第72話 遊びに行く約束
翌朝、目を覚まして最初に思い出したのは、今日ディーンへ昼食会の返事をすることだった。
もっとも、俺たちだけで参加を決められるわけではない。昨日グレイヴから聞いた限り、最初の候補日なら俺にもリビアにも外せない予定はなく、旦那様も学友同士の私的な集まりとして扱われるなら参加を妨げる理由はないと考えている。ただし、ロズベル子爵家側がリビアを「公爵令嬢を正式に招待する機会」ではなく「息子の学友として迎える日」と認識していることを確認してから返答することになっていた。
身支度を済ませて朝食室へ向かうと、リビアはまだ来ていなかった。俺が先に席へ座って温かい茶を受け取っていると、少しして扉が開き、銀青色の髪を揺らしながら彼女が入ってくる。
「おはよう、セス」
「おはよう。今日は俺の方が早かったね」
「本を読んでたら少し寝るのが遅くなっちゃった」
「昨日借りたやつ?」
「うん。思ってたより面白くて」
俺の隣寄りの席へ腰掛けたリビアは、用意された朝食へ手を伸ばしながら楽しそうに昨夜読んだ内容を話し始めた。
彼女が借りたのは現代の結界補修についてまとめられた本だ。古代結界研究のために選んだわけではなかったらしいが、実際に読み始めると、補修時に新しい術式を継ぎ足すより既存部分の負担を減らす方が良い場合があるという記述が気になったという。
「でも、古代資料と結びつける話じゃないよ」
「うん」
「普通に面白かっただけ」
「分かってるよ」
俺が笑うと、リビアも少し照れたように笑った。
以前なら、俺も聞いた内容をすぐ古代結界の記録と結びつけて考えていたかもしれない。今も興味はあるが、リビアが単純に本を楽しんでいるなら、それを無理に研究へ変える必要はない。
「セスの旅行記は?」
「まだ途中。海へ行く前に雨で足止めされてた」
「海に着いてないの?」
「うん。でも足止めされた町で工房を見学してて、それが結構面白かった」
「じゃあ、海に着く前から当たりだったね」
「そうかも」
朝食を食べながら、俺たちはそれぞれが一人で読んだ本の話をする。
昨夜は別々の部屋で過ごした。それでも今朝になれば、話したいことが自然に出来ている。
(こういうの、いいな)
同じことを一緒にしなくても、その後で互いの時間を持ち寄れる。
昨日考えていた未来の暮らしも、案外こういう小さな積み重ねの延長にあるのかもしれない。
食事が半分ほど進んだ頃、グレイヴが朝食室へ入ってきた。いつもの落ち着いた足取りで俺たちの近くまで来ると、まずリビアへ一礼し、それから俺にも視線を向ける。
「お嬢様、セス。ロズベル子爵家から返答がございました」
リビアがすぐに顔を上げた。
「昨日の件?」
「はい。昨夜、旦那様から先方へ簡単な確認を入れております。ロズベル子爵も今回を子息の学友同士による私的な昼食会として認識しており、過度な公式対応を行う予定はないとのことです」
「じゃあ、行っても大丈夫?」
「最初の候補日であれば問題ございません」
リビアの表情がぱっと明るくなる。
俺も思わず口元が緩んだ。
「俺も?」
「当然です。むしろ、セスは最初からロズベル子息の学友として招かれております」
「あ、そっか」
「ただし」
グレイヴが続けたため、俺は姿勢を少し正した。
「お嬢様の護衛については通常の外出と同様に手配いたします。ただし、屋敷内で常にお二人のそばへ付く形にはいたしません。ロズベル家側ともその点で認識を合わせております」
リビアが頷く。
「分かったわ」
「先方へ正式な返答を行ってよろしいでしょうか」
そこでグレイヴは俺ではなく、俺とリビアの両方を見た。
予定が空いているから自動的に参加するわけではない。
俺たち自身がどうしたいのかを確認している。
俺はリビアを見る。
「行きたい?」
「うん。セスは?」
「俺も行きたい」
リビアの笑みが深くなった。
「では、参加でお願いします」
「俺もお願いします」
「承知いたしました」
グレイヴは一礼したものの、そのまま立ち去らず、わずかに表情を和らげた。
「初めての学友宅への私的な訪問ですから、楽しんでいらしてください」
「うん」
俺が答えると、リビアが隣で嬉しそうに笑った。
◇
