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第69話 婚約者だからではなく、俺自身の答えとして


 翌朝、目を覚まして最初に確認したのは身体の調子だった。


 昨日の魔術確認では風属性と火属性を低い負荷で扱っただけだったため、腕や肩に重さはなく、魔力を使った後に残る独特の疲労感もない。ベッドの上でゆっくり身体を起こしながら呼吸を整えてみても、胸の違和感や頭痛は感じなかった。


(今日は普通だな)


 だからといって、すぐに剣を持って庭へ向かう必要もない。


 昨日は魔術の確認があり、イザークから再戦の話も出ていた。今日の放課後に互いの予定が空いていれば短い稽古をする可能性はあるため、朝から身体を使う理由はなかった。


 俺は窓辺へ歩き、カーテンを開く。


 薄い朝日が庭へ差し込み、夜露を残した植え込みの葉が淡く光っている。昨日リビアと二度目のキスをした場所も窓から遠くに見えたが、そこを意識した途端、頬が少し熱くなった。


(……二回目だったんだよな)


 最初の時より緊張は少なかった。


 それでも、思い出せば胸の奥が落ち着かなくなる。


 ただ、以前のように「次はどうするのか」と考える必要はないことも分かっている。したい時には伝え、相手もしたいならする。途中で気持ちが変わればやめるし、その先に何かを続けなければならない決まりもない。


 そこまで考えたところで、扉が二度叩かれた。


「セス、起きていますか?」


 グレイヴだった。


「起きてるよ」


 返事をして扉を開けると、すでに執事長として身支度を整えた義父が立っていた。その手には一枚の紙があり、昨日エレナ先生から受け取った連絡を思い出したものの、紙の形が学園から届くものとは少し違う。


