第68話 五つ使えるからこそ、一つずつ確かめます
翌朝、目を覚ました時に最初に浮かんだのは、剣でも昨日の婚約者としての話でもなく、エレナ先生の顔だった。
正確には、以前の魔術実技で水球の形がわずかに崩れた時、俺が手を加えようとする前に告げられた「そのまま」という言葉だった。
低出力から中程度まで上げ、再び低出力へ戻した水球は、魔力量そのものは指定された範囲まで落ちていたのに、表面の均一さが少し乱れた。別に確認した土属性では形の乱れこそ目立たなかったものの、最初の低出力時より土柱の高さがわずかに残った。
原因はまだ分からない。
水と土で現れ方が違っただけなのか、術式そのものの性質によるのか、それとも俺の制御方法に何か共通した癖があるのか。
考えようと思えばいくらでも考えられる。
(でも、考えるのと試すのは別だな)
ベッドから身体を起こし、腕や肩をゆっくり動かす。昨日は朝の剣練習をせず、放課後にも身体を使うような予定はなかったため、疲労はほとんど感じない。
今日は剣を振っても問題なさそうだった。
それでも着替えを始めたところで、廊下から控えめな足音が近づき、少しして扉が叩かれる。
「セス、起きてる?」
「起きてるよ」
返事をすると、扉の向こうからリビアの声が続いた。
「朝食の前に少しだけいい?」
「うん」
身支度を整えて扉を開けると、すでに朝の支度を終えたリビアが立っていた。銀青色の髪はきれいに整えられているが、まだ屋敷の中だからか、学園へ向かう時より少しだけ柔らかな雰囲気がある。
「どうしたの?」
「昨日、お父様と話したことなんだけど」
「婚約者としての勉強?」
「うん。寝る前に少し考えてたら、セスに言っておきたいことが出来て」
俺は扉の近くで向き合ったまま、続きを待った。
「私、お父様の仕事をセスが知りたいって言ってくれたの、本当に嬉しかった。でも、私が将来やることを全部先に覚えようとしなくていいからね」
「うん。昨日もそういう話したでしょ」
「分かってるんだけど、もう一回言いたかったの」
リビアは少しだけ照れたように笑い、それから俺の顔をまっすぐ見る。
「セスが私のことを知ってくれるなら、私もセスが好きなことをもっと知りたい。剣も、魔術も、古い測定器の研究も」
「結構知ってると思うけど」
「もっと。私が全部出来るようになりたいって意味じゃなくて、セスが何を面白いと思ってるのか知りたいの」
昨日、俺が旦那様の仕事について話したことと似ている。
相手と同じことを出来るようになるためではなく、相手が何をしているのか知るため。
「じゃあ、今度ベルナルト先生に許可もらえたら、研究の資料一緒に見る?」
「いいの?」
「先生がいいって言ったらね。原本は勝手に見せられないから」
「うん。ちゃんと聞いてからにする」
「俺もリビアの結界資料、また見たい」
「それも先生に確認しておくね」
互いの研究を勝手に混ぜるのではなく、それぞれの管理者へ確認したうえで知る。
それなら、昨日旦那様と話した「相手のことを知る」という考え方にも合っている気がした。
「それ言いに来たの?」
「うん。それと、おはようって言いたかった」
「さっき言ってないよ」
「あ、本当だ」
リビアが気づいて笑う。
「じゃあ、おはよう、セス」
「おはよう、リビア」
何でもない挨拶なのに、少し嬉しかった。
◇
朝食を終え、学園へ向かう準備をしているところで、グレイヴから一枚の紙を渡された。
「学園より、セス宛てに昨日の夕刻届いたものです」
「俺に?」
「エレナ先生からです」
名前を聞いた瞬間、朝に考えていたことが戻ってくる。
紙を開くと、内容は簡潔だった。
今日の通常授業終了後、体調に問題がなければ第二魔術訓練場へ来ること。先日の出力調整の確認結果を踏まえ、来月の実技確認で使用する手順について最終確認を行いたい。追加の高出力試験や五属性すべての確認は行わない。
