第74話 淡灰晶と、残された余白
ベルナルト先生から連絡を受けた翌朝、目を覚ました俺は、寝台の上で軽く身体を動かして状態を確かめた。
腕にも脚にも張りはなく、胸や呼吸にも気になるところはない。昨日は通常授業だけで放課後の予定もなかったため、身体を休めるという意味では十分な一日になっていた。
今日はまだベルナルト先生との資料確認の日ではない。
約束は明日の放課後だ。
だから急いで準備するものもなかった。
(体調は問題なし。予定も大丈夫だから、今日は返事していいな)
そう判断してから身支度を整え、朝食室へ向かった。
扉を開けると、リビアはすでに席についていた。窓から差し込む朝の光の中で、昨日読んでいた結界補修の本を閉じるところだったらしい。
「おはよう、セス」
「おはよう。朝から読んでたの?」
「少しだけ。昨日セスの部屋で読んだところの続きが気になって」
「面白い?」
「うん。でも今日返すかは迷ってる。もう一回読みたいところがあるから」
「期限まだあるんでしょ?」
「あるよ」
「じゃあ急がなくていいんじゃない?」
「そうする」
リビアは本を脇へ置き、朝食へ手を伸ばした。
俺も隣寄りの席へ座る。
「ベルナルト先生のところ、行く?」
「うん。今朝も問題ないし、予定も入ってないから返事する」
「何の資料だろうね」
「分からない。淡灰晶の地域記録だったら嬉しいけど、グレイヴが内容までは書いてないって言ってたから」
「楽しみ?」
「かなり」
俺が即答すると、リビアが笑った。
「顔に出てるよ」
「そんなに?」
「昨日から出てる」
「リビアも古い結界の資料が見つかったら同じでしょ?」
「……たぶん」
「じゃあ同じだよ」
そんな話をしながら朝食を取る。
ベルナルト先生が何を見つけたのか気にはなるが、今日一日をそのことだけで過ごすつもりはない。
食事を終える頃、グレイヴが朝食室へ入ってきた。
「おはようございます、お嬢様、セス」
「おはよう、グレイヴ」
「おはようございます」
俺は席からグレイヴを見る。
「明日の件、行きたい。体調も問題ないし、予定も確認した」
「承知しました。では、そのように学園へ返答しておきましょう」
「お願いします」
「第三資料室、放課後でございます。通常授業後に直接向かえばよいとのことです」
「分かった」
それだけ確認すると、グレイヴは別の仕事へ戻っていった。
俺も追加で何かを聞かなかった。
資料の内容は明日見れば分かる。
◇
その日の学園生活は、本当に普通だった。
午前は学科授業が続き、昼にはいつもの友人たちと食事をした。
ディーンの家で開かれる昼食会については参加者がほぼ揃い、最初の候補日で正式に決まったらしい。
「うちの母がようやく落ち着いた」
ディーンが疲れたように言う。
「何かあったの?」
俺が聞くと、彼はスープの器を置きながら深いため息をついた。
「オリビア様を迎えるからって、食堂の飾りを変えようとしてた」
「変えなくていいよ?」
リビアが困ったように言う。
「父と俺で止めました。『息子の友人を招く日なんだから普段どおりにしろ』って」
「ごめんね。私が行くから……」
「違います、違います!」
ディーンが慌てて手を振る。
「オリビア様が悪いんじゃありません。母が緊張してるだけです。それに、父はむしろ今回みたいな機会に慣れた方がいいって言ってます」
「慣れる?」
「俺が学園で誰と友達になるかなんて、家で全部決められるわけじゃないからって」
サザリーが静かに頷いた。
「ロズベル子爵らしい考え方だね」
「知ってるの?」
「父同士が仕事で顔を合わせることはあるから。慎重だけれど、現実的な方だと聞いているよ」
ディーンは少し照れたように頭をかいた。
「俺は家だと普通に小言言われてるけどな」
「親なんだからそんなもんだろ」
