第71話 友人の家へ遊びに行くということ
翌朝、目を覚ました俺は、窓から差し込む光を見ながら身体の状態を確かめた。昨日は剣を振っていないため、一昨日のイザークとの稽古で残っていた腕の張りもほとんど消えており、肩をゆっくり回してみても気になるところはない。
だからといって、朝から剣を振ろうとは思わなかった。今日はディーンから昼食会の候補日を聞く予定があり、学園ではいつもどおり授業もある。それに、昨日正式に決まった実技確認の手順についても、追加練習は通常授業の範囲で十分だとエレナ先生から言われている。
(今日は普通に行けばいいか)
そう決めると、身支度を整えて部屋を出た。
朝食室へ入ると、リビアはすでに席についていた。目の前には温かなスープと焼きたてのパンが並んでおり、窓から入る朝の光が銀青色の髪へ柔らかく落ちている。
「おはよう、セス」
「おはよう、リビア」
向かいではなく隣寄りの席へ座ると、リビアが俺の腕をちらりと見た。
「腕、もう大丈夫?」
「うん。一昨日の張りもほとんどないよ」
「今日は剣やるの?」
「今のところ予定ない。イザークとも次の日は決めてないし」
「じゃあ今日は何もない日かな」
「ディーンから候補日聞くくらい?」
「あ、そうだった」
リビアの表情が少し明るくなる。昨日、ディーンから誘われたのは、王都にあるロズベル子爵家の屋敷で行う同級生中心の昼食会だ。
俺もリビアも行ってみたいとは伝えたものの、参加するとまでは答えていない。候補日を確認し、こちらの予定と、リビアが参加する場合に先方がどう受け止めているのかを確認してから正式に返事をすることになっている。
「誰が来るんだろうね」
「イザークとサザリーには声かけるって言ってた」
「ナナリーやミリアナも来るのかな?」
「聞いてみれば?」
「そうする」
リビアはパンを一口食べてから、少し考えるように首を傾けた。
「セス、友達の家に遊びに行ったことってある?」
「学園に入ってからはないかな。小さい頃も……友達の家っていう感じはなかったし」
スラムにいた頃は、そもそも「家へ遊びに行く」という感覚がほとんどなかった。シルフィール家の養子になってからも、執事として必要な勉強や訓練が多く、誰かの屋敷へ私的に遊びに行く機会はなかった。
リビアは俺の答えを聞いて、少しだけ目を丸くした。
「じゃあ初めて?」
「たぶん」
「私も、同級生だけの気軽な集まりってあんまりないかも」
「リビアはお茶会とか行ってたでしょ?」
「それは家同士のお付き合いがあるもの。最初から『公爵令嬢として参加する』って分かってるから、今回とはちょっと違うの」
言われてみればそうなのだろう。
公爵令嬢として招かれる正式な茶会と、同級生のディーンから「みんなで昼食を食べよう」と誘われることは、場所が貴族の屋敷というだけで意味が違う。
「だから行ってみたいんだ?」
「うん。セスたちと普通に遊びに行ってみたい」
「俺も」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
行けるかどうかはまだ分からない。それでも、行きたいという気持ちを先に持つことくらいは出来る。
◇
学園へ向かう馬車の中では、昨日話した将来の住む場所について少しだけ話した。
ただ、今すぐ答えを出すための話ではない。
「領地と王都を行ったり来たりするって、実際どのくらい大変なんだろう」
リビアが窓の外を眺めながら呟く。朝の街路には通勤や通学へ向かう人々が行き交い、馬車が速度を落とすたびに車輪の音へ人の声が混じった。
「距離にもよるよね。旦那様に聞いたら分かるかな」
「分かると思う。でも、お父様の移動と私たちの将来が同じになるとは限らないよ」
「じゃあ、どんな選択肢があるか聞くくらい?」
「うん。それなら聞いてみたい」
俺も同意して、それ以上は詰めなかった。
昨日の夜に思いついたことを、翌朝には人生設計へ変える必要はない。選択肢を知ってから考えればいいし、その頃には俺たち自身の希望も変わっているかもしれない。