「旦那様より伝言です。本日の夕食後、三十分ほど時間をいただきたいとのことでした」


「婚約者としての勉強?」


「正式な講義を始めるわけではありません。今後扱う内容を整理する前に、セスが現在どこまで判断出来るかを確認しておきたいとのことです」


「試験?」


「試験ではございません」


 グレイヴは即座に否定した。


「正解数を測るものではなく、旦那様がいくつか具体的な状況を提示し、セスがどのように考えるかを確認するだけです。オリビア様も同席される予定です」


 以前、旦那様から最初に扱う候補として聞いた内容を思い出す。


 招待を受けた時、その場で答えていいものと持ち帰るべきもの。


 俺個人として答えられることと、パウリー公爵家の意思として受け取られる可能性があること。


 婚約者という立場で、どこまで約束していいのか。


「分かった。夕食後だね」


「はい」


「何か予習した方がいい?」


「必要ございません」


「本当に?」


「現在の判断を確認する前に正答例を覚えてしまえば、確認の意味が薄れます」


「それもそうか」


 俺が納得すると、グレイヴはわずかに目元を和らげた。


「分からない場合は、分からないと答えてください」


「うん」


「判断に迷った場合も同様です。旦那様がお知りになりたいのは、セスが何を知らないかも含めた現在地です」


 知らないことを隠す必要はない。


 俺はその言葉を頭の中に残してから頷いた。


     ◇


 朝食の席でリビアと顔を合わせると、彼女もすでに夕食後の話を聞いていた。


「私も一緒なんだって」


「グレイヴから聞いた」


「お父様、昨日まではまだ整理中って言ってたのに」


「講義じゃなくて確認だけみたいだよ」


「うん。私にも『セスの答えを先に教えないように』って言われた」


 リビアが少し不満そうに唇を尖らせる。


「教えようとしてたの?」


「少しくらいは相談してもいいかなって思ってた」


「駄目でしょ」


「分かってるからしてないもん」


 そう言いながらも、彼女の表情にはどこか楽しそうな色があった。


「でも、終わった後なら一緒に考えていいんだよね?」


「たぶん。むしろそのためにリビアもいるんじゃない?」


「だったら楽しみ」


「楽しみなの?」


「セスがどう考えるのか知りたいから」


 昨日の朝、彼女は俺が何を面白いと思っているのか知りたいと言っていた。


 それと似ているのかもしれない。


 俺も、リビアが公爵令嬢として何を考え、何を判断しているのか知りたい。


「じゃあ、終わったらリビアの考えも教えて」


「もちろん」


 俺たちはそこで話を切り上げ、いつものように朝食を続けた。


     ◇


 学園へ着くと、教室ではイザークが珍しく俺を見るだけで何も言わなかった。


 自分の席へ荷物を置いてから待ってみても、やはり声をかけてこない。


「イザーク」


「何だ?」


「今日、聞かないの?」


「何を?」


「剣」


 俺が言うと、イザークは一瞬きょとんとした後、妙な顔をした。


「お前から聞くのかよ」


「昨日、今日空いてたらって話したから」


「いや、そうだけど……今日は何かあるのか?」


「夕食後に家で予定ある。でも放課後は今のところ空いてる」


「体調は?」


「問題なし。朝は練習してない」


 イザークの表情が明るくなる。


「じゃあやろうぜ。前と同じ短いやつ」


「先生に場所と条件確認してからね」


「分かってる」


「勝手に始めないよ?」


「俺だってそこまで馬鹿じゃねえよ!」


 少し大きな声が教室へ響き、近くにいたミリアナが振り返った。


「朝から何を揉めているの?」


「揉めてねえ。セスと放課後に剣やる話してるだけだ」


「今度はイザーク君から無理に日程を決めたわけじゃないのね?」


「今日はセスから聞いてきたんだよ!」


 それを聞いたミリアナが俺を見る。


「珍しいわね」


「前にまたやろうって話してたから」


「なるほど。イザーク君、よかったわね」


「何で俺が子供みたいな扱いされてんだ?」


 そのやり取りを聞きながら、俺は自分でも少しおかしくなる。


 以前なら、相手から誘われる予定を受けることはあっても、自分から「今日やる?」と聞くことは少なかった。


 剣を振りたいから。


 友達とやりたいから。


 それだけで予定を作ってもいい。


     ◇


 昼休みまでに担当教師へ確認すると、第一剣術訓練場を短時間使用していいことになった。


 条件は前回とほとんど同じで、十分以内、一ポイント制、身体強化なし、迅雷撃破は禁止。防具を着け、教師が見ている状態で行い、どちらかに異常があれば即終了する。


 今回はアルフォルド殿下たちに見学の約束をしていたわけではなかったが、昼食の席でイザークが自分から話したため、結局いつもの顔ぶれに知られることになった。


「放課後、セスとやることになった」


「再戦か?」


 アルフォルド殿下が尋ねると、イザークが大きく頷く。


「前は一本取られたからな」


「今日取り返せるといいね」


 カイゼル殿下が笑う。


「軽く言いますね」


「僕が戦うわけじゃないから」


「見に来るんですか?」


「時間が合えば」


 俺がリビアを見ると、彼女も当然のように頷いた。


「私は見るよ」


「委員会は?」


「今日はないの。色札の次の確認は別の日だから」


 先日、雨天時の待機場所で試した四種類の色札と番号の組み合わせは、もう少し実際に近い人数で確認する予定になっている。ただし、その日程はまだ決まっていないらしい。


「じゃあ一緒に帰れるね」


「うん」


 俺が何気なく言うと、リビアが嬉しそうに笑う。


 その表情を見たカイゼル殿下が、わざとらしく視線を逸らした。


「最近、本当に隠さなくなったね」


「何をですか?」


「いや、いいよ。そのままで」


「何なんですか?」


「クルセス、追及しなくていい」


 アルフォルド殿下に止められた。


 理由は分からないが、隣でリビアが赤くなっているので、たぶん聞かない方がいいことなのだろう。


     ◇


 放課後、第一剣術訓練場には俺とイザークのほか、担当教師とリビア、アルフォルド殿下、カイゼル殿下が集まった。サザリーは別の用事があり、ミリアナとナナリーも今日は先に帰るらしい。