イザークが言う。
「お前も言われるの?」
「剣振りすぎるなとか、服汚すなとか」
「子供みたい」
ミリアナの一言に、食卓へ笑いが広がった。
俺も笑いながら、明日の資料のことを一度も口にしなかった。
隠しているわけではない。
ただ、今は友達と昼食を食べている。
研究の話は、必要になった時にすればいい。
◇
放課後も特別な予定はなく、俺とリビアは一緒に屋敷へ戻った。
俺は旅行記を読み、リビアは自分の本を読んだ。
夜になっても古代測定器の記録を開かなかった。
確認はもう済んでいる。
翌朝も身体に問題はなく、俺はいつもどおり学園へ向かった。
そして一日の授業を終えた後、ようやく約束の時間が来た。
「じゃあ行ってくる」
教室で鞄をまとめながらリビアへ言うと、彼女は頷いた。
「うん。私は今日は図書館に寄ってから帰るね」
「待たなくていいからね」
「セスも私を待たなくていいよ」
「分かってる」
互いに笑う。
「何か面白いこと分かったら、話せる範囲で教えて」
「もちろん」
「でも、分からなくてもがっかりしすぎないでね」
「それは……努力する」
「そこは即答じゃないんだ」
「期待してるのは本当だから」
「知ってる」
リビアは楽しそうに笑い、図書館の方へ向かった。
俺は第三資料室へ向かう。
◇
第三資料室の扉を叩くと、すぐにベルナルト先生の声が返ってきた。
「入りなさい」
「失礼します」
中へ入る。
部屋には以前と同じように古い資料を扱うための広い机が置かれており、その上には布を敷いた状態で数冊の古文書が並んでいた。
ただし、今日は前回より資料の数が少ない。
ベルナルト先生は机の奥側に座り、細長い紙片へ何かを書き込んでいた。
「来たか、クルセス」
「はい」
「体調は?」
「問題ありません」
「授業後の疲労は?」
「普通です。魔術実技も今日はありませんでした」
「ならいい」
先生は筆記具を置き、俺へ座るよう促した。
俺は机の反対側へ腰掛ける。
目の前には三冊の資料がある。
一冊はかなり古く、表紙の端が擦れている。残り二冊はそれより新しそうだが、それでも現代の本とは紙質も綴じ方も違っていた。
「先生、淡灰晶の資料ですか?」
「一つはそうだ」
思わず身体が少し前へ出た。
ベルナルト先生が俺を見る。
「先に言っておく」
「はい」
「同じ素材だと証明する資料は見つかっていない」
俺は一瞬だけ止まったが、すぐに頷いた。
「分かりました」
「がっかりしたか?」
「ちょっとだけ。でも、何か見つかったから呼んだんですよね?」
「その理解でいい」
先生は一番古い資料へ手を置いた。
「前に見つけた地域別の素材名一覧では、淡灰晶は灰透晶に似た性質を持つ素材として記載されていた。ただし、それが同じ素材の地域名なのか、性質の近い別素材なのかは分からなかった」
「はい」
「そこで、その名称が使われていた地域の工房記録を探した」
先生が資料を開く。
紙は黄ばんでおり、ところどころに染みがある。
俺は触れずに、先生が示した場所へ目を向けた。
「これは王国西部にあった魔導具工房の資材受入記録だ。年代は、例の測定器に使われたと考えられる技術群と大きくは離れていない。ただし、同じ工房でも同じ都市でもない」
「分かりました」
「ここを読んでみろ」
先生が指した行を追う。
古い表現が多く、すぐには意味を取れない。
「……『淡灰晶、薄板十二。透明度……中。魔力通し……』」
「『通し穏やか』だ」
「あ、こっちが一文字なんですね」
「そうだ」
俺はもう一度読む。
「『急なる変わりには曇りを生ず』……?」
「そこはその読みでいい」
俺の目が止まった。
「急な変化で、曇る?」
「そう書かれている」
「魔力の急な変化ですか?」
