第70話 俺が選ぶ隣の場所
朝食を終え、学園へ向かう馬車へ乗り込んだ時から、リビアは何度か俺の顔を見ていた。
最初の一度なら気のせいだと思った。
二度目も、何か言いたいことがあるのかもしれない程度だった。
けれど三度目になると、さすがに気になる。
「リビア」
「何?」
「さっきから俺のこと見てない?」
「……見てる」
隠すつもりはなかったらしい。
「どうしたの?」
「昨日のこと考えてた」
「旦那様との話?」
「うん」
馬車が緩やかに揺れる。窓の外では朝の街並みが流れ、店を開ける準備をしている人や、荷車を引いて大通りへ向かう商人の姿が見えた。
リビアは膝の上で指を重ねながら、少しだけ考えてから口を開く。
「セスが最後に言ったでしょう? 私が反対しても、最初から全部諦めるとは決めないって」
「言ったね」
「あれ、まだ嬉しいの」
「そんなに?」
「そんなに」
即答された。
俺は少し恥ずかしくなって窓の外へ視線を向ける。
「でも、実際に意見が違ったら困ると思うよ」
「うん」
「昨日は話すって答えたけど、話しても決まらないことだってあるだろうし」
「あると思う」
「喧嘩もするかもしれない」
「するかもね」
それでもリビアは笑っていた。
「でも、セスが自分の希望を言ってくれない方が困る」
「どうして?」
「私だけが選んで、セスが全部合わせてくれたら、それって二人で決めたことにならないでしょう?」
昨日も似たことを考えた。
俺だけが諦めれば問題がなくなるという考え方は、一見すると簡単だ。
でも、それをリビアが望んでいるとは限らない。
「じゃあ、ちゃんと言う」
「うん」
「リビアも言ってね」
「もちろん」
「俺に合わせるの禁止」
「セスもね」
「うん」
互いに同じ約束をして、俺たちは少し笑った。
そのあとリビアは窓の外へ目を向けたが、しばらくしてから、もう一度こちらを見る。
「それとね」
「まだあるの?」
「ある」
彼女は少しだけ頬を赤くした。
「昨日、キスしたかったのにしなかったのも、なんか嬉しかった」
「俺もしたかったよ」
「知ってる」
「リビアもしたかったんでしょ?」
「うん。でも場所がよくなかったから、しなかった」
「それで抱きしめた」
「うん」
リビアは小さく笑う。
「出来るようになったからって、毎回しなくても大丈夫なんだって分かった」
「俺も」
「今日は?」
不意に聞かれた。
「今決めるの?」
「聞いてみただけ」
少し考える。
したいか、したくないか。
昨日の夜ほど強く意識してはいない。
「今はまだ分からない」
「私も」
「じゃあ、あとで」
「うん。あとで決めよう」
キスの予定まで朝から決める必要はない。
それで話は終わった。
◇
学園へ着き、教室へ入る。
昨日イザークと剣を交えたことで腕に軽い張りは残っていたが、痛みではない。朝も剣は振っていないため、今日の授業に支障はなかった。
席へ鞄を置いたところで、サザリーが近づいてくる。
「昨日の再戦、引き分けだったそうだな」
「もう聞いたの?」
「イザークが先ほど話していた」
見ると、教室の反対側でイザークがアルフォルド殿下に昨日の最後の攻防を説明している。
「一本取れなかったの、悔しかったみたい」
「君は?」
「俺も取りたかったよ。でも楽しかった」
「なら次もやるのか?」
「たぶん。そのうち」
「日程は決めていない?」
「うん」
「最近は本当にその形が増えたな」
サザリーはそう言ってから、自分の席へ戻ろうとした。
その途中で教室の扉が開き、エレナ先生が入ってくる。
まだ授業開始には少し早い。
教室の中にいた生徒たちが何となく先生を見る中、エレナ先生は俺を見つけて手招きした。
「クルセス、少しいい?」
「はい」
俺は席を立って前へ向かう。
「昨日の確認について、担当教員間で話がまとまったわ」
「実技確認ですか?」
「ええ」
昨日までは第一候補だった。
正式に決まったのだろうか。
「来月の実技確認では、あなたについて通常評価に加えて一部手順を調整する。内容は昨日説明した第一候補をほぼそのまま採用することになった」
エレナ先生は一枚の紙を差し出す。
「正式な手順よ。確認して」
「はい」
受け取って読む。
そこには、俺の追加確認について簡潔にまとめられていた。
指定された一属性を低出力で発生。
一定時間維持。
中程度まで出力を上げて維持。