しばらくして、リビアがこちらを見る。
「昨日のこと、まだちょっと恥ずかしい」
「何が?」
「……キス」
声が小さくなった。
俺も昨日の小居間を思い出し、少し頬が熱くなる。
「俺も思い出すと恥ずかしいよ」
「でも嫌じゃない?」
「全然」
「私も」
それだけ話すと、リビアは安心したように座席へ背を預けた。
キスをした翌日に、必ず何かを変えなくてもいい。昨日と同じように学園へ向かい、授業を受け、友達と話して帰る。その普通さが、俺には心地よかった。
◇
教室へ入ると、ディーンはすでに自分の席にいた。
俺とリビアを見つけると、机の上に置いていた二枚の紙を持って近づいてくる。昨日より少し緊張が薄れているように見えたものの、リビアの前まで来ると背筋が自然に伸びた。
「おはよう、クルセス。オリビア様」
「おはよう」
「おはよう、ディーン君」
「昨日話した日なんだけど、候補が決まった」
差し出された紙には二つの日付が書かれていた。どちらも休養日で、一つは次の休養日、もう一つはその翌週になっている。
「父にも昨日話したんだ」
ディーンはリビアを見てから、少し慎重に続けた。
「オリビア様にも声をかけたことを伝えた。父は驚いてたけど、今回については学園の友人同士の集まりとして扱って構わないって。ただ、パウリー公爵家の方でも問題ないか、正式に確認してほしいそうです」
「ありがとう。私もそのつもりだったわ」
「食事とかも特別な晩餐会みたいにはしない予定です。昼に集まって食事して、庭か談話室で過ごすくらいで……」
「それでいいよ」
リビアが答えると、ディーンは目に見えて安心した。
「よかった……父が急に『公爵令嬢をお迎えするなら食器から確認する必要がある』とか言い始めたから」
「変えなくていいって伝えて」
「言ったんです。でも母まで客室を確認し始めて」
「泊まらないよね?」
俺が聞くと、ディーンが勢いよく頷いた。
「昼だけだよ! 夕方までには解散するつもりだから!」
その声が少し大きかったらしく、近くで話していたイザークがこちらを向いた。
「何だ? もう日決まったのか?」
「候補日だけな。お前にも今渡す」
ディーンが別の紙を取り出す。
イザークは内容を確認すると、最初の日付を指で叩いた。
「俺はこっちなら多分空いてる。家に聞くけど」
「サザリーにも渡す予定だ」
「俺は?」
いつの間にか近くへ来ていたカイゼル殿下が、面白そうに会話へ加わった。
ディーンの顔が固まる。
「え」
「僕は誘われてないの?」
「いや、その……殿下を、うちの昼飯に……?」
「その反応だと誘ってないね」
「だって殿下ですよ!?」
ディーンが困り果てた顔をすると、カイゼル殿下は声を上げて笑った。
「冗談だよ。今回は君たちだけで楽しんできなよ」
「びっくりさせないでください……」
胸を押さえるディーンを見て、周囲からも笑いが漏れる。
アルフォルド殿下は少し離れた場所からその様子を見ていたが、自分から参加を求めることはなく、「友人の家へ遊びに行くなら、楽しんでくるといい」と穏やかに言った。
王族二人が加われば、さすがに「気軽な同級生の昼食会」では済まなくなる。そのあたりは二人とも理解しているらしい。
俺は改めて紙を見る。
「家で確認して、明日返事でもいい?」
「もちろん。急がなくていい」
「ありがとう」
まだ参加は決まっていない。
それでも、行ける可能性はかなり高そうだった。
◇
午前の授業では、昨日正式に決まった実技確認について全体向けの説明が行われた。
俺個人の追加手順については他の生徒へ細かく説明されず、全員に共通する基本評価項目だけが示された。剣術では基礎動作と安全な停止、魔術では出力・維持・停止、学科ではこれまで扱った範囲から確認が行われる。
順位を競うためだけの試験ではなく、自分がどこまで安定して出来るかを確認する意味が大きい。
説明を聞きながら、俺は昨日エレナ先生から渡された紙の内容を思い返した。