 防具を確認してから木剣を受け取り、俺とイザークは向かい合う。


「今日は変なこと試すなよ」


「どっちが?」


「お互いにだ」


「それなら分かった」


 前回は、互いに相手から指摘された足運びを意識して変化させた。


 俺は二歩目を大きく伸ばす癖。


 イザークは最初の踏み込みが自分で思っているより大きい癖。


 あの時は、互いがそれを知っていることまで利用した。


 だから今日は、それをさらに上回る新しい技術を試そうとは思わない。


(知ってることだけで、普通にやろう)


 教師の開始合図が出る。


 俺はすぐには踏み込まず、イザークも距離を詰めてこない。


 互いの木剣の先が届かない距離で、足の位置と肩の動きを見る。イザークが以前より最初の踏み込みを小さくする可能性もあれば、あえて大きく来る可能性もあるため、癖を知っていること自体を答えには出来ない。


 先に動いたのはイザークだった。


 左足で距離を調整しながら踏み込み、木剣が俺の右肩を狙う。


 俺は後ろへ大きく逃げず、半歩だけ位置をずらして受ける。木剣同士が乾いた音を立て、その反動を使うようにイザークが次の斬撃へ移った。


 速い。


 ただ、前より無理に距離を詰めていない。


 俺は二撃目を受け流し、そのまま前へ出ようとしてやめる。イザークも俺の二歩目を警戒していたらしく、すでに剣を戻していた。


「来ねえのか」


「待ってるでしょ」


「ばれたか」


 短く言葉を交わした後、互いに距離を取り直す。


 今度は俺から動く。


 一歩目は普段どおり。


 二歩目を伸ばすように見せて、途中で歩幅を抑える。


 イザークの木剣が少し遠い位置へ向かった。


 そこへ入ろうとした瞬間、彼の身体がこちらへ戻ってくる。


(読まれてた)


 俺が歩幅を変えることまで、もう知られている。


 木剣が胴へ近づくため、身体をひねりながら受け、そのまま距離を離した。


 見ていたアルフォルド殿下の声が外から聞こえる。


「互いに以前の癖を知ったせいで、逆に素直な動きが使いにくくなっているな」


「でも、前より面白いね」


 カイゼル殿下が続ける。


 俺にも聞こえているが、返事はしない。


 目の前のイザークが笑っている。


「やりづれえな」


「俺も」


「じゃあ、考えすぎるのやめるか」


「そうする?」


「おう」


 本当にやめるかは分からない。


 でも、その言葉を聞いて少し力が抜けた。


 次にイザークが来た時、俺は二歩目を普通に伸ばした。


 隠さない。


 変えない。


 以前から使っていた動きのまま距離を詰め、木剣を振る。


 イザークもそれを読んで受ける。


 木剣がぶつかり、互いの腕へ衝撃が伝わる。


 そこから無理に一本を取りにいかず、俺たちは何度か攻防を繰り返した。


 教師から残り時間を告げられた頃には、まだどちらも一本を取っていない。


(楽しいな)