再び低出力へ戻して維持。
停止。
その後、教員による体調と魔力状態の確認を挟む。
問題がなければ別の指定一属性を低出力で発生し、一定時間維持した後に停止。
評価対象は出力制御の安定性、指示への応答、停止の確実性、異常時の自己申告。
切り替え速度は評価しない。
連続した属性切り替えは行わない。
複合魔法は行わない。
迅雷撃破は使用しない。
古代測定器研究で扱っている資料や中継板を模した器具も使用しない。
「昨日の話どおりですね」
「ほぼね。二属性目へ進むかどうかは、最初の一属性が上手く出来たかではなく、体調と安全状態で判断することになったわ」
「失敗したら二つ目なし、じゃない?」
「違う。例えば低出力へ戻した時に形が多少乱れても、それだけで中止とは限らない。逆に形が完璧でも、本人が違和感を申告したなら止める」
そこは大事だと思った。
「じゃあ、水の時みたいに形が崩れても、そのまま見せる?」
「私から修正指示がなければね」
「分かりました」
「指定属性は当日にこちらで決める。ただし、五属性全部を対象候補にするかどうかはまだ別途調整中よ」
「まだ決まってないところもあるんですね」
「形式が決まっただけ。細部まで全部固定されたわけではないわ」
俺は頷いた。
正式決定になった部分と、まだ決まっていない部分。
そこを混ぜない。
「練習は通常授業の範囲で十分ですか?」
「十分。追加で一人で繰り返す必要はない」
「はい」
「それと、前回までに見られた水、土、風の違いは、この評価とは別に記録を残してある。研究的な確認をする場合はこちらから呼ぶわ」
「分かりました」
「勝手に?」
「やりません」
「よろしい」
エレナ先生は満足そうに頷き、そのまま教卓へ向かった。
俺は受け取った紙を持って席へ戻る。
◇
「決まった?」
リビアがすぐに聞いてきた。
「形式は正式決定。昨日の第一候補とほとんど同じ」
紙を勝手に渡していいか分からないため、内容だけ説明する。
リビアは最後まで聞いてから安心したように頷いた。
「連続切り替えなしなんだね」
「うん。速度も見ない」
「よかった」
「そんなに心配だった?」
「危険だからっていうより、評価と研究が混ざらなくてよかったって意味」
「俺もそう思う」
五属性を持っているからこそ、全部を一度に見たくなる。
でも、学校の実技確認は研究会ではない。
「水とか土の方は別に残ってるって」
「私の結界も?」
「昨日、先生が残してるって言ってたから、たぶん」
「じゃあ先生から言われるまで待つ」
「うん」
それだけ確認して、俺たちは授業の準備へ戻った。
◇
午前の授業が二つ終わった後、休み時間にベルナルト先生が教室へやってきた。
今度は俺だけでなく、リビアの名前も呼ばれる。
「クルセス、オリビア。少しよろしいですか」
「はい」
「何でしょう?」
廊下へ出ると、ベルナルト先生は一冊の薄い帳面を抱えていた。
「先日話していた淡灰晶の件ですが、少し進展がありました」
俺の意識が一気に研究へ向く。
ただ、先生はすぐに続けた。
「と言っても、物質の同一性が確認出来たわけではありません。名称の使われ方についてです」
「地域の工房記録ですか?」
「ええ。クルセスに話した後、資料庫の索引を確認しました。同じ時代から少し後の時期にかけて、北東部の工房記録で淡灰晶という名称が複数回使われています」
「灰透晶と同じですか?」
「そこはまだ分かりません」
俺が少し前のめりになったところで、すぐに線を引かれる。
「記載されている特徴には似た部分があります。薄く加工出来ること、魔力を通した際の変質が比較的少ないこと。ただし、産地の記述が一致しないものもあります」
「別の石かもしれない?」
「その可能性もありますし、地域によって産地の呼び方が違った可能性もある。加工後の名称だった可能性すら残っています」
候補が増えた。
でも、答えが増えたわけではない。
「今日呼んだのは、その資料を今すぐ読むためではありません」
「違うんですか?」
「次に調べる方向を伝えておこうと思いまして」
ベルナルト先生が帳面を軽く持ち上げる。
「工房記録を追う前に、同時代の交易記録を確認します。もし灰透晶と淡灰晶が同じ物質の地域名なら、異なる名称がどの地域間で流通していたかが手掛かりになる可能性があります」