学園へ向かう馬車の中でも、リビアはどこか楽しそうだった。
「何するのかな」
「昨日ディーンが盤上遊戯あるって言ってたよ」
「セス、出来る?」
「基本的なのなら。グレイヴに教わったことある」
「強い?」
「分からない。家でしかやったことないから」
「グレイヴと?」
「うん。たまに旦那様とも」
そう答えると、リビアが妙な顔になった。
「それ、基準にならない気がする」
「何で?」
「お父様、盤上遊戯強いよ」
「そうなの?」
「社交の席でやることもあるから」
俺は思い返してみる。
旦那様にはほとんど勝った記憶がない。
(普通に俺が弱いと思ってた)
そのことを言うと、リビアが声を上げて笑った。
「セス、そういうところあるよね」
「何が?」
「すごく強い人としかやったことないのに、自分が弱いって思うところ」
「でもグレイヴにも負けるよ?」
「グレイヴも弱くないから」
「じゃあ今度リビアとやろうよ」
「いいよ。私もそこそこ出来ると思う」
「じゃあ昼食会の前にやる?」
「練習してから行くの?」
言われて、俺は少し考える。
「……別に勝つために行くわけじゃないか」
「そうだよ」
「じゃあやらなくていいや」
「帰ってきてからならやりたい」
「それはやろう」
予定が一つ増えた。
ただし、それは義務でも訓練でもない。
俺たちがやりたいから、いつかやるだけだ。
◇
教室へ入ると、ディーンはナナリーと話していた。
俺たちに気づいた彼がこちらを向く。昨日の返答を待っているのだろうが、自分から急かすことはせず、俺たちが席へ荷物を置くまで待っていた。
「ディーン」
俺から声をかける。
「家の確認取れたよ」
「本当か?」
「うん。最初の候補日なら二人とも行ける」
ディーンの顔が明るくなる。
「よかった!」
すぐ隣にいたナナリーも笑顔になった。
「私もその日で大丈夫です。昨日、家から許可をもらいました」
「じゃあナナリーも来るんだ」
「はい。ミリアナさんも同じ日で大丈夫だと言っていましたよ」
リビアが嬉しそうに手を合わせる。
「みんな集まれそうね」
「サザリーも昨日返事くれた。あいつも大丈夫だって」
「イザークは?」
俺が尋ねた直後、背後から声が飛んできた。
「行くに決まってんだろ」
振り返ると、本人が鞄を肩へ掛けたまま立っていた。
「木剣は?」
「持っていかねえよ。ディーンがうるせえから」
「当たり前だ!」
少し離れたところからディーンが反応する。
「でも庭は見せろよ」
「見るだけならいい」
「走るのは?」
「何で走る必要があるんだよ」
「広かったら走りたくなるだろ」
「子供か!」
朝から始まった二人のやり取りに、周囲の生徒から笑いが漏れる。
俺も笑いながら席へ座った。
友達の家へ行く。
ただそれだけの予定なのに、みんなで話しているだけで少しずつ楽しみが増えていく。
◇
一時間目と二時間目は通常の学科授業だった。
実技確認が近づいているからといって、授業の内容が急に試験対策ばかりになるわけではない。今日の歴史では王国南部の旧街道整備について扱い、続く法制度の授業では土地利用に関する基礎的な規則を学んだ。
俺はいつもどおりノートを取り、分からないところだけ印をつけておく。
休憩時間になったところで、サザリーが俺の席へやってきた。
「クルセス、昼食会へ参加するそうだね」
「うん。サザリーも?」
「ああ。父からも問題ないと言われた」
「何するんだろうね」
「それを決めずに集まるのも悪くないんじゃないかな」
サザリーはそう言ってから、わずかに笑う。
「僕たちは何かをするとき、先に目的と手順を決めることが多いからね」
「あ」
以前、サザリーと領地運営の課題をした時のことを思い出す。
俺たちは互いに考え方が近い部分があり、話が早くまとまりすぎることがあると分かった。だから意識して別の可能性を探す必要があると学んだが、今回はそもそも課題ではない。
「遊ぶのに目的いらないか」
「昼食を楽しむという大まかな目的はあるけれど、その後まで時間割のように決める必要はないだろうね」
「じゃあ、ディーンに何するか聞きすぎない方がいいかな」
「彼が準備したいことがあるなら別だけれど、少なくとも僕は当日に決めても構わないと思っているよ」