 勝ちたい。


 でも、それだけではない。


 相手が次に何をするのか考え、自分も動き、失敗すれば距離を取り直す。その繰り返しそのものが楽しかった。


 残りわずかになったところで、イザークが踏み込む。


 今度は最初から大きい。


 俺が受けようと木剣を上げると、彼は途中で剣筋を変えた。


 肩ではなく胴。


 俺は受け切れないと判断し、後ろへ下がる。


 その時、イザークの踏み込みが少し深くなった。


 反撃出来る。


 そう思ったが、俺が前へ出るより先に終了の合図が響いた。


「そこまで!」


 俺とイザークは動きを止める。


 教師がこちらへ歩いてきた。


「時間終了。双方、有効打なし。引き分けだ」


「うわあ……」


 イザークが悔しそうに息を吐く。


「最後いけたと思ったのに」


「俺も反撃出来ると思った」


「じゃあどっちにしても終わってたな」


「うん」


 俺たちは顔を見合わせ、それから笑った。


 前回は俺が一本取った。


 今回は引き分け。


 だからといって、どちらが前より強くなったかを一回の結果だけで決める必要はない。


「またやろうぜ」


「うん。でも日程は――」


「分かってるよ。今決めねえ」


 先に言われてしまった。


     ◇


 防具を外して水分を取り、身体に異常がないことを教師へ報告する。


 腕に軽い疲れはあるが、痛みはない。


 リビアが近づいてきた。


「楽しそうだった」


「分かった?」


「ずっと」


「そんなに?」


「途中から勝つことだけ考えてなかったでしょう?」


 よく見ている。


「うん。勝ちたかったけど、普通に楽しかった」


「よかった」


 リビアはそれだけ言って笑った。


 以前なら、彼女は俺が怪我をしていないか真っ先に確認していた。


 もちろん今も気にしているだろう。


 でも、俺が自分で状態を確認し、教師へ報告することを分かっているから、最初に「楽しかった?」と聞けるようになっている。


 それが少し嬉しい。


 アルフォルド殿下も近づいてくる。


「良い試合だった」


「ありがとうございます」


「前回より互いに相手を知っている分、読み合いが増えていたな。ただ、最後は考えすぎずに動いていたように見えた」


「途中で二人とも面倒になりました」


「言い方」


 リビアが笑う。


 イザークも横から口を挟んだ。


「だって、セスが二歩目変えるかもしれねえし、変えないかもしれねえし、それ考えてる俺をセスも見てるしで、途中から訳分かんなくなったんですよ」


「それも対人戦の一部だろう」


「そうなんですけどね」


 アルフォルド殿下は楽しそうだった。


「次は私ともやろう」


「殿下との再戦も残ってましたね」


「忘れていたのか?」


「忘れてないです。予定が決まってないだけです」


「ならいい」


 次の約束が一つ増えたようで、まだ何も決まっていない。


 それくらいがちょうどよかった。


     ◇


 屋敷へ戻った後、入浴と着替えを済ませ、夕食を取る。


 剣の疲れは軽く残っているものの、身体に異常はない。食事中に旦那様から体調を尋ねられたため、そのまま伝えると、それ以上の確認はされなかった。


 夕食後、俺とリビアは旦那様の執務室へ呼ばれた。


 室内には旦那様とグレイヴがいる。


 机には数枚の紙が置かれているものの、教科書のようなものは見当たらない。


「座りなさい」


「はい」


 俺とリビアは並んでソファへ座った。


 旦那様は向かいの椅子へ腰掛け、グレイヴは少し離れた位置に立つ。


「先に確認しておくが、今日は講義ではない」


「グレイヴから聞きました」


「正解を求めるつもりもない。セスが現在、どのような基準で判断するのかを知りたいだけだ。分からないものは分からないと答えて構わない」


「はい」


「リビアは、私が質問した後、セスが答えるまで口を挟まないこと」


「分かっています」


 リビアは少しだけ背筋を伸ばした。


 旦那様が最初の紙を見る。


「では、一つ目だ。学園で親しい同級生から、休暇中に自家の領地へ遊びに来ないかと誘われた。相手は伯爵家の子息で、本人は純粋に友人として誘っているように見える。セスならどう答える?」


 俺は少し考える。


「その場では、行きたいかどうかは言ってもいいと思います。でも、行くって確定はしません」


「理由は?」


「俺が公爵家で仕事してるから、休みが取れるか分からない。それと……婚約者として行くことになるなら、俺個人が遊びに行くだけじゃなく見られる可能性があるから、旦那様かグレイヴに確認します」


「では、『行きたい』と言うこと自体は問題ないと思うか?」


「……相手による?」


「なぜそう思う?」


「『行きたい』を承諾だと思う人もいるかもしれないからです」


 旦那様が小さく頷く。


「続けなさい」


「親しい相手で、俺が『予定を確認してから』って言えば分かってくれるなら、『行きたい、確認してみる』でいいと思います。でも、正式な招待みたいな場なら、その場で気持ちまで言わない方がいいかもしれません」