最後には、体調不良や他の予定がある場合は延期可能とも書かれていた。
「今日なんだ」
隣から紙を見たリビアが言う。
「うん。放課後」
「私も行っていいのかな?」
「見学については書いてないね」
勝手についていくわけにはいかない。
「学校で先生に聞いてみる?」
「うん。駄目なら先に帰るか、図書室にいる」
「分かった」
俺は紙を折り直す。
昨日の時点では何も決まっていなかった今日の放課後に、一つ予定が入った。
それだけだった。
◇
教室へ入ると、イザークがすぐにこちらを見た。
「セス、今日こそ――」
「放課後、エレナ先生の確認入った」
最後まで聞く前に答えると、イザークが口を開いたまま止まった。
「……まだ何も言ってねえぞ」
「再戦でしょ?」
「そうだけどよ」
「今日は無理」
「先に予定入ったなら仕方ねえな」
以前のように、魔術の確認が終わったあと剣もやればいいとは考えない。
エレナ先生がどの程度の確認をするかはまだ分からないし、終わった時の疲労も分からないからだ。
「じゃあ明日な」
「明日空いてたらね」
「そこは相変わらず決めねえのかよ」
「今日の確認終わってからじゃないと分からないし」
「はいはい。もう慣れた」
イザークは笑いながら自分の席へ戻った。
近くで聞いていたミリアナが感心したように俺を見る。
「イザーク君が先に諦めるようになった」
「諦めてねえよ!」
「日程をその場で決めることは諦めたでしょう?」
ナナリーまで加わると、イザークは反論しかけて、結局何も言えなくなった。
俺はそんな三人を見ながら笑い、自分の席へ着いた。
◇
午前の授業が終わった休み時間に、廊下でエレナ先生を見つけた。
「先生」
「クルセス。連絡は届いた?」
「はい。今日、体調も問題ありません」
「そう。なら予定どおりでいいわ」
「一つ聞いていいですか?」
「何?」
「オリビアが見学してもいいですか?」
エレナ先生は少しだけ考えた。
「構わないわ。ただし、今日はあなたの確認が中心だから、オリビアに何か試してもらう予定はない。それでいいなら」
「はい」
「オリビア本人にもそう伝えておいて」
「分かりました」
そこで会話は終わるかと思ったが、エレナ先生が俺を呼び止める。
「それとクルセス」
「はい?」
「今日やるのは、あなたが前回うまく出来なかった部分を全部解決するための試験ではないわ」
「水と土のことですか?」
「そう。あれの原因究明は今日の目的ではない。実技確認として、安全に評価出来る手順を決めるための確認よ」
先に言われた意味は分かる。
俺が水と土で違う反応を見せた以上、続きを知りたいと思っていることも見抜かれているのだろう。
「分かりました。原因を調べるつもりでやりません」
「本当に?」
「……興味はあります」
「それは構わないわ」
エレナ先生の口元が少し緩む。
「興味を持つことと、目的を勝手に変えることは別だから」
「はい」
「放課後に」
「お願いします」
教室へ戻る途中、その言葉を頭の中で繰り返した。
(興味を持つことと、目的を変えることは別)
昨日まで考えていたことと、少し似ている。
何かが繋がって見えても、同じものにしてしまわない。
今日の確認は研究ではない。
◇
昼休み、リビアへ見学許可が出たことを伝えると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「見るだけね」
「先生からもそう言われた。今日はリビアの確認はしないって」
「分かってる。自分の結界の右側が遅れたことも気になるけど、勝手に試さないよ」
以前の実技で、リビアの基本結界も低出力へ戻す際に右側の調整がわずかに遅れた。
本人は当然覚えている。
「先生から言われたらやる?」
