第73話 待つのではなく、帰るために
旅行記の中で、旅人はようやく海沿いの都市を望める丘までたどり着いていた。
王都を出てから何日も街道を進み、雨で足止めされ、予定になかった工房へ寄り道し、それでも最後には目的地だった海へ近づいている。挿絵はないものの、丘の向こうに広がる青い水面と、潮風に混じる独特の匂いについて書かれた文章を読んでいると、見たことのない景色が少しだけ頭の中へ浮かんできた。
(海って、本当にこんな匂いがするのかな)
俺は窓際の席でページをめくりながら、いつかリビアと海へ行きたいと話したことを思い出した。
もちろん、今すぐ行く予定があるわけではない。
公爵令嬢であるリビアが長い旅行をするなら、護衛や宿泊先の確認も必要になるだろうし、俺自身も学園や仕事の都合を考えなければならない。それでも、以前の俺ならそこで「簡単には行けない」と考えて終わっていたところを、今は「いつか行けたらいい」と思える。
旅行記をもう数ページ読み進めたところで、遠くから学園の鐘が聞こえてきた。
放課後からかなり時間が経っている。
俺は栞を挟んでから本を閉じ、窓の外へ目を向けた。空にはまだ明るさが残っているものの、西側は薄い橙色へ変わり始めている。
(そろそろ帰ろうかな)
リビアとは、終わるまで待つ約束をしていない。
委員会が終われば連絡すると言っていたが、俺が先に帰る可能性があることも伝えてある。ここで待ち続けなければならない理由はなかった。
ただ、もう少しだけ本を読みたい気持ちもある。
俺は時計と旅行記を交互に見てから、もう一章だけ読むことにした。
リビアを待つためではない。
自分が読みたいから残る。
その結果として帰る時間が重なれば、一緒に帰ればいい。
◇
第二予備教室へ続く廊下では、二度目の確認が始まろうとしていた。
最初の試行で見つかった問題を受け、四色の札を配る位置は教室入口から中庭側へ少し離されている。参加する生徒はそこで札を受け取り、歩きながら色と大きな番号を確認したうえで、それぞれ指定された列へ進む形に変更された。
オリビアは先ほどと同じ入口付近に立っていた。
ただし、役割は少し変わっている。
一度目は札を確認しながら入室する生徒へ直接声をかける場面が多かったが、今回は配布位置を離したことで、入口へ来るまでにどの程度迷いが減るのかを見ることが主な役目になった。
「では、始めます」
マリエッタの合図が出る。
中庭側から協力生徒たちが歩き始めた。
赤、青、黄、緑。
札にはそれぞれ大きな番号も記されている。
生徒たちは受け取った直後に札を確認し、歩きながら自分の進む位置を探していた。前回は入口直前で足を止める者が続いたが、今回はそこまで来る頃にはほとんどの生徒が自分の列を把握している。
(さっきより流れてる)
オリビアは通過する人数を確認しながら、記録紙へ印をつけた。
完全に問題がなくなったわけではない。
黄の二番を持つ生徒が青の二番へ入りかけ、途中で自分から気づいて進路を修正した。さらに、二人連れで話しながら歩いていた生徒が前方への注意を欠き、少しだけ間隔が詰まる場面もあった。
それでも、入口で流れそのものが止まることはなかった。
最後の生徒が校舎側の出口を抜ける。
オリビアは息をつき、記録紙を見直した。
「一度目より良かったですね」
近くにいた委員が声をかけてくる。
「はい。ただ、同じ番号で色だけ違う札は、一度間違いかけていました」
「色をもっと見分けやすくした方がいいでしょうか?」
「色そのものより、番号の書き方を変えてもいいかもしれません。今は全部同じ形ですから」
話しているところへマリエッタが近づいてきた。
「オリビアさん、入口側はいかがでしたか?」
「一度目よりかなり流れました。配布位置を離したことで、入口までに確認出来ています。ただ、黄の二番を持った方が青の二番へ入りかけました」
「こちらでも記録しています。本人が途中で気づいたようですが」
「はい。だから色札と番号を併用する方法自体は役に立っていると思います。ただ、番号を同じ形で書くだけだと、先に数字だけ見た人が別の色へ行く可能性は残りそうです」
マリエッタは手元の紙へ視線を落とした。
「番号の囲み方を色ごとに変える案もありましたね」
「丸、四角、三角みたいにですか?」
「ええ。ただ、情報を増やしすぎるとかえって確認に時間がかかる可能性もあります」
「それなら、まず今の札のままで、番号を少し小さくして色を先に見やすくする方法も試せると思います」