(追加で練習する必要はないって言われてるし、授業どおりでいいな)
そう考えた直後、以前の俺なら「本番までにもっと安定させなければ」と自主練習を増やしていたかもしれないと思う。
今は、必要な練習と、ただ不安だから増やす練習を少しずつ分けられるようになっている。
授業後、エレナ先生が教室を出る前に俺の方を見た。
「クルセス」
「はい?」
「念のため言っておくけれど、今日の全体説明を聞いて追加練習を増やさないように」
「増やしません」
「ならいいわ」
「先生、俺そんなに信用ないですか?」
思わず聞くと、エレナ先生は少し考えるように俺を見る。
「昔よりはかなりあるわよ」
「昔よりは……」
「だから一度言えば十分だと思っているでしょう?」
確かに、それ以上は何も言われなかった。
「分かりました」
「それと、水と土の記録についてはまだ整理中。結果が出るまで考えるのは構わないけれど、自分で再現確認はしないこと」
「はい」
エレナ先生は頷き、今度こそ教室を出ていった。
隣で聞いていたリビアが小さく笑っている。
「何?」
「ちゃんと信用増えてるね」
「『昔よりは』だけど」
「前なら先生、もっといっぱい条件言ってたと思う」
それは否定出来なかった。
◇
昼休みになる少し前、今度はリビアが上級生に呼ばれた。
廊下に立っていたのはマリエッタ・クロード先輩で、手には委員会で使っているらしい書類がある。
「オリビアさん、昼休みに少しだけよろしいですか?」
「はい」
「先日の色札確認ですが、次の試験日が決まりました。実際の運用人数に近づけて確認しますので、参加出来るか予定を見ていただきたくて」
「今日ですか?」
「いいえ、三日後の放課後です。今日は日程の確認だけです」
リビアは俺の方を一度見る。
俺は特に予定を合わせる必要もないため、そのまま頷いた。
「私は大丈夫です」
「ありがとうございます。今回は人数を増やしますので、第二予備教室だけではなく廊下から入室までの流れも確認します」
「一方通行の方向もですか?」
「ええ。中庭側から校舎側へ流す案を実際に近い人数で試します。ただし、本運用決定ではありません。問題があれば変更します」
「分かりました」
マリエッタ先輩は書類へ何かを書き込み、それから俺にも軽く会釈した。
「先日はお待たせしてしまいましたね」
「俺が勝手に待ってただけなので」
「オリビアさんはとても喜んでいましたよ」
「マリエッタ先輩!」
リビアが慌てて声を上げる。
先輩は楽しそうに笑った。
「では三日後、よろしくお願いします」
そのまま去っていく背中を、顔を赤くしたリビアが見送る。
「言わなくていいのに……」
「本当に嬉しかった?」
「……嬉しかったよ」
「俺も会えて嬉しかった」
答えると、さらに頬が赤くなった。
「セス、最近そういうこと普通に言うようになったよね」
「駄目?」
「駄目じゃないから困るの」
「じゃあいいんじゃない?」
「そういうところ」
何が問題なのかよく分からないまま、俺たちは昼食へ向かった。
◇
昼食の席では、ロズベル子爵家の昼食会が話題になった。
ディーンから誘われたサザリーは、俺たちと同じく家へ確認してから返事をするらしい。イザークはすでにかなり行く気になっており、「庭が広いなら木剣持っていっていいか」とディーンへ尋ねて断られていた。
「何で駄目なんだよ」
「うちに来てまで剣やるなよ。母に怒られるの俺なんだから」
「庭あるんだろ?」
「あるけど、昼食会だぞ?」
「食った後暇じゃん」
「談話室もあるし、盤上遊戯もあるし、本だってある!」
イザークとディーンのやり取りを聞きながら、ミリアナが呆れたように息を吐いた。
「イザーク君は誰かの家へ行ってまで剣を振らないと死ぬの?」
「死なねえけど、セスがいたらやりたくなるだろ」
「俺を理由にしないでよ」
「お前も嫌じゃねえだろ?」
「嫌じゃないけど、ディーンの家でやる必要はないかな」
「ほら、クルセス君の方がまともじゃない」
「くそ……」