「俺もそうしてみる」
答えながら、少しだけ気が楽になる。
初めて友人の家へ遊びに行くから、何をすれば正しいのかを知らなければならないような気がしていた。
でも、友達と遊ぶのに正解を用意する必要はないのかもしれない。
◇
午前最後の授業は剣術だった。
今日は対人試合ではなく、二人一組で基本動作を確認する内容で、俺はイザークではなく別の男子生徒と組むことになった。
互いに木剣を構え、教師の指示に合わせて攻撃側と防御側を交代する。俺は相手の動きに合わせながら、踏み込みを必要以上に伸ばさないよう意識した。
ただし、一歩目や二歩目を毎回同じ形へ直そうとはしない。
以前イザークと確認したように、自分の動きの癖は、知っていれば選択肢として使える場合もある。今日の目的は癖を消すことではなく、決められた基本動作を安全に行うことだ。
「クルセス、次は受け側」
「はい」
教師の指示に従い、相手と役割を交代する。
相手の木剣が右上から入ってくるのを受け止め、勢いを流して距離を取る。強く弾き返す必要はないため、相手が姿勢を崩さない程度に力を逃がした。
「やっぱり受けるの上手いな」
組んでいた生徒が感心したように言う。
「グレイヴにずっと教わってたから」
「それであのアルフォルド殿下にも勝つのか……」
「毎回勝てるわけじゃないよ」
「一回でも十分すごいって」
苦笑されてしまった。
俺自身にとっては、勝てるかどうかより、今日の動きが自分の思ったとおりに出来ているかの方が気になる。
けれど、それを全部説明すると余計に変な顔をされそうなので、俺は「ありがとう」とだけ返した。
授業の最後には全員で身体の状態を確認し、違和感がある者は教師へ申告する。
俺には問題がなかった。
それでも「問題なし」と自分で確認してから終えることは、もう特別な行動ではなくなっている。
◇
昼食の時間になると、ディーンの家で何をするかという話が自然に始まった。
イザークは相変わらず庭に興味を示しているが、今日は木剣を持ち込むとは言わなかった。ナナリーは盤上遊戯をほとんどしたことがなく、ミリアナは逆に兄弟とよく遊んでいるらしい。
「オリビア様は?」
ミリアナに尋ねられ、リビアは少し考えてから答える。
「基本的なものなら出来るわ。でも、友達みんなで遊んだことはあまりないの」
「じゃあちょうどいいじゃないですか」
「そうね。楽しみ」
リビアが素直に答えると、ミリアナも嬉しそうに笑った。
俺はその様子を見ながら、昨日リビアが「同級生として行きたい」と言っていたことを思い出す。
公爵令嬢だから友達がいないわけではない。
でも、身分を気にせず誰かの家へ集まり、何をするかもその場で決めるような経験は多くないのだろう。
俺だけが初めてというわけではない。
「食事は何出るの?」
イザークが聞くと、ディーンが呆れた顔をした。
「お前はそればっかりだな」
「昼食会なんだから重要だろ」
「普通の昼食だよ。肉料理とパンとスープ、それから母が菓子を用意するって」
「菓子!」
「お前、そこだけ反応するなよ」
「何の菓子?」
「知らない。母に任せてる」
俺は少し気になって、ディーンへ尋ねた。
「何か持っていった方がいい?」
「いや、いらないって」
「本当に?」
「本当に。お前までうちを正式訪問みたいにするなよ」
「でも人の家に行くなら手土産とか……」
そこでリビアが俺の袖を軽く引いた。
「セス」
「何?」
「家同士として必要なものがあるなら、グレイヴたちが確認してくれるよ。私たちはディーン君がいらないって言ってるなら、それでいいんじゃない?」
「あ……そっか」
昨日、旦那様との勉強について考えたことと似ている。
自分で判断すべきことと、家同士で確認することを分ける。
友人として招かれているのに、俺が勝手に正式訪問へ変えてしまえば、ディーンの意図とずれてしまう。
「じゃあ何も持っていかない」
「そうしてくれ」
ディーンがほっとした顔をする。
サザリーが静かに笑った。
「クルセスは真面目だから、初めてのことほど正しい手順を探そうとするね」
「そんなに?」
「かなり」
「でも、今回は遊びに行くんだからさ」
イザークがパンを食べながら口を挟む。