「前後の項目を見る限り、その可能性が高い。ただし、この一文だけで何が曇るのかまでは断定出来ない。物理的に結晶が曇るのか、魔力反応が不安定になることをそう表現しているのか、それとも観測上の見え方なのかは分からない」
「壊れるとは書いてない?」
「書いていない」
俺は記録を見つめる。
灰透晶については、薄板として使う場合に急激な魔力変化を直接通さず、前後に緩衝の刻みを置くという記録が見つかっている。
そして淡灰晶には、急な変化で「曇りを生ず」という記録。
(似てる。でも、同じとは言えない)
頭の中で自然に浮かんだ考えを、そのまま口にする。
「灰透晶の記録と関係ありそうには見えます。でも、これだけで同じ素材とは言えないですね」
「その通りだ」
ベルナルト先生は満足そうに頷いた。
「以前なら?」
「たぶん、かなり同じだと思ってたかもしれません」
「今は?」
「同じ可能性が少し上がった、くらいですか?」
「私はそう扱っている」
先生は横に置いた紙へ短く記入した。
「もう一つある」
「はい」
次に示されたのは、同じ工房の別年度の修繕記録だった。
そこには淡灰晶を使用した小型魔導具について記されている。
「これは何の道具ですか?」
「正確には不明だ。記録上は『流量見』と呼ばれている」
「流量……魔力の?」
「おそらくは。ただし、水量や液体流量を測る道具へ魔術部品を組み込んだ可能性もある。名称だけで魔力測定器だと決めるな」
「はい」
俺は続きを読む。
部品交換。
薄板。
刻み。
そこまで読んだところで、また気になる記述が出てきた。
「『板の前、二刻。後、三刻……』」
「続けろ」
「『前後同じくするを要せず』……?」
「そうだ」
俺は思わずベルナルト先生を見る。
「前と後で、刻みの数が違う?」
「少なくともこの修繕記録ではそうなっている」
「灰透晶の記録は『前後に緩衝の刻みを置く』だけでしたよね」
「数については書かれていなかった」
「古代測定器の部分図は……」
言いかけて止まる。
先生がわずかに眉を上げた。
「どうした?」
「今、部分図の短い線の数と比べようとしました。でも、あれが緩衝の刻みだってまだ決まってないですよね」
「そうだな」
「じゃあ、先に比べない方がいい?」
「比べること自体は構わない」
先生は静かに答えた。
「ただし、『一致したから同じ』『違うから別物』と考えるな。部分図の線が何を意味するのか分かっていない以上、比較結果そのものの意味も確定しない」
「分かりました」
先生は別の紙を取り出した。
以前確認した部分図を写したものだ。
俺はそこへ目を落とす。
中継板らしき箇所の前後には短い線がある。
改めて数える。
「前が……二本。後ろが三本?」
「そう見える」
俺の胸が少し速くなる。
淡灰晶を使った「流量見」の修繕記録。
板の前に二刻。
後ろに三刻。
古代測定器らしき部分図にも、中継板の前に二本、後ろに三本の短い線。
数だけなら一致している。
(これは……)
言葉にする前に、俺は一度息を整えた。
「先生」
「何だ」
「かなり気になります」
「そうだろうな」
「でも、同じだとはまだ言えない」
「言えない」
「この『流量見』と例の測定器が同じ種類かも分からない」
「分からない」
「淡灰晶と灰透晶が同じかも分からない」
「それも分からない」
先生は淡々と答える。
でも、その目は少し楽しそうだった。
「それでも、偶然として無視するには面白い一致だ」
「はい」
俺も笑ってしまう。
「すごく面白いです」
「だから呼んだ」
◇
ベルナルト先生は、そこで三冊目の資料を開いた。
「ただし、ここからが厄介だ」
「何か違う記録があるんですか?」
「違うというより、簡単にまとめられない記録だ」
それは先ほどの工房とは別の工房が残した記録だった。
地域は同じ。
年代も大きく離れていない。