「悪くない」


 正解ではないと言われていたのに、その一言で少し安心する。


「では二つ目。商会の会頭から、『パウリー公爵家との取引を増やしたいので、ぜひ口添えしてほしい』と頼まれた。相手は以前、セス個人を助けてくれた人物だとする」


「俺個人でお礼は出来ても、取引の口添えを約束するのは駄目だと思います」


「なぜ?」


「俺が決めることじゃないから」


「『旦那様に伝えておきます』なら?」


 少し迷う。


「……それも、言い方によっては期待させる?」


「そうだな」


「じゃあ、『俺から取引について約束は出来ません』って先に言って、それでも旦那様へ話があるなら正式な方法を案内する……ですか?」


「それが現在のセスの考えか」


「はい」


 旦那様は何かを書き込む。


 グレイヴも静かに聞いている。


「三つ目だ。今度はもっと曖昧にしよう。学園の友人が困っている。家の領地で橋が壊れ、修復に時間がかかっているらしい。セスはその話を聞き、『パウリー家なら何か手伝えるかもしれない』と思った。どうする?」


 これは少し難しい。


「友達本人に、助けてほしいのか聞きます」


「その後は?」


「助けを求めてるなら、俺が勝手に『公爵家が助ける』とは言わないで、旦那様に相談します」


「友人が『そこまで大事にしたくない』と言った場合は?」


「勝手に旦那様へ話さない……と思います」


 言いながら、少し引っかかる。


「ただ、人が死ぬ危険があるとか、放っておけない状態なら別です」


「そこをどう判断する?」


「分かりません」


 正直に答える。


「橋が壊れたってだけじゃ、俺には危険度が分からないです。別の道があるかもしれないし、生活に必要な橋かもしれない。だから詳しく聞くと思います」


 旦那様は今度もすぐには評価せず、しばらく俺を見る。


「それでいい」


「分からないで?」


「分からないから確認する、という判断も判断だ」


 胸の奥の力が少し抜けた。


     ◇


 質問はその後も続いた。


 舞踏会で知り合った貴族から個人的な約束を求められた場合。


 学園の友人から、リビアの予定を尋ねられた場合。


 公爵家の名前を出せば簡単に解決しそうな小さな揉め事に遭遇した場合。


 俺自身への侮辱と、公爵家への侮辱が同時に含まれる発言を受けた場合。


 答えられるものもあれば、迷うものもあった。


「俺のことだけなら、別に無視していいと思います」


 侮辱についてそう答えると、旦那様が眉を上げる。


「公爵家への侮辱まで含まれていてもか?」


「それは俺だけで決めない方がいいと思います。でも、何でも言い返したら余計に問題になるかもしれないから……覚えておいて、後で報告する?」


「相手が公の場で発言し、その場に多くの貴族がいる場合は?」


「……分かりません」


「では、そこは学ぶ必要があるな」


「はい」


 分からないものが見つかった。


 でも、恥ずかしいとは思わなかった。


 むしろ何を学べばいいのか少し見えてきた。


 最後の質問で、旦那様は紙を置いた。


「では、これは少し種類を変える。セスが将来、何らかの仕事を選びたいと思ったとする。その仕事が、公爵令嬢の夫として一般に想定される役割とは少し違っていた場合、どうする?」


 俺はすぐには答えられなかった。


 リビアも黙っている。


 これは招待への返事や、商会との約束とは違う。


「……まず、リビアに話します」


「私に?」


 それまで黙っていたリビアが思わず声を出し、すぐに口元を押さえる。


 旦那様は咎めなかった。


「なぜリビアに?」


「一緒に暮らすなら、俺の仕事でリビアの生活も変わるかもしれないからです。それに、リビアにもやりたいことがあるから」


「私にも……」


「結界の研究もあるし、公爵家の仕事もあるでしょ。俺だけで決められない」


「では、リビアが反対したら諦めるのか?」


 難しい質問だった。


 以前の俺なら、たぶん即座に「諦めます」と答えていた。


 リビアのためなら、自分の希望を捨てることを当然だと思っていたから。


 今は違う。


「理由を聞きます」


「それでも意見が合わなければ?」


「話します」


「どちらも譲れなければ?」


 俺は少し考えてから、首を横へ振った。


「今は分かりません。でも、最初から俺が全部諦めるとは決めないです」


 隣で、リビアが息を呑んだのが分かった。


「リビアにも諦めてほしくないから。俺だけ諦めればいいって決めたら、たぶんリビアも嫌がると思う」


「……嫌」


 今度は小さな声が聞こえた。


 俺は彼女を見る。


 リビアは少し目を潤ませながら、それでも笑っていた。


「絶対嫌。ちゃんと話したい」


「うん」


 旦那様はそんな俺たちをしばらく見た後、静かに頷いた。


「それを忘れなければいい」


     ◇


 確認は予定どおり三十分ほどで終わった。


 旦那様によれば、俺は基本的な礼儀や身分関係、家同士の約束についての知識そのものはすでにかなり持っているらしい。執事として学んできた内容と、学園で受けている教育が役立っているという。