「その時はね。でも今日はセスの確認だから」
「うん」
サザリーが食事の手を止め、こちらを見る。
「実技確認の形式が決まるのか?」
「たぶん。先生は最終確認って言ってた」
「以前の案から変わる可能性もある?」
「あると思う。まだ正式決定じゃなかったから」
「五属性全部は?」
「やらないって書いてあった」
「迅雷撃破は?」
イザークが聞く。
「やるわけないでしょ」
「分かってるけど、一応」
「実技確認で使う予定は最初からないよ」
迅雷撃破は通常の身体強化とは違い、雷属性の魔力を使って身体能力を大きく引き上げる。出力を上げれば筋肉や神経だけでなく心臓にも負担がかかるため、学校の通常評価へ持ち込むようなものではない。
「複合魔法もたぶんなし」
「じゃあ本当に制御だけ見るんだな」
「うん」
イザークは少し物足りなさそうな顔をした。
「派手じゃねえな」
「評価なんだから派手じゃなくていいよ」
「お前が言うと説得力あるような、ないような」
「何で?」
「五属性持ってるやつが『一個ずつ低出力でやります』って言ってるから」
ミリアナが笑い、ナナリーも口元を押さえる。
俺自身は何もおかしいことを言ったつもりはなかった。
◇
午後の授業を終えたあと、俺とリビアは第二魔術訓練場へ向かった。
石造りの訓練場には高い天井があり、壁面には魔術の逸散を抑えるための術式が刻まれている。中央には複数の実技区画が白線で分けられているものの、今日は通常授業が終わっているため、俺たち以外の生徒はいなかった。
エレナ先生はすでに準備を終えていた。
机の上には記録用紙が数枚置かれているだけで、古代測定器の研究で使う資料も、中継板を模したものもない。
研究とは完全に分けられている。
「来たわね。体調は?」
「問題ありません」
「朝の運動は?」
「今日はしてません」
「昨日は?」
「朝に剣を二十分。今日は疲労なしです」
「痛み、痺れ、動悸、魔力を使った後に残る違和感は?」
「ありません」
エレナ先生は俺の返答を記録する。
「オリビアも来たわね。今日は見学だけよ」
「はい。分かっています」
「では始めましょう」
俺は指定された区画へ入った。
リビアは白線の外側、エレナ先生の少し後ろへ立つ。
以前なら、リビアに見られていると思うだけで「失敗しないように」と余計な力が入ったかもしれない。
今は違う。
(うまくやるより、先生の指示どおりやる)
前回、水球の形が崩れた時に学んだことでもある。
◇
「まず今日の目的を説明するわ」
エレナ先生は記録用紙を持ったまま、俺へ向き直った。
「来月の実技確認で、あなたに通常の生徒とまったく同じ内容だけを課すと、五属性を持つという特性の一部が評価出来ない。一方で、五属性すべてを一度に確認したり、切り替え速度を測ったりすれば、通常の学年評価としては負荷も情報量も大きすぎる」
「はい」
「だから、これまで考えていた案では、一属性の出力制御と停止、その後に状態が良ければ別属性への低出力切り替えを一度だけ行う予定だった」
以前聞いていた内容だ。
「ただ、前回あなたが低出力へ戻した時、水と土で違う乱れ方をした。だから今日は、切り替えを入れても安全に評価出来るかだけ確認する」
「原因を見るんじゃなくて?」
「そう。原因は別の問題」
「分かりました」
「今日は最初の属性を風にするわ」
水でも土でもない。
俺は頷く。
「低出力で発生。五秒維持。合図で中程度まで上げ、五秒維持。その後、合図で低出力へ戻して五秒。最後に停止。ここまでは前回と同じ考え方よ」
「はい」
「その後、一度完全に休止する。私が状態を確認して問題がなければ、二つ目として火属性を低出力で発生させる。ただし、風を維持したまま火へ切り替えるのではない」
俺は少し意外に思った。
「一回止めるんですか?」
「ええ」