「なるほど……」
工房だけを見るより、物が動いた記録を見る。
「それ、俺も見られますか?」
「整理出来た後なら。原資料は量が多く、状態も良くありませんから、まずはこちらで候補を絞ります」
「分かりました」
今すぐ資料庫へ行きたい気持ちはある。
でも先生が先に整理すると言っている。
それなら待つ。
「オリビアを呼んだ理由はもう一つあります」
「私ですか?」
「以前、あなたが扱っている古い結界資料について、クルセスから少し聞きました」
リビアの表情が真剣になる。
「はい」
「先日の記録にあった『受けた変化を一度に返さず、段階を分ける』という表現についてです。あなたの結界資料にも似た思想がある可能性はありますが、同じ技術だとは考えないでください」
「分かっています」
「ただ、時代的な技術思想として似た語彙が広く使われていたのかを調べる価値はあります。あなたの担当教師にもこちらから確認を取ります。許可が出れば、原資料を直接混ぜるのではなく、用語だけ比較するところから始めるのがよいでしょう」
リビアの目が少し明るくなる。
「私も参加していいんですか?」
「許可が出れば、ですが」
「はい。勝手には見ません」
「それで結構です」
俺とリビアは顔を見合わせた。
昨日の朝、互いの研究をもっと知りたいと話したばかりだった。
偶然ではあるが、その機会が少し近づいた。
「先生」
俺は一つだけ確認する。
「古代測定器とリビアの結界が同じ仕組みか調べるんじゃなくて、同じ時代に似た考え方の言葉がどのくらい使われてたかを見る、で合ってますか?」
「その理解でいいです」
「分かりました」
「そこを混同しなければ、比較する意味はあります」
ベルナルト先生はそう言い残し、授業の準備があるからと廊下を去っていった。
◇
教室へ戻る途中、リビアが嬉しそうに俺を見る。
「一緒に出来るかもしれないね」
「うん。でもまだ許可待ち」
「分かってる」
「俺も楽しみ」
「私も」
その一言だけで、足取りが少し軽くなる。
ただし、今日から共同研究が始まったわけではない。
ベルナルト先生が交易記録を調べ、リビア側の担当教師へ確認を取り、その後に必要なら用語比較へ進む。
まだその段階だ。
「セス」
「何?」
「もし一緒にやることになっても、私の結界研究を測定器に合わせなくていいからね」
「リビアも、測定器を結界に合わせないでね」
「うん」
「似てたら面白いけど」
「違ってても面白いと思う」
その答えが、何となく嬉しかった。
◇
昼休みになると、俺たちはいつもの顔ぶれで食事を取った。
エレナ先生から正式な実技確認の形式が伝えられたことを話すと、イザークが真っ先に反応した。
「じゃあ五属性連発は完全になしか」
「最初からやる予定ほとんどなかったでしょ」
「見てる側としてはちょっと惜しい」
「実技確認は見世物じゃないよ」
「分かってるって」
アルフォルド殿下が少し考えながら尋ねる。
「評価項目に自己申告も入ったのか?」
「はい。異常があった時にちゃんと言えるかも見るみたいです」
「それは良いと思う」
「殿下も?」
「高い能力を持つ者ほど、出来ることだけを見られやすいからな。止まる判断まで評価されるなら、学校としても健全だろう」
以前の俺なら、「止まることが評価になる」という考えはよく分からなかったかもしれない。
今は普通に納得出来る。
カイゼル殿下が俺を見て笑った。
「クルセス、そこ満点狙えるんじゃない?」
「点数つくか分かりませんよ」
「少なくとも最近の君なら、異常があれば言えるでしょう?」
「言います」
「成長したねえ」
「何で殿下までグレイヴみたいなこと言うんですか」
周囲から笑いが起こる。
そのまま話題はベルナルト先生の研究へ移った。
淡灰晶という地域名らしい記録が複数見つかったこと。
交易記録から名称の分布を追う予定であること。
リビアの古代結界資料についても、同時代の用語として比較する可能性が出たこと。
ただし、同じ技術だと証明されたわけではない。
「それ、かなり面白そうだな」
サザリーが珍しく少し身を乗り出す。
「物そのものより、名前の流れを追うのか」
「うん。交易記録なら、どこからどこへ運ばれたか分かるかもしれないって」
「名称が変わる境界まで見えれば、同一物か別物かを考える材料にはなりそうだ」
「でも産地が違う記録もあるみたい」
