分からない。
旦那様へ確認してからだ。
ベルナルト先生の次の調査も未定。
実技確認もまだ先。
婚約者としての勉強も、次の予定は決まっていない。
明日何が進むのかも知らない。
それでも、今日楽しかったことだけは確かだった。
答えが出ていないものを抱えたまま眠ることにも、もう随分慣れた。
俺は目を閉じる。
最後に浮かんだのは、盤上の駒でも古い資料でもなく、俺が友達と笑っている横で楽しそうにしていたリビアの顔だった。