「以前は、低出力のまま別属性へ一度切り替える案でしたよね」
「そう。でも今は、出力を下げる過程そのものにも観察すべき差がある。そこへ連続切り替えを重ねると、評価項目が増えすぎる」
納得出来る。
「じゃあ、実技確認では切り替え速度は見ない?」
「見ない。そもそも最初から速度競争をする予定はなかったでしょう」
「はい」
「五属性使えることを証明する場でもない。すでに適性そのものは把握されているから」
俺が五属性を持っていることを、毎回全部見せる必要はない。
「今日問題がなければ、実技確認は『指定一属性の出力調整と停止』、休止と状態確認を挟み、『別の指定一属性を低出力で発生・維持・停止』という形を第一候補にする」
「第一候補?」
「今日の結果を見て、他の教員とも確認してから正式決定する。私一人で今ここで決めるものではないわ」
「分かりました」
まだ決定ではない。
そこを覚えておく。
◇
最初は風属性だった。
俺は右手を軽く前へ出し、指定された位置に小さな風の球を作る。目には見えにくいが、訓練場の床に置かれた細い布片が一定方向へ揺れるため、風の流れは確認出来る。
「低出力、五秒」
エレナ先生の声に合わせ、余計なことは考えず維持する。
「中程度へ」
魔力量を増やす。
布片の揺れが強くなり、風球の周囲で空気が回る音が少し大きくなった。
「そのまま。三、四、五。低出力へ戻して」
魔力量を下げる。
水の時のように形が目で見えるわけではないため、自分の魔力感覚と布片の動きで確認する。
(下がった)
ただ、最初の低出力時より、風の流れが少し広がっている気がした。
直したくなる。
でも、先生から修正指示はない。
そのまま維持する。
「五。停止」
魔力を切る。
風が消え、布片がゆっくり床へ落ちた。
「手を下ろして」
従う。
「自分ではどう感じた?」
「低出力へ戻した時、最初より少し広くなった気がします。魔力量は戻したつもりです」
「他には?」
「特にありません」
「分かった」
エレナ先生が記録する。
リビアは何も言わず見ている。
俺も結果を説明しようとはしない。
今は先生の確認中だ。
「一分休止」
「はい」
何もしない。
火属性を準備することも、風の感覚を再現することもしない。
ただ立ったまま呼吸を整える。
◇
一分後、エレナ先生がいくつか確認した。
「違和感は?」
「ありません」
「魔力の流れは?」
「普段どおりです」
「動悸、息苦しさ、手の痺れ?」
「なしです」
「では火。低出力のみ。発生、五秒維持、停止。出力を上げないこと」
「はい」
今度は小さな火球を作る。
手のひらより少し先、指定された位置に淡い炎が灯る。
低出力なので熱気も強くない。
「維持」
炎を一定の大きさに保つ。
風の直後だからといって、急いで火へ変換したわけではない。
一度完全に止め、休んでから新しく発生させている。
「停止」
炎を消す。
それだけだった。
「終了。追加しないで」
「はい」
俺は手を下ろす。
「もう一属性試していいですか」と聞きたくなったが、口にする前にやめた。
今日の目的は、五属性を順番に確認することではない。
「体調は?」
「問題ありません」
「疲労感は十段階なら?」
「一くらいです」
「魔力消費の感覚は?」
「ほとんどありません」
エレナ先生が記録する。
「では今日はここまで」
「はい」
素直に白線の外へ出る。
リビアが少し笑った。
「聞かなかったね」
「何を?」
「もう一個やっていいですかって」
「言おうとは思った」
「やっぱり」
「でも目的違うから」
「うん」
リビアの表情には、以前のような心配よりも、見届けたことへの安心があった。
◇
エレナ先生は記録用紙を机へ置き、俺たち二人を呼んだ。
「今日の結果だけなら、連続切り替えを評価項目から外した方がよさそうね」
「俺が出来なかったからですか?」