「行って、飯食って、面白かったら笑って帰ればいいだろ」
あまりにも単純な答えだった。
でも、今回に限ってはそれが一番正しい気がした。
「イザークに教えられるとは思わなかった」
「どういう意味だよ!」
笑い声が食堂の一角へ広がった。
◇
午後の授業が終わった後、俺は特に予定がなかった。
リビアも今日は委員会がない。
「どうする?」
教室を出たところで聞くと、リビアは少し考えた。
「今日は早めに帰らない?」
「いいよ」
「帰ってから、昨日言ってた盤上遊戯する?」
「昼食会の練習?」
「練習じゃなくて、やりたいから」
「じゃあやろう」
俺たちはそのまま馬車へ向かった。
帰りの車内では、昼食会の話より授業の話をした。リビアは法制度の授業で扱った土地利用の部分が気になったらしく、公爵領の実際の制度とどの程度違うのかを父親に聞いてみたいという。
「お父様、説明長くなるかな」
「聞き方によるんじゃない?」
「『ちょっと教えて』って言ったら一時間くらい話しそう」
「旦那様ならありそう」
「セスも途中から質問増やすでしょう?」
「気になったら」
「じゃあ二時間になるね」
顔を見合わせて笑う。
窓の外では午後の街が流れていく。大きな出来事は何もないが、こうして学校の話をしながら帰る時間も、いつの間にか俺の好きな時間になっていた。
◇
屋敷へ戻り、着替えを済ませた後、俺とリビアは小居間で盤上遊戯をすることになった。
用意したのは、王国で広く遊ばれている二人用の戦略遊戯だ。正方形の盤上で複数種類の駒を動かし、相手の主将駒を追い詰めれば勝ちとなる。
俺はグレイヴから教わったことがあり、旦那様とも何度か対局したことがある。
リビアも家族や教師と遊んだ経験があるらしい。
「先、どっちにする?」
「リビアでいいよ」
「譲った?」
「どっちでもいいだけ」
「本当に?」
「本当」
疑うような視線を向けられたが、今回は本当にどちらでもよかった。
リビアが最初の駒を動かし、俺も応じる。
序盤は互いに大きく攻めず、中央付近へ駒を進めていく形になった。
「セス、慎重だね」
「旦那様相手に早く前へ出ると、すぐ囲まれるから」
「やっぱりお父様基準になってる」
「リビアは?」
「私はお母様とやることが多かったから」
「奥様も強いの?」
「お父様より強いよ」
「え」
俺の手が止まった。
リビアが吹き出す。
「セス、今すごい顔した」
「旦那様より強い人いるの?」
「いるよ。お母様」
「俺、奥様とやったことない」
「今度お願いしてみる?」
「もう少し強くなってからがいい」
「練習しないんじゃなかったの?」
「昼食会のためじゃなくて、奥様に一回くらい勝ってみたい」
「それならいいの?」
「やりたいから」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに目を細めた。
「うん。それならいいと思う」
対局を続ける。
中盤へ入ると、リビアは俺が想像していたより積極的に駒を前へ出してきた。俺が中央を固めようとしたところへ左右から圧力をかけ、守りへ回った駒を一つずつ動かしていく。
(これ、結構強いな)
俺は盤面を見つめる。
勝つためには、右側の駒を一度捨てて中央を開ける方法がある。ただし、リビアがその意図を読んでいれば逆に不利になる。
「長考?」
「考えてる」
「待つよ」
急かされることなく盤面を眺め、俺は右側の駒を動かした。
リビアの眉がわずかに動く。
その反応で読まれたかもしれないと思ったが、もう動かした駒は戻せない。
数手後、予想どおりリビアが中央へ踏み込んできた。
ただし、俺が想定していた位置より一つ手前で止まる。
「あ」
「罠だった?」
「途中まで」
「途中まで?」
「セスがこっちを空けるのは分かったけど、その後が分からなかったから、全部は乗らないことにしたの」
「慎重だね」
「セスに言われたくない」
そこからは互いに攻めきれない状態が続いた。
俺が一つ取ればリビアも一つ取り返し、リビアが中央へ出れば俺が横から押し戻す。
気づけばかなり時間が経っていた。
最終的に、俺が主将駒の逃げ道を一つ読み違え、リビアに詰められた。
「……負けた」