しかし、そこでは「淡灰晶」ではなく「淡晶板」という名称が使われている。
「これも同じ素材ですか?」
「分からん」
「また分からない……」
「古い資料を調べるとは、そういうものだ」
先生が少し笑う。
俺も苦笑しながら続きを見る。
淡晶板は、魔力の流れを直接受けると反応が乱れやすいため、間に調整用の刻みを入れることが推奨されている。
ここまでは似ている。
ただし、記述には「前側のみでも用途により可」とある。
「前だけ?」
「ああ」
「さっきは前二、後三だったのに」
「だから簡単に『この時代の薄板には前後の緩衝刻みが必要だった』とは言えない」
俺は腕を組まず、机の上で指を軽く合わせながら資料を見た。
「用途によって違う?」
「可能性はある」
「素材が違う可能性もある」
「ある」
「工房ごとの作り方の違いも?」
「あるだろう」
「年代差は?」
「大きくはないが、完全な同時期ではない」
「じゃあ……」
俺は少し考える。
「今分かったのは、少なくともこの地域では、薄い結晶板みたいな部品へ急な魔力変化をそのまま通すと問題が起きると考えられていて、刻みを使って調整する技術が複数あった可能性がある、くらいですか?」
ベルナルト先生はすぐには答えなかった。
数秒、俺の言葉を確認するように考えてから頷く。
「現段階では、そのまとめ方が一番安全だろう」
「測定器だけの技術じゃないかもしれない」
「そうだ」
「でも、測定器にも使われてた可能性は上がった」
「部分図の線を刻みと仮定するならな」
「仮定のまま」
「その通り」
俺は紙へ自分の言葉で記録する。
断定しない。
同じものを一つにまとめない。
でも、似ている部分まで無視しない。
以前なら、こういう資料を前にすると「答えが出そうだ」と興奮して、共通点ばかりを拾っていたかもしれない。
今も興奮している。
ただ、違うところも同じくらい面白い。
◇
「先生、一つ聞いていいですか?」
「何だ」
「この前、同時代の別地域に『受けた変化を一度に返さず、段階を分ける』って記録がありましたよね」
「あったな」
「今回の刻みと同じ考え方なんでしょうか」
「分からない」
予想どおりの答えだった。
でも先生はそこで終わらなかった。
「思想として似ている可能性はある。急激な変化をそのまま処理するのではなく、段階的に受け渡すという点では共通して見えるからな。ただし、一方は装置の制御記録、今回のものは素材あるいは部品の扱いだ。仕組みまで同じとは限らない」
「リビアの結界研究とも、まだ直接つながらない?」
「当然だ」
「ですよね」
「だが」
先生が一度言葉を止めた。
「同時代に、最大出力や即時反応だけを良しとせず、変化量に応じて制御する技術思想が複数存在した可能性は、以前より考えやすくなった」
「それは……」
「あくまで時代背景としてだ。パウリー嬢の結界技術とこの工房技術が同系統だと言っているわけではない」
「分かってます」
俺は頷く。
リビアに話す時も、そこは間違えないようにしよう。
「あと、昔の二属性測定で切り替えに遅れがあったって記録は?」
「装置側の緩衝が遅れの一部だった可能性は、今回の資料で多少考えやすくなった。ただし、それだけだ」
「使う人側の変換に時間がかかってた可能性も残ってる」
「もちろんだ。装置側と使用者側の両方だった可能性もある」
「俺が切り替えでほとんど遅れを感じないからって、昔の人と違うとはまだ言えない」
「そういうことだ」
俺は自分の手を見る。
火から水へ。
水から風へ。
俺は五属性の変換を、ほとんど途切れなく切り替えられる。
それが自分自身の異常さなのか、現代の術式が違うのか、古代の装置側に遅れがあったのか。
まだ分からない。
以前から変わっていない部分も多い。