「違うわ。今日はそもそもやっていないでしょう」
「あ、そっか」
「出来るか出来ないかではなく、学年の実技確認で何を評価するかという話よ」
俺は少し恥ずかしくなる。
「五属性を持つあなたについて、教師側が『せっかくだから全部見よう』と考え始めると、評価ではなく研究に近づいてしまう。逆に、通常生徒と完全に同じ一属性だけでは、複数属性を扱う際の基本的な安全確認が抜ける」
「だから二つ?」
「そう。指定一属性で出力の上げ下げと停止。完全停止と状態確認を挟んで、別の指定属性を低出力で発生し、維持して停止する。この程度なら、あなたの特性を無視せず、研究にも寄りすぎない」
エレナ先生はそこで一度言葉を切り、記録用紙へ視線を落とした。
「ただし、まだ正式決定ではない。他の担当教員と評価基準を合わせる必要があるから、今日のところは『この形式を第一候補として持ち帰る』まで」
「分かりました」
「属性は当日指定にする可能性が高いけれど、それも未確定」
「じゃあ練習は?」
「通常授業で行う範囲だけ。自分で五属性を順番に試す必要はない」
「はい」
「水、土、今日の風で、低出力へ戻した時の見え方がそれぞれ少し違った件は、実技確認とは別に残す。そこは私も興味がある」
俺は思わず顔を上げた。
「調べるんですか?」
「必要なら。ただし、研究として扱うなら条件を揃える必要があるし、あなた一人で試しても意味が薄い。術式の形、属性ごとの性質、出力測定方法まで考えなければならないから」
「水は形が乱れて、土は高さが少し残って、風は広がった感じでした」
「そうね。でも、その三つを並べただけで『共通の原因がある』とは言えない」
「はい」
「逆に『全部別の原因』ともまだ言えない。今分かっているのは、低出力へ戻した際に、三つの術式でそれぞれ観察出来る差があったというだけ」
俺は頷く。
分からないものを、分からないまま残す。
以前より、それが苦しくなくなっている。
「先生」
横からリビアが声をかけた。
「私の結界で右側が少し遅れたのも、同じように残っていますか?」
「残してあるわ。ただし、クルセスの結果と同じ原因だとは考えていない。あなたの場合は結界面の局所調整だから、まずはそちらだけで見る」
「分かりました」
「次に確認する時はこちらから指示する。それまでは二人とも勝手に再現しないこと」
「はい」
「はい」
俺とリビアの返事が重なった。
エレナ先生が少し笑う。
「返事だけなら優等生ね」
「実際やりませんよ」
「最近はそうね」
その言い方に、以前との違いを感じた。
◇
訓練場を出ると、夕方の光が廊下の窓から差し込んでいた。
俺とリビアは急いで帰る必要もないため、並んでゆっくり歩く。
「セス」
「うん?」
「今日、楽しそうだった」
「分かった?」
「風が少し広がったって気づいた時」
「顔に出てた?」
「ちょっとだけ」
「失敗なのに?」
「失敗って思ってないでしょ」
言われて気づく。
「うん。面白かった」
指定どおり完全に同じ形へ戻せなかったのだから、評価だけを考えれば改善点なのかもしれない。
でも、怖くはない。
「何で違ったんだろうって思った」
「私も気になる」
「でも勝手に試さない」
「うん」
「先生がやるって言ったらやる」
「うん」
リビアが笑う。
「本当に変わったね」
「またそれ?」
「だって、前だったら帰ってから水、土、風、火、雷まで全部同じ条件で試したくならなかった?」
「……なると思う」
「今は?」
「やりたいとは思う」
「思うんだ」
「でもやらない」
「そこが変わったの」
興味が消えたわけではない。
むしろ知りたい。
でも、知りたいことを全部その瞬間に試す必要はない。
◇
昇降口へ近づいたところで、後ろから聞き慣れた声がした。
「クルセス」