イザークが本気で悔しそうな顔をするので、みんなが笑う。
ナナリーもディーンから誘われていたらしく、候補日の片方なら都合が合いそうだと言った。ミリアナも同様で、全員の都合が合えば普段昼食を共にしている友人の多くが集まりそうだった。
「でも、オリビア様が本当に来るなら、ディーン君のお家は大変じゃない?」
ナナリーが心配そうに尋ねる。
「それなんだよ」
ディーンは肩を落とした。
「父は『友人としてなら過度な対応はかえって失礼だ』って言ってるんだけど、母が朝から使用人に客間の花を確認させてた」
「だから泊まらないって」
俺が言うと、また笑いが起こった。
リビアも苦笑しながら口を開く。
「本当に普段どおりでいいの。私も同級生として行きたいから」
「帰ったらもう一回言います」
「お願い」
その会話を聞きながら、俺は少し不思議な気分になった。
リビアが公爵令嬢であることは変わらない。
相手が気を遣うのも当然だ。
でも、だからといって何も出来ないわけではない。立場によって必要になる確認をしたうえで、友達として遊びに行く方法を探せばいい。
(こういうのも、旦那様が言ってたことなのかな)
立場を無視するのではなく、立場だけで全部を諦めるのでもない。
俺が婚約者として学び始めていることは、思っていたより普段の生活に近いのかもしれなかった。
◇
午後は魔術の通常授業があった。
今日は属性魔法を使う日ではなく、基礎的な魔力操作と停止確認が中心だったため、俺も他の生徒と同じ内容を行う。手のひらの上に一定量の魔力を集め、教師の合図に合わせて維持量を変え、最後に完全に散らす。
特別なことは何もない。
それでも、俺は停止した後に自分の腕と胸の感覚を確認し、違和感がないことを確かめてから次の指示を待った。
少し離れた場所ではリビアも同じ課題を行っている。彼女の魔力操作は相変わらず滑らかで、指定量を変えるたびに手元の魔力光がほとんど揺らぐことなく大きさを変えていた。
教師が全体を見回しながら、何人かへ個別に助言する。
俺のところへ来た時には、手元を確認した後で頷いた。
「クルセス、そのままでいい。今日は追加なしだ」
「はい」
言われたとおり、最後まで全員と同じ内容だけを行った。
授業が終わると、イザークが隣へ来る。
「今日、普通だったな」
「普通の授業だからね」
「お前がいると先生が何か追加する気がして」
「毎回やらないよ」
「まあ、それもそうか」
俺たちは使った器具を片づけながら話す。
少し前なら、自分だけ何も追加されないことに物足りなさを感じていたかもしれない。今は普通の授業を普通に終えたことに、特別な意味を付ける必要もなかった。
◇
放課後、リビアは図書館へ寄りたいと言った。
三日後には委員会の確認が入ったため、今日のうちに借りている本を返し、新しい資料を一冊探しておきたいらしい。
「俺も行く」
「何か借りるの?」
「昨日読んでた冒険譚、もう少しで終わるから次の探そうかな」
「研究資料じゃなくて?」
「今日は普通の本」
そう答えると、リビアが嬉しそうに笑った。
「じゃあ一緒に探そう」
学園の図書館は放課後ということもあり、授業中より人が多かった。窓から入る午後の光が長い書架の間へ斜めに差し込み、紙と木の匂いが混ざった静かな空気の中で、生徒たちが小声で話しながら本を選んでいる。
返却を済ませたリビアは結界関係の棚へ向かい、俺は物語の並ぶ棚へ向かった。
同じ図書館にいるが、最初から一緒に本を探すわけではない。
俺は背表紙を順番に眺めながら、以前ならこういう時間にも魔術や剣術の本を選んでいたことを思い出した。そういう本が嫌になったわけではないが、今は単純に物語の続きを読みたい。
しばらく探していると、一冊の旅行記が目に入った。
王都から西へ向かい、海沿いの都市を巡った人物の記録らしい。
(海か)
以前、リビアといつか海へ行きたいと話したことを思い出す。
俺はその本を手に取り、数ページだけ開いた。港の様子や海沿いの市場、船について書かれているが、観光案内というより旅人の体験記に近い。