でも、分からない理由の形は少しずつ細かくなっている。
(分からないことが増えてるのに、前より進んでる感じがする)
不思議だった。
◇
資料を確認し始めてから、かなり時間が経っていた。
ベルナルト先生が時計を見る。
「今日はここまでにする」
「もうですか?」
「もう、だ」
反射的に続きを見たくなった。
机の上にはまだ閉じられていない資料がある。
淡灰晶。
淡晶板。
流量見。
二刻と三刻。
部分図の短い線。
気になることはいくらでもある。
それでも俺は、資料へ伸ばしかけた意識を止めた。
「分かりました」
先生が少しだけ目を細める。
「今日は素直だな」
「前も素直だったと思います」
「前は顔が『あと一冊』と言っていた」
「今日もたぶん言ってます」
「言っている」
俺たちは少し笑った。
「でも、先生がここまでって言うなら終わります」
「それでいい。原本を長時間開いておく必要もない」
「次は?」
「まだ決めない」
「淡晶板の記録を追うんですか?」
「候補の一つだ。もう一つ、流量見という名称が別地域にも存在するか確認したい。それから、同じ工房の別年度記録が残っていれば、刻みの数が固定だったのかも見たい」
「俺が調べることは?」
「今はない」
「分かりました」
以前なら少し残念に感じていた答えだ。
今も調べたい気持ちはある。
けれど、先生が複数の資料を扱い、地域や年代を確認しながら進めている調査へ、俺が別方向から勝手に資料を持ち込めば、かえって整理しにくくなることも分かってきた。
「今日の内容、写していい範囲は?」
「私がまとめた要点だけなら構わない。原文の全文転写は今日はやめておけ」
「はい」
先生から渡された紙には、今日確認した三つの記録が短く整理されていた。
俺はそれを自分のノートへ写す。
最後に、先生が一行追加した。
『一致は手掛かりであり、同一性の証明ではない』
「先生、これ俺向けですよね」
「研究する者全員向けだ」
「でも俺に書きましたよね」
「必要そうだったからな」
「否定出来ない……」
俺はその一文も写した。
◇
第三資料室を出ると、廊下は夕方の色に染まっていた。
窓の外では校舎の影が中庭へ長く伸びている。
今日はリビアを待つ予定も、待ってもらう予定もない。
彼女は図書館へ寄ってから帰ると言っていた。
俺は鞄の中のノートを意識しながら昇降口へ向かう。
(話したいな)
今日見つかったことを。
ただし、「淡灰晶が灰透晶だった」とは言えない。
「古代測定器の線が緩衝の刻みだった」とも言えない。
分かったのは、同じ地域の記録に似た技術があり、その一つでは前二刻・後三刻という数が部分図の線と一致していたこと。
そして別の記録では前側だけでも使える場合があり、技術が一種類ではなかった可能性があること。
話すなら、そのまま伝えればいい。
昇降口へ着いたところで、外へ出ようとしている銀青色の髪が見えた。
「リビア」
声をかける。
彼女が振り返った。
「セス。終わったの?」
「今終わった。リビアも?」
「うん。図書館で本を返してた」
「一緒に帰る?」
「帰る」
自然に並ぶ。
昨日とは逆だ。
今日は俺の予定が終わったところへ、ちょうどリビアがいた。
どちらも待っていなかった。
それでも、一緒に帰れることが嬉しい。
◇
馬車へ乗ると、リビアは俺が話し出す前から少し期待した顔をしていた。
「何かあった?」
「あった」
「やっぱり」
「でも、答えが出たわけじゃないよ」
「うん」
俺は今日見た資料について順番に話した。
淡灰晶の薄板には、急な変化で「曇りを生ず」と記された工房記録があったこと。
同じ地域の「流量見」という用途不明の魔導具では、淡灰晶らしき薄板の前に二つ、後ろに三つの刻みを置く修繕記録があったこと。