「やった」
リビアは派手に喜ぶわけではなかったが、口元を隠しきれないほど嬉しそうだった。
「強いね」
「セスに勝った」
「盤上遊戯では初めてやったんだから、普通じゃない?」
「それでも嬉しいの」
「もう一回やる?」
「やる」
即答だった。
俺たちは駒を並べ直す。
二戦目は俺が先手になった。
今度はさっきより少し早めに中央へ出る。リビアも対応を変え、最初とはまったく違う盤面になった。
俺はそれが面白かった。
剣とは違う。
魔術とも違う。
研究でもない。
それでも、相手が何を考えているのかを想像し、自分の手を選び、予想外の返しに対応することには独特の楽しさがある。
二戦目は俺が勝った。
「一勝一敗」
リビアが盤面を見ながら言う。
「もう一回やったら決着つくね」
「やる?」
俺が尋ねると、彼女は時計へ目を向けた。
夕食まではまだ少し時間がある。
それでもリビアは考えた後で首を横へ振った。
「今日はここまでにしようかな」
「分かった」
「続きはまた今度」
「うん」
勝敗を決め切らなくてもいい。
俺たちは駒を箱へ戻し始めた。
その途中で、リビアがふと手を止める。
「セス、楽しかった?」
「うん。思ってたより楽しかった」
「思ってたより?」
「旦那様とやると、いつもどうやったら負けないか考えてたから」
「それ、楽しくなかったの?」
「楽しくないわけじゃないけど、勉強に近かったかも」
「今日は?」
「遊んだ感じ」
答えると、リビアが嬉しそうに笑う。
「じゃあまた遊ぼうね」
「うん」
◇
駒を片づけ終えたところで、使用人がお茶を運んできた。
盤を下げてもらい、俺とリビアは隣り合う位置へ座り直す。窓の外では夕方の光が少しずつ薄くなり、庭の木々が長い影を落としていた。
「昼食会でもこれやるのかな」
「人数多いから、別の遊びもあるんじゃない?」
「みんなで出来るもの?」
「ディーンに聞けば分かると思う」
「でもサザリーが、当日に決めてもいいって言ってた」
「じゃあ当日まで知らなくてもいいか」
「うん」
俺は茶を一口飲む。
香りの柔らかな茶で、盤上遊戯に集中していた頭がゆっくり緩んでいく。
隣ではリビアが焼き菓子を一つ取った。
「セスも食べる?」
「もらう」
差し出された皿から一つ取る。
しばらく互いに何も話さず食べていた。
沈黙は気まずくない。
俺は窓の外を眺め、リビアは残った駒がないか箱の中を確認している。
やがて、彼女の肩が俺の腕へ軽く触れた。
わざと離れる必要もないので、そのままにしておく。
「セス」
「ん?」
「今日もキスしたい?」
突然の質問に、俺は少しだけ呼吸を止めた。
でも、もう以前のように、この話をするだけで何か大きな決断を迫られているとは思わない。
自分の気持ちを確かめる。
(したいかって聞かれたら、したい)
「うん。したいよ」
俺は正直に答えた。
「リビアは?」
彼女は俺の腕へ肩を触れさせたまま、少しだけ視線を下げる。
「私もしたい」
「じゃあ、する?」
すぐに顔を近づけるのではなく、言葉で聞く。
リビアは一度だけ小さく息を吸った後、俺を見た。
「うん」
俺たちは互いに少し身体の向きを変えた。
距離が近づくと、リビアの頬が赤くなっているのが分かる。俺自身もたぶん同じくらい赤くなっている。
俺は急がず、彼女が離れないことを確認してから顔を近づけた。
唇が触れる。
これまでよりほんの少しだけ長かった。
それでも、何かを求めて先へ進むような触れ方ではない。ただ互いに好きだと分かっている相手へ、今触れたいと思ったから触れる。
離れた後も、俺たちはすぐには身体を戻さなかった。
近い距離のまま目が合う。
リビアが恥ずかしそうに笑った。
「四回目」
「数えてるの?」
「セスは数えてないの?」
「覚えてはいるよ」
「じゃあ同じ」
俺も笑う。
胸は少し速く鳴っている。
もう一度したいかと聞かれれば、たぶんしたい。
でも、今すぐしなければならないとは思わなかった。
リビアも同じなのか、俺の肩へ少しだけ身体を預け、そのまま茶へ手を伸ばした。
「お茶、冷めちゃう」
「うん」
俺たちは普通に茶を飲み始める。
キスをした。
その後に特別な何かが起きるわけではない。