「それ、面白そう」
声に振り向くと、いつの間にかリビアが隣にいた。
「資料見つかった?」
「うん。一冊だけ。セスは旅行記?」
「海の町が出てくるみたい」
「借りる?」
「読んでみようかな」
「読み終わったら私にも貸して」
「いいよ」
俺が本を抱えると、リビアは自分が選んだ薄い結界術の資料を見せてくれた。
「私はこれ。古代資料じゃなくて、現代の補修方法についての本」
「今やってる研究と関係ある?」
「少しは。でも、直接比較するためじゃなくて普通に読みたかったの」
「じゃあ同じだ」
「何が?」
「読みたいから選んだ」
リビアは一瞬きょとんとしてから、柔らかく笑った。
「本当だね」
◇
貸出手続きを終えて図書館を出ると、廊下には西日が差していた。
今日は委員会も剣も研究もないため、このまま帰ることが出来る。俺とリビアは急がず昇降口へ向かいながら、借りた本について話した。
「旅行記読んだら、行きたい場所増えるかも」
「増えていいじゃない」
「全部行けるかな」
「全部行く必要もないでしょう?」
「それもそうか」
「その時一番行きたいところを選べばいいよ」
「リビアは海以外だとどこ行きたい?」
聞くと、彼女は少し考えた。
「北の山が見える町」
「寒いところ?」
「うん。冬はすごく雪が積もるんだって。子供の頃に本で読んで、一度見てみたいと思ってた」
「初めて聞いた」
「言ったことなかったもの」
「じゃあ覚えとく」
「今すぐ予定に入れなくていいからね?」
「分かってるよ」
リビアが笑う。
知らなかった彼女の希望が、また一つ増えた。
全部叶える約束をする必要はない。
ただ、知っていることが嬉しかった。
◇
屋敷へ戻ると、俺たちはまずグレイヴへディーンから受け取った候補日を伝えた。
グレイヴは執務用の小机で予定表を確認し、二つの日付を見比べる。俺とリビアは向かいに並んで立ち、返事を急かさず待った。
「セスについては、どちらの日も現時点で外せない予定はございません」
「リビアは?」
「お嬢様は二つ目の候補日の午後に、ご親族との予定が入る可能性がございます。まだ確定ではありませんが、最初の候補日の方が調整しやすいでしょう」
リビアが俺を見る。
「私は最初の日がいいな」
「俺も合わせられるよ」
言った直後、自分の言葉が少し気になった。
「……いや、合わせるっていうより、俺も最初の日でいい。どっちでも空いてるから」
グレイヴの口元がわずかに緩む。
「その区別は大切ですね」
「今の、前ならそのまま『リビアに合わせる』で終わってた?」
「おそらくは」
リビアも小さく笑った。
「私、セスが二つ目がよかったなら聞くつもりだったよ」
「特にどっちがいいってなかった」
「なら最初の日でいいね」
「うん」
グレイヴは予定表へ印をつけた。
「では、ロズベル子爵家側の確認が取れれば、その日でお返事して問題ございません。旦那様からも、学友同士の私的な昼食会として先方が認識しているのであれば、お二人の参加を妨げる理由はないと伺っております」
「じゃあ、ほぼ行ける?」
「先方の最終確認後となります」
「分かった」
俺はそこで一つ思い出す。
「服は?」
「制服ではございませんが、正式な訪問礼装までは必要ありません。私的な訪問に適した外出着で十分です」
「俺、持ってたっけ?」
「ございます」
「あるんだ」
「セスの衣類を管理しているのは誰だと思っているのですか」
「グレイヴ」
「正確には担当の使用人もおりますが」
少し呆れたように言われた。
隣でリビアが笑いを堪えている。
「リビアも普通の外出着?」
「その予定です」
「よかった。ドレスだったらディーン君のお母様がもっと大変になりそう」
「それは確かに」
グレイヴまで否定しなかった。
◇
夕食まで少し時間があったため、俺は借りてきた旅行記を持って自室へ戻った。
机に座って最初の数ページを読むと、王都から西へ向かう街道の話が始まっている。馬車で何日も移動し、途中の宿場町を経由して海へ出るらしい。