そして古代測定器の部分図でも、中継板らしき箇所の前に二本、後ろに三本の短い線が見えること。
そこまで話したところで、リビアの目が大きくなった。
「数まで同じなの?」
「うん。でも先生と確認したけど、それだけで同じものとは言えない」
「流量見が測定器かも分からない?」
「分からない。淡灰晶と灰透晶が同じ素材かもまだ分からない」
「じゃあ、すごく気になる一致が見つかったってところ?」
「俺もそう思ってる」
リビアはしばらく考えた後、頷いた。
「面白いね」
「でしょ?」
「セスが昨日から楽しみにしてた理由、分かる」
「昨日の時点では内容知らなかったけどね」
「でも絶対何かあると思ってたでしょう?」
「ちょっと」
「かなり、じゃなくて?」
「……かなり」
正直に答えると笑われた。
「それで、他には?」
「別の工房だと、似た薄板に前側だけ刻みを入れてもいいって記録があった」
「同じ作り方じゃないんだ」
「素材自体が違う可能性もあるし、用途が違うのかもしれない。だから『古代の薄板は全部前後に刻みを入れてた』とは言えないって」
「なるほど……」
リビアは窓の外へ一度目を向けた。
「私の結界の記録と似てるところもある?」
「先生とも少し話した。でも直接同じ技術って意味じゃないよ」
「うん」
「急な変化を一度に処理しない考え方が、同じ時代に複数あった可能性は前より考えやすくなったって。でもリビアの結界と同じ系統だって証拠はない」
「分かった」
リビアはすぐに受け入れた。
「じゃあ私も、今の資料を古代の測定器に合わせて読み直したりしない方がいいね」
「たぶん。先生もそこは分けてた」
「うん。私の方は私の方で調べる」
その答えに俺は安心する。
似ているものがある。
だからといって、全部を一つにまとめる必要はない。
別々に調べて、もし本当に交わる場所が見つかったら、その時に考えればいい。
◇
屋敷へ戻った後、俺は夕食までの時間に今日の記録を整理した。
ただし、一度だけだ。
ベルナルト先生から写していいと言われた要点を、自分の以前の記録へ追加する。
淡灰晶――灰透晶と性質が似る可能性。地域名または別素材か未確定。
淡灰晶薄板――「急なる変わりには曇りを生ず」。意味未確定。
流量見――用途不明。淡灰晶らしき薄板の前二刻・後三刻。古代測定器部分図の短線数と一致。ただし同一技術・同一装置の証明ではない。
淡晶板――別工房。急な魔力変化への調整刻み。用途によって前側のみでも可。
時代背景――急激な変化をそのまま扱わず、段階的・緩衝的に処理する技術思想が複数存在した可能性。
未確定――灰透晶=淡灰晶=淡晶板ではない。響晶系とも統合しない。薄灰晶石との現代対応も未確定。
そこまで書いて、最後に先生の言葉も残した。
『一致は手掛かりであり、同一性の証明ではない』
書き終えるとノートを閉じた。
(今日はこれで終わり)
もっと考えたい。
部分図をもう一度見たい。
前二本、後三本の線が何なのか考えたい。
でも、今考えても資料は増えない。
俺はノートを引き出しへしまった。
◇
夕食後、小居間でリビアと一緒になった。
今日は本を読む約束をしていたわけではない。
俺は旅行記を持ってきておらず、リビアも手ぶらだった。
「何する?」
俺が聞く。
「何もしなくてもいいんじゃない?」
「それもそうか」
俺たちは長椅子へ並んで座った。
窓の外は暗く、室内には暖かな灯りが落ちている。
しばらく今日の授業の話をした後、ディーンの家へ行く日の話になった。
「もうすぐだね」
「うん」
「服、グレイヴが用意してくれるって」
「私も侍女と相談したよ。あまり正式にならないものにする」
「ディーンのお母様、また緊張しないかな」
「たぶんすると思う」
「リビアが普通の服でも?」
「公爵令嬢が普通の服で来る方が緊張する可能性もあるかも」