少し照れて、少し嬉しくて、そのまま同じ部屋でお茶を飲む。
(これでいいんだな)
以前リビアが怖がっていた「一度進んだら次へ進まなければならない」という感覚は、もうほとんど残っていないように見えた。
俺自身も、キスをしたから次は何をすべきかなどとは考えない。
したい時にする。
したくても場所や気分が違えばしない。
それだけだ。
◇
夕食の少し前、俺たちは小居間を出た。
廊下を並んで歩いていると、向こうからグレイヴがやってくる。
「盤上遊戯をされていたそうですね」
「うん。一勝一敗だった」
「ほう」
「リビア強いよ」
「存じております」
「グレイヴはリビアともやったことあるの?」
「何度か」
「勝った?」
聞くと、グレイヴは一瞬だけ沈黙した。
リビアが隣で口元を押さえる。
「……その反応、負けた?」
「勝敗は時の運でございます」
「グレイヴが誤魔化した」
「セス」
「はい」
声はいつもどおり落ち着いているのに、少しだけ圧があった。
俺が笑いを堪えると、リビアが代わりに笑い出した。
「今度三人でやろうよ」
「お嬢様がお望みでしたら」
「俺もやりたい」
「では、時間が合う際に」
また一つ、いつかやりたいことが増えた。
でも日程までは決めない。
出来る時にやればいい。
◇
夕食後、自室へ戻る前に、俺は廊下の窓辺で少しだけ立ち止まった。
外はすっかり暗くなっており、庭の通路には等間隔で灯りが点いている。昼間より冷えた空気が窓硝子越しにも感じられ、秋が少しずつ深まっているのが分かった。
今日はディーンの家へ行くことが正式に決まった。
盤上遊戯をして、リビアと一勝一敗になった。
それから、キスをした。
どれも誰かに命じられたことではない。
俺がしたかったことだ。
(俺、本当にやりたいこと増えたな)
少し前に自覚したばかりなのに、考えてみればもうかなりある。
剣を振りたい。
魔術をもっと知りたい。
古代測定器のことを調べたい。
友達と過ごしたい。
旅行記を読みたい。
いつか海へ行きたい。
リビアが見たいという雪の町にも、出来るなら一緒に行ってみたい。
旦那様やグレイヴから、婚約者として必要なことも学びたい。
そして、リビアの隣にいたい。
以前の俺なら、その中から「必要なもの」を選び、それ以外を削ろうとしていたかもしれない。
今は全部を同時に叶えようとは思わない。
出来る時に一つずつ選べばいい。
その日の自分が何をしたいのか考えて、相手の予定も聞いて、必要なら確認する。
今日の盤上遊戯だって、リビアが一人で本を読みたいと言っていたらやらなかっただろう。
キスも同じだ。
俺がしたくても、リビアがしたくなければしない。
リビアがしたくても、俺がしたくなければ断っていい。
互いにしたかったからした。
その単純さが、今はとても安心出来る。
◇
部屋へ戻り、俺は机の上に置いていた旅行記を開いた。
旅人はようやく雨の止んだ街道を進み始めていた。
足止めされたことで予定より数日遅れたものの、工房で知り合った職人から別の宿場を教えてもらい、当初とは違う道を選んでいる。
俺はその部分を読みながら、少し前にサザリーが言った言葉を思い出した。
何をするか決めずに集まるのも悪くない。
友人の家へ行く日に、何が起きるかはまだ分からない。
盤上遊戯をするかもしれない。
庭を歩くかもしれない。
イザークが結局走り始めるかもしれない。
サザリーと話しているだけで時間が過ぎるかもしれないし、ナナリーやミリアナが何か別の遊びを提案するかもしれない。
リビアがどう過ごすのかも分からない。
でも、それでいい。
俺は旅行記を数ページ読み進め、区切りのいいところで栞を挟んだ。
その時、机の端に置いていた予定表が目に入る。
昨日まで「ロズベル家・返答待ち」とだけ書いていた場所がある。
俺は筆記具を取り、その文字の横へ正式に決まった日を書き足した。
今度は「返答待ち」ではない。
参加が決まった予定だ。
ただ、書き込んだのは日時だけだった。
何をするかまでは書かない。
その空白は、当日になってからみんなで埋めればいい。
◇
それから三日後。
朝から薄い雲が空を覆っていたものの、雨は降っていなかった。