「なら、なおさらまだ決められないな」
「うん」
サザリーと話していると、答えを急がなくていいことが自然に確認出来る。
隣ではリビアがナナリーへ結界資料の話をしていた。
それぞれ別の研究をしていた俺たちが、少しだけ同じ机へ近づき始めている。
そのことが、単純に楽しみだった。
◇
午後の授業では、社交上の返答について簡単な演習があった。
昨日旦那様から出された質問と似た部分はあるが、こちらは婚約者としてではなく、生徒全員を対象にした一般的な内容だった。
教師が示したのは、ある貴族家の茶会へ招かれた時の返答である。
参加出来るか分からない場合、曖昧に承諾して後から断るより、その場では礼を述べたうえで予定を確認すると伝えること。
口頭の好意的な返事が、相手によっては承諾として扱われる場合があること。
俺は昨日の旦那様との会話を思い出した。
(やっぱり、似てる)
でも、同じではない。
授業では一般的な貴族同士の礼儀。
俺が学ばなければならないのは、それに加えて公爵令嬢の婚約者という立場がどう影響するかだ。
授業後、教師へ質問する。
「先生、本人は個人として答えたつもりでも、家の立場として受け取られることってありますか?」
「もちろんあります。特に家を代表する立場に近い者ほど、その傾向は強くなります」
「どうやって分けるんですか?」
「完全に誤解を防ぐ方法はありません。ただ、自分個人の意見なのか、家として確認が必要なのかを言葉にしておくことは有効です」
「例えば?」
「『私は興味がありますが、家としての返答は持ち帰ります』といった形ですね。ただし場面や相手との関係によって表現は変わります」
「分かりました」
「何か具体的な予定がありますか?」
「いえ。家で似た話をしていて」
「なるほど。なら、実際の家同士の関係についてはご家族から学ぶ方がよいでしょう。学園では一般論までです」
「はい。ありがとうございます」
俺は席へ戻った。
学校で学べること。
旦那様やグレイヴから学ぶこと。
それも分けていい。
◇
放課後は、珍しく何の予定も入らなかった。
イザークとの剣は昨日やった。
エレナ先生の確認も昨日終わった。
ベルナルト先生から研究の進展は聞いたが、今日は資料を読む日ではない。
リビアの委員会もない。
教室を出たところで、リビアが俺を見る。
「どうする?」
「今日は帰る?」
「真っ直ぐ?」
「うん。昨日剣やったから、今日は早めに帰って本読みたい」
「私も」
「じゃあ一緒に読む?」
「別々の本?」
「同じ部屋で別々の本」
リビアが笑う。
「それ、好き」
「俺も」
何か特別なことをしなくても、一緒にいられる。
そのまま馬車へ向かおうとしたところで、廊下の向こうからディーン・ロズベルが歩いてきた。
「あ、クルセス」
「ディーン」
彼とは以前、授業の後に婚約について少し話したことがある。
俺がリビアに無理やり婚約させられたという噂を聞いていたが、今の俺を見てそうではないと理解してくれた。
「少しいいか?」
「うん」
ディーンはリビアにも一礼してから、少し困ったように頬を掻く。
「大した話じゃないんだけど、今度うちで小さな集まりがあるんだ。学園の同級生を何人か呼ぶ予定で」
「集まり?」
「父が王都に持ってる屋敷で、休みの日に昼食を食べるくらい。堅いものじゃない」
昨日、旦那様から出された最初の質問が頭をよぎった。
親しい同級生から家へ誘われた場合。
まさか翌日に似た場面が来るとは思わなかった。
「俺も?」
「よかったら。イザークにも声かけるつもりだし、サザリーにも聞いてみようと思ってる」
純粋に友人としての誘いに見える。
俺は行ってみたいと思った。
でも、その場で「行く」と確定はしない。
「行ってみたい」
まず、自分の気持ちを言う。
ディーンの表情が明るくなる。
「本当か?」
「うん。でも予定と、家の方に確認してから返事していい?」
「もちろん。まだ日も二つくらい候補があるから」
「じゃあ候補日教えて」
「明日持ってくる」
「分かった」
そこで話は終わるかと思ったが、ディーンがリビアを見る。
「オリビア様も、もしよろしければ」
「私も?」
「はい。ただ、本当に同級生で食事する程度なので、公爵令嬢として正式にお招きするようなものでは……」
途中からディーンの顔に緊張が出始める。