 ただし、自分の発言が「公爵家の意思」として受け取られる可能性を判断する経験は足りない。


 特に、好意的な相手から頼まれた時。


 緊急性があるように見える時。


 俺自身なら簡単に引き受けられそうな時。


 そういう場面ほど、一度区別して考える必要があるらしい。


「今後の内容は、今日の結果を踏まえて組む」


 旦那様が言う。


「頻度は学園生活を圧迫しない範囲にする。毎週固定する必要もないだろう」


「はい」


「リビアも必要に応じて参加しなさい。お前自身も、将来公爵家を担う側として考える訓練になる」


「分かりました」


「今日はここまでだ」


 俺とリビアは礼をして立ち上がった。


 部屋を出ようとしたところで、旦那様に呼び止められる。


「セス」


「はい?」


「最後の問いへの答えは、以前のお前なら違っていただろうな」


 俺にも分かる。


「たぶん、すぐ諦めるって言ってたと思います」


「そうだろう」


 旦那様はそれ以上何も言わなかった。


 でも、表情は少しだけ柔らかかった。


     ◇


 執務室を出た後、俺とリビアは並んで廊下を歩く。


 夜の屋敷は静かで、壁に設置された魔導灯の光が長い廊下を淡く照らしている。少し前まで旦那様と話していた緊張が残っていたが、隣を歩くリビアの足取りは軽かった。


「セス」


「うん?」


「最後の答え、嬉しかった」


「全部諦めないってやつ?」


「うん」


 リビアは歩く速度を少し落とす。


 俺も合わせた。


「前のセスだったら、本当に私が反対しただけで諦めたと思う」


「俺もそう思う」


「それが嫌だった」


「うん」


「でも今は、私が反対しても理由を聞いてくれるんだね」


「聞くよ。リビアが何で嫌なのか分からないまま諦めても、たぶん良くないから」


「私もセスが反対したら理由を聞く」


「うん」


「それで喧嘩するかもしれないね」


「するかも」


「……セスと喧嘩するの、ちょっと怖い」


「俺も」


 幼い頃から一緒にいて、意見が違ったことなら何度もある。


 でも、将来の生活を左右するようなことで、本気でぶつかった経験はまだない。


「でも、喧嘩しないために何も言わない方が嫌かな」


「私も」


 リビアが俺の手へ指を伸ばす。


 俺も手を開き、自然に繋いだ。


「セスがやりたい仕事、いつか見つかるかな」


「分からない。執事も好きだし、剣も魔術も研究も好きだし」


「いっぱいあるね」


「全部仕事にしなくてもいいでしょ」


「うん」


「リビアも結界研究続けたい?」


「続けたい。公爵家の仕事もちゃんとしたいし、学園を卒業した後も出来るなら研究したい」


「じゃあ、その方法も一緒に考えよう」


「うん」


 未来の形は、まだ決まっていない。


 どこに住むのか。


 俺がどんな仕事をするのか。


 リビアがどの程度研究を続けられるのか。


 公爵家の仕事をどう分けるのか。


 分からないことばかりだ。


 それでも、分からないからこそ一方だけが全部捨てる必要はない。


     ◇


 リビアの部屋へ続く廊下の手前まで来たところで、彼女が足を止めた。


「セス」


「何?」


 リビアは少しだけ周囲を見てから、俺へ向き直る。


「今日はキスしない?」


 不意に聞かれ、胸が跳ねた。


「したい?」


「今は……ちょっとしたい」


 昨日は俺から言った。


 今日はリビアからだ。


「俺もしたい」


「じゃあ……ここは駄目だよね」


「使用人通るからね」


 二人で顔を見合わせる。


 それだけで少し笑ってしまった。


「部屋も夜だからやめた方がいいし」


「庭はもう暗いよ」


「今日はやめる?」


 リビアが尋ねる。


 俺は自分の気持ちを確かめる。


 したい。


 でも、場所を無理に探してまでする必要があるかと言われれば、そうでもない。