地図も簡単に載っていた。
ページを指で追いながら、いつかリビアと行くならどんな旅になるのだろうと考える。
(護衛も必要だろうし、二人だけで気軽にってわけにはいかないんだろうな)
公爵令嬢が長距離を旅行するなら、当然それなりの準備が必要になる。
でも、それを考えたからといって「無理だ」と結論を出す必要はない。
方法を知らないなら、その時に聞けばいい。
少し読んだところで本を閉じる。
夕食前に全部調べ始める必要もない。
◇
その夜、食事を終えた後は旦那様から呼ばれる予定もなく、俺とリビアはそれぞれ自由に過ごすことになった。
廊下で別れる前、リビアが借りた本を胸に抱えたまま俺を見る。
「今日は一緒に読まない?」
「読みたい?」
「今日は一人で読みたい気分」
「俺も自分の部屋で旅行記読みたい」
「じゃあ別々だね」
「うん」
少し前なら、せっかく予定が空いているのだから一緒に過ごす方がいいのではないかと考えていたかもしれない。
今はそう思わない。
会いたくなれば、明日の朝にはまた会える。
「おやすみはまだ早いけど、また明日」
「うん。また明日」
リビアは自分の部屋へ向かい、俺も反対側へ歩き出した。
数歩進んだところで、背後から呼ばれる。
「セス」
振り返ると、リビアがまだ廊下の途中に立っていた。
「何?」
「やっぱり、ちょっとだけ来て」
俺は彼女のところへ戻る。
何か忘れたのかと思ったが、リビアは本を片腕で抱え直すと、空いた手を俺へ伸ばした。
「手、繋ぎたくなった」
「今?」
「今」
俺は笑いながらその手を取る。
どこかへ行くわけでもない。
廊下の真ん中で、ほんの少しだけ手を繋ぐ。
「これでいい?」
「うん」
「部屋まで送る?」
尋ねると、リビアは少し迷ってから首を横へ振った。
「今日はここまででいい」
「分かった」
手を離すと、指先にわずかな温かさが残った。
「じゃあ本当にまた明日」
「また明日、セス」
今度こそ俺たちは別々の部屋へ戻った。
◇
――同じ頃。
自室へ戻ったオリビアは、扉を閉じてから抱えていた本を机へ置いた。
借りてきたのは現代の結界補修についてまとめられた資料で、以前から気になっていた本だった。読みたい気持ちは本物であり、セスと別々に過ごすと決めたことにも後悔はない。
それでも、椅子へ座る前に自分の右手へ目を落とす。
ほんの少し前まで、そこにはセスの手があった。
(私、前よりずっと我が儘になってるかも)
昔なら、セスがそばにいることは当たり前だった。
彼は執事として自分の後ろにいて、呼べば来てくれた。自分が寂しいと言えば、きっと予定を変えてでも一緒にいてくれただろう。
けれど今は、それを望んでいない。
セスには剣を楽しんでほしい。魔術も研究も、友人との時間も大切にしてほしいし、何もしたくない日には何もしないでいてほしい。
自分にも結界研究があり、委員会があり、一人で本を読みたい時間がある。
それでも、手を繋ぎたい時は手を繋ぎたい。
(これって、我が儘なのかな)
少し考えて、オリビアは首を横へ振った。
セスは嫌なら断れる。
自分も断れる。
先ほどだって、部屋まで送ってほしいとは思わなかったから「ここまででいい」と言えた。
以前より離れる時間が増えたのに、以前より彼を近く感じることがある。
その理由を、オリビアは少しずつ理解し始めていた。
(ずっと一緒にいるから安心するんじゃなくて、離れてもまた会えるって分かってるからなのかも)
セスは明日の朝になればまた会おうと言った。
それは執事としての予定ではない。
婚約者として義務だからでもない。
ただ、また会いたいと思っているから交わす言葉だ。
オリビアは頬を緩めると、ようやく椅子へ腰掛けて本を開いた。
今夜は一人で読みたい。
そして明日になったら、読んだ内容をセスへ話したい。
その両方を望んでいいことが、今は嬉しかった。
◇
俺はそんなリビアの考えていることを知らないまま、自室で旅行記を読み進めていた。