オリビアが答えると、マリエッタはすぐに結論を出さず、記録係へ目を向けた。
「今の二案を残しておいてください。今日ここで決める必要はありません」
「分かりました」
記録係が頷く。
オリビアもそれ以上は案を押さなかった。
今日の目的は、完璧な札を完成させることではない。
実際に近い人数で流した時に、どこで問題が起きるかを見ることだ。
その意味では十分な情報が集まっている。
委員会は最後に全体の流れを確認し、中庭側から校舎側へ進む一方通行についても大きな問題がないことを共有した。ただし、実際の雨天時には濡れた床や傘によって歩行速度が変わるため、本運用前に廊下の安全確認を行う必要がある。
「では、本日の結果としては、一方通行の方向は現在案を維持します。色札と番号の併用も継続しますが、札の表示方法については修整案を検討しましょう」
マリエッタのまとめに、委員たちが頷く。
「本運用決定ではありません。雨天時の床状態と、札の表示を確認したうえで最終判断します」
そこでようやく今日の確認が終わった。
協力してくれた生徒たちへ礼を伝え、札や机を片づけていく。
オリビアも自分の担当場所に残った札を集めた。
(思ったより時間かかったな)
窓の外を見ると、すでに夕方の色が濃くなっている。
セスは図書館へ行くと言っていた。
けれど、待つ約束はしていない。
先に帰っていても構わないし、むしろそのつもりで別れた。
それでも、片づけを終えて鞄を持った時、オリビアは自然に彼の姿を思い浮かべていた。
(まだいたら、一緒に帰りたいな)
それは「待っていてほしい」とは少し違う。
自分の委員会が終わったから、今から会えたら嬉しい。
ただそれだけだった。
◇
俺が旅行記を閉じたのは、海沿いの都市へ旅人が到着したところだった。
区切りとしてもちょうどいい。
借りた本を鞄へ入れ、席を立つ。
図書館を出ると、廊下には夕方の光が長く差し込んでいた。放課後すぐに比べれば残っている生徒も少なく、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる程度だ。
昇降口へ向かって歩き始めたところで、向こうから見覚えのある上級生が来た。
「あら、クルセスさん」
「マリエッタ先輩」
委員会を終えたらしく、数枚の資料を抱えている。
「まだ学園にいらしたのですね」
「図書館で本読んでました。委員会、終わったんですか?」
「ええ。先ほど終了しました。オリビアさんも片づけを終えたところです」
俺は少しだけ足を止めた。
「じゃあ、まだ第二予備教室ですか?」
「もう出ていると思いますよ」
「分かりました。ありがとうございます」
俺が礼を言うと、マリエッタ先輩は意味ありげに少し笑った。
「今日は待っていらしたのですか?」
「待ってたわけじゃないです。旅行記を読みたかったので」
「なるほど」
「でも、今から会えるなら一緒に帰りたいです」
そう答えると、先輩は一瞬だけ目を丸くした後、柔らかく笑った。
「それなら、昇降口へ向かえば会えると思います」
「はい」
「お気をつけて」
俺たちはそこで別れた。
以前なら、「待っていたわけではない」と言った後で、余計な誤解を避けるためにそれ以上説明しなかったかもしれない。
でも今は、会えるなら会いたいと言うことに抵抗がない。
(本当に普通になってきたな)
そう思いながら昇降口へ向かう。
階段を一つ下り、角を曲がったところで、ちょうど反対側からリビアが歩いてきた。
彼女も俺に気づく。
その瞬間、少し疲れていた表情が明るくなった。
「セス」
「お疲れ」
「まだいたの?」
「旅行記読んでた。ちょうど帰ろうと思ったところ」
「待ってた?」
「今日は待ってないよ」
正直に答える。
「でもマリエッタ先輩から終わったって聞いたから、会えるなら一緒に帰りたいと思ってこっち来た」
リビアは数回瞬きをした後、嬉しそうに笑った。
「私も、まだいたら一緒に帰りたいって思ってた」
「じゃあちょうどよかったね」
「うん」
俺たちは並んで昇降口へ向かった。
◇
帰りの馬車へ乗ると、リビアは座席へ背を預けながら小さく息を吐いた。
「疲れた?」
「少しだけ。人数が増えたから、見るところも増えて」
「うまくいった?」
「前よりはかなり良かったよ」
馬車がゆっくり動き出す。
リビアは今日の確認について、色札を配る位置を教室から少し離したこと、それによって入口で立ち止まる生徒が減ったことを説明してくれた。