振り返ると、アルフォルド殿下とカイゼル殿下がこちらへ歩いてくる。
「殿下」
「魔術の確認だったそうだな」
「はい。今終わりました」
「どうだった?」
「来月の実技確認の形式を決めるための確認でした。まだ正式決定じゃないですけど」
俺は今日決まった範囲だけ説明する。
一属性で出力の上げ下げと停止。
完全停止と状態確認。
その後、別の指定属性を低出力で発生して維持し、停止する形式が第一候補になったこと。
「連続切り替えはやらないのか」
アルフォルド殿下が尋ねる。
「今の第一候補ではやらないみたいです。評価項目増えすぎるから」
「妥当だと思う」
殿下はすぐに頷いた。
「学年の確認で研究まで始める必要はないからな」
「俺も先生に似たこと言われました」
「クルセスの場合、教師が面白がって全部やらせたくなる危険があるからね」
カイゼル殿下が笑う。
「俺のせいですか?」
「君のせいというより、五属性全部を高水準で使える学生が珍しすぎるせい」
「でも今日は風と火だけでした」
「それで我慢出来た?」
「我慢っていうか……もう一個やりたいとは思いました」
「やっぱり」
「でもやってません」
「偉い偉い」
「子供扱いしてません?」
「十五歳は十分子供だよ」
「カイゼル殿下もそんなに変わらないですよね」
横でアルフォルド殿下が吹き出す。
カイゼル殿下は少しだけ不満そうな顔をした。
「最近、クルセスが言い返すようになった」
「友達だからいいかなって」
口にしてから、アルフォルド殿下を見る。
以前、旦那様から聞いたことを思い出した。
王族であることを忘れる必要はない。
でも、学園で築いた友人関係を全部政治的な利益へ変える必要もない。
アルフォルド殿下は俺の視線の意味までは知らないはずだが、穏やかに笑った。
「それでいい」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
◇
屋敷へ帰る馬車の中で、俺は今日の実技確認についてリビアと話していた。
「水、土、風で全部違ったね」
「うん。でも使った術式も違うからね」
「水球と土柱と風球だものね」
「だから属性の違いなのか、術式の形の違いなのか、俺の制御なのか、今は分からない」
「ベルナルト先生の研究みたい」
「何が?」
「分からないものを、一個ずつ分けていくところ」
「確かに」
ただし、古代測定器と今日の実技は別の話だ。
似た考え方を使っていても、資料や結果を直接結びつける理由はない。
「古代測定器の方に持っていかないようにしないと」
「私も結界研究に持っていかないようにする」
「似てるからって同じじゃないもんね」
「うん」
そこで話が一段落する。
馬車の窓からは、夕暮れの街並みが流れていく。
俺は向かいに座るリビアを見る。
彼女もこちらを見た。
昨日はキスをしなかった。
一昨日に初めてした。
今日、それをどうするかはまだ話していない。
(今日は……したいな)
昨日よりはっきりそう思った。
言っていい。
俺たちはそう決めている。
「リビア」
「うん?」
「今日、キスしたい」
リビアの目が少し大きくなり、すぐに頬が赤くなる。
「今?」
「今じゃなくていいよ。屋敷着いてからでも」
「そっちじゃなくて……今日したいって、セスから言ってくれたんだね」
「言っていいって決めたから」
「うん」
リビアは膝の上で両手を重ね、少しだけ考える。
俺は返事を急かさない。
「私も、今日はしたい」
胸が温かくなる。
「じゃあ、帰ってから?」
「うん。でも、どこでする?」
それは考えていなかった。
「廊下は人来るね」
「庭はもう暗くなるし」
「リビアの部屋は?」
言ってから、少しだけ迷う。
婚約者とはいえ、夜に二人きりで長く部屋へいるのは別の意味を持つかもしれない。
「昼間ならともかく、夜はやめた方がいいかな」
「私もそう思う」