「難しいな」
俺たちは笑う。
少しして、リビアが俺の肩へ身体を寄せた。
俺も自然に受け止める。
「セス」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「資料?」
「うん」
「楽しかった」
「答え出てないのに?」
「出てないから面白いところもあるのかも」
自分で言ってから、少し驚いた。
昔の俺なら、分からないことは解決すべき問題だった。
今も答えは知りたい。
でも、途中の状態そのものを楽しめるようになっている。
「先生と一緒に資料見て、同じかもしれないって思って、でも違う記録も出てきて。それでまた考えること増えた」
「困らない?」
「ちょっと困る。でも面白い」
「そっか」
リビアは嬉しそうに笑った。
「セス、研究好きなんだね」
「たぶん」
「たぶん?」
「前は必要だから調べてると思ってたから」
「今は?」
俺は少し考える。
古代測定器を調べる理由はいくつもある。
自分の五属性の切り替えが過去の記録と違う理由を知りたい。
昔の測定技術がどうなっていたのか知りたい。
共通変換の仮説へつながる情報があるかもしれない。
でも、それだけではない。
(資料を見ること自体が好きなんだな)
「分からないことが少しずつ分かるのが楽しい」
「うん」
「あと、分かったと思ったら違う資料が出てくるのも、ちょっと楽しい」
「それは研究向きかも」
「そうなのかな」
「ベルナルト先生に聞いてみたら?」
「何て?」
「『答えが出ないのも楽しいんですけど、研究向きですか』って」
「先生、何て答えるかな」
「『知らん』って言いそう」
ベルナルト先生の顔を思い浮かべると、本当に言いそうだった。
二人で笑う。
◇
笑いが落ち着いた後も、リビアは俺の肩へ寄りかかったままだった。
俺は彼女の手が長椅子の上にあるのを見て、自分の手を重ねる。
指が自然に絡んだ。
以前なら、触れるたびに意味を考えていた。
今は、触れたいから触れることも増えた。
リビアが俺を見る。
「セス」
「何?」
「今日、キスしたい?」
少し前にも聞かれた質問だ。
でも、毎回答えが同じである必要はない。
俺は今の自分の気持ちを確かめる。
今日は資料を見て頭をたくさん使った。
今はリビアと静かに座っているのが心地いい。
キスをしたくないわけではない。
でも、強くしたいとも思っていない。
「今日は、このままでもいいかな」
正直に答える。
リビアは驚かなかった。
「私も」
「じゃあ今日はしない?」
「うん。手は繋いでたい」
「俺も」
それで話は終わった。
断ったわけでも、気持ちが薄れたわけでもない。
好きな相手と一緒にいても、毎回同じことをしたいわけではない。
それを普通に言えることが、俺には嬉しかった。
リビアも安心したように俺の肩へ頭を預け直す。
俺たちはしばらく、そのまま窓の外を眺めていた。
◇
「そういえば」
リビアが思い出したように口を開いた。
「お父様から、次の勉強の話ってまだないよね?」
「ないね」
「社会的な判断の話を最初にするかもって言ってたでしょう?」
「うん。招待をその場で受けていいかとか、俺個人の返事とパウリー家としての返事を分けるとか」
「ディーン君の昼食会、少し近かったね」
「あ」
言われて気づく。
今回、俺たちは誘われたその場で参加を決めなかった。
候補日を聞き、互いの家へ確認し、ロズベル家側がどういう集まりとして考えているのかも確かめた。
ただし、それは旦那様との正式な勉強を受けたからではない。
グレイヴやリビアと相談しながら自然に行ったことだ。
「これ、旦那様に言ったらどうなるかな」
「たぶん聞かれると思うよ。どう考えたか」
「正解だったかじゃなくて?」
「お父様なら、そっちじゃない?」