「でも、黄の二番の人が青の二番へ行きかけたの」
「番号が同じだったから?」
「たぶん。色と番号を両方使ってるから途中で本人が気づけたけど、表示方法はもう少し考えることになった」
「色ごとに番号変えるとか?」
「それも出来るけど、開始順との対応が分かりにくくなるかもしれないの。形を変える案もあるけど、情報が増えすぎる可能性もあるし」
「じゃあまだ決めてないんだ」
「うん。今日決めなくていいってマリエッタ先輩が」
リビアはそう言ってから、少し嬉しそうに続けた。
「前なら、今日のうちに決めた方がいいって思ってたかもしれない」
「今は?」
「実際に試せたから、次に考える材料が増えたって思ってる。急いで決めて、また変えるよりいいかなって」
「俺も最近そういうの増えた」
「知ってる」
「何で?」
「セス、前より『まだ分からない』って普通に言うようになったから」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
昔は、分からない状態を残しておくことが不安だった。
分からないなら調べる。
出来ないなら練習する。
問題があるなら解決する。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、すぐに答えを出せないことまで、その場で何とかしようとしていた。
「ベルナルト先生の研究も、今は待ってるしね」
「淡灰晶の記録?」
「うん。先生が次の資料を探してくれてるから、俺が勝手に別のことする必要ないし」
「実技確認も?」
「決まった手順でやるだけ」
「婚約者の勉強も?」
「旦那様から次の予定が来たらやる」
リビアがくすっと笑った。
「いっぱい待ってるね」
「本当だ」
でも、不思議と落ち着かないわけではない。
待っている間に何も出来ないわけでもない。
本を読める。
友達と遊べる。
リビアと話せる。
普通の授業もある。
今度はディーンの家へも行く。
俺たちの生活は、一つの答えを待って止まっているわけではなかった。
◇
屋敷へ戻ると、玄関近くでグレイヴに会った。
「お帰りなさいませ、お嬢様、セス」
「ただいま」
「ただいま。グレイヴ、今日の委員会、前よりうまくいったよ」
「それは何よりでございます」
リビアが今日の確認について簡単に話す。
グレイヴは内容へ余計な口を挟まず、最後まで聞いた。
「本運用はまだ決めないことになったの」
「適切かと存じます。実際の雨天時には、乾いた状態とは異なる問題も生じるでしょうから」
「うん。床も確認するって」
そこで話が一区切りついた。
俺は自室へ戻ろうとしたが、グレイヴが思い出したように俺を呼び止める。
「セス」
「何?」
「ベルナルト先生より、学園を通じて連絡が届いております」
足が止まった。
「先生から?」
「はい。次の資料確認についてです」
俺は反射的に身体を向け直す。
「何か見つかったの?」
「そこまでは記されておりません。明後日の放課後、第三資料室へ来られるか確認したいとのことです」
「明後日……」
頭の中で予定を確認する。
明日は通常授業だけのはずだ。
明後日も、今のところ放課後に確定している予定はない。
「俺は大丈夫」
「承知いたしました。ただし、正式な返答は明朝でも構わないとのことです。今夜のうちに急いで決める必要はございません」
「でも予定ないよ?」
「予定表だけではなく、明朝の体調も確認してから返答しても遅くはありません」
俺は一瞬、すぐに「行く」と言いたくなった。
淡灰晶。
古い工房記録。
薄い灰透晶の前後へ置かれたという緩衝の刻み。
部分図に描かれていた短い線。
それらについて何か新しい資料が見つかったのかもしれない。
(行きたい)
その気持ちははっきりしている。
でも、明日の朝まで待ったところで何も失わない。
「分かった。明日の朝に返事する」
「それでよろしいでしょう」
グレイヴが頷く。
隣にいたリビアも、俺がすぐ飛びつかなかったことへ何か言うわけではなく、ただ少し楽しそうに俺を見ていた。
「何?」
「セス、顔はすごく行きたそう」
「行きたいよ」
「うん。分かる」
「でも明日の朝まで待つ」
「それも分かる」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
◇
夕食後、俺は自室へ戻ってから、以前まとめた古代測定器の記録を机へ出した。