海沿いの都市へ着く前に、旅人が小さな宿場町で数日足止めされる場面がある。雨で街道が崩れ、予定どおり進めなくなったらしい。
旅人は最初こそ焦っていたが、その町で偶然知り合った職人と話し、予定にはなかった工房を見学する。
俺はその部分を読んで、少し笑った。
(予定どおりじゃなくても、面白いことはあるんだな)
何となく、今の自分にも似ている気がした。
俺はずっと執事になるつもりだった。
リビアのそばにはいたかったけれど、婚約者になる未来など考えていなかった。
学園で友達を作り、第一王子と剣を交え、古代の魔術測定器について調べ、友人の屋敷へ遊びに行く予定を考えることになるとも思っていなかった。
予定になかったことばかりだ。
それでも、今の俺はそれを嫌だとは思わない。
旅行記へ栞を挟み、今日はそこで本を閉じた。
読みたいからといって、一晩で読み切る必要はない。
◇
翌日の予定を確認するため、机の端に置いてある簡単な予定表へ目を向ける。
通常授業以外に確定しているものはない。
三日後にはリビアの委員会で、雨天時の誘導を実際の人数に近い形で確認する予定がある。俺には直接関係のない予定なので、その時間に何をするかはまだ決めていない。
ベルナルト先生の交易記録調査も待っているが、いつ呼ばれるかは分からない。
実技確認も来月だ。
旦那様との次の勉強の日程もまだない。
そして、ディーンの家へ行く日は、先方の確認が取れれば最初の候補日に決まりそうだ。
俺は予定表へ勝手に確定事項を書き込まず、紙の端に小さく「ロズベル家・返答待ち」とだけ記しておいた。
(明日、ディーンに確認すればいい)
それで十分だ。
机の引き出しには、婚約者として知りたいことを書いた紙が入っている。
昨日までは、そこへ何か思いつくたびに書き足したくなっていた。
でも今日は開かなかった。
友人の家へ遊びに行くことまで、全部「婚約者として学ぶべきこと」に変える必要はない。
もちろん、俺やリビアの立場が関わる部分はある。
先方への確認も必要だった。
けれど、その確認が終われば、あとは友達と昼食を食べて過ごす日でいい。
(何して遊ぶんだろう)
イザークは剣を持っていきたがっていた。
ディーンは盤上遊戯があると言っていた。
サザリーなら何か考える遊びの方が強そうだし、ナナリーやミリアナが何をしたいのかはまだ知らない。
リビアが友達の家でどう過ごすのかも見たことがない。
そう考えると、自然に楽しみになってくる。
俺は予定表を閉じ、寝る準備を始めた。
今日も大きな事件は起きなかった。
魔術の新しい秘密が判明したわけでも、古代測定器の正体が分かったわけでもない。婚約者として何か重大な役目を任されたわけでもなく、リビアとの関係が急に別の段階へ進んだわけでもない。
それでも、友人から遊びに誘われた日を楽しみに待てることは、俺にとって十分に新しいことだった。
誰かの役に立つ予定ではない。
仕事でもない。
訓練でも研究でもない。
行かなければ困る人がいるわけでもない。
それでも俺は行ってみたいと思っている。
(こういう予定も、俺の予定なんだな)
その当たり前のことが、今は少し嬉しい。
寝台へ入り、灯りを落とす。
明日はディーンへ返事をするための確認をして、その後はまた普通に授業を受ける。
その先には、リビアの委員会も、俺の実技確認も、古代測定器の調査もある。
まだ決まっていない予定もたくさんある。
けれど、その全部を一度に埋める必要はない。
何もない時間があれば、本を読んでもいい。
剣を振りたくなれば、条件を確認して振ればいい。
誰かに会いたければ、会いたいと言えばいい。
そして友達に遊びへ誘われたなら、行きたいと思った自分の気持ちを、そのまま大事にしていい。
目を閉じると、昼間に困った顔をしていたディーンと、木剣を持っていこうとして止められていたイザークの姿が浮かんだ。
思わず小さく笑いながら、俺は次の休養日が少しだけ楽しみになっている自分を、そのまま受け入れた。