「確かに」
俺は少し考える。
「俺、最初は手土産まで考えた」
「うん」
「でもディーンは友達として来てほしいって言ってたから、家同士で必要なことは家に任せて、俺は持っていかないことにした」
「それも話せばいいんじゃない?」
「じゃあ覚えとく」
「紙に書く?」
「……書かなくていいかな」
「珍しい」
「忘れたら、その程度だったってことで」
言うと、リビアが目を丸くした。
「セスがそれ言うんだ」
「何でも記録しなくていいでしょ?」
「うん。いいと思う」
彼女は本当に嬉しそうだった。
◇
夜も遅くなり始めたため、俺たちは小居間を出た。
廊下の途中でリビアの部屋へ向かう道と俺の部屋へ向かう道が分かれる。
手はまだ繋いでいた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
リビアが手を離す。
そのまま数歩進んだところで、俺はふと彼女を呼び止めた。
「リビア」
「何?」
「今日、帰りに会えてよかった」
リビアの表情が柔らかくなる。
「私も。待ってたわけじゃないのに会えたの、ちょっと嬉しかった」
「うん」
「明日は?」
「明日は普通に会えるでしょ」
「そうだった」
二人で笑い、今度こそ別れた。
◇
自室へ戻ると、机の引き出しには今日まとめた研究ノートが入っている。
俺はそれをもう一度開こうとはしなかった。
代わりに旅行記を手に取る。
旅人は海沿いの都市へ着いたばかりだ。
港の市場。
漁船。
海風。
俺の知らないものが、まだ何ページも残っている。
寝台近くの椅子へ座り、続きを読み始める。
古代測定器にも答えは出ていない。
淡灰晶が何なのかも分からない。
部分図の線が刻みなのかも分からない。
それでも今日、確かに一歩は進んだ。
分からないものを無理に一つへまとめなかったからこそ、次に何を確かめればいいのかが少し見えた。
俺自身の未来も、似ているのかもしれない。
執事を続けるのか。
研究をもっと学ぶのか。
剣をどこまで続けるのか。
公爵令嬢の婚約者として、どんな役割を持つのか。
結婚した後、どこで暮らすのか。
全部を今、一つの答えへまとめる必要はない。
俺は執事が好きだ。
剣も好きだ。
魔術も面白い。
研究も、今日になって自分が思っていた以上に好きなのだと分かった。
友達と遊びに行くことも楽しみにしている。
そして、リビアのことが好きだ。
そのどれか一つだけを選ばなければならないと、まだ誰にも言われていない。
(だったら、今は全部持っててもいいのか)
将来、何かを選ばなければならない時が来るかもしれない。
その時は、その時の俺が知っていることと、リビアの希望と、周りの状況を確かめて考えればいい。
今の段階で、自分から可能性を捨てる必要はない。
旅行記を一章読み終え、俺は栞を挟んだ。
窓の外には夜の庭が広がっている。
今日見つかった資料にも、俺の未来にも、まだ余白がたくさん残っていた。
以前なら、その空白を早く埋めなければならないと思っていた。
今は違う。
まだ書かれていないからこそ、これから何が入るのかを楽しみにしてもいい。
俺は本を閉じ、灯りを落とした。
次にベルナルト先生から呼ばれる日がいつになるのかは分からない。
その前には、ディーンの家へ遊びに行く日が来るかもしれない。
実技確認の準備が進むかもしれないし、旦那様との婚約者としての勉強が始まるかもしれない。
どれが先でも構わない。
明日になったら、まず明日のことをすればいい。
そう思いながら目を閉じると、今日見た古い資料の文字より先に、帰りの昇降口で俺を見つけて笑ったリビアの顔が浮かんだ。
研究が楽しかった日も、最後に思い出したい相手がいる。
そのことを嬉しく感じながら、俺はゆっくり眠りへ落ちていった。