放課後になる頃には雲の切れ間から淡い光も差し始め、校舎と中庭をつなぐ渡り廊下の床へ細長い影が伸びている。
今日はリビアの委員会で、雨天時の誘導方法を実際の人数に近い規模で確認する日だ。
「じゃあ行ってくるね」
授業を終えたリビアは、教室で資料を鞄へ入れながら俺を見る。
「うん。終わる時間は?」
「今回は人数が多いから分からない。前より長くなるかも」
「分かった」
「セスはどうする?」
「図書館で旅行記読む。終わるまで待つって決めてるわけじゃないから、先に帰るかもしれない」
そう答えると、リビアは自然に頷いた。
「うん。私も終わったら連絡するね」
「じゃあまた後で。会えなかったら屋敷で」
「また後で」
リビアは委員会へ向かい、俺は図書館へ向かった。
待つために図書館へ行くわけではない。
旅行記を読みたいから行く。
その後で時間が合えば、一緒に帰ればいい。
◇
第二予備教室では、すでにマリエッタ先輩を中心に委員会の生徒たちが準備を進めていた。
――その場にいるリビアの視点から見れば、前回より明らかに人数が多い。
今回は実際の運用人数に近づけるため、委員会以外の協力生徒にも参加してもらっている。教室の入口近くには赤、青、黄、緑の四色の札が並べられ、それぞれには色だけでなく大きな番号も書かれていた。
「色だけを見て動かないよう、必ず番号も確認してください」
マリエッタ先輩が全体へ説明する。
「今回は教室内だけでなく、中庭側の廊下から入室し、校舎側の出口へ抜けるところまで確認します。雨天を想定していますが、実際には雨が降っていませんので、傘は開かず持った状態で移動してください」
リビアは入口付近の誘導役を担当する。
前回の少人数試験では色札と番号の組み合わせ自体に大きな問題はなかった。ただ、人数が増えれば、札を受け取る場所で詰まる可能性や、似た位置に複数の色が集中した時に迷う可能性もある。
(今日はそこを見るんだよね)
リビアは自分の担当位置を確認し、周囲の生徒との距離を取った。
開始の合図が出る。
中庭側から生徒たちが順番に入ってきた。
最初の数人は問題なく流れる。
しかし人数が増え始めると、赤札を受け取る列と青札を受け取る列の間で、一人の生徒が足を止めた。
「赤の三番は、こちらです」
リビアが声をかけると、生徒はすぐに進路を修正した。
その後ろの生徒も一瞬つられて止まりかけたが、番号を確認して別の列へ進む。
大きな混乱にはならなかった。
それでも、リビアは手元の記録紙へ短く印をつける。
(色だけなら、今の二人は同じ方へ行ってたかもしれない)
番号を併用した意味はあった。
一方で、別の問題も見えてきた。
教室へ入る直前の廊下で、札を確認するために歩く速度を落とす生徒が重なり、後方が少し詰まったのだ。
マリエッタ先輩もすぐ気づいたらしく、記録係へ何か伝えている。
全員の移動が終わった後、委員会の生徒たちはその場で簡単な確認を始めた。
「教室内の色分け自体は前回より安定しています」
マリエッタ先輩が記録を見ながら言う。
「ただし、入口直前で札を確認する生徒が集中しました。配布位置をもう少し中庭側へ離した方がよいかもしれません」
「私もそう思います」
リビアが答える。
「入口まで来てから番号を見ると、後ろの人も止まってしまいました。もう少し手前で札を受け取れば、歩きながら確認する時間が取れると思います」
「では、次は配布位置をずらして試しましょう」
まだ本運用は決めない。
うまくいった部分は残し、詰まった部分だけを調整する。
委員会の確認は、もう一度続けられることになった。
◇
その頃、俺は図書館の窓際で旅行記を読んでいた。
旅人は海沿いの都市まであと一日というところまで来ている。
窓の外へ目を向けると、空はまだ明るい。
時計を確認すれば、リビアたちの委員会が始まってからそれなりに時間が経っていた。
(まだやってるかな)
少しだけ気になる。
でも、本を閉じて迎えに行く必要はない。
俺は次のページを開いた。
会いたくないわけではない。
むしろ終わったなら会いたい。
それでも、自分の時間を途中で捨てなくても、会える時には会える。
旅行記の文字を追っているうちに、俺は自然に物語へ戻っていった。