リビアはそれに気づいたらしく、柔らかく笑った。
「ありがとう。私も行ってみたいわ。でも、セスと同じで予定を確認してから返事させてもらってもいい?」
「もちろんです!」
明らかにほっとしている。
「じゃ、じゃあ明日、二人に候補日を伝える」
「うん」
「ありがとう、ディーン」
ディーンは何度か頷いてから、足早に去っていった。
俺とリビアはその背中を見送る。
「昨日やったばっかりなのに」
「本当に来たね」
「でも、答えられた」
「うん」
「俺、行きたい」
「私も」
「旦那様に聞こう」
「そうしよう」
それだけだった。
学んだことを完璧に使えたかは分からない。
でも、昨日より少しだけ判断しやすかった。
◇
馬車へ乗ると、リビアが楽しそうに笑っていた。
「何?」
「セス、昨日の今日だったから、ちょっと驚いた顔してた」
「だって本当に同じようなの来たから」
「お父様が仕込んだわけじゃないよね?」
「さすがに違うでしょ」
「ディーン君、そんな演技出来なさそうだものね」
「緊張してたしね」
二人で笑う。
しばらくして、リビアが少し真面目な表情になった。
「私も行っていいのかな」
「何が?」
「ディーン君は同級生として誘ってくれたけど、私が行ったら公爵令嬢が来ることになるでしょう?」
俺は少し考える。
「だから旦那様に聞くんじゃない?」
「そうだね」
「行きたい気持ちは言っていいと思う」
「うん。行きたい」
「俺も」
自分の気持ちと、実際に行けるかどうか。
それを分ける。
昨日学んだばかりのことが、少しずつ現実の場面に重なってきた。
◇
屋敷へ戻り、ディーンから誘われたことをグレイヴへ伝えた。
「ロズベル子爵家のディーン様ですか」
「うん。まだ日付は候補が二つあるだけで、明日教えてもらう。俺もリビアも行ってみたいって答えたけど、予定確認してから返事するって言った」
「それで問題ございません」
「行きたいって言ったのは大丈夫?」
「今回の関係性と内容であれば、特に問題はないでしょう。ただし正式な招待状が届いた場合は、改めて内容を確認します」
「分かった」
「ロズベル子爵家とは敵対関係もなく、現在大きな政治的懸案を抱えている家でもございません。とはいえ、オリビア様が参加されるとなれば、先方のご当主がどこまで承知されているかは確認した方がよいでしょう」
「ディーンは同級生の集まりって言ってた」
「だからこそです。本人たちが気軽な集まりのつもりでも、ご家族が公爵令嬢の来訪を知れば対応を変える可能性があります」
「ああ……」
そこまでは考えていなかった。
「じゃあ、リビアは行かない方がいい?」
「そうは申しておりません」
グレイヴは静かに首を横へ振る。
「行きたいのであれば、先方にも気軽な学友の集まりとして扱っていただけるか確認すればよいのです」
「確認するだけ?」
「はい。問題があるかどうかは、その後判断します」
最初から諦める必要はない。
「分かった」
「候補日が分かりましたら、改めてお知らせください」
「うん」
話はそれで終わった。
◇
夕食後、俺とリビアは小さな居間でそれぞれ本を読むことにした。
同じ長椅子へ座っているが、読んでいる本は違う。
俺は古い冒険譚。
リビアは恋愛小説だった。
ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
最初のうちは本へ集中していた。
けれど、少しして隣から視線を感じる。
顔を上げる。
リビアが俺を見ていた。
「どうしたの?」
「別に」
「さっきから見てたでしょ」
「セスも朝、同じこと言ってた」
「今日はよく見られる日だな」
「嫌?」
「全然」
俺は本へ栞を挟んで閉じる。
「リビアは本読まないの?」
「読んでたよ。でも、ちょうど区切りいいところまで来た」
「俺も」
彼女も本を閉じた。
同じ部屋で別々のことをする時間は好きだ。
話さなくても落ち着く。
でも、今は話したくなった。
「ディーンのところ、行けるといいね」
「うん」
「友達の家に遊びに行くの、あんまりないから楽しみ」
「セス、前は屋敷と学園の往復が多かったものね」
「仕事もあったし」
「今もあるでしょう?」
「あるけど、前より自分の予定作るようになった」
「そうだね」
リビアが少し身体の向きを変え、俺の方を見る。
「セス」
「何?」