「じゃあ、夕食前に庭?」
「少しだけなら」
「寒かったらやめよう」
「うん」
そこで決まった。
キスをするためだけに大げさな予定を作る必要はない。
帰って、着替えて、夕食までの間に庭へ出る。
嫌になったらしない。
それだけだ。
◇
屋敷へ戻ると、グレイヴへ今日の実技確認について報告した。
「正式決定じゃないけど、一属性で出力調整と停止、一回休んでから別属性を低出力で発生して停止する形式が第一候補になった」
「連続した属性切り替えは行わないのですね」
「うん。評価項目が増えすぎるからって」
「妥当かと存じます」
「今日は風の出力を上げて下げたら、最初より少し広がった感じがあった。水と土とはまた違った」
グレイヴの視線が少し鋭くなる。
「その後、ご自身で確認は?」
「してない。先生からも禁止されてる」
「承知しました」
「火は低出力で一回出して止めただけ」
「体調は?」
「疲労一くらい。痛みも違和感もなし」
グレイヴは頷く。
「それなら本日の追加訓練は不要でしょう」
「俺もやらないつもり」
「よろしいかと」
報告はそれで終わった。
俺が何かを我慢しているか確認するような長いやり取りはない。
これも、今では普通になった。
◇
部屋で着替えを済ませ、約束した時間に一階へ下りる。
リビアはすでに待っていた。
屋敷の庭へ出ると、夕方の冷えた空気が頬へ触れる。日中は暖かかったが、日が沈み始めると季節らしい冷たさが戻ってきていた。
「寒くない?」
俺が尋ねると、リビアは肩に掛けた薄手の外套を整える。
「大丈夫。セスは?」
「平気」
庭の奥までは行かない。
屋敷から少し離れたところにある小さな木立の近くまで歩き、立ち止まった。
ここなら屋敷から完全に見えなくなるわけではないが、使用人が頻繁に通る場所でもない。
「セス」
「うん」
「本当に今日したい?」
「したいよ」
「私も」
前回とは違う。
リビアの声には緊張があるものの、怖さに押されている感じはしなかった。
「今していい?」
「うん」
俺は一歩近づく。
すぐに唇へ行かず、彼女の表情を見る。
「頬、触っていい?」
「うん」
前回と同じように確認し、そっと頬へ手を添える。
リビアの肌は外気より温かい。
彼女も俺の服の袖を軽く掴んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「止めたくなったら言ってね」
「セスもね」
「うん」
互いに少しずつ近づく。
前回の最初のように、途中で身体が硬くなることはなかった。
それでも俺の心臓は速い。
リビアも同じなのか、近づくほど呼吸が少し浅くなる。
彼女が目を閉じる。
俺も目を閉じた。
唇が触れる。
前回より、ほんの少しだけ長かった。
それでも数秒ほどだ。
どちらからともなく離れると、リビアが目を開ける。
「……二回目」
「うん」
「やっぱり、どきどきする」
「俺も」
「でも今日は怖くなかった」
「よかった」
俺が頬から手を離そうとすると、リビアが少しだけその手へ自分の手を重ねた。
「もうちょっとだけ、このまま」
「うん」
頬へ触れたまま、俺たちはしばらく向き合う。
キスをしたから次へ進まなければならないとは思わない。
もう一度する必要もない。
今は、この距離が心地よかった。
「セス」
「何?」
「今日は私から言う前に、セスがしたいって言ってくれたの嬉しかった」
「俺も言いたかったから」
「これからも言ってね」
「リビアもね」
「うん」
彼女の手が頬から俺の手を離し、そのまま指を絡める。
今度は手を繋いだ。
「戻ろうか」
「うん。ちょっと寒くなってきた」
「じゃあ戻ろう」
無理に庭へ残らず、屋敷へ向かう。
今日の二回目のキスは、前回よりずっと静かだった。
でも、静かなことが物足りないとは思わなかった。
◇