明後日にベルナルト先生と資料を見る可能性があるなら、前回までの内容を忘れていないか確認しておきたい。
ただし、新しい仮説を作るためではない。
今分かっていることと、まだ分からないことを混ぜないための確認だ。
古い工房資料には、灰透晶を薄い板として使う場合、急激な魔力変化を直接通さず、「前後に緩衝の刻みを置く」という記述があった。
古代測定器の部分図では、中継板らしき箇所の前後に短い線が描かれている。
両者が同じものを示している可能性はあるが、まだ確認されていない。
同時代の別地域には、大きな魔力変化を一度に返さず段階を分けるという記録もあった。しかし、それがリビアの調べている結界技術と同じ技術だと証明されたわけでもない。
そして、灰透晶と性質の似た古い地域名として淡灰晶が見つかっている。
淡灰晶が灰透晶と同じ素材なのか。
現代の薄灰晶石とどこまで対応するのか。
響晶や響晶薄片との関係はあるのか。
どれもまだ確定していない。
俺は以前の記録へ新しいことを書き足さず、確認した項目の横へ小さな印だけをつけた。
(これで十分だな)
資料を閉じる。
まだ時間はある。
だからといって、淡灰晶について自分で別の資料を探し始める必要はない。
ベルナルト先生が明後日に見せたいものが何なのかも分かっていないのだから、今から予想して調べても仕方がない。
机の端には旅行記が置いてある。
俺は古代測定器の記録を引き出しへ戻し、代わりに旅行記を手に取った。
◇
少し読み進めたところで、扉が軽く叩かれた。
「セス、いる?」
リビアの声だ。
「いるよ」
返事をすると、扉が開いた。
リビアは寝る前のゆったりした服装で、手には昨日借りた結界補修の本を持っている。
「どうしたの?」
「少しだけ一緒に読んでもいい?」
「もちろん」
俺は机ではなく、窓際の小さな長椅子へ移動した。
リビアも隣へ座る。
「今日は一人じゃないんだ」
「今日は一緒に読みたい気分」
「そっか」
「セスは?」
「俺もいいよ」
それだけ確認して、それぞれの本を開いた。
同じ本を読むわけではない。
会話もほとんどない。
ページをめくる音と、時折外を通る夜風の音だけが部屋に残る。
しばらくして、リビアの肩が俺の肩へ軽く触れた。
俺もそのまま読み続ける。
少し前にキスをしたからといって、会うたびにキスをする必要はない。
今日はこうして隣で本を読むのが心地いい。
俺が旅行記を一章読み終えたところで、リビアも本を閉じた。
「今日はここまで」
「俺もちょうど終わった」
「海、着いた?」
「着いたよ」
俺は旅行記を閉じながら、旅人が丘から初めて海を見た場面について話した。
「匂いが違うって書いてあった」
「どんな匂い?」
「潮の匂いって書いてあるけど、俺も知らないから分からない」
「私も分からない」
「じゃあ、行ったら確かめよう」
言ってから、俺は自然に出た自分の言葉に気づいた。
リビアも少し目を見開いている。
以前なら「いつか行けたら」と言っていた。
今も日程は決まっていないし、本当に行ける保証もない。
それでも俺は、行けない理由を先に並べることなく「行ったら」と言った。
「うん」
リビアがゆっくり笑う。
「一緒に確かめようね」
「うん」
それ以上の約束はしなかった。
いつ行くのか。
どこの海へ行くのか。
何日かかるのか。
誰と行くのか。
何も決まっていない。
それでも、未来の中に二人で海を見る可能性を置いておくくらいなら、今の俺にも出来る。
◇
リビアが部屋へ戻った後、俺は翌日の予定を確認してから寝台へ入った。
明日は通常授業。
明後日は、朝の体調と予定を確認して問題がなければベルナルト先生のところへ行く。
その先にはディーンの家へ遊びに行く日もある。
実技確認も近づいている。
リビアの委員会は今日の試験で一歩進んだが、まだ本運用決定ではない。
どれも途中だ。
けれど、途中だから落ち着かないとは思わなかった。
(全部、今すぐ終わらせなくていい)
俺は目を閉じる。
明後日の資料が何なのかは、まだ知らない。
淡灰晶と灰透晶の関係が分かるのかもしれないし、まったく別の内容かもしれない。
期待はしている。
でも、答えを決めてから資料を見に行くつもりはない。
見つかったものを見て、その時に考えればいい。
今日リビアたちが委員会でやったように、試して、問題を見つけ、必要なら次へ持ち越す。
分からないことを残したまま一日を終えても、明日は普通に来る。
それを知っているだけで、以前よりずっと眠りやすくなった気がした。