「今、幸せ?」
突然の質問だった。
すぐに答えようとして、少しだけ考える。
学園は楽しい。
剣も魔術も研究もある。
友達が出来た。
リビアと互いに好きだと言えるようになった。
婚約も、自分で望んでいる。
もちろん、分からないことは残っている。
レイゼルのことも完全に終わったわけではない。
古代測定器の研究も、魔術の出力調整も途中だ。
将来の仕事も決まっていない。
それでも。
「幸せだよ」
自然に答えられた。
リビアの表情が柔らかくなる。
「そっか」
「リビアは?」
「私も幸せ」
「じゃあ同じだね」
「うん」
少しだけ沈黙する。
その間に、俺は一つ思った。
「でも、幸せだから今のまま何も変わらなくていいって感じでもない」
「どういうこと?」
「やりたいこと増えてるから」
「剣とか研究?」
「それも。友達の家も行ってみたいし、リビアと海も行ってみたい。旦那様の仕事も知りたいし、リビアが将来何するのかも知りたい」
「いっぱいあるね」
「うん」
以前の俺にとって、未来は自分で選ぶものではなかった。
仕事があるなら働く。
主人が望むなら応える。
必要とされる場所にいる。
それで十分だと思っていた。
今は、少し違う。
「俺、やりたいこと考えるの好きになったかも」
口にすると、リビアが目を見開いた。
「それ、すごく嬉しい」
「そんなに?」
「だってセス、前は『何をしたい?』って聞くと、私がしたいことを先に聞いてたもの」
「今もリビアのやりたいこと知りたいよ」
「それはいいの。でも、セスの答えもあるのが嬉しい」
彼女の手が長椅子の上で少し動く。
俺はその手に自分の手を重ねた。
◇
指を繋いだまま、少しだけ互いを見る。
昨日はキスをしたいと思いながら、場所がよくなくてしなかった。
今日は朝の時点では分からなかった。
今は。
(したいな)
気持ちははっきりしていた。
「リビア」
「うん」
「今、キスしたい」
彼女の頬が赤くなる。
それでも、目は逸らさない。
「私も」
「ここなら大丈夫?」
小さな居間とはいえ、完全な私室ではない。
扉は閉まっているが鍵はかけておらず、使用人が必要なら声をかけて入ってくる可能性もある。
リビアも少し考えた。
「長くしなければ……いいと思う」
「誰か来たらやめよう」
「うん」
俺は一度手を離し、彼女へ身体を向ける。
以前のように、何度も確認を重ねる必要は感じなかった。
それでも、最後に一つだけ聞く。
「していい?」
「うん」
リビアも少し近づく。
唇が触れた。
これで三度目だ。
最初の時のような強い緊張はない。
二度目よりも自然に距離を縮められた。
それでも慣れ切ったわけではなく、触れた瞬間には胸が大きく鳴る。
ほんの数秒。
どちらからともなく離れる。
近い距離で目が合った。
リビアが少し笑う。
「今日は止まらなかったね」
「うん」
「怖くなかった」
「俺も緊張はしたけど、怖くなかった」
「三回目だから?」
「どうだろう」
回数だけが理由ではない気がする。
最初の時に止まれたこと。
昨日はしたいと思ってもしなかったこと。
そういう積み重ねがあるから、今日も無理をしなくていいと分かっている。
「もう一回する?」
リビアが聞く。
俺は自分の気持ちを確かめる。
「したい」
「私も」
「じゃあ――」
言いかけたところで、廊下から足音が聞こえた。
二人同時に止まる。
少しして扉が叩かれた。
「お嬢様、セス。お茶をお持ちしてもよろしいでしょうか」
使用人の声だった。
「はい!」
リビアが少し大きな声で答える。
俺たちは慌てて身体を離した。
扉が開き、侍女が茶器を載せた盆を持って入ってくる。
「失礼いたします」
「ありがとう」
侍女は何も気づいていないように見える。
茶器を置き、一礼して出ていった。
扉が閉まる。
俺とリビアは数秒黙った。
それから同時に笑ってしまった。
「危なかったね」
「悪いことしてるわけじゃないけどね」
「でも見られるのは恥ずかしい」
「俺も」
「もう一回は?」
俺はお茶を見る。
「今日はいいかな」
「私も」
さっきまではしたかった。
でも今は、二人で笑ったことで気持ちが少し変わった。
それも別におかしくない。
「お茶飲もう」
「うん」
俺たちは並び直し、今度は普通にお茶を飲んだ。
◇
少しして、リビアが自分の本を再び開く。
俺も冒険譚へ戻った。