夕食では、旦那様から昨日の話について新しい決定が出ることはなかった。
婚約者としての学びについては、旦那様とグレイヴが内容や担当者を整理している途中らしい。昨日出た「月に数回程度」という頻度もまだ案の段階で、学園の予定と重ならないようにするという方針だけが改めて確認された。
「急ぐ必要はない」
旦那様がそう言い、俺も素直に頷いた。
「はい。決まったら教えてください」
「そうする」
それだけで話は終わる。
俺は食事をしながら、少し前までなら「いつ決まりますか」と聞いていたかもしれないと思った。
今は必要ない。
決まった時に聞けばいい。
◇
食後、自室へ戻る前にリビアと廊下で別れる。
今日はもうキスをしない。
その確認すら必要なかった。
「おやすみ、セス」
「おやすみ、リビア」
「また明日」
「うん。また明日」
彼女が自室へ向かうのを見送ってから、俺も部屋へ戻った。
机の上には昨日書いた、婚約者として知りたいことの紙が入った引き出しがある。
その隣には、ベルナルト先生との研究内容をまとめたノート。
棚には学園の教科書。
剣は決められた場所に置いてある。
どれも今の俺にとって大事なものだ。
今日はその中に、エレナ先生から示された実技確認の第一候補が加わった。
まだ正式決定ではない。
だから、決定したものとして準備はしない。
(指定一属性で出力を上げて下げて停止。一回休んで、別属性を低出力で出して止める……か)
もしその形式になっても、特別な練習は必要ない。
通常授業でやっていることを、指示されたとおり行えばいい。
属性が当日指定になっても、それで困るとは思わなかった。
五つ使える。
だからといって、五つ全部を一度に見せる必要はない。
◇
ベッドへ入る前、今日の風属性の感覚を思い出す。
低出力から中程度へ上げ、再び低出力へ戻した時、魔力量は戻っている感覚があったのに、風の広がりは最初よりわずかに大きかった。
水は表面の均一さ。
土は高さ。
風は広がり。
三つとも違う。
(面白いな)
それ以上、頭の中で原因を組み立てるのはやめた。
考えるだけなら危険はないとしても、今の情報では何を考えても仮説が増えるだけだ。
先生も必要なら条件を揃えて調べると言っていた。
その時に考えればいい。
代わりに、夕方の庭を思い出す。
二回目のキス。
前回より少し長く触れて、それでもその先へは進まなかった。
リビアは怖くなかったと言った。
俺から「したい」と言ったことを喜んでくれた。
(次も、したい時に言えばいいんだな)
毎日する必要はない。
何回したから次はもっと長くしなければならない、という決まりもない。
剣でも魔術でも研究でも恋愛でも、何でも同じだとは思わない。
それぞれ別のものだ。
ただ、一つだけ今の俺に共通していることがある。
出来ることを全部、一度にやらなくてもいい。
五属性を使えるからといって、一日で全部確かめなくていい。
剣を振れるからといって、朝と放課後の両方で振らなくていい。
リビアとキス出来るようになったからといって、会うたびにしなくてもいい。
公爵家について学ぶと決めたからといって、全部を今すぐ覚えなくてもいい。
(必要な時に、一つずつでいい)
以前の俺なら、それを「出来るのにやらない」と感じたかもしれない。
今は「選んでいる」と思える。
その違いは、思っていたより大きかった。
目を閉じると、明日の予定はまだ何も決まっていない。
イザークとの再戦が入るかもしれないし、入らないかもしれない。ベルナルト先生から研究の連絡が来る可能性もあれば、普通の授業だけで終わるかもしれない。
どれでもいい。
今日の俺には、今日確かめるものがあった。
明日の俺には、明日選ぶものがある。
五つ使えるからこそ、一つずつ。
それで十分だと思いながら、俺は静かに眠りへ落ちていった。