「今日はやめようか」


「うん」


 リビアは残念そうではあったが、不満そうではなかった。


「したいって思ってても、しない日があっていいんだね」


「俺も今そう思った」


「じゃあ代わりに……」


 彼女が少しだけ腕を広げる。


「抱きしめてもいい?」


「うん」


 俺は一歩近づき、リビアを抱きしめた。


 柔らかな髪が頬の近くへ触れ、彼女の腕が俺の背中へ回る。


 キスの代わりというより、今はこれがしたかった。


 少しの間そうしてから、互いに自然に離れる。


「おやすみ、セス」


「おやすみ、リビア」


「明日も会おうね」


「学園一緒に行くでしょ」


「そうだけど、言いたかったの」


「じゃあ、明日も会おう」


「うん」


 嬉しそうに笑ったリビアが、自分の部屋へ向かっていく。


 俺もその姿を見送ってから、自室へ戻った。


     ◇


 部屋へ入ると、今日使った木剣の感触と、旦那様から出された質問が同時に頭へ浮かんだ。


 剣では、イザークが俺の癖を知っているからこそ、変えることばかり考えて途中で動きにくくなった。


 最後は、知っている動きをそのまま使った。


 夜の話では、婚約者だから正しい答えを言わなければならないと思い込まず、分からないものは分からないと答えた。


 どちらも正解だったのかは分からない。


 剣は引き分けだったし、旦那様からも点数をつけられたわけではない。


 でも、嫌ではなかった。


(俺は、どうしたいんだろう)


 以前なら、その問いを向けられること自体が苦手だった。


 執事なら主人のため。


 婚約者ならリビアのため。


 養子ならグレイヴや家のため。


 それだけで答えを作ろうとしていた。


 今は少し違う。


 誰かを大切にすることと、自分が何をしたいか考えることは、どちらか一つではない。


 リビアと結婚したい。


 それはもう、彼女に望まれたからではなく、俺自身が望んでいる。


 剣を続けたい。


 魔術を知りたい。


 古い測定器の研究も面白い。


 執事の仕事も嫌いではない。


 友達とも過ごしたい。


 まだ一つの形にはならない。


 それでいい。


(婚約者だから、じゃなくて……俺がどうしたいかも考えていい)


 そして、俺がしたいことを選べば、それだけで全部が決まるわけでもない。


 リビアの望みがある。


 公爵家の立場がある。


 仕事があり、学園があり、友人がいて、守らなければならない約束もある。


 その間で考えることが、たぶんこれから必要になる。


 机の引き出しを開き、以前書いた紙を取り出す。


 婚約者として知りたいこと。


 そこへ新しく一つだけ書き加えた。


『自分の答えと、公爵家の答えを分けて考える』


 その下にもう一つ書こうとして、手を止める。


 今日の旦那様との話を全部まとめる必要はない。


 必要になれば、また学べばいい。


 俺はペンを置き、紙を引き出しへ戻した。


 明日は、来月の実技確認について正式な連絡が来るかもしれないし、来ないかもしれない。ベルナルト先生から古い工房記録の調査について声をかけられる可能性もあるし、リビアの委員会の色札確認が先に進むかもしれない。


 どれもまだ決まっていない。


 けれど、今夜一つだけ分かったことがある。


 リビアの隣にいるために、自分を全部変える必要はない。


 俺が何をしたいのかを考え、その答えを彼女と話し、必要なら公爵家とも相談していく。


 婚約者だから正しい答えを選ぶのではなく、俺自身の答えを持ったうえで、二人の答えを探していけばいい。


 それなら、まだ知らないことがたくさんあっても怖くなかった。


 俺は魔導灯を消すと、今日の引き分けを思い出して少しだけ笑いながら、静かに目を閉じた。

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