けれど数ページ読んだところで、物語の主人公が故郷を離れる場面に差しかかり、俺はふと手を止める。
「リビア」
「何?」
「将来、俺たちどこに住むんだろうね」
「急にどうしたの?」
「本で主人公が家出たから」
リビアが笑う。
「まだ決まってないよ」
「うん」
「公爵邸かもしれないし、別の屋敷かもしれない。領地にいる時間が長くなるかもしれないし、王都と行き来するかもしれない」
「全部あり得る?」
「今はね」
「リビアはどれがいい?」
聞くと、彼女は本を閉じた。
「セスと一緒ならどこでも、って言いたいけど」
「けど?」
「それだけじゃ駄目なんでしょう?」
「昨日の話だとね」
リビアは少し考える。
「私は、研究を続けられる場所がいい」
「結界?」
「うん。それと領地の仕事もしたいから、ずっと王都だけは嫌かも。でも、学園を卒業した後も先生たちや研究資料に会えるなら、王都にも来たい」
「じゃあ行ったり来たり?」
「出来るなら」
「俺は……」
自分の希望を考える。
公爵領へ行くのが嫌なわけではない。
王都も好きになってきた。
学園を卒業すれば今と同じようには通えないが、ベルナルト先生の研究が続いているなら関わりたい気持ちもある。
「俺も、どっちかだけじゃなくていいかも」
「本当?」
「うん。領地も知りたいし、王都にも来たい。剣も魔術も研究も、場所によって出来ること違いそうだから」
「じゃあ、いつかそれもお父様に相談しよう」
「まだ早くない?」
「今すぐ決めるんじゃなくて、どんな選択肢があるか聞くだけ」
「それならいいか」
また一つ、将来について知りたいことが増えた。
でも今夜調べる必要はない。
◇
読書を終えて部屋を出る頃には、かなり遅い時間になっていた。
廊下へ出たところで、グレイヴと鉢合わせる。
「お二人とも、そろそろお休みになる時間です」
「今戻るところ」
「本を読んでいました」
リビアが答える。
嘘ではない。
途中でキスもしたが、本もちゃんと読んでいた。
グレイヴは俺たちの顔を一度見たものの、特に何も言わなかった。
「セス」
「何?」
「ロズベル子爵家の件について、旦那様にもお伝えしました」
「もう?」
「概要のみです。候補日が分かってから正式に確認するとのことでした」
「分かった」
「現時点で参加を禁じる理由はないとのことです。ただし、お嬢様の参加については先方の認識を確認してからとなります」
「うん」
「明日ディーンに聞けばいい?」
リビアが尋ねる。
「はい。ご本人を通じて確認していただいて構いません。必要であれば家同士でも連絡を取ります」
「分かりました」
グレイヴはそれだけ伝えると、仕事へ戻っていった。
俺とリビアも廊下の分かれ道まで進む。
「明日、聞こうね」
「うん」
「行けるといいな」
「俺も楽しみ」
そこで俺たちは手を振って別れた。
今日はもうキスをしない。
抱きしめることもしなかった。
でも、それで十分だった。
◇
自室へ戻り、制服を片づけてから机へ座る。
今日は色々なことが少しずつ進んだ。
来月の実技確認について、俺の追加手順が正式に決まった。
ただし、当日の指定属性など細かい部分には未確定事項が残っている。
ベルナルト先生の研究では、淡灰晶という名称が北東部の複数の工房記録に現れることが分かった。
でも灰透晶と同じ物質かは分からない。
次は交易記録を調べる。
リビアの結界研究とは、同じ技術だと考えるのではなく、同時代の用語や考え方を比較する可能性が出た。
ディーンからは、友人同士の小さな集まりへ誘われた。
行きたい。
でも、予定と家同士の扱いを確認してから返事をする。
そしてリビアとは三度目のキスをした。
もう一度したいと思ったけれど、途中で人が来たからやめた。
(今日、結構色々あったな)
それでも、どれか一つが突然大きく解決した日ではない。
むしろ、途中のものが増えた気がする。
実技確認は形式こそ決まったが、本番はまだ先。
古代測定器も答えは出ていない。
婚約者としての学びも始まったばかり。
ディーンの家へ行けるかも未定。
将来どこに住むかも分からない。
俺とリビアの関係だって、好きだと伝え合い、キスも出来るようになったけれど、それで完成したわけではない。
でも、以前ほど「早く答えを出さなければ」とは思わなかった。
俺は引き出しから、婚約者として知りたいことを書いた紙を取り出す。
『公爵としての旦那様の仕事と、任せ方』
『リビアが将来担うことと、本人がやりたいことの違い』
『使用人として働く側ではなく、雇う側の責任』
『護衛を自分だけでやらず、体制として考える方法』
『重要な家同士の関係。ただし友達を利益だけで見ない』
『自分の答えと、公爵家の答えを分けて考える』
少し迷ってから、その下へ一つだけ書き足した。
『二人で暮らす場所には、どんな選択肢があるのか』
書いた文字を眺める。
以前なら、この紙は「足りない知識の一覧」になっていたかもしれない。
今は違う。
俺が知りたいことだ。
知らないことが並んでいるのに、不安より楽しみの方が大きい。
(俺、本当に変わったな)
そう思ってから、少しだけ違う気もした。
剣が好きなのは前からだ。
魔術も、知らない仕組みを考えることも好きだった。
リビアを大切にしたい気持ちも、ずっとあった。
変わったというより、今まで自分の中にあったものを、自分の希望として認められるようになってきたのかもしれない。
俺は紙を引き出しへ戻し、椅子から立ち上がった。
◇
窓辺へ寄る。
夜の庭は暗く、ところどころに設置された魔導灯だけが道を照らしている。
この屋敷で、俺はずっと執事としてリビアの少し後ろを歩いてきた。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、そこは俺にとって大切な場所だった。
リビアを守り、必要なものを用意し、彼女が困らないように動く。
それが自分の役割だと思っていた。
今でも、執事として彼女を支えることを嫌いにはなっていない。
でも、それだけではなくなった。
学園では同じ生徒として並んで歩く。
友達と一緒に笑う。
別々の予定へ向かい、終わったら会いたいと思う。
俺は剣を振り、研究をする。
リビアは結界を学び、委員会で仕事をする。
互いに知らない時間があって、それでもあとで何をしていたのか話せる。
婚約者として学ぶことも、リビアに相応しい誰かへ変わるためだけではない。
俺が俺のまま、彼女と一緒に生きるために知っていく。
(俺は、リビアの隣にいたい)
もう、その気持ちに迷いはない。
好きだから。
婚約者でいたいから。
いつか結婚したいから。
それはすでに自分で選んだ。
けれど、隣にいるということが何を意味するのかは、まだ少しずつ覚えている途中なのだと思う。
リビアの後ろを歩いてはいけないわけではない。
必要なら前に出ることもある。
別々の道を歩く時間だってある。
大事なのは、いつでも同じ位置にいることではない。
俺が自分で戻りたいと思える場所が、彼女の隣にあることなのかもしれない。
窓の外へ視線を向けたまま、俺は小さく息を吐く。
(婚約者だから隣に立つんじゃない)
婚約を認められたからでもない。
公爵令嬢に選ばれたからでもない。
俺自身が、そこを選びたい。
その答えだけは、もう誰かに教えてもらう必要がなかった。
明日になれば、また知らないことが出てくるだろう。
実技確認の準備もある。
研究も続く。
ディーンから候補日を聞かなければならない。
婚約者としての学びも、これから少しずつ具体的になっていく。
リビアと意見が違う日も、いつか来るのだと思う。
そのたびに考えればいい。
分からないなら聞く。
決められないなら持ち帰る。
誰かに任せるべきなら任せる。
自分が望んでいることなら、それもちゃんと言葉にする。
そうやって一つずつ選び続けた先で、俺はきっと今よりもっと自然に、リビアの婚約者として立てるようになる。
俺はカーテンを閉じ、寝台へ向かった。
明日もまた、俺は学園へ行く。
剣を振る日もあれば、振らない日もある。
研究をする日もあれば、本を読むだけの日もある。
リビアとずっと一緒にいる日もあれば、別々のことをして過ごす日もある。
それでも最後に会いたいと思えるなら、それでいい。
(明日も、リビアに会いたいな)
毎朝一緒に学園へ行っているのだから、会えることはほとんど決まっている。
それでも、会う予定があることと、会いたいと思うことは別だった。
その違いを、今の俺は知っている。
目を閉じる直前、今日の小さな居間で笑ったリビアの顔が浮かぶ。
俺はその記憶を追い払わず、静かな満足感と一緒に眠りへ落ちていった。




